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目次
プロローグ ー 円護寺の前方後円墳と輝ける古代
Ⅰ.円護寺・覚寺の古代
1.鳥取砂丘と縄文人
 (1)円護寺・覚寺地域を駆けた縄文人
 (2)弥生時代—大地の懐に抱かれた理想郷
2.古墳時代の幕開けと円護寺
3.因幡の5つの地域集団と円護寺
4.周辺の遺跡群
 (1)岩美の広庭遺跡
   鉄づくりの忍海部(おしぬみべ)氏
   2つの円江寺ー延興寺と円護寺地名の関係
   参考ー覚寺の地名由来
 (2)福部砂丘の直浪・栗谷遺跡—因幡人のルーツ
 (3)多鯰ヶ池南岸の開地谷遺跡
 (4)浜坂の都築山・荒神山遺跡
5.円護寺の古代遺跡群
 (1)概要
 (2)船に関わるもの
 (3)「昔是ニテ要風吹 船撃砕ト也」
 (4)鉄の鋳造跡
6.覚寺の古代遺跡群
 (1)概要
 (2)白鳳時代の瓦窯跡
 (3)鐘鋳谷・鐘鋳平・鐘鋳場などの地名

邑美郡邑美郷(寛文大図より)
邑美郡邑美郷(寛文大図より)

プロローグ ー 円護寺の前方後円墳と輝ける古代

 円護寺と覚寺を囲む山々は、古墳群で覆い尽されているといっても過言ではない。
 時代も古墳時代(4~7世紀中頃)の初期から末期に及び、前方後円墳、円墳、方墳、小方墳などの様々な形態が見られる。山の尾根上が多く選ばれ、谷筋にある集落や交通の要所からよく見える場所を選んだことが想像される。
 
 また、覚寺と北の尾根をはさんで背中合わせに位置するのが多鯰ヶ池南方の開地谷遺跡であり、さらに浜坂の都築山・荒神山遺跡など、千代川右岸の浜坂砂丘南方の遺跡群へと広がる。円護寺古墳群の中でも最高所の円護寺18号墳(37m)の前方後円墳の埋葬者は、この地域一帯を勢力基盤とした首長級と考えられている。

 砂丘南部で発見された前方後円墳は、福部村箭渓(やだに)29号墳46m大、県(あがた)33m大、岩美町の新井古墳15m大などである。箭渓や県は旧湯山池・細川池近くであり、ここに集積した縄文時代から古代にかけての直浪・栗谷遺跡群の存在から、福部一帯を拠点にした豪族のものと考えられている。

 円護寺の前方後円墳は、それと同等の規模を誇っており、福部に並び立つような、または同グループ内の一大勢力が円護寺・覚寺にあったことを示している。(注)摩尼山を越えれば箭渓や海士(あもう)の県(あがた)である。
(参考 「鳥取県史」・「円護寺遺跡群」・「覚寺遺跡」・「福部村内遺跡発掘調査報告書・他)

 そこは決して広く豊かな土地ではない。この地の勢力を支え、彼らを魅了したものは一体何であったのだろうか。
現代にあって、あまり目立たない地域になった円護寺・覚寺の、輝ける古代の歴史を探ってみたい。

三方を山で囲まれた円護寺・覚寺
三方を山で囲まれた円護寺・覚寺
前方後円墳(イメージ)
前方後円墳(イメージ)

Ⅰ.円護寺・覚寺の古代

1.鳥取砂丘と縄文人

 砂丘地は地下水に富み、南部後背地には砂丘の安定期を中心にして多数の生活遺跡がみられ、人類が砂丘とかかわりを持ち始めた時期は約2万年前にさかのぼると推定されている。

 鳥取砂丘では縄文時代早期からの人類遺物が出土しており、最古のものは槍先型尖頭器が浜坂砂丘で報告されている。

 砂丘の内陸部に位置する栗谷と直浪(すくなみ)の両遺跡は縄文時代前・中期から古墳時代までの遺物が出土している。追後スリバチ付近や長者ヶ庭付近では、古砂丘と新砂丘の境界付近に縄文中期や弥生時代以降の土器や石器が出土し、浜坂の栃木山(都築山)遺跡、鳥大乾燥地研付近(双子すりばち)でも中~後期のものが発見されている。

