以下、本ページの目次です。
 下線部をクリックすると、直接ジャンプできます。

目次
Ⅱ.律令時代の円護寺・覚寺(奈良・平安期)
1.律令時代の幕開け
2.古代因幡の豪族たち
 (1)伊福部氏と因幡氏の興隆と斜陽
   伊福部氏
   因幡氏
 (2)海部氏
 (3)忍海部氏
3.邑美郡の成立と伊福部氏
 (1)評督・郡司の伊福部氏
 (2)邑美郡邑美郷
4.郡家が置かれた邑美郷
 (1)国府と郡家とは
 (2)郡家が置かれた円護寺・覚寺
 (3)円護寺・覚寺と伊福部氏のつながり

Ⅲ.円護寺・覚寺の発展の謎を探る
1.鍵を握る地質・地層
 (1)荒金火砕岩層と円護寺火山岩類
 (2)鉱物資源と古代の政治勢力
2.政治や密教に好まれた地形
 (1)三方を山に囲まれた閉鎖的空間
 (2)古代山陰道が通った覚寺付近
 (3)山岳信仰と平安密教が花開いた地形―摩尼寺の創建
   湖山との関係の謎と考察
湖山長者について
 (4)古地図に載る神社仏閣など
   大日堂跡と千手観音堂
   妙見谷と妙見堂
   牛頭天王

Ⅳ.中世(鎌倉・室町)
1.伊福部氏の斜陽―承久の乱
2.承久の乱後

Ⅱ.律令時代の円護寺・覚寺(奈良・平安期)

1.律令時代の幕開け

7世紀前半、推古天皇と聖徳太子は大化改新(645年)など天皇主権の確立を目指したが、これは、後の天武天皇によって成し遂げられ、当時の唐(中国)にならって律令制の導入を進め、701年の大宝律令によって結実した。
 律令制とは、天皇とその官僚による一元的な支配による中央集権国家を目指すものであった。

2.古代因幡の豪族たち

 大化改新(645)以前の因幡国にみられる氏(朝廷に認められた地方豪族の同族集団)は、赤染氏、海部氏、因幡氏、伊福部氏、忍海部氏、春日戸氏、神部氏、土師氏、日下部氏、勝氏 である。正倉院文書(因幡国戸籍断簡)に伊福部、海部、日下部、神部などの氏名が見られる。
 この中で、千代川右岸の日本海沿岸に関係するのは、伊福部氏、海部氏、忍海部氏である。 (「鳥取県史」)

 そして、奈良時代から平安時代にかけての因幡国を特徴づけるものは、千代川左岸(高草郡を中心)を因幡氏、右岸(法美郡を中心)を伊福部氏と、国内を二分して勢力を競い合っていたことである。

因幡氏と伊福部氏の2大勢力
因幡氏と伊福部氏の2大勢力
古代因幡の郡割
古代因幡の郡割

(1)伊福部氏と因幡氏の興隆と斜陽

伊福部氏(いふきべ)

 伊福部氏は、古代の職業部「伊福部」を名とする氏族で、出雲・因幡系と大和系などの幾つかの系統があるようだが、いずれも金属精錬などの技術を持った朝鮮半島(新羅)からの渡来人をルーツにするようである。

 谷川健一著の「青銅の神の足跡」は、伊福とは、伊吹く、息吹くと同じ意味で、ふいごのこと、また、伊福という地名の場所から共通に銅鐸が出土し、または銅の産地であるなどから、伊福部氏は銅もしくは鉄の生産に携わる豪族であり、「伊福」が古代の鍛冶氏族である伊福部氏の居住した地域で、弥生時代に各地でつくられた銅鐸もまた、伊福部氏が関わったのであろう」と述べている。

 因幡の伊福部臣の古系図によると、第20代若古臣の条の記録に、「禱祈(とうき)を以て気を飄風(つむじかぜ)に変化す。これを書(しる)して、姓(かばね)を気吹部(きふくべ)臣と賜ふ。」とあり、まさに、ふいごをもって強い風を炉に送るさまを示したものである。 (「青銅の神の足跡」)

 因幡の「伊福部」は法美郡を中心拠点にしたとされ、後述する、岩美で産する銅などの鉱物資源に関係があると考えられる。(江戸時代以前の法美郡は、江戸時代から分かれた巨濃郡(岩井群)地域を含んでいた)

 伊福部氏が正史に登場してくるのは、天武天皇の13年(684)で、伊福部連(むらじ)が宿禰(すくね)の姓を与えられたことが記録されている。文武天皇2年(697)には岩美鉱山(荒金)の銅を朝廷に献上した上、伊福吉部徳足の娘を采女として貢進、その采女が慶長4年(707)には従七位の下を授けられた。
 尚、この頃、伊福部氏が祖神を祀った神社が宇部神社である。創建は大化4年(648)とされている。

宇部神社
宇部神社

因幡氏(いなば)

 一方の因幡氏は、出雲系土師氏の流れをくむ因幡国の伝統的な豪族で、稲作を中心とする農業生産力に支えられた在地勢力型の氏族である。8世紀~9世紀にかけては、千代川と湖山池の水運に恵まれた農業生産力を背景に、因幡国の国造(国の長)の地位につき、その勢力は一時、伊福部氏を大きく上回るものであった。

