鳥取砂丘でのグライダー練習

太平戦争中の昭和17年頃。鳥取砂丘は全国有数の初級滑空士養成所として有名になり、各県からも入所者があったといいます。

砂丘でのグライダー練習
砂丘でのグライダー練習

グライダーを斜面に沿ってゴムひもで引っ張り、一定の速度になったら離すと離陸します。村人もこれに参加しました。

鳥取砂丘でグライダーを引く(「ふるさとの思い出写真集」より)(鳥取市浜坂)
鳥取砂丘でグライダーを引く(「ふるさとの思い出写真集」より)

浜坂にはグライダー修理工場(浜坂スリバチ付近)、グライダー滑空訓練所(浜坂小学校裏手)、格納庫(柳茶屋付近)がありました。戦前の砂丘は、全く無名で、利用はほとんどが軍事訓練でした。

グライダー修理工場へ見学
グライダー修理工場へ見学

旧陸軍40連隊の浜坂兵舎

昭和18年(1943)、陸軍の浜坂兵舎が新設され、兵舎の管理人として、日中戦争の負傷兵、元高官軍人の奥田氏(明治34年生)が就きました。兵舎は、戦後に鳥大農学部の砂丘研究所として利用されました。兵舎ができたのも、栽培できたのも、乾燥地研究センター付近1日1600トンの湧水のおかげによるものです。

鳥取砂丘の40連隊兵舎(奥田隆治氏提供)
砂丘の40連隊兵舎(奥田隆治氏提供)
鳥取砂丘の40連隊兵舎(奥田隆治氏提供)
砂丘の40連隊兵舎(奥田隆治氏提供)

連隊本部(現三洋テクノソリューションズ鳥取の敷地)

 明治29年(1896)、鳥取市に第四十連隊が設けら、約2千人の将兵で編制されました。聯隊本部庁舎は現三洋テクノソリューションズ鳥取の敷地内に遺っています。

鳥取40連隊の本部
鳥取40連隊の本部

砂丘での軍事訓練

 鳥取砂丘には連隊兵舎と演習所がありました。「鳥取県史」には、『健脚で質朴な優秀部隊として全国に名を知られた四十連隊は、鳥取砂丘で旺盛な攻撃精神を養ったとのことである。山陰海岸一帯の砂丘地と峻険な久松山が健脚部隊を生み出したわけで、その演習・訓練は昭和の敗戦まで一日として休むことはなかったとされている』と記されています。

鳥取砂丘での軍事訓練(「新日本風土記・鳥取砂丘」より
鳥取砂丘での軍事訓練(「新日本風土記・鳥取砂丘」より
砂丘での軍事訓練(「新日本風土記・鳥取砂丘」より
砂丘での軍事訓練(「新日本風土記・鳥取砂丘」より
鳥取砂丘での40連隊演習(「ふるさとの思い出写真集」より)
鳥取砂丘での40連隊演習(「ふるさとの思い出写真集」より)
砂丘での軍事訓練(「鳥取因幡の100年」より)
砂丘での軍事訓練(「鳥取因幡の100年」より)
砂丘での軍事訓練(「写真で綴る市民の暮し」より)
砂丘での軍事訓練(「写真で綴る市民の暮し」より)
砂丘での軍事訓練(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)
砂丘での軍事訓練(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)

 砂丘会館手前の松林の中、鳥取40連隊の碑が建立されている。そこに刻まれているのは、
  「 われら この地に 祖国を守るため 身心を 鍛錬したり 」

鳥取砂丘の40連隊記念碑(砂丘会館前)
鳥取砂丘の40連隊記念碑(砂丘会館前)

日本国民に告ぐ 8月5日に米軍が鳥取市上空で撒いたビラ

終戦の数か月後、米軍が戦争終結に向けて鳥取市民に撒いたビラが浜坂砂丘で発見されました。都市への爆撃予告で、鳥取の名前も載っています。全文は、「歴史を歩く」の「番外編ー心にとどめたい記憶 戦争の記憶」や「歴史研究」に載せています。

米軍が撒いたビラ(鳥取市上空)
米軍が撒いたビラ(鳥取市上空)

