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目次
Ⅴ.近世(安土桃山~江戸)
1.秀吉の鳥取攻め
(1)鳥取攻めと円護寺の陣
(2)摩尼寺と秀吉
天正8年の焼き討ち
焼き討ちと住職道好
摩尼寺焼き討ちの真偽
(3)秀吉に味方した進藤家と隠れキリシタン
秀吉に味方した人々
進藤家碑文に刻まれた記録より
進藤家一族と線刻地蔵と隠れキリシタン
円相か光輪か
ザビエル像と線刻地蔵
『因幡誌』の記録からみる新藤家と赤池家について
(4)隠れ切支丹(キリシタン)について—参考
日本の切支丹
鳥取藩と隠れ切支丹
Ⅴ.近世(安土桃山~江戸)
1.秀吉の鳥取攻め
(1)鳥取攻めと円護寺の陣
戦国時代もようやく統一に向かった頃、天正8年(1580)、織田信長の中国攻略の一環として羽柴秀吉は鳥取城を攻めた(第一次侵攻)。あっさりと降伏した因幡守護(鳥取城主)山名豊国に国人衆は反抗し、豊国たちを鳥取城から追放し、毛利氏を頼り帰属した。
天正9年(1581)2月、毛利の武将吉川経家が鳥取城に入ったが、6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の軍勢が因幡に侵攻し(第二次侵攻)、7月から鳥取城を包囲した。
秀吉は、標高263mの鳥取城の東方・標高251mの帝釈山上(太閤ケ平)に本陣を構え、毛利方の鳥取城,雁金山城,丸山城の3つの出城を楕円状に取り巻き、山嶺から城下まで延長12kmにおよぶ長囲の陣を敷く完全封鎖で糧食を断つ持久戦をとった。城内では、籠城2か月目にして早くも食糧は尽き、牛馬、草木を食いつくし、死者の肉まで口にしたといい、『信長公記』が記す「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ~哀れなるありさま、目もあてられず」という飢餓地獄が現出した。
10月、吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で国人衆とともに城内で自刃、鳥取城は開城し、因幡は征服された。後年、秀吉の書状に「鳥取の渇殺」という文句が見える。(「太閤ケ平」・「鳥取城」)
秀吉軍は、代々山(現在の浜坂小学校敷地)や弁天社や重箱付近に陣を置き、賀露港—千代川—袋川の水路を封鎖し、砂丘トンネル南口の昼食山(ひるやま)や円護寺に置かれた北側の包囲陣で海・砂丘側からの補給路を監視し、これを断った。
また、現在、円護寺トンネルのある道祖神峠(さいのかみたわ)は、久松山と雁金山城を結ぶ峠である。ここから雁金山へ登ると、山頂に平和塔が立ち、登り口に『「天正年間 城主 塩周防 雁金城」と刻まれた石碑が立っている。
この峠への宮部継潤の攻撃により鳥取城と雁金山城の連絡は断たれ、鳥取城は孤立した。雁金山城は丸山城とともに、賀露港—千代川—袋川—鳥取城の補給ラインをつなぐ最重要の役割を担っていた。
寛文大図には、柿屋播磨守陣所、桑山修理陣所、羽柴美濃守陣所の他、三好孫七楼、柿屋隠岐守などの名が描かれている。円護寺集落北側の尾根、小字庵ノ城及び古屋敷、上ノ平ルには砦跡が残り、秀吉の鳥取城攻めの際の将、柿屋播磨守陣所の一部と推定されている。
古屋敷砦跡は、字古屋敷の尾根の頂にあり、千代川河口・丸山が一望できる。庵ノ城砦跡はここより下方、上ノ平ル要害はここよりずっと高い位置にある。これらの砦跡は、江戸時代に『鳥府志』などを表した岡島正義の『旧塁さく覧』に詳しい。村の古老の話によると、円護寺集落には、秀吉の鳥取城攻めに際して石見国から吉川経家に付き添った家臣の末裔も住んでいるという。
