戦地からの手紙(鳥取陸軍第四十連隊)

 明治・大正・昭和は、日露・日中・太平洋戦争の歴史でもああります。

 鳥取県人が所属した鳥取四十連隊、松江六十三連隊などは、主に中国大陸を舞台にした日露戦争・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争、そして第二次世界大戦(太平洋戦争)における南・西太平洋や東南アジアの戦線に送られました。その戦いの歴史を綴ることにより、不戦の思いを語り継いでいきます。
 以下、「郷土とっとり激動の100年(日本海新聞社編)」を主に参考にしました。
 
以下、目次です。
下線部をクリックすれば直接ジャンプできます。

1.日露戦争と郷土部隊―歩兵第四十連隊
2.満州事変から日華事変へ
  第二次世界大戦へと通じるのろし
  柳条溝の一発
  熱河の激戦
  四十連隊の内地帰還
3.日中戦争  盧溝橋事件の”一発の銃声”
  凄絶な滄県攻撃
  台児荘の戦い
  鳥取県人三千六百余人が戦死
  戦地からの手紙
4.第二次世界大戦 真珠湾攻撃で宣戦布告
  原子爆弾の広島・長崎投下
  鳥取部隊は四十連隊から六十三連隊へ
5.第二次世界大戦と鎮魂の鳥取部隊
 (1)悲劇の百二十一連隊―兵(ツワモノ)部隊
 (2)インパール作戦
    シツタン河渡河作戦―連隊の三分の二が犠牲
    円護寺公園墓地に白亜の慰霊塔
 (3)第五十四連隊―ラバウルでの最後
 (4)第四十連隊の終末
    サイパン島の玉砕
 (5)鉄部隊―六十三連隊―鉄五四四七部隊
    死闘のルソン島へ
    日米、最後の決戦
    バレテ陥落
    生存者僅か百五十名
 (6)第三十ニ師団二百十一連隊西代部隊モロタイ島の悲劇
    栄養失調で死者続出
 (7)サイパン生き残り前田寿雄氏の手記
6. 戦没者慰霊碑

1.日露戦争と鳥取郷土部隊―歩兵第四十連隊

鳥取40連隊の観兵式(鳥取市)
鳥取40連隊の観兵式(鳥取市)

 日清戦争後、富国強兵の国是と三国干渉の屈辱に耐え、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の日本国民は着々の軍備の充実をなし、明治29年(1896)12月1日鳥取にも歩兵第四十連隊が新設されていた。ロシヤの南下政策は日本への大きな脅威となり、明治37年(1904)2月8日ロシヤに対しての宣戦布告となった。

 我が軍は陸海軍とも連戦連勝、38年(1905)9月講和条約が成立。郷土部隊の鳥取連隊に明治37年4月16日動員令が下り、同年5月17日午前7時、ラッパ隊の行進曲とともに営門を出、立川、大工町、智頭街道の当時の”連隊道路”を万歳のあらしのうちに鳥取を出発、姫路を経て勇躍征途についた。現在JR鳥取機関区となっている棒鼻地内が当時の広場で、ここで家族、知人との最後の面会が許された。この戦いでこれを永の別れとした兵隊は計419人に達した。

 はじめ鳥取連隊は第十師団に属し、37年(1904)6月分水嶺を占領。その後は転じて第四軍に所属して、析水城、遼陽等の激戦に参加、38年(1905)には沙河、奉天の大会戦にも参加して赫々たる武勲に輝き感状を得ている。日露両軍の”関が原”となった3月の奉天会戦に勝利し、同年5月には日本連合艦隊が日本海海戦にてロシアの「バルチック艦隊」のほぼ全てを損失させる海戦史上稀に見る勝利を収め、ロシア側を講和交渉の席に着かせることになった。

 これより先、34年(1901)4月大日本赤十字社鳥取支部が発足し、従軍看護婦として26人の白衣の天使が参加している。この戦で鳥取連隊の戦死者将校13名、下士卒406名、負傷者将校50名、下士卒1,402名の犠牲者を出した。

兵士の見送り(鳥取駅にて)
兵士の見送り(鳥取駅にて)

2.満州事変から日華事変へ

第二次世界大戦へと通じるのろし

 昭和初めの経済恐慌は、国民生活を極度におびやかし、とくに農村の窮乏はひどかった。国民の間には次第に政党不信の念が高まり、やがて軍部、民間右翼団体など国内ファシズム台頭につながっていく。昭和5年(1930)には軍中央部のクーデターがおこるなど軍部と右翼の動きはいよいよ活発化し、昭和7年(1932)の犬養毅首相暗殺の五・一五事件、11年(1936)の軍部独裁政治を目指したクーデターニ・ニ六事件(高橋是清首相暗殺)などが発生した。

 山陰の鳥取、松江両部隊に出征動員令が下る時代的背景は、このような険悪な風雲の中に進行していたのである。そして、満州事変の始まりは、日中戦争から第二次世界大戦へと通じる十五年戦争へののろしとなったのである。

日露戦争における旅順陥落を伝える新聞
日露戦争における旅順陥落を伝える

柳条溝の一発

 昭和6年(1931)9月18日、満州奉天郊外の柳条溝に起った南満州鉄道の爆発事件が導火線となり、満州事変が勃発した。翌7年1月にはついに中支上海に飛火して上海事変に拡大した。四十連隊が鳥取を出発したのは、事変勃発後7ヶ月の翌7年4月10日、熱狂的な万歳の声に送られ宇品港へと急いだ。

 「あむうる丸」に乗船して16日大連へ上陸、早くも22日、一面坡附近の戦争を皮切りに、9年(1934)4月の内地帰還まで満2か年にわたり、296回の戦闘に参加した。主な戦闘は松花江作戦、熱河作戦、吉林省虎林附近の討伐戦、拉賓線の警備等で、このうち第三次攻撃まで続いた熱河作戦が事変中の最激戦であった。

熱河の激戦

満州の死命を制する熱河作戦は苛烈そのものであった。約1万5千の兵力を有する張学良軍の反撃は厳しく、昭和8年(1933)

