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目次
Ⅶ.円護寺・覚寺の史跡
1.神社仏閣
(1)摩尼寺
(2)佛徳山円護寺
(3)瘡守稲荷
(4)椎谷神社(覚寺)
椎谷神社社厳のシイ林
(5)蘆原神社(円護寺)
(6)行徳山円相院
(7)狼庵と五智庵、その他
狼庵
五智庵
念仏橋
(8)菅能寺の覚寺法華道場
(9)その他の神社仏閣
2.その他の史跡
(1)吉川経家の墓所(円護寺)
(2)小泉友賢の墓(摩尼山)
(3)円護寺石採掘跡・覚寺の碧玉産地
(4)百谷鉱山跡
(5)不動瀧(継子落しの滝)
(6)旧中ノ郷小学校の跡地
(7)ビルマ方面戦没者慰霊塔(鳥取市円護寺)
1.神社仏閣
(1)摩尼寺
摩尼山は覚寺集落から東へ4km余りのところに位置する霊山(標高357m)で、中国三十三観音霊場のひとつである。別名を喜見山(きけんざん)ともいう。寺伝は、「世界の中心に聳える須弥山(しゅみせん)の頂きに喜見城があり、そこに居城とする帝釈天(たいしゃくてん)が摩尼宝珠をもって摩尼山の立岩に降臨したとして、須弥山と摩尼山を関係づけている。
摩天山は蓮華の8枚の花弁を形容しているといわれ、その峰々のうち南に位置するのが、帝釈天が降臨したとされる「鷲が峰」 (標高340m)である。
「鷲が峰」の名は、仏陀が弟子たちに説法をしたインドの「霊鷲山(鷲峰山)」に由来し、霊鷲山の頂上には説法台とされる大きな岩がある。摩尼山の「鷲が峰」にも「立岩」と呼ばれる巨岩がある。
摩尼寺の創建は平安時代初期の承和年間(834~847年)に慈覚大師円仁(平安時代の高僧、入唐八家)が開いたのが始まりと伝えられている。縁起書によると、唐から帰国した円仁は、仏法を広めるために諸国を巡り、適当な地を探していた際、摩尼山を見て、山の形が八つに分かれ蓮華の八葉を表していることから、ここを仏教の拠点と定め、茨を切り払って岩を穿ち、数々の堂宇を建立し、山中深くに「奥の院」を開いたとある。
摩尼寺縁起によると湖山村に住んでいた字文(産見)長者がなかなか子供が授からなかった事を憂い、円護寺に子宝の祈願をしたところ、念願成就して1人の女の子が生まれた。女の子が8歳になると急に竜に姿を変え摩尼山の立岩に立つと帝釈天となったそうである。
頂上の立岩の麓に帝釈天の石仏立像が祀られている。立岩の下、上にも多くの石仏立像が祀られている。この頂上付近の平坦地は「賽の河原」と呼ばれ、かつては閻魔堂などがあり、死者を裁く閻魔大王を祀ってあった。
閻魔堂は、昭和18年の鳥取大震災で崩壊し、現在は仏堂や鐘楼の基礎のみが残る。賽の河原とは、三途の川のほとりにあるといわれる場所である。親より先に亡くなった幼子は、本来なら不孝の罪によって地獄に行くところが、幼少のために賽の河原にとどまり、小石を積み上げるという伝承がある。
摩尼山は古くから死んだ人の霊魂が一度集まると信じられていて、子どもの霊魂についての信仰は現在でも強く生きているそうである。
我が子を亡くした親たちが、奥の院の立岩に至る道に祀られている墓標の石仏や、石地蔵を拝みながら登ると、そこで必ず、我が子そっくりの石地蔵を見つけることができるといわれている。
摩尼寺「奥の院」遺跡は、山頂の立岩から60mほど下ったところにある。
そこには石塔・石仏を納める上下二層の岩窟仏堂が巨巌に穿たれ、その下方には、斜面を削ったとみられる数十メートル四方の平坦場がある。地表には、木造建築のものとみられる多くの礎石が顔を出している。「因幡誌」(1795)や「無駄安留記」(1858)に記された洞窟や岩陰はこれにあたり、「因幡民談記」(1688)に描かれた重層建物は、この「奥の院」に位置していたものと考えらる。現在の摩尼寺は、そこから現位置に移設されたものとされる。 (「摩山寺 奥の院遺跡」)
