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神社・仏閣
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浜坂神社
所在地 鳥取市浜坂
【祭神】 大己貴命 【祭祀】 例祭 4月14日
【由緒】「起源沿革詳かならず、古くより大多羅明神と称し、明治元年濱坂神社と更め、明治七年現社号に改称せらる、浜坂は往古漁村なりしが故に、神社も当時は現在社地よりも上方の高地砂上に鎮座せらる、即ち此の附近なる小砂丘を今鳥打と云えども、今昔は大多良越と称す、蓋し(けだし)舊社地なりし地域なるべし。
尚社殿も古く北方海に面し、海上通過の船舶殊に崇敬せしと伝う。 (「鳥取県神社誌」)
歴史概要
浜坂神社の前身は、大多羅大明神と称されていた。多鯰ヶ池横を走る国道9号線の東下方の湖畔に「妙地ヶ鼻」(みょうじがはな)と呼ばれる場所があり、一説によると、妙地ケ鼻は、かつて『明神ケ鼻』と呼ばれていたが、明治時代の中頃、大日本帝国陸軍測量部が地形図を作るとき『明神』を『妙地』と聞き間違えたという。
当説に沿えば、初期の大多羅大明神の祠(ほこら)は、この『明神ケ鼻』に祀られ、浜坂村の前身はその祠と共にあり、多鯰ヶ池や近くの日本海の漁で生活したと考えられる。その後、冒頭の「由緒」にあるように、多鯰ケ池の上の鳥打坂=大多羅越(ゴルフ場の駐車場の辺り)に移り、日本海(北海)を見下ろし、漁民や船の安全を護っていた。
江戸初期(江戸寛文年間=1670年頃)の寛文地図の現在位置に、浜坂村と大多羅大明神が描かれていることから、多鯰ヶ池集落の人々は、砂丘が安定する中世から江戸初期にかけて、(農業を求めて)現在の浜坂に移り住み、同時に神社も現在位置に遷座したことが分かる。
また、移転とともに、多鯰ヶ池時代の漁業神は農業神へと変わる。現在の祭神は、五穀豊穣の農業神の大国主命=大己貴命(オオナムチノミコトである。浜坂の祭りの舟の形をした神輿(みこし)は、かつての漁村であった歴史を伝えている。明治に浜坂神社と改名、現在に至る。
棟札が語るもの
棟札とは、神社の建築や修理などの記録を板に墨で書きつけたもので、明和7年(1770)の2枚が多くを語る。1枚は「大多羅大明神一宇成就」とあり、この年に現浜坂において建て替えが行われたことを示す。もう1枚には当時の氏子57名の氏名が書いてあり、その中に、米原(米の原)、穂坂(稲穂の坂)、浜田(浜の田)、高田(高い田)など、稲作に関連した苗字があることから米作りが始まっていたと推測できる。また、57名の人数は、この時期には概ね現浜坂における「浜坂村」が完成していることを示している。他の記録より、当時の浜坂村の推定戸数は60戸前後である。(注)苗字は室町時代から農民階層まで広がっていたものの、武士の世の中では公には使えず、私的な家の過去帳や墓碑などに使われることがあったとされる。
祭り行事
お祭り年間行事は、新年祭、祈年祭、御日待神事、初午祭、例祭、夏祭り、浜坂三社祭(水神社・弁天社・荒神社)、秋祭り新嘗祭などがある。いずれも長田神社の神主が祭主を務める。初午祭,例祭,秋祭りでは、子ども麒麟獅子舞が氏子各戸を門付して廻り、村内の豊作と平安を祈願する。
最も重要な4月の例祭は、前夜祭となる夕祭に本番及び添番に祀る御分霊を地区公民館に奉還し、任期1年の両当番を託宣選任するおくじあげの儀を行なう。当日祭は公民館での麒麟獅子舞の清祓式をはじめに、濱坂神社で神事が行われる。五年に一度の例大祭では、御神輿や榊、奴の舞や御船山車、御幸行列(武者行列)などが村内を練り歩く。(参考「鳥取県神社誌」・「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
