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第2節 飛鳥・奈良~平安時代

Ⅰ.因幡と伯耆の国
 1.因幡の国庁と国府
 2.律令政治と公地公民・班田収受法
 3.班田農民の実情
 4.農民の疲弊と荘園の起こり
 5.高庭荘の成立と中央国司と地方の対立
 6.因幡への古代の交通路
   日本海側の山陰道
   中国山地越えの智頭往来
  「古代山陰道」遺構、青谷で発見

Ⅱ.浜坂地区の人々のくらし
 1.概観
 2.多鯰ヶ池周辺でのくらし
 3.水上交通路・物流の血脈―袋川と江津・浜坂
 4.因幡の国津・国府津の江津
 5.荘園「高庭荘」(湖山池~江津)
   墾田開発と地域農民
  「高庭荘」と三嶋社・大乗寺・弁天社
   江津神社
 6.「高庭荘」と江津の重要性

Ⅲ.奈良から平安の仏教文化と地方神社
 1.奈良時代の仏教
 2.密教と在来山岳信仰の結びつき
 3.地方神社への神階叙位と宇部神社
 4.花開く中ノ郷地区の仏教文化
   摩尼寺(覚寺)
   佛徳山圓護寺(円護寺)
   大覚寺・石安寺(覚寺)
   天徳寺(湯所)
   大応寺(浜坂)

Ⅳ.因伯に関係する歌人たち
 1.因幡守・大伴家持の歌
 2.伯耆守・山上憶良の歌
   貧窮問答歌の悲哀
   伯耆国(倉吉)の体験から生まれた貧窮問答歌
  「令和」の由来「梅花の歌」の序
 3.因幡守・在原行平の歌

Ⅰ.因幡と伯耆の国

稲葉山
稲葉山

 『日本書紀』によると、7世紀中頃、鳥取県の地域には大化の改新(645)で山陰道に属する国として因幡国と伯耆国が設置されている。『延喜式』によると、因幡国は巨濃、法美、邑美、高草、気多、八上、智頭の7郡からなり、統治機関を国府に置いている。都からの距離では近国とされ、生産量からみると上国となっている。この時代、各郡郷単位に条里制が施行され、これを基盤として班田収受法、公地公民を実施、律令政治が行われた。(「鳥取県の歴史散歩」) 律令政治とは、刑罰を決めた律と国の政治を行うきまりを定めた令に基づく政治で、701年の大宝律令で確立された。

1.因幡の国庁と国府

 一国の統治機関である国衙(こくが)は国庁に置かれ、国庁の所在地を国府とよばれている。因幡では現鳥取市国府町、伯耆は現倉吉市の国府(こう)という地名で伝わっている。当時は、「現在の鳥取市街地はまだ沼沢地で聚落も小さく、農業の発達に伴う大聚落は国府川に沿う宇部野平野にまず形成された。

 この地帯で奈良白鳳時代と思われる瓦や大伽藍の礎石、石造建設物などが発見され、因幡の国府と国分寺が置かれたことでもこの地が最もよく開けていたことが分かる。(中略)ここは鳥取平野のなかでも面影山、大路山などの孤立丘陵に囲まれた内陸地であり、かつ氾濫の危険の少ない安穏のところで、古代の地方中心地として適当な地点であった」と岡本兼佳はその著『鳥取県の地誌』で述べている。」(「鳥取県の歴史散歩」・「鳥取市七十年史」)。古代から千代川や袋川下流の氾濫リスクが認識されていたのだろう。

国府町の国庁跡
国府町の国庁跡
因幡のふるさと稲葉山
因幡のふるさと稲葉山

2.律令政治と公地公・班田収受法

 条里制は土地を109m四方の横(条)と縦(里)で碁盤の目のように地割して管理するもので、同時に道路や水路が作られた。因幡国の中心地であった鳥取平野(邑法平野)には古代の条里制の姿が遺されており、久松山山頂と大路山の山頂を結ぶ線を条里の基準線と定め、約109m四方の土地割が行われている。現在の県道323号(若桜街道)はその一部が当時の姿を伝えている。

 千代川西岸においては、旧千代水地区の南隈、晩稲、賀露、江津、秋里などに条里の跡が見られ、また、旧中ノ郷地区では円護寺流域に邑法平野とは異なる条理地区がみとめられるという。(「法美郡古代史」・「新修鳥取市史」)

「公地公民」は人民と土地は大和朝廷(天皇)のものであり、大和朝廷が直接支配する制度。「班田収受の法」とは人民に口分田を与えて米を生産させ、収穫の3%を祖の税として大和朝廷に納めさせるものである。そのために、6年毎に戸籍をつくった。
 この律令制度による土地改革の精神は、国の所有とした全国の土地を公平に人民に分配することで「万人に土地を平等に与える」ものである。この理想の下、農民の生活はどうであったろうか。

3.班田農民の実情

 「班田を与えられた班田農民が、班田だけでその生活を支えることは絶対に不可能だったといわねばならない。口分田の平均的収穫が、食を満たすことだけは可能だったらしいという見解(虎尾俊哉『班田収穫制の研究』)はその意味であろう。庸・調その他の重い負担を考えると、農民たちの生活は何によって支えられていたのであろうか。