2月20日から4月29日まで2ケ月間、敵陣に三次にわたる攻撃を加え、しばしば大白兵戦を行った。四十連隊事変戦例集にはいかに抵抗が頑強であったかが記されている。「支那軍トイエドモ必勝ノ信念ト攻撃精神ノ充実ハ侮リ難キモノアリトノ感ヲ与ヘタリ」・「重傷ヲ負ヒタル後自ラ手榴弾ヲ以テ爆死セル支那兵」など”忠勇無双”であったのは日本軍だけではなかった。

 その間、昭和7年(1932)3月1日には天津から脱出した傅儀が執政に推戴されて、五族協和、五政楽土をスローガンに満州国の独立宣言をして新政府誕生、同9月15日にはわが国は満州国を承認すると共に日満議定書に調印した。 これに対し中国は抗議、国際連盟はリットン卿を団長とする調査団を派遣して調査に当たらせたが、列国は満州国の独立を日本の傀儡(かいらい)政権と認めるに至らず、同8年には国際連盟脱退と世界の孤児としての道を歩むに至った。

四十連隊の内地帰還

熱河作戦の後、鳥取四十連隊は吉林省南境方面の討伐戦、あるいは警備に任じ大きな戦闘はなかった。昭和9年の正月二年兵の一部交代と初年兵の来満、零下30度の酷寒が過ぎ、やっと広野に新緑がもえはじめた4月の末、9年(1934)の内地帰還の大命があり、岩倉兵営に帰還したのは5月の5日であった。
7日には宇部野の陸軍墓地で事変戦没将兵 115人に対する凱旋報告祭を行なっている。鳥取四十連隊の負傷者は218人であった。

3.日中戦争  盧溝橋事件の”一発の銃声”

昭和12年(1937)7月7日夜北京郊外で発生した夜間演習中の日本軍小部隊と中国軍の衝突「盧溝橋事件」の”一発の銃声”がきっかけとなり、戦火は中支にまで拡大し宣戦布告のないまま日華事変へと発展した。

7月27日第十師団に動員令が下った。町や村の各戸には「赤紙令状」が連日のように舞い込んだ。街角には「千人針」の女学生や婦人の姿が一団となって現れ出した。千人の女性が一針づつ縫った布を身につけておれば武運長久というわけで、さらに死(四)線を越えるというので五銭玉をそっと縫い付けてくれる婦人もあった。

 郷土部隊鳥取第四十連隊は8月7日動員完了、9日と10日にわかれ神戸に向い十隻の輸送船に乗り出帆、18日に大沽に上陸、天津へ行軍。天津附近に集結した四十連隊は河北の津浦沿線の敵と戦を交えながら滄県などを占領して一路南下、黄河を渡り昭和13年(1938)の元旦は山東省済南で迎えた。 そして、「徐州、徐州と草木もなびく」と徐州方面へ、続いて武漢攻略戦で信陽、徳安を占領した。

凄絶な滄県攻撃

日中戦争の攻勢を伝える
日中戦争の攻勢を伝える

 四十連隊の滄州攻撃は馬廠の戦いとともに、事変初期における二大戦闘といわれ、台児荘の激戦に次ぐものであった。かねて激戦を予期していた長野連隊長は、万一をおもんばかって連隊旗を兵団司令部に預け自ら陣頭指揮をとった。

 9月23日の日没に攻撃開始、淡い月光のみの暗闇に膝まで没するぬかるみ、敵陣地にクモの巣のように張りめぐらされた鉄条網、敵陣地から雨のように降ってくる散弾銃など第一線部隊の苦戦はとうてい筆舌につくすところではなかった。

 丸一日経った翌日の午後6時過ぎ、ようやく滄州城門に旭日旗を掲げたのである。 敵トーチカ(防御陣地)には17歳前後の少年兵が百人余りも折り重なって死んでおり、傍らにはノートブックや、平面幾何の三角形作図などが無残に取り散らされていた。長野連隊長は「一瞬、鳥取一中に通っている次男のことを思い出し、憐憫の情にたえなかった」と、戦争の無常さを書き綴っている。

 当時の連隊編成は千代川を境として気高郡以西の鳥取県は松江六十三連隊に、鳥取四十連隊には鳥取市、八頭、岩美郡と兵庫県の但馬地方出身の兵が所属していたので、鳥取県人の入隊構成は松江六十三連隊の方が多かった。 日華事変においては鳥取四十連隊と松江六十三連隊は殆ど行動を共にし、四十連隊が前線に出た時は六十三連隊はその予備隊となり、六十三連隊が前線に立てば四十連隊が予備隊にと、郷土の両部隊はつねに同一戦線にあって生死を共にしたのである。

台児荘の戦い

徐州会戦(昭和13年5月19日占領)の序幕として、激戦の火ぶたを切った台児荘の戦いは戦史に残る熾烈激斗の戦いであった。従ってその正面を受け持った六十三連隊の応戦苦闘は限りなく、筆舌にあらわし切れぬものがあった。当時の鳥取新報には、「台児荘城堅・一番乗りの激戦」という勇壮な大きな見出しのもとに県人関係の戦死者の氏名で紙面のほとんどが埋められている。その惨烈ぶりが想像される。

 徐州の東北30キロの地点にある台児荘には、第十師団にあった三十三旅団―松江・岡山連隊―がその前面に立った。松江六十三連隊の支那事変における戦死者は約2千人とされているが、その半数以上が台児荘の激戦における犠牲者であった。
 この戦闘は約四十個師団という敵の大軍を正面約40キロにわたって引き受けるという大攻防戦となり、約40日間にも及んだ。鳥取四十連隊もこの方面の戦闘では非常に苦境に立った。特に台児荘東南8キロの禹王山の戦いでは、中隊によっては約2百人の兵員のほとんどが全滅―といったものもあった。

 「残兵わずか13名となり・・・・・」鳥取連隊史をみても当時の苦戦の模様がつづられている。台児荘の攻撃はついに不成功に終った。第三十三旅団により一度は攻略したものの全兵力を傾注して頑強に抵抗する敵の攻撃は物凄く、約20キロ退却という不名誉もあったが、敵の大軍を長期間釘づけにしたことは後につづく徐州大会戦の大勝の要因となったのである。徐州陥落翌々日、鳥取市は祝賀のちょうちん行列で”万夜城”の賑いを呈し、鳥取新報にはその日の模様が「快報にわく軍都鳥取、興奮のルツボ、全市火の海、不夜城現出」 と大きく報道されている。

