第6節 現代期(昭和~平成~令和時代)

Ⅰ.日本の戦前~戦中
1.戦前の概要
  昭和の金融恐慌(昭和2年)
  世界大恐慌―第二次世界大戦の引き金
  底なしの昭和の農業恐慌―繭価・米価が暴落
  経済の行き詰まり
   ―満州事変から日中・太平洋戦争へ
  山陰本線、因美線などの全線開通
   ―鳥取駅前に丸由百貨店オープン
  経済統制と乏しい県民の消費生活
  国民徴用令の公布
2.ラジオ放送や日本海新聞発足と戦時体制強化
3.鳥取大震災の襲来―潰滅した鳥取市
  鳥取大震災の浜坂・江津の被害
4.戦時中のどん底の欠乏生活
  学徒の勤労作業強化
  決戦体制へ・食糧管理法制定
5.敗戦
  日本國民に告ぐ
   —8月5日に米軍が鳥取市上空で撒いたビラ

Ⅱ. 浜坂地区の戦前~戦中
1.岩美郡中ノ郷村が鳥取市に編入
2.浜坂の昭和初期の食事事情など
  須崎・米原両氏の青年時代の思い出
   ―白い飯を見て貧血
3.昭和初期の農作業
  家族・隣人など総出
  稲コキから精米まで
  稲刈り後のレンゲ草や菜の花
  肥料のさまざま
  ワラ葺屋根の家屋
4.戦時中の思い出
   ―松林で食塩をつくった中ノ郷国民学校

Ⅲ. 災害・戦後からの復興期
1.戦後インフレと県民の生活苦
2.奇跡の復興―朝鮮戦争特需
3.GHQによる農地改革
  浜坂・江津の地主と小作農
  各地の農地委員会の設置
  泣くに泣けない農地買収価格―大地主の凋落
4.変容する戦後の農業と農村
  鳥取市農業協同組合の設立
  砂丘地の開発と兼業農家の急増
5.鳥取大火災(昭和27年)
   ―震災後9年、再び鳥取市潰滅の日
  鳥取大火の浜坂・江津への被害
  平和塔の建設

Ⅳ. 復興期の浜坂・江津地区
1.罹災者住宅の建設―小松ケ丘・ひばりケ丘など誕生
2.浜坂の畑地灌漑事業
  昭和29年、浜坂にスプリンクラー
  浜坂の砂地果菜栽培
  浜坂の砂地ブドウ園―須崎・神埼両氏が草分け
  浜坂灌水組合―荒神山頂上に貯水槽
3.江津の新農地造成―旧千代川廃川敷の埋立工事
4.千代水村が鳥取市編入(昭和28年)

 .日本の戦前~戦中

1.戦前の概要

昭和の金融恐慌(昭和2年)

 日本経済は第一次世界大戦時の好況・過熱から一転して大正9年(1920)に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。また、大正12年(1923)に発生した関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。
 
 一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化、社会全般に金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。大正期、日本経済はその多くを生糸などの軽工業に負った。
 製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、アジア市場では第一次大戦中に衰えた欧州先進国を代替するまでに至ったが、製品の品質では未だに劣り、戦後に回復した欧州諸国産業に市場を奪回された。これが戦後の大反動の一因となる。 (「昭和金融恐慌」)

世界大恐慌( 昭和4年)―第二次世界大戦への引き金

世界大恐慌
世界大恐慌

 他方、1920年代、第一次世界大戦で連合国に対する物資供給特需で世界最大の債権国となっていた米国でも資本・設備への過剰な投機で生産過剰に陥り、農産物も過剰生産で価格が下落する農業不況が起こった。


 昭和4年(1929)10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれた)ニューヨーク株式取引所の株式大暴落から始まり、企業倒産、銀行閉鎖など経済不況が一挙に深刻になって、1,300万人(4人に1人)の失業者がでた。 およそ1936年頃まで続いたこの恐慌は、アメリカ経済に依存していた世界経済に波及し、欧州各国、日本などアジア諸国にも影響を与えた。

 資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第二次世界大戦がもたらされることになる。
 広大な国土・植民地を所有し、原料と市場を確保することのできる「持てる国」であったイギリス・フランス・アメリカに対し、「持たざる国」として「生存圏」の拡張を掲げ、ドイツは東欧に領土を拡張しようとし、イタリアは北アフリカやバルカン半島へ、日本は満州から中国本土への進出を1930年代から展開していった。このような新たな帝国主義による世界分割競争が世界恐慌を機に一気に強まり、第二次世界大戦へとつながっていくのである。 (「世界恐慌」)

底なしの昭和の農業恐慌―繭価・米価の二本柱が暴落

 世界恐慌による米国の窮乏化を受け、生糸の対米輸出は激減した。この生糸価格暴落を導火線とし他の農産物も価格が崩落。昭和5年(1930)の豊作が米価下落をもたらし、農業恐慌は本格化した。米と繭の二本柱で成り立っていた当時の日本の農村は両方の収入源を絶たれたのである。

 鳥取県では、昭和2年(1927)には実に全農家の7割にあたる3万5千867戸が、水田面積の3.7割にも達する1万2千50町歩の耕地に桑を植え、蚕を飼って大量の繭を生産していた。農業恐慌が始まった大正9年(1920)には米や生糸が4、5割も暴落したが、昭和の金融恐慌では更に暴落した。
 しかし、この相場でもよいほうで、昭和4年(1929)から始まる世界大恐慌が追い討ちをかけ、繭価はまたまたその半値に暴落し、米価も4割方下落した。7年(1932)になっても深刻な農業恐慌は収まらず、農家は疲弊し、赤字による負債は目に見えて増えていった。

 県、各市町村、政府の救済によって鳥取県下の農村が次第に立ち直り始めるのは、昭和8年(1933)のことである。(参考「昭和農業恐慌」・「百年の年輪」)  

経済の行き詰まり―満州事変から日中・太平洋戦争へと

太平洋戦争(真珠湾攻撃)
太平洋戦争(真珠湾攻撃)

 世界恐慌に直撃され、政治的、経済的に深刻な危機に陥った日本は昭和6年(1931)の満州事変を機に「満蒙(まんもう)は生命線」として満州支配へ動き始め、翌年「満州国」を樹立した。

さらに日本軍の華北侵略の危機が高まると、中国の反日運動が拡大し、昭和12年(1937)日中戦争へ突入する。昭和15年(1940)の日独伊三国同盟締結後、日本は仏領インドシナの占領をはじめとして東南アジアへ「南進」を始めた。

 これに対立するアメリカは、石油輸出制限・禁輸などで応えていたが、昭和16年(1941)12月、開戦を決意した日本の真珠湾攻撃を機に孤立主義を一掃し参戦、太平洋戦争へと突入していく。(参考「第二次世界大戦/日本大百科全書」)

山陰本線、因美線などの全線開通―鳥取駅前に丸由百貨店オープン

丸由百貨店(後の鳥取大丸)
丸由百貨店(後の鳥取大丸)

 当時の鳥取では、伯備線の全線開通(昭和3年・1928)、若桜線全線開通(昭和5年・1930)、因美線の全線開通(昭和7年・1932) 、山陰本線(京都~下関)の全線開通(昭和8年・1933)などの交通網の整備が進んでいる。

 また、街並みにも変化が見られ、昭和4年には智頭街道より若桜街道の利用客が多くなった。若桜街道にロゴス食堂、智頭街道に鈴蘭灯、商工会議所会館が建てられた。昭和12年(1937)、智頭街道沿いにあって当時山陰一といわれた江戸時代から続く老舗の由谷呉服店を経営していた由谷正太郎が、鳥取駅前に鉄筋コンクリート4階建の丸由百貨店を開いた。山陰で最初の百貨店であり、後の鳥取大丸である。
 