 恐らく、発見されていないだけで、草原化した砂丘の上を広く古代人が活動していたことは、石の鏃や土器の散布から確かである。  (「参考 「山陰海岸ジオパーク 砂丘に残る遺跡」・「鳥取県の地名」)

槍先型尖頭器(浜坂砂丘)
槍先型尖頭器(浜坂砂丘)
縄文土器(福部砂丘)
縄文土器(福部砂丘)

(1)円護寺・覚寺地域を駆けた縄文人

 円護寺・覚寺地域の岩石は、打撃手法でつくり出す手法の縄文人の石器(石槍、石鏃、石斧、石匕など)に用いられたようである。「~黒曜石で知られるように、いずれも緻密さを持ち、敲打(たたき)により。剥離部に鋭い刃と尖頭部をつくり出すことのできるものであり、刃器作成に好んで使用されている。

 これらの産地の推定地は、湖山池あるいは多鯰ヶ池南岸一帯の第三紀層を覆う巨礫の安山岩であり、直浪遺跡で石鏃に好んで使用されている珪質岩は、まさに多鯰ヶ池東岸のめのう化した珪質岩そのものであった~」   (「鳥取県史」)
 
円護寺・覚寺地域に縄文人が居住したかどうかは不明だが、砂丘周辺に棲んだ縄文人は、石器材料を求めてこの一帯を駆け回ったのである。

(2)弥生時代—大地の懐に抱かれた理想郷

 「~建設省鳥取工事事務所が編集した『千代川史』の『千代川洪水溢流氾濫図』は弥生時代の主な遺跡を挿入しているが、まず目につくことは、千代川本流の流域には弥生時代の遺跡がなく、むしろ、中小河川の流域に位置するものが多い。
 これは、稲作に依存した弥生時代においては、千代川の治水はもとより、その水を有益に活かすことが困難であったことを示している。(中略) 
 
 弥生時代中期から古墳時代前期、奈良時代後期から平安時代前・中期にかけての大きな気候変動が、海面変化(上昇)やそれに伴う大洪水や干ばつをもたらしている。

 何年かに一度の大洪水に襲われると、集落はひとたまりもなく押し流されてしまったことであろう。(中略)従って、人々は特に「暴れ川」たる千代川本流流域を避けたのであろう。」  (「新修鳥取市史」)
 
 さて、円護寺・覚寺遺跡から弥生時代の土器などの遺物が発見されている。
 円護寺川、摩尼川流域は、「狭い谷を開発して、水田をつくり、その谷を望む大地に新しい集落を営むもの」(「同史」)という弥生時代の集落立地の一つの特徴に当てはまり、原始的農耕が行われていた可能性がある。

 この二村は、当時から二つの川をそれぞれ利用する集落として分かれていたと同時に、一つの政治勢力下においては、多鯰ヶ池南岸なども含めて単一の地域でもあったのだろう。
 
 この地に立つと、当地域は三方を囲む山々に外敵や風水害から守られ、山の幸と一定の水量に恵まれた地形であることが分かる。当時の人々にとって、大地の懐に抱かれたような理想郷だったのだろうと思わずにいられない。

2.古墳時代の幕開けと円護寺

 日々、山野に自然に実る果実を求め、野生の動物や魚貝を捕獲する自然採集のくらしが縄文時代であり、自然と密接な関わりを持ちながら集団での共存共栄を図っていたとされる。
 狩猟などは集団で行ったが、得た富(獲物など)は蓄財することができず、皆で平等に分配した。従って、そこに身分制度や貧富の差は生まれなかった。

 しかし、弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀頃)になると、稲作による農耕文化が確立する。鉄製のくわや鎌によって生産量は増え、余分な米は蓄えられるようになる。つまり、ここに集団の中に富の差、そして支配する者と支配される者という身分の差(階級)が生まれてきた。

