浜坂スリバチ

 昭和18年9月の鳥取大震災によって、浜坂スリバチは砂で大きく埋まり、湧出する水量も減ったといわれます。この写真は震災前のもので、「底から音がするほどの勢い」で水が噴き出していたということです。また、その深さと斜度に驚きます。

浜坂スリバチの深い湧水(「絵はがきで綴る鳥取」より)
浜坂スリバチの深い湧水(「絵はがきで綴る鳥取」より)

 
昔の遠足は、砂丘、十六本松、そして浜坂スリバチが定番だったそうです。現在は、十六本松の松林と砂丘、浜坂スリバチも無くなっています。

深い浜坂スリバチと子ども(鳥取市浜坂)
深い浜坂スリバチと子ども

 
 昭和30年代中頃、浜坂スリバチは子どものスキーで賑わいました。深さが昔の半分ほどになっています。スリバチ上部には、うどん小屋ができました。

浜坂スリバチでスキー(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)(鳥取市浜坂)
浜坂スリバチでスキー(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)

柳茶屋

 江戸時代の但馬往来のメインストリートは、城下から山の手通りを通って、丸山から浜坂に入り、「柳茶屋」で一休みしてから砂丘海岸を歩く浜街道です。昔の「柳茶屋」は現在の柳茶屋キャンプ場より50mほど手前にあり、今でもサイクリング道路の左脇の竹藪に入ると、小さな池の名残を見ることができます。昭和初期まで休憩茶屋があり、裏には美しい清水がこんこんと湧き出て大きな池になっていました。但馬街道の旅人にはなくてはならない休憩所であり、鳥取の歩兵連隊の砂丘での烈しい軍事訓練では、兵隊さんが腹ばいになってこの冷たい清水にのどを鳴らしならしました。

 しかし、明治末期の(旧)国道9号線開通後は、この但馬街道は殆ど使われなくなり、江戸時代の5軒が、昭和初期には1軒のみとなりました。そして、昭和18年(1943)の鳥取大震災では、砂丘からの湧き水が止まり、とうとう茶屋を続けることができなくなったそうです。

柳茶屋(鳥取市浜坂)
柳茶屋(鳥取市浜坂)
柳茶屋(「鳥取因幡の昭和」より)
柳茶屋(「鳥取因幡の昭和」より)

砂丘の一里松と砲台

 昭和19年頃の陸軍の演習の様子。手前が一里松で、中央に旧砲台跡がはっきりと見えます。

鳥取砂丘での陸軍演習・一里松付近
鳥取砂丘での陸軍演習・一里松付近

 昭和30年代中頃の一里松と砲台跡です。手前が現在の「子どもの国」前を通る道路で、舗装されたのは昭和40年の天皇・皇后両陛下の鳥取ご訪問時です。

昭和初期の砂丘一里松と砲台跡
昭和初期の砂丘一里松と砲台跡

水辺の風景

 旧千代川と袋川の合流点にあたる中州の弁財天。「巨木奇岩流れに望み、清流漫々として、一眸直ちに加露の河口を望むべく、風景絶佳なり」と明治41年の皇太子奉迎誌に記され、鳥取藩政時代には、池田藩主が好んで清遊された場所でもあります。海水と真水が入り混じり、マス・サケ・ボラ・コイが多く、「重箱」も古くからコイ、フナの太公望の好処として知られていたといいます。

弁天島と旧千代川。対岸は江津「ふるさとの思い出写真集」
弁天島と旧千代川。対岸は江津(「ふるさとの思い出写真集」より)
弁財天からの千代川
弁財天からの千代川

 

 江津地名の由来は当地が大河(江)の流れに臨み、河水に恵まれた船着場(船津)であることに因むとされます。
 江津は、奈良時代から昭和初期に至るまで、古代因幡の「国津」、鳥取と賀露の中間港として船の往還で賑わい、かつては300石積みの廻船が出入りしました。昭和初期の新千代川開通に伴って、旧千代川は埋め立てられて畑になっています。対岸は浜坂で、昭和30年頃まで両村間に橋はなく、渡し舟が使われました。現在、歴史を知らなければ「江津」の地名由来を思い浮かべる人はいないでしょう。

昔の江津と旧千代川(「鳥取因幡の昭和」より)
昔の江津と旧千代川(「鳥取因幡の昭和」より)

 

 藩政時代、藩主は袋川のお乗り場(現湯所町旧交番附近)から川を下り、十六本松・千代川で清遊しました。
 昔の袋川は、きれいな水で飲み水にも使い、鳥取大震災、鳥取大火災時には、袋川の水を朝早く汲んで、飲料水にしたり、生活用水につかったといいます。袋川土手の桜は、日露戦争記念などで植樹され、以後、市民の散策の場となり、舟も浮かべられました。しかし、上水道(大正4年)が出来ると、飲み水として使われなくなり、昭和9年(1934)に新袋川がつくられてからは水量も減って、袋川は「排水路」に変わっていきました。

袋川に舟を浮かべての花見(「鳥取因幡の100年」より)
袋川に舟を浮かべての花見(「鳥取因幡の100年」より)

  

