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Ⅰ. 砂との闘いの歴史
1.グライダー訓練所・陸軍浜坂兵舎
2.小学校教科書に載った『砂防の苦労』
3.鳥取大学・原勝教授の砂防造林
4.鳥取砂丘の自然保護活動
除草活動や砂丘清掃
砂丘海岸の浸食とサンドリサイクル
5.日本一の砂丘らっきょう
Ⅱ. 観光、行楽・レジャー
1.国民宿舎砂丘荘
2.行楽地として賑わった十六本松
運動会・ピクニック・海水浴・キャンプ・茶会など
キャンプ場・料亭・売店・ゴルフ場
3.今は無き「浜坂の小すりばち」
4.観光地としての鳥取砂丘
観光客数の推移と課題―活性化に向けた取り組み
リゾートホテルの進出(2022年予定)
Ⅲ. 鳥大乾燥地研究所
1.研究所の歩み
2.世界の研究センターへ
3.チューリップの思い出
Ⅰ. 砂との闘いの歴史
1.グライダー訓練所・陸軍浜坂兵舎
昭和17年(1942)、浜坂砂丘に中国地方唯一の滑空訓練所が設立され、鳥取砂丘は全国有数の初級滑空士養成所として有名になり、各県から入所者があった。「鳥取県航空青少年隊」も設けられた。
旧中学生も訓練を受けた。現浜坂小学校の北隣りにあった木造、黒瓦の寄宿舎で、約百人が一週間くらいが寝起きして訓練を受けた。
当時の話では、「第1回目の発射は、現在の武田家近くから砂丘方向に。村の婦人が、1組20人くらいでゴムを引っ張り、合図で手を放す。市場屋のおばあさんが乗った。2回目の発射から場所を鳥打山の護国神社付近に変更された。近くにグライダー修理工場もあり、柳茶屋には格納庫が二棟あった。」(「公民館浜坂」・「鳥取・因幡の歴史」)
昭和18年(1943)、陸軍の浜坂兵舎が新設された。兵舎の管理人として、日中戦争の負傷兵、元高官軍人の奥田氏(明治34年生)が就いた。兵舎は、戦後に鳥大農学部乾燥地研究所として残された。兵舎ができたのも、鳥大が広大な地域に試験栽培できるのも、根本は乾燥研入り口の1日1600トンの湧水のおかげである。 (「公民館浜坂」)
近所に住む奥田隆治さんの話では、「この湧水池には子どもの国方面と海側の2系統から地下水が流れ込んでいた。父親が浜坂兵舎の管理人の頃、湧水は家の傍に5,6mほどの美しい池をつくり、海水浴の帰りにはその中で遊んで体の潮を流した。」 また、「溢れた水が乾燥地研から東ひばりが丘に向かう下道に沿って川になり、道の中間地で大きな池を作った。冬はカモなどが飛来し、飛び立つのを網たもで取って冬のタンパク源にした。高砂被災者住宅の人々はこの川から生活水を採水していた。今は埋め立てられ住宅が建っている」とのことである。
いかに当時の湧水量が多かったかを物語る話である。現在の水量の減少は、乾燥地研究所の水利用の他に道路や建物類が影響しているという。
2.小学校教科書に載った『砂防の苦労』
「戦中戦後の鳥取市民にとって、砂丘は数少ない身近な行楽地であったが、その一方で、砂丘の開墾と飛砂とのたたかいが日夜続けられていた。農作物は砂と風によって埋もれたり、引きちぎられ、さらには砂は道路に押し寄せ、住居の中にまで侵入してきた。
浜坂の砂防の歴史が昭和61年(1986)発行の国語教科書に載った。小学校四年生用で、題名は「砂防の苦労」。鳥取市内の小学生が当時の浜坂砂防組合の伴組合長(明治28年・1895生)に聞き書きしたものだ。当時の人々の苦労を感じて欲しい。」
「鳥取の浜坂に砂丘の砂が押し寄せてきたそうです。小学校の一年生のときまで、れんげが美しく咲いていた田んぼも、三、四年生頃には砂地になってしまったそうです。それで、夏には熱くなった砂の上を、わらじをはいて学校に通った。吹き寄せる砂のために、つぶれた家もあった。また、田畑には作物が作れなくなりました。今まで田んぼだった所には稲の代わりに「ぶどう」を作りました。でも、夏は水に困りました。そのため遠くから桶に水を汲んで、熱い砂の上を何回も何回も通って、畑に水をやらなければならなかったそうです。そのうち、ぶどう畑にも、年々砂が積もっていったということです。
