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目次
2.藩政時代
(1)但馬街道と円護寺・覚寺
まに道と宿場
丸山の道標地蔵
覚寺の道標石たち
摩尼寺の源平茶屋
(2)円護寺・覚寺の庄屋たち
年貢の永代請負制と五人組による連帯責任
庄屋の仕事
石高・戸数など
(3)円護寺・覚寺と鳥取城
城下町の発展
法度と御定
孝子表彰
(4)産業・特産品円護寺・覚寺石
円護寺の「石」や「岩」の苗字
苗字について(参考)
Ⅵ.近代(明治以降)
1.町村制施行により岩美郡中ノ郷村誕生ー覚寺に村役場
2.旧中ノ郷小学校の設立
3.鳥取市への編入
4.県道湯山鳥取線(旧国道9号線)
5.北園タウンと中ノ郷小学校の建設
(1)城北小学校の誕生(昭和34年)
(2)浜坂小学校の新設(昭和48年)
(3)北園地区開発と中ノ郷中・小学校の新設(昭和60年・平成7年)
2.藩政時代
(1)但馬街道と円護寺・覚寺
まに道と宿場
江戸時代、鳥取城から但馬国へ向かう街道として但馬往来が整備されるようになった。
但馬往来の本筋は「中道通り」と呼ばれており、鳥取城から湯所村、湯所村の支村丸山、浜坂村、砂丘地を抜けて北岸を通り、浜湯山から湯山池の北岸に沿って細川へ通じていた。
細川からは駟馳山峠、大谷村、岩本村を経て浦富村に至る。ほぼ現在の国道9号線(現在の県道265)である。
以降、浦富、湯村、国境の難所とされた蒲生峠を越えて但馬国東部の千谷村(現温泉町)へ達した。
因幡志は、「砂漠渺茫として往々道を取失ふことあり、よりて所々に表木を立て往来の便となす」と記し、浜坂村北側の砂丘は日本海に面し、砂がしばしば砂丘の中を通る道を覆い隠したため、諸所に表木が立てられたていたという。
この本道のほかに別道が2本あり、1本は丸山から覚寺村を経由して峠越えで山湯山に下り、湯山池南岸を伝って細川へ至る「山道通り」ある。これには覚寺村(狼庵横)から入る通称ぼじ坂と、摩尼寺山門横から入る摩尼道があるようだ。
江戸時代に書かれた「無駄安留記」には、「児ヶ松 源兵衛茶屋の向、仁王門の左の路を下りて、谷よりまた登ること二三町、頂に在し由。今は名のみなり。湯山池の展望無双の佳景なり。」と後者を描写している。
この道は摩尼山と湯山を結ぶ山道で、福部方面からの参詣道でもあったようだ。「ぼじ道」が主道で、「摩尼道」は湯山からの参詣道といったところだろうか。
前者の「ぼじ道」と摩尼寺参詣道が分かれる地点に尼寺の狼庵があり、鯖如来が安置されていた。
狼庵の前に草ぶきの家があり、そこの粟餅は名物であったという。近郷近在からお参りする人々は、丸山のおまん茶屋や覚寺村の「白饅頭」=米の粉(西村家)・「黒饅頭」=粟(田中家 現 保坂家)・「薬屋(田中家)」等で道中を楽しみながら摩尼寺参りをしていたということである。
覚寺は、但馬街道と摩尼には、明治までは宿屋もあり、人力車の営業所もあって、摩尼寺詣や但馬方面への人々で賑わった。 (「鳥取県の歴史散歩」)
このほか、海岸沿いを往く「灘通り」があったらしい。
丸山の道標地蔵
丸山と本道を山道通りの分岐点に立てられていた道標の地蔵は今でも残る。
この地蔵には、「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかけれハ、四丁のまわり、左ハたしまはま道」と刻まれている。
地蔵に刻まれた「はま道」が、本道「中道通り」の一部の丸山、浜坂、砂丘を通って湯山方面へ抜ける浜街道である。
