以下、掲載した古絵図一覧です。
・浜坂観音ノ号
・浜坂観音と弁天島
・丸山二軒茶屋ノ号
・丸山石標地蔵ノ号
・浜坂柳茶屋
・浜坂犬橋
・擂鉢(スリバチ)
・代々山の砦跡
・荒神山と十六本松
・寛文大図
・寛文大図(浜坂近景)
・袋川筋ノ号
・海辺絵図
・丸山城の図
・丸山ノ号
・丸山のかっぱ地蔵ノ号
・丸山の奈佐日本之介の墓
・溺死海会塔
・多鯰ヶ池
・覚寺の狼庵と粟餅屋
・継子落しの滝(摩尼山)
・摩尼寺茶屋と道好和尚の墓
・摩尼寺
・摩尼寺の奥の院図
・(摩尼山)の立岩
・円護寺と瘡守稲荷
・摩尼山からの湯山池眺望
・八幡池
浜坂観音ノ号
江戸時代に著された『鳥府志図録』(文政12年=1829成立)の「浜坂観音ノ号」です。
中央の山は、現在の浜坂小学校が建つ代々山です。麓に、浜坂観音(現在の大応寺)、その下に弁天島、横に浜坂村が描かれています。代々山の山頂には、秀吉が鳥取城攻めで構築した砦跡が見えます。
浜坂観音と弁天島
江戸時代の『無駄安留記』(1858)の絵図です。浜坂村の家並みと、右手の山中腹の大多羅大明神(現在の浜坂神社)を見ることができます。代々山の麓に描かれているのは、浜坂観音(現在の大応寺)、その左手の川中の島が弁財天です。
丸山二軒茶屋ノ号
『鳥府志図録』の「丸山絵図」です。
中央の三叉路は、左が浜坂村(但馬往来)、真直ぐは覚寺(摩尼道)方面です。右手の鳥取城から来る山手通りと、三叉路に立つ二人の人物の横の道標地蔵は現在も残っています。二軒の家は、摩尼寺詣で、但馬往来への旅人が休憩した茶屋です。
丸山石標地蔵ノ号
丸山の道標地蔵には、「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかけれハ、四丁のまわり、左ハたしまはま道」と刻まれています。「はま道」とは、本道「中道通り」に続く丸山、浜坂、砂丘を通って湯山方面へ抜ける浜街道です。『鳥府志図録』より。
濱坂柳茶屋
但馬街道はま道の柳茶屋です。手前に池のようなもの、旅人の後方に広大な砂丘が見えます。但馬街道のはま道は、この砂丘を通っていました。因幡誌は、「砂漠渺茫として往々道を取失ふことあり、よりて所々に表木を立て往来の便となす」と記しています。「無駄安留記」より。
濱坂犬橋
『因幡誌』に描かれた犬橋です。
中央に「狗橋」、右中央隅に「狗塚」、右中央に袋川岸の濱坂街道や摩尼川・円護寺川が描かれています。
摺鉢(スリバチ)
今はなき浜坂スリバチです。「無駄安留記」より。
代々山の砦跡
現在、浜坂小学校が建っている代々山の絵図です。秀吉方の青木勘兵衛の砦跡が詳細に描かれています。
荒神山と十六本松
荒神山の先は、かつて松が美しかった十六本松です。左手に、池田藩主が舟遊びで寄ったという御茶屋が描かれています。「無駄安留記」より。
寛文大図
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に描かれた寛文大図です。千代川が浜坂村の直前で反転し、海に流下している様子がよく分かります。
寛文大図の浜坂近景です。
千代川の上方に江津村と六王ノ社(現在の江津神社)が描かれ、下方には、浜坂の代々山、都築山、荒神山、はなれ山(現在の伴山)などが描かれています。浜坂村の上ノ山には大多羅大明神が記され、この時期(1670年頃)には既に多鯰ヶ池から遷座していることが分かります。
寛文大図(浜坂近景)
袋川筋ノ号
左上に浜坂村と丸山、千代川と袋川の合流地点に弁天島、その下方に三島神社が描かれています。袋川が鳥取城下を流れ、賀露港~千代川~袋川~鳥取城下という重要な水運路となっています。
袋川は古代因幡国の国庁(国府)まで通じており、水上交通路・物流の血脈として活躍してきました。
袋川川岸には、いと(為登)とよばれる洗濯など町民の生活や陸揚げに利用された施設(27ケ所)描かれています。とくに材木町の為登は各地より船・筏が集まる舟運の一大拠点になっていました。
海辺絵図
元治元年(1864)の海辺絵図です。4年後に明治元年(1868)を迎えます。
濱坂村75軒と記されています。村内の道は、現在と殆ど変わりなく、右上に大多羅大明神(明治元年に浜坂神社と改称)が見えます。
丸山城の図
丸山城です。秀吉の鳥取城攻め(1581年)に備えて構築されました。
丸山ノ号
頂上に、丸山城跡が描かれています。麓には幾つかの寺社が建っています。「鳥府志図録」より。