そこで、浜坂の村では砂防組合を作り、村に押し寄せてくる砂を防ぐ方法を考えました。」
「・・・松の木とニセアカシアを交ぜて植えました。それから2メートルの長さの竹を重ねて針金でしっかりしばり、竹のすを作って砂丘にかき根のように立てました。その前には、ピーチグラスという草を植えました。そうすると、風に強く成長の早いニセアカシアは、上にぐんぐんとのびていきました。ニセアカシアに守られて、松もだんだん大きくなります。
こうして、とうとう砂防林ができたということです。この砂との闘いは、30年も続いたということです。今では、松林の南側には風紋もつかなくなくなるほど風が防げるようになりました。そして、たくさんの野菜や果物がとれるようになりました。多くのビニールハウスができ、冬でも作物が作られています。夏はスプリンクラーも勢いよく水をふき出しています。」 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
3.鳥取大学・原勝教授の砂防造林
「昭和20年(1945)8月の太平洋戦争終了後、国民の緊急課題は食糧増産であった。昭和28年(1953)、全国の砂丘地を対象にして、「海岸砂地地帯農業振興臨時措置法」が制定された。これを受けて、前年に国から払い下げられていた浜坂砂丘の全面緑化方針が打ち出され、現観光地の鳥取砂丘地を保全した上での砂防造林が始まった。
全国の砂防林の工事は、ほとんどが鳥大の原 勝(はらまさる)教授の考え出した工法によるという。
その工法は、海岸線から50mのところに、堆砂垣(高さ1m、直径7cmくらいの竹を2m間隔に砂に埋め込んで支柱とし、その間に横に三列の竹をわたし、割り竹で編んだ簾(簾)を取り付ける)をつくる。次に静砂垣(30m四方を一区画として垣を設け、さらに、その中を10m四方に仕切って、高さ50cmの垣を張り巡らす。碁盤の目のように)をつくる。最後に、静砂垣内にクロ松とニセアカシアを混植する(1haあたり1万本)。植えた後は、稲ワラで覆い、両端を砂で押さえておく―。
浜坂の橋本和子さん(大正8年生)談 『「すだれ」に使う「ヨシ」は、最初の頃は、十六本松やら重箱から刈りとってきた。無くなったので袋川沿いに生えている小竹を使った。これも無くなり、「モウソウ竹」を使うようになった。浜坂団地に何人か器用な人がいて、きれいにモウソウ竹を割っていた。これを役員が各自の家に運ぶ。家にある「コマゲタ」という道具で3ヶ所を2mの長さで編む。5枚がらみにして持っていくと組合が金を出してくれた。
砂防事業に出るのは、浜坂65人くらい、新田20人くらい、出た人を4班に分け働いた。今でも12月の休日に2回ほど村の事業でアカシヤ切りをやっている。それをしないと松が育たない。」 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
十六本松砂丘や浜坂砂丘の至る所に上記の堆砂垣、静砂垣があったことを思い出す。先人たちの苦労あってこその砂丘の自然と共存する現在の住みやすい住宅地であろう。
4.鳥取砂丘の自然保護活動
除草活動や砂丘清掃
(鳥取市浜坂)
鳥取砂丘では昭和45年(1970)頃から外来の雑草が繁茂し、砂の移動が減少して美しい風紋が見られなくなるなど、本来の景観を損ねる深刻な問題になってきた。
草原化の主な原因は、海からの砂の供給減少と砂防林の生長である。生長した砂防林は風速を弱め、湿度上昇など砂丘内の気象環境に変化を与えた。このような微気象変化を受けて、砂の流動が停滞し、草が生え始めた。草地が形成されると砂の固定が強化され、草地はますます拡大していった。雑草や帰化植物が侵入し、砂丘植物を駆逐する現象さえ生じたのである。