他方、覚寺の某家は、秀吉の鳥取攻めで、久松山と雁金山をつなぐ「さいのかみたわ」を落とすなどの活躍をみせ、秀吉の時代に鳥取城主となった宮部継潤の家来という。宮部家は関ヶ原の戦いで西軍(豊臣)に属したため没落していく。(「坂ノ下遺跡」・覚寺聞き取り)
(2)摩尼寺と秀吉
天正8年の焼き討ち
「因州摩尼寺縁起」によると、「千手観音の像ならびに六地蔵尊を安置して二十房を建てる。また二里あまりあって円城寺がある。釈迦世尊を安置する。宝物や経典を収めるための蔵および寺院十五坊を建てる。これはすべて摩尼寺に属するところのものである。
天正八年の夏の末、(豊臣)秀吉公が鳥取の城を囲んで山下に兵を集結させた。兵士が火を隣村に放った。魔風が吹き来りて大覚寺以下の仏閣・僧坊はみな焦土となってしまった。」 とある。
焼き討ちと住職道好
天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻防戦では、摩尼寺は城方の毛利氏側に立ち羽柴勢を何度も押し返す働きを見せたが、当時の住職道好が秀吉本陣に呼び出された隙に焼き討ち遭い多くの堂宇が焼失、道好はこれを悔い自ら命を絶っている。
藩政時代になると、池田光政,池田光仲らが摩尼山(奥の院)付近にあった境内を現在地に移して再興したと伝えられる。「因州摩尼寺縁起」に描かれた道好の伝説は以下のようなものである。
天正9年(1581)、豊臣秀吉が鳥取城を攻めたとき、目につく神社仏閣はことごとく焼き払われた。
しかし、因幡一の霊場で、鳥取城の鬼門に当たる摩尼寺だけは簡単にいかなかった。元医師であった山中道好が出家して摩尼寺に入り、本尊の帝釈天を守っていたのである。
この道好が名高い怪力の荒法師と聞いた秀吉は、一計を案じ、加藤清正を使者として摩尼寺へ送った。清正は、合戦で死んだ兵を供養して欲しいと頼んだ。僧侶である限り法要を拒むわけにいかず、道好は清正について秀吉の本陣山に行き、読経した。仏事が終われば、秀吉は酒肴で手厚くもてなしたという。
しかし、秀吉の本陣を出ると、摩尼寺あたりから黒煙が高く大きく上がり、その下は炎の海、摩尼寺はまさに焼け落ちる寸前だった。
「さては、はかられたか。」 怒り狂った道好は、左右に羽をつけたかのような勢いで摩尼寺に向かった。すると、途中の「墓之壇」の所で、怪しげな武士七人が山を下りてきた。「おのれらだな火を点けたのは、取り殺してくれよう!」と道好はのののしりながら、傍に生えていた松の木を根こそぎ引き抜いて 武士を一人残らず打ち殺してしまった。けれども、その頃にはさしもの摩尼寺も焼け落ち、灰になっていた。
呆然と立ち尽くす道好だったが、はっと我にかえり、「ご本尊さまは、いずくにおわしますぞ」と叫ぶと、不思議なことに、谷の向こうから「道好、憂うるなかれ。わが身はここにありしぞ」の声。その声のする方を見ると、御本尊の帝釈天像は難を避けて谷の向こうに立っておいでだった。道好は大喜びしながらお迎えに行き、これを背負って山を下り、ふもとに小堂を建てて安置した。
現在でも、ご本尊が飛んで火事から逃れたその谷を「飛渡谷(とびわたりだに)」と呼ばれている。
こうして、ご本尊の帝釈天像は無事であったが、秀吉にだまされて寺を焼かれたことに変わりはなく、ある日、「ご本尊に死んでお詫びをしよう」と言って、寺の石段近くに石窟を築き、その中に生身のまま入り、断食し、七日七晩お経と唱え続け、そのまま息絶えてしまった。
