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第4節 近世期(安土桃山・江戸時代)
Ⅰ.因幡国の安土桃山~江戸時代
1.羽柴秀吉の「鳥取の渇殺」攻め
2.千代川・袋川の補給路監視―浜坂・江津・秋里の陣
3.落城―飢餓地獄の鳥取城
Ⅱ.浜坂地区の人々の暮らし
1.昼食(ひる)山の浜坂砦跡と鳥取城攻め
2.代々山(浜坂小学校敷地)の変遷
秀吉の鳥取城攻めの陣営
鳥取藩の鉄砲打場から招魂所・護国神社へ
浜坂小学校の建設
3.丸山城・雁金城の役割と落城
4.安長村の「念仏免」
Ⅲ.徳川時代の因幡と浜坂(その1)
1.因伯32万石の鳥取藩へ―250年の池田支配の始まり
2.鳥取城下町の整備
鳥取城跡大手登城路の復元整備事業
3.若桜・智頭・鹿野街道の3街道
4.在郷町の発達
米子・倉吉の町屋の拡大
5.近世の浜坂・江津農地の拡大
千代川や袋川の治水
大井出用水と大口堰用水
賀露(亀井領)と河原(池田領)の交換
6.農民の生活
太閤検地による一地一作人制と兵農分離
五人組による連帯責任
永代請免制による連帯責任―追放された千代水の庄屋
年貢未納による追放・手錠閉門
衣食住、日用品の御法度
「生かさぬよう殺さぬよう」
「胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物也」
浜坂村 市右衛門娘 はるー江戸時代の考子表彰
7.因幡農民の困窮―飢饉や一揆
火災や大洪水による藩財政圧迫
鳥取の元文一揆(1739年)
天保の大飢饉(1837年)
8.伴九郎兵衛と浜坂新田
初代九郎兵衛と密貿易、隠れ切支丹
天明飢饉と浜坂新田村の開発
伴山祠跡
隠れ切支丹
鳥取藩とキリシタン、そして九郎兵衛たち
Ⅰ.因幡国の安土桃山~江戸時代
1.羽柴秀吉の「鳥取の渇殺」攻め
1.羽柴秀吉の「鳥取の渇殺」攻め
戦国時代もようやく統一に向かった頃、天正8年(1580)、中国攻略の一環として羽柴秀吉は鳥取城を攻めた。あっさり降伏した因幡守護(鳥取城主)山名豊国に国人衆は反抗し、豊国たちを鳥取城から追放し、毛利氏を頼り帰属した。
天正9年(1581)2月、毛利の武将吉川経家が鳥取城に入ったが、6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の軍勢が因幡に侵攻し、7月から鳥取城を包囲した。篭城戦となり、城内の人々は飢餓寸前に追いつめられ、10月、経家は国人衆とともに自刃して果て、因幡は征服された。 (「鳥取県の歴史散歩」)
「経家が秀吉の開城の求めに応じたとき、秀吉は 『経家公は、連れてきた兵と共に芸州に帰られたい』 と勧めたが、経家は、『全ての責は城将たる自分にある』 として、兵と民の生命を救って十月二十五日未明、城中広間において自刃を遂げた。時に年三十五歳。その潔い最後は武人の鑑として歴史に高く評価されている。経家が死に臨み、四人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがある。
『とっとりのこと よるひる二ひゃくにち こらえ候 ひょうろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おききあるべく候 かしこ
天正九年十月二十五日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給え』 」 (「鳥取市 吉川経家公銅像建立委員会」)
久松山下に吉川経家像は立ち、今日も鳥取の城下町を見守っている。
名将・吉川経家が「日本にかくれなき名山」と称したとおり、鳥取城は山勢けわしく難攻不落の堅塁だったが、致命的な弱点は兵糧不足にあった。これを秀吉は突いたのである。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1千名、毛利氏配下が8百人、近隣の籠城志願の農民兵が2千人の、およそ4千人であった。
鳥取城に入城した経家はすぐさま籠城の準備を進めたが、兵糧の蓄えがおよそ平時の城兵3か月分しかなかった。これは因幡国内の米は秀吉の密命によって潜入した若狭国の商人によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払ったためであった。秀吉の深慮遠謀である。(参考「城下町鳥取誕生四百年」・「吉川経家」)。
2.千代川、袋川の補給路監視―浜坂・江津・秋里の陣
一方で、鳥取城は山麓を流れる袋川を利用して賀路港~千代川から鳥取城に必要な武器弾薬・食料を補給していた。
古絵図を見ると、袋川が鳥取城のすぐ下を流れていることが分かる。
秀吉方の浅野弥兵衛は千代川左岸の秋里に陣を構え、千代川の水路と賀露ー江津ー秋里ー久松山の陸路も警戒した。
同じく青木勘兵衛は代々山(現浜坂小学校地)に陣を敷き、賀露港から丸山城経由で鳥取城へ向かう千代川右岸を通る船を監視した。また、秀吉軍の船大将吉川平助が重箱(弁才天)付近に陣所を構え、賀露沖から千代川をさかのぼり鳥取城に至る武器兵糧の補給路を断つため、船や丸山城の動きを監視したという。(参考「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「鳥取県の地名」)
ひっそりと闇の中に舟をすべらせる吉川軍、かがり火の下、水草のゆらぎ、水鳥の音さえも見逃すまいとする秀吉軍の密やかながら熱い攻防が江津、浜坂、丸山付近の川沿いで真夏から初秋にかけての連夜行なわれたのである。
3.落城―飢餓地獄の鳥取城
秀吉は、標高263mの鳥取城の東方・標高251mの帝釈山上(太閤ケ平)に本陣を構え、毛利方の鳥取城,雁金山城,丸山城の3つの出城を楕円状に取り巻き、山嶺から城下まで延長12kmにおよぶ長囲の陣を敷く完全封鎖で糧食を断つ持久戦をとった。
城内では、籠城2か月目にして早くも食糧は尽き、牛馬、草木を食いつくし、死者の肉まで口にしたといい、『信長公記』が記す「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ~哀れなるありさま、目もあてられず」という飢餓地獄が現出した。吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で城内で自刃、鳥取城は開城し包囲陣は解かれた。後年、秀吉の書状に「鳥取の渇殺」という文句が見える。 (「太閤ケ平」・「鳥取城」)
