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Ⅴ. 高度成長と生活近代化

1.戦後特需と鳥取市
  ―駅前の鳥取大丸のデビューなど
2.奇跡の高度経済成長
  ―所得倍増計画、「三種の神器」
3.東京オリンピックと新幹線
  ―戦後の「新しい日本」への高揚感
4.GNP世界第2位へ
  ―石油ショックと円高不況
5.平成景気とバブル崩壊
6.県民の平均賃金や物価推移
7.民放ラジオとテレビ放送開始
  ―日本海TV・山陰放送の誕生
8.大規模な町村合併
9.昭和天皇・皇后両陛下の行啓
  ―国道9号線や砂丘トンネル・橋などの突貫工事
10.皇太子夫妻の行啓
11.交通の発展と観光ブーム
  国道9号・29号整備、鳥取空港開港
  インバウンド(海外訪日客)の増加
   ―外国人観光地NO.1に鳥取県
12.産業構造の変化
   ―三洋電機など電機産業の集積
13.戦後の教育界の発展
   ―6・3・3制義務教育へ
  敗戦当時の墨ぬられた教科書
  義務教育の拡大と中等教育の普及
  小・中学校の給食開始

Ⅵ. 浜坂地区の戦後の発展と変貌
1.陸軍歩兵第四十連隊砂丘演習所
2.「不毛の厄介者」が天然記念物に
3.山陰海岸国立公園・世界ジオパーク認定
4.農地の宅地化
5.航空写真で見る宅地化進行の推移
6.新興住宅拡大と小中学校の新設
  城北小学校の誕生
  浜坂小学校の新設
  中ノ郷中学校・中ノ郷小学校の新設
  幼稚園や保育園、その他進出
  浜坂公民館の新設
7.地域の道路や橋の整備
8.千代川河口・賀露港整備と
    失われた十六本松の水田や松林
9.重箱緑地公園の整備
10.浜坂八景
11.浜坂地区の町内会と共同行事

終章  浜坂地区の課題と今後の展望
  惹き付ける地域の魅力
  光と陰と希望の未来

.高度成長と生活近代化

昭和39年(1964)の東京オリンピック入場式
昭和39年(1964)の東京オリンピック入場式

1.戦後特需と鳥取市―駅前の鳥取大丸のデビューなど

 敗戦直後の虚脱と空腹の時代、物資の不足、ヤミの横行、悪徳の限りを白昼にさらけ出した戦後の混乱も、昭和25年(1950)から始まる朝鮮戦争景気(特需)で経済的落ち着きを見せ始めた。
 翌年に日本は48カ国との間で平和条約の調印を行うが、この頃には国民の気分は安定し、県下も生活物資の流れが早くなってきた。

鳥取駅前の賑わい
鳥取駅前の賑わい

 昭和26年(1951)には、鳥取駅前に鳥取大丸がデビュー、太平マーケット開設、その前年6月にはとりせん百貨店、27年(1952)には鳥取大丸の向い側におおとり百貨店が開店している。 (「百年の年輪」)
 
 鳥取大丸の屋上にはミニ遊園施設「子どもランド」があり、当時の子どもたちにとって、憧れの遊び場であった。現在の建物は、駅前都市整備事業で昭和50年9月に改築されたものである。人口僅か5万地方都市に、しかも敗戦間もなく、同じようなところに3つの百貨店が誕生するようになったことは、いかに朝鮮戦争特需によって日本経済が好影響を受けたかが分かる。 (「鳥取・因幡の昭和」)

2.奇跡の高度経済成長―所得倍増計画、「三種の神器」

三種の神器
三種の神器

 復興に向かった日本経済は世界に例のない高度成長成長期に入っていく。昭和30年(1955)から昭和48年(1973)までの実質経済成長率は年平均10%を超え、欧米の2~4倍にもなった。それぞれの時期の好景気に呼び名がつけられ、「朝鮮戦争特需」、「神武景気」、「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「平成景気(バブル経済)」と呼ばれた。

 神武景気の昭和31年度(1956)の経済白書では、 『 もはや戦後ではない』 という言葉が使われた。岩戸景気(昭和33年・1958~36年・1961)の頃は、繊維・機械の輸出好調を背景に、鉄鋼・化学・電力などで工場建設などの活発な設備投資が行われた。当時の状況を 『 投資が投資を呼ぶ 』と昭和35年(1960)の経済白書で表現した。

  同年、池田勇人内閣が 「所得倍増計画」 を発表。国民の所得も増え、この時期、 白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」として消費ブームを巻き起こした。さらに、これに続く東京オリンピックの成功は国民に自信を与え、産業発展を一層加速させる契機となった。

「世界初のインスタントラーメン」といわれる「チキンラーメン」が発売(昭和33年・1958)されたのもこの頃である。
 また、昭和27年(1952)から少年誌に連載されていた手塚治虫の「漫画鉄腕アトム」のテレビ放映が昭和38年(1963)に始まった。日本で最初の30分枠のテレビ放映アニメに子どもたちは熱狂したものである。(「高度経済成長」・「戦後日本のイノベーション100選(高度経済成長期)」

3.東京オリンピックと新幹線―戦後は終り、「新しい日本」への高揚感

 アジアで初めての第一回東京オリンピックは昭和39年(1964)である。

 日本中がオリンピックに湧き立ちながら、更にそれに合わせて開通した東京~大坂間の新幹線や、各地の高速道路の開通とか、国産初のプロペラ旅客機YS11がオリンピックに合わせて日本の空を飛んだとか、たくさんの明るいニュースに沸騰しながら、「もう戦後は終った。これから新しい日本が始まるんだ」という大きな高揚感に包まれていた。

 そして、日本を訪れた外国人たちも日本の大きな変貌に眼を見張ったのである。もっと豊かになりたい、先進国に追いつけ追い越せと、アジア初のオリンピックやアジア初の昭和45年(1970)の大坂万博などを目標・求心力にしながら、日本全体が一生懸命に背伸びしながら、明日はもっと明るい日になる。来年はもっと豊かな年になると信じて頑張った時代だった。