 高草郡に東大寺領高庭荘(756)が設けられたとき墾田長となった国造難磐(かついわ)の系統で、『続日本紀』には宝亀2年(771)「因幡国高草采女従五位下国造浄成女等七人を因幡国造を賜う」との記録がある。
伊福部氏と同じく、娘を采女として差出し、桓武天皇の寵愛を受けたこの采女は796年には正四位上の位まで上り伊福部系より高い位を授けられたことが分かる。

 また、因幡氏の氏神の天穂日命神社(あめのほひのみこと)は、貞観9年(867)にはその神階が正三位に達し、伊福部氏の祭る宇部神社より位が高く、因幡国第一の神社であったことからも、当時の因幡氏の勢力が因幡一であったことを示している。
 こうして、古墳時代には影が薄かった千代川左岸の高草郡は、東大寺や朝廷など中央との結びつきを強め、因幡氏は因幡国造を名乗る一方で、千代川右岸の伊福部氏は次第にその地位を低下させていく。

 しかし、その後の推移は、『延喜式』(967年施行)における天穂日命神社と宇部神社の地位が完全に逆転していることにより、9世紀後半から10世紀前半で因幡氏と伊福部氏の勢力に逆転が生じたことを示している。

 更に、寛弘4年(1007)、因幡国の国守に任ぜられていた中央官吏の橘行平が、その地元農民への苛酷な税収奪を中央に訴えた当時の因幡国の介(次官)の因幡千里を殺害するという事件が起こった。橘行平は罷免されたが、これを機に因幡氏は歴史の中から消えうせ、代って、伊福部氏が因幡国の介の地位につき、因幡国の最大有力者としての地位を固めていく。そして、宇部神社も因幡国一の宮(最上位序列)となっていく。

天穂日命神社
天穂日命神社
天穂日命神社の案内板
天穂日命神社の案内板

(2)海部氏(あまべ)

 漁業や海運に携わった部民で考えられ、日本海側に広く分布しているが、特に、丹後の海部直は篭神社(宮津市)の『海部氏系図』によってよく知られている。出雲、因幡に最も多く分布し、越前では海部郷の地名もある。 (「福井県史」)
 各地域における海部集団の長を海部直(あまべのあたい)と呼ぶ。

 因幡では、法美郡服部郷の海士(あもう)集落を居住地としたようであり、鳥取砂丘周辺の古墳群を築造した勢力は、この海部氏であると考えられている。因幡国において、海部氏は伊福部氏と婚姻関係があったとされている。
(「鳥取県史」・「新修鳥取市史」)

(3)忍海部氏(おしぬみべ)

 先に記したように、大和国の忍海(おしみ)を本拠地とし、鉄づくりや金工に関わる専門家集団である。

 これらから、当時の因幡国の千代川右岸全体を伊福部氏、その勢力下で日本海側を「海部氏」、鉱物資源開発では『忍海部氏』が関与するという構図が見えてくる。

3.邑美郡の成立と伊福部氏

(1)評督・郡司の伊福部氏

 因幡国は7郡であるが、律令体制が確立する以前の初期過程では、一つの水依評(みよりのこおり=後の郡)から千代川右岸の法美郡と邑美郡、左岸の高草郡に分かれたとされる。

『因幡国伊福部臣古志』によると、大化2年(646)に、因幡国内にはじめて唯一の水依評ができ、そこから600年代後半に法美郡、邑美郡、高草郡ができた。唯一の水依評の評督に任ぜられた伊福部氏の第26代都牟自臣(つむじのおみ)の子たちが初代の法美郡と邑美郡の郡司となったとされている。

 邑美郡、高草郡ともに古代(大化の改新後)から明治29年(1896)の郡制施行(再編)まで存続した地域名である。

(2)邑美郡邑美郷

 『和名類聚抄』(平安時代)によると、古代因幡国には巨濃郡・法美郡・八上郡・智頭郡・邑美郡・高草郡、気多郡の7つの郡が記され、このうち邑美郡に、美和・古市・ 品治・鳥取・邑美という郷名が出てくる。

 これらのうち4つの地名は現在も残っており、千代川沿いに久松山から袋川あたりが鳥取郷、袋川から鳥取駅あたりが品治郷、駅南が古市郷、さらにその南が美和郷だったと想像できる。 (「鳥取地名の由来」・「因幡誌」)

 オフミの語源は「淡海」のこと(「日本地理志料」)、また「大海」のこと(「大日本地名辞書」)など、池や湖、または海に由来する地名とされ、邑美郷は鳥取郷の北、千代川・袋川の最下流域東岸の邑美郡北端日本海に面する地とするのが通説であり、浜坂、覚寺、円護寺、丸山などの旧中ノ郷村一帯だったとされる。

4.郡家が置かれた邑美郷

(1)国府と郡家とは

 古代因幡国における都市的集落としては、「国府」及び「郡家(ぐんけ)」があり、共に国やその下部組織の郡の政務をとる都市である。『和名類聚抄』には「ぐうけ」,『日本書紀』や「風土記」には「こほりのみやけ」とある。

 国府とは、国の政庁が置かれ、国の政治、経済、文化の中心地であり、郡家はその下部にあって郡の中心地である。国府には、中央から国司が派遣された。国司の役割は、その国の人口増や耕地面積の拡大など、つまり、「国の生産力をあげて、公民(農民)に課せられた負担(年貢など)を確実にとること」であった。

