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Ⅳ.徳川時代の因幡と浜坂(その2)
1.江戸時代の文化・教育
藩校「尚徳館」
鳥取藩の学問と芸術の黄金時代
百姓町民の教育―読み書きできない農民たち
浜坂・江津地区の寺子屋・小学校
2.藩主の舟遊び・水灯法事―風光明媚の浜坂弁天嶋・江津
浜坂の茶屋・浜坂観音下の乗船場―陸路、水路の要衝地
3.浜坂・江津の漁業
海漁の終焉
藩主の船遊びと川漁の終焉
5.浜坂・江津の庄屋たち
江津の大庄屋―苗字帯刀御免
覚寺の取立庄屋・宗旨庄屋―苗字御免
庄屋からの嘆願例―江津へ医師を
庄屋からの嘆願例―浜坂焼の再興を
打ちこわしにもあった庄屋
江津松本家の古民家
6.浜坂村の産業
鐘や仏像、壁土
浜坂温泉
浜坂焼(ウツロ焼)
7.浜坂台場跡(旧砲台)
砲台の歴史と一里松(塚)
浜坂新田の農兵屯所
8.因幡・但馬往来(街道)
「砂漠渺茫として往々道を取失ふ」
浜街道と「犬塚」伝承の浜坂犬橋
9.浜坂柳茶屋―木蔭と美しい湧水の休憩地
Ⅳ.徳川時代の因幡と浜坂(その2)
1.江戸時代の文化・教育 藩校「尚徳館」
江戸時代には封建社会の士・農・工・商の身分制が確立しており、特に武士と庶民は厳格に区別され、大きく2つの階層に区分されていた。
教育についても武家の教育と庶民の教育が、それぞれ独自の形態をとって成立していた。武家は支配者また指導者にふさわしい文武の教養を積むべきで、そのために設けられた教育機関が「藩校」である。他方庶民は日常生活に必要な教養を求め、「読み」・「書き」を主とする簡易な教育機関として「寺子屋」が成立している。(「幕末期の教育」) 藩校の尚徳館は宝暦6年(1756)、5代藩主重寛のときに創設され、「徳をとうとぶ(尚ぶ)」の意で藩政を担う人材を文武両系統で育成した。
12代藩主慶徳が文久3年(1863)に大拡張し、このときに「尚徳館碑」を立てている。現在、かつて尚徳館が建っていた現鳥取県立図書館敷地内の武家門の右側に同碑は設置されている。 (「鳥取県の歴史散歩」)
尚徳館は、当初は家中の士列以上の子弟のみを対象にしていたが、嘉永5年(1852)から士分までを対象にし、翌嘉永6年からは徒士以下も対象にした。内容も漢学中心から国学や兵学、武道も取り入れられるようになった。明治維新の改革に伴い、明治3年(1870)に閉校した。 (「鳥取県の歴史」)
鳥取藩の学問と芸術の黄金時代
江戸時代は学問、芸術で飛躍的に発展した。室町時代のように貴族や僧侶など一握りの特権階級のみならず広く庶民の間に花開いた時代である。鳥取藩では学芸全般が絶頂の黄金時代を示したのは6代治道(天明3年・1783)から7代斉邦(寛政10年・1798)に渡る世である。この時期には、漢学、蘭学、歌学、絵画、史誌などの諸分野で著名な俊才が雲の如く輩出した。
例えば、蘭学の稲村三伯の「ハルマ和解」は我が国洋学辞書編さんの先駆、安部恭庵の「因幡誌」は小泉友賢の「因幡民談記」とともに地誌の双璧と言われる名著。岡島正義の「鳥府志」「因府年表」などは郷土史研究に欠くことのできない貴重な文献である。鳥取県立図書館の門前に、香川景樹(明和5・1768~天保14・1843))の石碑がある。鳥取が生んだ江戸時代の日本屈指の歌人で、学者、教育者としても極めて優れた人物である。主に京都で活躍した。
万葉の古調にも伝統歌学にも拘泥しない斬新な景樹の歌は、保守派からは激しい非難を浴びたが、しだいに門弟や支持者を増やし、桂園派と呼ばれ、晩年には門弟1千を数えるまでに成長する。そして明治時代に至るまで歌壇に大きな影響を与え続けることになる。
(「城下町鳥取誕生四百年」・「香川景樹千人万首」)
石碑には次の歌が刻まれている。
「敷島の歌のあらす田荒れにけりあらすきかへせ歌の荒樔田」
(通釈)放置された田が荒れるように、歌道はすっかり荒廃してしまった。新たに鋤き返すように、歌道を耕し直せ。
文化2年(1805)の作。日本書紀に見える古地名(荒樔田)を借りて、歌道の荒廃をうたったものである。
百姓町民の教育―読み書きできない農民たち
延宝9年(1681)夏、弓ヶ浜半島の新屋村(境港市)に幕府官船が漂着。漂流物を拾得した村民が取り調べられる事件が発生した。地元村民は「口上の覚」を提出したが、「百姓共皆々集り談合仕り候へども書付る者御座なく」と文字を解する者がいなくて困ったと記されている。漸く近隣3村の少々文字を書ける者3人で何とかまとめたというのが当時の農村の実態であった。
武士の子弟の教育機関は尚徳館。ただし、初等教育は家庭で済ませてきた子弟が学ぶ場所であり、稀な例を除き、武士含め庶民は家庭で子どもの教育に当っていた。元禄(1687~)以降、一般農村でも読・書・算の力が必要となり、寺子屋が文化年間(1804~1818)から普及し、天保年間(1830~1844)で急増した。
「日本教育資料」に収録された因伯両国の寺子屋数は因幡が70、伯耆が242と、鳥取県の寺子屋の記録は殆ど伯耆のものである。(「鳥取県の歴史」) 鉄、木材、綿など産業及び交通運輸が発達していた伯耆地方では読・書・算能力を早くから求められていたのだろう。教師は全国的には町民が多かったが、因幡では(食い詰めた)士族が多かったという。
1860年以降明治まで、寺子屋に加えて私塾も開かれた。明治5年(1872)の学制令までに寺子屋は殆どが廃業したが、実態は寺子屋が小学校へ名前を変えただけで教育内容は変わってなかったという。 (「新修鳥取市史」)
浜坂・江津地区の寺子屋・小学校
「日本教育史資料」には浜坂村や覚寺などの寺子屋に関する記載は見当たらない。邑美郡1,560戸で寺子屋数18と記録がある。