もう1本は、浦富村から牧谷村、小羽尾村、陸上村を通って七坂八峠を越えて但馬国居組村・浜坂村に達する道である。(「鳥取県の地名」)
「浜坂道と摩尼道の分岐点、往来の左側に宝永年間(1704~1711)二軒の茶店ができた。その一軒に万という娘がいて、往来の人に茶を汲んで出したので、やがて於万茶屋と呼ばれるようになったという。現在の旧丸山交差点あたりである。(「鳥府志図録」)
当時は、その2軒の茶屋以外は民家は無かったらしい。絵図を見るかぎり、右手が山沿い旧道(山の手通り)、その付け根に石塔群と、地形は現在と変わっていないようである。茶屋は昭和初期まであったという。
覚寺の道標石たち
丸山の道標地蔵に従い、丸山から覚寺村を通って摩尼寺へ向かうと、途中、多くの道標石たちに出会うことができる。
砂丘に向かう国道9号線の覚寺入口には、「右帝釈天出現地摩尼寺道 左但馬」(大正13年・1924)の道標がある。
覚寺村の旧道に入ると、すぐに村を守護する六地蔵が山裾に鎮座し、左から2体目に摩尼寺まで二十六丁と刻まれている。
しばらく歩くと、公民館(五智庵)手前に24丁の石仏が立ち、「因幡の摩尼寺」(田中新次郎)は、「宮脇家前の道標石には観音像が刻まれ、『左まにみち右 廿四丁 右ゑんかうじくおん道』とあって、円護寺に通ずる旧街道を示す。村の人はこれを霊力のある石像と信仰している。」 と記している。
狼庵跡地の「右まにてらミち 左岩井郡たじま道」(享保14年・1729)・「まにみち たじまみち」(寛政5年・1793)の2石仏は、ここを直進すれば摩尼寺、左は湯山へ抜ける山道通り(通称「ぼじ道」)と教えている。
村を抜けて摩尼寺へ向かうと、クレー射撃場入口に石仏が2体、左は「右ハまにみち 左ハたじま山みち 二十二丁」 (文化7年・1810)、(文化7年・1810)、右は「十丁」と刻まれて摩尼寺までの距離を示しているようである。
上記以外にも、幾つもの道標石仏・石塔を確認した。摩尼寺への道沿いには無数の石仏・石塔が立ち、「因幡の摩尼寺」はこれらの多くをスケッチしている。
また、「因幡伯耆の道標」(加藤要治著)によると福部山中にも多数の摩尼寺道を示す道標が建っているとのことである。 (注)1丁の距離は109m
摩尼寺の源平茶屋
摩尼寺門前には山菜料理が専門の2軒の茶店があり、左は創業250年の源平茶屋、右は創業100年の門脇茶屋である。『鳥取文芸11号 鳥取市制100周年記念誌』に掲載された「茶屋の屋号」をそのまま引用する。
『 都塵をはなれた。覚寺奥の山あいにある摩尼の茶屋。二軒だけだが、それぞれの棟数が立ちならび、四季を通じて車のとぎれるいとまもないし、茶屋毎のマイクロバスが多くの客を運んでくる。ちょっとした門前町である。
この茶屋の屋号は、参道に向かって右が「門脇茶屋」左が「源平茶屋」だが、ここでは源平だけをとり上げてみよう。
摩尼寺には、元和三年(一六一七)姫路から鳥取に移封された池田光政時代に、約三十石の寺領があてがわれている。
旧藩時代を通じてそれが安堵されたのであるが、寺はこの寺領を守るために相当心を砕いた。寺に残る文書の中に「山論」などが数々あるのでそれが分かる。竹木などを盗む近郷の者たちに手を焼くのである。
もっとも、不届者を捕まえる度に、寺は一人罰金三百文を払わせるので、結果的には損はなかった、と思うのだが。
寺は寺領見廻りのために、鳥取で小商いをしていた妻子持ちの「源兵衛」なる人物を雇い、門前に借地をして住まわせている。源兵衛は、鳥取での経験から、女房にあめなどを売らせた。「― 諸参詣之貴賤休足所旁二指置申候 ―」
これは、源兵衛商売にかかわる記録の一端で、明和二年(一七六五)のものである。