オリンピックの年に走った新幹線
オリンピックの年に走った新幹線

4.GNP世界第2位へ―石油ショックと円高不況で高度成長終焉

 昭和40年(1965)から5年続く戦後最長のいざなぎ景気は輸出主導型の経済成長である。重化学工業分野で国際競争力が強化され、鉄鋼・電気製品の輸出が増大した。国民生活では、「 マイカー・カラーテレビ・クーラー 」 の3Cブームが起きた。

 昭和43年(1968)、日本のGNPはアメリカに次いで世界第2位となる。戦後、GHQが打ち出した物価安定・緊縮財政政策「ドッジ・ライン」によって、円相場は1ドル=360円に固定されていた。円安メリットの輸出増が日本の戦後復興を支えたのは間違いない。しかし、日本の国力が高まった昭和48年(1973)に日本も他の主要国と同様に変動相場制に移行し、円相場は1ドル240円前後に落ち着いた。

大阪万博の太陽の塔
大阪万博の太陽の塔
1ドル75円
1ドル75円

 同年に中東戦争を機に第一次石油ショックが発生、昭和54年(1979)には第二次石油ショックが続き、日本は高度成長から低成長に移行する。オイルショック狂乱で店頭でトイレットペーパーを奪い合う人々の映像記憶はまだ新しい。
 
 さらに、昭和60年(1985)、当時、ドル高による貿易赤字に悩む米国はG5諸国とドル高是正に向けた協調介入する旨の共同声明(プラザ合意)を発表した。これによって、1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸し、日本は円高不況と称された深刻な不況に陥る。

(参考)
平成6年・1994年には、1ドル=100円を突破、1995年4月19日には、瞬間的に79円25銭を記録し、平成23年・2011年10月21日、75円95銭という史上最高値を更新した)(参考「高度経済成長」・「円高不況」・「日本経済新聞」)

5.平成景気とバブル崩壊

バブル崩壊による経営破綻
バブル崩壊による経営破綻

 このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ、長期的に金融緩和を続けた。

この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの過熱投機を許し、バブル発生を引き起こしたとされている。これが平成景気(バブル景気)である。
 バブルが崩壊した後は、デフレや少子高齢化に萎縮し、背中を追ってくる中国や韓国の足音に怯えながら、日本全体が自信を失って政治も経済も低迷・迷走するといういわゆる「失われた20年」として近年に至るのである。

6.県民の平均賃金や物価推移

 昭和35年と昭和55年を比較すると、日本の急速な経済成長を背景に、県民平均賃金や公立高校授業料、理髪料などが10倍、食品4~5倍と大きく変化している。(「鳥取県統計年鑑」)賃金・物価の単位は円

鳥取県民の平均珍技や物価推移表
鳥取県民の平均珍技や物価推移表

(注)賃金は全産業の男女平均。賞与など含み、税金・組合費・貯金などを引く前の額

7.民放ラジオとテレビ放送開始―日本海TV・山陰放送の誕生

 山陰の空だけが民放放送の真空地帯であった中、昭和29年(1954)に最初の民放放送局「ラジオ山陰」が誕生した。開局当時の聴取範囲は、西は島根県大田市、東は鳥取市を結ぶ地域でその中の約20万台のラジオが対象であった。
 民放の開局で娯楽番組が多くなり、トランジスタラジオがブームになったのもこの頃からである。ラジオ山陰の開局から5年後の昭和34年(1959)4月10日は、当時の皇太子成婚の日である。NHKはもとより全国の民放局は、この結婚式の様子をテレビで茶の間に送るため、全国的なテレビブームを巻き起こした。

 鳥取市では「日本海テレビ」と「NHK」がともに昭和34年(1959)3月、テレビ放送を同時に開始した。ラジオ山陰も昭和35年からテレビ放送を開始し、「山陰放送」と改称した。 (「百年の年輪」

8.大規模な町村合併

  戦後における市町村自治の特色の一つは、大規模な町村合併である。昭和22年(1947)の地方自治体法の施行によって市町村の仕事が増えた。同年9月には国の指示に基づいて、人口5千人未満の町村をなくす方針のもとに、合併準備が進んだが、当時は、町村数が166、一町村平均人口2,890人で全国平均の約半分に過ぎなかった。

 長い間の地域的感情が合併進展を阻んでいたが、昭和26年~39年(1951~1964)にかけて段階的に合併し、最終で4市36町村へ集約した。
 昭和28年(1953)7月1日に千代水村も鳥取市に編入されたことは先述した。その後も合併は続き、最近では平成17年(2005)、4市15町村に合併して現在の鳥取市の姿になっている。 (「百年の年輪」)

9.昭和天皇・皇后両陛下の行啓―国道9号線や砂丘トンネル・橋などの突貫工事

 昭和30年(1955)代、砂丘やその周辺地域も大きく生まれ変わろうとしていた。
 昭和40年(1965)5月の大山植樹祭の行啓の折、鳥取市では県庁、西高等学校、護国神社、紙子谷の二十世紀梨などご視察になった後、小銭屋旅館にご宿泊。夕刻、同館で「因幡のかさ踊り」をご覧になった。

鳥取砂丘トンネルと橋と新9号線
鳥取砂丘トンネルと橋と新9号線

 翌日、鳥取ゴルフクラブで日本海と鳥取砂丘をご展望、鳥大農学部砂丘研究所をご視察になり、午後に京都へ向かわれた。
 しゃんしゃん傘踊りが始まったのも昭和40年の夏からである。国道9号線の整備は昭和33年(1958)から42年度(1967)にかけて行われた。
 特に、この区間内で丸山三差路から砂丘トンネルまでの工事は、40年(1965)5月に大山で実施された植樹祭に行幸啓の天皇・皇后両陛下の鳥取砂丘ご視察に間に合うように突貫工事で行われた。 (「鳥取市史」)