 農民たちは園地や宅地を耕作し、また太政官の雑費にあてるために控除されていた公乗田や、貴族官人(地方では国郡司の職田)などの特権的田地を賃祖(小作料つまり地子は収穫の2割をとられた)する以外に、生活を維持する方法はなかったのである。これが、一般的な班田農民の姿であり、因・伯両国は奈良時代を通じて幾回とも飢饉に襲われ、奈良時代末期の延暦年間に至っては危機的な様相になるのである」。(「鳥取県史」)
 
 「『続日本記』をはじめとする「国史」には、大宝元年(701)から元慶6年(882)までの間に因・伯両国で27件の災害が記されており、蝗、疫病、暴雨、水害・山崩、干ばつ、天候不順、飢饉など平均7年に一回である。たまたまその時期に自然災害が集中したというのではなく、人災とも言える中央の災害復旧のあり方など、律令体制の行き詰まりと不可分の関係にあるように思われる」。 (「鳥取県史」)

4.農民の疲弊と荘園の起こり

 農民には、納税義務を負う以外に、布や特産物も納めること、地方の国府が必要とする工事に農民を60日間使ってよいことなどが決められ、また、一方的に「米もみ」を貸し与えられて,利子をとられるなども行われていた。更に男子には兵隊義務あり、都に上って皇居の警護や防人(九州警護)でそのまま帰らぬ人も多かったという。
 
  「ひな曇り碓日の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも」 (万葉集 防人の歌)

 こうした厳しさから口分田を捨てて逃げてしまう農民が増え、国は租税の収入を守るために、原野を新しく耕して作った田は、親・子・孫の3代まで使って良いという「三世一身の法」や、「耕した土地は永久にその人のものになる」という天平15年(743)の墾田永年私財法を定めた。これを機に、貴族や寺院神社が人々を雇って次々と原野の開墾を始めたことが荘園の起こりである。

逃げる農民
逃げる農民

5.「高庭荘」の成立と、中央国司と地方の対立

 これを背景に奈良の東大寺は、天平勝宝8年(756)に、寺の経済を支える荘園をつくるため、僧慶俊らを全国に派遣した。因幡でも、因幡守林連佐比物や高草郡司勝磐らの協力で、千代川と湖山池の間の地域に、広さ69町9反21歩の荘園「東大寺因幡国高庭庄」を設けた。しかし、荘園内の開発が進まず、延暦20年(801)に藤原縄主に、延暦22年(803)にも因幡守藤原藤嗣に田地を売却している(「東大寺東南院文書」)。 (「因幡・伯耆の町と街道」)

9世紀の平安時代になると各地で荘園が拡大し、10世紀後半から本格的に展開する藤原摂関政治のもとでは、苛政が各地で展開し、農民は厳しい税で苦しみ、地方を収奪する中央国司と在地官人の対立が激化した。中央から派遣された国司にとって任国はただ徴税・収奪の対象であり、苛酷な収奪で私腹を肥やし、巨富を蓄えるようになった。
また、多くは摂関家への献納によって昇進をはかろうとした。彼らは、中央においては中級の貴族に位置する。中央国司の苛政は因幡国でも同様だった。

 寛弘4年(1007)、中央役人橘行平が土着豪族の因幡千里を殺害した事件が発生した。これは、中央国守の地方民衆からの苛酷な税収奪が背景にある。中央国司の横暴を訴えた地方側へ中央側が逆襲し、百姓哀訴を指導した地元の因幡千里を殺害したのである。橘行平は罷免されたが、これを機に因幡氏は衰退と滅亡へ繋がっていく。 (参考「城下町鳥取誕生四百年」)

6.因幡への古代の交通路

日本海側の山陰道

 天武天皇時代(672~686年)、律令制度の整備によって各地に官道が敷かれた。中国地方の日本海側には山陰道が通じ、畿内から丹波国、丹後国、但馬国を経て因幡国が陸路で結ばれた。『延喜式』(905年)の「諸国駅伝馬」によれば、『因幡国 ― 駅馬 山埼。左尉。敷見。柏尾。各八疋』 とある。

 因幡国府への道は2説あり、蒲生峠を越えて因幡国に入り、蒲生川に沿って海側へ下り駟馳山峠・榎峠経由で国府へ至る説、蒲生川上流部へ入って十王峠経由で袋川上流部から国府方面へ下る説である。

 前者説ならば、「山埼」駅は巨濃郡の岩井温泉付近、「左尉」駅は塩見川沿いの細川地区と推定され、後者説ならば、「山埼」駅は袋川の上流部の雨滝付近、「左尉」駅は因幡国庁に近い三代寺付近と推定される。また、敷見は高草郡の湖山池湖畔、柏尾は気多郡とみられている。後者の経路は、江戸時代には法美往来となり、特に鳥取藩主の池田家の墓地や一宮である宇倍神社への参詣路として鳥取藩に整備された。鳥取城から国府、大王峠、蒲生峠へ至る道である。浜坂村を抜ける陸道(但馬往来)が登場するのはずっと後の江戸時代である。(参考「法美郡古代の交通路」・「鳥取県道31号線鳥取国富岩美線」))