国府(政庁)イメージ
国府(政庁)イメージ
郡家イメージ
郡家イメージ



 鳥取市(旧岩美郡)国府町集落の広場に、高さ3メートルの自然石の歌碑がある。

  「 新しき 年の始めの初春の 今日ふる雪のいやしけ吉事 」

 大伴家持が因幡守(国司)に任ぜられたのが天平宝字2年(758)。その翌年正月1日(元旦)、雪の降る国庁に国衙の役人・郡司などを集めて新春の祝賀会が催され、その席上で家持が詠んだ歌である。大伴家持42才の新年であった。
 家持は万葉集4516首の最後にこの祝歌を載せ、民族不滅の宝典と称される万葉集20巻を集大成した。家持は因幡での在任3年半ののち帰京している。 (「鳥取県の歴史散歩」・「大伴家持碑 鳥取市」)

 大伴家持は、因幡の国司として伊福部氏、因幡氏などとともに因幡国の統治に当たったのだろう。

(参考) 国府は、国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・厨(給食センター)・国司館などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。
 また、郡司が拠点とした郡家も、郡庁・曹司・正倉院・厨・郡司館・駅家などの施設が集まり、近くには郡司氏族の氏寺も営まれるなど郡内の中心であった。

因幡国庁跡(鳥取市国府)
因幡国庁跡(鳥取市国府)
大伴家持の石碑(鳥取市国府)
大伴家持の石碑(鳥取市国府)

(2)郡家が置かれた円護寺・覚寺

 浜坂砂丘南方は、邑美郡邑美郷と呼ばれていた。
 前述のように、邑美(オウミ)が「淡海」や「大海」など海や河川、池や湖を語源とするならば、邑美を冠する邑美郡の中心は、この邑美郷にあったと考えるのが自然であろう。

 「新修鳥取市史」は、「岩永実は、邑美郷の想定地たる円護寺川沿いに第一次郡家を想定し」、「後に郡家は『古郡家』なる大字・集落が存在する一帯へ移転した(第二次郡家)と推定している。」
 
 さらに、「岩永実によれば、円護寺川流域にも邑法平野とは異なる条里地区が認められる。」・「条里関係地名としては、覚寺に『拾上』『縄手』の小字地名が見いだせる。このうち、前者は”十ノ坪”の意味に由来する可能性がある。古い地籍図を見ると、方形な地割が見られる。」と記している。(注)

 古郡家は、現在の津ノ井倉田、円通寺で囲まれた一帯で、最寄駅がJR津ノ井駅と東郡家駅である。この地区には、因幡最大規模の前方後円墳古郡家1号(92.5m)や因幡最古級とされる六部山3号墳(65.5m)をはじめとして古墳が密集し、大路川筋の縄文遺跡や弥生時代の住居跡も見つかっている。

(注)「鳥取県地誌考」(岩永実)における邑美郡家の表現は、「浜坂砂丘南方平野一帯」・「忍海部の居住地」・「条里の方格地割の基線は円護寺― 覚寺道の線と推定」などである。
 「新修鳥取市史」は、これらや遺跡、地形、古い地名などを含めて総合的に、「円護寺川流域」と判断し表現しているようだ。

(3)円護寺・覚寺と伊福部氏のつながり

 邑美郷が邑美郡の初期の郡家であったとするならば、それは何故だったのだろうか。

 伊福部氏と全く関係のない地域を郡家に指定するとは考えにくい。恐らく、その前から円護寺・覚寺周辺地域と伊福部氏は何らかの深いつながりがあり、居住もしていたのではないだろうか。

 こう考えると、前方故円墳をはじめとする円護寺・覚寺の古墳群の密集や白鳳時代とみられる瓦の窯跡などの遺構群の存在が理解できる。
 「深いつながり」とは何かを以下で考えていく。

Ⅲ.円護寺・覚寺の発展の謎を探る

 何故、古代の円護寺・覚寺が邑美郡の中心、またはその一つとして発展したのだろうか。
 円護寺・覚寺の歴史を観る上で見逃せないのが、岩美~円護寺にかけて連なる、鉱物資源を胚胎する岩石層の地質である。 この地質こそが当地域の歴史に大きく関わってきた鍵ではないだろうか。
 さらに、古代政庁や平安密教が好んだ独特の地形、古代山陰道のルートなどを挙げたい。

1.鍵を握る地質・地層

 鳥取市の地質の基盤は火成岩系と鳥取層群と呼ばれる堆積岩である。

 浜坂地区では、久松山~雁金山~丸山~都築山~荒神山ラインににかけて花崗岩。覚寺周辺は紋岩や安山岩などが基盤となり、円護寺付近に発達する火山砕屑岩類(凝灰岩)は円護寺火山岩類と命名され、緑色をした「円護寺石」と呼ばれて幕藩時代から鳥取の特産物として切り出されていた。
 
 これら基盤の岩石層を数十m厚の砂や火山灰が覆って発達したものが鳥取砂丘である。
(「新修鳥取市史」・「山陰海岸ジオパーク(砂丘およびその周辺の基盤地質)」

砂丘の地質図
砂丘の地質図

(1)荒金火砕岩層と円護寺火山岩類

 岩美町の海岸線は主に花崗岩が分布し、その南側には、およそ2千万年から5百万年ごろの海に堆積した地層や、火山噴出物によってできた岩石などが見られる。これらの地層の割れ目に熱水が入り込み、様々な鉱床が形成されたのである。
 この火砕岩石層は、流紋岩ないし石英安山岩質の凝灰岩・凝灰角礫岩を主とし、溶岩をはさむが全体に淡緑色から白色に変質した岩石である。
 即ち、いわゆる「円護寺石」である。この層は銅鉱床を胚胎し、岩美の荒金鉱山はその代表的なもので、有史以来、因幡の銅としてよく知られていた。