以下、「無駄安留記」の奥の院、立岩の既述である。
「―歯朶荊棘(しだいばら)をわけて、九曲して奥の院の大岩に到る。まことに巌壁反覆して翠苔蒼たる巌上に弘法大師不動明王を安置す。其側は数千歳の松柏鬱茂たる岩下に小祠あり。木仏の破壊したるを安ず。奇絶の大巌なり。是より又小篠・歯朶をわけのぼれば、狙(サル)ならましかばとおもふばかり、山深く、樹の枝荊棘を潜りて、漸く峯の立岩に到。岩下に財の河原とて小礫を積だり。此処より岩角を攀り、からうじて頂に登れば、大日如来石尊を安置す。ここにて海陸遠望、絶景筆に尽くしがたし。」(「無駄安留記」)
上記記述には、「弘法大師」・「大日如来」(本来は真言宗の本尊)とあり、また摩尼山には弘法大師を祀る六角円堂もあることから、真言・天台の融合が進んでいるようだ。
摩尼山へ向かう道路の途中右手に継子(ままこ)落としの滝、鶏山、また左手道路を少し上ったところに旧但馬街道「兵庫県」に通ずる道路の一部が残っている。雞山とは、金雞伝説がある岩山である。
「邑美郡覚寺より摩尼寺へ行く中途、道よりは南の方覚寺より十三丁奥にあり。古よりこの山に金の雞あって、その鳴き声を聞く人は福力を得といひ伝ふ。されども、つひにわれぞ聞きたるといふ者をきかず。」 (「因幡民談記」)
摩尼寺参道石段の上り口左方(源平茶屋裏手)には、上記のような鳥取藩初の史誌「因幡民談記」を著し、元禄4年(1691)に亡くなった鳥取藩医の小泉友賢の碑がある。また、付近には、羽柴秀吉が焼き討ちした際の摩尼寺住職の道好の墓や、鼠屋大蕪の句碑などもある。
摩尼山に登るには2ルートある。
一つは、石段を摩尼寺本堂まで上がり、如来堂右横から山道に入る。六角堂や西国三十三観音像などを経て、山頂下方の立岩へ達する。よく整備され、足元はしっかりしている。殆ど標識は無いが、迷うことはない。
山頂付近では赤いテープが道を示す。眼下には湖山池から岩戸海岸までの眺望が得られる。立岩から奥の院へは、細く極めて急峻な下り、奥の院から門脇茶屋横へ下る山道は、渓流沿いで滑りやすい。
途中、久松山と太閤ケ平を結ぶ山道への分岐がある。道好が秀吉に呼ばれて本陣(太閤ケ平)に行ったとすればこの道であろう。焼き討ちしたとされる秀吉方の武士も同様である。
また、ここは福部の箭渓(やだに)への分岐地点でもある。福部と覚寺・円護寺は山を隔てただけの位置関係にある。
もう一つは、この逆回りで、奥の院へはこちらが近い。立岩往復なら本堂ルートが堅実だ。石仏に囲まれながら登り下りするのもよい。
(参考)
摩尼寺に関しては、本サイトの「律令・中世期(円護寺・覚寺編)」山岳信仰と平安密教が花開いた地形-摩尼寺の創建 と、「近世期(円護寺・覚寺編)の摩尼寺と秀吉 をあわせてご覧ください。
(参考)
円護寺隧道手前の十神林道に入ると、1.5km先右手に久松山山頂=鳥取城山上ノ丸へ登る山道がある。
そのまま真っ直ぐ行けば2kmで太閤ケ平。当時から両陣を結ぶ間道だったのだろう。深い木立の中は仄暗く、重く暗い歴史を感じさせる。
摩尼山への分岐は太閤ケ平の数百メートル手前である。
(2)佛徳山円護寺
円護寺隧道へ上がる道の反対側(覚寺側)の山腹にある。
御神灯脇を抜け、参道の坂道・階段の数十メートル上り切ると、左右に円護寺と瘡守稲荷が兄弟のように並んでいる。山の急斜面を削って建てたものだろう。人家も多い周辺は(山崩れの)災害危険地域となっている。
その屋根のすぐ上は北園ニュータウンが広がる。この住宅地の開発によって多くの円護寺遺跡は削られ、また下に眠っている。
寺伝によれば、開創は天長7年(830)にさかのぼり、寺勢盛んであったが、のち相次ぐ戦乱で衰え、元禄8年(1695)現在地に観音堂を再建し、大雲院末になったという。