 昭和初期、田植え前の田起こしや代かきになくてはならないのが牛や馬で、牛馬に牽かせた犁(すき)で土中を切り進み土を耕しました。牛を飼う農家では牛を家族の一員のように大事にし、「どの家でも牛の世話は子どもの役目で、千代川入江の浅瀬に連れていくのが日課だった」といいます。

牛を千代川浅瀬で遊ばせる
牛を千代川浅瀬で遊ばせる

十六本松

 十六本松の地名由来である松林と広い砂地により、昭和40年代まで、小学校の遠足、運動会、海水浴、職場や町内会の運動会、懇親会、家族連れのピクニックなどで賑わいました。松林の奥に茶店があり、海水浴帰りの子どもたちは、必ずそこに寄って赤や黄色のかき氷を注文しました。昭和28年(1953)頃、十六本松林の奥にゴルフハウスができ、昭和40年の昭和天皇をお迎えした砂丘の鳥取ゴルフ倶楽部誕生まで利用されました。

鳥取市十六本松の松林(鳥取市浜坂)
十六本松の松林(鳥取市浜坂)
鳥取市十六本松のゴルフ場(鳥取市浜坂)
十六本松のゴルフ場 (鳥取市浜坂)
十六本松での運動会(鳥取市浜坂)
十六本松での運動会 (鳥取市浜坂)
鳥取市十六本松砂丘で遊ぶ(鳥取市浜坂)
十六本松砂丘で遊ぶ(鳥取市浜坂)
十六本松砂丘で野球(鳥取市浜坂)
十六本松砂丘で野球(鳥取市浜坂)
鳥取市十六本松砂丘で運動会(鳥取市浜坂)
十六本松砂丘で運動会(鳥取市浜坂)
十六本松でのキャンプ(鳥取市浜坂)
十六本松でのキャンプ(鳥取市浜坂)
十六本松への遠足(昭和22年)
十六本松への遠足(昭和22年 (鳥取市浜坂))

浜出・舟出

 藩政時代、藩主は袋川のお乗り場(現湯所町旧交番附近)から川を下り、十六本松・千代川で清遊したといいます。明治以降にも市民にこうした風習が伝えられ、砂丘に出ることを「浜出」、船で砂丘へ出るlことを「舟出」を称しました。十六本松の対岸には賀露港、鳥ケ島などもあって美しく、かつ、浜坂で袋川と千代川が合流していて船の便もよかったのです。

十六本松の潮干狩り・昭和5年(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)
十六本松の潮干狩り・昭和5年(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)
十六本松河口の舟遊び(鳥取市半坂)
十六本松河口の舟遊び(「鳥取因幡の昭和」より)

鳥取砂丘

 第四十連隊の演習地として利用されて以降、第二次世界大戦後まで殆ど自然のまま放置されていました。不毛の厄介者として扱われていたようです。戦後のある鳥取市長は砂丘について、「木も生えないようなところは鳥取の恥部である」と述べています。砂丘という言葉が普及したのは、有島武郎が大正12年に鳥取砂丘を訪ね「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしきわれを見出でけるかも」の歌を残して1ケ月後に情死したことがきっかけと言われます。従って、昭和初期の国語辞典に砂丘という言葉はまだ記載されておらず、文献によっては「鳥取砂漠」という記述も見られます。昭和30年(1955)の天然記念物指定、山陰海岸国定公園指定により観光客が激増し、これによって砂丘の一部が保存されることになり、砂丘ブームが訪れます。

砂丘ブーム到来(「鳥取因幡の昭和」より)
砂丘ブーム到来 (「鳥取因幡の昭和」より)

 昭和40年までは、国道9号線は覚寺入口から多鯰ヶ池東岸を巻いて走っていました。バスは大きな曲がり角にくると、女性の車掌さんの笛の合図で、何度も何度も切り返しながら越えていきました。

多鯰ヶ池東岸を走った旧9号線(鳥取市浜坂)
多鯰ヶ池東岸を走った旧9号線(鳥取市浜坂)

 
 昭和50年頃までは、砂丘の入口はトンネルを越えたバス停下にあり、そこから海岸付近まで歩くのが一般的な観光ルートでした。

砂丘入口バス停・昭和40(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)
砂丘入口バス停・昭和40(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)

 「砂丘荘」は、昭和37年(1962)に開荘。昭和40年(1965)の天皇皇后両陛下の行啓を機に、砂丘大橋と砂丘トンネルが完成した新国道9号線開通で益々立地条件を高めて多くの観光客で賑わいました。しかし、昭和50年頃をピークに、以降、観光客の減少と砂丘観光の中心が海側へ移動したことにより斜陽を迎え、平成9年(1997)に閉館しました。

国民宿舎「砂丘荘」(「鳥取因幡の昭和」より)(鳥取市浜坂)
国民宿舎「砂丘荘」(「鳥取因幡の昭和」より)


 昭和40年に開業した砂丘パレス。砂丘荘に並ぶ立地と、砂丘を一望できる展望台で賑わいました。

砂丘パレス・昭和40年(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)
砂丘パレス・昭和40年(「写真が語る鳥取因幡の100年」より)