鳥取県人三千六百余人が戦死

戦没者遺骨の帰還(鳥取駅前)
戦没者遺骨の帰還(鳥取市)

 第十師団は武漢攻略戦(13年10月27日攻略)を最後に昭和14年(1939)8月に内地に帰還した。

日華事変となり、北支と中支の広野で善戦健斗すること2年3か月、この間の戦闘で大陸に骨を埋めたもの鳥取四十連隊1千6百余人、松江六十三連隊約2千人合わせて3千6百余人となるが、その大半が鳥取県人であった。」

 14年10月16日の日本海新聞は「懐しの原隊へ晴れの帰還」として次のように報じている。「祖国を出てから○年余、北中支の戦線に武勲赫々・・・。風さわやかな秋晴れの15日鳥取駅着列車にて帰還。勇士の顔はどれも奮戦力闘のかげを残さず、赫々の武勲も語らず、ただ黙々と懐かしき祖国の山、川に見入る・・・。」

戦地からの手紙

 「千代水村誌(徳吉部落雑感)」に、「戦地から区長への手紙」が載せられている。戦争に出征した若者から故郷に綴った手紙である。その中から幾つかを転記する。 (注)この頃は鳥取四十連隊所属である

戦地からの手紙
戦地からの手紙


 (大正6年生、昭和16年戦死 24才、中国)

 「―この度の戦闘には可なり苦心いたしました。支那とても皆の考えている様な支那では最早ないのです。実は強いのです。日本である為めに常に勝って居るのです他の国ならまけたでせう (中略) なかなか厳しい戦いで今日の命か明日の命かと思いましたが、お陰様でかすり傷も受けず元気百倍で飛び廻って○○に来ました。

 今は何に見るあてもなく楽しみは、敵の姿が楽しみです。いろいろと書きたいのですが書く事を許されません。内地の大雪は如何です今もまだ見るでせうか。当北支は一日一日と熱くなって参りました。行軍すればだくだく流れる汗、湯に何日入らずに(シラミ)がわいた体です。(シラミ)退治の暇もなく戦いつづきです。でも夜は少し身に沁みる寒さが流れて参る様です。(中略) 留守中は宜敷くお願い致します。皆様にも宜敷くお願い致します。遠き母国の皆様御体大切に御元気に御暮し下さいませ。」

(大正7年生、昭和20年戦死、27才、ビルマ)

「―今は鉄道警備の任に当たっています。毎夜歩哨に鉄道線路上を往復○○里程巡察して帰ります。日中は暖かくも夜間銃とる手はいつしか凍る様に冷たくなり月光を浴びた銃剣は一層物凄く凍る様にきらめき一層寒さは身に沁みます。今宵も歩哨に立てば月が暗い世界を光々と照しています。遠くでは又銃声が聞へてきます。犬が不気味に吠えています。又、驢馬の泣く声が聞へる。驢馬の泣く声は丁度子供の泣く様な声でいかにも淋しく泣きます。渡支したさいは人が泣いているかと思いました。一望千里見渡す限り部落には灯り一つも見えません。ただ、車站の光と信号の光が見へるのみであります。
北支も日一日と明朗化しつつ東亜平和も近き将来の事と想います。我々はこの聖戦に参加しへた喜びと共に皆様のご期待に副ふべく皇国の為東亜建設の為邁進致します―。」

(大正6年生、昭和20年戦死、28才、フィリピンミンダナオ)

「―尚留守中家族の者共が種々と御配慮を賜りし段感謝感激致し居る次第に御座居ます厚く御礼申し上げます。お陰様で私も銃後皆々様の御力強い御援助と御声援の賜に依り元気旺盛にて昼夜の別なく張り切って御奉公を続け居ます何卒御放念下され度願い上ます。我等は戦幾年続くとも温かい銃後皆々様の御手に護られ旺盛なる攻撃精神と一死報国の念に固ため粉骨砕身以って一路明朗東亜建設目指して邁進する覚悟で御座居ます故何卒御休心下され度故国も桜花爛漫と咲き誇る春は訪れつつ有るでしょう。

此処北支も寒気は何時しか去り暖い春は大陸に訪れて参りました。一面曠野に蒔かれた麦は霜枯より鮮に青々と芽を出しております。農夫は彼地此地手入に余念ありません。昨日より大陸特有の砂塵は全北支を襲って居ます。緑なす草木の曠野と変るのも間近き事と思います村民各位へ何分共宜敷御伝言御願申上ます―。」

各々の封筒には『軍事郵便』『検閲済 歩兵中尉○○』などと記されており、検閲で心のままを吐露できず、一生懸命に意気軒昂な言葉を選んでいるように思える。また、「聖戦」、「皇国」、「報国」、「東亜建設」などがこの時代を反映している。

4.第二次世界大戦(太平洋戦争)真珠湾攻撃で宣戦布告

 日華事変は当初の不拡大方針にもかかわらず勢の赴くところ燎原の火の如く拡大長期の一途をたどった。一方欧州においては昭和14年(1939)独伊対英仏の対立より第二次世界大戦勃発、昭和15年日独伊三国同盟調印等世界は二つに分かれての対立激斗が深まっていった。
 そして、昭和16年(1941)12月7日、政府はアメリカ政府に最後通牒を発するとともに、ついに昭和16年12月8日未明、山本五十六大将の連合艦隊はハワイ真珠湾を奇襲攻撃アメリカ艦隊に大打撃を与えた。

 こうして米英に対しての宣戦の布告となった。ところが、日本政府がアメリカに最後通牒を出したその日の正午、アメリカ大統領のルーズベルトから、天皇へのメッセージが東京中央電信局に届いていたのである。しかし、そのメッセージは、なぜかその日の夜遅くまで配達されなかったという。
 もし、このメッセージが、対米最後通牒前に天皇陛下に披見されていたなら、あるいは戦争の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

