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目次

第1節 古砂丘・鳥取平野の形成

1.母なる中国山地と千代川 
・千代川の名前由来

2.古砂丘と鳥取平野、堰止湖の形成

3.離水海食洞や潟湖

4.縄文海退と新砂丘の形成―人々は内陸部へ移動

5.浜坂地区の地質

第2節 古代の浜坂砂丘

1.豊かな水と緑におおわれた浜坂砂丘

2.不毛の砂丘に変わる大きな環境変化

3.地層にみる砂丘の形成史―豊かな緑、そして砂漠化

4.平安海進と湖山長者伝説

・海水面変動の歴史

5.現在の砂丘・浜坂地区へー永い水と砂との闘いの歴史

第1節 古砂丘・鳥取平野の形成

1.母なる中国山地と千代川

 鳥取県は、南の中国山地と北の日本海との間が狭く、しかも標高差がきつく、県内の全ての河川は短くて急である。その代表河川である千代川(流域延長56.8km)は、八頭郡智頭町沖の山に源を発し、八東川や佐治川、曳田川、野坂川など県東部の大小56の支流を集めて鳥取平野中央を貫流し、日本海に注ぐ。

 流域面積は鳥取県総面積の3分の1を占めるが、87%は山地で平野は13%にすぎない。その急峻な山地は本流,支流ともに急流を生み、雨量が集中すれば洪水が発生しやすい地形となっている。

 一方で、この急流河川は、壮大な時間をかけて中国山地から砂を運び続け、河口に鳥取砂丘を造った。中国山地の花崗岩は、風化して「マサ(真砂)」と呼ばれる砂粒となる。

 マサの地盤は不安定で崩れやすく、河川に大量に流れたマサは、海へ出ると砂浜や砂丘を形成した。鳥取砂丘は花崗岩を起源とするマサの堆積による。広島県の山地は斜面の表面を「マサ土」が広く覆っている。
 マサ土は、水を含むと非常にもろくて崩れやすいため、広島では土石流やがけ崩れなどの土砂災害が発生しやすいとされている。近年の広島の土砂災害も記憶に新しい。

 また、千代川の流砂は中・下流域に肥沃な鳥取平野をも形成し、豊富な水量は飲料水、農業灌漑用水、工業用水、水力発電など、遥か遠い原始から現代までの人の営みを潤し育んできた。
 千代川、中国山地こそ、私たちの「母なる川」、「母なる山嶺」である。

千代川(鳥取市)
千代川(鳥取市)

千代川の名前由来

 江戸時代には八東川との合流点から下流を千代川といい、上流部は智頭川とよばれたという(「因幡民談記」)。千代川の名前の由来には諸説ある。以下、その代表である。

 因幡国の多くの谷の流れがみなこの川に集まり、大河となることから、古くは「千谷川」と書かれていたのを「せんだい」というようになり、これに「千代」のあて字がなされた。また、昔、弘法大師が千体の仏像をこの川に流してより、この川を「千体川」と呼ぶようになり、のちに「千代川」となったとも言われる。

 その他、賀露の東善寺の言い伝えによれば、「文禄元年(1592)の大洪水で千人以上が濁流に吞まれた」ことから、「千躰を飲み込んだ川」で「千躰川」となり、その後、今の「千代川」と変ってきたという。

 この洪水は「高麗水」として浜坂の大応寺の『大應寺観音の由来』にも登場する。 (参考「鳥取県の歴史散歩」・「鳥取県の地名」・「千代河水系の流域及び河川の概要」・他

2.古砂丘と鳥取平野、堰止湖の形成

地球は、約10万年の周期で氷期(氷河期)と間氷期(暖期)を繰り返している。そして、氷期と間氷期の間にも、小規模な寒暖の波が絶えず発生している。

①20万年前の間氷期(暖期)、海面は現在より15m以上高く、鳥取地方は大きな湾(古鳥取湾)となって現鳥取平野の全域が海に覆われていた。
 山地は岬状に突き出し、内湾には大小の岩の島が点在、その湾内には絶え間なく中国山地より千代川を通って流出される土砂が堆積し続けていた。

②最後の氷期(氷河期)中の7万年前には、海面が大きく下がり内湾に溜まった土砂が現れて陸地化、飛砂が覆い海岸近くに台地状の古砂丘が発達してきた。最寒期の2万年前には、海水面は現在より50m以上も下がっていた。4,5万年前、そこに大山が噴火し多量の火山灰が降り積もった。