 岩美町では、蒲生川流域上流部や小田川流域の中・上流部付近に、岩井鉱山、岩美鉱山(荒金鉱山)、大宝鉱山、因幡銀山などの鉱山跡や鉱山にまつわる伝説が残っている。 (「山陰海岸ジオパーク」)

 また『荒金火砕岩層』は円護寺付近まで広がり、円護寺付近では『円護寺火山岩類』と名付けられ、すぐ近くでは百谷鉱山が存在する。

 百谷鉱山は銅・鉛・亜鉛を産し、昭和37年に閉山した。百谷と覚寺・円護寺は、摩尼山系をはさんで東西に接し、円護寺にも鉛、亜鉛鉱床の存在が認められている。 (「新修鳥取市史」)

 地質の同質性という点では、岩美で「円護寺石」を産し、円護寺で銅などを産するということである。
 このように、岩美から円護寺・覚寺までを、鉱物資源地帯と呼ぶことができよう。

(注)日本で銅が発掘されたのは岩美の荒金鉱山(7世紀)、その以前は大陸から銅、錫(すず)などの材料が入ってきたとされている)

荒金火砕岩層と円護寺火山岩類
荒金火砕岩層と円護寺火山岩類
円護寺石
円護寺石

(2)鉱物資源と古代の政治勢力

 この地域一帯を支配下に置いた古代の政治勢力は、これらの鉱物資源を求めたのではないか。その勢力は円護寺の前方後円墳の埋葬者と関係があるかも知れない。
 まず考えられのが伊福部氏である。
 伊福部氏が支配した因幡(少なくとも千代川右岸)では金属精錬が発達した。円護寺はその中心の一つ、または一角でなかったろうか。

 大化2年(646)に、第26代の伊福部都牟自臣が因幡国の水依評の評督になったという記録から、伊福部氏の初代の時代を計算すると、1代を20年とすれば520年前。つまり、2世紀中頃の弥生時代となる。
岩美町の蒲生川の川底から弥生時代の土器や石器が大量に出土し、その近くから2世紀頃(弥生時代)のものとされる銅鐸が発見されている。

2.政治や密教に好まれた地形

(1)三方を山に囲まれた閉鎖的空間

 円護寺村及び覚寺村は、それぞれ円江寺村、角寺村として、江戸時代寛文年間(1670年頃)に作成された「寛文大図」に描かれている。

 北は多鯰池南面の鳥打山の尾根、東は摩尼山~本陣山の尾根、南は久松山~丸山へ続く尾根、覚寺と円護寺は北谷山・妙見山などで仕切られている。両地区ともに三方を山に囲まれ、一方が鳥取平野に開け、川が流れ出るという特異な地形を有している。覚寺は摩尼川、円護寺は円護寺川が中央を流れ、2つの川は覚寺口で合流し、浜坂で袋川に合流する。

 この三方を山に囲まれた閉鎖的な空間は、古代政庁(政治の中心地)を設置する場として好まれ、平安期以降には、山岳信仰と結びついて密教文化を育む空間となり、天台宗摩尼寺をはじめとする多くの寺院がここに集中するようになったと考えられる。

 国府(国庁)の立地には以下のような特徴があるという。
「国府の位置決定には、交通の便が大きく影響している。その多くは、水運の便に恵まれたところに位置している(中略)三方が山や丘陵で囲まれ、一方だけが河川を通じて外海に通じているといった閉鎖的な内陸盆地の中央位置や、臨海の海岸平野にあっても、河口よりやや入り込んだ場所が選ばれることが多かった」  (「鳥取県史」)
 国府と郡家の違いはあっても、まさに、円護寺・覚寺の地形の特徴そのものである。

 また、古墳は、有力者が生前に場所を決めて、亡くなる前から造られたと考えられている。決めた土地に縄張りをして、専門家が指揮をとって造営作業を進めたのだろう。従って、有力者は古墳を造りやすく、集落からよく見える地形を好んだのではないか。

(参考)
 奈良の平城京(710)遷都宣言をした元明天皇の詔のなかで、「四禽図に叶い、三山鎮めを作し、亀筮並びに従う」と延べている。東・北・西の三方に山があり平城の地を守るように包み込んでいて、南に開けるという地勢こそ、平城の地が選ばれた理由であり、宗教思想上(四神相応の思想=風水の一種)も良いということである。

 京都の平安京も例外ではない。平安京を置いた山城国について、桓武天皇は「此の国、山河襟帯(さんがきんたい)して、自然に城を作す」(日本紀略 794年)と、山と河がめぐり、自然に城となっているという地勢の良さを述べている。
 平城京と同じように三方を山が囲み、南に開け、東から南に鴨川、西に桂川が流れているのである。

 因幡国府は山に囲まれ、奈良平城京の大和三山を倣って「因幡三山」と通称している。
 四神相応の思想とは、大陸から伝わった当時の都市造りで用いられた風水の一種の思想であり、大地の四方の方角を司る「四神」を置く地勢や地相のことをいう。「四神」とは、玄武、朱雀、青龍、白虎であり、その中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。