「千代水村誌」によると、千代水小学校は明治6年(1873)に安長の東円寺の本堂を学校として生徒数65人(男子64,女子1)で出発し、住職によると畳敷きの2部屋が寺子屋で後に小学校になったとのことである。校区は徳吉(37戸)、安長(75戸)、秋里(65戸)、江津(60戸)、岩吉(18戸)、吉山(16戸)の6部落、計271戸である。
「安長の東円寺、嘉永五年(1852)改築しているが、寺子屋で習字を教わっている子供が、天井に紙をまるめて投げ上げたという黒い斑点が沢山残っている。」(「同誌」)
尚、江津には、明治10年(1877)代に夜学の千代水小学校の分校があり、弟や妹を背負って子守を兼ねながら20人くらいが通学したという。 また、「山根徳治家(江津636番地)の屋敷に千代水小学校(ワラ屋根、3間×6間位)があって、これは夜学であったという。当時は小学校は4年生で卒業しており、昼間に通学できるものは千代水小学校に通ったらしく、江津の殆どの者は夜学に通ったらしい。」とある。(「同誌」)
「醇風尋常小学校沿革誌」の記録として、明治5年(1872)に湯所町の天徳寺境内に愛日小学校を開校。後に、「喧嘩屋敷宮脇某ノ居宅」に移り、二階造りの校舎を新築して湯所町と湯所村に加え、覚寺、浜坂、円護寺の児童を入学させた」とある。明治20年(1887)、醇風小学校と合併して久松尋常小学校に改称している。 (「新修鳥取市史」)
(旧)中ノ郷小学校はそれから30年後の明治34年(1901)の開校であるから、浜坂地区の子どもたちは遠く湯所まで通ったのであろうか。浜坂村における寺子屋の可能性は大応寺くらいであろうが、現大応寺住職に訊ねても不明とのことであった。浜坂の有識者たちへの聞き取りでも不明とのことであった。
ただ、「元禄11年(1698)以来大庄屋、村庄屋などが貢米収納の布達等も領民に浸透させる仕組みになっていたので、庄屋、年寄、村役人などは必然的に読み書き算盤を要求され、しかも藩はこれに対して何らの教育施設も考えなかったので、自然僧侶や神官などの手によって自主的な庶民の教育の場がつくられるに至ったものと思われる」。 (「鳥取市七十年」)
このように、浜坂でも寺子屋は無くとも庄屋などのもとで読み書きを教わったことも考えられる。また、覚寺には尼寺が多く、寺子屋の代わりになったのではないかとの指摘もある。(覚寺聞き取り)。
2.藩主の舟遊び・水灯法事―風光明媚の浜坂弁財天島・江津
鳥取城攻めをした羽柴秀吉軍の船大将吉川平助がこの地に陣所を構え、重箱前を往く船を監視した。重箱や江津付近は、古代から近世まで国府庁や鳥取城など鳥取の中心地に向かう水陸の重要地点なのである。
かつて千代川と旧袋川の合流地の川中にあった島。寛文大図(寛文年間 1670頃)では西側に砂が堆積し陸続きになっているが、「鳥府志」は、寛文13年(1673)の洪水で再び中島になったと推定している。弁才天社があり、風光明媚な地であったため、夏には遊船が絶えず、因幡の人は好んで詩歌に詠んだという。
「千代川と袋川の出合の処にあり。昔より中嶋なりけるが、中比西側に砂漠滞積して陸地になり居たると『大図』に見えたり。(中略)この嶋の四方へは旧松枝を垂て水面を蔭覆して、風景奇勝なれば、夏日には此廻りには、終日遊船絶ず。国人の詩歌多くあるとも略之。」 (「鳥府志」)。
また、「清流漫々として、一眸直ちに加露の河口を望むべく、風景絶佳なり」と、明治41年の「皇太子奉迎誌」にある。
浜坂村と袋川対岸の江津村間の川中では、藩主の水灯法事がしばしば行われた。元禄6年(1693)鳥取藩主池田光仲の法事の際には、一千余のロウソクが水面を照らす様子を拝覧しようと多くの群集が集まった。 (「因府年表」)
「在方諸事控」によれば、寛政11年(1799)に池田治道、嘉永4年(1851)に池田慶栄の水灯法事が行われ、寛政時には、邑美郡と岩井郡から船を引く綱引人夫及び船の松明持人夫が150人余り浜坂村に集められている。
また、天明6年(1786)及び寛政11年(1799)の各7月、江津河原で挙火(花火)が催され、藩主も見物している。 (「因府年表)」
「約半世紀後の明治32年(1899)、旧藩主池田家の新しい当主仲博が7月に初のお国入りをした。15日に入市し、19日に西へ向かって古海を出発しているが、市民は心から喜んでいろいろな行事を催して歓迎した。なかの一日は千代川下流に舟遊びしているが、これが当時の最大のもてなしであった。」(「鳥取市七十年」) それほど、浜坂や江津、弁天嶋の辺りは美しかったのだろう。
浜坂の茶屋・浜坂観音下の乗船場―陸路、水路の要衝地
天保6年(1835)、藩主の休憩所である御茶屋が浜坂村内に設置され(「在方諸事控」)、周辺での野掛、岩戸や浦富方面への遠馬時に使用された。(「鳥取県の地名」)天保六年(1835)ニ月一ニ日一 邑美郡浜坂村塩蔵之辺え、御茶屋御新建被仰出候事。委細御普請部屋え有之事。
(浜坂村塩蔵の周辺に茶屋を新設することになった。詳細については普請係へ伝えられるとのこと)
嘉永五年(1852)五月廿六日
一 明後廿八日六半時之御供揃ニて、浜坂観音下より御乗船ニて、同所御茶屋え被為入、御帰懸湯所御乗場迄被遊御乗船候ニ付、下宿并御召場之儀、左之通可申付旨、御用人并御目付より長役え申越し候ニ付、御召場并御道筋掃除等之儀、例之通御郡え申遺、右為御用諸作廻役浦木幸助在出申渡す。
一 丸山え 惣下宿 一 浜坂新田え 下宿 一 御召場 浜坂観音下え 同御茶屋下
一 右御出ニ付、御船綱引人夫三拾九人、浜坂村え差出し置候様可申付旨、御船奉行住山与右衛門より長役え申越し候ニ付、其段邑美郡え申遺す。