江津神社
所在地 鳥取市江津
【祭神】 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
【祭祀】 例祭 4月22日
歴史概要
創立年代は不明であるが、かつては「武王大明神」と呼ばれ、武門をはじめ近郊の人々から崇敬されてきた。神社の付近には、船田付など船のつく地名が数多く残り、往古から因幡の海上交通の要所であった。
明和6年(1769)の「高草郡神社御改帳」によれば、当時の社殿は2尺四方で柿葺であり、神楽殿や荒神もあったと記されている。明治元年に江津神社と改称し、境内に稲荷神社を合祀した。昭和のはじめまで江津神社は現在の千代川の真ん中辺りに鎮座していた。昭和4年(1929)、千代川改修にともない、現在の地に遷座して今に至っている。
記録では寛文大図よりさかのぼることはできないが、奈良期以降に江津が因幡国の玄関港であり国港(「国津」)であったこと、また、平安期の「高庭庄(荘)」の港としての役割、近隣の神社の創立時期などを考えると、当時から舟運の安全祈願のための小社がこの地にあったと考えるのが自然であろう。
ただし、延喜式神名帳(927年)高草郡七座に含まれていないことから、存在したとしても零細なものだったと考えられる。かつて「武王大明神」と呼ばれた江津神社は、寛文大図(江戸寛文年間=1670年頃)における江津村に「六王ノ社」として描かれている(因幡民談記などでは、武甕槌命を主に祀る神社は全て六王と表現されている)。
御祭神の武甕槌命は雷神・剣神・武神とされ、御利益は、武道守護・国家鎮護・芸能・豊漁・航海安全・安産・病気平癒・厄除・交通安全・延命・長寿など様々だが、江津の歴史上の役割から、航海安全が主であったと考えられる。賀露神社も同神を祀っている。
近隣の神社
因幡には江津神社のように「武王大明神」と称する神社が10以上も存在するが、創立時期を推定できるものは少ない。その一つ、平時範が参拝した美歎神社は、他の参拝社とともに延喜式神名帳にも記載される官社で、その由緒に「貞観 十六年(874)、因幡国従五位下美歎神に従五位上を 授く」とある。
また、岩美町恩志の恩志呂神社は、因幡誌に「武王大明神、延喜式神名帳に載る所恩志呂神社是也」とあり、双方とも平安期以前の創立である。他方、近隣の神社をみると、同じ千代川沿いの三嶋神社と賀露神社は奈良期の創立である。秋里の荒木神社(大明神)は『摩尼寺縁起書』(1229年)に摩尼寺(834~848年)とともに載ることから、平安期頃の創立である。
祭り行事
江津神社の祭礼は、元旦祭、日待祭、例祭(春祭り)、夏越祭、秋祭り、新嘗祭などがある。いずれも賀露神社の神主が祭主を務める。これらのうち例祭と秋祭りが、神輿を担いだり獅子を奉納したりするいわゆる「お祭り」である。春祭りと秋祭りに麒麟獅子舞が奉納される。全戸を門付けし、無病息災と五穀豊穣を祈念する。近年まで獅子を迎える獅子宿は氏子の中からくじ引きで選ばれており、江戸時代から使われていた宿くじが現在も残っている。
麒麟獅子舞
鳥取県東部の因幡地方に伝わる「麒麟獅子舞」は、江戸時代のはじめに、初代藩主の池田光仲(みつなか)が曾祖父の徳川家康の分霊を祀った因幡東照宮(現鳥取東照宮)を創した際に、祭礼の芸能として創始したと言われている。江津神社の舞も、この流れをくむ「権現流」とされている。獅子の舞は静かな動きを基本としており、猛々しさはそれほど感じられない。江津神社の獅子の起源は定かではないが、平成16年初頭の修復時、文化2年(1805)という製作年と仏師山本利助という製作者の名前が墨書されているのが確認され、少なくとも、その頃から舞われていたと考えられる。 (参考「鳥取県神社誌」・「賀露神社/江津神社」・「江津獅子保存会」)
