小学校下の川沿いを歩きながら風に吹かれると、ふと目をやり思い起こすものがある。

右手に都築山(鳥取市浜坂)
右手に都築山(鳥取市浜坂)

 小松ケ丘西裏手から二本松公園方面へ大きく立ち上がる崖に穿たれた数十もの横穴群の記憶である。遠い子どもの頃のことである。現場は遺物の発掘中でも管理は厳重でなく、当時小学生だった私も気軽に登って横穴を覗き込んだり、中に入り込んで土を掘ってみたものだった。

 横穴群は古墳時代末期(6世紀後半から7世紀後半)の埋葬施設だが、その崖の斜面層から縄文中期の生活痕跡も発見されていることから、3千年以上に渡って我々の祖先がここで生活したことになる。

 いつの頃からか飛砂に埋もれ、昭和39年の工事でようやく砂中の深い眠りから醒めたこの横穴群遺跡は、ほぼ当時の原形を保っているように見えた。それはこの丘陵地形が3千年の間、地震や大水にも崩れることなく保たれてきたということである。

古墳時代の横穴式墳墓遺跡と縄文遺跡(鳥取市浜坂)
古墳時代の横穴式墳墓遺跡と縄文遺跡(鳥取市浜坂)

 眼を静かに閉じ、そんな縄文時代の浜坂を想像してみよう。

 現在は袋川に狐川が秋里で合流し、さらに浜坂弁天付近で摩尼川が合流して千代川河口へと向かうが、当時は、原始の千代川とその支流が、幾筋もの広く深い流れ、細く浅い流れとなって人の丈ほどの葦草やガマの穂が群生する湿地帯を、緩やかに蛇行しながら河口へ向かっていただろう。

 どの流れも美しく澄み切り、覗き込むと群れで泳ぐ無数の魚の背が、陽光にキラキラ光って見える。魚を狙って水鳥が空を舞い、潜り、鳴く。この水鳥の群れこそが後世の鳥取の地名の由来である。

 流れは多くの分流を生み、分流は更に細い枝葉を網の目のように拡げている。これと同様な湿地帯又は干潟が、西は久松山系、東は千代川河口を越えて晩稲、賀露、湖山池。南は現在の中央病院が立つ江津の向こう、千代川に沿って視界が中国山地に遮られる二十キロ先の河原辺りまで広がっていただろう。

 江津、河原などの地名が表すとおり、中国山地から水と砂を集めながら流下する千代川が、気の遠くなるような時をかけて創った広大な扇状地形である。水底は白く光を反射して眩しい。砂丘の風紋のように水流が白砂や黒い砂鉄で砂紋をつくっている。中に入れば、タニシ、砂をすくえばシジミや、名もない小貝がこぼれ落ちる。

 人は水を手ですくって飲み、水浴びをし、貝を漁る。細く浅い末端の支流に、木の枝でつくった堰を設け、膝まで入って魚を追い込むと、無数の小魚や小えびの群れが押し合いへし合いしながら跳ね、逃げ惑う。
 川の流れに沿い河口を経て海まで出れば、岩礁に豊富な緑の海草や貝が群生し、岩の窪みでは海水が干上がってできた天然塩も手に入った。

 時化あとの早朝には、遠浅の砂浜海岸にはおびただしい数のイワシなどの小魚が打ち上げられて銀色に輝きながら跳ね回っている。海鳥と競って拾いあげると、住居近くの竹林の竹や葦草で編んだ籠が直ぐに一杯になる。

 振り返れば砂丘がある。

 砂丘に沁み込んだ雨水は天然のろ過機構で磨きぬかれ、近隣の窪地のあちこちで冷たい水晶のような湧水となって吹き出ている。浜坂砂丘から連なる久松山系はどんぐりや椎などの木の実・山菜・きのこ・野生のイモやツルなどの山の幸、兎や鼬・鹿・猪などの小動物のけものの宝庫だ。

 毎日太陽が昇ると、清冽な空気の中、女たちは籠を手にして川や海へ出かけ、男たちは精悍な貌の赤毛の犬たちを伴って山へ出かけた。

 犬たちは小柄でいかにも敏捷そうだ。真っ直ぐに天に向かって立った耳は知覚の鋭敏さを示し、きりりと巻き上がった尻尾が気性の清清しさを示しているようだ。
 残った子どもたちの周りを子犬たちが走り回って遊んでいる。縄文土器にも刻まれた日本柴犬の祖先、縄文犬だ。

 夕方、陽が落ちる頃、西の空は茜色に染まり、川面は残照を映している。遠くで鯔(イナ)が跳ねた。大空ではとんびが輪を描きながらそれを狙っている。ピーヒョロロロローの声が夕暮れの空に溶けていく。

 夜は崖中腹の高台の住居や天然の岩陰で眠る。犬たちも人に寄り添って眠りながらも、外部からの侵入者に警戒し、敏感に反応して吼えた。
 
 川は眼下を流れ、海まで、そして山までも近い。住居は南向きで暖かな日差しが燦燦と差し込み、川面からは10メートルの高さにあって、時として大竜のように暴れ回る川水に襲われることはない。
 崖は重厚な花崗岩の岩盤の上に立ち地震にも強い。南からの台風は中国山地が守ってくれる。

 水に恵まれ、豊かな山の幸やけものの幸、無尽蔵の魚貝類。これが祖先たちが深く愛したふるさと浜坂である。
 この想像は、全て子どもの頃の浜坂や十六本松の記憶を引き伸ばしたものだ。子どもの頃の千代川河口は美しかった。水は透き通って美しく、足下をハゼやゴズなどの小魚が逃げていった。

 海に向かって葦の茂みに覆われた美しい砂州が伸び、スコップで砂泥を掘ると釣りの餌にするゴカイがざわめき、ときおりドジョウが這い出し、黒いシジミが宝石のようにこぼれた。
 葦草で囲まれた小さな入り江でゴカイやみみずを餌に釣竿の糸を投げると、鮒、鯉、セイゴなどが面白いように釣れた。千代川方面へリール竿で投げ込むと、丸々と太ったハゼが食いついた。

 夏の海では、突堤に沿った岩礁下に潜るとカキや貽貝。砂地ではハマグリやアサリがザクザク採れ、浜に火を熾して金網で貝を焼く。山では隠れ家をつくって遊び、くるみや栗の実を採った。木の枝や竹で刀、丸めた新聞紙や杉の実を弾にした紙鉄砲や杉鉄砲をつくり、敵味方に分かれて戦った。その頃には、まだまだ豊かな自然が残っていた。

 しかし、この半世紀で大きく変ってしまった。
 
 子どもは川に、海に、山に行かなくなった。春の小川には蛙の卵やオタマジャクシ、アゲハチョウ、オニヤンマ、塩辛トンボもいない。紫や黄の、一面の蓮華畑や菜の花畑は遠い思い出の中だけだ。田畑は次々と埋め立てられていき、梅雨時期の蛙の大合唱は絶えた。
 夏、海やキャンプを楽しんだ十六本松の松林や葦草が繁茂した美しい砂洲は消え、自転車で轍をつけながら走った河口の浜はコンクリートで覆われた。

 秋の夕焼け空に舞う赤トンボは激減し、冬に橇やスキーを楽しんだ浜坂スリバチは埋立てられて住宅地に変わってしまった。もちろん、小松ヶ丘の横穴群遺跡も削りとられて住宅地に変わってしまった。そこに古代人が暮らしていたことを知る住人はどれほどいるだろうか。

 縄文時代の浜坂。夢の中であっても行ってみたい。縄文の風に吹かれてみたい。