(明後18日7時、お供と共に浜坂観音下で乗船するにあたり、浜坂御茶屋で休憩し、帰りは湯所の乗り場まで船遊びするので、下記の下宿(したやど)とお立ち寄り所を申し付け(中略)、お立ち寄り所及びその道筋の掃除をいつもの通りに郡奉行へ申し遺す(中略) 本件につき、船を綱で引く人夫39人を浜坂村へ差し出すよう御船奉行より長役へ伝え、邑美郡へ申し遺す) (「在方諸事控」(鳥取県史))
また、嘉永7年(1854)7月9日付の同控に、「邑美郡浜坂村の御茶屋下、十六本松辺りでご家中の水練稽古を行う」とある。千代川利用の場合や賀露方面へは浜坂観音下の船着場で上船し、岩戸や浦富方面へは浜坂村を抜ける浜街道(但馬街道)を用いと、浜坂は交通及び休憩の要所となっており、天保6年以降、浜坂御茶屋が季節によっては毎週のように藩記録に登場する。しかし、都度の街道の清掃やら川さらい、船引き人夫の手当など、その負担は大きかったろう。
(参考)鳥取藩の参勤交代路は中国山地を越える智頭往来を利用した。鳥取を3月中旬に出発し、1日およそ9里(約36km)、21日間の旅を続けて4月上旬に江戸に到着。1年間江戸に滞在し、翌年の春4月に江戸を出て5月中旬に鳥取に帰城する。
そして、鳥取に1年間滞在して、また参勤の旅を続ける。妻子は人質として江戸においておくことになっていた。
参勤交代の一行が通るときは、道中の宿場町の人たちは大変であった。智頭宿の町の様子が人の話として伝えられている。「参勤交代のときには、前もって畳や障子・壁などを張り替えて大掃除した。当日は、門に幕を張り、提灯を吊るした。道は大掃除し、家族の者や牛などは家の裏に移り、路上には砂を敷き。箒目を正しくした。お通りになる日は自分の軒下に筵を敷いて座り頭を下げた。近くの村から来た人は道端に土下座した。ときどき役人が見回りに来て、頭が高いと頭を押さえたり、また棒で叩いたりした。それにそむくようなことを3回行なえば、御目付屋敷の牢屋に入れられた。
一行は240人~250人で、御挟箱・お羽熊・鎗・弓・鉄砲などを練って実に壮観だったという。」 (「因幡・伯耆の町と街道」) 参勤交代とまではいかないまでも、浜坂の村人たちも同じような気持だったのではないだろうか。
3.浜坂・江津の漁業 海漁の終焉
浜坂神社社伝の「往事北海ニ面セリ」・「漁民ヲ守護」・「南面ハ漁村亡ビテ農村トナリシ後ノ事」により、当時は日本海漁が行われており、人々が南面の浜坂に農業を求めて進出を始めてからもしばらくは続いたことが分かる。
しかし、後に大多数の人々とともに浜坂に移った大多羅大明神は漁業神から農業神に変わり、漁業は完全に「亡びた」のである。寛文大図(1670年頃)に浜坂村及び大明神が描かれていることから、その時期は1500年代末から1600年代中頃までと推定できる。
その後、浜坂村の海漁が歴史記録に登場するのは100年後の安永9年(1780)である。同年、「浜坂村から田肥とする鰯網漁の願いが出され、許可された」([在方諸事控])とある。しかし、「決して猟(漁)を行なうものではなく、鳥取に肥えをとりにいくように田肥とするものです」という上申内容から、浜坂村は、明らかに漁村ではなく農村であったことが分かる。
18世紀後半のこの頃、農業用肥料目的の鰯漁が盛んになり、「地方の農村でも干鰯の需要が増大し、専業的な漁業をおこなわない海岸の村々では、盛んに地引網を用いた鰯漁が行われ(中略)鰯網の新規申請の記事が『在方諸事控』などに多数見出されるようになる。(「新修鳥取市誌」)
『鳥取藩史』にも「明和7年(1770)、天明2年(1782)の如きは殊に大漁なり」とあり、鳥取の海岸も鰯網漁に沸いたことを伝えている。
乍恐奉願上覚当村伊兵衛と申者為田肥鰯網之義、先達で奉願上候得共、御聞届不被遣段奉畏上候。乍恐此度奉願上候義ハ、百姓分之者鰯寄候節、見付候て、田肥ニ網引、鳥取えこへを取りニ罷出候同様ニ、田肥支度奉存候。決て猟師仕候ニてハ無御座候。農業元立仕候村中申合、同心之上を以、網壱側奉願上候。何卒御慈悲之上を以、御聞届被為遺候ハ、難有仕合奉存上候。以上。
浜坂村願主 伊兵衛 年寄 弥一郎 同 善八 庄屋 次兵衛安永九年子三月日(中略)右、三ケ村鰯網願格別之御評議を以、此度願之通被仰付。(「在方諸事控」)
「網屋(あじや)」屋号を持つ米原家には以前は蔵の中に船があった」・「明治初期まで柳茶屋に網小屋を持っていた」・「昭和初期まで、砂丘旧砲台の東方、湾入した海岸に数本の松とともに番小屋が建っていた。」(浜坂聞き取り)
また、「中ノ郷中学校の研究」の「千代川河口から福部村の「ひとつ山」辺りまでが漁場で、左右の小高い所の魚群の見張役の合図で、人々は砂丘をぬけて海岸から船を漕ぎ出し、鰯網を行っていた」などは、この時期のことであろう。しかし、この鰯の豊漁時期は長く続かず、「当国の大産物」といわれた鰯は、18世紀末から19世紀にかけて不漁が続き、「其後、暫くは大漁もなく寛政の中頃(1790年代)より漁景乏しく海岸漁村これがために生気を失ひ、賀露の如きは皆一旦乞食の躰に成れり」という状況になった(「因府年表」)という。
その後も豊漁年もあったが、概ね漁獲量は振るわず、鳥取藩は文政12年(1829)に「農業おろそかニ相成る」という理由で鰯網漁の新規申請を受理しない触れを出し(農業振興を促し)たという。(「鳥取藩史」) 以上、浜坂の生業としての海漁は、1600年代中頃までには「亡ビ」、田肥目的の鰯網漁も1700年代末で終わるのである。
江津村も海漁をし、浜坂海岸に江津村の縄張りの『江津の浜』があった」という記述が「千代水村誌」にある。鰯を田肥とした記録も同誌にあることから、江津も田肥目的の漁を行ったのであろう。