B29の本土爆撃
B29の本土爆撃

 ハワイ真珠湾攻撃につづき、フィリピン、マレー、ビルマその他蘭印諸島の占領と我が陸海空軍は破竹の進撃を続けた。  しかし、昭和17年(1942)6月ミッドウェー海戦において海軍航空母艦、航空機の壊滅的打撃を受けてよりアメリカの巨大な生産力を背景とした連合軍の総反攻が始まり、硫黄島、アッツ島、ガダルカナル等における玉砕をはじめとして各地において我が軍の敗退が顕著になった。
 
 フィリピンを制圧した米軍はついに沖縄に上陸してこれを占領し、日本本土へと迫った。一方、日本本土に対しての米空軍による爆撃もすさまじく、東京、大阪をはじめ主要都市はそのほとんどが焼野が原と化し、我が国の戦力はほとんど潰滅の状態となった。

原子爆弾の広島・長崎投下

 かくて昭和20年(1945)8月6日、米軍により人類史上はじめての原子爆弾が広島に投下され、一瞬にして20数万の犠牲者を出す悲惨な状態となった。つづいて9日爆弾は長崎にも投下され、我が国の敗戦の色はもはや決定的となったとき加えてソ連も連合国側に加担し参戦、満州に侵入してきた。こうして天皇の英断により連合国に対しポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することになったのである。

 時に昭和20年8月15日、開戦以来満4ケ年、昭和12年7月支那事変勃発以来8年の長きにわたった戦いは終った。

広島の原始爆弾
広島の原始爆弾

鳥取部隊は四十連隊から六十三連隊へ

 徐州会戦前後から著しい軍備の拡張が始まった。鳥取に関係するものは次のようである。尚、この頃の新設師団・連隊には既設番号の頭に百代が付けられ、十師団が百十師団、六十三連隊が百六十三連隊などになっている。

・五十四連隊          13年4月編成―鳥取(121)、松江(111)、岡山(154)で1大隊づつ編成
・第百十師団          元十師団。13年6月姫路に新設。翼下に第百六十三連隊(元松江六十三連隊)・鳥取百四 十連隊(元鳥取四十連隊)・第百三十九連隊(元姫路三十九連隊)・第百十連隊(元岡山10連隊)
・百二十一連隊    15年8月編成(鳥取県全域と兵庫県の一部)
・第二百十一連隊      19年2月編成(六十三連隊から一部転用)       
・第二百連隊        19年8月編成
・第四四六連隊    20年2月編成
・第四百四十連隊   20年3月編成

出征兵士の見送り(鳥取駅)
出征兵士の見送り

しかし、この正式連隊番号は、大戦前後からは、防諜上一般的には用いられず、例えば百二十一連隊は「四十七部隊」、四百四十六連隊は「護路部隊」などと呼ばれていた。 明治以来の伝統と歴史を誇った鳥取四十連隊は、15年(1940)8月から十師団を離脱、この結果、実質的には鳥取と縁切れのかたちとなり、その兵員も補充のたびに大阪人を迎えたが、あくまで基幹は鳥取県人部隊である。

一方、そのまま十師団に残った六十三連隊は、その補充担当が鳥取となり、再び鳥取県全域が鳥取連隊区の管轄下となった。従って、これより千代川の境界に関係なく、鳥取・八頭・岩美を含めた全県人が六十三連隊へ入隊することになったのである。

 六十三連隊及び百二十一連隊が四十連隊に変わって実質的に”鳥取連隊”になったといってよい。この六十三連隊は、19年(1944)に通称「鉄」部隊として”死闘の鉄”と呼ばれるほどの惨烈な戦いをしたフィリピン戦へ出動し、ほとんど全滅という悲運のもとに幕を閉じたが、その戦死者の大半は鳥取県人である。百二十一連隊もビルマで3分の2が戦死という悲劇の最後を迎えている。
 四十連隊は15年(1940)8月に満州永久移駐、19年(1944)にサイパン島の玉砕を経て、終戦時には本土決戦部隊として九州にあった。

5.第二次世界大戦と鎮魂の鳥取部隊

(1)悲劇の百二十一連隊―兵(ツワモノ)部隊

 ”ベンガルの虎”と呼ばれた第五十四師団。ビルマのベンガル湾を沿岸地帯の防衛を引き受けて死闘に次ぐ死闘、パゴダ(仏塔)で象徴されるビルマ、その仏教国での ”ベンガルの虎”の最後はあまりにも悲惨であった。

 明治29年(1896)に創設された第十師団は、昭和15年(1940)8月満州に移駐し関東軍の直轄となった。これに代わって姫路に新編成されたのが五十四師団で基幹は鳥取121、姫路111、岡山154の歩兵3個連隊とされた。
 百二十一連隊は通称「中部四十七部隊」と呼ばれ鳥取県全域と兵庫県の一部の壮丁が入営したが、長沢貫一大佐指揮の下に、出陣の18年春まで鳥取砂丘を中心に猛演習を繰り返した。

(2)インパール作戦

 この部隊が南方への出動命令を受けたのは昭和18年4月、兵(ツワモノ)一0一一三部隊として岩倉の営門を出発したのは4月5,6の両日であった。宇品を出航して一時上海に留りサイゴン、バンコク、マレーを経て8月16日から9月11日にかけてビルマの首都ラングーンへ上陸した。師団長は片村四八中将(後に宮崎繁三郎)、第二十八軍司令官は桜井省三中将だった。

 「インパール攻略戦」でもって代表されるビルマ戦は、戦史の筆頭に残されている。ビルマ方面軍に与えられていた任務は、インド・マンプール州の首都インパールを制圧し、インドの独立と、援蔣ルート(輸送路)を断って重慶政府を屈服させるのがその大きな狙いである。
 この作戦は牟田口廉也中将の指揮する、第十五軍が直接戦闘にあたったが、二十八軍はこれに呼応して戦ったもので、翼下の五十四師団は、ベンガル湾に臨むビルマ随一の要港アキャブ以南の沿岸の防衛に当たった。後に”ベンガルの虎”と呼ばれるようになったのはこうしたわけである。