中国山地越えの智頭往来

因幡国には国府から中国山地を越えて美作国へ出、播磨国(姫路)から山陽道を経て京へ至る交通路(智頭往来)もあった。日本海沿いの山陰道は尾根や峠の地形的難所、冬季の積雪などの障害があり、山陽側への道が多用されるようになったのであろう。承徳3年(1099)、因幡国司の平時範が播磨―美作を経て赴任した道でもある。「時範記」によると、美作国の現粟倉村から現志戸坂峠を越えて因幡国に入り、智頭郡下駅に到着とある。帰路も同じ経路を利用している。  

智頭往来は因幡国司・大伴家持が京へ帰り、後醍醐天皇が船上山から京へ帰った道である。秀吉の播磨からの鳥取城攻めや江戸期の参勤交代、明治や大正時代にも重用された。志戸坂峠を越える智頭往来に加え、江戸時代には戸倉峠を越える若桜往来が整備された。
 近世以降、日本海沿いの山陰道は但馬往来と伯耆街道(因幡往来)へ、中国山地越えの道筋は智頭街道に継承されている。(「鳥取県の地名」・「智頭往来」)

「古代山陰道」遺構、青谷で発見

古代山陰道とみられる大規模な道路遺構が鳥取市青谷町の丘陵地帯で見つかった。平成29年(2015)に同じような道路遺構が見つかった青谷横木遺跡の延長線上で発見。丘を掘削して平らにした「切り通し」などの痕跡が尾根沿いの約400mにわたって現存している。 (新日本海新聞報道)

Ⅱ.浜坂地区の人々のくらし

1.概観

 この奈良時代から平安時代にかけて、秋里は荘園「高庭荘」の開発が進み、三嶋社を背景に次第に集落を形成していく。そして、江津は因幡国の重要な舟運拠点として歴史書に登場する。

 浜坂においては、飛鳥・奈良・平安時代を語るものは、都築山及び荒神山の横穴式墳墓群のみである。副葬品の須恵器、鉄製品、玉類、金銅製品などから、造営時期は一時期ではなく、6世紀後半から7世紀頃に及んでいる。

この期間、都築山22穴余、荒神山7穴余に相当する集団が棲みついていたのかもしれないが、ともに周辺から生活遺物が見つかっていないことから、人々のくらしは既に消え、埋葬施設地のみとなっていた可能性も大きい。後続する平安時代の浜坂は、平安海進によって飛砂の吹きすさぶ不毛の地となり、飛砂の浜坂を離れた人々は、多鯰ヶ池周辺に集団移動したであろうことは前節で述べた通りである。

『新鳥取県史 考古2』によると、「鳥取平野では横穴墓はさほど多くなく、一ヶ所に数基が営まれる程度である。合計30基以上が構築された浜坂横穴墓群・荒神山横穴墓群はその中でも特異な存在といえる。千代川河口付近に位置し、眼下に流れる千代川とその周辺に広がる鳥取平野を視野に収めることができる。川とそれを利用した河川交通を意識したものと理解できる。
推定すれば、千代川河口付近を拠点として海上~河川の交通を担った勢力の墓城として営まれたのではないだろうか。」(「新鳥取県史」)

以上、この都築山古墳群などは浜坂に棲んだ人々というより、秋里・江津・賀露などの一勢力が造営したものと思えてならない。千代川対岸からこれらの古墳はよく見える位置にある。

2.多鯰ヶ池周辺でのくらし

 多鯰ヶ池周辺での生活は一切不明である。恐らく、初期の神社(大多羅大明神)は「明神ヶ鼻」(妙地ヶ鼻)にあり、人々はこの祠を中心に、明神ヶ鼻からゴルフ場下方の『開地谷』にかけて生活したのだろう。

 ただし、開地谷遺跡は5~6世紀頃の古墳時代のものとされ、それ以降の生活遺物は発見されていない。現在の地形から推測すると、農業は極めて難しく、池の豊かな漁業資源や日本海の漁を中心に、山の幸を加えながらの生活だったと推測される。また、大集落を構えられる地形でもなく、江戸時代初期の(現)浜坂村の戸数が60戸前後であることから、その規模の集落が幾つかあり、その一つは、現浜坂村に、また、他は福部や覚寺・円護寺へと分かれていったのだろう。

3.水上交通路・物流の血脈―袋川と江津・浜坂

 袋川は、平安時代後期には流域の郡名をとり法美川と呼ばれ、承徳3年(1099)任国因幡に下向した国司平時範は、国府から「法美川」(袋川)を船で下り、三嶋社・賀呂社(現賀露神社)に参拝したとある。(「時範記」)