藩主の船遊びと川漁の終焉
他方、川漁はどうであったろうか。
「江戸時代の鳥取城下周辺では、千代川とその支流の水産資源は豊かで、湖山池や多鯰ヶ池などの大小の湖沼も含めた漁業水産物は城下で消費される副食物の少なからぬ部分を占めた。内水面漁業を行う村に対しては川役という税目で米納または運上銀などが課せられていた。村へ与えられる漁業権のようなものである。」 (「新修鳥取市史」)
しかし、天保3年(1832)時点の課税村の一覧表には、安長、秋里、江津、湖山などが載るが浜坂村はない。「川役は藩政時代初期からの課税とされている」(同史)ため、江戸時代初期から税対象規模の川漁は浜坂では行われていないと考えられる。多鯰ヶ池などの湖沼漁も川役の対象であり同様である。また、川役だけではなく、江戸時代を通じて浜坂の川漁に関する記述は一切見当たらない。
「因幡民談記」の「当国郡郷土産名物の事」中で、邑美郡(浜坂)のみ、「漁」と表現されていないことに注目願いたい。
高草郡 「川筋の村々に江津秋里安長古海菖蒲服部上下味野倭文等あり。皆、鮭鱒鮎等を瀬張簗にて漁す」
八上郡 「川筋の村落にて鮭。鱒。鮎。ウグヒ。鰻の漁獲あり。鮎漁獲殊に多し」
八東郡 「川筋村々にて鮭、鱒、鮎、ウグヒ。漁獲盛なり」
邑美郡 「川筋に鮭。鱒。同出合にボラ。イナ。ウグヒ・ハゼ。又、浜坂の坂鳥。多鯰ヶ池の鮒。又鴨」
この邑美郡記述のように、浜坂村の前は河口に近く海水と真水が入り混じる絶好の漁場であったはず。明治時代にも浜坂弁財天付近はマス・サケ・ボラ・コイが多く、「重箱」も古くからコイ、フナの太公望の好処として知られていたという。対岸の江津や秋里は「鮭鱒鮎等の瀬張簗賀にて漁す」にもかかわらず何故だったのだろう。
考えられることは二つである。
一つは、川役が課せられる川漁が実際に行われていなかった。一つは、川漁はあっても川役を免除されていた。後者については、江津村や南隈村の 「藩主の船遊などの人夫出役を命ぜられていたため、一時期川役運上を免ぜられていたが、宝永3年(1706)、人夫役を停止して、以前のとおり川役を課された。人夫を出した場合は、御船手より褒美銀を与えられることとなった」(「在方御定」)に、藩主の船遊が最も多かった浜坂村が載っていないことで否定されよう。
他方、「享保13年(1728)、江津荒神山の二か所(両岸)の波戸に魚取禁止の制札が立てられた」(「在方諸事控」)とある。
「定 此波戸において魚つり候事、并網干小石等ニても、取候儀堅令停止者也。
右、高草郡江津村荒神山両所之波戸へ高札弐枚立候。 享保十三年申九月日 申九月四日」
享保13年及びその前後年の藩記録には、千代川一帯でここ以外のどこにも禁漁札は立てられていない。後年の寛延3年(1750)の「藩主の献上品の鮭の不漁で、千代川川筋の一部で一般人の漁を禁じた」(「在方諸事控」)は不漁、さらに後年の安永元年(1772)、「田島鮭場での一般の魚殺生が禁じられた」も不漁である。「湖山池や東郷池で網漁禁止などが見られる」(「在方諸法度」)は周辺の村々の漁場をめぐるトラブルが原因である。荒神山下という特定地での魚取禁止制札の文面からは、不漁や漁場の争いは読み取れない。魚取り,網干し,小石(を投げる)など一切禁止という内容は、漁業禁止というより、ここに人を近づけたくない理由があったとしか考えられない。
それは、後述の浜坂新田村の「伴九郎兵衛と密貿易」から人目を遠ざける目的、袋川を経由して城下町につながる河口の治安維持、藩主の船遊のための美観や安全保持などの3つがその理由に考えられる。
最初の伴九郎兵衛の「密貿易」は1600年代前半から始まっていることから時期的にあわない。次の治安面では、承応2年(1653)の「賀露港に番所を置き、入港する他国船乗組員の吟味と出入りする物資を監視」(「加路川定(御船手法度)、明暦3年(1657)の「出港者の吟味や異国船監視」(「同」)、貞享5年(1688)の「番所前での魚釣や無用の者が船をつけることなどを禁止」(「同」)、安永5年(1707)の「他国よりの米入津禁止、女出船の禁止、夜5時以降の船往来停止など13条を規定」(「同」)があり、この延長にあるとも考えられる。
しかし、享保13年(1728)の荒神山波戸の制札には、「船」という表現がない。つまり、船の往来を制限した内容ではない。従って、残るのは、藩主の船遊対策の可能性である。荒神山南面には、藩主が下船して休憩する茶屋があったという。
浜坂は、藩主の遠馬や舟遊びの御茶屋休憩・御乗船場、水燈法事、花火、家中の水練や鉄砲・大砲訓練の御見分など、藩主の立ち寄りが江津付近より遙かに頻繁であったため、この享保13年のずっと前から実質的に漁活動ができなかったかのではないだろうか。恐らく、江津村の川漁もこの享保13年頃より衰退していくのだろう。
この禁漁がいつまで続いたのかは不明である。「昭和初期、漁を生業とする家が何軒かあり、魚を湯所(の市場)まで担いでいったり、賀露に売っていた。後に漁業権を賀露に戻した」(浜坂新田聞き取り)と聞く。
4.浜坂・江津村の石高や軒数など
安政5年(1858)の『邑美郡村々高物成小物成表』によると、浜坂村の生産高は517.276石。このうち物成(年貢)が282.139で税率は54.5%である。同表36村の平均生産高を計算すると458.204石。従って、この頃の浜坂村は平均を上回る中堅村に成長していることが分かる。
同表における覚寺と円護寺の生産高はそれぞれ642.328、254.417である。尚、山野・河・海などの利用に関する年貢を小物成といい、浜坂村には山役3.100、藪役2.52が賦課されている。 (「新修鳥取市史」)