 百ニ十一連隊は、主力がタンガップ地区へ、第二大隊だけ本土から海上約30キロの孤島ラレム島へ派遣された。陣地構築を急ぎ、水際戦の守りを固めた20年1月、敵英印軍の上陸攻撃が始まった。敵インド第二十六師団は、百二十一連隊第二大隊1,200人の将兵が守る、ラムレ島へ空海呼応の大攻撃を加えてきた。間断なき爆撃と艦砲射撃、砲弾の雨は地形を一変させる程のすさまじさだった。戦車に護衛された歩兵の進撃、この戦車旅団を先頭にしての敵の攻撃は、まさに”鋼鉄の嵐”と言っても言いすぎでない凄惨さであったという。

 これに対し、守備の日本軍は悪条件の中にあって夜襲につぐ夜襲、約1か月にわたって物量を誇る敵陣営をふるえあがらせた。しかし、この夜襲にも限界があった。夜襲の後には必ず返礼があった。応戦すればただ、"玉砕”があるだけ。守備隊はついに同島を抛棄本土の連隊主力位置まで退却することになった。

 しかし、海上にあるのは敵の艦船のみ退却は死を意味する。ついに夜間の隠密脱出行が始まった。竹のイカダが組まれ夜の闇にまぎれてイカダを浮べこれをつかんで懸命に泳ぐ・・・・。島だと思って近づくと仮装した敵の艦船、忽ち照明弾が打ち上げられ物凄い機銃の掃射、敵艦船から下ろされた発動艇が頭の浮ぶ海上で大暴れ、まさに地獄の海であった。運よく渡りきったものも僅かに5百人に過ぎず半数以上の約7百人の将兵はついに海のもくずと消え去った。

シツタン河渡河作戦―連隊の三分の二が犠牲

 このころタンカップも空爆でつぶされ、連隊主力はアラカン山麓に転進していた。食糧も弾薬も欠乏、その上雨季も近づいて豪雨があり、湿地帯も多く、マラリヤ、アミーバ赤痢患者続出して戦力はガタ落ちとなった。しかし夜間になると敵陣地への夜襲切り込み攻撃を続けていた。

インパール作戦
インパール作戦

 かくして7月、シツタン河を血で染めた悲惨な渡河作戦が行われた。一軍団が英軍の包囲鉄環を突破し、豪雨のシッタン河(幅約200~250m)を渡り50余キロに及ぶ沼沢地を脱出しようとするもので7月下旬に渡河を始めた。力つきて濁流に呑まれるもの、敵に発見されて集中砲火を浴びるもの等々―この渡河で約4割の犠牲者を出した。飲まず、食わずの3昼夜、腹までつかる水中行動は8日間に及び辛うじて生き延びたものも手足は水ぶくれとなり、歩くのが精一ぱい、ただ気力だけで逃げ切ったというのが実情だった。

円護寺公園墓地に白亜の慰霊塔

 ジャングルの中をさ迷い、北斗七星をたよりに5人、十人・・・・三々五々モールメンの方面軍司令部めざして”敗走一千里”というのが悲劇の兵(ツワモノ)部隊百二十一連隊の最後の姿であった。

 連隊総員の3分の2に近い2,066人は戦歿(鳥取県人1,278人・兵庫県人788人)、これにその他ビルマ部隊で戦歿した県人を加えると総数実に2,316柱にのぼった。鳥取郊外円護寺公園墓地の高台に立つ白堊のパゴダ塔はその供養塔である。


 毎夏開かれる慰霊祭(鳥取ビルマ遺児会主催)を前に、地元の「円護寺高年クラブ(百寿会)」を中心に45年以上前から清掃活動が行なわれている。 戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。二度とその悲劇を繰り返すことのないように・・・・バゴダの塔への合掌は今もなお続いている。

鳥取市円護寺の慰霊碑
鳥取市円護寺の慰霊碑

(3)第五十四連隊―ラバウルでの最後

 昭和13年(1938)4月、陸軍演習場青野ヶ原(兵庫県)廠舎で連隊本部と第一大隊を鳥取、第二大隊を岡山、第三大隊を松江の連隊区で動員して編成。徐州会戦が終った13年7月末、中支へ渡り連隊本部を無錫(ムシャク)へ置いた。15年(1940)10月から16年(1941)2月まで江南、漢水、予南の各作戦に当たった。

 その後、18年(1943)8月までは蘇州を本拠に討伐、治安維持の任務につき、同年9月軍歌「ラバウル航空隊」で知られるラバウルへ転進。その中途、護衛艦つきの輸送船1隻が魚雷を受けて轟沈、砲兵連隊の主力を失った。同11月中旬目的地のラバウルに上陸、直ちにタラアセ方面へ進出して陣地構築にあたり水際作戦に備えた。

 翌19年(1944)3月、敵の猛烈な艦砲射撃が始まり、抗するすべもなく敵の上陸となった。夜間の斬り込みで最後の奮戦をしたが、ただ味方に無益の出血を出すだけで戦果は何一つあがらなかった。ついに、集結命令によってラバウルまで撤退”もぐら戦法”を試みたが、もはや無用の抵抗に過ぎず、ラバウルにおける日本軍の断末魔の姿であった。敗戦とともに豪州兵の武装解除を受け、21年(1946)4月まで抑留生活を送った。

(4)第四十連隊の終末

 昭和15年(1940)8月7日、岩倉営舎の営庭に庄司連隊長以下全将兵が整列、満州永久移駐の新任務への出陣式を行った。 同日、四十連隊の”後任”として百二十一連隊が編成されている。8月16日付けの日本海新聞は、そのときの模様を「万歳声裡に、○○部隊勇躍進発」という大見出しで報じ、沿道を十重はたえに埋め尽くした見送り風景を描写している。13、14の両日にわたって鳥取を出発、16日徳島丸に乗って宇品港を出帆、20日大連に上陸、新しく第二十五師団の翼下に入った。