久松山の北、円護寺の隧道トンネル手前の十神林道を数キロ入ると、道は舗装道路から山道に変わる。太閤ケ平へ通ずる山道である。当時からの間道であったのだろう。深い木立の中は仄暗く、久松山の重く暗い歴史を感じさせる。
Ⅱ. 浜坂地区の人々の暮らし
1.昼食(ひる)山の浜坂砦跡と鳥取城攻め
国道9号線の砂丘トンネル南口の昼食山(ひるやま)に、秀吉の鳥取攻めの一角、浜坂砦跡がある。
南側尾根上標高63mに、のちの浦富の桐山城主となった垣屋隠岐守が陣取り、山頂の高野駿河守の陣と土塁で結ばれていた。
天正9年(1581)、羽柴秀吉の軍勢が2度目の鳥取城攻めを行ったときの包囲陣の一角である。この浜坂の陣は、覚寺や秋里の陣とともに、賀露港からの補給路を断ち、監視する任務にあったと推定されている。
(参考「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「岩美郡史」・「鳥取市史」)
2.代々山(浜坂小学校敷地)の変遷 秀吉の鳥取城攻めの陣営
天正9年(1581)の羽柴秀吉の鳥取城攻めで、浮田秀家の家臣青木勘兵衛が7月から10月まで代々山に陣を敷いた。
海陸重要な地点で、浮田軍の主力はここにあったといわれる。浜坂の中田勇吉氏(明治7年生)が所持していた代々山の「青木勘兵衛陣営ノ跡」の絵図によると、本丸、天守台、二の丸、三の丸、他が描かれ、大規模な陣営であったようだ。秀吉軍の船大将吉川平助の重箱の陣と連携して、山下を流れる千代川、袋川の監視などを行っていたと推定される。(参考「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
寛文年間に描かれた古地図を見ると、代々山は都築山など隣接する小山群と比較して相当大きな山だったようである。
また、旧千代川が山裾を洗うように位置し、監視のための陣営として絶好の地であったことが分かる。当時の様子を現在の跡地(浜坂小学校敷地)から想像することは難しい。代々山は道場山、水神山、招魂山とも呼ばれた。
鳥取藩の鉄砲打場から招魂所・護国神社へ
「鳥取藩史二」に次の記事がある。「宝永二年五月二日御鉄砲奉行下張一御鉄砲奉行、沢治部左衛門、西村加右衛門義、大筒組の者共、於浜坂に大筒稽古の節罷出、見届候様に被仰出申渡候。尤大筒組の者共江も申渡事。」 代々山の中腹から5人が砂丘方向(北)に向かって鉄砲を打つ稽古をした様子を藩政資料の武宮家浜坂鉄砲打場之図(嘉永5年頃・1852と推定)で見ることができる。鉄砲台、玉薬(弾丸)小屋、打役仮小屋、便所、藩主が座る御座所などが記されている。
明治3年(1870)4月15日鳥取藩主池田慶徳は、戊辰戦争で戦死及び戦病死した78人の招魂所をこの代々山にすると定め、一社を急いで造営することにした。
戊辰戦争とは、明治元年(1868)倒幕派と徳川幕府派の間に行われた鳥羽・伏見の戦い、会津戦争などであって倒幕派が勝利した。鳥取藩は官軍(倒幕派)につき、2,214人出兵し、大小24余戦、戦死66人、戦病死10人、傷者106人。浜坂の戊辰戦争従軍者は4人、西南戦争(明治10年・1877)では従軍戦死者4人という記録が残っている。
明治3年(1870)3月3日、代々山で招魂祭を執行、遺族をはじめ多数の参拝者を許し、社の前で忠魂慰霊の軍事訓練を行ったという。明治14年(1881)、鳥取市西町の鳥取わらべ館の駐車場位置に移転、明治30年(1897)に鳥取市上町に移転。昭和14年(1939)に全国の招魂社を内務省主導で護国神社と改称。
戦後の昭和21年(1946)、因伯神社と改称してマッカーサーの護国神社取り潰しの難を逃れた。昭和27年(1952)、対日講和条約発効で鳥取県護国神社に復帰。昭和49年(1974)に現在の位置(鳥取砂丘ゴルフ場の下)に移転した。(「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
浜坂小学校の建設
浜坂小学校の校庭部分は、代々山と呼ばれる大きな山であった。明治初期の招魂所から招魂山とも呼ばれている。峰が八方にのびており、その名残りの一部が北側の小高い墓地で、校舎の部分は山裾であった。
代々山の土砂は、昭和40年(1965)頃から始まった建設省の袋川堤防新設工事用(湯所の御乗場地点より下流で荒神山までの4キロメートル)に使われた。その跡地は4,500坪。浜坂団地の出現で城北小学校へ通う生徒数も多く、鳥取市教育委員会は、浜坂地区へ学校新設を考えていたとき、代々山の跡を適当地と判断したようである。昭和48年(1973)4月1日浜坂小学校が新設された。 (参考「公民館浜坂」)
3.丸山城・雁金城の役割と落城
天正9年(1581)、吉川経家が築城。山麓を流れる袋川を利用した賀露港と鳥取城を結ぶ物資運搬がなされ、毛利方の武器弾薬・食料の補給基地として重要視された。
秀吉の兵糧攻め時も絶えず物資補給を行ったが、賀露周辺の海上封鎖の上、補給路の中間地点の雁金山城が落城して完全に鳥取城との連絡を絶たれた。落城後、城を守った奈佐・塩冶・佐々木氏は自刃させられた。山麓に自刃した城将を祀る石碑が建立されている。 (「丸山城」)
「鳥府志」では、丸山を「袋川の東涯に在り。田圃の中に壁立せる孤山なり。但し、秋葉の山鼻よりは僅半丁ばかりを隔たり。前面の形丸く見えける故、恐くは此辺の総名に呼候事にや。(以下略)」と形容している。 (「鳥府志図録」)
現在、丸山山下の石碑前は重箱公園となり、日々子ども達の歓声で溢れている。丸山への登り口は、丸山のスズキ自動車先のローソン裏手の小高い住宅地にある。頂上に至る途中には昭和33年建設の弘法寺跡がある。
昭和46年の住職の隠退後、後継者なく廃寺になっている。頂上から眼下を眺めると、日本海~千代川~袋川~久松山の兵糧輸送ルートがよく理解できる。丸山を浜坂の人々は北裏山と書いて「きたぶりやま」と呼ぶようである。
雁金山は久松山とは峰続きで、丸山城に運び込まれた兵糧を中継し、鳥取城に搬入する役割を担ったが、丸山城-雁金山城-鳥取城の連絡ラインを断ち切られることで鳥取城は完全に孤立した。現在、頂上に平和塔が立つ。