安政5年(1858)の記録では、家数75、生高517石余、物成282石余、山役米三石余、藪役銀二匁(邑美郡下札帳太田垣家文書)。後の明治12年(1879)には、家数101、男273、女233、牛48、船24(共武政表)とある。(「鳥取県の地名」)
関連して、明和7年(1770)当時の浜坂の氏子数は57(浜坂神社記録)とあり、氏子数をほぼ家数とみなすならば、57軒(1770年)→75軒(1858年)→101軒(1879年)という伸びである。57軒から75軒へは恐らく天明の大飢饉(1783)後の浜坂新田の開村によるものだろう。「開村当時の浜坂新田村は十数戸」であったという。(浜坂新田聞き取り)
そして、そこから明治にかけ、稲作の安定的な成長に伴って分家などが増えたのではないだろうか。
江津村の藩政期の拝領高は403石余。寛保2年(1742)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると生高498石余、本免四ツ六分、川役銀二五匁、藪運上銀五匁を課されている。天保14年(1843)の村々人数増言書上帳(加藤家文書)では男184、女165。安政5年(1858)の村々生高取調帳では生高513石余。 (「鳥取県の地名」) 江津の生高は浜坂と殆ど同規模で、36村の平均を上回っている。村人口比では浜坂より生産性が高いようである。
5.浜坂・江津の庄屋たち
鳥取藩「在方諸事控」の記録によれば、邑美郡の大庄屋は吉成、吉方、国安、叶、古市村などに集中している。江津が属した高草郡では秋里、江津、嶋、高、畑崎村などから大庄屋が出ている。文政7年(1824)9月には同記録に江津村の大庄屋として松本儀右衛門が登場し、中庄屋から転役とされている。文久元年(1861)には、松本善右衛門が中庄屋と記録されている。近隣村では、秋里の大庄屋、覚寺の千石庄屋や取立庄屋、円護寺の中庄屋や取立庄屋などが記録されている。 (「新修鳥取市史」・「在方諸事控」)
浜坂村から村庄屋以上が出ていないのは、大規模地主がいなかったことが第一の理由であろう。庄屋たちは、村や郡の年貢納税に重い責任を負っていた(未納者の肩代わり)からである。庄屋は村内の選挙や協議によって決められることもあったが多くの場合は村の旧家が世襲したようである。米の生高において浜坂の1/2の円護寺村から中庄屋などが出ていることは、覚寺や円護寺に比べて浜坂村の歴史の浅さを裏付けているように思う。
庄屋の仕事は多岐にわたる。村人に年貢を割り振って年貢を徴収する。年貢が不足すれば責を問われる。村内の出入りや村人一人ひとりの戸籍や所有する土地・牛馬の数の管理、役所からの法令・命令を村人に伝えて守らせる、災害があればその被災報告を行い、変死人があればその詳細を報告し、藩主が村近く寄るならばその準備や要員集めに奔走する、村内に揉め事があれば間に入って調停し、村の要望を代表して藩に上申するなど大変な役目であったようだ。
大庄屋となれば、郡など十数か村の範囲を管轄し、責任は一層重くなった。 (「庄屋さんのお仕事」徳島県立文書館)
以下に文政年間(1818~1830)の例を取り上げる。
江津の大庄屋―苗字帯刀御免
「文政七年(1824)九月一三日
一 高草郡中庄屋 江津村 宜 右 衛 門右大江左吉代り、下構大庄屋役被仰付。依之苗字帯刀御免、御夫持御支配並之通被遣、苗字松本と相改候事。
(大庄屋を申し付け、名字帯刀と相応の扶持、名字を松本と改めることを許す) (「在方諸事控」)
尚、宜右衛門は同年5月に中庄屋になったばかりである。
覚寺の取立庄屋・宗旨庄屋―苗字御免
「文政八年(1825)七月四日
邑美郡取立庄屋覚寺村 利兵衛其方儀、此度御郡中地方運上締方兼相勤候様被仰付、依之勤中苗字御免、御給米中庄屋並被遺候事。但し、取立庄屋勤向是迄之通相心得可申事。苗字竹内。」 (「在方諸事控」)
(この度、地方運上締方兼務を申し付ける。苗字を許し、御給米は中庄屋並みとする。但し、取立庄屋はこれまで通りに勤めるように。苗字は竹内) 尚、利兵衛は文政10年、宗旨庄屋に昇進している。
庄屋からの嘆願例―江津へ医師を
下記は、江津村の組頭・年寄・庄屋が高草郡(江津村)の大庄屋松本宜右衛門と藩役人へ上申したものであり、無医師村につき、村の総意として医師を迎えたいという願いである。江津村の村庄屋から江津村の大庄屋への上申経路である。
「一 当村医師無御座、差懸リ病人御座候節甚難儀仕候ニ付、此度池田能登様御内御医師村岡恵仲様、当亥年ヨリ来ル卯年迄五ケ年之間、御聞届之上住居致貫申度段奉願上候。尤御聞届被仰付候上ハ、当村久左衛門内ニ諸込申度奉存候。願之通被仰付候ハ、難有仕合奉存候。此段村仲同心之上奉願上候。以上文政十年(1827)亥九月
江津村組頭年行司 重郎右衛門 年寄 弥三右衛門 庄屋 新右衛門松本宜右衛門殿 小松要助殿 」 (「在方諸事控」)
庄屋からの嘆願例―浜坂焼の再興を
下記は、浜坂村の亀蔵・年寄助太郎・庄屋新三郎が邑美群(覚寺村)宗旨庄屋の竹内利兵衛と藩役人へ上申したもので、一度中止になった浜坂焼を再興するために、残った場所と道具を使わせて欲しい。住居と農業を移して焼物に取り組むという申請である。当時、浜坂村は覚寺村宗旨庄屋の管轄下にあったようだ。大庄屋は邑美郡大路村 井口藤次郎である。
「一 私儀、此度浜坂村え、当亥年より五ケ年之間出職奉願、(中略)、右御場所并御道具共、私え相応之御直段ニ被成遺候得は、(中略) 右場所え住居、并農業之透間焼物仕候儀、御免被為下候様奉願上候。(以下略)文政十一年(1828)亥十二月日