 21日、錦州に到着した四十連隊は、11月まで南満州の警備に当たり、12月駐屯地の平陽へ移動、ここで20年(1945)3月まで警備と訓練に励んだ。16年(1941)の初年兵からは大阪から入隊することになるが、同年8月には19代連隊長として四十連隊出身(鳥取市出身)の小山義正大佐が就任し、2年余にわたり連隊の指揮をとった。

サイパン島の玉砕

 大隊長は河村勇二郎大尉(八頭郡智頭町中原出身)であった。この頃は、まだ鳥取市や八頭郡の出身者が多かった。 太平洋戦争の天王山といわれたサイパン攻防戦は、19年(1944)7月7日「日本軍守備隊玉砕」と正式に発表され、戦争の大局はここで事実上の終止点となった。
 
 海軍のマリアナ決戦敗北、第一航空隊の潰滅など、陸、海、空、いずれも決定的打撃を受け、日本本土はB29の攻撃圏内に入った。7月18日、東条内閣は世論の不信を浴びてついに瓦解、世情は緊迫し、まさに”天王山”であった。

サイパン島の残骸
サイパン島の残骸


 サイパン、テュアン、グアムなど、マリアナ諸島に米軍の猛攻撃が開始されたのは6月11日である。特にサイパンに対する攻撃は物凄く、13日になって空からの爆撃に加えて戦艦、巡洋艦、駆逐艦など計41隻による大艦砲射撃が始まった。15日には、文字通りの十字砲火に手も足も出ず、ついに米軍の上陸を許すことになった。このマリアナの3つの島で、日本陸海軍7万余と、米軍25万6千の激突が、実に2ヶ月近くにわたって行なわれたのである。

 米軍の重火器、飛行機に追いつめられた日本軍、さらに非戦闘員は数知れず、この中には南洋興発会社サイパン支社員はじめその家庭婦人なども含まれ、断崖から飛び下りて自ら生命を絶つもの、手榴弾で自爆するものなど、戦火に倒れたものは約1万人といわれる。サイパンの玉砕、これこそ悲惨事中の悲惨事であったろう。河村大尉率いる第三大隊もほぼ全滅、総員618人のうち556人だった。

 「サイパン神兵ら全員戦死」―7月18日、大本営もその事実を発表した。鳥取県内ではサイパン忠魂追悼法要など多くの行事が催されている。太平洋から日本への表玄関サイパンの失陥、そして、この玉砕が鳥取県民、いな全国民に与えた衝撃がいかに大きかったかをうかがうことができる。この後、レイテ、ルソン、硫黄島、沖縄と、いずれも惨烈な玉砕戦が続いた。四十連隊は、硫黄島の玉砕突撃が終った頃の20年 (1945)3月27日、本土決戦の守りにつくため駐屯地の平陽を出発、4月5日に博多へ上陸し、宮崎県諸県郡飯野に連隊本部を置き、終戦を迎える。

(5)鉄部隊―六十三連隊―鉄五四四七部隊

第十師団が渡満したのは15年(1940)8月、六十三連隊は堤三樹男大佐が連隊長で16年(1941)8月には興山鎮にペーチカつきの新しい兵舎が完成、連隊はここに駐留。16年の初年兵からは鳥取の営内を一度くぐってから渡満。興安鎮の六十三連隊に属し兵隊の素質は優秀、装備も一流、訓練に明け暮れて精鋭関東軍の名に恥じない連隊としてソ満国境の警備にあたった。僚友四十連隊はすでに第十師団から離れ、六十三連隊に鳥取全県人が入隊していた。

死闘のルソン島へ

ルソン島の慰霊碑
ルソン島の慰霊碑

 戦局につまづきの見えた昭和19年(1944)7月25日、「鉄」動員下令なるものが師団司令部に届き六十三連隊も「鉄五四四七部隊」として臨時編成され、4千5百人中より2千3百20人が鉄部隊に編入された。

 この頃、サイパンはB29の”東京便基地”となろうとしていた。同10月末には、マッカーサー大将が比島のレイテに上陸、比島沖海戦では、連合艦隊が全滅に瀕するなど、戦況は刻々と緊迫化していた。六十三連隊主力は9月3日釜山を出港、門司、台湾基隆、高尾を経て比島ルソン島へと向かった。

 19年(1944)12月23日ルソン島サンフェルナンド港に着き下船命令で上陸作業の始まったころ、僚船乾瑞丸が魚雷4本を受けて港外5マイルの沖合で轟沈、輺重兵十連隊主力と六十三連隊米田隊に多くの犠牲者を出したほか膨大な兵器弾薬糧秣を失ってしまった。

 上陸後は26日まで夜を徹して揚陸作業を行い、物資を海岸に積んだまま27日から行軍が始まった。その翌日には敵の艦砲射撃と空爆で山積みの物資が一度に吹き飛んでしまった。鉄部隊は上陸第一歩から追いつめられた状況になっていたことがわかる。

日米、最後の決戦

空襲をのがれるため夜行軍を続け、1月上旬にタラベラ河谷に到着して陣地構築、ひと息ついたのも束の間、20年(1945)1月9日には敵のリンガエン港上陸が始まった。

敵は飢餓。ルソンの極限の密林
敵は飢餓。ルソンの極限の密林

 敵の上陸という状況変化により陣地変更を命ぜられた鉄部隊は、南北ルソンに通ずる縦貫道路の要点「バレテ」に立て籠りここを死守することになった。1月中旬、海抜千数百メートル千古の謎を秘めた密林の「バレテ峠」に到着、直ちに陣地構築を始めた。

 日光が地面に届かぬジャングル地帯であって、マラリヤ蚊と高熱を出させるヒルに苦しみながら砲兵陣地、対戦車、対歩兵の障害陣地を構築、狭い谷と険しい山を利用して長期抗戦の態制を整えた。そうしている間にも敵の空陸呼応の進撃は続き、バレテの陣前にあったウミンガン、ブンカン、サンニコラス、デグデグ、サクラサク峠を次々と撃破してきた。これらの前進陣地には鉄部隊が中隊単位で防禦していたものだが、米軍の鋼鉄の嵐の前に殆ど玉砕、しかし夜襲の斬り込みでそれぞれ数十日間は果敢に反撃、食糧も絶え病にも侵された将兵がよくも頑張れたものだと思われる応戦であった。