 日本においては、東方は『青龍』が棲むという清流、北方は『玄武』が棲むという山(丘陵)、西方は『白虎』が棲むという大道、南方は『朱雀』が棲むという湖沼という説がある。

 円護寺・覚寺の地形を見てみよう。東方に川があり、北に山がある。南は八幡池や千代川湿地帯、そして西には古代山陰道が通っていたのていたのではないか。
 まさに、伊福部氏所縁の地であり、かつ、郡家として相応しい地形だったのだろう。

邑美郡邑美郷(寛文大図より)
三方山の円護寺遠景

(2)古代山陰道が通った覚寺付近

 天武天皇時代(672~686年)、律令制度の整備によって各地に官道が敷かれた。

 中国地方の日本海側には山陰道が通じ、畿内から丹波国、丹後国、但馬国を経て因幡国が陸路で結ばれた。『延喜式』(905年)の「諸国駅伝馬」によれば、『因幡国 ― 駅馬 山埼。左尉。敷見。柏尾。各八疋』 とある。

 因幡国府への道は2説あり、蒲生峠を越えて因幡国に入り、蒲生川に沿って海側へ下り駟馳山峠・榎峠経由で国府へ至る説、蒲生川上流部へ入って十王峠経由で袋川上流部から国府方面へ下る説である。

 「因幡・伯耆の町と街道」(中林保著)によると、「地籍図を調べてみると、福部村の大字細川と大字栗谷の大字界付近で、「駒帰」「上駒帰」などの小字名を検出した。細川集落には『因幡誌』によると「里諺に此所は当国の駅馬の始めなりといふ。続日本紀養老七年因幡駅四所を加置とあり、其頃よりの事なるや」という言い伝えがあるという。

 小字名や言い伝えから考えると、細川集落付近に佐尉駅が置かれていたことも想像できる(中略)佐尉駅から西の駅路は、鳥取砂丘付近を通り、鳥取市菖蒲付近に置かれていた高草郡家に達する。一方、因幡国府からこの高草郡に至る道も。当然にあったろう。」

 以上から、古代山陰道は、駟馳山峠下を越えて、旧国道9号線のように細川、湯山、多鯰ヶ池—覚寺周辺を通っていたと推測される。郡家が置かれる地理としては、このように官道沿いであることが条件となるだろう。

 更に、Ⅰ―5. 円護寺の古代遺跡 で記したように、日本海―千代川―袋川―摩尼川・円護寺川の舟路が存在したのなら、官道と併せて郡家としての地理的優位性を一層増すことだろう。

(3)山岳信仰と平安密教が花開いた地形―摩尼寺の創建

摩尼山山頂付近
摩尼山山頂付近

 摩尼山信仰の起源は明確でないが、源は山岳を霊界として考える素朴な信仰であり、霊魂の宿る山として信じられていた。 
 
9世紀、平安仏教の天台・真言宗が霊山を神聖視する在来山岳信仰とも結びつき、山岳を行場とする修験道とともに因伯にも拡大し、摩尼山は伯耆の大山、美徳山とともにその代表である。

 平安時代後期には因幡国山中他界信仰の霊山となり、極楽往生の末法思想と結びついて、国内の死者の霊魂は摩尼山を経由して極楽に行くと信じられた。

 往時の寺は摩尼山の山頂付近にあったとされるが、寺はその後中腹に移転。さらに、1581(天正9)年、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、秀吉軍の焼き討ちで荒廃。その後、藩政時代に因幡国鳥取藩藩祖・池田光仲らが鳥取城の北東(艮=うしとら)の鬼門にあたる現在の山裾に、鬼門鎮護で再建し、歴代藩主からも庇護されたのが現在の摩尼寺である。
 
 他方、『円護寺』も同様な山岳空間の中で摩尼寺よりも早く創建され、寺伝によると円護寺、摩尼寺ともに僧円仁による開山とされる。
 覚寺における帝釈天降臨伝説や継子落しの滝の伝説は、地形や古い地名から考察すると、元は山筋を隔てた円護寺方面に纏わる伝説であったのを、江戸期から第二次世界大戦前にかけて隆盛を極めた摩尼寺の伝説として伝えられるようになったものとする説が存在する。
「因幡誌」は、円護寺にも継子谷という谷があり、そこも同じように昔継子を捨てたところであると記している。

(参考)
「村より数町許り奥にあり 摩尼寺へ詣れは道の右手にあり 谷川の流れ此處にて小さな瀑となる側に不動尊を安置す 昔継母一人の継子を具して帝釈へ詣り 此處に手水に事よせ継子を此瀑下に落として殺したりと隣邑圓護寺に継子谷と云ふあり 是も継子を捨てたる處と云へばさる事もありにしや」  (「因幡誌」)

継子落しの滝(鳥取市覚寺)
継子落しの滝(鳥取市覚寺)
継子落しの滝の地蔵さん(鳥取市覚寺)
継子落しの滝の地蔵さん(鳥取市覚寺)

湖山との関係の謎と考察

 『円護寺縁起』を含む摩尼寺に関する縁起には、『宇文(産見)の長者伝説』など湖山との深い関係が読み取れる。

 昔、高草郡の小山村(現在の湖山村)に、宇文(産見)長者がいた。五福十徳を備え慈悲深い人物だったが、五十の坂を越えても子宝に恵まれず嘆いていた。

 そこで、邑美郡にあった円護寺という寺に参籠し、一心に大日覚王像を拝むと、七日目の満願の暁に、ふとまどろんだ長者の妻の袂に月輪が飛び込んで身ごもった。やがて月満ちると玉のごとき女児を産んだ。