「転法輪(鳥取仏教会)」には、天台宗でご本尊は十一面観音菩薩・大日如来、開創は天長7年(830)、開山・開基不詳とあるが、寺に設置された説明書(看板)には、建立者 湖山郷長者の産見(宇文)、承和年間に慈覚大師完基とある。
現在の円護寺の位置の北東400mに字古寺という地名があり、『円護寺縁起』によれば、かつての円護寺という寺はそこにあったと推測され、元禄年間に現在地に移転している。
文政7年(1824)の鳥取藩の「在方諸事控」には以下のように記録され、寺勢は盛んであったと推測される。
同十九日 邑美郡円護寺村 円護寺右者来ル三月十七日より四月八日迄三七日間、観音致開帳度、尤も城下端々え辻札建申度段相願、伺之上御聞届相済、其段御郡え申遺ス。但、十三ヶ年目二開帳有之事。(円護寺の観音像を開帳するにあたり、城下隅々まで辻札を建てることが申請され、了承された)
寺 史
縁起によれば、湖山村に宇文(産見)の長者、有徳の人として尊敬されていたが、老齢になっても子に恵まれず、夫婦相共に円護寺に参詣し三七日の間参籠し、満願の暁に月輪とんで妻の左の袂に入る夢を見た。月満ちて女子を誕生、長者夫婦喜んで円護寺に寺を建立し、湖山長者の祈念所とされた。後女子、年八才の夏、龍女となり、六月一日男子の姿に変じ、梵帝釈天の身となり立岩の頂上に立ち給う。
その旧跡が、摩尼寺と記されている。また、観音堂と並んで瘡守稲荷がある。長者の娘六才の時瘡病を患い、種々医薬を用いたが其の効なく、瀕死の状態となった。
長者大いに驚き、十一面観世音菩薩に祈願したところ、不思議にも壇中に白雲たなびき、その中から白狐に乗って天王が現れ給い、身より光明を放ち右の手に宝剣を捧げ、左の手には宝玉を持って、汝この経を真読すれば悪病速やかに平癒するであろう、とお告げになった夢を見宝殿を見ると、経文が置いてあるので、一心にこの経を読幼誦すると、忽ち女子の悪病が平癒した。
長者は非常に喜んで、これより神号を瘡守稲荷叱枳尼天(瘡守稲荷大明神)として崇拝した。
当寺は、淳和天王の御代、天長七年(830)創立と縁起に記されている。
後、宇文(産見)の長者、堂、僧坊を建立し、佛徳山円護寺と称せられ法灯栄えていたが、後摩尼寺の支院となり、相次ぐ兵乱のため、堂、僧坊焼け、田畠も没収せられ、山麓に大日如来、十一面観世音の両尊を安置し、元禄八年(1696)大雲院の末寺となった。
当時、藩主池田公に請願して新たに境内地を選んで、藩士河毛某の私財によって観音堂を再建せられたのが現在地である。ご本尊十一面観世音菩薩像は、行基の作とかや。大日如来像は作者不明である。
明治十三年(1881)四月十九日、円護寺村の八割方を焼失の惨事に見舞われ、当山も全堂宇類焼したが幸いにも信仰心篤い村民の手によって仏像の消失は免がれた。庫梩は本寺、法類、信徒の尽力によって直ちに再建され、本堂は明治二十八年(1896)八月五日に再建された。
以来、村民挙って護持し因幡西国三番札所として「散らば散れ、心に花の円護寺、みのりの風に任すこの身は」と詠唱され、善男善女の侵攻の場となっている。
(3)瘡守(かさもり)稲荷
佛徳山円護寺境内に瘡守稲荷が祭られ、一昔前は、吹き出物や、皮膚病にご利益疫があり、遠く県外からのお参りもあったようだ。
以下の伝記は、上の(2)佛徳山円護寺 の寺史にも記されている通りである。
「昔、湖山長者の娘が六歳になったとき、恐ろしい癩病にかかりました。この病気は、肌がただれ、肉が腐っていくもので、それを知った湖山長者は大変驚き、気も狂わんばかりになって、佛徳山円護寺(鳥取市円護寺)に駆け込みました。 そして、長者夫婦はそろって、「大日如来様、せっかく授けてくださった可愛い一人娘が、癩病にかかってしまいました。どうぞう助けてやってください。何とぞ治してやってください・・・」と一心に祈り続けました。