寺の記録によれば、源兵衛は寛政五年(一七九三)老年のため、山番を退き丸山町に引越ししてる。かわりに、矢谷村兵三郎が山番に雇われる。兵三郎も茶屋を受け継ぎ、でんがくや油揚げの煮付けを参詣人に商ったのである。源平茶屋の源平は、源兵衛の転訛であろう。
先祖の墓は矢谷です。と、おかみは言い、「昔は本堂にお参りしたあと、ゆっくりしていただいたのですけどね―今のひとには、あの高い石段がつらいのでしょうか」 それでも、若いふたりが石段を下りてきた。』
以上のように歴史は古く、「鳥府志」(文政年間)は「摩尼山の麓なる源兵衛茶屋は世に隠れなし」と茶屋の繁盛を記している。当時は源兵衛茶屋と呼ばれたようである。
(2)円護寺・覚寺の庄屋たち
年貢の永代請負制と五人組による連帯責任
鳥取藩では元禄11年(1698)永代請免制を実施し、年貢米徴収を大庄屋、中庄屋、村庄屋、五人組などに委託し、納税の連帯責任を負わせた。
組員の一人が年貢未納のときには、五人組で負担し、それでもだめなら村全体が負う。村全体がだめなら中庄屋、大庄屋の順に肩代わりしたのである。支配側の藩の在方役人に対し、支配される農民側の役人が庄屋、年寄、五人組の組頭などである。こうした村内における連帯責任を定めることによって、農民を厳しい統制下に置き、逃亡や年貢米不足を防いだのである。(「鳥取県の歴史」)
藩政時代の庄屋には、郡単位の大庄屋、その補佐役の中庄屋、村単位の村庄屋のほかに、宗旨庄屋、取立庄屋などがある。宗旨庄屋は、鳥取藩で主として寺社・根帳(戸籍薄)・5人組・宗門改めなどのことをつかさどった。大庄屋ごとに1名が配置された。
しかし、時代が下るとともに次第に権限が拡張され、大庄屋の代理を務めたり、その補佐役として郡政全般に関与した。はじめは無苗であったが、延享年間(1744~47)以降、苗字帯刀を許された。
取立庄屋も鳥取藩で設けられた村方の職制で、その名のとおり、郡全体の年貢のとりまとめを行った。
庄屋の仕事
庄屋の仕事は多岐にわたる。
村人に年貢を割り振って年貢を徴収する。年貢が不足すれば責を問われる。村内の出入りや村人一人ひとりの戸籍や所有する土地・牛馬の数の管理、役所からの法令・命令を村人に伝えて守らせる、災害があればその被災報告を行い、変死人があればその詳細を報告し、藩主が村近く寄るならばその準備や要員集めに奔走する、村内に揉め事があれば間に入って調停し、村の要望を代表して藩に上申するなど大変な役目であったようだ。大庄屋となれば、郡など十数か村の範囲を管轄し、責任は一層重くなった。
覚寺村、円護寺村では各村庄屋以外に、それぞれ千石庄屋や取立庄屋、中庄屋や取立庄屋などが記録されている。覚寺村の利兵衛は、邑美郡大庄屋手代、因伯両国の御絵図作成の御用懸、郡取立庄屋、郡宗旨庄屋、郡地方運上締方を歴任し、勤めの間は竹内の苗字を許されている。 (「新修鳥取市史」・「在方諸事控」)
「文政八年(1825)七月四日
邑美郡取立庄屋覚寺村 利兵衛
其方儀、此度御郡中地方運上締方兼相勤候様被仰付、依之勤中苗字御免、御給米中庄屋並被遺候事。但し、取立庄屋勤向是迄之通相心得可申事。苗字竹内。」 (「在方諸事控」)
(この度、地方運上締方兼務を申し付ける。苗字を許し、御給米は中庄屋並みとする。但し、取立庄屋はこれまで通りに勤めるように。苗字は竹内) 尚、利兵衛は文政10年、宗旨庄屋に昇進している。
石高・戸数など
覚寺
安政5年(1858) 生高642石余 山役米4石3斗 因幡誌は戸数45