 鳥取平野の原型は、古鳥取湾の溺れ谷を千代川の流砂が埋め残した沖積平野である。
 また、鳥取砂丘背後にある多鯰ヶ池は、同時期、南面背後の丘陵前面の浸食谷に発達した古砂丘を大山噴火の軽石や灰が覆って不透水層をつくり池の水を保っている堰止湖である。

多鯰ヶ池(鳥取市)
多鯰ヶ池(鳥取市)

 砂丘地に浸透した雨水が地下水になり、その一部がオアシスなどの地表に湧出する理由は、鳥取砂丘の地下層にあるこの不透水層(帯水層)の存在である。
 かつては古代人の喉を潤し、今でも一年中絶えることなく浜坂村を流れる清らかな湧水はまさに古砂丘の恵みなのである。多鯰ヶ池の最深部は水深15.1mで、中国地方最深の池である。しかし、丘陵地の堰止湖であるためにその湖底最深部は海より約2m高い。

③氷期(氷河期)が過ぎて暖かくなると、再び海面は上昇し始め、約6~5千年前の縄文海進と呼ばれる頃にはピークに達し、海面が現在より+5~6m高くなって鳥取地方は再び大きな内湾になった。久松山、雁金山、丸山、浜坂の荒神山、栃木山

(都築山)などは、海に囲まれた岩島となった。当時の様子を示すものが丸山県道沿いの「離水海食洞」である。

①鳥取平野が内湾化 ②陸地化、古砂丘発達 ③再び内湾化、「離水海食洞」など  ④陸地化で古代人が内陸へ降り始める

古砂丘と鳥取平野、潟湖などの形成
古砂丘と鳥取平野、潟湖などの形成

(参考「砂丘の形成過程」・「中ノ郷の生い立ち」・「鳥取平野」・「多鯰ヶ池」・「鳥取砂丘の地下構造と地下水循環の研究」)

3.離水海食洞や潟湖

 丸山や砂丘の一つ山離水海食洞は、岩が海に削られた洞窟である。約6千年前の縄文海進時に形成され、後の縄文海退で海が後退し陸地になったものである。約6千年前の縄文海進時には久松山の麓まで海が迫っていたという。

丸山の離水海食洞(鳥取市丸山)
丸山の離水海食洞(鳥取市丸山)

 また、縄文海退は西日本や東北に多くの新たな低湿地を生んだが、この時陸地に閉じ込められた海が出現し、淡水化し潟湖となった。潟湖は絶好の魚貝類の住処となり、人類遺跡集中の一つの理由とも言われている。

 鳥取では、日本海から湾入した場所が古~新砂丘の発達や堆積で海と分離されできた湖山池などが潟湖である。湖山池に浮かぶ最大の島の青島には今でも海島だった形跡が残されている。

 湖山池周辺には古墳が密集しており、青島にも縄文時代後晩期の土器や、弥生時代中期から古墳時代前期にかけての祭祀跡などが発見されている。また、福部砂丘の後背地に取り残された旧湯山池と細川池も同様の潟湖であり、これらは古くは日本海に連なる入江であった。

(参考「山陰海岸ジオパーク 鳥取砂丘周辺の地質」・「縄文時代」・「湖山池」・「法美郡郡域」)

湖山池の青島
湖山池の青島

4.縄文海退と新砂丘の形成―人々は内陸部へ移動

再び、5千年前を境に寒冷化に向い、縄文海退(弥生海退)と呼ばれる海面降下が始まり、約3千年前には現在海面の-4~ー5mにまで達した。
 海岸線は後退し、海に沈まなかった所を中心に砂の堆積が始まった。この頃は、鳥取平野はまだ沼のような所で、古代人は高い山麓や、海岸近くの砂が堆積した小高い砂丘に住んでいた。

④約2千年前の弥生時代になると、海退に伴い山地と海面との間に新たに高度差を生じて侵食が復活し、山地から大量の砂が流出、川に運ばれ、新砂丘が沿岸に急速に発達した。
 飛砂は大地や山地を覆い、砂丘と鳥取市が台地となり、縄文人類が高所から降りてそこに住み着き始めることになる。浜坂など中ノ郷内陸部にも住み始めたのであろう。
 この頃、浜坂砂丘は樹林や草原の緑に覆われ、縄文末期から弥生期の古代人に暮らしやすい環境を提供したと考えられる。

(参考「原始時代の千代川/千代水」・「中ノ郷の生い立ち」)