10.皇太子夫妻の行啓

 昭和41年8月の第八回国立公園大会ご出席と県内ご視察のため鳥取にご訪問。

当時の皇太子ご夫妻
当時の皇太子ご夫妻

 鳥取市内では、鳥取エフワン工場、県しいたけ生産販売共同組合などをご視察、午後に鳥取ゴルフクラブで鳥取砂丘をご展望、ついで鳥大農学部砂丘研究所をご訪問され、夕方三朝温泉に向かって出発された。(「同」)

 また、これらに先立ち「昭和34年(1959)、高松の宮が砂防視察で来鳥されたとき、浜坂スリバチ上部から多鯰ヶ池に抜ける道路が出来た」とのことである。当時はまだ未舗装の砂利道で、強い風が吹くと道は厚い砂で覆われた。この道が舗装されたのは先述の昭和40年頃のことであった。  (参考「鳥取市誌」・「ここがふるさと」)

 「城北小学校の小学生だった頃、学校で日の丸の旗を全員が作り、丸山交差点道路で砂丘方面へ向かう車列に旗を振った。この行啓前に砂丘にかかる橋とトンネル完成(昭和40年・1965)、9号線のアスファルト舗装(昭和41年)など鳥取の道路や街並みの整備が加速したように思う。

多鯰ヶ池東岸を走っていた旧9号線(鳥取市)
多鯰ヶ池東岸を走っていた旧9号線

 それまでは丸山や覚寺付近はもうもうとトラックが土煙を上げて走り、砂丘や岩美方面に向かうには現砂丘の橋はなく、覚寺入り口から多鯰ヶ池の東側をぐるりと巻く旧9号線を走った。鳥大砂漠研手前の松林地帯の数十軒の集落も撤去された。やはり鳥取大火で焼け出された人々の架設住居だった。現浜坂小学校上方の砂丘の宅地化もこの頃に始まった。昭和30年(1955)代の終わりから40年(1965)代にかけて、子ども心にも劇的な変化だった。」(浜坂聞き取り)

11.交通の発展と観光ブーム

国道9号・29号整備、鳥取空港開港

 戦前鳥取県にやってくる多くの人たちは、山陰線をガタゴト揺られながら、夏は汽車の吐き出す煙とすすで鼻の穴を真っ黒にしなければならなかった。唯一の長距離交通機関は、この山陰線と伯備線・因美線しかなかった。

 昭和30年(1955)代になると、列車のディーゼル化が進んで重苦しいばい煙は昔話になり、昭和41年(1966)には国道9号線が完全に舗装され、29号線も整備が進められて米子・大阪間、鳥取・米子間などを特急バスが走るようになった。観光地道路も、38年(1963)に大山有料道路、40年(1965)に大線環状有料道路、41年(1966)に三朝高原有料道路ができた。

 このような交通網の整備が手伝って、主要観光地の観光客数は、昭和35年(1960)に313万8千人、42年には522万余人と大きく伸びている。さらに昭和42年(1967)、鳥取空港が開港して首都圏からの観光客誘致が進んだ。その他、昭和42年(1967)の国道9号線バイパス工事着手、昭和46年(1971)の国道53号線全通などが続いた。

鳥取空港
鳥取空港

 砂丘観光は、昭和29年(1954)に28万人、翌年80万人、40年(1965)100万人突破、昭和47年(1972)ピークの228万人と、交通網の整備とともに拡大を続けている。鳥取市中心部も、鳥取地震と鳥取大火に見舞われたものの、その痛手から立ち上がり着々と復興の道を歩んだ。若桜街道の拡張、若桜橋の誕生、アーケードの整備など観光都市に相応しい顔を持ち始めた。(「百年の年輪」・「鳥取砂丘観光の課題と方向性」)

 最近では、鳥取自動車道が第四次全国総合開発計画(昭和61年・1986)で決定され、平成25年(2013)全線開通、また、智頭線開通(平成6年・1994)によって関西圏からの観光客が増え、鳥取空港(平成2年・1990)や米子空港(平成元年・1989)の国際化や境港の国際フェリー航路開設(平成21年・2009)によって、海外からの観光客もうなぎのぼりに増えている。

インバウンド(海外訪日客)の増加―外国人観光地NO.1に鳥取県

 ブランド総合研究所が毎年発表する「魅力度47都道府県ランキング」では鳥取県は41位。この順位は最近殆ど変わらず、いわば「不動の不人気県」である。しかし、鳥取県は外国人の間では非常に注目される旅行先なのである。

 楽天トラベル発表の2018年の「訪日旅行(インバウンド)人気上昇都道府県ランキング」で1位は鳥取県。これは、2018年1~12月の楽天トラベル外国語サイト経由の人泊数を集計したものである。さらに、外国人向け日本情報サイト「ガイジンポット」が公開した「2019年に外国人が訪れるべき観光地ランキング」において、鳥取県はなぜか福岡や東京を抑えて堂々の第1位を獲得している。

 まずは自然の豊かさ。日本海を眺望する砂丘では、パラグライダーや砂の上で走れるファットバイクなどのアクティビティも充実、中国地方で最高峰の大山は登山、スキー。
 また、水木しげるロード、「名探偵コナン」資料館など。外国人延べ宿泊者数は平成28年(2016)10万人、29年14万人と40%増だ。本サイトの運営会社は、様々な国籍のスタッフがが在籍し、外国人の視点で日本の情報を発信している。従ってこのランキングは「外国人視点」なのである。(「観光経済新聞2019.3」・「文春2019.2」)