すると、七日目の朝、不思議なことに、娘のただれた肌はカサブタになり、それがはがれたあとは嘘のようにきれいに治りました。そこで、長者は躍り上がって喜び、お礼のしるしに円護寺の境内に「瘡守稲荷」というお宮を建てました。
この「瘡守稲荷」の名称は、癩病その他の皮膚病が多くはカサブタになってから治るので、そのカサブタを守るお稲荷さんという意味でつけられました。そのようなわけで、今でもこのお宮に参って拝めば、いろいろな皮膚病があるといわれています。一説に、湖山長者の娘がかかった病気は天然痘で、それも八歳のときにかかったと伝えられています。
(4)椎谷(しいたに)神社(覚寺)
但馬往来が山湯山に向かって伸びる「ぼじ道」のそばに椎谷神社がある。
平成16年には角川映画の「妖怪大戦争」のロケ地になり、麒麟獅子舞や地区民のエキストラ出演があって有名になった。 (「覚寺の氏神 椎谷神社」)宝暦9年(1759)に本殿建立。江戸時代には瓦葺大明神と称した。
神社は、日本固有の神様の住まいとして、伝統的な檜皮葺(ひわだぶき)や杮葺き(こけらぶき)を用い、伝統的に瓦屋根を使わない。椎谷神社が瓦葺大明神と呼ばれた理由は、古代覚寺で瓦が焼かれた歴史によるものらしい。
祭神は菅原道真である。
菅原氏は、道真の曾祖父のとき土師氏(はじうじ)より氏を改めている。祖父、父ともに大学頭などに任ぜられた学者の家系であり、母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持らの歌人を輩出している。土師氏は出雲臣(おみ)の遠祖 天穂日命(あめのほひのみこと)の14世孫とされる野見宿禰一族が名乗ったものである。
道真は幼少期より天賦の学才に秀で、忠臣として従二位・右大臣まで上りつめた一方、学者・文筆家としても朝廷の文人社会の中心的存在となった。しかし、晩年、無念の左遷で大宰府において窮死、死後、都に異変が続き、道真の祟りと畏れられ、これを鎮めようと祀られたのが祭神化の始まりである。後世、「学問の神」、「至誠の神」、「天神」など全国で信仰されている。
椎谷神社社厳のシイ林
「鳥取市の豊富な自然の文化財の中で、文化財としては指定されていないが、文化財として価値がある自然に覚寺の椎谷神社社厳のシイ林、久松山スダジイ林、他とある。
地質では、円護寺石採掘場跡、覚寺の碧玉産地、百谷鉱山跡などが指摘されている。これらは、鳥取の自然史を物語る遺産であり、鳥取の現在の自然の姿を示す何よりの文化財である。」 (「新修鳥取市史」)
(5)葭原(よしはら)神社(円護寺)
円護寺集落の最奥部右手の鬱蒼とした森中にあって、車道からその存在に気づくことはない。
円護寺の産土神であり、寛文大図(1670年頃)には、八幡社として描かれており、明治初年に葭原神社と改名した。 この一帯は「よしはら」と呼ばれていたので、「葭原」の字が当てられたようである。
祭神の品陀和気命(ホンダワケノミコト)は誉田別尊とも書き、応神天皇と同一とされる。元々は、八幡神は土着的な神であるが、後世、応神天皇と結びつく。
応神天皇は、鉄の文化が普及した4世紀に、大和朝廷は大きな勢力となって西日本・九州を統一し、朝鮮半島にまでも進出した。このような軍事的勢いを尊び、平安時代以降、源氏の守護神など、全国の武家から武運の神(武神)八幡大菩薩として崇敬を集めた。
鳥取の池田藩主も倉田八幡宮を一族の氏神と定め、武神である誉田別尊(応神天皇)・気長足姫尊(応神天皇の母の神功皇后)・他を祭神としている。
一方、土着的な八幡神の性質で言えば、海神の他に農耕神といった自然神に由来する意味も放ち、また、変わったところでは、宇佐神宮の創建由来において八幡神が鍛冶翁として降臨をしたことから鍛冶の神という特徴も認められている。
円護寺の葭原神社は、農耕神、鍛冶の神、武神のいずれを重んじたものだろうか。
円護寺の西の池を八幡池と呼ぶ。