 子宝を得た長者は、千谷川(現在の千代川)に橋を架けて往来の便をはかり、円護寺の境内には別に一寺を建てて、釈迦と多宝の二体の如来像を安置した。
 こうして、長者夫婦は、子宝を授けてくれた大日覚王にお礼の心を表したのである。 
 
 この子が八才になった年の六月、ある日突然娘の所在が知れなくなった。尋ねあぐんだ末、長者夫婦はある日思いついて喜見山(摩尼山)の頂に登って北西の海上を見ると、山の西南に湖水があり、清波洋々たるさまはまるで琵琶湖のようで、中に小島があって、そこには老樹が枝を垂れ、これまた竹生島に大層よく似ていた。

 天女はしばらく湖水に入って龍女の姿になり、泳ぎ回ること三日三晩、六月末になると龍女はさらに変じて男体となり、喜見山中の高さ九丈もある立岩の頂にすくっと立った。そして、今度は帝釈天に姿を現じ、見るもまばゆいほどの後光を辺りに放ったのである。(中略)

「われはもと大日覚王の身であった。衆生を済けんがため、ある時は龍女に姿を変じ、今また帝釈天に身を現ず。今日より後は、この峯に鎮座して、永く仏法を守り、また国家の鎮将ともなり、広く衆生を済けて後生安楽をはかりつかわす。なかんずく穢れある婦人の身を救うは、これすなわちこれわが本願なるぞ。汝らもこのことをゆめ疑うことなかれ」 と告げるが早いか、そのお姿はたちまちかき消すように見えなくなった。

  山頂の立岩は帝釈天降臨の霊地とされ、 長者はこの地に精舎を建て、それを承和年間(834年頃)、円仁(慈覚大師)が再興したのが摩尼寺の起こりであるという。

 この中の『山ノ西南二湖水アリ 清波洋々琵琶湖ノ如シ 中二嶋嶼アリ』(原文)の中の『湖水』で形容されるのは明らかに湖山池である。また、「瘡守稲荷」にも同様に湖山長者が登場する。
 さらに、円護寺村はかつて「円江寺」であったことを先に述べた。因幡における「江」は千代川であろう。

 以上のように、湖山地域と円護寺の間には何らかの強く深い関係があるようだ。
 この謎を説明する一説が、湖山長者の太陽信仰説である。湖山長者は太陽に仕える宗教の代表的人物であり、日の出を拝み、日の神を司祭し、日暦(時)を読む者であったという。金の扇で太陽を招き返したという『湖山長者伝説』も太陽と時に関係する。

 この説によると、円護寺・覚寺との関係は、湖山(池)から見ると、真東にあたる摩尼山塊が日の出を迎える神聖な場所であり、立岩に降臨した「われはもと大日覚王」即ち大日如来は、そこから昇りくる太陽の象徴であり、湖山池を泳ぐ龍女は、太陽と同じく水田耕作における生産力の根源である水の神を象徴しているということである。

 太陽信仰は日と水による大地の生産という農業信仰へ密接につながり、『摩尼寺縁起』は「宇文(うぶみ)の長者」を稲穂を産むという意味だろう「産見(うぶみ)の長者」と表現している。
 また、出雲神話のヤマタノオロチ(八岐大蛇)退治伝説が、蛇は水神であり、斐伊川の氾濫と治水を象徴しているという解釈に沿えば、龍は「暴れ川」千代川をも表現しているのかも知れない。

 このように、湖山長者は摩尼山を太陽崇拝の聖地とし、円護寺や摩尼山の精舎を建てたのである。

湖山池東方の山々
湖山池東方の久松山・摩尼山系
湖山池から摩尼山系を望む
摩尼山系からの日の出

 ただ、湖山長者が単独で行えたものなのかが疑問に残る。
 特に、「千谷川(千代川)に橋を架けて往来の便をはかり」のくだりに注目したい。

 近世以降、千代川には明治まで橋が架かることはなかった。理由は、西の外敵に対する鳥取城の最後の防衛ラインだったのである。また、鉄筋コンクリート製の八千代橋ができたのは昭和6年のこと、それまでは木橋であり千代川増水の度に流され、主は渡し舟に頼っていた。従って、1千年も遡る律令時代に橋が架かったとは思えない。

 他方、律令時代の因幡国は、因幡氏と伊福部氏が、千代川の左岸と右岸に分かれ国内を二分する勢力として競い合っていたことは先述した。これらから「橋を架け」とは比喩表現であり、言い換えると、千代川の「左岸」と「右岸」に橋を架けた、つまり、両岸に勢力を及ぼしたということと考える。

 この観点から、上記の湖山長者の太陽信仰説に以下の仮説を加えたい。

 円護寺、摩尼寺の創建は、それぞれ天長7年(830)、承和年間(834~847)とされている。この創建時期が正しいとするならば、この時代『Ⅱ.律令時代 2.因幡の豪族たち』で述べたように、因幡で勢力を大きく拡大したのが、湖山池周辺の農業生産力を勢力基盤にした因幡氏なのである。その因幡氏が、伊福部氏の勢力基盤であった千代川右岸にまで政治的影響力を及ぼし、湖山長者の円護寺や摩尼寺創建に関与し、これを庇護し、国中に広め発展させたのではないだろうか。

