昭和20年頃の様子

 昭和20年(1945)頃の鳥取大学乾燥地研究センター付近の様子です。旧陸軍の建物が中央下方に見えます。ここを拠点に遠山正瑛・鳥取大学名誉教授らが実験農地を切り開いていきました。

 昭和29年頃の研究所の南側。左上方は現在の浜坂団地(第三幼稚園方向)で、右上方の山は都築山の北側です。

奥田隆治氏提供

初期の管理棟(旧陸軍官舎を使用)

 昭和31年頃、スプリンクラーが農場に使われ始め、各地から視察者があとを絶たない状況だったようです。

奥田隆治氏提供


 左下に、砂丘湧水を試験農場につかうためのポンプ小屋(現存)ができています。

奥田隆治氏提供

昭和40エ年代後半になると、一気に新しい住宅群、市営アパート群が立ち始めます。
旧兵舎前に丸いプール、その右方に池が見えます。昭和初期、訓練を終えた兵隊さんが裸になってこの池に飛び込んだそうです。

天皇皇后のご視察(昭和40年)

 昭和40年(1965)5月の大山植樹祭の行啓の折、鳥取市では県庁、西高等学校、護国神社、紙子谷の二十世紀梨などご視察になった後、小銭屋旅館にご宿泊。翌日、鳥取ゴルフクラブで日本海と鳥取砂丘をご展望後、鳥取大学農学部砂丘研究所をご視察になりました。尚、翌年の昭和41年、当時の皇太子ご夫妻もご視察に訪れていらっしゃいます。

昭和40年 天皇皇后両陛下のご視察
昭和40年 天皇皇后両陛下のご視察

高松宮のご視察(昭和34年)

 昭和34年(1959)、高松の宮が砂防視察で来鳥されたとき、浜坂スリバチ上部から多鯰ヶ池に抜ける道路が出来たとのことです。当時はまだ未舗装の砂利道で、強い風が吹くと道は厚い砂で覆われたようです。この道が舗装されたのは天皇皇后ご来鳥の昭和40年のことです。  

昭和34年 高松宮のご視察
昭和34年 高松宮のご視察
昭和34年 高松宮のご視察
昭和34年 高松宮のご視察
昭和34年に開かれた「子どもの国」前の道路
昭和34年に開かれた「子どもの国」前の道路

 下の写真では、中央に砲台跡が認められます。現在は、完全に風化して残っていません、

昭和30年頃の砲台跡と一里松(鳥取市浜坂)
昭和30年頃の砲台跡と一里松(鳥取市浜坂)

旧兵舎前の湧水プール(昭和24年)

 砂丘の豊かな湧水で、研究所(旧兵舎)手前には、写真のようなプールができていたといいます。水源は2ヶ所で、一つは現在する乾燥地研究センター手前、もう一つは写真のプールを生んでいたセンター海側のものです。

奥田隆治氏提供
奥田隆治氏提供

双子スリバチの湧水がつくっていた池

 研究所(旧兵舎)付近にあった2つの湧水水源を、研究所が試験場に使用するまでは、湧水は下流で大きな池を作っていたといいます。現在、水源2ヶ所のうち、海側のものは(地表には)消滅しています。

奥田隆治氏提供
奥田隆治氏提供

砂防垣

 戦後の鳥取市民にとって、砂丘は数少ない身近な行楽地となりましたが、その一方で、砂丘の開墾と飛砂とのたたかいが日夜続けられていました。農作物は砂と風によって埋もれたり、引きちぎられ、さらには砂は道路に押し寄せ、住居の中にまで侵入してきました。この砂を止めることが砂地農業を始める第一歩だったのです。砂防垣、砂防林の工事は、ほとんどが、「砂防造林の父」と呼ばれる鳥取大学の原 勝(はらまさる)教授が考えだした工法です。
 海沿いに、竹の垣根をつくって砂を止め、その上にまた垣根をつくり、人口の砂山を大きくします。出来上がった10mの高さの砂山を風除けにして植林を進めました。

砂丘研究所がつくった砂防垣
砂丘研究所がつくった砂防垣
砂防垣をつくる(「日本風土記・鳥取砂丘」より
砂防垣をつくる(「日本風土記・鳥取砂丘」より
砂防垣を編む婦人たち
砂防垣を編む婦人たち

チューリップ畑

昭和40年頃、砂丘研究所(当時)周辺にはチューリップが咲き誇り、多くの観光客が訪れていました。

砂丘のチューリップは高
砂丘のチューリップ畑
鳥取大学乾燥地研究センターのチューリップ畑
鳥取大学乾燥地研究センターのチューリップ畑

センターの建設

昭和37年頃に現センターの建設が始まります。右下が旧陸軍兵舎をそのまま利用した従来の木造管理棟です。

鳥取大学砂丘研究所の建設奥田隆治氏提供
鳥取大学砂丘研究所の建設奥田隆治氏提供

昭和50年頃の様子です。まだ、単独棟です。

昭和50年頃の砂丘研究所
昭和50年頃の砂丘研究所
現在の鳥大乾燥地研究センター(鳥取市浜坂)
現在の鳥大乾燥地研究センター(鳥取市浜坂)