登り口は、丸山の旧交差点にある石碑や地蔵群横、旧久松山ロープウェイ乗り口付近(円護寺隧道トンネル)、湯所の山沿い道の中間地の3ケ所ある。湯所側には愛宕神社跡がある。 (参考「ふるさと城北の宝」・「雁金山」)
4.安長村の「念仏免」
岩吉と安長の境に「頭無し(カシラナシ)という幅2間の川があったが、昭和38年(1963)頃の耕地整理でなくなった。
そこに「念仏免」という字名がある。豊臣秀吉が鳥取城の吉川経家を攻めたとき、念仏免あたりは沼地であった。安長村の者たちは、経家の命令を受け、夜間に草を刈り、夜、沼地に草を広げたという。秀吉の軍勢が夜、城に攻め込んできたところが沼地にはまり込み、そこを吉川勢に討たれて多くの兵が死んだという。後にそこに寺を建て念仏を唱えたので念仏免という。(「千代水村誌」)
Ⅲ.徳川時代の因幡と浜坂(その1)
1.因伯32万石の鳥取藩へ―250年の池田支配の始まり
秀吉の因幡攻略後は宮部継潤が鳥取城主となり、次いで関が原の戦い後、鳥取城主は西国将軍「池田100万石」と呼ばれた播磨姫路城主池田輝政の弟池田長吉となった。長吉は鳥取城を近世的城郭に大改造した。三階櫓、天球丸、二の丸、丸ノ内などはこのときのものといわれる。長吉時代の建物は享保5年(1720)の鳥取大火で殆どを消失した。
豊臣氏が滅んだ後の元和3年(1617)、江戸幕府は全国の大名を転封(国替え)し、鳥取には播磨姫路から池田光政が入部した。池田長吉など、かつての鳥取城主は僅か東部6郡6万石ほどだったが、光政より鳥取~倉吉~米子の因伯両国32万石の全部を鳥取城を拠点に統治することになる。
光政は寛永9年(1632)、備前岡山の池田光仲と交代し、光仲を藩祖とする鳥取藩に引き継がれ、以後明治4年(1871)の廃藩置県までの2百50余年以上の鳥取藩政が始まる。 (参考「鳥取県の歴史散歩」・「城下町鳥取誕生四百年」)
2.鳥取城下町の整備
光政は主に城郭と袋川工事などによる城下町の整備拡張を行った。特に、現在の市内を流れる旧袋川の工事は知行百石につき一間の割当てで家臣たちが負担した。鳥取旧市街の町割はこの光政時代のものである。
藩政期のメインストリートは大手門から棒鼻(JR鳥取駅南の鳥取市役所新庁舎あたり)に至る智頭往来、つまり、現在の智頭街道とJR山陰本線より南の国道53号線である。
城下町が置かれた頃、久松山麓は沼沢地で水害多発地帯だったといわれ、城下町建設に際しては治水が最大の課題でであった。秀吉の鳥取城攻めの頃、袋川は久松山の裾を流れていたようである。『高山峨々として特立し、西北は滄海漫々として測るべからず、山下に湊川(袋川)を帯びその便尤もよし。これによって攻め干すべきようもなかりけり』 と太閤記にある。
当時の袋川は川巾広く、賀露を経て直接久松山城に兵糧を運びうる位置を流れていたと思われる。この状況下、先ず、6万石の城主として鳥取に来た池田長吉が、城下町をつくるにあたり薬研堀を掘った。
江崎下辺りを蛇行していた袋川に堀をつなぎ、現県立図書館付近から日本赤十字病院、旧鳥取市役所南裏を通って、市民会館西側から北方に転じ、片原通り沿いに醇風小学校の辺りまで伸ばしてまた袋川につないだ。そして、堀から久松山までの湿地帯を乾かして、この中に侍、町家も皆この中に入れて町づくりをした。これが6万石の城下町の規模である。
しかし、後の池田光政が姫路から鳥取にやってきたときには姫路が52万石、その家中と町家を連れてきたので入りきれず、そのために新しい袋川を開削した。流路を吉方一丁目附近から大きく南西側に迂回し、現旧袋川の流路に変更、これを町全体を囲む大外の外堀とした。
薬研堀からの内側(鳥取城側)のエリアは『郭内』と呼ばれ、家老をつとめる家をはじめ、藩士たちの武家屋敷が建ち並んだ。
そして、薬研堀から新しい袋川までの間を町人あるいは職人の町とした。薬研堀には、若桜口御門や知頭口御門、鹿奴口御門などの門が設けられ、町人たちは『御門札』(許可証)がないと郭内には入れなかった。身分によって城下町内の移動や居住が制限されたのである。
そして城下町を囲む袋川には、若桜橋や知頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出会橋などの橋が架けられ、鳥取の城下町へ出入するにはこれらの橋を渡った。
(参考「鳥取城下絵図」(鳥取市歴史博物館所蔵) ・「城下町鳥取誕生四百年」・「鳥取市七十年」・「鳥取県の地名」 ・「鳥取市歴史博物館HP」)
鳥取城跡大手登城路の復元整備事業
鳥取城は、戦国時代に羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台となった「山城」として有名だが、現在見る石垣が幾重にも広がる山麓城跡の姿は、鳥取藩三十ニ万石の居城として江戸時代に整備されたものである。
鳥取市は、鳥取藩三十ニ万石を誇った江戸時代の鳥取城の姿をわかりやすく伝えるため、2006年から30年後までに城の象徴であった「二ノ丸三階櫓」の復元を含めた整備を計画している。現在、その第一段階として、城の正面玄関であった「大手登城路」の復元整備を実施している。
3.若桜・智頭・鹿野街道の3街道
城下町には大手から南西方向に平行に伸びる3本の街道が配置された。
姫路へ通じる若桜街道、岡山に通じる智頭街道、鹿野に通じる鹿野街道の3本である。そして、横に片原、本町、二階町、元魚町、川端という5つの路線を通して碁盤の目のような町をつくった。それぞれの町通りには本町、魚町、桶屋町、大工町、職人町など、城下町ならではの町名が今も残っている。
光政の時代、立川や今町などの袋川外の町は登場してこないが、光政以降も町づくりは進み、3つの本街道の外にも交通発展の過程で徐々に町ができてくる。但馬往来には湯所、丸山。鹿野街道から分かれて安長街道には新品治、鹿野往来には行徳、智頭往来には瓦町、今町、若桜往来には吉方、雨滝往来には立川などができてくる。
こうして鳥取の町はコンパスの軸を久松山において、薬研堀、袋川と弧状に発展していった。また、昭和になって新袋川をつくり千代川につないで、更に大きな弧を描いて発展しているのである。新しい都市づくりに向け薬研堀は昭和6年(1931)に埋立が開始された。同年に八千代橋、翌7年に千代橋が竣工している。 (参考「城下町鳥取誕生四百年」)