12.産業構造の変化―三洋電機進出など電機産業の集積

 昭和38年(1963)に湖山に移転した鳥取大学の学芸・農両学部の跡地に、昭和41年(1966)三洋電機が進出した。

鳥取三洋電機
鳥取三洋電機

大阪の三洋電機系列企業数十社も進出し、地元協力企業含め企業城下町を形成した。昭和45年(1970)までに誘致した企業数は39社で、電子・電機・情報通信製造業の集積が急速に進んだ。
 鳥取三洋電機はその中核を担い、県内工業生産活動、地域雇用さらに地域生活等をながく支えた。平成24年(2012)、三洋電機はパナソニックに事業統合されてSANYOは消滅した。組織は解体され、一部、鳥取市では三洋テクノソリューションズ鳥取株式会社として事業を継続している。 (「鳥取市史」・「三洋テクノソリューションズ鳥取株式会社」)

13.戦後の教育界の発展―6・3・3制義務教育へ

  さて、明治5年(1872)の学制から始まった義務教育推進は、当初は授業料徴収などで中々成果を上げなかったが、明治33年(1900)に尋常小学校の授業料無償化などにより、大正4年(1915)には通学率が90%を超えるなど、学齢期の国民の就学が普遍化していった。

 しかし、明治から大正・昭和前期における義務教育の範囲は実質的に初等教育(尋常小学校など)にとどまっていた。
 昭和22年(1947)、戦後GHQ占領下の学制改革により、現在まで続いている9年間の6.3制義務教育制度が施行された。

敗戦当時の墨ぬられた教科書

 敗戦当時の教育界の状況は、墨ぬられた教科書にもっともよく象徴されている。明治37年(1904)に国定にされて以来、原則として教科書は一度もその権威に疑いが持たれたことがなかった。宮城の写真と教育勅語がのった修身の教科書は特に礼拝して開かせたものだった。ところが、そのページを引きちぎり、墨でぬりつぶせというのである。

黒塗りの教科書
黒塗りの教科書

 鳥取県では、県教学課が教科書取扱方試案をつくり、県下の東中西3地区で講習会を開いている。これによって教科書の軍国主義的な部分、超国家主義的な部分が消されることになるが、その部分こそ昨日まで最も大切なところとされていたものである。従来の価値体系の破壊が、まずここに始まった。

 「御真影」は撤去され礼拝の儀式はなくなり、勅語、学校の図書も処分された。昭和21年(1946)には、県内の図書館、古本屋、書店、学校などから集められた軍国図書3千4百冊を鳥取県が米軍に引き渡している。(「郷土とっとり激動の100年」)

 「中ノ郷尋常小学校に通った頃、奉安殿(戦前の日本において、天皇・皇后の写真=御真影と教育勅語を納めていた建物)で最敬礼し、二宮金次郎像にお辞儀をし、手と足(当時はわらじ)を洗って校舎内に入ったものだ。軍隊のようだった。」 (浜坂聞き取り)

義務教育の拡大と中等教育の普及

 義務教育実施で、国民学校は6年間の小学校、その上の3年間が中学校になった。新生高等学校は昭和23年(1948)から開始し、普通過程と職業課程を併置する総合制、通学区設定、教育の機会均等の観点に基づく男女共学制が実現した。
 特に、男女共学は女学校時代からみれば2年間の学年延長であり、家事・裁縫中心の女子教育から男子と同等な教育内容への飛躍が実現した一大変化である。(「百年の年輪」)

 「本校ニハ女子ノ入学を許サズ」と鳥取中学校がその校則に明記したのは、明治20年(1887)のことであり、「女学生と話をしたり、一緒に歩いたり、時には文通ぐらいしても停学や退学にしないで欲しい」という嘆願もあった戦前の状況からすると、男女共学は別世界のような出来事であったろう。 (「郷土とっとり激動の100年」)

 昭和24年(1949)、鳥取県内の4つの専門学校が統合して鳥取大学が誕生した。農林専門学校は農学部へ、青年師範学校は学芸学部(教育学部)、米子医専は米子に置かれる医学部になった。後、工学部が新設され、昭和41年(1966)に農学部、学芸学部とともに湖山に移転した。こうして、終戦後の国民等しい中等教育の普及が始まったのである。  (「百年の年輪」)

小・中学校の給食開始

 鳥取市の小中学校の給食は昭和33年(1958)から始まったが、農村部では行われていない学校もあった。
 昭和30年代末の小学校の給食設備の老朽化対応と、中学校の完全給食を目的に昭和41年、第一給食センターを西中学校内に、昭和45年、第二給食センターを世紀小学校内に建設し、ここに鳥取市の完全給食が実現された。(「鳥取市史」)
 
 「(旧)中ノ郷小学校での給食の思い出はないが、先輩たちは記憶にあるという。後の城北小学校では脱脂粉乳の給食を覚えている。毎朝、新聞紙と木切れで当番の子どもたちが火をつけた鉄の石炭ストーブ。ガタガタの木製椅子や机が懐かしい。
 鳥取市の「わらべ館」に当時の教室が再現されている。中学校に進学すると三角パックの牛乳や近代的なスチールパイプの机や椅子に変わった。」(浜坂聞き取り)

Ⅵ. 浜坂地区の戦後の発展と変貌

1.陸軍歩兵第四十連隊砂丘演習所

陸軍兵舎の門
陸軍兵舎の門(鳥取大学現乾燥地研究センター)

 明治29年(1897)から陸軍歩兵第四十連隊の演習地として利用されており、昭和14年(1939)まで鳥取市内立川町にあった官舎から徒歩で二兒スリバチオアシス(現鳥大乾燥地研究センター付近)まで演習に来ていた。当時そこには水源がなく、近くの茂みを掘ったところ、800t/日の湧水が出た。

 昭和18年(1943)4月にバラックの宿泊地が完成した。演習場は現在の国立公園になっている一帯であり、六兒スリバチ(現大スリバチ)、追い後スリバチ、合せケ谷スリバチがあり、起伏にとんだ地形が演習に適していたのであろう。「すりばち」とは、東北大学の教授が浜坂村から砂丘に出た所の砂の窪みが、台所でごまなどをすり潰す器に非常によく似ていることから斜角35度、深さ15m以上をスリバチと名づけたことが由来だという。
(「ふるさと城北の宝」)