浜坂村願主 亀蔵 年寄助太郎 庄屋新三郎 竹内利兵衛様 石黒只三郎様 (「在方諸事控」)
打ちこわしにもあった庄屋
元文4年(1739)の百姓一揆では、因伯5万人の農民たちが途中道沿いの庄屋や手代、豪農などの家を打ち壊したり、焼き払いながら千代川の安長、秋里の川原に集結した。このときの秋里村の大庄屋は小谷所七郎である。
「千代水村誌」(秋里部落雑話)によると、かつての小谷家の大黒柱にはヨキ(斧)でこねたような傷跡があって、そこにハメ木がしてあり、また、平モンにも傷がついているので家相がよくないと昭和31年(1956)に建て替えたという。
尚、元文一揆で農民を率いた人物は松田勘右衛門で八頭郡八東村東村の庄屋である。治水のための堤防を造り、村人に善行を施し、人徳のすぐれた人物であった。この一揆で勘右衛門をはじめ約40人の農民が処刑され、首は安長土手にさらされた。一揆後、村人は勘右衛門地蔵尊を建て、長くその美徳を伝えたとある。 (同誌安長部落雑話)
江津松本家の古民家
松本家は戦国時代に武家が帰農して大庄屋になった家柄である。徳川中末期から昭和20年(1945)の敗戦による農地改革まで、文字通りの大地主で60町歩を有した高草郡屈指の旧家である。大松本ともいう。 (「千代水村誌」)
江津の庵寺横に藁葺屋根が見える。屋敷の面積は1,500坪で、巨木が繁っている建物は風格のある江戸末期の様式で、中ノ間の前に「役所の間」が付設されており、昔、大庄屋が役所として業務を行ったところで、書記役等が詰めていたところである。安長の東円寺が菩提寺であって、現存の寺門はこの松本家の屋敷にあった松の大木を切り倒してつくられたものである。豪壮かつ品格ある古民家であり、現代においても茅葺き屋根を葺き替えながら継承しているという。 茅葺屋根を一度改修した際には屋根裏から水車が3基も見つかったそうである。
尚、茅葺きには郡家の職人さんを依頼し、4面を1面ずつ4回にわけておこなうという。」 (「千代水村誌」・「鳥取県の民家を訪ねて」)現在の松本家(江津)
6.浜坂村の産業 鐘や仏像、壁土
因幡民談記には邑美郡の物産として、吉成の瓜、行徳・田島の大根、蕪、千代川の屋根石、浜坂の壁土、多鯰ヶ池の鮒・鯰・鴨などが記されている。また、浜坂村は鐘及び仏像の鋳造場所として使用され、正徳元年(1711)鳥取明光院の地蔵、同4年鳥取景福寺の鐘、寛政2年(1749)鳥取円城院の鐘が鋳造され、寛政6年、寺は不明であるが、鐘が鋳造された折には多くの見物客が集ったと「因府年表」にある。
「因府年表」には、「浜坂には藩の塩蔵が置かれていた」という記録もある。因幡民談記の浜坂の壁土は、「因幡誌・濱坂村」に記されている「紫山 村の下大川岸の小山なり此山の土石悉く紫色なれば名とする也。家下土蔵下の地形を築くに利用し年を逐て打崩して船に積て鳥取へ運漕しける程に今は大方に取盡して―」の紫山の土のことだろう。
浜坂小学校の下のローソン付近は、かつて小高い山(代々山の麓)であり、紫色の土が採れたということである。これは、「乾燥させて屋敷の床下に敷き、湿気をとった」(浜坂聞き取り)ということから、珪藻土が想像される。珪藻土とは、藻類の珪藻が海底や湖底、川底などに堆積して化石化したものであり、無数の微細なな孔(穴)を持ち、耐火性や吸水性、吸着性、消臭性、保湿・調湿性、断熱性など、優れた性質を持つため壁土にも使われる。珪藻土の色は白、淡黄、灰緑と産地によって様々である。仏像鋳造に用いた土、壁土、浜坂焼の土など、浜坂は良い土に恵まれていたようである。
浜坂温泉
因幡誌(濱坂村)に「温泉跡」の記述がある。「村の上外れ田圃の中にあり字を湯原と云ふ 百年計り以前までは湯地の形ありて湯桁も其の儘なりしとかや 其上の青木陣所の砂山年々潰出て今は其跡明ならず」。
因幡誌の時点で「百年計り前」なので、江戸中期(1700年代)の頃であろう。鳥取市「事始め」物語では、「昭和13年発行の本に、4百年前の吉岡温泉湧出と前後して、湯所と浜坂の温泉は閉止。明治の初めまでは湯桁が残っていた」。
また、「いつの地震か分からないが、浜坂、湯山、湯所が止まり、代わって吉方で湯が沸いた」とある。昭和30年代、字湯原(中ノ郷中学校付近)に近くで温泉ボーリングを行うと冷泉が出た。浜坂では出資を募り、浜坂観光会館事業(砂丘トンネルを出たところ)に乗り出した。温泉を引き、近所の旧国民宿舎「砂丘荘」、「砂丘ゴルフ場」に給湯を始めている。
浜坂焼(ウツロ焼)
文政6年(1823)から文久2年(1862)までの40年間、藩の国産奨励の一環として、白磁の浜坂焼が行われた。
鳥取藩史には「邑美郡浜坂壺焼の起源は詳ならず。思うに、国産奨励の意にて、吉成廃業の後を受けて始められたるが如し」とある。当時、近隣には吉成焼、浦富焼、出石焼、牛ノ戸焼、曳田焼、八上焼などがあったようである。
また、「文政8年(1825)いったん御手懸中止となったが、安政3年(1856)、再び国産座御手懸となった」・「同5年の因伯両国における焼物の他所仕入禁止措置の一因は、浜坂窯業が盛んになったことにある」と藩史が伝えるように、一時期、国産(藩)奨励で保護された浜坂焼などは「国を超えた流通時代になると、競争による廉価化、原材料の不足、窯の維持管理など様々な要因により、全国的産地以外の多くは消滅の道を辿っていった」と考えられる。
(「鳥取・浜坂焼についての報告と若干の考察」)
この浜坂焼は9号線の砂丘に架かる橋の下辺り(ウツロ谷)で行われ、ウツロ焼とも呼ばれた。
昭和35年まで覚寺にあった中ノ郷小学校の生徒は、下校のとき浜坂字ウツロでたくさんのウツロ焼(浜坂焼)の破片を拾っている。土地の人にも知られていたウツロ焼であったものの、窯の正確な場所は分かっていなかった。