明治12年(1879) 戸数65円護寺 安政5年(同年) 生高254石余 山役米1石2斗 因幡誌は戸数37 明治12年(1879)戸数70
浜坂
安政5年(同年) 生高517石余 山役米3石1斗 戸数75
明治12年(1879)戸数101
安政5年の「邑美郡村々高物成小物成表」によると、同表36村の生高平均は458石余であり、覚寺と浜坂は平均を上回る中堅村であり、円護寺はその半分である。円護寺の地形的限界であろう。
しかしながら、円護寺村では中庄屋と取立庄屋が出ている一方で、浜坂村からは、村庄屋のみしか出ていない。これはなぜだろうか。
庄屋は、村内の選挙や協議によって決められることもあったが、多くの場合、村の旧家が世襲したようである。この点、中世以降にできたと考えられる浜坂村に比較して、覚寺、円護寺村の歴史の古さを物語っているのだろう。
(3)円護寺・覚寺と鳥取城
城下町の発展
鳥取の城下町は、久松山を背にして、放射状に発展していくが、円護寺・覚寺はその裏手にあたることにより、その恩恵に浴することは少なかったようである。
また、両村ともに城山(久松山)に隣接することにより、様々な法度(制限)や御定(義務)が課せられている。
両村に課せられた様々な法度(はっと)や御定(ごじょう)を拾ってみる。
法度とは禁制、御定とは主君の命令のことである。
法度と御定
・明暦3年(1657)、湯所の天徳寺から円護寺村へ通じる坂道に番所が建ち天徳口と呼ばれ、鉄砲衆が2,3人番を勤めた (「町方御定」)
・天徳寺前には山奉行の詰め所も置かれ、文久3年(1863)には同寺前の坂道に木戸が建てられた (「在方諸事控」)
・承応4年(1655)、円護寺村から山へ登ることは禁止された(「御城代御定」)鳥取城の裏手にあたり、城下の治安のための措置である。
・寛文7年(1667)、摩尼寺角寺奧の立札の制札文に「是ヨリ摩尼ノ方、鉄砲不苦。角寺ノ方停止也」(摩尼側は構わないが、角寺側は禁止) 御鷹狩のための鳥獣保護と城下の治安に備えた措置である (「鳥取藩史5」)
・文化7年(1810)、城近辺の出火の際には法美郡百谷村・滝山村・卯垣村、邑美郡小西谷村とともに、円護寺村の村人全員が出勤して山火消しにあたることが定められた (「在方諸事控」)
・文化10年(1813)、覚寺村は従来からの在方駆付人夫と称される鳥取城下の火消役10人に加え、城内火消役の御城駆付人夫10人が課せられた (「在方諸事控」)
・文久3年(18639、天主に近いため便利との理由で円護寺村に天主御用を命じられた (「在方諸事控」)
・元治元年(1864)、藩主留守中は足軽も出勤し城が手薄になることから、城山の三枚札とよばれる地に建てられた箱番所へ、昼夜2人づつの番人差出しが円護寺村と百谷村に課せられた (「在方諸事控」)
・安政6年(1859)以降、5人の者が城下の埃捨場の埃取捨てを命じられた (「在方諸事控」)
・幕末、浜坂新田に設けられた農兵養成の訓練参加を、近隣の村とともに円護寺村及び覚寺村は義務付けられた (「在方諸事控」)
孝子表彰
一方で、農民へは圧政ばかりではなかったようだ。
江戸時代、主君や親によく仕え孝養を尽くした者や、夫に尽くし貞節を守った妻、農業に励み年貢上納に努めた農民など、藩や地域の領主が理想とした農民たちには、孝子表彰として盛んに表彰が行われた。
これは、主に江戸幕府5代将軍の徳川綱吉が天和2年(1682)に実施した制度である。綱吉は幼少の時分より儒学を愛好していた為、全国に「忠孝札」を掲げて忠孝を奨励し、孝子表彰の制度を設けている。
覚寺村民の表彰例を藩記録より引用する。安兵衛・平助親子ともに苗字なく、どこの者かは分からない。