 因幡氏の氏神は、鳥取市福井の天穂日命神社とされる。天穂日命(あめのほひのみこと)は太陽神の天照大御神の第二王子で、天日=太陽の恵みを受けて稲の穂が豊かに実ることを神格化したものとされる。

 つまり、因幡氏も太陽信仰者であり、農業信仰者なのである。

 このように『摩尼寺縁起』は、当時の因幡国全体を支配した因幡氏の庇護と影響力により、「因幡国の摩尼寺」としてその寺格を急速に高めたことをも語っているように思える。

(注)円護寺は円郷寺、円光寺とも記されたという説がある。

湖山長者について

 長者の実在性については、
①宇文という具体的な地名(湖山池東方の村として古地図にも載る)  
➁長者の屋敷跡や墓、長者の愛猫を祀った湖山池猫島の猫薬師、湖山砂丘のすくも塚などの伝承  
③かつて湖山池を所有していたという長者の末裔の存在  などから確かと考える。

 その主な活動年代は、長者が関与したと伝えられる円護寺、摩尼寺ともに800年代を創建時期とすること、また、畑が水没して湖山池になった「湖山長者伝説」は、科学的には『平安海進』という地球規模の温暖化による急激な海面上昇によるものとされている。つまり、平安時代である。

 「湖山長者伝説」は、太陽の運行、即ち自然宇宙の秩序に反した報い、荘園の拡大や守護・地頭などの台頭によって落ちぶれた在地領主を喩えたもの、「日を招く」ことができる唯一絶対の権威の天皇への不遜などなど、様々な解釈がある。同様の伝説は「日招き伝承」として日本全国、東アジア全域に存在し、そのルーツは古代中国にあるとされる。

湖山長者イラスト
湖山長者イラスト
摩尼山頂からの湖山池眺望
摩尼山頂からの湖山池眺望
摩尼山の立岩
摩尼山の立岩
摩尼山の立岩と帝釈天
摩尼山の立岩と帝釈天

(4)古地図に載る神社仏閣など

 寛文大図(1670年頃)には多くの神社仏閣の名前、またはその存在を推測させる地名が記されており、幾つかを拾ってみる。

大日堂跡と千手観音堂

 「円護寺」は、本尊を大日如来及び十一面観世音菩薩とし、堂内安置仏として阿弥陀如来、薬師如来、千手観音、不動明王、歓喜天、他としている。
 また、摩尼寺の本尊が帝釈天と千手観音菩薩であることから、古地図の「大日堂跡」・「千手観音堂」が昔の「円護寺」と摩尼寺と関係している可能性が大きい。

 「円護寺」寺史は、「―相次ぐ兵乱のため、堂、僧坊焼け、田畠も没収せられ、山麓に大日如来、十一面観世音の両尊を安置し、元禄8年(1696)大雲院の末寺となった。当時、藩主池田公に請願して新たに境内地を選んで、藩士河毛某の私財によって観音堂を再建せられたのが現在地である。御本尊十一面観世音菩薩像は、行基の作とかや。大日如来像は作者不明である」と伝える。   (「転法輪」鳥取仏教会)

 兵乱とは、秀吉の鳥取攻めであろう。「大日堂跡」が昔の「円護寺」なのか、兵乱の後の山麓に大日如来を安置したとする場所なのかは不明である。(参考)大日堂とは、密教によって生み出された大日如来を祀ったお堂であり、真言宗では信仰対象として崇められている。

 一方、天台宗でも「さまざまな仏様は、釈迦牟尼仏が縁によって我々を救うために姿を変えて出現したもの」といった考えから、大日如来も他の仏様と等しく尊信しているという。尚、摩尼寺は天台宗であるが、空海(弘法大師)も祀り、一部、天台・真言密教が融合しているようだ。

妙見谷と妙見堂

 寛文大図に「妙見谷」が描かれて、現在の北園ニュータウンにも妙見川、妙見公園などの地名が残っている。
 因幡誌にも、「廃社となった妙見社があった」と記録されている。

「円護寺古墳群」によると、妙見堂を推測される古屋敷砦跡付近に跡地とみられる遺構を発見し、また、地元の人によれば、古屋敷砦跡の部分に、「妙見さん」と呼ばれる堂が立っていたということである。

 古代中国の思想では、北天にあって不動の北極星(北辰)は他の星を従える天帝とされ、北斗七星はその天帝の乗り物などと見立てた。これに仏教思想が流入し、北極星と北斗七星は神格化されて「妙見菩薩」と称されるようになった。初期には真言・天台密教の加持祈祷の対象であり、円護寺の妙見堂もその系統かもしれない。
 
 また、妙見=岩の神=鉱山という説(「黄金と百足 鉱山民族学への道」)もあり、妙見堂は鉱山のある場所が多く、妙見信仰の担い手に鉱山技術者たちがいたとされる。

 他方、北斗七星の第7番目の星は破軍星と云われたため武門の守護神として信仰された。秀吉の鳥取城攻めの砦と何らかの関係があるのかもしれない。また、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像を天帝(デウス)に見立てたとされ、この地の隠れキリシタンの深山の礼拝場だった可能性もある。 Ⅴ.近世(安土桃山~江戸) 「進藤家一族と線刻地蔵と隠れキリシタン」を参照のこと。