それから200年後の安永五年、この道好和尚の墓は山崩れにあった。壊れた墓の中を人々がのぞき見ると、両手を組み、ひざを立て、仰向けの姿が見えたという。
遺体は並みの人間よりずっと大きく、道好和尚は大男であったと噂された。 その後、人々は石窟を修復し、入口の小さな穴の前に「不動明王」と刻んだ石碑を建てて、墓印とした。
摩尼寺の石段下左手の山道を50mほど小渓に沿って進むと、山の斜面を上がっていく細い道がある。
それをまた50mほど登ると道好和尚が眠るとされる石窟がある。石仏後方には小さな入り口が見え、それが和尚が入滅した穴らしい。石仏が無ければ気づかないほどで、山裾の歴代住職たちの墓群と極めて対照的である。
尚、下の山道を真っ直ぐ行って山を越えると湯山へ通ずる。但馬道「山道通り」の別ルートである。湯山からの摩尼寺参詣ルートとしても使われたようだ。今は歩く人なく、道は立ち消えていると聞く。
摩尼寺焼き討ちの真偽
縁起書では、天正9年(1581)羽柴秀吉の鳥取城攻めに伴い、摩尼山をも焼き討ちした際、抵抗する摩尼寺の僧、道好の奮闘と憤死を活写している。
焼き討ちで荒廃した境内は、元和3年(1617)に池田光政が再興したと記す。因幡誌(1795)によれば、「按(あんず)るに秀吉公這回寺を焼拂ひ玉ひしは今の摩尼寺にはあらず其地三四町東に離れて今の奥の院の谷にありしを焼打せられたるにて後に今の境内再興したるなり」とみえる。
これらに従えば、「奥の院」あたりにあった堂宇が1581年に秀吉によって焼かれ、後に現在の位置に再興されたということになる。これを正確に検証する史料はないが、鳥取城攻めから100年後の因幡民談記(1688)の絵図には、山頂近い摩尼寺「奥の院」あたりに2棟の重層建物が描かれていかれている。
素直に受け取るならば、1581年の焼き討ち後、1617年に光政によって同じ場所に再興され、1688年以降、現在位置に移築されたということになろう。
ところが、最近の鳥取環境大学の調査によれば、摩尼寺「奥の院」あたりの15~16世紀頃の遺物を含む地層に大きな火災の痕跡は認められないという。これの意味するところは、焼き討ちそのものがなく、道好伝承も創作であったか、または、焼き討ちはあったが調査した地層では発見できなかった、または焼き討ちは別の地点で行われた、などであろう。
下って、「因幡誌」(1795)や「稲葉佳景無駄安留記」(1858)の挿図には「奥の院」に堂宇は存在せず、山麓に移設された現境内が描かれている。従って、「後に今の境内再興したるなり」 は事実のようだ。
この間、一体何があったのだろうか。道好和尚が眠る石窟は何か。「因州喜見山摩尼寺縁起」が伝える歴史には謎が多い。
(参考)
浜坂の円城寺(後の大応寺)は、一時摩尼寺に属し、秀吉の兵火(1581)で灰燼に化した(「転法輪」鳥取市仏教会)とする一方、「大應寺観音の由来」では、文禄元年(1592)の高麗水で観音堂も本堂も流出したが、流された観音像が村人の夢に現れ埋まった場所を教えて掘り出されたとする。この伝承は『焼失』後では成立しない。
ただ、『掘り出された』とする大應寺観音の由来の十一面観音像は、経緯不明のまま、現在の聖観音像に替わっている。
他方で、浜坂には代々山や弁天などの秀吉方陣地が敷かれ、寺院は格好の宿泊場所であったに違いない。これを焼くだろうか。また、鳥取城陥落後、自国領となったものを焼くだろうか。
いずれにしても、これら神社仏閣の伝承には謎が多い。
(3)秀吉に味方した進藤家
秀吉に味方した人々
秀吉か、経家(毛利)なのか。