 各隊生存者一覧表を見ると、ブンカン守備の第五中隊玉砕、生存者不明。サンニコラス守備の第六中隊玉砕、生存者二名、ミスリ守備第九中隊玉砕、生存者不明―といった死斗の戦であった。

バレテ陥落

 林連隊長はこの峠を死守すべく右第一線に第二大隊(根本少佐)、左第一線に第一大隊(板垣大尉)を中心としてその他を配備した。米軍がバレテに威力偵察を加えてきたのは3月に入ってからであった。B29をはじめとする敵機の間断なき銃撃、しかし部隊は歩兵戦闘に至るまでは一発の応射も許されず、毎日敵機が頭上に乱舞するのを切歯扼腕しつつ眺めているより手がなかった。

 同月10日過ぎから地上砲火による敵の攻撃が始まり、沈黙を守っていた鉄兵団の砲火も応戦することになったが、一発に対して十数発のお返しがあるしまつで、やはり夜襲戦法が一番効果があった。これも時間の問題で、米軍はブルドーザーと火炎放射でジャングルを開き、前進を続け、4月初めにはついに右第一線陣地が破られ、陣地前は死体の山を築いた。戦車は暴れ、手榴弾は投げ込まれ、5月初めには部隊主力はすっかり包囲されてしまった。 

 6月初め、いったん退却して再び奪回作戦の切り込みを決行したが成功せず、あとは兵団に合流して北へ北へと”死の転進”が続くばかり。6月中旬は北部ルソンの雨季で、ドシャ降りの豪雨が落ちゆく兵の全身を容赦なくたたく。マラリヤ患者が次々に死んでゆき、生きている兵も食糧はほとんどなくヘビ、トカゲ、ネズミ、アブラ虫、木の芽、草の葉など、ありとあらゆる物を口にして僅かに露命をつないだが、その姿は亡霊そのものであった。

生存者僅か百五十名

 鉄兵団1万余人はこの頃わずか1千5百人ほどになり戦力は全くなかった。20年(1945)9月上旬食糧あさりに出た兵が敵機のまいたビラを拾って初めて終戦を知った。そして幹部会議の結果武装解除を受けることとなり、ルソンの死斗は終末を告げたのである。鉄部隊として満州を出発したと時の兵力は2千3百20人であったが、最後に生き残った将兵は僅かに150人にすぎなかった。この生き残った150名の兵は、9月下旬、全員復員の途についた。

(6)第三十ニ師団二百十一連隊西代部隊  モロタイ島の悲劇

 満州三江省興山の六十三連隊より混成大隊として編成。昭和19年(1944)5月中旬南太平洋上の「ハルマヘラ島」のワヤブラに派遣され、陣地構築。その後すでに米軍の手中に落ちていた要衝モロタイ島へ逆上陸をし、水際作戦で致命的打撃を受けた部隊である。
 モロタイ島は、南太平洋に浮かぶハルマヘラ島の湾口にある小さな島に過ぎない。ところがこの小さな島が実はニューギニアの陥落を意味し、同時に日本本土への大きな前進基地を与える結果になるのであった。 米軍が躍起になるのも無理はなかった。

栄養失調で死者続出

 西代部隊は、糧秣船をやられ、部隊長は戦死と次々と大きな損害を受けた。爾後食うために戦いが始まったが、敵は食糧あさりに出かける兵を容赦なく襲撃、兵たちの戦死は続いた。一方、栄養失調になって生きる力を失った兵たちは飯盒の水一ぱいすらさげることができなかった。そして全身水ぶくれのようになった兵たちは、自ら手榴弾をかかえて次々と爆死していったのである。

 ある下士官は、中隊の食塩確保のため、分隊の兵数人を連れてマングローブ(湿地帯)の地形偵察に出かけた。海水を汲み取って塩づくりをしようというのである。お昼前、ふと、黄金色に輝いているバナナの房、兵隊たちは歓声をあげてとびついた。瞬間、バリバリバリッ! 自動小銃の掃射である。
 モロタイの各部隊に日本降伏の報せが届いたのは8月20日ごろであった。そして内地に無事復員した将兵は、出動時約1千人のうち僅かに50余人に過ぎなかった。いかに悲惨であったかを思い知ることができる。

(7)サイパン生き残り前田寿雄氏の手記

海軍の一兵士として19年(1944)4月28日に横須賀港を出港、サイパンに上陸した生き残りの一人、前田寿雄氏(八頭郡郡家町)は日本海新聞本社へ次のような手記を寄せている。「上陸して六月ごろまでは、まるで天国にもきた思いだった。果物などふんだんにあり、暮らしものんびり・・・・。ところが、それもつかの間、間もなく敵機、敵艦が出没、我々はただちに戦闘体制にはいった。兵器はわずか、二十五ミリの対空機銃だけ、開戦三日目にして、わが部隊は早くも部隊長を先頭に退却せざるを得なくなった。退却中、部隊長は敵弾に倒れ、指揮者を失った部隊はちりぢりばらばら、しかし、我々は追われながらも、最後の一兵までもと、全力をあげて交戦してきた。この間ずっと密林生活、敵が上陸してからわずか一ヶ月足らずで、わが軍は事実上敗れ去ったのである。
 
 最後の総攻撃は七月七日であった。ジャングルの中に追い込まれた我々は、くる日もくる日も敵の掃討戦にあってもはやなすすべなし、食べるものも、塩も、水もなく、食糧を求めてジャングルの外に出ようとすればたちまちサーチライトで照らし出される。絶体絶命、夜のジャングルをさ迷うよりほかなかった。
 カエルや、かたつむり、芋の葉っぱなど最高級の食糧であった。しかし、人間の体力にはおのずから限界がある。次から次へと自決、自爆者がでてきた。『もう一度、おふくろに会いたいなあ!』彼らが残した言葉はみな同じであった。私も、敵爆弾のあけた大きな穴の中に入って、あわや自決しようとしたそのとき、戦友に励まされ死を思いとどまったのである。