 戎(えびす)座でトーキー映画が上映されたのは昭和3年(1928)のこと。常設館としては翌4年帝国館が建てられた。特に時代劇は人気があったという。(参考「鳥取・因幡の昭和」・「鳥取大丸」)

経済統制と乏しい県民の消費生活

 しかし、この平穏も戦争の暗い影に覆われていく。
 日華事変が長期化の様相を帯びてきた昭和13年(1938)になると、国家総動員法を初め、戦時統制経済が次第に強化されていった。鳥取県でもガソリンの切符制が始まり、木炭バスが走り出した。当時は戦争に直接関係のある一部の物資に限られていたが、14年(1939)になるとタバコ、砂糖、手ぬぐいなど日常物資の不足も目立ち始めた。ゴムの統制が強化されゴム靴も不足し、ガソリンの割当はいよいよ減って街にはマキ自動車がモウモウと白煙をあげて走り出した。鉄の回収が始まって、鉄の外さく・鉄門・鉄火鉢などは全く姿を消していった。

 この9月、第二次世界大戦が勃発、物資の輸入が途絶しがちとなり、価格統制などの経済統制が一段と強化され始めた。15年(1940)になると、米・繊維製品・木炭・砂糖などが配給制となった。16年になると、生活必需物資統制令が公布されて、麦類・青果物・食料油・野菜・食塩・鮮魚介からみそ・醤油・酒・菓子・セメント・医療品など、全面的な配給制度となった。
 さらに、太平洋戦争が勃発して間もない17年(1942)には、マッチ、ろうそく、石けん、ちり紙などに至るまで配給制となった。(「百年の年輪」)

国民徴用令の公布

総動員体制へ
総動員体制へ

 また、昭和14年(1939)7月、国民徴用令が公布され、軍人の召集令状(赤紙)になぞらえられる徴用令状(白紙)が配られるようになったことは県民生活に大きな影響を与えた。一家の中心の働き手が他地方の軍需工場に配置されるようになったからである。(「百年の年輪」)


(参考)木炭自動車は、第一次世界大戦中の1910年代から第二次世界大戦終結直後の1940年代の戦時体制にあって液体燃料(ガソリン、軽油など)の供給事情が悪化した英国、ドイツ、日本やフランスなどの資源に乏しい自動車生産国で広範に用いられたことで知られている。

2.ラジオ放送や日本海新聞発足と戦時体制強化

  日本ではじめてラジオ放送が開始されたのは大正14年(1925)3月、NHK設立はその翌年8月である。鳥取県はそこから10年、昭和11年(1936)12月の鳥取放送局開局は、鳥取県の文化史上エポックを画するものとなった。当時の管内の聴取者は2,680人という僅少なものであったが、その後目覚しい普及ぶりをみせている。

 新聞統合は昭和13年(1938)秋、第一次近衛内閣のもとで”新聞新体制”が叫ばれて始まった。戦時体制強化のための言論報国的なものが背景になっており、昭和12年(1937)には全国で千2百あった日刊紙が、17年(1942)には54紙に減らされた。昭和14年(1939)10月1日、鳥取では鳥取新報・因伯時報・山陰日日新聞の3つの日刊紙が「山陰同盟日本海新聞」として一県一紙体制となった。地方紙としては日本で最初のものであった。 (「百年の年輪」)

3.鳥取大震災の襲来―潰滅した鳥取市

 「突如として大地も崩るるかと思ふ烈しい地震が襲来した。道を歩いていた者は瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。そこかしこの家から起る悲痛な叫喚の声に続いて、バラバラと身を以って逃れ出る人々。ほんの一瞬の出来事であるが、今までの平穏な世界は一変して此世ながらの生地獄と化し、倒潰した家々の下敷となって瞬時に生命を失ふ者、悲痛な声をふり絞って助けを求める者、親を呼び、子を求めて号泣する声々は巷に充ち充ちた」と鳥取大震災の様相を、当時の記録「震災小誌」は記している。

 昭和18年(1943)9月10日午後5時半に起った鳥取大震災は、最も激しかった鳥取市街地と気高郡鹿野町などでは震度6の烈震を記録した。震源地は吉岡温泉あるいは鹿野町付近の地下15キロメートル程度と推定される。
 
 既にこの年、ガダルカナルの撤退、山本五十六の戦死など、太平洋戦争での日本軍は落日の様相を深めており、報道は厳重な管制下にあった。そのため鳥取大震災の詳細は一般にはあきらかにされなかったが、昭和8年(1933)の三陸沖地震、大正12年(1923)の関東大震災に次ぐ大規模なもので、文字通り鳥取市は壊滅状態であった。

鳥取大震災
鳥取大震災

  電信電話も不通で、放送局の無電も役に立たず、ただ一つ鳥取~米子間の鉄道電話が通じていたので、県はこれによって米子に情報を送り、米子は岡山に通報して元の内務省に報告できた。内務省にこの報告が届いたのは夜9時頃であったが、それより先にアメリカでは「鳥取地震」として放送されていたという。

 被害は鳥取市を中心に県下東部に大きく、死者1千210人、建物の全壊1万3千295戸、半壊1万4千110戸にも及び、被害額は当時の金額で1億6千万円にも達した。被害の中心地であった鳥取市街では、建物の約9割が全半壊し、夕飯時刻の震災であったため火災が各所で発生し、全焼289戸、半焼10、焼死者40人を出した。しかし、天佑とでもいうべきか、当夜ときおり大雨が降ったお陰で、火災被害は比較的少なかったといえる。
 復興事業は、中央各省・中国地方協議会などの協力を得ながら進められた。鳥取大震災があった9月10日は鳥取市の「防災の日」に指定されている。 (参考「百年の年輪」・「鳥取市七十年」・「城下町鳥取誕生400 年」)                               

鳥取大震災の浜坂・江津の被害

 死者1,210人の中には、気高郡は97人、岩美郡83人、八頭郡1人、東伯郡4人も含まれている。千代水6部落では、死者は安長1、南隈2、徳吉1の計4名。家屋の全壊は63(江津は2)に達する。

 浜坂地区における被害の状況は、鳥取市の被害数に含まれ内訳が不明であるが、「鳥取震災小誌」の視察震度分布図によると、千代水地域あたりが烈震域の一つとなっているので少なからずの影響があったと考えられる。(「千代水村史」 ・「鳥取震災小誌」)

視察震度分布図(鳥取大地震)
鳥取大震災の視察震度分布図

 「地震が来た日、日本海側からバリッバリッと凄い音が聞こえてきた。後から思うと地震の前触れだったのだろう」・「柳茶屋では砂津波で家が埋まった。地震以降、湧水がとまってしまった」・「浜坂すりばちが10mほど砂で埋もれて浅くなった。昔は湧水が音を立てるほどで、寒いときには朦朦と湯気が立ち上るように水霧が上がった。近所で火事があったとき、消防の水をすりばちから取水したほどである」・「浜坂村も2軒倒壊、倒壊しないまでも多くの家に被害があった」・「(鳥大乾燥地研横の)官舎は大きく傾いた」(浜坂聞き取り)
 砂丘の地下水脈にまで影響が及んでいたようだ。

4.戦時中のどん底の欠乏生活 

学徒の勤労作業強化

 昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争が始まると県民生活は戦時色一色に塗りつぶされていく。食料増産の掛声に応じて、労力不足の農村に女子青年団や中学生が集められ、各家庭でも一坪菜園をつくった。金属不足で家庭の火鉢や蚊帳のつり手まで、街の照明灯の鉄柱、寺院の梵鐘や仏具、学校の銅像まで集められた。(「百年の年輪」・「鳥取・因幡の昭和」)