4.在郷町の発達
交通・産業の発達に伴って物資の集散地や交通の要所に宿場町や港町、いわゆる在郷町が発達した。
町方と呼ばれた鳥取・倉吉・米子の3町に加え、因幡では浦富、岩本・岩井・智頭宿・若桜宿・用瀬宿・船岡・鹿野・吉岡・賀露・浜村・青谷などが発達した。いずれも街道に沿った宿場町の性格で、地域の商品流通の結節点であり、制札場(藩の法令などを農民・町人に周知するため、領内所々に板面などに記して往来などに掲示する場)、年貢米集荷の灘倉としての機能も持った。(参考「鳥取県の歴史散歩」・「鳥取県の歴史」)
米子・倉吉の町屋の拡大
光政時代(1617)から本格的な城下町鳥取の発展が始まったが、当初は軍事的都市の性格で、大名の家臣団など武家人口の増加であった。
寛永11年(1634)の町屋軒数は1,074軒、18世紀初頭には約3倍の3,148軒と、主に17世紀後半に経済都市に変貌していった。しかし、藩財政の窮乏に伴う武士生活の質素化で18世紀初頭には経済活動は沈滞した。その一方で、米子・倉吉の町家人口は順調に増加している。これは鳥取は武士中心の城下町であり、武家人口が極めて少ない米子・倉吉は町人中心の町という町の性格に由来するものである。 (「新修鳥取市史」)
5.近世の浜坂・江津農地の拡大
近世の新田開発の推移を示すものとして注目される「鳥取藩史」民政志所収の「各村高物成表」に、近世における浜坂や江津の石高の伸び率が示されている。浜坂は元禄年間(1688~1704)117%、天保年間 (1830~1844)119%、元治年間(1864~1865)120%、江津もそれぞれ114%、124%、128%と順調に伸ばしている。 (「新修鳥取市」)
これは、千代川や袋川の治水(築堤や護岸工事が主体)や農業用水路の開発が背景の一つにあると考えられる。
千代川や袋川の治水
千代川の治水工事が積極的に行われはじめたのは天正・慶長~元和(1573~1624)の時代で、鹿野城城主亀井武蔵守、鳥取城城主池田長吉・光政らによって築造されたものと言われている。
この時代は、千代川左岸側は亀井藩、右岸側は鳥取藩に分かれ、左岸地区は全川に渡り小規模の築堤を行い、水制によって流向を右岸側へ向けることと、土砂の堆積を期待した治水方法がとられた。一方、右岸側も亀井藩と前後して防御対策を講じ、その工法は主として築堤および護岸工事であった。
藩政時代の千代川堤防図の中ノ郷近隣では小松原堤、浜坂堤、江津堤、新田堤などが載っている。小松原堤は慶長年間の池田長吉の構築とされ―中ノ郷へ侵入する千代川本川の頭水を抑えているが、袋川への逆流氾濫の軽減、千代川本川導流堤の役割も果たしている。
大井手用水と大口堰用水
一方、里仁から徳吉ー安長ー江津に連なる自然堤防の西辺は、晩稲ー南隈の近くまで湿原の状態が続き、本格的な開発は近世初頭の大井手用水開削以降である。(「千代川水系の流域及び河川の概要 国土交通省」)
晩稲と南隈の元禄年間(1688~1704)の伸び率はそれぞれ145%と160%、天保年間(1830~1844)で175%と176%、元治年間(1864~1865)で177%と159%と、驚異的に石高を延ばしている。再後発として、大井手用水開発のメリットを最大限に享受したのであろう。江津も順調に伸ばしているが、同じ「野見保」徳吉村(128%、128%、130%)などより低めなのは、下流で用水の受益の最後尾になったこと、または、千代川の影響をより直接的に受けたからなのかもしれない。 (「新修鳥取市史」)
千代川の下流に広がる田畑を潤すため、川の左右につくられた県内屈指の大きな農業用水で、左岸側が大井手用水、右岸側が大口堰用水である。いずれも江戸時代の慶長年間(1596~1615)に造られた。
大井手用水は、鹿野城主亀井公が慶長7年(1602)から7年もの歳月をかけ開削したもので、農業用水又は鳥取市河原町から取水し、賀露町までの千代川左岸の稲作を中心とした地域の水田(668ha)を潤す用水路で、幹線水路部分だけで延長16km余り、農業用又は防火や生活用水などの地域用水として欠くことの出来ない用水路である。
大口堰用水は、千代川右岸の旧邑美平野を潤す用水路で、古くは水上交通の役割も果たしていた。鳥取市円通寺から取水し、延長約10km。大口堰用水の幹線は山白川とも言う。江戸時代には円護寺、覚寺、浜坂、向国安、越路の五村を除く邑美郡内の全てを潤したとされる。 (「疎水名鑑」)
賀露(亀井領)と河原(池田領)の交換
天正9年(1581)年の鳥取城落城によって、羽柴秀吉は亀井新十郎茲矩に気多郡13,800石を与え、鹿野城主とした。
茲矩は(慶長5年・1600)の関ケ原の役には東軍に組して、高草郡24,200石を加封され3万8千石となったが、高草郡は灌漑用水が不安定でときに干害に苦しみ、荒地も多く見られたことから、茲矩は大規模な水路の開設を計画した。
一方、鳥取城主池田備中守長吉は領内に良港がなく、千代川の河口の賀露を港として使用することを望んでいた。そこで、河原(河原町)に水源を求める茲矩と、賀露を港として使いたい長吉との間の交渉により、池田領の八上郡の内(布袋・長瀬・一木・引田・中嶋)高1,046石8斗2升5合の土地と、亀井領の賀露の半分(詳細不明)との交換が成立した。
これによって、茲矩は慶長7年(1602)から大井手用水路の開設に取組んだのである。(亀井茲矩公没後400年記念事業 - 鳥取市鹿野町)
鹿野城主亀井茲矩は、慶長15年(1619)御朱印を受け、南蛮貿易をしたほどの進歩的な文化人で、一国の殖産興業に力を注いだ名君であった。彼の偉業は、浜村・八幡・青谷・日光池などの干拓・大井出用水路・湖山池の干拓と新川の新設・千代川西岸の亀井バトの治水工事など、当時の偉大な土木工事は、今なおその面影をしのぶことができる。
(「池田藩主と因伯のキリシタン」)
このように、江戸期に農業は大きく発展したが、それを支えた農民の暮らしはどうであったろうか。
6.農民の生活
太閤検地による一地一作人制と兵農分離
太閤検地によって荘園制度は終焉、土地は私有から公有となり、一つの土地に一人の耕作者が定められて「検地帳」に登録された。登録されたものは、その土地の耕作権を公認されると同時に、領主に対して貢租を納入する義務を負った。