 そのときは、すでに水もなく、塩分はまる三ヶ月とっていなかった。それよりさき、全島の日本軍が総攻撃したさい、我々は島の東端、バナデルに追いつめられていた。民間人を合わせて数百人もいたであろうか。子どもが泣き声を出せば必ず撃ってくる。十メートル以上もあろうと思われる断崖から親子もろとも飛びおりて自決していく悲劇も続出した。

 私も海に飛び込んだが、ちょうど付近を一斗ダルの空きダルが流れているのを発見、戦友の岩本(県出身)と二人でそのタルにゲートルを巻きつけ、辛うじて沖へ泳ぎつくことができた。こうして助かったものが何十人あったであろう。全く奇跡というよりほかない。子どもの泣き叫ぶ声、女の悲鳴、兵の悲憤こう慨する叫び、生地獄とはこのようなことであろうか。食糧のために友軍同志が撃ち合う場面もいくたびかあった。生きるための執念である。 

 いま、平和がよみがえっている。サイパンの死闘、玉砕を思うとき、二度と戦争をしてはならない、平和のなかにこそ、人間の生きていく幸せがあるのだと、しみじみと思うのである。」

サイパン島
サイパン島

6. 戦没者慰霊碑

 終戦後、連合軍の占領治下になった日本は次々と出される進駐軍司令部の指令によって軍国主義につながるものは凡て廃除されることとなり、それまでに各市町村に建立されていた日清日露の両戦役の戦死者の慰霊のための「忠魂碑」「忠霊塔」等は凡て撤去を命ぜられて各地よりその姿を消していった。
 昭和26年(1951)「サンフランシスコ講話条約」が調印されて、主権回復とともに日本の国民感情から戦没者の慰霊祭或は一度撤去された忠魂碑、忠霊塔の建設が各地に澎湃として起こった。以下、鳥取市内における戦跡である。

鳥取聯隊跡の碑(鳥取市岩倉小学校近く)
鳥取聯隊当時の建物(三洋テクノソリューションズ鳥取㈱敷地内)
鳥取聯隊記念碑(鳥取砂丘 砂丘会館前)

 歩兵第四十連隊(鳥取連隊)の兵営地は国府町奥谷、連隊本部庁舎は鳥取市立川町に置かれ、本部庁舎の門柱と庁舎の一部は現存している。兵隊は鳥取砂丘まで行軍訓練を行ったり、砂丘で射撃などの軍事演習を行っている。また、現鳥取大学乾燥地研究所敷地は元陸軍浜坂兵舎であった。浜坂砂丘と所縁の深い連隊であった。
 戦争から生還した人々が、かつての訓練地の砂丘の一角に建立したもので、「われら この地に 祖国を守るため 身心を 鍛錬したり」と刻まれている。

鳥取聯隊記念碑
鳥取聯隊記念碑

鳥取県護国神社(鳥取市浜坂)鳥取縣護國神社は戊辰の役以降、大東亜戦争に至るまで国難に殉じた鳥取県出身、及び縁故のある英霊23,468柱がお祀りされている。敷地内には彰忠碑、比島戦没者慰霊碑、陸軍少年飛行兵戦歿者慰霊碑、海軍忠魂記念碑、古南決死隊顕彰碑なども建立されている。

鳥取県護国神社の比島戦没者慰霊碑
鳥取県護国神社の比島戦没者慰霊碑

 明治元年(1868)11月、鳥取藩主池田慶徳は、古海操練場(現在の千代橋東詰附近の千代河原)に祠を仮設し、慶応4年(1868)の戊辰の役で戦死した鳥取藩士を慰霊するための追悼儀礼(招魂祭)を行った。これが現在の鳥取県護国神社へとつながっていく。その後、浜坂代々山(現浜坂小学校敷地)、鳥取市西町を経て、昭和49年(1974)に浜坂に移転し、現在に至る。戦後の昭和21年(1946)、因伯神社と改称してマッカーサーの護国神社取り潰しの難を逃れている。(「鳥取縣護國神社」・「ふるさと城北の宝」)

ビルマ方面戦没者慰霊塔(鳥取市円護寺)
 太平洋戦争のビルマ戦線の犠牲になった鳥取県・兵庫県出身将兵2,900有余柱の英霊が祀られている。鳥取県ビルマ協会と兵庫県明妙会で管理がなされている。

未引揚海外死没者慰霊碑(鳥取市円護寺 ビルマ塔敷地内)第二次大戦末期、ソ連参戦を機に日本人の在住地域は大混乱に陥り、非戦闘員であるはずの一般邦人が砲火や暴徒蜂起の犠牲になった。これらの犠牲者を祀るため、昭和32年(1957)12月鳥取県海外引揚者協会が建立したものである。

原爆慰霊碑(鳥取市丸山) 
 昭和20年(1945)8月、広島・長崎に原爆が投下された。この碑は、広島・長崎の惨禍を目撃、体験した人たちが、原爆のもたらした数々の残虐性に思いをいたし、核のない平和な社会を願って昭和55年(1980)8月に建立したものである。

忠魂碑(鳥取市商栄町)
 千代水小学校の跡地(君司酒造株式会社敷地の東側)に千代水村で日清・日露戦争に出征し戦死された者の霊を祀るため、大正11年(1922)4月に建立(満州事変・太平洋戦争の戦没者を合祀)されたものである。 例年9月、安長部落の東圓寺に於いて、遺族・関係者が参列し、慰霊祭が行われている。(「ふるさと城北の宝」)

鳥取陸軍墓地(鳥取市国府町)

 個人墓が日清戦役から日露戦役まで7名、日露戦役3名、日露戦役から満洲事変まで3名、満洲事変116名(合計129名)、合葬碑が日露戦役207名。昭和25年(1950)年に兵庫県民生部が同県関係者944名を分骨して引き取っている。 
 昭和28年(1953)、戦没者慰霊塔が建立され支那事変1,998名、大東亜戦争中578名、同停戦後2,062名、昭和53年(1978)サイパン島関係者140名(現地の砂)を合葬し、現在に至っている。 (「鳥取陸軍墓地」)

戦没者慰霊碑(鳥取市陸軍墓地)
戦没者慰霊碑(鳥取陸軍墓地