砂丘除草の取り組みは、昭和60年(1985)頃から自然保護団体が草抜きや除草剤散布などを行ってきたが、平成6年(1994)より鳥取県や鳥取市、福部村が本格的に取り組み始めた。また、昭和55年(1980)からは、毎年春と秋に市民や事業所などによる鳥取砂丘一斉清掃が始まった。第63回目の平成23年(2011)の清掃では、85団体、
約3,500が参加し、1トンのゴミが回収された。
(「山陰海岸ジオパーク(鳥取砂丘の保全活動)」・「鳥取砂丘の開発と保全」)
砂丘海岸の浸食とサンドリサイクル
鳥取県は総延長約129kmの海岸線を有し、うち約60%が砂浜海岸であるが、ほとんどの海岸で侵食が深刻化している一方、砂の異常堆積により港湾施設の機能障害が問題となっている。
鳥取砂丘前面の海浜も例外でなく、鳥取砂丘の海岸はここ数十年で40m近く後退している。一方で、西端の鳥取港と千代川河口および東端の岩戸漁港と塩見川河口での堆砂が認められている。山間部の河川に砂防提が築かれ、千代川上流からの土砂供給が減ったことだけではなく、鳥取港の防波堤や岩戸漁港防波堤等による波の遮蔽効果に伴って鳥取砂丘前面から千代川河口や岩戸漁港側へ向かう沿岸漂砂が起ることも判明している。
対策として鳥取県では平成17年度(2005)、鳥取砂丘への侵食の波及を防止するために, 浚渫土砂の沖捨てや埋立てを禁止し、鳥取砂丘前面に投函するサンド・リサイクルを実施する土砂管理計画を策定し、実行している。(「鳥取沿岸の侵食実態 と総合的な土砂管理の検討」・「鳥取砂丘の浸食について」)
5.日本一の砂丘らっきょう
鳥取丘近隣の砂丘畑で栽培される白ねぎ、らっきょう、長いもは特産品である。特に、砂丘らっきょうの歴史は江戸時代までさかのぼり、参勤交代のとき小石川薬園より持ち帰ったといわれている。
らっきょうは生命力が旺盛で砂丘地でも育つということから、少数の農家で自家用として栽培されていたが、戦後以降のスプリンクラー灌水が導入された頃から本格的な大規模栽培が始まった。植え付けは7月下旬から8月末ごろまでかけて行う。秋になると紫色のらっきょうの花が一斉に咲き、その光景は一面に紫のじゅうたんを敷き詰めたようで「砂丘のラベンダー」とも形容される美しさである。収穫は冬を越し、翌年5月~6月に行う。
平成28年(2016年)における都道府県別のらっきょうの生産量シェアは、鳥取県38.2%、2位は鹿児島県の22.7%、3位は宮崎県で19.2%となっている。「砂丘らっきょう」は、シェアナンバーワンの鳥取県において栽培面積の約6割を占めている。
「砂丘らっきょう(全農とっとり)」・「らっきょう生産量の都道府県ランキング(平成28年)」)
Ⅱ. 観光、行楽・レジャー
1.国民宿舎砂丘荘
昭和30年代の国民生活の安定によるレジャーブームの高まりで自然公園や温泉地に旅行する人たちが激増した。これを受けて昭和37年(1962)に「砂丘荘」として開荘し、昭和42年に浜坂地域で湧出する温泉を宿舎に引いて温泉浴場を新設。
昭和40年(1965)の天皇・皇后両陛下の行啓を機に国道9号線が舗装完成され、砂丘荘の立地条件はますます高まり、昭和45年度(1970)18,000人、47年度32,000人、50年度36,000人を記録した。しかし、その後の観光客の減少に加え、砂丘観光の中心地移動(砂丘荘前から現在位置へ)などにより減少し、51~52年度の2年連続と55~59年度の5年の連続赤字となった。
60年(1985)度の市議会で市長は、1億円近い累積赤字を抱える直営砂丘荘を廃止する意向を明らかにし、61年度より鳥取市ホテル旅館組合へ民営化を委託した。その後、平成9年(1997)度、利用者数の更なる減少で閉館した。 (「鳥取市誌」)
平成11年(1999)、「子どもの国」に隣接する地に民間のニュー砂丘荘が国民宿舎としてオープン、現在に至っている。
2.行楽地として賑わった十六本松
運動会・ピクニック・海水浴・キャンプ・茶会など