2.「不毛の厄介者」砂丘が天然記念物に

有島武郎歌碑除幕式(鳥取砂丘)
有島武郎歌碑除幕式 (鳥取砂丘)

 第四十連隊の演習地として利用されて以降、第二次世界大戦後まで殆ど自然のまま放置されていた。

 昭和2年(1927)の地元新聞(因伯時報)のアンケート結果によれば、鳥取砂丘は鳥取県八景に洩れており10位にも入っておらず、不毛の厄介者として扱われていたようである。戦後のある鳥取市長は砂丘について、「木も生えないようなところは鳥取の恥部である」と述べている。

 砂丘という用語は明治以降に地学や考古学などの一部の分野で使用されたのみであり、砂丘という言葉が普及したのは、有島武郎が鳥取砂丘を訪ね大正12年に「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしきわれを見出でけるかも」の歌を残して1ケ月後に情死したことがきっかけと言われる。従って、昭和初期の国語辞典に砂丘という言葉はまだ記載されてない。
 
 昭和28年(1953)、海岸砂地地帯農業振興臨時措置法により鳥取市は鳥取砂丘の全面緑化を打ち出したが、昭和30年(1955)の天然記念物指定、山陰海岸国定公園指定により観光客が激増し、これによって砂丘の一部が保存されることになった。

 尚、昭和29年(1954) 、鳥取砂丘は地元の浜坂地区に払い下げられた。浜坂地元民は当初植林推進派で、植林とともに農業開発を進めたが、時代の趨勢とともに農業は衰退 、宅地化が進んだ。その結果、昭和35年(1960)に約40haあ った畑地 ・果樹園は昭和50年(1975)には半減している。 (「鳥取砂丘」・「鳥取砂丘の開発と保全」) 

昭和30年代の鳥取砂丘
昭和30年代の鳥取砂丘

3.山陰海岸国立公園化及び世界ジオパーク認定

山陰海岸国立公園
山陰海岸国立公園

 その後、昭和38年(1963)に国立公園指定、昭和40年の砂丘大橋と砂丘トンネル開通、昭和48年(1973)の「鳥取砂丘こどもの国」開園など急速に観光地化し、交通量も激増した。また、昭和33年(1958)の「鳥取大学農学部付属砂丘利用研究施設」の開設により、浜坂砂丘の知名度は国内外に高まっていく。

 平成19年(2007)には日本の地質百選に選定され、山陰海岸国立公園の特別保護地区にも指定されている。また、平成22年(2010)には山陰海岸を中核とするエリアが世界ジオパーク「山陰海岸ジオパーク」として認定された。
 まさしく浜坂地区、鳥取市民の宝となっている。

4.農地の宅地化

 昭和27年(1952)4月の鳥取大火による罹災者住宅が、ひばりケ丘及び小松ケ丘に計164戸造成された。
 昭和41年(1966)、鳥取県住宅供給公社が近隣の畑、ぶどう畑の8.6ヘクタールを買収し、続いて昭和44年(1969)には第二浜坂団地が2ヘクタールを買収した。罹災者住宅造成が最初の宅地拡大期ならば、ここに次世代の宅地拡大期が始まったのである。

浜坂団地の開発(鳥取市浜坂)
浜坂団地の開発(鳥取市浜坂)

 都築山の南面に浜坂横穴群が発見されたのは昭和39年(1964)5月、砂とり工事によってである。ちょうど、後の浜坂団地やみどり会などの新興住宅地の宅地造成が24時間作業の急ピッチで行われていた頃で、消滅寸前の状態にあった。砂の下から地表に現れた横穴墓群は、わずか40日で姿を消した。歴史書は「幻の遺跡」と形容している。かつて、その下に縄文のくらしがあったことを知る住人は少ない。 (「新修鳥取市史」)

 都築山の所有者は、江津村の波当根雅之さんで、面積は5千坪。戦時中は。兵隊さんの演習の休憩地にもなっていた。土砂は城北区一帯の水田やら畑地の嵩上げに運び出されており、都築山の西側半分の2千坪をA業者に売却。続いて東半分の3千坪をB業者に売却。現在では美しい街並みの浜坂団地町内会の19-A班(24世帯)、19-B班(28世帯)及び19-C班(28世帯)が誕生している。     (「浜坂の歴史・文化を聴く会」) 

5.航空写真で見る宅地化進行の推移

 その後も宅地拡大は加速度的に進行し、東浜坂、都築山ゴルフ練習場跡地、江津の中央病院周辺、浜坂小すりばち埋立地、東西ひばりケ丘、十六本松河口、乾燥地研究所横、浜坂から夕日ケ丘の摩尼川と県道沿い・・・・と鳥取市における代表的な住宅地へと大きく変貌してきた。

①昭和20年: 現在の鳥大乾燥地研究センター敷地側から現在の第三幼稚園方面を見上げたもの。上部に僅かに見える黒い陰が都築山上部である(現二本松公園付近)。当時は全域一帯何もない茫漠とした砂丘地である。

昭和20年の後の浜坂団地(鳥取市浜坂)
昭和20年の後の浜坂団地(鳥取市浜坂)

②昭和26年: 浜坂から十六本松にかけての航空写真。右下の黒い部分が都築山。この下に横穴遺跡群が眠っている。都築山の上方及び左右(後の浜坂団地)には何もない。網状に見えるく黒い線は、砂丘の飛砂を止めるため砂防垣である。

昭和26年頃の浜坂 (鳥取市浜坂)
昭和26年頃の浜坂 (鳥取市浜坂)

③昭和32年: 左下の住宅群は、昭和27年の鳥取大火後に建設されたひばりケ丘の罹災者住宅である。同時期に小松ケ丘の罹災者住宅もできている。これが浜坂地区最初の住宅地拡大である。この時期まで、江戸期以来の浜坂村と江津村以外は田畑、川、砂丘しか存在しない地域であった。