丸山のかっぱ地蔵ノ号
丸山の奈佐日本之介の墓と云われていますが、諸説あるようです。「鳥府志図録」より。
丸山の奈佐日本之介の墓
丸山古城跡の丸山城主の奈佐日本之介の墓を描いたものです。山並みや、すぐ前を袋川が流れていて現在と変わりません。「因幡誌」より。
溺死海会塔(供養塚)
小松ケ丘横上部の住宅地に「溺死海会塔」と刻まれた供養塔が現存します。江戸寛政7年(1795)、鳥取県下で有史以来、最大の洪水が起き、鳥取城下の溺死人は652、家屋流失414と記録されています。千代川が大きく曲がった浜坂に、多くの溺死者が打ち上げられたことで、ここに建立されたといいます。「鳥府志図録」より。
多鯰ヶ池
江戸時代の多鯰ヶ池。現在と全く変わりません。先の小島に弁天が描かれています。「無駄安留記」より。
覚寺の狼庵と粟餅屋
覚寺から湯山へ抜ける通称「ぼじ道」と摩尼寺参詣道の分岐点に尼寺の狼庵があり、その前の草ぶきの家は粟餅は名物とする餅屋でした。近郷近在の人々は、丸山のおまん茶屋や覚寺村の「白饅頭」=米の粉(西村家)・「黒饅頭」=粟(田中家 現 保坂家)・「薬屋(田中家)」等で道中を楽しみながら摩尼寺参りをしていたということです。狼庵の石塔群は今でも残っています。「無駄安留記」より。
継子落しの滝(摩尼山)
「村より数町許り奥にあり 摩尼寺へ詣れは道の右手にあり 谷川の流れ此處にて小さな瀑となる側に不動尊を安置す 昔継母一人の継子を具して帝釈へ詣り 此處に手水に事よせ継子を此瀑下に落として殺したりと隣邑圓護寺に継子谷と云ふあり 是も継子を捨てたる處と云へばさる事もありにしや」と「因幡誌」は記しています。
地蔵堂のような建物が描かれており、周辺の地名を弘法庵ということから、付近に弘法庵があったのかもしれません。「無駄安留記」より。
摩尼寺茶屋と道好和尚の墓
源兵衛茶屋は創業250年と歴史古く、「鳥府志」(江戸文政年間)は「摩尼山の麓なる源兵衛茶屋は世に隠れなし」と茶屋の繁盛を記しています。「無駄安留記」より。
摩尼寺
現在の場所に移築再建された後の摩尼寺を描いたものです。摩尼山・摩尼寺については、本サイトの「歴史研究(円護寺・覚寺編)で詳しく書いていますので、是非お読下さい。「無駄安留記(1858)」より。
摩尼寺の奥の院図
因幡民談記(1688)の絵図で、摩尼寺が奥の院という場所にあったときの絵図です。
摩尼山の立岩
摩尼山山頂の立岩を描いたもので、頂上に降臨した大日尊が描かれています。
以下、「無駄安留記」の奥の院、立岩の既述です。「―歯朶荊棘(しだいばら)をわけて、九曲して奥の院の大岩に到る。まことに巌壁反覆して翠苔蒼たる巌上に弘法大師不動明王を安置す。其側は数千歳の松柏鬱茂たる岩下に小祠あり。木仏の破壊したるを安ず。奇絶の大巌なり。是より又小篠・歯朶をわけのぼれば、狙(サル)ならましかばとおもふばかり、山深く、樹の枝荊棘を潜りて、漸く峯の立岩に到。岩下に財の河原とて小礫を積だり。此処より岩角を攀り、からうじて頂に登れば、大日如来石尊を安置す。ここにて海陸遠望、絶景筆に尽くしがたし。」
円護寺と瘡守稲荷
縁起によれば、湖山村の宇文(産見)の長者、老齢になっても子に恵まれず、夫婦相共に円護寺に参詣し三七日の間参籠し、満願の暁に月輪とんで妻の左の袂に入る夢を見た。月満ちて女子を誕生、長者夫婦喜んで円護寺に寺を建立した。後女子、年八才の夏、龍女となり、六月一日男子の姿に変じ、梵帝釈天の身となり立岩の頂上に立ち給う。その旧跡が、摩尼寺と記されている。また、長者の娘六才の時瘡病を患い、十一面観世音菩薩に祈願すると悪病が平癒した。長者は非常に喜んで、これより神号を瘡守稲荷叱枳尼天(瘡守稲荷大明神)として崇拝した。
摩尼山から湯山池を眺望する
覚寺村から湯山へ抜けるには、通称ぼじ道に加え摩尼寺山門横から入る摩尼道があった。「無駄安留記」には、「児ヶ松 源兵衛茶屋の向、仁王門の左の路を下りて、谷よりまた登ること二三町、頂に在し由。今は名のみなり。湯山池の展望無双の佳景なり。」と後者を描写している。この道は摩尼山と湯山を結ぶ山道で、福部方面からの参詣道でもあったようだ。
八幡池
八幡池に面した山裾にも円護寺石の採石場跡がある。『無駄安留記』は、「善久寺境内 秋葉山溜池」というさし絵の中で「石山」と記す。現在の渡辺美術館のすぐ裏手である。安留記本文には 「此山谷所々に穴あり。夏の日も中に居れば涼冷として気疎し」、また、「切石を巧(たくむ)」とある。