浜坂砂丘(鳥取砂丘)の西端にあたる千代川河口に沿ったかなり広い地域を指している。十六本松は通称で、正式な字は伴山。安永~天明年間(1772~1789)鳥取藩主の命令で300石取りの家臣伴九郎兵衛が、禿山に黒松十六本の小松を植えたからだと伝えられている。(「鳥府志」)
明治初期から行楽地となり、当地の砂丘地に出かけることを「浜出」と称した。十六本松の対岸は賀露港、鳥ケ島などあって景色よく、袋川と千代川が合流して船の便も良かった。小学校の遠足、運動会、海水浴、職場や町内会の運動会、懇親会、家族連れのピクニックなどで大盛況であったという。
また、各々お茶の流派毎に、春秋の季節の良い時期に野点(茶会)が行われていた。お手前のお湯は、茶店の東の井戸水で、非常に美味しいと評判が立った。この水は鳥取砂丘の砂を濾して出てくる水であった。(「中ノ郷の生い立ち」)
尚、「荒神山南面下からも豊富な湧水があった。新田地区の殆どどこを掘っても水が湧いた」とも聞く。(浜坂新田聞き取り)
文部省が明治27年(1894)、体育重視の訓令を出してから、学校の運動会が広く普及するようになった。 当時は、広い運動場を持つ小学校は少なかったので、鳥取市の小学校は十六本松や千代川流域(田島川原、安長川原など)で運動会を行うことが多かった。
また、明治30年代には春秋の年2回実施する学校が増え、種目も多彩になった。40年代に入ると、校庭で運動会を催す学校が多くなり、明治41年(1909)10月31日、醇風尋常小学校が「初メテ校庭ニ於テ秋季運動会ヲ催シ」ている。 (「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「中ノ郷の生い立ち」・「ふるさと城北の宝」)
キャンプ場・料亭・売店・ゴルフ場
「昭和10年(1935)頃、場所は不明だが料亭『清風荘』があった。川端や若桜橋付近のお乗り場から十六本松行の屋形船が運行されるなど、市民にとって身近な遊楽の場であった。」 (「はるかな鳥取」)
また、同じ頃、その隣に「魚料理の森」があり、千代川や日本海でとれた魚を提供していたようである。
昭和50年(1975)頃までは、アスファルト道は松林の入口までしかなく、砂道を80m入ったところに茶店があった。その周辺は松林で十六本松キャンプ場と呼ばれていた。松林の中には廃墟となった白ペンキのゴルフクラブハウス、そして、朽ちつつある大きな木造建築の基礎部分が残っていた。恐らく、それが上記料亭などの残痕であったのだろう。
昭和50~58年(1975~983)に及んだ千代川河口の整備に伴って松林は消えた。人も途絶え、昭和56年(1981)、中谷商店は去っていった。現在は、浜坂八丁目の住宅地に造成され、当時を偲ぶこともできないほど変わってしまった。
「十六本松海岸に海水浴に行った帰りには、必ず中谷商店に寄ってカキ氷を食べた。赤いイチゴ、黄色いレモンなどの鮮やかな色が懐かしい。」・「町内会の運動会、小中高の遠足やキャンプ。海水浴。千代川では釣り。ふな、こい、せいご、はぜ、うなぎ、うぐい、ボラなど多彩。海近くまで行けばカレイ、鯛、キスなど。水は透明で水深1mまで魚影が見えた。十六本松バス停近くの茶店は、永くかき氷などを提供してくれた。古き懐かしい思い出である。」 ・ 「『行軍』と称した旧中ノ郷小学校時代の遠足では、弁当を持って十六本松まで歩いた。夏には遠泳があり、砂丘海岸から海士島(あもうじま・通称くじら島)まで舟の伴走つきで泳いだ。小学校5年生くらいのときだった。」(浜坂聞き取り)
昭和28年(1953)頃、十六本松林の奥にゴルフハウスが出来た。林を出た所が最終ホールで、当初9ホールだったが、昭和34年頃に18ホールになった。現金収入の無い地元民は、大人も子どももキャディーのアルバイトをした。一日50円だったという。砂浜のゴルフ場のキャディは重いバッグとホール前の砂掻きをするためのトンボも一緒に持ち歩くために大変であった。