 源流は、鳥取県と兵庫県の県境にある扇ノ山に発し、雨滝を経て国府町流域の水を集めて西流、大杙に達し、これより市街地に入り、吉方、湯所、丸山を経て、浜坂で千代川へ合流する。この袋川は、古代、中流域にあった因幡国府と日本海に面する千代川河口の賀露港を結ぶ水上交通路であった。

 戦国時代以降、下流は鳥取城の久松山南麓を流れ、湊川と呼ばれていたらしい(太閤記)。やはり賀露港と城下を結ぶ重要な水上交通路であり、秀吉は河口~袋川を封鎖することにより、鳥取城への兵糧攻めを行った。千代川と袋川の合流地点に位置した江津や浜坂、重箱の地理的重要性が理解できる

 江戸時代になると、鳥取城下は消費を主体とする経済都市であったから、藩内外からの物資は袋川を利用して城下に集められた。例えば、千代川上流からの材木類は筏に組んで流下されたのち、河口近くの合流点(浜坂・江津)から袋川を遡上、城下の材木町で陸揚げされた。川岸には諸所にいと(為登)とよばれる洗濯など町民の生活や陸揚げに利用された施設があり、「鳥府志」では27ケ所が記される。とくに材木町の為登は各地より船・筏が集まる舟運の一大拠点になっていたという。

 また、渇水時には、井戸が使えなくなるため当川が飲料水の貴重な供給源となった。このため、寛文3年(1663)や延宝6年(1678)には、出合橋より上流での馬洗い、水浴、洗濯、肥舟の出入りなどを厳禁とする五ケ条の袋川法度が発令されている。

 取大震災、鳥取大火災時には、袋川の水を朝早く汲んで、飲料水にしたり、生活用水につかった。(「ふるさと城北の宝」・「鳥取県の地名」)

 古代より物流の血脈であり、命も守る清流であった袋川。今ではその面影はないが、鳥取市民にとって千代川とともに母なる川である。

4.因幡の国津・国府津の江津

 当時は大きな入り江であった江津港は、母なる袋川と千代川の合流地点で、袋川を上流へ遡れば因幡国府へ通じる。また、千代川を遡れば智頭、八東などへ至り、下れば日本海に面する河口の賀露港に通じる。室町時代に賀路港に主役の座を渡すまで、まさに水運の絶好の地として賑わったのであろう。
(参考「新修鳥取市史」・「浜坂の歴史・文化を聴く会」)

「『延喜式』でみると、律令制時代、国ごとに指定された一つの港から都に向けて貢納物が水上運送されている。そのような国を代表する港を国津(くにつ)という。「延喜式」を見ると、北陸諸国には、越前国の敦賀港、加賀国の比楽湊、能登国の加嶋津など、国津すなわち国ごとの積出港の名称が記されている。

 因幡には国津は記されていないが、雑物の海上運送費が記されていて、国津の存在は確かである。『延喜式』(「主税上」)の諸国雑物運漕功費の条に、「因幡国 卅六束。但し、海路米一石運京費、稲十四束五把三分」と記されている。因幡の国津位置を示唆するのが『東大寺因幡国高庭荘坪付』であり、その中の「船津里」である。船津里」が江津であることは先に述べたとおりである。(第1節 Ⅱ.江津地名の登場はいつか)

濃美郷三段
北七条速見里  八  丈坊田  二段  船津里  廿ニ  桐夭田  一段
 
 この「船津里」が因幡の国津であり、すなわち江津なのであるさらに、貢納物は因幡の国津から敦賀港を経て京の都へ運ばれていたのであるが、その船は水手を合わせて3~6人で漕ぐ程度の五十石積みの船が使用されていたこと、また、山陰諸国の貢納物がこの因幡の国津に集められ、ここから京の都へ送り出されていたと推定されている。 (「因幡・伯耆の町と街道」)

 江津は因幡だけでなく山陰諸国の中心的港であったのである。これは、真に誇るべき歴史と言えよう。この時代、浜坂は歴史の表舞台には登場しない。

5.荘園「高庭荘」(湖山池~江津)

湖山池~江津の荘園復元図(鳥取市)
湖山池~江津の荘園復元図(鳥取市)

 756年、東大寺が設定した巨大な荘園「高庭荘(庄)」は、西は湖山池東岸の布施郷、東端は江津である。この江津が含まれる高庭荘の墾田開発はどんな労働力が用いられたのだろうか。
 それは、開発と耕作・維持は東大寺領に専属する労働力によってなされたものではなく、周辺班田農民に伝統的支配力を持つ当時の墾田長による雇傭・徴発により開発されたものと推測される。(「鳥取県史」)

 東大寺の荘園開発に関する記録としては以下のようなものがある。「荘園の主は貴族や大寺院であり、お金がない農民は大荘園に雇われて畑仕事をせざるを得ず、例えば、東大寺が越前国の桑原荘を開墾するとき、近隣の農民に呼びかけて『一町=稲100束』」の報酬で働かせていた。」
 因伯では、これ以降も皇室領や京都の大寺領の荘園が現在の福部、岩井、倉田、河原、東郷などに多数成立している。