心情的には毛利を支援する村々が殆どだったとされるが、一般農民は声を大にして言うことはできず、ひたすら戦が過ぎ去ることだけを願ったに違いない。
ただ、村で秀吉勢を支援した実例も幾つかある。
一例として、小泉友賢の『因幡民談記』(1688年頃)には「八上郡弓河内村 北村六郎左衞門所蔵」として、「羽柴秀吉禁制」と呼ばれるものが載っている。これは、羽柴秀吉が鳥取城兵糧攻め前年の天正8年(1580) 10月に八上郡弓河内郷(現鳥取市河原町)に対して与えたもので大意は以下のとおり。
『当時、因幡国内で織田に対する一揆が起こっているが、弓河内郷は織田方に忠節を尽くして一揆に参加しなかったため、その褒美として秀吉が同郷に対する軍勢の乱暴狼藉・放火の禁止や末代まで国役を免除する。なお、ますます忠節を尽くせば、恩賞は重ねて与える。』
また、覚寺村の豪農進藤家も秀吉勢を支援したとされる。
「鳥取県地域社会研究発表会」で中ノ郷中学校が発表した「進藤彦六左衛門と長兵衛をめぐる問題」 の内容から抜粋要約する。
進藤家碑文に刻まれた記録より
覚寺村の墓地の山すそに、進藤家慰霊碑がひっそりと立っている。石碑には、昭和16年12月、平井勝太郎氏が、進藤家が絶え、墓地が山崩れで荒れ果てるのを惜しみ、造ったと刻まれている。
碑文内容から以下のようなことが分かる。
覚寺の中土居に、天正年間( 1573~1592年)豪農進藤彦六左衛門がいた。彦六左衛門は、秀吉の鳥取城攻めに際して秀吉に味方をし、百人の人夫を集め死者を葬ったり、兵糧米を送って秀吉から太刀や御手札を拝領する。
玄孫(孫の孫)長兵衛が安永の頃(1772~1781年)、彦左衛門に関する記録や鳥取城攻防の陣取図などをまとめた。長兵衛は五智庵をつくり、石安寺の仏像などを納めた。
進藤家は覚寺で代々栄えたが、どうしたわけか庄屋になっていない。仏門に関係した人もある。 その後、二十代目、明治38年進藤家の直系は(約350年で)絶えた。 (「中ノ郷中学校の発表より)
進藤家一族と線刻地蔵と隠れキリシタン
進藤家一族には、内田家、平井家、青木家などがあるが、内田家も鳥取市に転出している。
また、「進藤」につながる「新藤家」が上土居に存ったようだが、昭和60年に直系は絶え、姻族の青木清夫婦が養子となり、新藤家を守っているようだ。尚、進藤から新藤への変遷理由は不明である。
進藤家の歴史を伝えるものは多くはない。山崩れ前の墓地には20以上の立派な墓が並び、2m近いものも幾つかあり、古くは元禄時代(1688~1704)のものという。
この中には、幾つかの線刻地蔵が残されている。手に持つ錫杖が心臓から血を流す形であったり、靴をはいているもの、ガウンのような着衣、胸に鎖を吊るしているように見えるもの、昇天を意味する「天」が使われているもの、戒名に「転(ころぶ)」の字が使われているものなどがある。
これらは進藤家、内田家、西村家の墓地に集中し、年代は元禄(1688~1704)から安永(1772~1781)の頃のものが多い。断定はできないが、進藤家一族は隠れキリシタンであったとも考えられる。 (「中ノ郷中学校の発表」より)
実際に墓地を歩き、石塔群の中にそれらしき地蔵を見つけることができた。およそ50cm大の自然石に刻まれたものである。苔生した表面を軽く払わせて頂いてから写真に収めた。
線刻地蔵は、他県他市では指定文化財とされているものも多い。これらは、それらの例に十分に比肩するものと思う。
ザビエル像と線刻地蔵
赤いハート型のものは「灼熱(しゃくねつ)の心臓(神への熱い思いに燃えたぎった心)であり、ザビエルが発している言葉はラテン語で、SATIS(サテス) EST(エスト) DNE(ドミネ)。