5.浜坂地区の地質

 鳥取市の地質の基盤は火成岩系と鳥取層群と呼ばれる堆積岩である。浜坂地区では、久松山~雁金山~丸山~都築山~荒神山ラインにかけて花崗岩。円護寺周辺は「円護寺石」と呼ばれて幕藩時代から鳥取の特産物として切り出された緑がかった凝灰岩、覚寺周辺は紋岩や安山岩などの岩石が基盤となっている。
 
 これら基盤の岩石層を数十m厚の砂や火山灰が覆って発達したものが鳥取砂丘である。(参考「新修鳥取市史」・「山陰海岸ジオパーク(砂丘およびその周辺の基盤地質)」  

  従って、中ノ郷~浜坂地区の地盤は概ね安定しているといって良いだろう。花崗岩は砂鉄の供給源でもある。

鳥取市浜坂砂丘周辺の地質図
鳥取市浜坂砂丘周辺の地質図

第2節 古代の浜坂砂丘

 縄文を通じて人々が砂丘附近に住み始めた証左は数多く発見されている。最古のものは縄文早期 (約1万1千年前~7千年前)の槍先型尖頭器が浜坂砂丘で発見され、追後スリバチ付近や長者ヶ庭付近で縄文中期以降の土器や石器、福部町直浪(すくなみ)・栗谷遺跡の砂丘地南縁では縄文前期以降のもの、浜坂の栃木山(都築山)では縄文中期のものが出土している。

1.豊かな水と緑におおわれた浜坂砂丘

 新砂丘形成後、砂丘地は樹林や草原になり、長く安定した地表面を保った。しかし、古墳時代から奈良・平安時代初期にかけて安定していた砂丘地帯は、10世紀頃また砂の堆積を受ける時期に入る。

強風と大雨、荒砂を供給した一つの原因は8世紀以降の「平安海進」と呼ぶ急激な温暖化による気候変動(海面上昇)と考えられている。「平安海進期」は汎世界的微高海面期即暖期とされ、9世紀を最暖期、10世紀を暖期としている。

 新たな砂の堆積が8世紀以降行われたことを示す一例が浜坂の栃木山(都築山)横穴遺跡。ここの基盤は花崗岩の岩山で、その南面に20ケを超す横穴がうがたれ、この岩山を砂が埋め尽くしていたのである。その砂層は30mを超すが、その下に古墳時代から8世紀頃にかけての遺物を含む粘土層が堆積していることが分かった。

 このことは、新しい砂丘の形成が8世紀以降に行われたことを示している。また、浜坂新田の荒神山の北西部にも厚い砂層の下に埋もれ木を含むシルト層(沈泥)が見られる。

 これらの事実は、新砂丘が押し寄せる前は、浜坂付近一帯は、岩山が点在し、その周辺に沼沢地があって、静かに粘土が堆積する環境であったことを示している。
 十六本松から浜坂にかけては岩山や洪積台地の間を小川が流れ、池や沼のある水に恵まれた土地であったと想像され、そこに人々の生活が行われていたと考えられる。砂丘の長者ケ庭、追後すりばちや浜坂すりばちなども、当時は小川が流れ、草木が繁茂する好環境だったと想像される。

 尚、上記の粘土層が、江戸時代の浜坂村における浜坂焼や鐘・仏像の鋳造に用いられた土であろう。 (本サイトの「近世期Ⅱ 6.浜坂村の産業」 を参照のこと)

(参考「新修鳥取市史」・「山陰海岸ジオパーク」)

2.不毛の砂丘に変わる大きな環境変化

 そして、前述のように、8世紀以降、砂丘周辺は飛砂に覆いつくされ、不毛の地になるような環境の変化が発生したのである。これが全てを砂で埋め尽くした現在の砂丘形成の始まりである。

 鳥取市浜坂にあった古墳時代末期の横穴古墳群遺跡の小字地名は栃ノ木山(都築山)である。現代におけるトチノキの分布限界線が内陸山間奥地の冷涼湿性地に後退している事実と合わせて考えると、残存小字地名は、弥生土師寒気の残留植生が現砂丘の侵入前にあったことを思わせる。
(参考「新修鳥取市史Ⅰ」)

 そして、栃ノ木山(都築山)、荒神山遺跡を覆っていた厚い砂中に遺物は発見されておらず、8、9世紀以降、人の営みがそこから絶えたことを示している。

3.地層にみる砂丘の形成史―豊かな緑、そして砂漠化

 白兎の新砂丘の地層には、厚さ1mほどの有機物に富んで漆黒色のクロスナ層が少なくとも2層見られる。これは、当該時期に白兎砂丘は松林や草原となってかなり長い期間にわたって安定した地表面となり、腐植土の形成が行われたことを示している。
 最初のクロスナ層は弥生土器の発見から縄文後期から弥生期と推定される。その後、砂丘形成が進み、次のクロスナ層の時期は、遺物の内容から古墳時代から奈良時代である。