「高庭荘」と三嶋社・大乗院・弁天社

 因幡誌に「浜坂村の中洲に鎮座する弁財天の社は三嶋の神の廟所なり」とある。廟所とは、祖先・先人の霊を祭っている建物のことで、祖先の位牌の安置所でもあり、重要な政策を議するところでもあったという。
 また、秋里にあった三嶋神社は、3町(327m)西に大乗院という神宮寺を持っていたと同誌に記されている。大乗院の場所は、江津の県立中央病院の駐車場の一角であり、附近一体は秋里遺跡地で出土遺物は10万点以上にのぼる。

 三嶋神社の「ミシマ神」は噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神(大地をつくる)・航海神として祀られたのが始りで、因幡では、当初、奈良時代に賀露に勧請され、同天平年間、賀露から秋里に移されている。昔、砂地で草木が生えない賀露が豊かな田畑になることを願い、また、港としての航海安全を祈って「ミシマ神」を祀ったとされる。(「賀露誌」)

 平安時代の承徳3年(1099)2月、国司として因幡国に赴いた平時範が惣社→宇部社→坂本社→三嶋社→賀呂社→服部社→美歎社の順に参拝し、運上米の航海安全を祈願している。江津神社はここでは登場していない。

 一方、弁天神は元々、インドの河水の神である。つまり、荘園「高庭荘」の開発を進めるため、三嶋神社を賀露から移し、その神宮寺の大乗院や廟所の弁天社を建てることによって、大地を鎮め、水を鎮め、人心を鎮めたのである。従って、弁天神社は早ければこの時代の創立と考えられる。当時、浜坂村は存在しなかった。現在、「浜坂弁天」と呼ばれるのは、後世に誕生した浜坂村が地理的に弁天社に近かったからである。

江津神社

 創立年代は不明であるが、かつては「武王大明神」と呼ばれ、寛文大図(江戸寛文年間1670年頃)中の江津村の「六王ノ社」がそれであろう。因幡民談記などでは、武甕槌命を主に祀る神社は全て六王と表現されている。
 御祭神の武甕槌命は雷神・剣神・武神とされ、御利益は、武道守護・国家鎮護・芸能・豊漁・航海安全・安産・病気平癒・厄除・交通安全・延命・長寿など様々だが、江津の歴史上の役割から、航海安全が主であったと考えられる。賀露神社も同神を祀っている。

 記録では寛文大図よりさかのぼることはできないが、奈良期以降に江津が因幡国の国津であったこと、また、平安期の「高庭庄(荘)」地域における港としての役割、近隣の神社の創立時期などを考えると、当時から舟運の安全祈願のための小社がこの地に在ったと考えるのは自然なことであろう。
 ただし、延喜式神名帳(927年)高草郡七座に含まれていないことから、存在したとしても零細なものだったろう。

 因幡には江津神社のように「武王大明神」と称する神社が10以上も存在するが、創立時期を推定できるものは少ない。その一つ、平時範が参拝した美歎神社は、他の参拝社とともに延喜式神名帳にも記載される官社で、その由緒に「貞観 十六年(874)、因幡国従五位下美歎神に従五位上を 授く」とある。
 また、岩美町恩志の恩志呂神社は、因幡誌に「武王大明神、延喜式神名帳に載る所恩志呂神社是也」とあり、双方とも平安期以前の創立である。

 他方、近隣の神社をみると、同じ千代川沿いの三嶋神社と賀露神社は奈良期の創立である。秋里の荒木神社(大明神)は『摩尼寺縁起書』(1229年)に摩尼寺(834~848年)とともに載ることから、平安期頃の創立である。

6.「高庭荘」と江津の重要性

「高庭庄」における江津には、墾田と港という二つの顔がある。「高庭庄の承和九年(842)損益帳によれば、定田五町一段のうち(中略)損田が五割以上にも及んでいる事実は、墾田が極めて不安定な耕地の集積したものであることを示している。損田の大半は旱湲損田(旱害,水害)であった」(「鳥取県史」) とあり、「下流で用水の受益の最後尾であり、千代川の影響をより直接的に受けた」江津の耕地状況が想像される

 一方、天慶3年(940)「因幡国高草庄券第二坪付」の文書中の高草郡濃美郷「船津里」が江津であろうことは先に述べたが、同書には、船津里は交通の要衝、舟運の重要な拠点であり、この墾田を所有することは大きな意味があるという主旨のことが書かれている。言い換えればこの墾田を所有することで因幡国国津の江津を所有できるということである。「高庭庄」における江津の重要性は、「不安定な耕地」としてではなく、港であったことが明らかである。

Ⅲ.奈良から平安の仏教文化と地方神社

1.奈良時代の仏教

 奈良時代仏教は律令制と深く結びつき、鎮護国家の考えの下、僧官ができたり国分寺などの国家寺院を建立し、仏教を「国をまとめる手段」に利用した。

東大寺の大仏
東大寺の大仏

国分寺は、天平13年(741)の「国分寺建立 詔(みことのり)」の勅令によって、国家の平和と繁栄を願って国ごとに建立された。その後平安時代になると、これらは寺院群政治に口を出すようになった。桓武天皇は彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。因幡の国府町にも、奈良時代に聖武天皇が建立した国分寺がある。 (「日本の仏教」・「因幡国分寺」)