一地一作人制と言い、支配者である領主に対置される被支配者である農民になるということであった。
これは、農民が農地と一体のものとして領主に把握され、領主の保護下に入る一方で、勝手な離村は禁止され、土地に縛り付けられることとなった。そして、刀狩りなどによる農民の武装解除によって、武士と農民の区分は一層明確なものとなり、検地を画期として兵農分離が確定し、近世における基本的な身分(武士・百姓)と、その階級関係が成立したのである。 (参考「新修鳥取市史」)
五人組による連帯責任
藩主が農民の耕作権を保障する代わりに、米納年貢を徴収して藩の財政基盤にしていたため、「農は国の宝」としたが、農民を厳しい統制下に置き収奪を強化した。
鳥取藩では元禄11年(1698)永代請免制を実施し、年貢米徴収を大庄屋、中庄屋、村庄屋、五人組などに委託し、納税の連帯責任を負わせた。組員の一人が年貢未納のときには、五人組で負担し、それでもだめなら村全体が負う。村全体がだめなら中庄屋、大庄屋の順に肩代わりしたのである。支配側の藩の在方役人に対し、支配される農民側の役人が庄屋、年寄、五人組の組頭などである。
こうした村内における連帯責任を定めることによって、逃亡や年貢米不足を防いだのである。 (参考「鳥取県の歴史」)
永代請免制による連帯責任―追放された千代水の庄屋
こうなると年貢上納の最高責任者である大庄屋がその責を果たすことができなくなり、居村から逃げ出す出奔事件も起きた。その結果、大庄屋の名字帯刀取り上げ御役御免、子どもは両国(因・伯)追放、老母は一郡追放など種々制裁を受けている。
正徳6年(1716)、年貢未納によって徳尾村の約半数のものが追放され、その生産土地565石余りが周辺十箇村14人の百姓に割符されており、翌享保2年(1717)、徳吉村でも同様のことが起きている。 追放されたこれらのものは、何年か後には御赦免となって帰村しているが、家族はバラバラとなってしまっている。
享保10年(1725)、因幡166人、伯耆973人の御赦免がなされているが、文政4年(1821)因伯追放の徳尾村大庄屋岡田庄兵衛は、妻子をあとに九州熊本県の寺(清正光院)の執事となって同地で文政11年10月47才で没している。 (「千代水村誌」)
浜坂村でも「在方諸事控」に同例が一件見られたが、「享保十八年 浜坂村 源太郎」とだけあって苗字、御役は不明である。享保18年(1733)は、享保14年(1729)の記録的大水被害と元文3年(1738)の大凶作の間の年であり、農民にとって極限状態にあった頃である。
年貢未納による追放・手錠閉門
「文政四年(1821)十二月ニ三日
一 高草郡大庄屋 岡 田 庄 兵 衛右者御裁許之上、此度御両国追放被仰付候ニ付、同人御夫持方通イ取上ゲ、御勘定所ヘ相廻ス。」(鳥取藩を追放するにあたり、夫持(役給)を取上げる)
「延享四年(1747)ニ月九日
一 同郡晩稲村中庄屋 安 兵 衛其方儀、中庄屋役被仰付置候処、式日御勘定迄、御取立大分不足、剰身分引負モ有之、御吟味之上、御役儀御取上ゲ、手錠閉門被仰付候。以上
(庄屋を引受けながら取立て不足により、吟味の上で御役取り上げ手錠と閉門を命じる)
「享保十八年(1733)正月廿三日
一 邑美郡浜坂村 源 太 郎
御年具不足ニ付入籠被仰付候得共、出籠被仰付候。
(年貢不足により入牢を命じられたが、出牢となった) (「在方諸事控」)
衣食住、日用品の御法度
貞享3年(1686)の「在方御法度」には、「百姓町人之衣類、絹・紬・木綿・麻布・此内をもって分限に応じ妻子共に着用すべき事」となっている。「分限」とは、幕府法度の指示の「庄屋は絹・紬・布木綿、脇百姓は布木綿だけを着用すべし」を受けている。住居については、1町以上を持つ上層農民は2間×2間、7反~1町歩の中層は1.5間×2間、下層は1間 ×2間の制限があった。
『百姓伝記』には、「土民は身をぬらさず、諸道具のぬれ、くさらざることなくば、木柱もけづらず、縄ゆいにして、すのこもなく、五穀のからをしくべし」とあるように、それは掘立て小屋にも似た住居であったといえる。
また、明暦3年(1657)「在方御定」では、日用品の数量や種類を制限、「売物塩・茶・のふぐ・おはたの道具・なべ・かま・此外は調へ申す間敷候」(「鳥取県史」)と述べている。農民はこの6品以外は所持する必要はないという規制である。
「生かさぬよう殺さぬよう」
徳川家康の『百姓は生かさぬよう殺さぬよう』の言葉は、家康の腹心だった本多正信の書物では『百姓は財の余らぬように不足になきように治むる事道也』 とあり、寧ろ無欲とか、質素さを大事にという道徳を説く目的があったようである。
華美で贅沢な暮らしを戒め、質素倹約を奨励する、ある種道徳的な意味合いをもった政策で世を治めようというもので、農民、庶民に限らず、質素倹約は武士においてこそ重要な生活信条とされていた。
「胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物也」
しかし、18世紀以降、農村の荒廃が進み、大名側は財政窮乏のあまり、年貢を徴収するには「農民を責め虐げるより外」方法がなくなった。「胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出る物也」は、元文2年(1737)~宝暦3年(1753)、将軍徳川吉宗時代の勘定奉行の神尾若狭守春央の言葉である。苛斂誅求推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった。
年貢の取立てが激しくなる中で凶作や災害が発生すると、農民は惣百姓一揆という過激な闘争を起こすようになった。後述の鳥取の元文一揆(1739年)がちょうどこの時期に当たり、農民の強い怒りが「安長、秋里の土手に因伯5万人の農民が集結した」事実に感じられる。 (参考「農民の崩壊と百姓一揆」)
浜坂村 市右衛門娘 はるー江戸時代の孝子表彰
一方で、農民へは圧政ばかりではなかったようだ。
江戸時代、主君や親によく仕え孝養を尽くした者や、夫に尽くし貞節を守った妻、農業に励み年貢上納に努めた農民など、藩や地域の領主が理想とした農民たちには、孝子表彰として盛んに表彰が行われた。