 集団の支配者たちは、その地域の人々をかり出して大規模な住居や巨大な墳墓(古墳)をつくらせるほどの権力を持った。弥生時代末期になると、この動きは急加速して各地に有力者を生み、それが地域的政治集団に発展していき、2世紀初頭には、邪馬台国の卑弥呼率いる倭国連合のような広域連合を形成していく。

 3世紀後半からは、九州や出雲や山陰などの広域連合が、さらに手を結び大和朝廷と称される政権を形成し、後の国家の母体となっていく。

 この頃、各地の首長級(豪族)は盛んに古墳を造営し、以降、7世紀中頃までを古墳時代と呼ぶ。
 古墳の代表の前方後円墳は、円形と方形が組み合わさった形で、4~5世紀の古墳時代前・中期に全国で造られた。これは、ヤマト政権権力の全国への広がりを示し、ヤマト政権下に組み込まれた地方の首長に許されたものと考えられている。
 つまり、円護寺には、ヤマト政権につながる勢力が存在したということである。

 6世紀以降は、西日本ではおよそ畿内のみに集中していくが、これは、地域権力が一層、中央に統合されていったことを示している。 (参考「円護寺遺跡群」・「覚寺遺跡」・「新修鳥取市史」・「鳥取県史」・「古墳とヤマト政権」) 

3.因幡の5つの地域集団と円護寺

 鳥取平野を取り巻く周辺の丘陵や産地及び砂丘地には、30を超える前方後円墳を含む約1600基ほどの古墳が築かれている。

 まずは、古墳時代前期(4世紀頃)、鳥取平野南方中央部に大きな共同体が生まれる。津ノ井・米里・倉田の3地区にまたがる山稜上には、前方後円墳8基(古郡家1号墳90m、六部山3号墳63m)などを含む690基ほどの古墳が集積し、質量ともに鳥取平野を代表する古墳群で、この時代の鳥取平野を支配した共同体勢力と考えられている。

 しかし、4世紀後半から6世紀頃にかけて新たな勢力が誕生してくる。
 鳥取平野に3群、千代川西岸から湖山地区の勢力、そして、円護寺・覚寺や浜坂が含まれる鳥取砂丘周辺の計5大勢力である。
 プロローグで記したように、この砂丘周辺勢力群における前方後円墳の中で最大規模の一つが円護寺18号墳である。本勢力の中心地の一つであったことは間違いないだろう。

4.周辺の遺跡群

  以下、特徴的な遺跡のみを紹介する。

(1)岩美の広庭遺跡

 二上山の山麓を流れる小田川の支流荒金川の下流流域右岸に立地する。
 古代の官衙(かんが)的な性格をとどめる建物群が見つかり、倉庫らしき建物からは、須恵器・土師器に混じって鉄製品が発見された。
 二上山の山麓には、かつて鼓の明神と呼ばれた二上神社、鐘撞(かねつき)明神と呼ばれた高野神社など数社があったという。

 中世に山名氏が二上山に城を築いたため、それらの神社は現在、小田川沿いの延興寺(えんこうじ)に鎮座している。二上山の山麓には、5~8世紀にかけて高野坂古墳群が形成されており、古くから重要な拠点であったようだ。
 
 また、この辺りには、岩常山金山がある。『続日本紀』によれば、文武2年(698)に因幡国は朝廷に銅鉱を献上している。献上したのは伊福部(いふきべ)氏であり、その銅鉱は、この近辺の荒金鉱山から採掘されたものとされる。

 これらから、広庭遺跡を荒金鉱山からの銅生産を管理する役所跡と推定する説もある。時代は下るが、山名氏がここに二上城を築いた理由は、天嶮を活かした軍事的立地条件だけではなく、近隣で産出される金・銀・銅といった鉱物資源、当時の因幡の国の中心地であった国府(国庁)方面への交通路(山陰道)の確保、そして古くから海運で栄えた岩本の湊をおさえるといった経済的な面があったとされる。