 クロスナで固定された砂丘地は静穏で植生で覆われた良好な環境であり、人間の活動が活発に行われた時代であったろう。

 白兎砂丘の研究では、この上に「強風と大雨」をもたらす大きな環境変化が考えられる荒砂や砂礫の堆積があってその上に(最後の)クロスナ層と中世の遺物、また砂の堆積があって幕末の遺物が載り―と新砂丘の形成の歴史を観ることができる。
  ただし、浜坂の都築山及び荒神山一帯においては、主要なクロスナ層は最初のものだけで、以後は砂の堆積が進んでいるようだ。(参考「新修鳥取市史」)

鳥取砂丘の地層図
鳥取砂丘の地層図

4.平安海進と湖山長者伝説

湖山池の青島(鳥取市)
湖山池の青島(鳥取市)

 10世紀前後の平安海進は100年で1mもの海水位が上昇した。一夜で田地が水没した湖山長者伝説は、この平安海進による湖面の急上昇を物語っているとも云われる。湖山池周辺地域の海抜は0~1メートルである。また、『更級日記』の真野の長者の家(現千葉県市川市)の水没もこの海進によるものとされる。

 一方で、湖山長者伝説は、荘園の拡大や守護・地頭などの台頭によって落ちぶれた在地地主を喩えたものという説もある。

(参考「鳥取平野と鳥取砂丘」・「海水準変動」)

海水面変動の歴史

海水面変動の概観を示す。海水面は、現在の高さをゼロ基準としたプラス・マイナスである。

縄文時代草創・早期(1万2千年前)  -55m    
  縄文海進の始まり
縄文時代前期(6千年前)       +5~+6m      
  海進ピーク。鳥取平野は海没し、大きな湾となる
縄文時代後期(3千年前)       -4~-5m  
  縄文海退。弥生~奈良期まで安定。古代人が内陸へ移動
弥生時代               -2m
奈良時代(700年頃)        -1m     
  平安海進始まる。活発な飛砂で砂丘は不毛化が進む
平安時代(1000年頃)      -0.5m
 同  (1100年頃)      +0.5m   
  急激な水面上昇。湖山長者伝説など生まれる
鎌倉・室町時代(1350年頃)    -1m     
  パリア海退で安定期。湯山砂丘で室町後期の五輪塔など墳墓遺跡多数。
  江戸末期(1860年頃)から温暖化が進み、飛砂活発化
現在                   ±0m

(参考「古代における気候変化と海水面変化および歴史上の出来事」)

5.現在の砂丘・浜坂地区へー永い水と砂との闘いの歴史

 その後、砂丘は一時的な安定と飛砂の卓越を交互に繰り返し今に至っている。現在、植林や河川工事などによって砂の供給が絶たれ、砂丘の成長は停止している。また人間の手が加わりすぎて砂丘の荒廃をきたし、保護策が検討されているが、長い砂丘の歴史を振り返ってみると、現在、ちょうど砂丘形成の休止期に当たっているのかもしれない。

 古代から中世・戦国時代へと連続した遺跡が発見され、比較的安定していたとされる秋里・江津地域も水と砂の受難の歴史であったようだ。

 「秋里地域は、古墳時代には千代川の水辺としての交通上の要地として、あるいは祭祀の聖地として利用され、かなり長い間安定した土地であった。しかし、古墳中期以後、かなりの洪水にあい、遺構は厚さ1mほどの沈泥によって埋積された。
 そして、その上に平安時代の若干の生活遺物がのり、再び洪水を受け50cmほどの沈泥が堆積し、その上に中世の人々の集落がつくられた。しかし、中世の遺構も大洪水によって河砂利層が堆積するような激しい水害で失われ、それ以後も約1mの沈泥が堆積するに至っている」。   (参考「砂丘の形成過程」・「新修鳥取市史」)

 縄文海退後、徐々に高所から中ノ郷や浜坂内陸部にに降りてきた人々には、水面上昇や大洪水による河川災害、平安期以降の大量の飛砂など、永い永い水や砂との闘いが待っていたようである。

 現在の市街地のようになったのは江戸時代の城下町整備や治水,用水路整備、大正から昭和にかけての新袋川や新千代川通水以降のことなのである。