(6)行徳山円相院
旧行徳村にて開創したので「行徳山円宗院」とし真教寺の塔頭であった。
六世弁立上人の代に「円相院」と改称。
享保5年(1720)に堂宇焼失後、寺町真教寺地内にて寺堂再建。
昭和17年(1932)の大震災により堂宇倒壊。昭和四十一(1966)年現在地円護寺に堂宇再建をはたした。
(7)狼庵と五智庵、その他
狼庵(おおかみあん)
覚寺村のはずれに狼庵という庵があった。この名前は摩尼寺に登る谷が大きく、「おおたに」が訛って「おおかみ」となり「狼」の漢字を当てはめたとされる。村人たちは、付近一帯を「たたるところ」といって崇敬していたという。
庵には鯖如来が安置され、この如来像は恵心僧都(平安時代の学僧で源信作のこと)の作とされている。
明治初期には、そこに住む人が無く廃屋となり、今は石塔だけが昔を物語る。
石塔群の横を、「ぼじ道」と呼ばれる細道が通る。湯山へ通じる但馬往来の「山道通り」である。
天保の大飢饉は、のちに全国に及び、その窮状は悲惨を極めた。鳥取藩でも例外ではなく、鳥取藩領へ、隣国の但馬・播磨・美作から飢えに耐えかねた人々が多く入り始め、藩内の町や村にも、行き倒れや捨て子が数多く見られるようになる。
1836年の夏、邑美郡覚寺の狼庵に50人ほどの尼僧が集まり、法華経の加護を信じて祈った。
1840年、覚寺の狼庵の良卯尼(りょううに)が、法華経のさらなる加護と餓死者・病死者の冥福を祈って供養塔を建立する。自然石の供養塔には、「大乗妙典千部供養塔」と刻まれている。
「社会の安定、農作物の豊作、寿命の延長、村中の安全、寺庵の鎮静、摩尼参詣者たちの無難、万民の幸福」などを祈願した。覚寺が因幡の信仰の一大中心地域であったことを物語る記録である。
五智庵(ごちあん)
かつて、覚寺の進藤長兵衛が建てた五智庵はなく、新しく建替えられ一階が五智庵で二階は覚寺公民館となっている。 創立時期は不明だが、昭和初期まで美しい庵主(安寿)様がいたとのことである。
「無駄安留記」は、「覚寺邑 五智庵 五智如来を安置す。桃花繁し。美しき尼の住からみな人の もものあたりにみとれぬる哉」と記す。
この庵には、五智如来という平安密教の五人の如来(大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)が祀られていたようである。
進藤家碑文では、安永6年(1777)に、進藤家が五智庵を寄進したとあり、石安寺という仏寺が廃寺になった後、そこの残存仏を五智庵に祀ったとしている。因幡誌にも、以下のように登場する。
「タイシン庵の前の谷を柿ヶ谷と云ふ昔此処に石安寺と云ふ寺ありし 彦左衛門が子長兵衛と云ふ者此谷にて薬師の像を掘出しける是石安寺の佛なりと云えり 今ごじ庵の本尊と可是なり」 (「因幡誌」)
本尊は、長兵衛が旧石安寺より掘出した、平安時代のものと考えられる薬師如来である。その他、阿弥陀如来の立像や四体の如来像・白衣観音などもある。敷地内に地蔵が多数あり、「無駄安留記」の『美しき尼』の像らしきものも残っている。石塔の一つに「明和」の文字が読み取れた。明和とは、江戸時代の1764年から1772年の元号である。
念仏橋
「無駄安留記」に「覚寺の路にかける小橋 極楽へゆく念仏の橋ならば 渉るもふむも土そくぼだいか」とある。
現在の国道9号線バイパス覚寺入口あたりにあったものと推定され、地元の人の話でも、昔はそこに確かに橋がかかっていたという。
念仏橋がかかっていた川(摩尼川)は、大正・昭和間に流れが変えられ、そこに道路や住宅が建設されて昔の姿はない。
(8)菅能寺の覚寺法華道場
ここは巌山に懐かれた閑静な草庵だったに違いない。
現在は、ちょうど真上を高架の自動車道(新・国道9号線)が走って、仏像たちも騒音に驚いていることだろう。