意味は「神よ、この心は浄化され、満たされています」。十字架の中央の「I H S」はイエズス会章、十字架の先端の文字「I.N.P.I」は、「ユダヤの王ナザレのゼヌス」を意味する語の頭文字である。
覚寺の線刻地蔵も、心臓が刺さったような錫杖を手に持ち、「I H S」の文字が入っている。着衣もガウンのように見える、このザビエル像を意識したものだろうか。
円相か光輪か
線刻地蔵にまじって墓石に丸い円が描かれたものもある。
曹洞宗など禅宗の墓石には、円相と呼ばれる印を刻む特徴があり、これは、「仏・悟り・完全」を意味し、禅宗において悟りの象徴とされているという。丸い印を墓石に刻むことで、故人が成仏し仏に変わったことを表しているという。
一方で、これを隠れキリシタンのものという説もある。光輪は、キリスト教美術の聖人画などで頭の周りに描かれる光の輪である。線刻地蔵の周囲に置かれ、または、同時代(年号)にのみ限定されていることを考えると、特別な意味があるのかもしれない。
日本の墓の歴史によると、古代から江戸前期までは墓標の概念がなく、墓石など何も置かれず、江戸期に入ってようやく土饅頭が置かれ、木柱や墓石が一般化したのは江戸中期以降とされる。
しかし、墓石は高価で庶民には手が出せず、木柱の卒塔婆や目印の石が置かれる程度だったようである。
従って、進藤家などの江戸前中期の石墓を見ることは極めて稀である。さらに隠れキリシタンを想わせる線刻地蔵である。五智庵寄進などを含め、相当の財力家かつ進歩的文化人だったことを伺わせる。
仏寺が雲のように密集した当時の覚寺の谷こそ、精神文化と「知」が集積する空間であったのかもしれない。
『因幡誌』の記録からみる新藤家と赤池家について
因幡誌は、浜坂や円護寺の秀吉軍の布陣や、秀吉軍への進藤彦六左衛門の協力などを伝えている。
「・・・谷の上の尾通りに幾つともなく土積して丘となす。是敵味方討死の死骸を埋めたる跡と言えり。当村の百姓長兵衛と云者の先祖に進藤六左衛門とて、其頃の農長たりしが、秀吉公の命を承り人夫百人催促して不日に此塚を築けりとぞ。(中略)浜坂・青木ノ陣所へ兵糧豆葉をおくりける間、御こんいを蒙り・・・」とある。
また、「タイシン庵(大師庵)の前の谷を柿ヶ谷と云ふ昔は此処に石安寺と云ふ寺ありし。彦六左衛門か子長兵衛と云ふ者此谷にて薬師の像を掘出しける是石安寺の佛なりと云へり今ごじ庵(五智庵)の本尊と可是なり」 (「因幡誌」)
このように、秀吉に味方した進藤家は、江戸時代以降も覚寺において影響力ある人物として活躍したようである。
一方、鳥取方に味方した服部村阿弥陀堂西の赤池助左衛門に関しては、「赤池助左衛門といへる郷土一村の主として住ひけるが天正九年秀吉公鳥取城攻めの時、此の赤池も籠城しける故・・」と既述し、服部村から村ごと赤池に移され、被差別部落にされ、鳥取城の石切人や処刑場の下働き、死牛馬の処理などに使われるようになったと記録している。
楢柴竹造(重恕)の「因伯大年表」(天正9年の記)には「「吉川経家、密使ヲ吉川元春ニ贈ル。郷士赤池助左衛門、千代川ヲ渡ルニ頭ニ俵ヲ冠ヲリ水下ニ流レ、閑隙ヲ伺テ上陸シ秀吉ノ重囲ヲ脱ス。水泳ノ達人ナリ。」とあり、赤池助左衛門の吉川経家側における「活躍」を伝えている。
以上のように、覚寺の進藤家、服部村の赤池家は、それぞれの秀吉への対応によってその後の半生は対照的であるが、いずれにしても、この時代にあって己の明確に意思を表明し行動したということは稀有な人物であったことは間違いない。