昭和51年、浜坂地区公民館事業として取り組んでいた郷土誌づくりの写真を撮りにいって、偶然に窯跡や絵皿の破片を見つけ、当時の新聞に大きく報道された。見つかった窯2基の位置は、浜坂中央公園北、ひるま山東裾の藪の中にある。(「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
(参考)鳥取市南方の津ノ井は、いわゆる津ノ井瓦の生産地であるが、その瓦の原料である粘土の産出地帯である。この粘土層は、鳥取平野の周辺地に散在し、浜坂や円護寺・覚寺などの砂丘南方地域にも広がっている。これが、浜坂焼や鐘・仏像の鋳造に用いられた土であろう。また、覚寺集落奥部の畑地斜面では、古瓦窯跡が発見されている。ここから出土した軒瓦は、奈良時代白鳳期のものと推定されている。(本サイトの「自然の成立ち 古代の浜坂砂丘」を参照のこと)
7.浜坂台場跡(旧砲台) 砲台の歴史と一里松(塚)
江戸末期、黒船の出現で海防の必要性が高まる中、鳥取藩が築造した海岸砲台場8ヵ所のうち、5ヵ所が現存している。
浜坂の旧砲台は浜坂砂丘のほぼ中央南端に位置し、北真っ直ぐは「馬の背」と云い、砂丘の屋根である。東の岩戸海岸、西の賀露港の沖まで見渡せる所で、近くに一里松がある。鳥取城から一里の距離にある但馬街道浜の道の目印位置である。ここから東は北の砂丘列で南の追後スリバチと合せが谷スリバチ間の500~800mはなだらかで、演習地に適していた。砲台が据えられていたその場所は一段高く盛り土が施され、砲台を含め67mと高い。
大砲は嘉永6年(1853)8月23日大栄町六穂村から船で賀露港へ3台運搬され、1台は湖山砂丘、2台が浜坂砂丘へ設置された。当時の砲弾が四つ兒スリバチで拾われている。当時の砲弾は、大きさは野球ボール大の鉛玉だったという。昭和34年、高松の宮来鳥にあわせ、有島武郎の歌碑ができた。 (「ふるさと城北の宝」)
浜坂の旧砲台(御台場)造りには、農民が進んで参加した。鳥取の町方(48町)からも5,120人が参加している。大砲は嘉永6年(1853)8月23日大栄町六穂村の鋳造元から船で運ばれた。飛距離は、5町(545メートル)、抱立放で8町(842メートル)。立入禁止にして、福部村の二ツ山方向に打っている。 (「公民館浜坂」)
文久2年(1862)8月20日付の「在方諸事控」に「明後廿ニ日の浜坂稽古場での大砲御見分について、道を整備し下宿を準備するように、また、玉(砲弾)が柳茶屋附近に落ちるため、往来人を足止めするように(以下略)」と記録されている。
(参考)一里塚の起源は中国であり、我が国の一里塚もこれに倣ったものであり、江戸時代、徳川家康が江戸の日本橋を基にして、東海道など主要な街道に築かせたことに始まる。鳥取藩内では、慶長9年(1604)2月、鳥取城から一里(約4キロ)ごとに道の両側に松を植えさせたという。砂丘の一里松は細川・岩本・恩地・・・、と続いている。 (「因幡・伯耆の町と街道」)
浜坂新田の農兵屯所
伴山の西隣りに農兵屯所という字名がある。鳥取藩が嘉永年間(1848~1854)海防警備上、大砲術の訓練兵として、近郷10ケ村の農民(浜坂、江津、秋里、晩稲、南隈、賀露、安長、円護寺、覚寺、新田)を参加させた場所である。大砲の稽古は、毎年4月1日から7月末日までの農閑期となっていた。
8月以降となると渡り鳥がやってくるので、大砲をドンドン打つと驚いて寄りつかなくなる。当時は、ナベツルなどが多く渡ってきて、田んぼの稲を食い荒らしたというから殿様がタカ狩りするのに邪魔にならないように配慮したらしい。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
8.因幡・但馬往来(街道)「砂漠渺茫として往々道を取失ふ」
江戸時代、鳥取城から但馬国へ向かう街道として但馬往来が整備されるようになった。但馬往来の本筋は「中道通り」と呼ばれており、鳥取城から湯所村、湯所村の支村丸山、浜坂村、砂丘地を抜けて北岸を通り、浜湯山から湯山池の北岸に沿って細川へ通じていた。細川からは駟馳山峠、大谷村、岩本村を経て浦富村に至る。以降、浦富、湯村、国境の難所とされた蒲生峠を越えて但馬国東部の千谷村(現温泉町)へ達した。
因幡志は、「砂漠渺茫として往々道を取失ふことあり、よりて所々に表木を立て往来の便となす」と記し、浜坂村北側の砂丘は日本海に面し、砂がしばしば砂丘の中を通る道を覆い隠したため、諸所に表木が立てられたていたという。
この本道のほかに別道が2本あり、1本は湯所村丸山から覚寺村の摩尼寺を経由して峠越えにより山湯山に降り、湯山池の南岸を伝って細川へ至る「山道通り」である。摩尼寺への参詣道でもあり摩尼道とも呼ばれた。丸山と本道を山道通りの分岐点に立てられていた道標の地蔵は今でも残る。
この地蔵には、「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかけれハ、四丁のまわり、左ハたしまはま道」と刻まれている。地蔵に書かれた「はま道」が、本道「中道通り」の一部の丸山、浜坂、砂丘を通って湯山方面へ抜ける浜街道である。もう1本は、浦富村から牧谷村、小羽尾村、陸上村を通って七坂八峠を越えて但馬国居組村・浜坂村に達する道である。 (「鳥取県の地名」)
「浜坂道と摩尼道の分岐点、往来の左側に宝永年間(1704~1711)二軒の茶店ができた。その一軒に万という娘がいて、往来の人に茶を汲んで出したので、やがて於万茶屋と呼ばれるようになったという。現在の旧丸山交差点あたりである。」(「鳥府志図録」)