昭和32年の浜坂航空写真(鳥取市浜坂)
昭和32年の浜坂航空写真 (鳥取市浜坂)

④昭和36~44年: 恐らく昭和40年以降であろう。浜坂小学校(昭和48年)はまだできていないが、その上方、現浜坂3丁目あたり及び、浜坂団地西口バス停付近(浜坂2丁目)にも僅かな住宅群が認められる。浜坂新興住宅の最初の世代であろう。

 十六本松に、十六本松と浜坂新田の地名の由来となった松林及び海に向かう水田が見える。中央病院(昭和50年)はなく、江津は田圃の海の中の孤島のように見える。浜坂と江津は細い土橋で繋がれているが、車は通れない。後の中ノ郷中学校周辺はまだ一面田圃地帯である。

昭和44年の浜坂航空写真(鳥取市浜坂)
昭和44年の浜坂航空写真(鳥取市浜坂)



⑤昭和49年~53年: 浜坂小学校(昭和48年)、県立中央病院(昭和50年)が誕生している。中ノ郷中学校(昭和60年)はまだその姿はなく、その周辺の浜坂東住宅群もまだできていない。江津と中央病院の間もまだ田んぼの海であり、江津は依然と孤島である。この時期にも、十六本松に松林及び水田は存在する。浜坂八丁目(十六本松)は存在せず、まだ松林である。荒神山周辺も田んぼである。

 都築山がきれいに消えている。浜坂団地は概ね埋まっているが、まだまだ隙間も見え、鳥大乾燥地研究センターへ下る道に沿った北側一列(浜坂3丁目北端)などは未開発である。浜坂スリバチはまだ存在しているようだ。浜坂江津橋は架かっておらず、車は丸山交差点経由で市内へ出た。

昭和60年の浜坂航空写真(鳥取市浜坂)
昭和50年頃の浜坂航空写真 (鳥取市浜坂)


⑥平成21年(2009):浜坂八丁目ができ、江津と中央病院の間も宅地で埋まった。千代川の河口工事(昭和58年の付け替え工事完成 後述)によって、十六本松の松林や水田が消滅している。また、中ノ郷中学校が誕生し、その東西・南も住宅で埋まった。削られた都築山はゴルフ練習場を経て住宅地となり、浜坂スリバチまでも埋めたてられて住宅地化した。浜坂団地はほぼ隙間なく埋まり、荒神山周辺の袋川河口や重箱の向い側の県道沿いにも広がり始めた。 浜坂小学校下に浜坂江津橋(昭和62年)ができ、中央病院横を通って城北交差点へと車道が走っている。

 この頃になると、現在の姿と殆ど変わらず、あすなろ保育園の姿が見える。
 浜坂団地の中央部分はぎっしり埋まっており、これより新しい宅地は十六本松方面に向かう海側畑地や、中ノ郷側などの縁端地をアメーバの手足のように広がりつつ現在に至っている。将来的には江津や中ノ郷の残存田畑も埋まり、さらに巨大化していくのであろうか。

平成21年の浜坂航空写真(鳥取市浜坂)
平成21年の浜坂航空写真 (鳥取市浜坂)

6.新興住宅拡大と小中学校の新設  

城北小学校の誕生(昭和34年)

 宅地の拡大に伴って世帯数、児童数も急拡大する。

 昭和30年(1955)代は、(旧)中ノ郷小学校、千代水小学校ともに7学級しかなく、児童数も減少の一途であったため、昭和34年(1959)に2校を統廃合して雁金小学校を開校し、翌年、城北小学校と改称した。当初、比較的近くの中ノ郷地区は殆どが統合に賛成した一方、遠くなる千代水側は反対した。地区賛同のないまま議会で議決したが、その後も反対活動が続き、ようやく3年越しで解決した。(「鳥取市史」)

 「(旧)中ノ郷小学校があった当時は、近隣は殆どが田畑で、紫や白い蓮華の花、黄の菜の花が咲き誇っていた。用水路には蛙の卵が漂い、アゲハチョウやとんぼが舞っていた。まだ9号線は舗装されてなく、丸山でバスを降り、トラックが土煙を揚げて走る丸山~覚寺間を歩いて通った。赤ん坊を背負った児童も姿もあった。木造の(旧)中ノ郷小学校に比べ、できたばかりの鉄筋の城北小学校は別天地であった。」  (浜坂聞き取り)

城北小学校
城北小学校
鳥取市立浜坂小学校
鳥取市立浜坂小学校

浜坂小学校の新設(昭和48年)

 昭和40年代、市街地拡大に伴って住宅化が進んだ城北校区は、47年度には学級数27、生徒数1,035人と鳥取市立小学校では最大規模になった。

 加えて浜坂地区における大規模な団地が鳥取県住宅供給公社によって開発されることに伴って分離新設校を設置することになり、浜坂、江津、浜坂新田、小松ヶ丘の各地区を校区として浜坂小学校が昭和48年(1973)に開校した。
 当初は浜坂地区内の水田を予定していたが、浜坂団地地区から通学距離が遠いという反対意見があり、結局、浜坂団地に近い、通称「代々山」の現在地に決定した。(「鳥取市史」)
 尚、浜坂小学区は令和4年(2022)6月3日、同校体育館にて50周年記念式典を挙行した。 

中ノ郷中学校・中ノ郷小学校の新設(昭和60年・平成7年)

 一方、中学校では、昭和57年(1982)、北中学校は30学級、生徒数1,181人を有して鳥取市で最大、更に住宅開発による生徒数増も見込まれることから、中ノ郷地区に中学校一校(中ノ郷中学校・昭和60年)、小学校一校(中ノ郷小学校・平成7年)を新設することになった。(「鳥取市史」)  
 城北小学校の一校時代から考えると、劇的な児童数の増加である。 