(4)隠れ切支丹(キリシタン)について—参考
日本の切支丹
日本におけるキリスト教は、戦国時代の天文18年(1549)のフランシスコ・ザビエル来日によって伝えられたとされる。
宣教師たちの堅固な信念と熱烈な献身・努力によって急速に信者を増やし、これを庇護した織田信長が本能寺の変で自刃する天正10年
(1582)には、全国に会堂数100ケ所、信者は約15万人に達し、5年後には倍増している。
しかし、江戸時代には、慶長19年(1614)の徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止された。幕府の支配体制に組み込まれることを拒否するキリスト教の浸透拡大と信徒の団結が、幕府を揺るがす脅威とされたのである。この頃の信者数は70~80万人とされ、当時の日本の人口は千5百万人余を考えるとまさに燎原の火の如くである。
そして、寛永14年(1637)の島原の乱が決定的になり、幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。
また、幕府は新たな布教が一切行われないようにスペイン・ポルトガル勢を追放・排除した。寛永元年(1624)にスペイン船の来航禁止、寛永12年(1635)には、日本人の海外渡航と帰国の禁止及び朱印船貿易の終了、そして、寛永16年(1639)のポルトガル船の来航禁止と南蛮貿易の禁止をもって、同年に日本の鎖国が完成するのである。
他方、幕府は信者をあぶりだすために寛永6年(1629)に踏絵や五人組、宗旨人別改帳を導入、架刑や改宗を迫るなどの迫害弾圧を続けた。
このような時代背景の下、地下に潜った信徒たちは、親子の間でも秘密主義に徹し、秘密裡に切支丹灯篭などの各種各様な礼拝物をつくり、表向きは仏教徒などとして振る舞いながら心の奥に自由を叫び、国内にカトリックの司祭が一人もいない中、250年間以上も信仰を守り代々伝えていった。この事実は世界に類例なく、全世界に衝撃を与えたとされる。
明治以降も弾圧は続いたが、諸外国からの非難によって明治政府は明治6年(1873)、ようやく「キリシタン禁教令」を廃止したのである。
鳥取藩と隠れ切支丹
池田鳥取藩とキリシタンの関係は驚くほど深い。
池田藩主の先祖信輝は永禄6年(1563)に洗礼を受けている。織田信長が神父フロイスと面会し、畿内で布教を許したのが永禄12年である。英傑信輝は、いち早く西洋の物資・精神文明を取り入れることで、一国の文化を高め富国強兵を図るという念願から入信したのであろう。
この信輝によって、切支丹帰依の家柄として鳥取城主池田家には、代々信仰の道が受け継がれていくのである。
播州姫路城主の輝政は信輝の子である。パジエスの日本基督教史は「播州国主池田新三衛門(輝政)は、信仰厚く、宗徒に庇護の手を差し伸べていた」と記している。
関ケ原以降の初代鳥取城主池田長吉は輝政の子であり、その子の2代城主長幸も、紋章などから明らかに入信していたとされる。輝政の孫にあたる池田光政は、長吉・長幸後の鳥取城主で、因伯32万石の基盤づくりをした。
元和6年(1620)、ポルロ神父の伯耆・因幡の巡教時、光政は見てみぬふりをして、陰で庇護していたようである。京都や長崎における信者の火刑・斬首をはじめとして全国各地で処刑の嵐がふきすさんでいた頃である。
輝政と徳川家康の娘督姫の間に生まれた池田忠雄が、長じて迎えた室は有名な切支丹大名の娘である。切支丹倫理の教えでは、原則として同信者の家柄同志でないと婚姻できない。その間に生まれたのが池田光仲。徳川家康の孫にあたり、光政のあとを継いで32万石鳥取藩を治めた。