これは、主に江戸幕府5代将軍の徳川綱吉が天和2年(1682)に実施した制度である。綱吉は幼少の時分より儒学を愛好していた為、全国に「忠孝札」を掲げて忠孝を奨励し、孝子表彰の制度を設けている。浜坂村民の表彰例を「在方諸事控」に見つけたのでここに引用する。苗字はなく、どこの者かは分からない。
「文化十五年(1818)三月廿ニ日
一 邑美郡浜坂村 市右衛門娘 はる其方儀、兼て両親え致孝行候処、母病気ニ付縁付も不致、昼夜大切ニ致介抱、其上定メ之休日ニも不相休農業精出し、万事志宜段、村方より申達奇特之事ニ付、追て御評儀之品可有之事。
(かねてより両親への孝行を行い、母親が病気のため嫁さず、昼夜大切に介抱し、その上、休日にも休まず農業に精出し、万事においてよい心がけだと村方より申請があった。追って、表彰の品がある)
一 前記之趣ニ付、左之もの共え左之通被遺候事。
一 米三表 浜坂村 市右衛門娘 はる
7.因幡農民の困窮―飢饉や一揆
低生産性の近代農業にあっては異常気象などの自然災害と、社会的には幕藩体制下の過重な貢租や労働力の徴収等にも深く影響を受けている。江戸時代の因伯における農業災害は50前後に及び、記録頻度が多いのは、天保飢饉前後、元禄飢饉前後、天明飢饉前後、享保飢饉前後などである。このうち、享和の大水害など、大水害が16回発生している。
特に天保9年(1838)以降の30年間には、慶応の大水害と飢饉が維新前後の社会不安と関連し注目される。この間には、大水害が3回を数え、因幡総地高の約2.2倍が被災している。
火災や大洪水による藩財政圧迫
鳥取は古くから火災が多く、藩政時代の有名な大火が十数回に及んでいる。また、大洪水も多数。特に藩政時代の記録的大洪水は十数回。特に享保14年(1729)の惨状は凄まじく、後々まで「百年水」として伝えられた。これらの災害が藩財政を窮地に追い込んだことは容易に想像できる。(「城下町鳥取誕生四百年」)
小松ケ丘上部の住宅地横に「溺死海会塔」と刻まれた浜坂の水害供養塔がある。江戸時代、千代川の流れはこの山すそを洗っていた。高さ約2m、玄武岩の石塔である。これは享和元年(1801)、寺僧規外が寛政7年(1795)の洪水で溺死した人々の七回忌法要を営んだ折に建立したものである。このあたりはもとの千代川が大きく賀露の方に向かって曲がるところで、打ち上げられた溺死者も多くあったらしい。(「鳥取県の歴史散歩」)
火災については、正徳元年(1711)、享保5年(1720)、享保9年と鳥取城下に大火が連続して発生している。特に、享保5年(1720)の鳥取大火で城の本丸、二の丸をはじめ侍屋敷、町屋敷、寺院など多数を消失した。
当時、火事発生時に駆けつける人夫が近隣の村々に割り当てられており、浜坂村20人、覚寺村10人などの記録が「在方諸事控」に残っている。
さらに、元禄11年(1698)の江戸地震による江戸城の復旧、宝永4年(1707)の富士山噴火復旧などの上納も相次ぎ、鳥取藩では倹約令につぐ倹約令、緊縮につぐ緊縮。常に年貢収奪された農民は悲惨を極め一揆が続発した。特に、元文3年(1738)の大凶作は農民を極限状態に追い込んだ。年貢の減免は許されず、年貢納入ができずに入牢、非人になるもの、果ては餓死するもの多数。翌年、ついに歴史的大一揆(元文一揆)が発生した。 (参考「城下町鳥取誕生四百年」)
鳥取の元文一揆(1739年)
元文3年(1738)の4月から1ケ月余りは湖山池が凍るほどの天候不順で、各地の農作物に大凶作を与え、年貢が納められないものが続出した。しかし、請免制(数年間の平均で村の年貢量を定め、毎年決められた年貢を各郡の大庄屋が責任もって納める制度)で年貢の減免は許されず、それどころか藩は年貢の未納者に対して容赦なく入牢を命じ、511人が入牢させられた。
また、年末から2月にかけて食料のなくなった零細農民が乞食となり、城下町をうろつく者が相次いだ。
一揆は元文4年(1739)2月20日、下船岡から始まり、若桜―郡家―釜口―河原―古海―賀露―湖山―秋里とむしろ旗を立て、鎌、鍬を振りかざし、城下を目指して進んだ。農民たちは途中道沿いの庄屋や手代、豪農などの家を打ち壊したり、焼き払いながら2月24日には安長、秋里の土手に因伯5万人の農民が集結した。
その後、川を渡り田島から新茶屋を通り玄忠寺、景福寺の門前までおしかけ城下に迫った。
藩はやむなく、郡代の米村所平をやめさせると共に、集結した農民たちには城下に入らせないようにし、近郊で粥を与え、「12ケ条にわたる一揆要求」を受理し、直ちに「五歩通りお借上米の返済、追放人呼戻」等の応急的な回答を行った。この返答で多くの農民は満足して帰った。一部強硬な農民が城下町へ進撃を始めたが、武力に阻止され四散した。一揆が起こって10日も経たぬうちに民衆エネルギーはたちまち消えうせた。
その後、藩側の厳しい弾圧が農民に加えられ、2月末までに288人が捕らえられた。そのうち一揆の指導者ら20人は死罪さらし首。以後、農民一揆は各地で起きたが、元文一揆のように広がらないうちに藩の力に抑えられ、年貢の制度も変えることはできなかった。
(参考「ふるさと城北の宝」)
天保の大飢饉(1837年)
天保の元年(1830)から6年までに4年が不作、これに続く7年が「申年の餓死(さるどしがしん)」と呼ばれた大凶作で、その翌8年が大飢饉となった。
千代水村誌(徳吉部落雑話)には「祖母が話してくれたこととして、食べるものがなくて木の実、よのみの実(杉の実)、座敷の実(杉の実)、座敷のムシロを食べた」・「草、木の実、土を煮るなどした」・「言い伝えでは天保飢饉のときは稲穂は田圃の水の入口あたりだけしか実らなかった」、また、「豊作であった天保10年の東円寺、東善寺、玄忠寺の三菩提寺の合計死亡者数は95人、天保8年は529人で5.6倍にあたる。徳吉村の年間の平均的死亡者数4人の5.6倍は22人、この人数がさる年がしんで死亡したとすると、当時の徳吉村の192人の11パーセントにあたる」などとある。
天保2年(1831)、東北から始まった全国的飢饉は悲惨を極めた。
この頃、鳥取藩領には隣国の但馬・播磨・美作などから餓えに迫られた人々が多く入り始め、町や村にも行き倒れや捨て子など悲惨な光景が各所に見られたという。