幼稚園や保育園、その他進出

 浜坂地区の住宅地化に伴い、昭和43年(1968)学校法人鳥取学園鳥取第三幼稚園が浜坂三丁目に開園。また、昭和56年(1981)、社会福祉法人浜坂会浜坂保育所が浜坂六丁目に開園した。この私立保育所の新設は、地元の県営住宅、市営住宅の共働き家庭などからの強い要請に応えたものである。(「鳥取市史」)
 現在では、江津の住宅地拡大もあって、平成19年に鳥取あすなろ保育園が江津に移転し、その他、クローバー保育園、千代保育園などが江津地区に新設されている。

 その他、昭和50年(1975)5月、鳥取県立中央病院が現在の江津へ移転。鳥取県東部の中核的な医療機関であり、地域医療の中心的役割を果たしている。平成30年(2018)、新病棟に生まれ変わり、現在に至る。

浜坂公民館の新設

浜坂地区公民館(鳥取市浜坂)
浜坂地区公民館(鳥取市浜坂)

 平成18年4月、旧地区公民館の老朽化により、現在の地区公民館が誕生した、各種講座・教室・サーク

ル活動・公民館まつり、公民館だより発行など、地区コミュニティセンターとしての大切な役割を果たしている。
 昭和52年(1977)に浜坂地区として初めて建設された公民館(小松ヶ丘前)は、現在、鳥取市の倉庫として使われている。

7.地域の道路や橋の整備

 住宅地の拡大とともに道路環境も整備されていく。

 昭和62年(1987)9月、浜坂江津橋が竣功。それまでの橋は人や二輪車のみが通れるほどの木橋で、浜坂地区の人々が車で市内に出るには旧丸山三叉路経由、もしくは、昭和56年(1981)3月に西ひばりケ丘に竣工した新浜坂橋を渡って八千代橋方面へ出るしかなかった。浜坂江津橋の竣工及び県立中央病院城や城北方面への直通道路が完成したことによって大きく市内への交通アクセスが改善することとなった。
 
 一方、従来の路線バスは、十六本松―小松ケ丘―浜坂―夕日ケ丘ー丸山と袋川沿い道路を走っていたが、浜坂団地の拡大、中ノ郷団地の造成に伴い、浜坂団地内及び摩尼川沿いの中ノ郷団地内を経由する現在のルートに変更された。
 また、近年では、鳥取市街地の外周を千代川沿いに走る「鳥取環状道路」(県道26号)秋里吉方線も開通し、鳥取駅方面へのアクセス時間が半減した。

8.千代川河口・賀露港の整備と失われた十六本松の水田や松林

 千代川河口の鳥取港はかつて賀露港として古くから繁栄したが、河口部に発達した漂砂で閉塞し、しばしば浸水被害を生じていた。本港の改修の必要性は藩政時代から議論されたが、明治時代にも防波堤を築造して河口の安定化だけで終わっている。

 昭和に入っても、千代川改修の本格化に伴って昭和17年(1942)に本港を踏まえた千代川河口処理問題が検討されたが、戦時下のことで計画だけに留まった。昭和50年(1975)4月に重要港湾の指定を受け、本格的な千代川河口と港湾の分離工事に着手し、河口を約800m東へ付け替えた。工事は昭和58年(1983)まで及んだ。付け替え前の河口は今の鳥取港の辺りである。
 河口と港湾の分離工事が終了した後は、平成2年(1990)に1万トン岸壁1バース、5千トン岸壁3バース及び危険物用地を有する千代地区が稼動している。 (「鳥取港(空港港湾課)・「千代川の主な河川工事(鳥取河川国道事務所」)

 一方で、本工事は浜坂新田村開村当時からの水田5町を奪い、地名の由来とされるキャンプや運動会などで賑わった松の美林も消滅し、十六本松地域の景観は一変してしまった。このように、大正時代から始まった千代川改修工事は江津などの千代水地区、そして浜坂新田の田畑や自然、景観を犠牲にしながら現在の姿と流域の安定に至っているのである。

十六本松河口の整備
十六本松河口の整備
十六本松の松林(鳥取市浜坂)
十六本松の松林(鳥取市浜坂)

9.重箱緑地公園の整備

 八千代橋の東詰から南東40mにある「秋里・江津土地改良区揚水機場」という建物の位置が新旧千代川の分岐点である。旧千代川はここから東側へ大きく蛇行し、松並町を経て重箱に流れ、浜坂弁天社の下で旧袋川、摩尼川と合流、江津の北側を流れ、日本海に注いでいた。そのため、洪水になると堤防の弱いところが崩れて氾濫したため、改修で海に向かって直進する水路を開いた。

 重箱地は旧千代川が流れていた跡地である。この跡地を利用して、平成13年より狐川周辺の低水地区の洪水防止事業「浜坂遊水池事業」が行われ、平成22年に完成した。大雨で狐川水位が急上昇し袋川に排水しきれない場合、この重箱地を遊水地(水かめ)として水を流すことで川上の住民を守るのである。

 そして、その遊水池の日常使いのためにつくられた公園が重箱緑地公園である。かつての旧千代川の底にあったこの地は、水と緑に囲まれた自然と歴史豊かな公園として甦り、丸山城跡前の多目的グラウンドや遊具コーナー、川沿いの遊歩道、浜坂弁天神社前の芝生広場などで構成され、幼児連れの若い家族、ジョッキングやウオーキング、グランドゴルフなど、老若男女が集う憩いの場となっている。

重箱緑地公園(鳥取市浜坂)
重箱緑地公園(鳥取市浜坂)
重箱公園の遊具(鳥取市浜坂)
重箱公園の遊具(鳥取市浜坂)

 重箱の語源は「江戸時代の河川改修でつくられた石積みが重箱に見えた」ので、この辺の沼を重箱と呼んだという。「洪水の時、千代川の急流を防ぐため、岸に打ち込んだ三本の杭(クイ)に柳の木を絡ませる。そこに小石を積み上げる。この壁を上下に三段つくる。『祭りのごちそうを重箱に詰めて持ち帰っていたことと同じだ』」(「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「ふるさと城北の宝」・「重箱緑地―日本1000公園」)