2.密教と在来山岳信仰との結びつき

 奈良時代の仏教は,あくまで鎮護国家のための教義が尊重され,大衆を救うことが国の安泰,鎮護に繋がるとの理解は、一部貴族にあるだけで、民衆が自己の宗教として仏に祈ることはほとんど無かった。800年頃、最澄・空海は唐に渡り、様々な教義や教典等を持ち帰り、仏教を民衆救済のための宗教と位置づけ、そこに呪術的要素を加味して民衆の心をつかんだ。この密教では、仏の教えは言葉では言いあらわせないことが多く、修行を通じてはじめて知りうるものであるとした。 (「宗教の基礎知識」)

 平安密教の天台・真言宗は霊山を神聖視する在来山岳信仰とも結びつき、修験道と共に拡大し、後に浄土教と結び発展した。因幡の摩尼寺もその一つである。 (「鳥取県の歴史散歩」

3.地方神社への神階叙位と宇部神社

 9~10世紀、朝廷による地方神社の神階授与がなされた。一部の皇族や貴族と結びついた地方豪族による私領形成が進み、ともすれば国家支配体制の枠組みから離脱しようとするのを、地方土豪層の氏神を祭る神社に神階を授けることで、国家につなぎとめようとした。土豪層としては、国家に神階を授けられることで、神威を通じ配下の民衆支配を強化するという意味があった。 (「新修鳥取市史」

 宇部神社は嘉祥元年(848)、初めて従五位下という守(国の長官)クラスの位階を授けられ、元慶2年(878)には大納言級の正三位にまで進んでいる。 (「鳥取県の歴史散歩」)

宇部神社(鳥取市国府町)
宇部神社(鳥取市国府町)

4.花開く中ノ郷地区の仏教文化

摩尼寺(覚寺)

摩尼山から日本海
摩尼山から日本海
摩尼寺
摩尼寺

 摩尼寺の起源は明確でないが、源は山岳を霊界として考える素朴な信仰であり、霊魂の宿る山として信じられていた。9世紀、平安仏教の天台・真言宗が霊山を神聖視する在来山岳信仰とも結びつき、山岳を行場とする修験道とともに因伯にも拡大し、摩尼山は伯耆の大山、美徳山(三徳山)とともにその代表である。 「鳥取県の歴史散歩」)

 平安中期頃から浄土教思想が盛んになると、この三山の信仰にも変化がおこり、摩尼山は極楽浄土をあこがれる浄土教的な信仰の山、美徳山と大山は自力苦行行者が心身を鍛錬して成仏を願う天台浄土教の信仰の山となっていった。室町時代には京都の五山禅僧の間にも知られていたという。 (「鳥取県史」)

 創建は平安初期の承和年間(834~848年)に慈覚大師円仁(平安時代の高僧、入唐八家)が開いたのが始まりと伝えられている。
 大山寺と共に天台宗の拠点として大きな影響力を持ち、鳥取城や天神山から見ると北東にあたるため鬼門鎮守の寺院として鳥取藩歴代領主からも庇護を受けた。天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻めで焼き討ちにあい多くの堂宇が焼失した。江戸時代、池田光政・光仲によって摩尼山付近にあった境内を現在地に移して再興している。

 天台宗の摩訶止観の「摩」、女人禁制が多い中、慈覚大師が早くから女人の参詣登山を許したことで「女=尼」から摩尼寺となっている(「摩尼寺」鳥取市)。 鳥取市内に多くの派生寺院が存在する。

伯耆大山
伯耆大山
三徳山投入堂
三徳山投入堂

佛徳山圓護寺(円護寺)

 円護寺の寺伝によれば天長7年(830)、摩尼寺と同じ慈覚大師円仁の開山である。因幡誌によると、村名はこの寺名に由来するという。円郷寺とも円江寺とも呼ばれた。後に摩尼寺の支院となり、相次ぐ兵乱によって堂、僧坊が焼失したが、池田藩政時に現在地に再興している。平安密教の天台宗であり、本尊は行基作と云われる十一面観世音菩薩と大日如来である。 (「円護寺寺伝(看板)」・「転法輪」・「鳥取県の地名」)

大覚寺・石安寺(覚寺)

 覚寺の進藤家の石碑文によると、覚寺には「大覚寺」という寺があったという。本尊が薬師如来であることから天台・真言の平安密教寺と察せられる。秀吉の鳥取城攻めの兵火に遭ったとある。砂丘ゴルフ場の山の南側(覚寺側)に跡地があるらしい。

 同碑文は「石安寺」という寺もあったと伝える。江戸時代、進藤家先祖がその廃寺跡から残存仏を掘り出し、「五智庵」を創建して安置したとされる。五智とは五智如来を示し、大日如来を中尊とする五体の如来の総称であり、平安密教に由来する。進藤家は覚寺で明治期まで350年栄えた豪農であり、秀吉の鳥取攻めで秀吉に味方したと因幡誌にも載る。覚寺の村名は大覚寺に由来すると考えられるが、「角寺」とも呼ばれた。