文化14年(1817)
邑美郡 覚寺村安兵衛悴 平助
其方儀、両親え孝行二候処貧窮二付、去年村内仙助と申もの手前え致奉公、勤振表裏なく精出し、主人よりも称美致し、 万事志魏奇特ノ段、村方より申達し候二付、追て御評儀之品有之二付、弥孝心相励可申候。(「在方諸事控」)
(安兵衛の倅の平助、両親に孝行し、奉公先でも勤勉と村方推薦があったので、追って褒美の品を遣わす。今後も孝行に励むように)
(4)産業・特産品円護寺・覚寺石
『因幡民談記』には、因幡の鉱産物として、金、銀、硯石、粘土、砥石、石材、火打石、柏石、築石、石くどが挙げられている。著者の鳥取藩の小泉友賢は鳥取近在の自然を詳しく記しているが、この中に「石くど」とあるのは、円護寺石と湖山の緑色凝灰岩のことである。
『因幡誌』の邑美郡円護寺村条に、「当村に石山あり。其石青白く、甚美麗なり。第一土蔵の石垣、家下の敷石、或は土樋、石橋等に専ら用ゆ。只石性脆し、越前産の堅硬なるに如かず」と述べている。
また、次の角寺村条に、「円護寺村より九町、北の谷の入口にあり。当所にも石山ありて、石匠好みに応じて石器を造り出す。角寺石称して名あり。其始めは石材色白く、性和らかしと損しやすかりが、近年石心に穿入て、色青白く、円護寺石と同じ。石山両村にあれども、当村を始とす。されば角寺石と云うなり」と記す。
鳥取市円護寺・覚寺などに分布する岩井火砕岩層の凝灰角礫岩は、約2000万年前の新生代新第三紀中新世の海底火山の活動によってできたものである。地名にちなんで円護寺石・覚寺石の名で呼ばれ、古くから鳥取産の石材として利用されてきた。円護寺石は青白く、覚寺石やや褐色がかっていると聞く。
史書によっては『へっつい石』とか『くど石』と記されているものもあるが、これは、加工しやすい上に耐熱性があることから、へっついやくど(いずれもかまどのこと)に使用されたためについた名である。台所の流し、掘りごたつの火入れ、手や顔を洗う水をいれておく手水鉢、石灯籠などにも加工された。旧鳥取藩主の池田家墓地や樗谿(おおちだに)神社の石造品、葭原神社拝殿の石段などにも使われている。
浜坂近辺でも、古い家屋の基礎や庭の敷石にも多く見られる。
円護寺墓地の周辺には、現在も多くの地下洞が残り、大規模に採掘されていたことを示している。しかし、明治時代以降、セメントの出現によって急速に衰微していった。
円護寺の「石」や「岩」の苗字
円護寺村には、石本、石原、石田、岩田など10軒以上の石や岩がつく苗字が多い。
昭和初期まで、石工を職業とする人が大半だったともあり、『佛徳山円護寺』境内内にある瘡守稲荷の鳥居には、昭和36年(1961)3月建立と刻まれ、社殿内に「石鳥居建設石工名18人の氏名が掲げてある。
この中に、石本、石原、岩田姓が含まれていることから、これらは円護寺石の採掘や加工に携わった家系と推測される。尚、享保9年(1724)の藩政記録(「在方諸事控」)に以下のように記録されている。覚寺に比べ、円護寺村の石切職人の力が活発であったことが推察される。
享保九辰十月三日一 邑美郡覚寺村之内二て、石切出シ候儀、円護寺村石切庄右衛門・吉郎左衛門・作右衛門願二付、見分候処、堤さわり二不成場所、御家中調法二成候故、今年より両年聞届、石切出候様二申付候。其巳後之儀ハ重て見分之上二て可申付事。右、巳ノ年聞届、午ノ歳八月迄。 (円護寺村の石切3人が覚寺村での石切出しを申請し、2年間許可された)
苗字について(参考)