 生徒たちは、昭和16年に学校報国隊が編成されると、年間30日以内の勤労作業に従事することになった。同18年、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定し、生徒は呉や舞鶴などの県内外の軍需工場及び開墾や農作業に動員されることになった。昭和20年(1945)3月には全生徒が食糧増産、軍需生産、防空防衛などに駆り出される総動員体制となる。

 県内外への学徒動員では、舞鶴の海軍工廠等に動員された鳥取第二工業(商業)の学校の生徒たちは、ゲートルを巻き水筒を携行して在学生に見送られて出発した。生活は軍隊式で、5時起床、点呼、軍人勅諭奉誦。7時出勤。午後5時退勤。8畳に10人くらいが詰め込まれ、食事は粟3分、大豆7分の盛飯と一菜だった。 このほか、女子商業(家政高女)の場合、モンペに白鉢巻の女生徒たちが長田神社に参拝し、広海軍工廠に向けて出発。

 因幡高等女学校の女生徒たちは千代河原、稲葉山で農作業の一方、学校内に誘致した陸軍省衣料工場で縫製に従事した。久松国民学校高等科は、駅、郵便局、鳥取金属工業、鳥取家具、興亜木工などに動員された。小学生は校庭を開墾して大豆や南瓜をつくり、代用燃料になる松根の掘り起こしに動員された。教室での学校教育はこの時期はなされない状態で、その姿を変えてしまった。 (「鳥取・因幡の昭和」)

決戦体制へ・食糧管理法制定

 戦局が行き詰まって決戦体制という言葉が使われ出した昭和19年(1944)から敗戦まで、県民の暮らしはどん底の欠乏状態に陥った。昭和17年(1942)2月、食糧管理法が制定されて、米麦のほかにじゃが芋や雑穀も2合3勺の配給量の中に雑ざり始めた。翌年には、配給米は五分づきとなって、家庭で一升ビンで米をつく光景がみられるようになった。
 
 19年(1944)には五分づき米と雑穀が半々となり、「牛や馬が食う雑草を人間が食えぬはずはない」と、雑草をいれた代用餅や雑穀を入れた代用パンが奨励されだした。20年(1945)になると食糧事情はさらに悪くなって、主食の配給量も2合1勺に減らされた。家庭に土地のないものは洗面器やどんぶりで野菜の水栽培を始めるようにと指導された。
 食糧だけではなく、全ての日用品、必需品の配給が減ったり、全くなくなってしまった。ゴム靴の配給がなくなった児童が雨が降れば裸足で登校したのはみじめであった。(「百年の年輪」)

 「農家一軒毎に供出の割当てがあり、自分たちが食べれずとも強制的に出すほかなかった。農家でも米を食べることができない時代だった。」・「食べるものが無く、早い者勝ちに海でホンダワラなどの海草を採って、製粉工場で粉にしてもらい、米くずに混ぜて食べた」・「ヨモギ、ごぼうの芽などを米くずに混ぜてヤキモンにした」  (浜坂聞き取り)    

5.敗戦

B29の爆撃
B29の爆撃

 昭和16年(1941)12月のハワイ真珠湾攻撃につづき、フィリピン、マレー、ビルマその他の占領と日本軍は破竹の進撃をを続けたが、翌17年(1942)6月のミッドウェー海戦の壊滅的打撃を境に、圧倒的物量に勝るアメリカを中心とする連合国軍に各地で敗退につぐ敗退、玉砕につぐ玉砕を重ねた。連合国軍は20年(1945)4月に沖縄に上陸し6月占領。

 一方、前年から米空軍B29の日本本土空爆は凄まじく、東京をはじめ主要都市のほとんどが焼野が原と化した。中学生や女学生まで動員し、勤労奉仕で支えた軍需産業の生産拠点や都市の非戦闘員をも無差別にB29は絨毯爆撃した。

原爆のきのこ雲
原爆のきのこ雲

 そして、2発の原子爆弾。かくて、昭和20年(1945)8月6日米軍により人類史上はじめての原子爆弾が広島に投下され、一瞬にして20数万人が犠牲になった。つづいて9日爆弾は長崎にも投下された。

 こうして日本は連合国に対しポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのである。時に昭和20年8月15日、開戦以来満4ケ年、昭和12年(1937)7月の支那事変勃発以来8年の長きにわたった戦いは終った。(「太平洋戦争」・「鳥取・因幡の昭和」・「郷土とっとり激動の100年」)

日本の無条件降伏
日本の無条件降伏

日本國民に告ぐ—8月5日に米軍が鳥取市上空で撒いたビラ

米軍が撒いたビラ(鳥取市)
米軍が撒いたビラ(鳥取市)

 終戦後数か月経ってから、米軍が撒いたビラが浜坂砂丘で発見されている。ビラに記された全文を以下に載せる。


 ビラの裏には、爆撃機の写真と、爆撃予定対象の都市名が載っており、その中に鳥取がある。

「日本國民に告ぐ。あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか。助けたければこのビラをよく読んで下さい。
数日の内に裏面の都市の内全部若くは若干の都市にある軍事施設を米空軍が爆撃します。
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使う兵器を米空軍は全部破壊します。けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりせん。御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません。ですから裏に書いてある都市から避難して下さい。
 
 アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です。アメリカの考えてゐる平和といふのはただ軍部の壓迫からあなた方を開放する事です。さうすればもっとよい新日本が出来上るんです。
 戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか。


 この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが、少なくともこの裏に書いてある都市の内必ず全部若しくは若干は爆撃します。豫め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい。」 

  何とも生々しい情景である。       

. 浜坂地区の戦前~戦中

1.岩美郡中ノ郷村が鳥取市に編入

 昭和8年(1933)4月1日、岩美郡中ノ郷村(浜坂・覚寺・円護寺)は鳥取市に編入された。
 米価暴落、繭価暴落などで農村不況も深刻であり、その村の財政的経営維持が困難となり、鳥取市の隣接村の合併が始まったのである。合併条件に小学校の増改築、道路の新設改修、覚寺の飲料水設備、現在村民に使用が認められている公有原野・畑・村役場庁舎などを区特有財産とすることなどが織り込まれていた。

 合併した昭和8年(1933)には、浜坂―覚寺線、浜坂71号線、その他の道路整備が着工となり、翌9年には円護寺95号線が着工されているが、いずれも合併の約束に基づくものであろう。また、合併条件の一つであった湯所・天徳寺横を円護寺に至る道路は、昭和12年(1937)から着工してトンネルを穿ち、14年(1939)に完成している。   (「鳥取市七十年」)

 一方で、江津が含まれる千代水村が鳥取市に編入されるのはまだ20年後の昭和28年(1953)のことである。明治22年(1889)の千代水村となって賀露から分かれてからもしばしば鳥取市との合併説もあったが、従来、当地は財政的にも自立容易の立場にあったため実現するに至らなかったということである。

2.浜坂の昭和初期の食事事情など   

須崎・米原両氏の青年時代の思い出―白い飯を見て貧血

 当時の浜坂村の食生活や農作業の様子について参考になる話が「千代水村誌 徳吉部落雑話」に載っている。

 「昭和56年(1981)4月12日 鳥取市浜坂・須崎利忠(明治42年生)及び米原政幸(明治40年生)の両氏に青年時代の思い出を語って貰った。(青年時代を20~30歳とすると、昭和の初め~昭和15年(1940)頃のことであろうか)
 
 浜坂部落のある者が、親戚祭りに子どもを連れて行ったところ、白い米の御飯を見て貧血を起こして倒れたという。あとで、それは「オカラ」の見間違いであったという。それぐらい米は貴重なものであったのである。普段の日、肉は年中食べないで魚は五日、六日に一回位しか食べず、それも「イワシ」かときには「サバ」位であって日常殆どイモとか野菜ばかりで、酒は丸山の荻野まで徳利を持って買いに行ったといい、村祭りの前日などは酒屋の主人が徳利を紐にぶらさげて棒でかついで売りに来ていたという」。 (「千代水村誌」)