天徳寺(湯所

 天文8年(1539)の現在地への開創で曹洞宗に属するが、前身は天台宗摩尼寺の一坊で岩美郡湯山にあったとされる。天台宗多年山長福寺(多鯰山長福寺)といったが、現在地に移転して曹洞宗万年山天徳寺と改号した。(「転法輪」・「鳥府志図録」)

大応寺(浜坂)

 浜坂代々山の南にあるのが曹洞宗『大応寺』である。

 「伝記によると、大同元年(806)僧延鎮の開山にして円城寺と号し、一時16を数える堂塔があった。後に覚寺村の摩尼寺に属し、秀吉の天正8~9年(1580~81)鳥取城攻めの兵火で堂塔は灰燼と化した」とあり(「転法輪」)、他方、大応寺の『大應寺観音の由来』では、大同元年(806)に村でお堂を建立したが、その後文禄元年(1592)高麗水という洪水が起き、観音堂も本堂も流出し行方不明になった」ともあり、諸説あるようだ。

 上記伝承は、平安初期の開山と伝えるが、平安期の浜坂は飛砂によって人跡が絶える「空白の時代」を迎えること、また、仏教寺院の歴史を考えると大きな疑問がある。
(注)寺の起源は、元々は天台宗の天徳寺(寺伝によると室町時代末期に成立)、または天台宗摩尼寺(834~848年頃の創建)に関係があるようである。天台宗は、唐に学んだ最澄が開いたもの。大同元年(806)とは、最澄が日本で天台宗を開いた年である。大応寺の806年伝承は、ここに結びつけているものと推測する。

 元禄年中、北国より巡錫した僧の石丈が代々山山麓に堂塔を建立し、当地中から発見した観世音菩薩を移し観音堂と称して元禄16年(1703)6月廿日、中興開山となる。
 これが現大応寺の始まりとされる(大応寺現住職談)。宝永5年(1708)に火災に遭い、後、享保8年(1723)、鹿野村の霊亀山大応寺を浜坂に移したが、明治初年頃に廃寺、明治13年(1889)に天徳寺の檀家を分かって浜坂大応寺を再興したとある。  (「転法輪」・「大應寺観音の由来」)

 浜坂代々山への変遷の詳細については、付録「神社・仏閣・史跡などの歴史散歩」を参照願いたい。

Ⅳ.因伯に関係する歌人たち

1.因幡守・大伴家持(758年~)の歌

 鳥取市(旧岩美郡)国府町集落の広場に、高さ3メートルほどの自然石の碑が建てられており、表面に 「天平宝字三年春正月一日於因幡 国庁賜饗国郡司等之宴歌一首 『 新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰』右一首守大伴宿弥家持作之」とある。

 大伴家持が因幡守に任ぜられたのが天平宝字2年(758)。その翌年正月1日(元旦)、雪の降る国庁に国衙の役人・郡司などを集めて新春の祝賀会が催されたが、その席上、家持が詠んだのが石碑に刻まれたこの歌である。

 「 新しき 年の始めの初春の 今日ふる雪のいやしけ吉事 」

 大伴家持42才の新年であった。家持は万葉集4516首の最後にこの祝歌を載せ、民族不滅の宝典と称される万葉集20巻を集大成した。家持は因幡での在任3年半ののち帰京している。(「鳥取県の歴史散歩」・「大伴家持碑 鳥取市」)

大伴家持の歌碑
大伴家持の歌碑
大伴家持の歌碑(鳥取市国府町)
大伴家持の歌碑(鳥取市国府町)

2.伯耆守・山上憶良(716年~)の歌

 万葉集に78首が撰ばれ、大伴家持や柿本人麻呂らと共に奈良時代の代表歌人である。716年から約5年間伯耆守(国庁が置かれた古代倉吉が政治・経済・文化の中心地であった)に任官している。
 重税に喘ぐ農民などの社会的優しさや弱者を観察した歌を多数詠んでいる。『万葉集』第五巻に収められた代表歌の『貧窮問答歌』は、長歌と反歌一首で二人の男がその貧しさを語り合う姿をうたったもので、律令体制下の農民の貧窮ぶりや苛酷な税の取り立ての様子を写実的に描き、伯耆守~筑前守(726~)時代の体験と云われている。(「鳥取県の歴史」・「山上憶良」)

貧窮問答歌の悲哀

 「風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 

 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る天地(あめつち)は 広しといへど 我(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 我(あ)がためは照りや給はぬ 人皆か 我(あ)のみや然(しか)る 

 わくらばに 人とはあるを 人並みに 我(あれ)もなれるを 綿もなき布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけ下がれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居(い)て憂へ吟(さまよ)ひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いいかし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居(お)るに いとのきて 短き物を 端(はし)切ると 言へるがごとく しもと取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道

 世の中を憂(う)しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 」 (反歌)