覚寺には「西村姓」が多い。比較的広い農地を有した「西村」が多くの分家を生んできたと考えられる。一方の円護寺村には多くの分家を持つ家系はないようである。土地が狭く、大地主がいなかったのかもしれない。
他方、日本における「平民苗字許可令」の発布は明治3年(1830)、「苗字必称義務令」が明治8年である。
しかし、この以前から苗字は存在している。苗字は室町時代から農民階層にまで広がったものの、戦国時代から江戸時代の武士の世では公には名乗ることはできなかった。しかし、私的なものである寺の過去帳や墓碑には苗字が記載されることがあったとされる。
神社に残る棟札なども同様である。
浜坂神社(大多羅大明神)では、江戸時代中期の明和7年(1770)の棟札に、57名もの苗字を持つ氏子名が記されていて驚く。円護寺・覚寺においても「石」・「岩」の名、「西村」などは少なくとも江戸時代以前から存在したのだろう。
明治3年の「平民苗字許可令」前、覚寺村では全戸数56のうち、苗字を持たない家が21戸であったとする記録が残っているとのことである。
Ⅵ.近代(明治以降)
1.町村制施行により岩美郡中ノ郷村誕生ー覚寺に村役場
明治22年(1889)、県内に市町村制が施行され1市27カ村が成立し、邑美郡中ノ郷村が発足し、大字を浜坂村、覚寺村、円護寺村とした。
中ノ郷村の村役場は覚寺に置かれたが、明治34年、旧中ノ郷小学校敷地に移転落成した。
2.旧中ノ郷小学校の設立
中ノ郷村は独立したが小学校は従来のまま久松小学校へ委託され、明治34年(1901)、ようやく中ノ郷小学校を覚寺に設立し、委託を解消した。
当時は児童数僅かに56名に過ぎず単級学校であった。
明治42年(1909)4月、義務教育が6年に延長されたが、このときの児童数は155名に増加している。
大正13年(1924)12月、高等科併置のため校舎を新築し、翌14年4月1日、中ノ郷尋常高等小学校と改めた。 (「新修鳥取市史」)
参考)「醇風尋常小学校沿革誌」の記録として、明治5年(1872)に湯所町の天徳寺境内に愛日小学校を開校。 後に、「喧嘩屋敷宮脇某ノ居宅」に移り、二階造りの校舎を新築して湯所町と湯所村に加え、覚寺、浜坂、円護寺の児童を入学させた」とある。 明治20年(1887)、醇風小学校と合併して久松尋常小学校に改称している。 (「新修鳥取市史」)
尚、覚寺、円護寺、浜坂に寺子屋らしきものがあった形跡はない。
ただ、「元禄11年(1698)以来大庄屋、村庄屋などが貢米収納の布達等も領民に浸透させる仕組みになっていたので、庄屋、年寄、村役人などは必然的に読み書き算盤を要求され、しかも藩はこれに対して何らの教育施設も考えなかったので、自然僧侶や神官などの手によって自主的な庶民の教育の場がつくられるに至ったものと思われる」。 (「鳥取市七十年」)
このように、寺子屋は無くとも庄屋や僧侶などのもとで読み書きを教わったことも考えられる。
また、覚寺には尼寺が多く、寺子屋の代わりになったのではないかとの指摘もある。 (覚寺聞き取り)。
3.鳥取市への編入
昭和8年(1933)4月1日、岩美郡中ノ郷村(浜坂・覚寺・円護寺)は鳥取市に編入された。
米価暴落、繭価暴落などで農村不況も深刻であり、その村の財政的経営維持が困難となり、鳥取市の隣接村の合併が始まったのである。
合併条件に小学校の増改築、道路の新設改修、覚寺の飲料水設備、現在村民に使用が認められている公有原野・畑・村役場庁舎などを地区特有財産とすることなどが織り込まれていた。
合併した昭和8年(1933)には、浜坂―覚寺線、浜坂71号線、その他の道路整備が着工となり、翌9年には円護寺95号線が着工されているが、いずれも合併の約束に基づくものであろう。