 「戦時中は米も塩も魚も配給制だった。牛を飼う家だけは塩の配給が多かった」・「米も供出した。供出しなかったのはサツマイモやカボチャくらい。収穫後の砂地のサツマイモ畑に、町の人たちがくず芋を拾いに来ていたが、見て見ぬふりをしていた。浜坂では砂地でつくった芋があって助かった」・「ご飯は米に麦、大豆、芋などを混ぜたもの」・「米を食べる前にまず芋を食べさせられた」・「カボチャをいつも食べていたので、ほとんどの子どもの顔が黄色くなっていた」・「おやつは大豆やそら豆を煎ったもの、おいり。豆をガリガリやっていたので、今でも歯が丈夫だ。」  (浜坂聞き取り)

3.昭和初期の農作業

家族・隣人など総出

 当時の田植えは家族総出に隣人などを加えた大勢の人々により手で植え付けられた。稲刈りも同様に取り組んだ。刈った稲は木や竹で組まれた稲架(はさ)に掛けられ、乾燥したら稲こき、脱穀である。農作業は子どもも手伝った。

 田植えや田起こし、稲刈りが現在のように機械化されるようになったのは昭和30年(1955)代後半からである。それまではすきでで丹念に田起こしし、人手で苗を植え、除草し、手鎌で刈り取るという重労働であった。農家のお年寄に昔の田植えの話を伺うと、毎朝4時前に起きて5時前には田に入って植えたという。妊婦もお産前日まで田植えしたとか、とにかく6月は田植えで大忙しであったという。(「鳥取・因幡の昭和」)

農作業と牛
農作業と牛


 田植え前の田起こしや代かきになくてはならないのが牛や馬であった。牛馬に牽かせた犁(すき)で土中を切り進み土を耕すのである。牛を飼う農家では牛を家族の一員のように大事にしたということである。

 「どの家でも牛の世話は子どもの役目で、千代川入江の浅瀬に連れていくのが日課だった」・「親戚・近所でグループをつくるなど、農家毎で手伝いを集めて作業した。農協ができた後は、農協が(作業時期の異なる)他地区から手伝いを手配してくれた」・「トラクタが入ったのは昭和26年頃、○○さん家が最初。5~6軒で共同購入した」・「青果物は、鹿野街道にあった市営市場にリヤカーで持って行った。大阪の市場にも、大桶に漬けた大根の漬物、スイカなどをトラックで運んだ。道が悪くてスイカがよく割れた。木炭自動車が蒲生峠でウンウン唸っている隙によく荷台のものが盗られた。昭和20年代のことである。」
 (浜坂聞き取り)

千代川浅瀬で遊ぶ牛
千代川浅瀬で遊ぶ牛


 「明治41年のとき、徳吉村(30軒ほど)で牛を飼っているのは7軒位で
あった。いない家は2、3軒が組んで博労から借り、五月の田植期間中の借代
五十円を支払った」・「昭和29年(1954)、当時はほとんどの家に牛が
いた。」とある。
 一方で、「徳吉村で一番最初に脱穀発動機を購入したのは、○○気之助で
大正13年頃であったという。」ともある。「千代水村誌」)

稲コキから精米まで

 先の浜坂・須崎・米原両氏の思い出が続く。
「脱穀(稲コキ)は、夜か朝、家で行なったもので、昼は麦の畝づくりで忙しかったらしい。稲コキは「千刃(センバ)」(元禄時代に発明)であったが、昭和ニ、三年頃から足踏脱穀機(明治四十三年山口県の人発明)になり早くてとても喜んだという。(脱穀発動機は昭和七、八年頃から使われたが、大百姓の者の場合であって戦後まで足踏みが多かった。)
 
 足踏脱穀機は二人が片足宛で踏みながら稲コキするのであるが大変な「ホコリ」で顔も作業服もゴミまみれであった。一反の稲コキは十時間位かかったという。稲コキした籾(もみ)は、ときには「ブリコ」を使い、「トウミイ」で「ワラゴミ」を除き各自の家にある「タウス」(昭和五年頃まで)でひき、出てきたものを「トウミイ」の風で「スクモ」(モミガラ)を取り除く。

江津の水田(鳥取市江津)
江津の水田(鳥取市江津)

 次に、「万石」(マンゴク)の網で玄米と籾に仕分ける。籾は再び「タウス」に入れるのであるが、この一連の作業を三回繰り返し最後には玄米を俵(一俵は六十キロ)につめるのである。なんでも一反当たりの籾を「タウス」に三回位通して玄米にし、年貢米として俵に詰め込むまでには四日間位かかったという。

 昭和六、七年頃から「タウス」を止めて電気による共同精米場が村に一ケ所位できてそこで行うようになった。
 秋の終わりには年貢米を地主の家に納めなければならない。反当り収入六俵(昭和十ニ、三年頃から下肥のみでなく、化学肥料をも併用するようになったため反当七俵位に伸びた。)のうち、三俵半から四俵を大八車で地主の家の倉に納めており、地主の簡単な納品検査を受けていた。たまにはお酒をよばれたこともあったという。(註・浜坂部落の多くの家は、自分の耕作地の半分は自作地で、あとは小作地のため年貢納めはわりと少なかったという。)」 (「千代水村誌」・(浜坂聞き取り))       

稲刈り後のレンゲ草や菜の花

 明治初期からレンゲが非常に肥効が高く、しかも水田の裏作で栽培されるということで大変重宝がられた。余り土地が肥えていない場所でも、レンゲソウを植えて、田植え前に土を耕しながら、育ったレンゲソウの葉や茎をそのまま田んぼの中にすき込むと、葉や茎から窒素がしみ出して肥料代わりになるということである。これを緑肥という。

れんげ畑(鳥取市江津)
れんげ畑(鳥取市江津)

  「幸運の四つ葉」で知られるレンゲと同じマメ科のクローバーも同じ効果を持つ。また、春の鮮やかな黄色の菜の花も、花を楽しんだ後にすき込むことで窒素を放出し、緑肥効果を持つ。田植えが始まる前の春、覚寺、浜坂、江津一面の紫・白・黄のレンゲ、クローバ、菜の花の花畑は昭和30年(1955)代の記憶に残る原風景である。昔の子どもたちはレンゲやクローバの花や茎でかんむりを編んで、遊んだものである。

以前の田植え時期はレンゲソウの花の終わる頃で、大きく育ったイネの苗を、人の手で植えていた。しかし、機械化が進み、大きく育つ前のイネの苗を機械で植えるようになって田植え時期が早くなった。そして化学肥料が主流になり緑肥の必要性も減った。これがレンゲ畑などが壊滅的に減った理由ということである。

肥料のさまざま

 江戸時代までの肥料は、山野に自生する草木をそのまま田畑に敷き込む、焼いて草木灰にする、それに人糞尿、堆肥(わらや枯れ草、枯れ葉、藻類などの植物や、鶏ふんや牛ふんといった家畜のふんを堆積して発酵させたもの)、干鰯などの魚肥が主であった。明治20年頃(1887)代になって、大豆粕や油粕が使われ始め、特に油粕は魚肥などよりも割安でまたたく間に普及し利用された。明治末期(1890頃)になると生産性向上のために化学肥料(過燐酸石灰)の使用が始まる。

 しかし、先述の浜坂の話のように、昭和10年代までは下肥が中心であったようだ。 第二次大戦後、マッカーサー率いるGHQは日本のサラダに人糞の細菌と寄生虫が多数混入していたため、日本政府に人糞肥料の中止を命じた。日本政府は「寄生虫予防会」を各市町村に作り、人糞から化学肥料へと一大転換を進めたが、ただちに完全移行した生産者は多くなく、地域によっては昭和30年頃(1955)でも使われていたようだ。 (「日本の肥料の歴史」