 また、豊臣秀吉の時代に、生野銀山に次いで全国2番目の量の銀を因幡銀山から秀吉に納めていたという記録もある。その豊富な資源に引き寄せられるように、国の内外から人々が集ってきたのであろう。

(参考 「山陰の神々」・「鳥取県史」・「新修鳥取市史」・「円護寺遺跡」・「鳥取県の地名」)

岩美の二上山
岩美の二上山
岩美の高野神社
岩美の高野神社

鉄づくりの忍海部(おしぬみべ)氏

 「正倉院文書」(天平10年=738)には、但馬国の忍海部広庭を因幡国へ送ったという記録が残されている。

 『忍海部(おしぬみべ)氏』は、大和国の忍海を本拠とし、鉄づくりや金工に関わる専門家集団である。各地で鉱物資源開発などを手掛け、因幡忍海部(いなばのおしぬべ)という名前が『古事記』に登場する。 (「鳥取県史Ⅰ」)
 
 『忍海部氏』の性格から、岩美地区の豊富な鉱物資源の開発に関わった可能性もある。
 広庭遺跡の名と、忍海部広庭の名の一致は偶然と思えない。
 忍海部広庭は、鉱物資源豊かな岩美を拠点にしたと推定されるが、円護寺・覚寺もその一つであったのかも知れない。

2つの円江寺ー延興寺と円護寺地名の関係

 荒金鉱山近くの岩美の延興寺村は、もともと円江寺(えんごうじ)村であり、元禄郷帳作成時に延興寺と改められた。
 この村の氏神を祀る高野神社は鐘撞大明神と呼ばれていた。
  
  古墳時代、第24代仁賢天皇の御宇、壬申の年に勧請したと伝わる。西暦では492年に相当するという。『因幡誌』に「鐘撞大神祭神瓊々杵尊」とある。

 一方の、鳥取の円護寺ももともと円江寺で、元禄郷帳作成時に円護寺に改められた。今でも土地の人の発音はえんごうじである。円護寺の古寺地区の谷の奥に「鐘撞(突)」という地名が残り、かつて鐘撞堂があったといわれる。覚寺にも「鐘撞(突)」という字名が残る。円護寺では、鉄の鋳造を営む工房の鋳造遺構も発見されている。
 
 2つの『円江寺』の一致も偶然であろうか。
 後述するが、岩美地域から円護寺・覚寺にかけては『鉱山資源地帯』であり、2つの地域と2つの『円江寺』には何らかの関係があったのではないかと推測する。

(旧)法美郡
(旧)法美郡

覚寺の地名由来(参考)

 覚寺村はかつて「角寺村」であり、元禄郷帳作成時に「覚寺村」と改められた。
「寺」がつく地名は、一般的に当地の古寺に由来することが多い。近隣では大覚寺、正連寺、妙徳寺、国分寺などがそうだ。「角寺」という名の古寺があったかどうかは不明だが、少なくとも「石角寺」は存在したようだ。

 湯所の天徳寺文書(由緒編)中に「雞山の山●ひ二里にして大覚寺(現覚寺村 石角寺跡)あり、醫王善逝及十二神将を安置し十二院を建て」とあり、かつて覚寺村の代表的仏寺として石角寺が存在したことを伝えている。
 
 このことから、覚寺地名も当地の古寺名に由来するのではないだろうか。
 尚、円護寺村の地名も古寺の円護寺(円江寺)に由来すると因幡誌は伝えている。

(2)福部砂丘の直浪・栗谷遺跡—因幡人のルーツ

 福部砂丘湯山北側の「直波遺跡」は縄文人の竪穴住居跡、そして弥生時代,古墳時代,古代にかかる複合遺跡であり、3千5百年以上もの長期間居住の地となっていたと推測されている。

 また、細川東の「栗谷遺跡」も縄文時代前期から弥生時代にかけての住居跡と古墳時代の祭祀跡を伴う大規模なもので、山陰地方の重要な遺跡の一つとして国の重要文化財に指定されている。これらの湯山砂丘周辺の遺跡が、現時点で、居住年代として因幡地区で最古のものである。
 この意味において、直浪・栗谷などの福部古砂丘は因幡鳥取地区の先住民発祥の地と言えるかも知れない。
 (参考「新修鳥取市史」・「福部村誌」・「鳥取市の遺跡年表」)。
 