昭和40年、昭和天皇をお迎えした砂丘の鳥取ゴルフ倶楽部が誕生し、この十六本松ゴルフ場はその役割を終えた。今はゴルフコースの場所さえ判別できない。 (「中ノ郷の生い立ち」・浜坂新田聞き取り)
3.今は無き「浜坂の小すりばち」
「小学生の頃のスキーと言えば浜坂スリバチである。冬場の休日には、ふちに堀建小屋が建ち、近隣のおばあさんたちがラーメンやうどんを一杯50円で提供していた。すりばちの最下部は緑に覆われていたが、そこから一年中、こんこんと清水が湧き、浜坂の村へ流れ下っていた。夏、小学校から歩いて帰る時には浜坂村の中を通り、流れる冷たく透き通った水で喉をうるおしたものである。」・「昔(昭和40年代)、冬の寒さで水道管が凍って水が出ないことがあり、浜坂スリバチ底の湧水を汲みに行ったことがある。その頃の浜坂すりばちは大震災の崩壊で浅くなった後のもの。昔の写真を見るとその深さと斜度は驚くほどである。」(浜坂聞き取り)
何事にも、それがあるときにはその貴重さ、そのありがたさを感じることは少ないものである。しかし、当たり前のように存在したものが消え去ってしまったとき、そのかけがえのなさを想うものである。
「明治・大正・昭和のはじめ頃まで柳茶屋の裏には、上ノ山(こどもの国)から透いて出るきれいな清水がこんこんと湧き出してていた。この湧き水は一旦砂に潜り、下の浜坂スリバチの底から音のするほどの勢いで噴き出し、これが浜坂村中を流れ、村の生活水であった。浜坂スリバチは宅地造成で消えてしまったが、この湧水は今でも止まることはなく、村を流れ続けている。」(「中ノ郷地区の生い立ち」)
「浜坂すりばちは浜坂集落の少し上にあった。
昔の砂丘遠足はこのスリバチ周辺を根拠地に一日を過したものである。浜坂すりばちのことを『小スリバチ』と呼んでいた。大スリバチ(追後スリバチ)をひとまわり小さくした形だったからである。
小スリバチの斜面の下には地下水が湧出していて、徐々に斜面の砂を流している状態をつぶさに観察することができた。湧き水がせせらぎになって流れるあたりには、ベンケイガニやアカテガニをはじめサワガニもたくさん戯れていた。ズボンをまくり上げて15度から20度の斜面を一気に駆け下りたり、下から駆け上がる競争をして遊んだものだ。
また、スリバチの底に穴を掘り、水が澄むのを待って手ですくって飲んでいた。冷たくておいしい水だった。その後、宅地造成によって埋め立てられ、さまざまな思い出も砂とともに埋没してしまった。
おそらく、小スリバチのような地形は永久に出現することはないであろう。まことに残念である。」 (「ふるさと城北の宝」)
「明治40年(1907)頃の浜坂スリバチは傾斜面は短く、底に水が満ち溢れていた。昭和18年(1943)頃には、傾斜面は長く、底は6畳くらいの水面になっていた。東部地区の小学校の遠足は、ほとんどこのスリバチであった。
昭和18年9月の鳥取大震災でこの浜坂すりばちは上からの砂で埋まり、10mほど浅くなった。昭和40年(1965)頃、底の茂みの密集で水は見えず、冬にはたくさんのスキー客が利用した。
平成5年(1993)、スリバチがあった付近は埋め立てられ住宅化しており、かつての面影はない。○○邸の南側下あたりが、スリバチ底の水が湧くところであった。」(「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
4.観光地としての鳥取砂丘
鳥取砂丘は日本一の海岸砂丘として鳥取県を代表する景勝地であり、県内最大の観光資源の一つである。正確には福部砂丘から白兎砂丘までを含めた東西16km、南北2kmに広がる地域全体を指すが、観光用として利用されているのは良好な砂丘景観が見られる中心地域であり、この地域は国立公園の特別保護地区と天然記念物に指定されている。