 「肥取りは、旧千代川を漁舟(賀露の漁師の払い下げた舟)でのぼり、袋川の御乗場に舟をつないで置きツケ肥(特定の家と年間契約で年一人米一斗を支払う)を買うのである。米の『とぎ水』とか水に黄粉を入れる悪質な者があったという。 御乗場の上流は、市街地の者が飲み水やら酒造り用に袋川の水を利用していたから乗り入れは禁じられていたという。
 賀露、湖山、高住あたりの者もみな江津村のところを通っており、風がきついときは肥舟が揺れて肥桶がひっくりかえるので江津村の辺りには沢山の舟が長時間、避難していたという」。(「千代水村誌」)
 
 「人糞が中心だが、石灰窒素などの化学肥料も使った」・「人糞は、リヤカーに切りワラを入れた肥えダルを載せて町までもらいに行った。正月には餅や大根などを持ってお礼に行った」・「蚕のフンに牛が踏んだワラを混ぜて堆肥をつくった」・ 「浜坂新田では、川藻に糠(ぬか)を混ぜて肥料をつくった」・「鰯などの魚肥も使った」(浜坂聞き取り)と、農家と地域によっていろいろな工夫があったようである。

 また、江戸時代には肥料用の鰯を競って獲った記録があり、大正時代にも賀露の漁師が春イワシを大量に獲ったとき、肥料用に買ってきて、鍋で茹でて油抜きをし、天日で干し粉々にしたものを稲とか畑の肥やしにした、また、松葉ガニの甲羅を賀露から買ってきて、これを干して砕いたものを肥料にしたという記録もある。(「千代水村誌」)

ワラ葺屋根の家屋

 稲作農家では稲の収納、脱穀調整、収穫物の収納、藁(わら)作業から家畜の飼育まで、農作業の多くが住居の中で行われ、住居面積の3~4割、多いものは6割を占める広い土間が住居にとられていた。また、養蚕農家、タバコ農家では、土間ばかりでなく、蚕室、乾燥場など、生産空間が生活空間に優先していた。(「農村住居」)
 先の浜坂の例のように、脱穀や精米を家の中で行なったのである。

「人と牛、人と蚕が同居していた。」(浜坂聞き取り)
 第二次世界大戦後、機械化などの農業技術の進歩と社会の発展によって、台所改善や作業場の分離など農村の住環境を大きく変えていった。

 鳥取市も明治時代までは石屋根やわら葺屋根の民家がほとんでで、瓦屋根は士族かわずかな金持だけで、寺院もワラ屋根のものがあった。明治初年頃の鳥取で住居に関係する商売を調べたものによると、大工130、左官11、木びき31、屋根屋36であるのに、かわら師はただ1軒である。その頃草屋根をふくための職人が多く、逆にかわら屋根に関係する職人が少なかったのである。

 勿論、明治以前は常民にかわら屋根のそうぶきが禁じられていたのだから、明治初期に急に総かわらの家はできなかった。 総かわら屋根が見られるようになったのは昭和以降のことである。 (「郷土とっとり激動の100年」)

 「昭和35年(1960)頃までは、ほとんどの家がワラ葺屋根であった。瓦に変わり始めたのは所得倍増計画(昭和35年の10年間・池田内閣)のあたりから。材料のワラは自分たちの稲。職人を頼んで指導してもらいながら村人がその家に集って作業した。」(浜坂聞き取り)

 「徳吉で瓦屋根は○○登喜雄家のみであったが、次いで大正5年に○○家が新築して瓦屋根になったという。」・「昭和55年2月、徳吉村最後のワラ屋根となった○○亀太郎家が解体された。近年はワラの屋根替師が殆どいないため維持が困難になったことが解体の大きな原因である。」 (「千代水村誌」)

4.戦時中の思い出―松林で食塩をつくった中ノ郷国民学校

 太平洋戦争終戦前の昭和19年(1944)頃、勤労動員された中ノ郷国民学校の高学年の生徒は十六本松の松林にて、食塩をつくったという。

 「旧市内の各町内会から動員された大人20人くらいが十六本松の海水を汲み上げて砂浜にまく」。「その乾いた砂を松林に据えたかま所まで運ぶ」。「小学生は運んできた砂に水を加えて煮る。薪は付近から拾い集めてきた」。「食塩ができあがると、その食塩を各町内会に持ち帰り各戸に分配した」ということである。当時塩は貴重であった。引率した先生は、一日の塩づくりの塩づくりを終え、中ノ郷小学校に帰ったとき、終戦を知ったという。また、同時期、松の根を掘り、根を切り刻んだものを煮て油(松根油)を採り、飛行機などの燃料にしたという。(「浜坂の歴史・文化を聴く会」)

 「旧中ノ郷小学校時代、遠足を『行軍』といい、『行軍』で砂丘の追後スリバチまで歩き、浜のアサドリの葉を摘んできて、これを干してお茶にした」・「朝礼で(貧血で)バタバタと倒れる子が多かった」(浜坂聞き取り)

Ⅲ. 災害・戦後からの復興期

1.戦後インフレと県民の生活苦

 大戦の敗北直後の戦後混乱期(占領期)の困難な時代を経て、朝鮮戦争による特需景気を機に混乱から脱出する昭和25年(1950)頃から、高度成長期が始まる昭和29年(1954)頃までの期間を戦後復興期と呼ぶ。日本の「奇跡の復興」はドイツの「経済の奇跡」と並び、最も成功した例として世界的に有名である。 (「日本の戦後復興期」)

 終戦とともに政府は巨額な終戦処理費を支出したので、通貨は日を追って膨張していった。他方、戦後の混乱で工業生産はほとんど停止し、米は近年にない大凶作であった。戦時中に抑制されていた国民の購買意欲は堰を切ったように高まり、物価は急速に上昇し、昭和21年(1946)2月には終戦時の2倍に跳ね上がった。

 この月、金融緊急措置令が公布され、旧円は5百円を限度として新円に引き換え、残りは全て封鎖されてしまった。物資の配給はほとんどなく、ヤミ市で買えば数倍から十倍もし、かつ粗悪なものが多かった。主食の米も、塩などの調味料、マッチ・石鹸・靴などの日用品、木炭などの燃料の配給もあるか無しかの状態であった。

 昭和22年(1947)、ひもじいながらも食糧事情は少しよくなったが、物価は上昇する一方であった。
 労働争議は頻発し、生活苦と道徳の退廃で青少年の不良団が現れたり、自転車泥棒や集団強盗・密造酒・とばく・配給物資の横流しなどの犯罪が増えたのもこの頃である。また貯炭の枯渇で電力不足がひどくなり、家庭の停電や工場の操業短縮も増えた。 (「百年の年輪」)

2.奇跡の復興―朝鮮戦争特需

 しかし反面、鳥取市では学校給食が始まり、豊漁時には魚が配給より安く買えたり、盆踊りや芝居が農村で大盛況になるなど明るい話題も増え始めた。昭和23年(1948)になっても物価は相変わらず上昇し続けたが、食糧事情は好転を始め、生活が正常化し始めた。

昭和中期のの給食
昭和中期のの給食

 昭和24年(1949)当時の物価は1930年代(昭和5~14)に比べて220倍ほどになっていたというが、昭和23年12月GHQが、インフレを抑制と経済を自立させるために指示した「経済安定九原則」の経済政策により沈静化するに至った。
 そして、朝鮮戦争特需(昭和25~27年・1950~1952)によって経済は急回復し、戦後の「奇跡の復興」、高度経済成長につながっていくのである。 「百年の年輪」)