 ここから縄文時代~古墳時代にかけて多鯰池方面の開地谷や覚寺、円護寺、浜坂などへと移動していったと考えるのが自然であろう。

古代人の移動ルート
古代人の移動ルート

(3)多鯰ヶ池南岸の開地谷遺跡

 多鯰池南の開地谷遺跡(現ゴルフ場)は、鳥取砂丘に隣接する標高120メートル余の山地の上に築造された約80基の円墳群である。大半が10メートル前後の規模だが、中には20~35メートルに及ぶ大規模なものも3基含まれ、地域における有力豪族の存在を示している。

 5~6世紀頃の千2百点の遺跡物が発見され、鉄剣や馬具も出土している。縄文終末頃から海に近い陸地から集団で住み、当時緑地化していた砂丘地や多鯰ヶ池での狩猟や漁を行っていたのだろう。 (「鳥取県の地名」)
 この時代に前後して、山の反対側斜面に覚寺・円護寺遺跡が展開している。

(4)浜坂の都築山・荒神山遺跡

 都築山は、人工の墳丘を造らず、自然の丘陵の斜面に穴を穿った横穴式が中心で、地域の有力者ではなく古墳時代末期の一般化された集合墓・家族墓の性格を持つとされる。
 開地谷や円護寺、覚寺より後期の遺跡とされており、それらの地域から人が移動したり、横穴墓の造営のために技術者が行き来したのかもしれない。

 『新鳥取県史』は、「一ヶ所に30基以上が構築された本墓群は特異な存在であり、千代川の河口付近を拠点として海上~河川の交通を担った勢力の墓城として営まれたのではないか」とも推定している。
  
 この時期、砂丘周辺は大きな気候変動(平安海進)によって飛砂に覆い尽され、人が棲めない不毛の地となっている。従って、浜坂に棲んだ人々の墓群ではなく、秋里・賀露などの河・海洋勢力が墳墓として造営 したものである可能性が大きい。

都築山遺跡(鳥取市浜坂)
都築山遺跡(鳥取市浜坂)

5.円護寺の古代遺跡群

(1)概要

 円護寺集落の南東側及び覚寺に近い北西側丘陵尾根(北谷山)に多く展開されているが、南の公園墓地側には坂ノ下遺跡群、久松山側の字おなばにも古墳群があり、戦前戦後の開墾においてかなり破壊されたということで、集落を囲む三方全ての丘陵に古墳が存在したということになる。

 また、久松山側には、古屋敷砦跡など羽柴秀吉の鳥取城攻め時に造営された砦跡が複数見つかっている。
 最古のものは弥生時代の遺物から始まり、5世紀末~8世紀前半、11世紀後半から13、14世紀の各時期に相当する各種遺構が発見されている。
 
 坂ノ下遺跡では、5世紀末から7世紀頃、本格的集落が営まれていたことを示す多数の建物、それに伴う土坑や溝状遺構が発掘されており、6~7世紀にかけて最盛期を迎えているにみえる。

 時代が下ると、平安末期~中世初頭(11世紀~13世紀前半)とみられる鍛冶炉が5基検出され、その周辺には、掘立柱建物跡、土坑、溝などの遺構が隣接し、鋳型、羽口、鋳物片などが検出された。高度な技術を持った工人の組織的な関わりがうかがわれるものとして注目されている。
 この頃の遺跡は、居住空間というより、作業空間としての性格が強いとみられているようだ。(「円護寺遺跡群」・「坂ノ下遺跡群」)

 古代の円護寺・覚寺のどちらに重きがあったかは不明である。
 しかし、前方後円墳の存在、奥深い地形、遺構内容、岩美地域との関係などから、円護寺が政務と(鉱業などの)工務、覚寺が農業生産や信仰の地という分担にあったように思える。