 以上のように、謎の多い妙見信仰である。

牛頭天王

 寛文大図では、円護寺の深奥部に「牛頭天王」(の社)が描かれている。この付近で、薬草などを求めたのではないだろうか。牛頭天王とは、本来はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神で、疫病除けの神として京都東山の八坂神社(もと祇園社)をはじめ全国で信仰されている。

 わが国での牛頭天王は、疫病、農作物の害虫や、その他邪気を払い流して去ってしまう疫神の信仰と調和して、医薬の守護仏である薬師如来や、正義感が強く暴風雨を司りその力強さが転じて「厄もなぎ払う」とのご利益があるとされる日本神話に登場するスサノオミコト(須佐之男命)と同体と信じられるようになった。牛頭天王を祀った神社のほとんどは、明治の神仏分離令によって、スサノオミコトに祭神名を変えている。

(参考)
 牛頭天王は陰陽道では「天道神」と同一視された。天道(てんどう)は、人知の及ばぬ天然自然の摂理、天理を意味し、これが日本にも伝わって運命論的な天道思想として中世・近世に広まった。すなわち、天道神である牛頭天王と天帝(北極星)信仰の妙見信仰とは大きな関係があり、各地において妙見信仰は牛頭天王とセットになっていることが多い。

江戸時代の円護寺周辺
江戸時代の円護寺周辺
北園妙見公園(鳥取市円護寺)
北園妙見公園(鳥取市円護寺)

Ⅳ.中世(鎌倉・室町)

1.伊福部氏の斜陽―承久の乱

「伊福部氏は、平安末期までは因幡国内のもっとも有力な在庁官人であり、伊福部氏の氏神を祭る宇部神社は因幡国の一ノ宮の地位を得ていた。

 ところが、鎌倉時代以降、武家勢力としては大きく後退し、時代の表舞台から降り、明治初期まで宇部神社の神職「神主国造」として継続する。
 因幡国においては、平安~鎌倉初期の荘園や武士の進出による影響は緩やかで、律令の郷体制はあまり変動せず中世郷へと発展してきたと言える。しかし、承久の乱(1221)を境に東国武士の進出が顕著で体制は大きく変質していく。
 
 鎌倉時代の承久3年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱が承久の乱である。
武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いで、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである。

 この時代の中で、伊福部氏は多くの因幡武士と同様に、上皇(朝廷)方に立ったと考えられている。朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流された。承久の乱で朝廷を負かした鎌倉幕府は全国の支配を確立。因伯にも鎌倉御家人を配置した。彼らは在地地頭領主となり、のちに毛利氏・矢部氏のように小戦国大名化したものもある。

 承久の乱後、因幡国内における所領は、朝廷方所領として没収され、その没収所領跡に相当数の東国御家人が新補地頭職に補任されることになった。  (「法美郡鎌倉時代」・「鳥取県の歴史散歩」・「新修鳥取市史」)

 こうして、因幡国においても大きな地殻変動が起き、在来の豪族たちは力を失っていく。
 室町時代になると、因幡の支配は戦国大名(守護大名)の山名氏へと移り、政治の中心地(府中)も完全に国府を離れていくのである。

承久の乱
承久の乱

2.承久の乱後

 古くからの伊福部氏との深いつながりがあった円護寺・覚寺の歴史は、伊福部氏の盛衰で以下のような時代に分けられるのではないだろうか。

 ①弥生時代から初期の邑美郡の郡家に指定されるまで  
 ②郡家が置かれた絶頂時代  
 ③郡家が円護寺から古郡家地域へ移された時代、そして、
 ④承久の乱以降の伊福部氏の斜陽以降。

 ①~②の繁栄した時代は②でピークを迎えるが、③で政治色を失い、④で過去の地域となっていく。
 円護寺遺跡で発見された遺物と照合してみる。

 宋銭が出土している。日宋貿易が行われたのは10~13世紀(鎌倉中期)の頃であるから、継続して人々のくらしがあったことは確かである。円護寺坂ノ下遺跡からは、「中世の掘立柱建 物跡、土坑、溝などの遺構のほか、13世紀前半とみられる鍛冶炉が5基検出されている。

 鍛冶炉の周辺には 掘立柱建物跡、土坑、溝などの遺構が隣接し、鋳型、羽口、鋳物片などが検出された。高度な技術を 持った工人の組織的な携わりがうかがわれる遺跡として注目されている。」 ・ 「11世紀には、居住空間というより作業空間としての遺構の性格がはっきりとしていく。」  (「円護寺遺跡群」)

 上記から、③郡家が円護寺を去って政治色を失った後、官人らなどの流出で人口は減るが、鉱物関連の高度な技術拠点としては継続していることが推測される。④の伊福部氏の斜陽以降を物語るものはないが、発見される遺物の量や時代から、以降、現在に至るまで経済活動が活発に行われたようには思えない。

 その一方で、承和年間(834年頃)開山とされる覚寺の摩尼山は、室町時代には京都の五山禅僧の間にも知られていたという。
 円護寺・覚寺は、耕作地や居住地には決して恵まれた土地ではないが、、摩尼山と深い関係を保ち、密教的な空間の中に多くの神社仏閣を吸い寄せながら、経済とは無縁の独特の文化を育んでいったのではないだろうか。