3.GHQによる農地改革

 昭和20年(1945)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏(しっこく)を打破する」ことを指示した。
 これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はGHQに拒否され、徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は昭和21年(1946)に成立した。戦前、ほとんどの農民は小作農として貧しかった。そのため、国内市場が狭く、日本は市場を求めてアジアへ侵略した。

 GHQは、農民の貧困が日本の対外侵略の重要な動機となったとして、農民をおさえつけていた地主・小作制度をなくし、安定した自作農経営を行う改革を指示した。また、これまで小作農は、田畑で働いている時、地主が通ると土下座をさせられることもあったというが、そういった封建的な支配関係からの解放も目的とした。 (参考「農地改革」・「戦後の日本経済の歩み」)

浜坂・江津の地主と小作農

 浜坂地区における地主と小作農の実態はどうであったろうか。

 「千代水村誌」によると、「(江津の)大松本には田圃が百町歩、大浜橋には五十町歩あったと聞いている。子方(地主に対する小作)は大松本には二十五戸位で大浜橋は十戸位、村中で自作の数戸を除くと住んでいる屋敷も殆ど両家の所有であったという。」・「当時は地主から一方的に来年は耕作するなと言われるのが一番恐ろしかった。」(同)
 一方、浜坂部落では「自分の耕作地の半分は自作地であとは小作地のため年貢納はわりと少なかった」(同)。
 
 「1~2町歩のみの小規模地主であり、地主と小作の関係は対等であった」(浜坂聞き取り)、「地主は存在せず、およそ自作地であった」(浜坂新田聞き取り)と、地主と小作の関係は江津ほどではなかったようである。

 実際の農地改革では、第二次農地改革法の下、地主の小作地を1町歩に抑え、それ以上の農地と未墾地なども政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には県と町村の農地委員会の承認が必要とされた。
 昭和22年(1947)3月31日から昭和23年12月2日までに買収された農地は、18,398町歩に上り、全小作地の87%に当った。こうして、小作地率は53%から11%に、小作と小・自作率も42%から11%に減った。

 ここに、明治の地租改正以来の地主制は崩れ、全国有数の小作県だった鳥取県の農民は、民主的な農村の担い手として、新しい歩みを踏み出すことになったのである。(「百年の年輪」)

各地区の農地委員会の設置

 この農地改革の実施にあたり、その執行機関として設けられた各地区の農地委員会は、各階層の真の意思を代表するために小作5、地主3、自作2の構成とした。昭和21年(1946)12月20日、県下一斉に普通選挙がなされ、選出された委員の互選によって会長が選任されている。鳥取市においては旧市地区、富桑地区、美保地区、中ノ郷地区、稲葉地区、賀露地区の6委員会が設置され、選出された委員によって改革の一歩を踏み出すこととなった。中ノ郷地区では、初代会長として浜坂の若林吉蔵氏が務めている。  (「鳥取市七十年」)

泣くに泣けない農地買収価格―大地主の凋落

 「農地の買収価格は、反当たり中程度で400円という実に安い価格である。どの位の値打ちかといえば、昭和23年(1948)の県立高校授業料月額は180円で、その翌年は300円であったことを考えると、地主側には泣くに泣けないものである。」(「千代水村誌」)   さらに、当時の急激なインフレと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。戦後日本の農村はほとんどが自作農となり、このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。(「農地改革」)

凋落する大地主
凋落する大地主

 一方の地主側は、「江津の松本家は高草郡屈指の旧家で、文政7年(1824)旧鳥取藩より中庄屋に任命され、同年中に大庄屋に昇格している。このとき池田藩から名字帯刀を許され、松本姓を貰っている。所有地は、浜坂・秋里・徳尾・徳吉・賀露・南隈・晩稲など4キロメートルくらいの円内に在り、遠く船岡(八頭郡)にもあった。

 その小作料は1千俵(1反当り3俵位)であったらしく、9つの倉庫に納めていたという。鳥取市の米商人が20俵とか30俵位を裏を流れる千代川を舟で、あるいは馬車で買って帰っていた」(「千代水村誌」)
 秋里村の木下家は御殿医や大庄屋、衆議院(明治41~45年)をつとめた名家である。「同家に残っている土地所有台帳(明治13年・1880)によると、秋里地内に128筆 50,658坪(約16町歩)、江津・安長・徳吉・徳尾・富安・東品冶・吉成・浜坂・湯山の10箇所に125筆58,134坪(約19町)で合わせて35町歩という壮大な土地を所有していた」(同)

 こういう地主が戦後の農地改革で全ての土地を失うことになった。小作農ばかりに光が当たりがちな農地改革であるが、地主側におけるその衝撃と辛酸はどれほどのものであったろうか。一方、浜坂については、「小規模地主ばかりで、地主にも小作にも生活に大きな変化はなかった」(浜坂聞き取り)という。

4.変容する戦後の農業と農村

 昭和28年(1953)の周辺町村との大合併を契機に、周辺を結ぶ経済圏の確立のために新しい農業政策が開始された。骨子は農協改革や多角化経営などの農業経営の合理化、機械化などによる土地改良事業などである。 (「鳥取市七十年」)

鳥取市農業協同組合の設立

 昭和22年(1947)12月に公布施行された農業協同組合法は、マッカーサー指令で農地解放され自作化した農民が、「経営規模の零細性のため、資本主義競争によって経済的弱者にならないよう、協同組織化で地位向上を図る」という趣旨で結成された。これを受けて、中ノ郷農協や千代水農協などが昭和23年(1948)に設立された。

 昭和33年度(1958)の鳥取市農業協同組合は22あり、東部に4(1つが中ノ郷農協=浜坂)、邑美に4、千代に3、高草に4、南湖に3、湖東に4(1つが千代水農協=江津)である。昭和36年(1961)4月の農協合併助成法公布によって1市町村1農協の指導がなされたことにより、昭和37年(1962)7月1日に鳥取市農協として一本化された。旧農協は支店として存続している。(「千代水村誌」・「鳥取市七十年」)

砂丘地の開発と兼業農家の急増

 農地改革が終わり、農協の発足後に進められたのは、食料増産を狙いとする土地改良事業であった。昭和28年(1953)に成立した海岸砂地振興臨時措置法で北条・湖山・浜坂の砂丘帯で畑地灌漑事業が進められ、水田地域に対しても耕地整理や灌排水工事が実施された。農業技術も、改良普及員組織を通した土壌改良、ビニール農法などが発展した。

 養蚕は戦時中の昭和16年(1941)以降急減し、代わって子豚・生乳・鶏卵などの畜産や二十世紀梨・煙草・菜種、蔬菜など、多角的な経営が進んできた。しかし、一方で米作の機械化や農薬などによる省力が兼業化を促した。

農振の機械化(鳥取市江津)
農振の機械化(鳥取市江津)

 農業での所得は戦前より増えてきたものの、機械・肥料などの資材のほか、食生活は洋風に、燃料は従来の自給的な薪炭から電気・ガスへ、子女教育も高等学校以上は当たり前となり、これらの支出は所得を上回って増加してきた。そのため、総農家数は中国一の減り方をしている上、兼業農家の割合は急増、昭和40年(1965)には全国平均の79.5%を上回る82.7%となっている。それに反し、専業農家は25年(1950)の49%から40年には17.3%に激減した。(「福部村史」・「百年の年輪」)

(参考)
 昭和21年(1946)、GHQは日本国憲法を成立させ翌年から施行した。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民,象徴天皇制,戦争放棄,男女同権などの理念を盛り込んだ。また、改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放,財閥解体,農地改革などが含まれる。農地改革で自作農が飛躍的に増えたことは農村部の保守化につながったともいわれる。(「日本の戦後改革」)