貧窮問答歌の世界
貧窮問答歌の世界

 (現代語訳)

 風にまじって雨が降り、雨にまじって雪の降る寒くてたまらない夜は、焼き塩ちびちびやりながら酒粕溶いた湯をすすり、何度も咳き込み洟すすり、たいして生えてもいない髭かき撫でながら俺ほどの男はいないとうそぶくが、とにかく寒くて麻の夜具引きかぶっては袖なしの着物をあるだけ重ねても、それでもまだまだ寒い夜だ。

 私よりも貧乏な人の父や母たちは飢えて凍えているだろう。妻や子供は食べ物をせがんで泣いているだろう。こんな場合にどのようにおまえは世渡りしているか。
 世界は広いが私には狭くなってしまったか、明るいはずの日も月も私を照らしはしないのか、だれもがみんなこうなのか、それとも私だけなのか。

 たまたま人に生まれ体も五体整うが、綿も入れない袖なしの粗末な衣の海藻のように裂けて垂れ下がるぼろ布だけを肩にかけ、竪穴式の小屋に住み地面にわらを解き敷いて、上座の方に父と母、下座に妻や子供たち。
 身を寄せ愚痴をこぼし合いかまどに湯気も吹き立たず蒸し器に蜘蛛が巣をかけて、米蒸すことも忘れ果て、細々と鳴くぬえ鳥のように呻いているときに、とりわけ短いものの端さらに短く切り詰めるように鞭を手に持った里長の声は寝床までわめき散らしにやって来る。

 これほどまでにやるせないものか世間の道理とは。

 この世の中をつらいとも厭わしいとも思うけど 鳥ではないので飛び立って逃げ出すこともできないよ。 (「万葉集 現代語訳 巻五雑歌」)

伯耆国(倉吉)の体験から生まれた貧窮問答歌

 奈良時代から平安時代の集落跡として、伯耆国(鳥取県倉吉市)では平ル林(なるばやし)遺跡、他がある。平ル林遺跡では、丘陵の頂部に大型の掘立柱建物が一棟、縁沿いに小型の竪穴住居が数棟づつのまとまりで建てられていた。奈良時代には竪穴住居はつくられなくなり、その後は掘立柱建物が中心になるようだ。(「鳥取県の歴史」)
 貧窮問答歌にうたわれた「雪の降る」・「竪穴式住居」での農民の暮らしは、伯耆の村の様子だったのだろうか。

「令和」の由来「梅花の歌」の序

 2019年4月1日、日本に令和時代が始まった。新元号「令和」の出典として注目を浴びた万葉集。現存する日本最古の歌集であり、短歌や長歌を中心に4千5百首以上の歌が収められている。

 令和の典拠となったのは「梅花の歌」の序である。「梅花の歌」とは、九州の大宰府の長官として赴任していた大伴旅人(おおとものたびと)邸で、天平2年(730)1月13日に開かれた宴で詠まれた32首を指す。これには序文がつけられている。

「天平二年の正月の十三日に、師老(そちろう)の宅へあつまりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く。

蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙(あした)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕の岫(くき)に霜結び、鶏はうすものに封(と)ぢられて林に迷ふ。庭には舞う新蝶(しんてふ) あり、空には帰る故雁(こがん)あり。

 ここに、天の蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかずき)を飛ばす。―以下略。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ
初春の令月にして、気淑く風和ぐ

(現代語訳)折しも、初春の佳き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。そればかりか、明け方の峰には雲が往き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞(やまほら)には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら林に飛び交っている。庭には春生まれた蝶がひらひらと舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。―   (「新元号『令和』」の由来」)
 新元号の令和の元となったのは、「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。」の部分である。「令」は“良い”の意味であり、「和」の“やわらぐ”と合わせて、とてもやわらかな印象の組み合わせである。

 この序文の作者は、宴の主催者である大伴旅人説と、参加者の一人の山上憶良説がある。後に因幡国の国守となる大伴家持も憶良の影響を強く受けていると云われる。大伴家持は大伴旅人の子である。
 ここに千年以上の時を経て、「令和」と鳥取の関係が歴史の夕闇から浮かび上がってくる。

3.因幡守・在原行平(855年~)の歌

在原行平の歌碑(鳥取市国府町)
在原行平の歌碑(鳥取市国府町)

 平安朝の斉衡2年(855)正月、38歳の在原行平は稲葉国の国司を任じられた。『小倉百人一首』に採られた以下の和歌は、このときの任国への下向に際しての送別会に集まった人々の前で詠んだ挨拶の歌である。赴任2年余りで、斉衡4年(857)兵部大輔として京官に復し帰京する。

  「 立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む 」  百人一首』第16番

(現代語訳)
 これでお別れです。あなたと別れて任国の因幡国へ行きますが、でも因幡の国の山に生える松のように「ここでずっと待っているよ」とあなたが言うならばすぐにでも帰って来ましょう。この歌碑は大伴家持歌碑の近く、因幡万葉歴史館西側にある。  (「鳥取市七十年」・「在原行平」)