天保4年になると事態はますます深刻となり、岩坪・母木(ほうぎ)・青谷・岩井湯村・気多姫路の村々で大火が発生、村人の大半が焼け出された。天保8年(1837)になると疫病も流行し、この年までの死者は因伯両国で数万といわれた。当時の両国の総人口は30万人ほどであったから、その人数規模が理解できる。丸山や覚寺の路傍の供養塔にはこの悲惨な歴史が刻まれている。(参考「鳥取県の歴史散歩」)
8.伴九郎兵衛と浜坂新田
伴九郎兵衛の先祖伴玄察は三河(愛知県)吉田城主の池田輝政に慶長3年(1598)召抱えられ、奥州、関が原戦で武功を上げ御側詰、加増されて700石、鉄砲20丁預けられた。御国替後、玄察は備前(岡山県)で病死。跡目は長男の安左衛門が継ぎ、弟九郎兵衛は城主池田忠雄に200石で召抱えられ御側詰め。
寛永9年(1632)岡山城主池田忠雄が亡くなり、子の池田光仲が鳥取に、従兄の池田光政が岡山へと交替した。池田光仲についてきた初代の九郎兵衛は200石、鉄砲10丁、知行所は、八東郡東村の一部と岩井郡吉田牧谷村であった。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
以下は、初代九郎兵衛と歴代九郎兵衛を名乗ったその子孫の物語である。
初代 九郎兵衛と密貿易、隠れ切支丹
初代の伴九郎兵衛は、藩主池田光仲に仕え、御金蔵を預かり、藩の財政を管理していたと伝えられる。
九郎兵衛は、人里離れた十六本松の地に眼をつけ、荒神山の麓の深く広い淵に千石船の着船場をつくり、密貿易の陸上地として藩の財政を助けようと計画した。ここには後に、藩公の舟遊びのお茶屋もできた。
当時の鳥取砂丘の飛砂は千代川へと迫り、これらの建物や船着場は飛砂に悩まされた。このことから九郎兵衛は植林奉行として、伴の山を中心に一大砂防植林の業を起こした。そして、植林後には、伴の山の南麓に別荘と称して千坪に余る広大な屋敷を造成、これを密貿易の拠点としたのである。密貿易で輸入した岩塩を、浜坂新田の塩蔵にも収めた。
この塩蔵は明治末まで残り、大正時代も屋敷跡から岩塩を掘り出すこともできたという。ただし、岩塩は表向きのことで、秘密裡に志那方面あるいは南方貿易をなし、岩塩とともに彼の地の品々をひそかに持ち帰っていた。小船で袋川を上り内密に城下へ運び、あるいは京都、堺などに移出し、藩財政を助けたという。
尚、進取の気性に富んだ九郎兵衛は、この密貿易の手づるを求め、仕事を有利に運ぶためにキリシタンに入信している。
キリスト教信仰は、慶長19年(1614)の徳川家康による禁教令で禁止されてより、寛永6年(1629)に踏絵や五人組、宗旨人別改帳導入、架刑や改宗を迫られるなどの迫害弾圧を受けている。
そして、寛永14年(1637)の島原の乱が決定的となって日本は鎖国に向かう。九郎兵衛のキリシタン入信はちょうどこの時期にあたるのである。
伴山の頂上に花崗岩の厚さ15cm、六角を形作った直径1.5mの切石の台座が残る。この台座には聖母マリア像、またはイエス像が安置されていたらしい。「鳥府誌」には九郎兵衛自身の肖像と記されており、最後まで江戸幕府の取り締まりの難を逃れている。像は大阪方面に売却されたとのことだが、詳しく不明である。
城下町より眺め、この地は陸の孤島である。彼が人里離れたこの地に居を構えたことは、個人的礼拝はもとより、毎月25日は天神講と称して、同信の人々とひそかに集団礼拝を行って、ミサ・礼拝・教義の研究・月例行事などを行うには、実に好都合な場所で、信仰につながるよき隠れ家であり、聖なる基地ともなっていた。(参考「池田城主と因伯のキリシタン」)
密貿易と隠れキリシタンの拠点。そう考えるとこの地の歴史は深沈と重厚、かつ謎めいてくる。
天明飢饉と浜坂新田村の開発
江戸時代中期の天明2年(1782)から天明8年に発生した江戸四大飢饉の一つで、日本近世最大の飢饉とされる。
悪天候や冷害による東北の大凶作に加え、田沼時代の失政による米価上昇で全国へ波及した。
九郎兵衛の本邸は、安永9年(1780)の城下絵図では、現在の鳥取市元町の花見橋近く。別邸は、伴山の東裾(西ひばりが丘)の千坪余りの屋敷に夫婦で住んだ。
天明3年(1783)に天明飢饉がやってきた。稲は実らず、農民は食うものがなく、疫病の流行など大惨事であった。九郎兵衛はこれら農民2,3千人を別邸に収容、食を与え、医療を加え、難民の中から農業労働に耐えうるものを選び砂丘地帯の開墾に従事させた。こうして農民を定着させ、ついに一村「浜坂新田村」を創立した。初代九郎兵衛は池田光仲の時代であるから、この頃の九郎兵衛は150年ばかり後の子孫であろう。
「鳥府志」の浜坂のくだりに「水門。犬橋の下にあり。此水門は塩留の為に造れるなり。塩の来たれる時は此扉おのずから閉、又、しほの引く時は、流水の勢にて開く様にしつらえたるものや」とある。犬橋に潮止め門があったということは、そこより下流は海の逆流があったということである。
昭和の戦後ですら塩害に苦しんだ土地である。当時の苦労はどれほどであったろうか。尚、「新田」とは一般的に江戸時代以降に開発されたものを指し、地名としても全国に多数存在する。
伴山祠跡
伴山は大昔、古名を放れ山(はなれやま、高さ40m)と云い、禿山だったらしい。
歴代の伴九郎兵衛は、ここを起点に北は十六本松、南は下の山まで、荒神山を囲む一帯の植林を完成した。天明の大恐慌で日本全土が大飢饉になった時、この造林した林に困民を収容し救済するとともに、新田を開発し多くの窮民を救済した。夫婦に子供が無かったのでこの山に祠を立て自分たちの墓地とした。この周辺に伴と言う姓の家があるが、九郎兵衛の墓を守ることでこの姓を継承しているとのことである。
いつの頃からか放山は伴山と呼ばれ、現在、下の山までの荒神山を囲む松の植林帯を「伴山飛砂防止国有保安林」と言う。尚、現在の新田では、伴九郎兵衛所縁の行事は行われていないと聞く。(浜坂新田聞き取り)
隠れ切支丹
日本におけるキリスト教は、戦国時代の天文18年(1549)のフランシスコ・ザビエル来日によって伝えられたとされる。 宣教師たちの堅固な信念と熱烈な献身・努力によって急速に信者を増やし、これを庇護した織田信長が本能寺の変で自刃する天正10年(1582)には、全国に会堂数100ケ所、信者は約15万人に達し、5年後には倍増している。