光仲が鳥取藩の信徒を庇護していた事実は、藩の控帳及び万留帳に、光仲は切支丹の疑いを受けて入牢した伴九郎兵衛や医師の森元交、浜田藤兵衛の妻子などに扶持を与え、これを保護したと記録されていることから明らかである。尚、彼らは後に出牢を許されている。
切支丹入牢者の妻子に生活保護の愛の手を差し伸べた例は全国に例のないことである。この光仲の鉄石の信仰は歴代の藩主に受け継がれ、因伯二州では、明治になるまで処刑による殉教者を一人も出していない。
このような例は、古切支丹の流れをくむ京極藩、相良藩の城下にもみることができるが、当時としては稀有のことである。さらに、代々の藩主は幕府の重圧にたえて、城奥で信仰の灯を守り、更に信徒たちを庶民信仰によく習合させ、ひそかに聖地を与えている。
池田家菩提寺の興善寺、池田藩主の祈祷所観音院、熱烈な信者であった福田家老が建立した一行寺などには「切支丹灯篭」が残っている。
これは、地蔵尊の台石に見せかけて、隠れ切支丹が墓参を装って密かにその台座に祈りを捧げていたものとされている。石には人型が浮き彫りにされ、地蔵尊というより、神父が両手を胸で組み、お祈りをしている姿である。
偽装はその他、観音像、墓碑、人形、石仏など数多くあり、人目につかないように巧みに隠されていたという。
藩公や家老たちゆかりの寺院にこれらが祀られたことは、信徒たちを表面上仏教徒にころばせ、裏面ではこれらの寺々の境内に聖なる礼拝地を与えたのである。
万が一疑いを持たれた場合は、藩公や家老のご武運を祈り、菩提を弔うためと申し開きができるのである。因伯二州には数多くの切支丹城主がいる。若桜の鬼が城矢部城主、鹿野城亀井城主、東伯の羽衣石城南條城主、米子城中村城主など。
鹿野城主亀井茲矩は、元和5年(1619)御朱印を受け、南蛮貿易をしたほどの進歩的な文化人であった。一国の殖産興業・富国強兵にはすぐれた南蛮文明を受け入れることの必要を深く理解し、そのため南蛮伴天連と手を結ぶために入信している。
青谷港を南蛮貿易の基地に、海と三方の山に囲まれた隔絶地の津を隠れ切支丹の聖地としたとされる。切支丹灯篭と子安地蔵(マリア像)の両方が残るのは県下で酒津のみである。
このように、全国的に眺めても、九州についで因伯二州でキリスト教の布教が伸びていたことは、驚異的な史実である。 鳥取藩主ならびに切支丹家老、地域城主たちの英邁、精神性を物語るものである。
鳥取市郊外岩倉に、鳥取池田藩主初代光仲より十一代慶栄までの墓石をはじめ、奥方ならびに一族が眠る。百数十の灯篭の中で、光仲公の前に建つ光仲の子仲澄・清定の献灯篭にのみ、火袋に十字架が陽刻されていることは不思議である。
二人は、父光仲の信仰を静かに見守り、十字架を背負って昇天したキリストの故事にならって、なき父の冥福を祈って作っものであろう。
このような例は、松前藩椿姫の墓石、小浜藩常高院の墓地にも残っている。
(参考 「池田藩主と因伯のキリシタン」・「因伯の隠れキリシタン」・「鳥取文化財ナビ(切支丹灯篭)」・「隠れキリシタン」)
(参考)
江戸時代の日本近世最大の飢饉とされる天明飢饉時、鳥取藩士・伴九郎兵衛は多くの難民を救い、その難民たちとともに浜坂新田村を拓いた。
彼は、人里離れた十六本松の荒神山下の淵に千石船の着船場をつくり、密貿易を行って藩財政を助けた。そして、この密貿易の手づるを求め、仕事を有利に運ぶためにキリシタンに入信している。
詳しくは、本ホームページの「歴史を歩く」・「歴史研究(浜坂・江津編)を参照下さい。