当時は、その2軒の茶屋以外は民家は無かったらしい。絵図を見るかぎり、右手が山沿いの旧道(山の手通り)、その付け根に石塔群と、地形は現在と変わっていないようである。茶屋は昭和初期まであったと聞く。
浜街道と「犬塚」伝承の浜坂犬橋
丸山の道標地蔵から左へ進み、丸山元採石場前を通って浜坂方面へ進む。途中、丸山城の慰霊碑がある。犬橋伝承のある犬橋を渡り、浜坂簡易郵便局前で右折し、浜坂村へ入る。
浜道への入口のこの通りには、かつて右側に茶屋が数件、泊り宿も数件あり、鳥取四十連帯兵士も利用したという。この辺りは茶屋土居と呼ばれ、太い松の並木が続いていたという。村落の外れ竹林の下に古い墓石と水神の祠がある。水脈は現在も生きている。2メートル幅の林道の右側山中に本来の浜道がある。有島武郎碑に向い自転車道に入る。
右手に「鳥取砂丘こどもの国」の西端が見え、柳茶屋キャンプ場に至る。昭和30年(1955)当時、柳茶屋、一里松旧砲台跡、岩戸へ続く浜道は太い松が点々と並び、波打ち際は遙か向こうで砂場は広かったという。 (「ふるさと城北の宝」)
この街道に伝わる犬塚伝承は以下のようである。
鳥取城下町と浜坂を繋ぐ橋が犬橋である。橋のたもとに犬塚がある。ここの流れの川尻は覚寺摩尼川と袋川の2つが合流しており、豪雨になるとここにかかる橋が流され、この橋を利用する街からの旅人が難儀していたとされる。旅人の難儀を見かねて大きな橋に架け替えたいと考え、飼い犬の首に橋建設趣意書の木札と竹筒をつけて放した。旅人や農民が竹筒に銭を入れ、こうして集った募金で新しい橋が建設された。この犬が死ぬと橋の近くに墓を造って「犬塚」として祀り、この橋を「犬橋」と呼ぶようになったという。
犬塚のある田圓は、米原徳太郎さんの所有地で犬目といい、犬のおかげで米がたくさんできると云われている。昭和40年過ぎの県道拡張までは約25m東側にあって、今の犬塚の石は、多鯰ヶ池から村の役員数人が持ち帰り建立した。
昭和44年12月の銘がある。米原徳太郎さんの家の飼犬であって、先頭を歩く者の裾にかみつき、首のぶら下げている竹筒に寄付金を入れないと通行させなかったという。「殿さん行列」のおり、「無礼なやつ」と切り殺された。村人が死体を生め塚を建てたという。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
「犬橋を渡る」は『鳥取県郷土誌』」、『鳥取市史』」などにも記載されているが、これは因幡誌の「土橋あり狗橋と号する是也。村を過て浜の坂へかかる是但馬への往還筋なり」をもとにしている。しかし、犬橋を渡るようになる以前は、少し手前の喫茶店MYPACE横から入る橋(中土居橋)を渡って村へ入ったようである。村の有識者の何人かの証言でもある」。(「但馬往来」 鳥取県文化財保存協会) また、本誌が浜坂で聞き取り調査を行なった際も、これを確認した。
現在の犬橋を渡った先に郵便局があり、その前に一基の道標が立つ。「鳥取砂丘 右ハ摺鉢・旧砲台、左ハ十六本松海」、「昭和九年四月」、「浜坂有志」とある。岩美郡中ノ郷浜坂村が鳥取市に編入(昭和8年)され、鳥取砂丘という名になってから建てたものである。(「歴史の道調査報告書 山陰道・但馬往来」) (注)県道拡張前の犬塚があった畑は「市場」であり、犬の飼い主も「市場」とする説もある。(浜坂聞き取り)
9.浜坂柳茶屋―木蔭と美しい湧水の休憩地
現在の柳茶屋キャンプ場と子どもの国となっている林に、かつて、こんこんと清水が湧き出ていた所があり柳茶屋と云った。安政~万延年間(1854~1861)鳥取藩は、浜坂村に松苗60万本を植え、シダ垣をつくるなどして砂止めをし、砂丘地に10町歩(17ヘクタール)の畑地を開かせた。これが柳茶屋の誕生につながった。但馬街道を旅する人の休息地であり、鳥取藩の砲術訓練後の一服する所であったようである。
但馬往来のメインストリートは丸山から浜坂に入り、柳茶屋で一休みしてから海岸の渚を歩く浜街道である。明治・大正・昭和のはじめ頃まで5軒の休み茶屋があり、ここを通る多くの旅人や商人たちにとっては無くてはならない存在だったに違いない。茶屋の裏にはきれいな清水がこんこんと湧き出ていて、60センチの大きな鯉が泳ぎ、景色も良かったという。旅人たちは茶屋で食事をしたり、暑いときには昼寝もし、のんびりと入浴してくつろぐ人もいただろう。
明治の終わり頃、大谷や網代で地引網で鰯がたくさん取れると鳥取に売りに来ていたらしい。この魚商人の新しい魚や池の鯉を「今どれ食い」といって、鳥取からわざわざこの柳茶屋に遊びに来るものもいたという。
鳥取の歩兵連隊は砂丘での烈しい軍事訓練の休憩時、腹ばいになってこの冷たい清水にのどを鳴らしならしたという。
明治末期になると、覚寺から湯山に通ずる現在の県道湯山鳥取線の新設と、明治43年(1910)6月国鉄山陰線(鳥取岩美間)の開通のため、但馬往来を利用する者が激減した。繁盛した柳茶屋も、大正初期には次々と店をたたんで浜坂部落に移転し、残ったのは1軒だけだったという。
昭和初期に至り、「今度は強風で飛砂が続くようになった。強風のたびに地元のものが総出で埋まって表にも出られない当家の砂かきをすることもあり、果樹園、サツマイモ、スイカ畑もひと風で飛砂にやられ砂山と化したこともあった。そして、昭和18年9月10午後5時36分の鳥取大地震によって池の湧き水が出なくなったのが最大の理由となった」という。
(「ふるさと城北の宝」・「因幡・伯耆の町と街道」・「公民館浜坂(平成15年3月)」)
サイクリング道路を柳茶屋キャンプ場に向かうと、キャンプ場手前50m左手に竹薮がある。鬱蒼とした竹薮に分け入ると、今でも柳茶屋池の名残の小さな池を見ることができる。