しかし、江戸時代には、慶長19年(1614)の徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止された。幕府の支配体制に組み込まれることを拒否するキリスト教の浸透拡大と信徒の団結が、幕府を揺るがす脅威とされたのである。この頃の信者数は70~80万人とされ、当時の日本の人口は千5百万人余を考えるとまさに燎原の火の如くである。
そして、寛永14年(1637)の島原の乱が決定的になり、幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。
また幕府は、新たな布教が一切行われないようにスペイン・ポルトガル勢を追放・排除した。寛永元年(1624)にスペイン船の来航禁止、寛永12年(1635)には、日本人の海外渡航と帰国の禁止及び朱印船貿易の終了、そして、寛永16年(1639)のポルトガル船の来航禁止と南蛮貿易の禁止をもって、同年に日本の鎖国が完成するのである。
他方、幕府は信者をあぶりだすために寛永6年(1629)に踏絵や五人組、宗旨人別改帳を導入、架刑や改宗を迫るなどの迫害弾圧を続けた。
このような時代背景の下、地下に潜った信徒たちは、親子の間でも秘密主義に徹し、秘密裡に切支丹灯篭などの各種各様な礼拝物をつくり、表向きは仏教徒などとして振る舞いながら心の奥に自由を叫び、国内にカトリックの司祭が一人もいない中、250年間以上も信仰を守り代々伝えていった。この事実は世界に類例なく、全世界に衝撃を与えたとされる。
明治以降も弾圧は続いたが、諸外国からの非難によって明治政府は明治6年(1873)、ようやく「キリシタン禁教令」を廃止したのである。
鳥取藩とキリシタン、そして九郎兵衛たち
池田鳥取藩とキリシタンの関係は驚くほど深い。
池田藩主の先祖信輝は永禄6年(1563)に洗礼を受けている。織田信長が神父フロイスと面会し、畿内で布教を許したのが永禄12年である。英傑信輝は、いち早く西洋の物資・精神文明を取り入れることで、一国の文化を高め富国強兵を図るという念願から入信したのであろう。この信輝によって、切支丹帰依の家柄として鳥取城主池田家には、代々信仰の道が受け継がれていくのである。
播州姫路城主の輝政は信輝の子である。パジエスの日本基督教史は「播州国主池田新三衛門(輝政)は、信仰厚く、宗徒に庇護の手を差し伸べていた」と記している。関ケ原以降の初代鳥取城主池田長吉は輝政の子であり、その子の2代城主長幸も、紋章などから明らかに入信していたとされる。
輝政の孫にあたる池田光政は、長吉・長幸後の鳥取城主で、因伯32万石の基盤づくりをした。元和6年(1620)、ポルロ神父の伯耆・因幡の巡教時、光政は見てみぬふりをして、陰で庇護していたようである。京都や長崎における信者の火刑・斬首をはじめとして全国各地で処刑の嵐がふきすさんでいた頃である。
輝政と徳川家康の娘督姫の間に生まれた池田忠雄が、長じて迎えた室は有名な切支丹大名の娘である。切支丹倫理の教えでは、原則として同信者の家柄同志でないと婚姻できない。その間に生まれたのが池田光仲。徳川家康の孫にあたり、光政のあとを継いで32万石鳥取藩を治めた。光仲が鳥取藩の信徒を庇護していた事実は、藩の控帳及び万留帳に、光仲は切支丹の疑いを受けて入牢した伴九郎兵衛や医師の森元交、浜田藤兵衛の妻子などに扶持を与え、これを保護したと記録されていることから明らかである。このように切支丹入牢者の妻子に生活保護の愛の手を差し伸べた例は全国に例のないことである。尚、彼らは後に出牢を許されている。
この光仲の鉄石の信仰は歴代の藩主に受け継がれ、因伯二州では、明治になるまで処刑による殉教者を一人も出していない。このような例は、古切支丹の流れをくむ京極藩、相良藩の城下にもみることができるが、当時としては稀有のことである。さらに、代々の藩主は幕府の重圧にたえて、城奥で信仰の灯を守り、更に信徒たちを庶民信仰によく習合させ、ひそかに聖地を与えている。
池田家菩提寺の興善寺、池田藩主の祈祷所観音院、熱烈な信者であった福田家老が建立した一行寺などには「切支丹灯篭」が残っている。これは、地蔵尊の台石に見せかけて、隠れ切支丹が墓参を装って密かにその台座に祈りを捧げていたものとされている。
石には人型が浮き彫りにされ、地蔵尊というより、神父が両手を胸で組み、お祈りをしている姿である。 偽装はその他、観音像、墓碑、人形、石仏など数多くあり、人目につかないように巧みに隠されていたという。
藩公や家老たちゆかりの寺院にこれらが祀られたことは、信徒たちを表面上仏教徒にころばせ、裏面ではこれらの寺々の境内に聖なる礼拝地を与えたのである。万が一疑いを持たれた場合は、藩公や家老のご武運を祈り、菩提を弔うためと申し開きができるのである。
因伯二州には数多くの切支丹城主がいる。若桜の鬼が城矢部城主、鹿野城亀井城主、東伯の羽衣石城南條城主、米子城中村城主など。鹿野城主亀井茲矩は、元和5年(1619)御朱印を受け、南蛮貿易をしたほどの進歩的な文化人であった。一国の殖産興業・富国強兵にはすぐれた南蛮文明を受け入れることの必要を深く理解し、そのため伴九郎兵衛などと同様に、南蛮伴天連と手を結ぶために入信している。
青谷港を南蛮貿易の基地に、海と三方の山に囲まれた隔絶地の酒津を隠れ切支丹の聖地としたとされる。切支丹灯篭と子安地蔵(マリア像)の両方が残るのは県下で酒津のみである。
全国的に眺めても、九州についで因伯二州でキリスト教の布教が伸びていたことは、驚異的な史実である。鳥取藩主ならびに切支丹家老、地域城主たちの英邁、精神性を物語るものである。
鳥取市郊外岩倉に、鳥取池田藩主初代光仲より十一代慶栄までの墓石をはじめ、奥方ならびに一族が眠る。百数十の灯篭の中で、光仲公の前に建つ光仲の子仲澄・清定の献灯篭にのみ、火袋に十字架が陽刻されていることは不思議である。
二人は、父光仲の信仰を静かに見守り、十字架を背負って昇天したキリストの故事にならって、なき父の冥福を祈って作っものであろう。このような例は、松前藩椿姫の墓石、小浜藩常高院の墓地にも残っている。
(参考「池田藩主と因伯のキリシタン」・「因伯の隠れキリシタン」・「鳥取文化財ナビ(切支丹灯篭)」・「隠れキリシタン」)