また、合併条件の一つであった湯所・天徳寺横を円護寺に至る道路は、昭和12年(1937)から着工してトンネルを穿ち、14年(1939)に完成している。 (「鳥取市七十年」)
他方、鳥取大震災(昭和18年)では、摩尼山の閻魔堂が崩壊しており、円護寺・覚寺集落にも大きな被害があった。 鳥取大火(昭和27年)では、火の粉が円護寺に落下し、集落を延焼したとある。 (「新修鳥取市史」 p232)
4.県道湯山鳥取線(旧国道9号線)
明治末期になると、覚寺から湯山に通ずる現在の県道湯山鳥取線の新設と、明治43年(1910)6月国鉄山陰線(鳥取岩美間)の開通のため、但馬往来を利用する者が激減した。繁盛した柳茶屋も、大正初期には次々と店をたたんで浜坂部落に移転し、残ったのは1軒だけだったという。
昭和40年、昭和天皇皇后の鳥取ご訪問に合わせて砂丘大橋と砂丘トンネルができ、新しい9号線が開通した。
それまでは(旧)国道9号線であり、多鯰ケ池東岸を回っていた道は、狭くて曲がりくねり、バスは崖に落ちそうになりながら走っていた。一番大きなカーブの難所では曲がり切れず、バスを降りた女性の車掌さんの笛とオーライの声で何度も何度もバックと前進を繰り返していた。
旧9号線の覚寺口の本道路下には(旧)中ノ郷小学校があった。
5.北園タウンと中ノ郷小学校の建設
(1)城北小学校の誕生(昭和34年)
昭和30年(1955)代は、(旧)中ノ郷小学校、千代水小学校ともに7学級しかなく、児童数も減少の一途であったため、昭和34年(1959)に2校を統廃合して雁金小学校を開校し、翌年、城北小学校と改称した。 (「鳥取市史」)
(旧)中ノ郷小学校があった当時は、覚寺近隣は殆どが田畑で、紫や白い蓮華の花、黄の菜の花が咲き誇っていた。用水路の水には蛙の卵が漂い、アゲハチョウやとんぼが舞っていた。まだ9号線は舗装されてなく、トラックが土煙を揚げて走っていた。
(2)浜坂小学校の新設(昭和48年)
昭和40年代、市街地拡大に伴って住宅化が進んだ城北校区は、昭和47年度には学級数27、生徒数1,035人と鳥取市立小学校では最大規模になった。
加えて浜坂地区における大規模な団地が鳥取県住宅供給公社によって開発されることに伴って分離新設校を設置することになり、浜坂、江津、浜坂新田、小松ヶ丘の各地区を校区として浜坂小学校が昭和48年(1973)に開校した。(「鳥取市史2」)
尚、浜坂小学区は令和4年(2022)6月3日、同校体育館にて50周年記念式典を挙行した。
(3)北園地区開発と中ノ郷中・小学校の新設(昭和60年・平成7年)
昭和58年から平成6年度にかけ、円護寺土地区画整備事業が鳥取県住宅公社によって行われた。人口計画としては、戸建住宅507戸,1774人、共同住宅128戸,448人の計635戸,2,222人である。 (「鳥取市史3」
昭和57年(1982)、北中学校は30学級、生徒数1,181人を有して鳥取市で最大、更に浜坂地区、円護寺の北園地区などにおける住宅開発による生徒数増も見込まれることから、中ノ郷地区に中学校一校(中ノ郷中学校・昭和60年)を新設することに決定した。
さらに、昭和57年度、城北小学校は学級数25,児童数883人と、鳥取市では依然と最大の大規模学校となっていたため、小学校一校(中ノ郷小学校・平成7年)を新設することになった。 (「鳥取市史3・4」)
中ノ郷中学校、中ノ郷小学校ともに、学校名は公募によって決定されている。
また、人口の拡大に伴って、保育園や介護・医療施設の進出もみられる。