鳥取大震災

 昭和18年9月10日、鳥取に大地震が発生しました。死者1,210人、全壊13,295戸、半壊14,110戸という壊滅的なものでした。この9月10日は鳥取県民の「防災の日」に指定されています。

鳥取大地震片付け
鳥取大地震片付け
鳥取大地震片付け2
鳥取大地震片付け

鳥取大火

 昭和27年の鳥取大火災では、市内が焼け野原となり、残ったものは、五臓圓薬局と県立図書館の鉄筋ビルの残骸のみだったといわれます。罹災者2万451人。死者3人。罹災家屋5,228戸。罹災面積160ヘクタール。被害総額は当時の金額で193億円と記録されています。鳥取大地震からわずか9年後のことです。

鳥取大火後の鳥取市
鳥取大火後の鳥取市
鳥取大火で焼け野原
鳥取大火で焼け野原

 昭和27年(1952、鳥取大火による罹災者住宅が、県営住宅団地として鳥取市内合計で1,884戸建てられ、丸山から十六本松間のあさひケ丘、小松ケ丘、ひばりケ丘などにも164戸建てられました。そのうち、西・東ひばりケ丘が120戸。
 写真は左からひばりヶ丘、右上が高砂簡易住宅群、右下が小松ケ丘です。

鳥取大火の罹災者住宅
鳥取大火の罹災者住宅

千代川の水害

 鳥取の町は江戸時代からの250年間だけでも大小100回以上、3年に1度洪水に見舞われました。江戸時代の鳥取藩財政に影響した主な事件54件中、22件(約4割)が千代川の洪水です。
 大正時代15年間はほとんど毎年のように水害を被り、県財政に多大な影響を与え、他県から「水害県」という汚名を与えられました。

鳥取の洪水(大正元年)
鳥取の洪水(大正元年)
流された湯所橋が丸山に流れ着く(大正元年)
流された湯所橋が丸山に流れ着く・大正元年(「千代川史」より)

 
大正7年の洪水は、大正年間最大の被害をもたらしました。
 「鳥取市及びその付近は一大湖水と変じ、市内西町の如きは浸水階上五寸に達す」と記録されており、旧鳥取市役所玄関の柱には、床面から約2mの洪水面が記録されています。

鳥取の洪水(大正7年)、鳥取市内の様子
鳥取の洪水(大正7年)、鳥取市内の様子

千代川の改修工事(新千代川の掘削)

 昔の千代川は、丸山下の重箱公園を通って浜坂に向けて大きく迫り、直前で反転して弁天島後方を河口に流下していました。この蛇行が洪水を引き起こす最大の理由の一つでした。そこで、八千代橋付近から河口に向けてほぼ直線の新千代川を掘削し、流れをよくしたのです。下の写真は、千代川河口付近の工事で、中央に賀露の島が見えます。この工事によって、江津や秋里の農地などが川底に沈むという大きな影響を受けました。工事は大正10年(1921)から始まり、昭和5年(1930)に新千代川が開通しました。

千代川の掘削工事(「写真で綴る市民の暮し」より)
千代川の掘削工事(「写真で綴る市民の暮し」より)

 工事は、自動ショベルや、土を機関車で運ぶなど大掛かりなものでした。下の写真では右上方に八千代橋が見えます。

千代川の掘削工事(「写真で綴る市民の暮し」より)
千代川の掘削工事(「写真で綴る市民の暮し」より)
千代川の新旧比較(鳥取市浜坂)
千代川の新旧比較(鳥取市浜坂)

千代川河口・賀露港の整備

  新千代川開通後は、水害は減ったものの、昭和9年(1934)の室戸台風などでは再び発生しました。理由は千代川河口の砂による閉塞です。千代川が運び続ける中国山地の砂は、河口に美しい砂丘を形成した一方で、水害発生の大きな理由にもなっていたのです。昭和49年(1974)頃から千代川河口の整備工事が始まりました。河口を800m東へ移し、賀露港と分離しました。これによって、十六本松の松林や水田は消滅してしまいます。  

鳥取の洪水(昭和39年)
鳥取の洪水(昭和39年)
十六本松河口の整備
十六本松河口の整備