 また、「秀吉の鳥取攻めで築いた当地の陣地を丸山方面から眺めると四角い重箱の形に見えた」という説もある。

重箱語源の2説(鳥取市浜坂)
重箱語源の2説(鳥取市浜坂)

10.浜坂八景

 平成13年3月、第3回「浜坂八景」の一般公募が行われた。これは、広く住民に呼びかけ特色ある風景や心に残る風景を募り、選定委員によって8ヶ所を「浜坂八景」とするものである。以下が選定結果であり、後世に残したい美しい歴史景観である。

①旧街道から望む多鯰ヶ池と砂丘の遠景
②砂丘ゴルフ場から望む砂丘全景
③有島武郎の歌碑あたりの風景
④砂丘旧砲台お台場近くから望む砂丘の広がりと日本海風景(夕刻後はいさり火)
⑤有島武郎、与謝野晶子歌碑付近から町並みを望む風景(夕刻後は夜景)
⑥荒神山前の河川敷から望む千代川河口の風景
⑦十六本松海岸から望む日本海と砂丘全景
⑧弁天社の森をはさんで流れる川面を含む風景 (「公民館浜坂」)

(注)浜坂八景の写真は「歴史を歩く」の「番外編-記憶に残しておきたもの」 に掲載しました。

11.浜坂地区の町内会と共同行事

 現在、17の町内会が誕生し、それぞれの活動を行っている。
 一方で、地区の共同行事として、運動会、納涼祭、敬老会、文化祭、新年を祝う会、しゃんしゃん傘踊りなどが行われている。

浜坂地区の町内会(鳥取市浜坂地区)
浜坂地区の町内会(鳥取市浜坂地区)

  

終章 浜坂地区の課題と今後の展望  

1.惹き付ける地域の魅力

 さて、人類の足跡が砂丘周辺に現れ始めた縄文時代より今日までの歴史を辿ってきた。

 かつて海だった太古の浜坂、江津、中ノ郷。縄文中期、海面が大きく下がり、砂丘が緑の樹林や草原に覆われ始める。浜坂地区の黎明期の訪れである。

 浜坂から十六本松にかけて点在する岩山や洪積台地の間には小川が流れ、緑の砂丘は山の幸、川や入海は海の幸の宝庫となって我々の祖先の豊穣の住処となった。9世紀以降、大きな気候変動によって飛砂がすべてを埋め尽くし、人々のくらしの痕跡も砂丘周辺から消える。

 砂丘に再び安定が戻り、農耕化など人々が定着を始めた中世。人々のくらしを濁流が襲い、平穏を奪い続けた大河の氾濫と、その闘いにようやく勝利した近世から近代。人を拒み続けた不毛の鳥取砂丘を農地や観光地、世界の乾燥地研究の場に変えた近代から現代。
 こうして我々の祖先は、水と砂との永い永い闘いを乗り越えてきたのである。

 そして現在。

 美しい水郷や古代の国津(港)を地名の由来とする江津。鳥取藩主が好んで遊んだ美しい水と砂の風光明媚の浜坂。この歴史ある水と緑と砂と光の自然の中に、今では教育・保育機関、医療機関、福祉介護施設などが次々と集積し、益々地域の吸引力を増しながら、人に優しい住環境を求める人々を魅了し続けている。

 地区人口や児童数は増え続け、城北小学校から分離独立した浜坂小学校は、今や鳥取市最大のマンモス校に成長し、続いて中ノ郷中学校や中ノ郷小学校も誕生した。
今日も地域中に子どもたちの明るい声が高らかに響いている。

2.光と陰と希望の未来

 昭和40年代に、浜坂砂丘の砂地に初めて住宅地が拓かれ第一世代が移り住んで50年。この半世紀に渡る浜坂地区の発展ぶりには驚くばかりである。
 昭和20年代末の、江戸時代から変わらぬ150余の浜坂地区 戸数は、現在、3千3百戸に達するという。

 しかし、新規住宅地を中心に児童や若い世代が急増する一方で、半世紀が経過した浜坂団地やみどり会などでは高齢化や独り暮らし、空き家も目立つようになった。浜坂・江津・新田の旧村落では、世帯数の減少や高齢化、若者の流出などを嘆く声が聞こえ、宅地化した面積が水田や畑の面積を逆転し、新しい住宅地の中に田畑がポツンと残っているような景観も珍しくなくなった。

 「昔は朝5時から農作業を行なったものです。しかし、今は周囲に建て込んだ住宅から騒音の苦情がくるので、日が昇って暑くなった8時以降とせざるを得ません。(江津)」 これらも本地区の現実である。
 また、宅地開発は豊かだった自然や歴史景観を壊し、急激な新規流入人口の拡大は地域を寄木細工のように変え、地域の歴史文化を希薄化し、風化させていく。

 長い歴史を持つ旧村落と新規住宅地の人々との間、または新規住宅地の住民の中においても、自然・文化・歴史・暮らしなど、様々な価値相違が存在することは不可避のこととなり、時間をかけながら地区としての一体感を醸成していくことが、益々重要になっていくと思われる。そして、それは地域の歴史文化を知ることから始まるのではないだろうか。

しかし、一方で、光と陰はあっても、浜坂地区の明るい未来は揺るぎないものだと信じる。理由は、地域に溢れる子どもたちの笑顔と明るい声である。彼らこそが地域の最も誇るべき宝であり、希望に満ちた未来なのである。

 彼らがこの地を愛し、この地から大きく羽ばたき、このふるさとを、鳥取を、日本を発展させてくれることを願ってやまない。
 本誌がこの地区の子どもたち、人々にとって、歴史文化を学び共有する小さなステップとなれば幸いである。