『南無妙法蓮華経』 と刻んだ石塔や岩窟下の石仏群などが集まり、古くは江戸時代、新しくは昭和の年号が読み取れる。
「菅能寺は覚寺法華道場で、題目塚がある。ここの常行菩薩像という石像は、自分の病気のある場所と同じ箇所を念じて手でなでると快方に向かうと信心されている。この谷奥に藩主が瀧にうたれた信仰の場所がある。(後略)」 (「因幡の摩尼寺」)
常行菩薩像とみられる立像を写真に収め、両膝を撫でて密かに快方を祈っておいた。
(9)その他の神社仏閣
諸文献によると、大覚寺、石安寺、石覚(角)寺、正福寺、弘法庵、古石寺、石寺などの仏寺名が認められ、覚寺が一大仏寺の密集地となっていたようだ。
ただ、全て現存せず、場所も明らかでない。古地図(寛文大図)には唯一「石寺跡」が載るのみである。恐らく、幕末まで永らえた仏寺も、明治維新後の廃仏毀釈によって消え失せたものであろう。
2.その他の史跡
(1)吉川経家の墓所(円護寺)
墓所は城内の青木局と呼ばれる場所に建てられたが、慶長6年(1601)に池田長吉が鳥取城に入城して城を改修した際に、現在の円護寺五反田に移された。
五輪塔は吉川経家とそれに従った従者の墓と伝えられている。
(2)小泉友賢の墓(摩尼山)
源平茶屋裏手の山麓に、多くの摩尼寺住職などの墓群にまじって、鳥取藩最初の史誌「因幡民談記」全10巻を著し、元禄4年(1691)に亡くなった小泉友賢の碑がある。
碑文は苔に覆われて殆ど読むことはできないが、「宝永元甲甲年十二月二日辛 有棟堂便入居士塔 俗名小泉氏十右エ門尉俊益」 と書かれているようである。
友賢は、「自分の体は摩尼山中に埋めてくれ、墳墓や石碑を建てる必要はない。それらはやがて転倒し、石は苔にむしばまれて土中に埋まっていく。人は死すればみな土にかえるものを」 と遺言している。
友賢の子俊益は、父の墓所が山野と化し、忘れ去られるのを忍び図ず、土饅頭をかため誌銘を求め墓の上に 石碑を立てた。花崗岩の切石裏面には「白水先生碑」と刻んである。 (「因幡の摩尼寺」・「鳥取県の歴史散歩」)
(3)円護寺石採掘跡・覚寺の碧玉産地
円護寺、覚寺地内の採石場跡の一つが、中ノ郷小学校裏側を通る市道西側の小高い山裾にあるが、実際に笹薮の中を登ってみないと見ることはできない。霊気さえ感じる採石場跡の入口は、幅5.5m、高さ4m。平成19年(2007)2月、鳥取市が立入禁止の鉄柵を設けた。
八幡池に面した山裾にも採石場跡があり、土地の人は両側からの採掘穴は通じているという。
江戸時代に著された『無駄安留記』は、「善久寺境内 秋葉山溜池」というさし絵の中で「石山」と記す。『因幡誌』円護寺村条にも「当村に石山あり」とある。現在の渡辺美術館のすぐ裏手である。安留記本文には 「此山谷所々に穴あり。夏の日も中に居れば涼冷として気疎し」、また、「切石を巧(たくむ)」とある。
一方、鳥取市史が表す 『覚寺の碧玉産地』 は調査中であるが、鳥取の産地は多鯰ヶ池―という文献を幾つか見つけた。恐らく、多鯰ヶ池南岸の覚寺・円護寺一帯など、石英安山岩質が多い火山岩地帯で産するのだろう。緑色のイメージが強いが、石英結晶に酸化鉄や銅などの不純物が加わって赤・緑・黄・褐色など様々である。
山陰では、古代より勾玉(まがたま)がつくられてきた出雲の玉造石が有名で、深い碧緑色をたたえている。多鯰ヶ池のものは、写真で見るかぎり、褐色系である。
(4)百谷鉱山跡
百谷鉱山は、銅・鉛・亜鉛の鉱山で、鳥取層群の荒金火砕岩層を貫く石英脈に胚胎する。
鉱石としては、黄銅鉱、斑銅鉱および藍銅鉱からなっており、他に孔雀石・方鉛鉱や紫水晶を産出する。鉱山の発見時期は不明だが、かなり古く、3つの坑道口が残っている。大正時代の一時期盛んだったが、昭和37年(1962)に閉山した。 (「新修鳥取市史」)
(5)不動瀧(継子落しの滝)