荒木三嶋神社
所在地 鳥取市秋里
【祭神】
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫(いちきしまひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
【祭祀】 例祭 4月14日
鳥取市秋里は千代川下流右岸に位置する。この地域には弥生時代から中世にかけての遺跡である「秋里遺跡」があり、多くの祭祀遺物が出土している。
2つの神社の合祀
戦前まで荒木三嶋神社は「荒木神社」と「三嶋神社」という2つの神社に分かれていた。このうち、荒木神社は古くは「荒木大明神」・「今宮大明神」とも呼ばれ、秋里村の氏神として崇敬されてきた。ご祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りしていた。鎌倉時代の在地領主で秋里城主の秋里玄蕃守師永が記したとされる『摩尼寺縁起書』(1229)に摩尼寺とともに荒木社のことが書かれている。従って、700年位前から秋里村に鎮座していたようであり、明治元年に保食神を合祀し荒木神社と改称した。その後、荒木神社と三嶋神社は昭和9年(1934)に合祀されて荒木三嶋神社となり、三嶋神社の本殿は現在の波津神社(晩稲)の本殿として受け継がれている。また、かつて三嶋神社が鎮座していた地には小さな祠が建てられている。
3年に一度大祭(御幸祭)が斎行され、麒麟獅子舞のほか、大名行列や幟武者行列、大御輿などからなる御幸行列がにぎやかに町内を練り歩く。また平成12年(2000)からは麒麟獅子舞を通じて北海道利尻島との交流を続けている。
三嶋神社と「高庭荘」の関係
三嶋神社の「ミシマ神」は噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神(大地をつくる)・航海神として祀られたのが始まりで、源頼朝が源氏再興を祈願して成功したことから益々の崇敬を集めたことでも知られる。また、神社の名前が、現在の東海道新幹線が停まる駅の「三島」にもなっている。
因幡では、当初、奈良時代に賀露に勧請され、同天平年間、賀露から秋里に移された。昔、砂地で草木が生えない賀露が豊かな田畑になることを願い、また、港としての航海安全を祈って「ミシマ神」を祀ったとされる。(「賀露誌」) そして、その後の平安時代、西は湖山池から東は江津にかけての荘園「高庭荘」の開発を進めるため、三嶋神社を賀露から秋里に移し、更に、その神宮寺の大乗院や廟所の弁天社を建てることによって、大地を鎮め、水を鎮め、人心を鎮めたと考えられる。
平安時代に国司が神拝した神社で、『時範記』によれば承徳3年(1099)に因幡国司として赴任した平時範は、惣社、 宇部社、坂本社(現在不明)、三嶋社、賀呂社、服部社、美歎社の順に参拝したという。この頃、三嶋社が因幡地方の著名な神社であったことが伺われる。三嶋社には了顕山大乗寺という神宮寺があったとされ、浜坂の弁財天は三嶋社の廟所と云われてきた。
江津の中央病院すぐ東側の現在血液センターの位置は、地名を「大乗寺」という。因幡誌に、昔時は「三嶋明神より三町ばかり西方に了顕山大乗寺という三嶋の神宮寺あり」と一致するという。(参考 「鳥取県神社誌」・「賀露神社/荒木三嶋神社」・「賀露誌」・「千代水村誌」)
中世には大集落に発展
中世には門前町である三嶋保が形成され、三嶋街道があったとされている。江戸時代には三嶋社のあたりは大きな藪地で、鳥取藩の番人がおかれていた。近年、元境内地から「秋里遺跡」が発掘され、遺物は古墳前期から中世に至るまでの祭祀に関するものと確認されている。御祭神として田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命をお祀りしていることから、海や水上交通に関係する神社であったと考えられる。 賀露神社とのつながりを示すものとして、「寛文大図写」(倉田八幡宮蔵)には「三嶋の本社を軽(賀露)へうつす。三嶋大明神は船神なり」・「(賀露神社の)北方の小社は三嶋明神を移す」と記されている。