鳥取砂丘はその景観に大きな特徴がある。海岸砂丘にも関わらず起伏が大きく、高低差は最大92mにもなる。海岸近くの通称馬の背と呼ばれる第二砂丘列でも海抜は47mになり、高低差は日本一となっている。また、風による砂の移動・跳躍によって風紋、砂柱、砂簾、スリバチなど多様な地形がみられることも特徴である。最大傾斜32度、標高47mの「馬の背」から眺める青い日本海の海岸線は絶景である。夏には海水浴も楽しめ、夜には沖にイカ釣り船の漁火が浮かんで季節の風物詩となっている。
近隣には、砂の美術館や子どもの国、柳茶屋キャンプ場やサイクリングターミナル、ゴルフ場、日本海を見おろす砂丘温泉などがある。また、砂丘周辺には有島武郎をはじめとして多くの歌人の歌碑がある。 (参考「鳥取砂丘観光の課題と方向性」)
Ⅲ. 鳥大乾燥地研究センター
1.研究所の歩み
戦後間もない昭和21年(1946)、鳥取農林専門学校(後の鳥取大学農学部)の遠山正瑛教授が陸軍浜坂兵舎近くで、砂丘の開墾を目的に約230haの一時使用を大蔵省に申請したのが始まりである。
昭和24年(1949)、鳥取大学発足とともに浜坂砂丘の旧陸軍用地において砂丘地の農業利用の研究を開始した。昭和26年(1951)、鳥取大学農学部(鳥取農林専門学校から改組)と鳥取市は鳥取砂丘を東西半分ずつ国から譲渡された。同年、西の半分の敷地で「浜坂砂丘試験地」が開設され、昭和33年(1958)には正式に「鳥取大学農学部付属砂丘利用研究施設」となった。東の半分が観光地の現鳥取砂丘である。
(「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「鳥取砂丘の開発と保全」乾燥地研究所)
2.世界の研究センターへ
「砂丘利用研究施設」はその後、年ごとに整備・拡充され、平成元年(1989)には全国の共同利用施設として独立、「鳥取大学乾燥地研究センター」に改組された。日本で唯一の乾燥地に関する基礎的な研究を行う機関として、主な研究テーマは乾燥地の砂漠化防止と開発利用となっている。
その背景には地球の陸地面積の約半分を占める乾燥地で、毎年、四国と九州を合わせたくらいの土地が砂漠化している現状がある。日本にはいわゆる砂漠はないが、長年にわたって蓄積された経験や技術を世界の乾燥地に応用できるように研究が進められている。
現在は、中国、シリア、スーダンなどの乾燥地を舞台に研究が行われる一方、全国の共同利用施設として国内外の大学や研究機関から多数の研究者を迎えての共同研究も活発に行われている。(「ふるさと城北の宝」・「鳥取大学乾燥地研究センター」)
3.私のチューリップの思い出
昭和30年代末から昭和40年にかけて、鳥大砂丘研究所へ下る坂道がまだ舗装されていなかった頃、その坂道沿いの左右の砂地に黄、赤、白、紫などの大玉のチューリップが植えられて晴れやかな景観を呈していた。記憶もフル天然色である。研究所に向かう下り道から少し左手の潅木の茂みの中に入ると、無数のピンクの野生のバラが群れとなって咲き誇っていた。
そして、その下には砂地から染み出た水晶のように透明な水が小さな流れをつくっていた。人は入らず、静かで、清楚で、夢のように美しい場所だった。そこに家族で弁当を持っていった記憶がある。
50年が経ち、道路は舗装されて街灯がつき、周囲は住宅で埋まり、小学校や幼稚園もできた。便利になったものの、夢のようと思った茂みの向こうにはアパートが建ち、アパートと道路の間の空間は人が立ち入ることのできないほどに雑木やツタが鬱蒼と絡み合い、大きな樹木は陽を遮って暗く、風のない、ゴミも散らばる残念な一帯となってしまった。チーリップュが咲き誇っていた坂道沿いは生命力の強い柴や雑草が覆い尽くし、かつての面影は全くない。春、この時期になると砂地の松林では松露がとれた。特に雨の翌日には無数の松露が砂地から顔を出した。熊手で松の根元近くを掘り起こすとゴロゴロと松露が採れた。数時間で袋が一杯になった。
時代が進み、防風林、砂防林が育って砂が止まると、砂地には芝や雑草が生えて松露は激減した。砂地から染み出る豊かな水流も一部を残して涸れた。人間の生活は便利になったものの、その引き換えに多くが失われた昭和の成長時代だった。