 近世以降は、但馬街道などの交通の要であること、農地の広さ、摩尼街道の発展など、覚寺が重要性を増していくようである。ただ、最近の円護寺は北園をはじめとする住宅地開発とそれに伴う人口流入がめざましく、大きな変化を見せている。

円護寺遺跡(鳥取市円護寺)
円護寺遺跡(鳥取市円護寺)
円護寺坂ノ下遺跡(鳥取市円護寺)
円護寺坂ノ下遺跡(鳥取市円護寺)

(2)船に関わるもの

 古銭12枚がまとまって出土している。
 舟に関わる祭祀で、「船玉」さんと呼ばれる祭祀があり、その供物の中に12枚の銭を入れる習慣があるらしい。その古銭から考えて12~13世紀頃、そのような祭祀が行われたのであろう。

 古銭は、(初鋳年)758,998,1008,1017,1039,1078,1086,1101などで、古代中国の唐(618~907)、宋(960~1279)のものである。 (「円護寺遺跡群」)

 多鯰ヶ池周辺に棲んだ古代人は、日本海で漁をしたと考えられている。
 浜坂神社前身の大多羅大明神は多鯰ヶ池南上方の鳥打山大多羅越に「漁神・航海神」として日本海を見下ろしていた。この人々は、中世以降に農業を求めて浜坂や、山を隔てた覚寺・円護寺にも移っていったと考えられるが、この漁業民の風習の名残りであったのかも知れない。

 また、政治勢力としては、日本海沿岸に広がる海人族の「海部氏」の影響を伝えているのかも知れない。

(3)「昔是ニテ要風吹 船撃砕ト也」

 他方、円護寺集落入口に「船山」という名の山が存在した。
 現在は、削られて住宅地に変わろうとしている。寛文大図(1670年頃)では「舟山」と記されているが、注目すべきは「昔是ニテ要風吹 船撃砕ト也」(昔、ここでつむじ風が吹き、船が撃砕した)との注釈である。「船撃砕」は小舟遭難の表現ではない。かつてここまで「船」が来ていたということだろうか。そして、舟山の名前はそこから付けられたものだろうか。

 舟山は、中ノ郷小学校のすぐ横、妙見川が円護寺川に流れ込む地点にあった。土地の歴史家(西村植物園 西村厚志さん)は、「船着場があったとすれば一定の水量があるここだろう」と教えてくれた。そこより上流は山に向かう勾配となっていく。また、今でも風がきつく、住宅地になってからも電柱が倒れたなどの風害があったとのことである。

 現在の円護寺川や摩尼川は浅く狭く、小舟さえ浮かべることはできないが、かつて、日本海―千代川―袋川―摩尼川・円護寺川という舟路が存在したとすれば、円護寺・覚寺の古代史はまた一層興味深いものとして見直されるべきであろう。

「昔是ニテ要風吹 船撃砕ト也」
「昔是ニテ要風吹 船撃砕ト也」
現在の円護寺川(鳥取市円護寺)
現在の円護寺川(鳥取市円護寺)
合流する円護寺川と妙見川(左
合流する円護寺川と妙見川(左)
舟山跡地
舟山跡地

(4)鉄の鋳造跡

 円護寺では、鉄の鋳造を営む工房の鋳造遺構も発見されている。

 また、戦前の円護寺村では、家庭で鞴(ふいご)を使用して鉄器を補修するといったことも行われていたという。
 これは、石工職人が多かった当村に必要な、たがね(鉄のみ)を鍛える技術であったともされるが、石材を得るための掘削技術は、鉱山開発技術そのものであり、円護寺の「鉱山文化」の歴史を物語るものだろう。
 そして、その始まりが伊福部氏との関係であり、また、因幡忍海部氏の拠点の一つがここにあったのかも知れない。

円護寺遺跡の分布
円護寺遺跡の分布
覚寺遺跡鳥取市覚寺)
覚寺遺跡(鳥取市覚寺)