5.鳥取大火災(昭和27年)―震災後9年、再び鳥取市潰滅の日

 昭和27年(1952)4月17日、鳥取市に大火災が生じた。大火翌日の県会で採択された政府に対する「災害要望決議」は次のように記している。『四月十七日午後二時五十分、突如鳥取市永楽通りより出火、折柄風速十米の南風にあおられて、火はたちまち町の中に燃え広がり、目抜き商店街・温泉街はじめ、都心部は全く灰燼に帰し、更に周辺の官公衙街、住宅街の大部を消失して、翌朝三時ようやく火勢が衰えるに至った―。』 (「百年の年輪」)

鳥取大火で焼け野原
鳥取大火で焼け野原

 鳥取市消防本部および市消防団は「袋川を越えさせるな」と懸命の消火作業に当たった。市街地の中心部を流れる袋川は、かつては鳥取城の外堀の役目を果たし、袋川の内側には県庁や市役所などの官庁、さらに学校や住宅が密集していたためである。
 しかし、日中の最高気温が25.3℃に達し、湿度は28%、折からフェーン現象による最大瞬間風速15mという強い南風という条件下、益々勢いを増す火は袋川を飛び越え、旧城下町にあった住宅地や官庁にも燃え広がった。
 夜になっても火は衰えず、更に勢いを増した。焼失速度は1分間に家屋7戸強という凄まじいものだった。強風にあおられ、市街最北端・湯所にあった天徳寺も炎上。愛宕神社・丸山・覚寺峠の山林も焼き、摩尼寺付近まで飛び火した。

 出火から12時間が経過した翌4月18日の午前4時、鳥取市を焼き尽くして火はようやく鎮火した。鳥取市街最南端だった出火点から市街最北端の湯所や摩尼寺まで、延焼した距離は6キロメートルに及んだ。
 鳥取市街の3分の2は満目荒涼の焼け野原と化し、わずかに鉄筋の県立図書館と五臓円薬局が2つの”立体”として寒々とたたずんでいた。

鳥取大火で残った立体
鳥取大火で残った立体

 罹災者2万451人。死者3人。罹災家屋5,228戸。罹災面積160ヘクタール。被害総額は当時の金額で193億円。戦後国内最大級の大火災だった。当時の鳥市の人口は6万1千人、世帯数は1万3千であり、市民の半分近くが罹災したことになる。鳥取市は戦争中は空襲こそ受けなかったが、昭和18年(1943)の大震災から9年目、またしても迎えた”鳥取滅亡の日”であった。

 鳥取市はもう一度立ち直れるだろうか―。茫然として焼土に立ちつくす市民は、みなそう思った。だが、人間の生命力はたくましい。日をおくことなく、建設のツチ音が響きはじめた。以後、廃墟から立ち上がった鳥取市街は、今日みるように城下町としての面影を殆ど残さぬ程に、様相を一変したのである。  (「鳥取大火」)           

鳥取大火の浜坂・江津への被害

 浜坂地区への被害に関しては、「久松山山麓の枯葉・雑木に点火、山の各所に散火山火事を起すに至った。丸山方面へも飛火し、福部村の多鯰ヶ池方面、浜坂・覚寺方面へも飛火した。
 落葉・枯木・生松林の一部を焼いたが、家屋は大事に至らず鎮火した」(「鳥取大火資料(県立図書館編)」とある。ただし、「(旧)中ノ郷小学校罹災児童数3人、北中学校478人」などともあり、実被害の詳細は不明である。

 「多鯰ヶ池の山が燃えた」・「浜坂村の上空にも大きく真っ赤な火の玉が飛んで来た」・「提灯行列というものは見たことがないが、こういうものかと村の上空を見て思った」(浜坂聞き取り)、「炎が久松山方向へ襲いかかっていくのを荒神山の上で眺めた」(浜坂新田聞き取り)と、火の粉の流れが尋常なものではなかったことがうかがえる。 江津や浜坂新田などへの被害はどこにも報告されていない。

平和塔の建設

 鳥取大火を契機に天災地変から免れ平和を求める市民のよりどころとなっている相輪13段、高さ16.5mの白い塔である。市内70の寺が中心となった建立奉賛会が計画したもので、昭和34年(1959)に建立された。場所は標高136mの雁金山の山頂であり、羽柴秀吉の鳥取城攻めの古戦場(雁金山城)である。 (「ふるさと城北の宝」)

.復興期の浜坂・江津地区

1.罹災者住宅の建設―小松ケ丘・ひばりケ丘などの誕生

 昭和27年(1952)、鳥取大火による罹災者住宅が、丸山から十六本松間のあさひケ丘、小松ケ丘、ひばりケ丘などに県営住宅団地として設けられ、鳥取市内合計で1,884戸が建てられている。(「鳥取市七十年」)

鳥取大火の罹災者住宅(鳥取市浜坂)
鳥取大火の罹災者住宅

 また、「鳥取市大火災誌(県立図書館編)」には、「新しい住宅街として、旧郊外の田畑や練兵場跡に家が建ち並び町ができた。昭和29年(1954)10月30日現在の新町区と世帯数の記述の中に、浜坂(畑地跡)世帯数145、人口426人」とある。
 この頃が浜坂地区の畑地、砂丘地などが住宅に変わり、人口が膨張を始める最初の転換点となるのである。

 「罹災住宅は平屋の長屋式で、左右半分づつ一家族が住んだ。当初は水道はなく50メートル四方に一つ井戸が掘られた。井戸の周りでは近所の奥さんたちが野菜を洗ったり、タライと洗濯板で洗濯をした。後に井戸が水道に代わり、また後に一戸ずつに水道が引かれていった。風呂はなく、近所の風呂屋に洗面器などを抱えて通った。正月には町内中で餅つきを行った。一軒づつ家の前に木臼を運び、世話人と家族が杵を振るった。

 昭和30年(1955)代前半までは薪と真っ黒になった釜での炊飯や、七輪での調理であったが、徐々に電気炊飯器やプロパンガスによるガスコンロに切り替わっていった。

 また、同時期に白黒テレビも普及していった。昭和30年前半は近所に一軒テレビがあり、夜は子ども達がその家に集った。自家用車はスバル360が村に一台だけあった。小学校(城北)へは日の丸の路線バスを利用した。ひばりケ丘から城北まで子供料金で10円の時代だった。道はまだ舗装されておらず、赤土かじゃり道だったように思う。その道を新田村の牛が大きな糞を落としながら歩いていた。昭和40年(1965)頃、造成が始まっていた砂丘地の浜坂団地(3丁目)に新築して引っ越した。思い返せば既に日本は高度成長の真っ只中にあったようだ。」 (浜坂地区聞き取り)       

災害から復興中の鳥取市
災害から復興中の鳥取市

2.浜坂の畑地灌漑事業 

昭和29年、浜坂に初のスプリンクラー

 昭和28年(1953)成立の海岸砂地振興臨時措置法で県内の砂丘帯で畑地灌漑事業が進められ、浜坂でも食料増産を狙いとする土地改良事業が始まった。

 「打続く炎天の下、砂地に掘った野井戸から水を汲んで、熱気にむせ返る砂の上を肩にかつぎ行く―これは砂丘耕作にたずさわる誰もが経験する労苦の一つであり、この水汲み作業は砂丘地帯農家の"嫁殺し"とまでいわれていた。


 このような砂丘地を救うために、県の一大事業として取上げられたのが砂丘畑地灌漑事業である。すでに鳥取市では昭和28年(1953)4月、浜坂地区内砂丘畑地45ヘクタールに対して具体化に着手し、30年に完成、機械揚水と末端撒水にはスプリンクラー・システムと旱天下といへども人工の雨を降らせている。」 (「鳥取市七十年」)