「ママ子落しの名があるが如く、継母が子をここで突落したが兼ねて信心した実の親の導きで、行者の姿になった帝釈天に救われたとのことだ。巌をつたう渓流、樹木の繁る緑蔭、摩尼参詣者の憩い水を汲む所である。
大正・昭和時代建立の浄瑠璃鶴沢はや師匠碑、豊竹伊麿太夫墓、鶴澤鬼八塚、鶴澤文吉塚、豊澤新次郎と彫られた碑が並んでいる。これらの碑の奥、樹木の繁みと巌の中に襟を正させる地蔵とその他がある。
それは大峯かこふり三と大峯三十三とある篤信者の地蔵と、摩尼寺再興に盡力し自ら大なる喜捨した大庄屋の安宅一族の多くの碑である。(中略)
ここでは『ここは静かなり』のゲーテの詩が浮ぶ。こここそ静かな魂のやすらう場所のようだ。」 (「因幡の摩尼寺」)
渓流の立ち上がり部分は石積で護岸されていて、奥のなだらかな斜面に何らかの建築物があったようにも見える。無駄安留記の絵図にも、地蔵堂のような小さな建物が描かれているようだ。周辺の地名を弘法庵ということから、これが弘法庵だったのかもしれない。
浅瀬を渡ると、山の斜面の崩壊によって無数の石仏・石塔が転がって無残である。また、十一と読めるのは小さな道標石仏のようだ。その横も石仏のようだが、苔が完全に覆い尽しているので、そのままにしておいた。
(6)旧中ノ郷小学校の跡地
摩尼寺に通づる県道一本松覚寺線に入って250m、道の左側に石碑がある。その少し奥に旧校舎があった。
正面には、『中ノ郷小学校之跡 昭和六十九年九月建之 卒業生有志』 とある。
背面には 『明治三十四年五月一日岩美郡中ノ郷村大字覚寺二百六十四番地に中ノ郷尋常小学校創立 昭和三十五年四月一日中ノ郷千代水両校統合し城北小学校設立に伴い廃校となる』 と刻まれている。
廃校して校舎も撤去されて以来、地元ではこの地に郷党教育の殿堂が存在し、地方文化の中心として栄えたことを後世に伝えていこうとの気運が高まり、元校区在住の方々の賛同を得て石碑の建立となった。
中ノ郷小学校は、明治34年(1901)中ノ郷尋常小学校として創立され(児童数55名)、大正13年(1924)新校舎落成(この校舎が廃校まで続く)。
昭和8年(1933)鳥取市に合併し、公立中ノ郷尋常小学校として新生。同12年講堂兼体育館改築落成。同16年中ノ郷国民学校に改称。同22年(1947)中ノ郷小学校に改称。同35年(1960)城北小学校に統合し、廃校。 (「ふるさと城北の宝」)
(旧)中ノ郷小学校は城北小学校中ノ郷校舎と名称を変え、昭和37年まで継続使用された。 私が最後の入学生のようである。昭和37年夏、1年生の1学期を終えて城北小学校の本校舎に移った。
(旧)中ノ郷小学校の名と精神は、現在の(新)中ノ郷小学校に受け継がれている。
(7)ビルマ方面戦没者慰霊塔(鳥取市円護寺)
(旧)陸軍鳥取40聯隊を引き継ぐ百二十一連隊は、鳥取県全域と兵庫県の一部の壮丁が入営し、鳥取砂丘を中心に猛演習を繰り返した。昭和18年春、この部隊が出動命令を受けたのは、太平洋戦史筆頭の悲劇「インパール攻略戦」のビルマ戦である。
英印軍の猛攻により、彼らは豪雨の河や湿地帯、昏いジャングルの中を飲まず食わずで亡霊のようにさまよいながら敗走した。負傷、熱病、衰弱、自決など、連隊総員の3分の2に近い2,066人は戦歿(鳥取県人1,278人・兵庫県人788人)、これにその他ビルマ部隊で戦歿した県人を加えると総数実に2,316柱にのぼる。
円護寺公園墓地の高台に立つ白亜のパゴダ塔はその供養塔である。毎夏開かれる慰霊祭(鳥取ビルマ遺児会主催)を前に、地元の「円護寺高年クラブ(百寿会)」を中心に半世紀にわたって清掃活動が行なわれている。
戦争ほど残酷で、悲惨なものはない。二度とその悲劇を繰り返すことのないように・・・・バゴダの塔への合掌は今もなお続いている。
(注)詳しくは、本サイト(浜坂砂丘と歴史のひろば)の「戦地からの手紙」をお読み下さい。