6.覚寺の古代遺跡群

(1)概要

 大まかには、摩尼川と円護寺川合流地点の東方、覚寺と円護寺を隔てる低山地の南斜面と、開地谷古墳群が存在する多鯰ヶ池南岸の鳥打山の覚寺川斜面を中心に円墳・方墳が造営されており、弥生時代から古墳時代にかけての遺物が散布している。

 古墳としては、最古と思われる4世紀末~5世紀初頭のもの、開地谷遺跡(5~6世紀)とほぼ同じ時期のもの、古墳時代末期(7世紀前半~8世紀初)のものが発見されているほか、集落奥部の畑地斜面では古瓦窯跡が発見されている。

 律令制下になると、全国で古墳の造営に替わって仏教寺院の建立が見られ始める。この窯跡から出土している軒瓦は、素弁八葉蓮花文で白鳳時代(大化元年645~710平城京遷都)のものと推定される。

覚寺遺跡の分布
覚寺遺跡の分布
覚寺で発見された白鳳時代の瓦
覚寺で発見された白鳳時代の瓦

(2)白鳳時代の瓦窯跡

 県内の瓦窯跡は、寺院跡と結びついて発見されていることから、恐らくは邑美郡の豪族が建立した寺院が覚寺に存在したものと考えられる。

 「因伯の古廃寺跡の分布が、国府が置かれた法美・久米の2郡に多く、その他の郡では1,2か所ということは、白鳳期に始まる地方寺院の造立が、政治権力と関わりを持っていたことを示している」・「白鳳期の因伯の仏教文化は、庶民が享受したものではなく、寺院造営に伴う仏教美術という一部の特権者のもの。覚寺に特権階級が存在したことを示している」・「瓦の製作技術は、仏教と同じく百済から伝わり、のちに、高句麗の技法・文様も伝えられたという。(「鳥取県史Ⅰ」)

 『日本書紀』や『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』には、587年に発願した法興寺の造営に際し、日本からの求めに応じて百済の威徳王が技術者集団を派遣し、その中に瓦博士(瓦師)4名が含まれていた」とある。

 椎谷神社の社厳横の山中に、土を採り瓦を焼いた跡地とみられる一角がある。荒れ地になってはいるが、土地の歴史家(西村植物園 西村厚志さん)に案内してもらって歩くと、数片の瓦片が見つかった。

椎谷神社社厳鳥取市覚寺)
椎谷神社社厳鳥取市覚寺)
山中に散在する古瓦片(鳥取市覚寺)
山中に散在する古瓦片(鳥取市覚寺)

(3)鐘鋳谷・鐘鋳平・鐘鋳場などの地名

 覚寺と円護寺の間の山峡に、鐘鋳の地名が多い。
「山名以来、鳥取城の鐘鋳場であったのかと思ったり、摩尼四十九院の鐘が鋳造された地かとも思う。(中略)この鐘鋳の地名には、信仰につながる梵鐘の功徳も地に沁みこんで居ることだと思う。」  (「因幡の摩尼寺」)

 隣村の浜坂村は「鐘及び仏像の鋳造場所として使用され、正徳元年(1711)鳥取明光院の地蔵、同4年鳥取景福寺の鐘、寛政2年(1749)鳥取円城院の鐘が鋳造され、寛政6年、寺は不明であるが、鐘が鋳造された折には多くの見物客が集ったと『因府年表』にある。」 (「鳥取県の地名」)
 
 覚寺の古瓦窯跡、浜坂の覚寺との境界に近いウツロ谷における窯業跡(浜坂焼)など、近辺には良い土があったと考えられる。

 鳥取市南方の津ノ井は、いわゆる津ノ井瓦の生産地であるが、その瓦の原料である粘土の産出地帯である。
 この粘土層は、鳥取平野の周辺地に散在し、浜坂や円護寺・覚寺などの砂丘南方地域にも広がっている。

覚寺の古い地名
覚寺の古い地名図(部分)

 上の覚寺の古地名図(部分)において、椎谷(神社)、鐘鋳場、鐘鋳平、鐘鋳谷、弘法庵(継子落し滝付近)などの地名が見える。