嫁殺しの農作業(鳥取市湖山砂丘)
「嫁殺し」の農作業 (鳥取市湖山)

浜坂の砂地果菜栽培

 「浜坂地域は戦前桑畑であり、殆ど園芸的色彩は見られなかった。

しかし、戦後養蚕の不況に伴いその跡地の園芸的利用が目立ち、殊に近傍に設けられ鳥取大学砂丘試験地に刺激されて砂地である有利な条件を利用したブドウ栽培のほか、果菜栽培が進められた。夏期の西瓜は特産である。
 昭和31年(1956)畑地灌漑の施設も完備したので各地から視察者もあとを絶たない状況であった。当地の畑地灌漑施設は、砂地45ヘクタールを対象とし、スプリンクラー利用の灌水と、一部の傾斜地はホース灌水法が行われた。」    (「鳥取市七十年」)

鳥取大学試験地のスプリンクラー
鳥取大学試験地のスプリンクラー

浜坂の砂地ブドウ園―須崎・神埼両氏が草分け

 浜坂地区のブドウ栽培については、本県果樹栽培の新機軸として「鳥取市七十年」に詳しい。
 「鳥取県の葡萄栽培は、明治25年(1892)頃に東伯郡上瀧村の山桝友蔵が社村大谷原野を開墾しブドウ園を作ったのが始まりとされ、東伯郡の下北条、由良、八橋や鳥取市附近などに拡がってきた。大正2年(1913)頃、砂丘地に植付けたブドウの一部で大正2年頃棚上げが成功し、現在の甲州ブドウのはじめをなしたといわれている。
 大正10年頃(1921)には本格的に棚作り仕立が普及し、北条砂丘を中心として発達した。浜坂地区への本格導入は戦後の昭和23年(1948)である。

袋川沿いのぶどう畑(鳥取浜坂)
袋川沿いのぶどう畑(鳥取浜坂)

  浜坂部落の県道南側袋川沿い(現在の丸山・浜坂間の緑地公園)は、戦時中鳥取市指定の自給蔬菜の生産地であったが、戦後には市場過剰が予想された。そこで、従来この地区で唯一人のブドウ栽培者であった須崎某は将来のブドウ栽培の有利なことを提唱し、神埼某と協力して新たなブドウ園共同栽培の計画を立て、農家の協力によって耕地の整理交換分合を行い、6.5ヘクタールのブドウ園を実現した。

 そして中央に3米の農道を通し、整然と区割して本県果樹栽培に新機軸を開いた。その後、昭和27年(1952)には九州市場に出荷し、昭和31年(1956)には協同選果場を建設した。この共同園を中心に年々増反が行われており、砂丘ブドウに本市としての明るい将来性が持たれている」。 (「鳥取市七十年」)
 現在、当時の袋川沿いのブドウ畑は重箱緑地公園に生まれ変わっている。

浜坂土地改良区の浜坂灌水組合―荒神山頂上に貯水槽

 昭和28年(1953)の海岸砂地振興臨時措置法を受け、浜坂土地改良区が蔬菜栽培発展のために、鳥取市の補助金で荒神山頂上に貯水槽をつくった。これによって45ヘクタールの畑地を灌水、昭和30年、浜坂灌水組合を設立した。

荒神山遺跡(鳥取浜坂)
荒神山の頂上に水槽(鳥取浜坂)


 水源は袋川の下流で、浜坂4丁目のポンプ小屋水槽に水を引き込み、荒神山頂上の水槽タンクにディーゼルエンジンで汲み上げた。この結果、それまで不毛地として放置されてきた高位砂丘地が開かれ、浜坂西方の15ヘクタールが蔬菜地帯に発展した。

 しかし、度々の機械故障、夏季に多い海水の逆流などで夏野菜が全滅したこともある。必要なときに自由に使える水を求めて、新田村で井戸を掘ると(5m)、湧水が豊富であった。新田村の村人は相次いで畑に井戸を掘り、荒神山の水は使わなくなった。荒神山頂上の貯水槽の取り壊しは、住宅地に危険が及ぶと放置され、現在もそのままである。昭和45年(1970)頃、土地改良地区、灌水組合も解散したようである。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)

 一方、「浜坂では井戸を掘っても水が出ず、昭和55年くらいまで荒神山貯水槽の水に頼った」(浜坂聞き取り)とのこと。低地の浜坂新田に対し、「浜坂の砂地は海抜20メートル以上」と井戸水は難しかったのかもしれない。(「浜坂の歴史・文化を聴く会」)  

3.江津の新農地造成―旧千代川廃川敷の埋立て工事

 新千代川の開通(大正10年・1921~昭和6年・1931)によって鳥取市民はようやく洪水の恐怖から救われることになったが、その代償として徳吉、安長、秋里、江津、晩稲の合計78町歩が新千代川の水底に沈んだ。秋里は29町2反、江津は22町1反で最も大きく、殆どの家が1町歩減り、江津には耕地がゼロになった家が6戸生じた。「(ふるさと城北の宝」・「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
 
 千代川改修で耕地を失った江津部落民は、このままでは農民として生活が出来なくなるため、旧千代川を埋め立てて耕地を造成しなければいけないという認識は強く、当局に対し埋立の申請の陳情を開始し、昭和13年(1938)に一期工事着手、昭和17年(1942)に完成、続いて翌年には二期工事を完成した。(「千代水村誌」 )

 江津にとって最大の三期工事の浜坂弁才天以西の旧千代川廃川敷の埋立は、県当局の尽力により農林省直轄県代行事業として昭和23年(1948)度から事業が始まった。部落中50名が埋立組合を設立して工事を請負い、田土は浜坂砂丘(対岸の江津の羽當根氏所有の都築山など3ケ所)より運び、表土は地元事業として新千代川掘鑿の剰余土を客土整地した。この経費は約壱千万円を要した。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)

 「土砂は、浜坂の砂山であって、袋川に桟橋を架設し、トロッコ運搬、表土は旧畑とか千代川掘削時の土を20センチ位に散布したのである。水深は2メートルから4メートル位、事故もあった。埋立当時の状況を古沢清蔵氏は次のように記している。『組合員は進捗を念じ、いかなる風雨雪も又いかなる炎天の浜砂焼けるが如き日も意とせずただ工事の一日も早く成功と云う念に、工事に従事せざる農民のうちにも感慨無量の感がありました。

 元来本工事は江津の万代迄の食糧増産の基礎であり、これが完了の暁には河川改修後の心配は一時にどこへか吹き飛び新しき世界に生まれ出たるが如き感に打たれたのであります』」 (「千代水村誌」)

江津の埋立記念碑(鳥取市江津)
江津の埋立記念碑(鳥取市江津)

 昭和28年(1953)、15町歩の水田の造成が完了し、江津埋立記念碑が建てられた。

 浜坂小学校の川向こう西側の水田の中に、この記念碑は立っている。尚、千代水村をはじめ、大正・松保・湖山・賀露の各一部を含む、千代平野土地改良の大事業(主に水田の区画整理)竣工の千代水土地改良区竣工記念碑(昭和34年~昭和37年、昭和48年4月建立)、及び千代水農業協同組合之跡の石柱が商栄町の千代水小学校跡地(君司酒造株式会社敷地の東側)に建立されている。同敷地内には、千代水小学校之跡碑と千代水村の日清・日露戦争の戦死者の霊を祀った忠魂碑もある。

4.千代水村が鳥取市編入(昭和28年)

 千代水村は、昭和28年(1953)7月1日に神戸村、大和村、美穂村、大正村、東郷村、豊実村、明治村、吉岡村、 大郷村、末恒村、湖山村、松保村、面影村、倉田村ともに鳥取市に編入されている。「千代水村誌」に鳥取市へ合併のさいの引継書が詳細に載っている。   (「鳥取市七十年」)