また、「(因橋誌に)―天平年中 吉備公遣唐使帰朝の時、難風に遭て賀露の津に漂着ある。当時此地には、三嶋大明神鎮座なりしか吉備公漂着の後、三嶋の神祠を今の地に遷し此地には吉備公の霊社を建て鎮守とする由也―」(「賀露誌」)とあり、三嶋大明神は船神で、もともと賀露北方(海側)にあり、賀露神社が建てられると同時に秋里へ移転したことを示している。第二次遣唐使の吉備真備一行の賀露漂着は天平勝宝6年(754)のこととされていることから、三嶋神社(大明神)及び賀露神社の創立がこの頃であったことがうかがえる。(参考「荒木三嶋神社・賀路神社」・「ふるさと城北の宝」・「千代水村誌」)
弁天神社
所在地 鳥取市浜坂
弁財天のご祭神は弁財天で、もとはインドの河の女神である。インドでは、ガンジス川が「聖なる川」としてヒンズー教の聖地とされるように、川を神格化している。河が音を立てて流れることから、音楽の神、さらに拡大して芸術の神とされた。今では、河治水、幸福、知恵、財福、弁才、音楽をつかさどるとされる。
弁天神社の時代背景
弁天神社の創立時期は不明とされるが、荒木三嶋神社の「三嶋神社と『高庭荘』の関係」に記したように、高庭荘の開発が進められた平安時代、周辺で頻発する洪水を鎮めるために、河の神の弁天を祀った神社をつくったようである。
「浜坂弁天」とも呼ばれるが、歴史的には秋里以西の荘園文化に関連するものであり、荘園開発当時、浜坂村はまだ誕生していない。後世に、地理的な近さから「浜坂弁天」とも呼ばれるようになったと考える。 弁天神社は千代川と袋川の合流地点の中州の小島に鎮座していた。弁天社の南側に旧千代川が流下し、北側に旧袋川と摩尼川が流れ、この弁天社のすぐ裏で3つの川が合流していた。従って、智頭、八上、八東、邑美、高草と交易するにも重要な分岐点であった。また、秀吉の鳥取攻めの要衝として船大将の陣所にもなり、江戸時代は池田候の舟遊びの拠点にもなっている。
聖天さん(大聖天歓喜天)
大聖歓喜天とは仏教の守護神で、浜坂の人々は聖天さんと呼んだ。祭神は頭は象、体は人間の姿をした神である。男女の抱き合った形をしている。10センチ大の小さな木彫の像である。災いを除き、福をもたらし、夫婦和合し、子を授けるといわれる。 ご神体は、もともと浜坂の武田家の神棚に祭られていたバラモン教の神の大聖歓喜天である。
この聖天さんが弁天社敷地内に祭られた後、特に子宝を願うご婦人の参拝者が多くなったという。武田家の神棚に祭っていた聖天さんを御移しした理由は、満州事変(昭和6年・1931)のおり、出征兵士が浜坂5社に祈願しようにも4社(浜坂神社、水神社、天王さん、弁天社)しかないから、この聖天さんを加えて5社にしようと浜坂部落で決めたという。遷宮のときは、境内に旗を立て、村人全員が武田家から弁天社まで沿道でお見送りしたという。 (参考「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
弁天社の碑文(全文)(浜坂財産管理委員会)
この名称は、因幡一宮である宇部神社に所蔵されている安部恭庵によって寛政7年(1796)に著された因幡地方を代表する地誌「因幡誌原本86冊」から引用されたものです。その一文は「寛政元年、御巡見此地通行の時、案内者を召して、弁財天は何処にあると問はれければ、案内者は出合の中洲をさして、あれに鎮座したまうこそ、弁天社にて候と答えける」とあります。
また、鳥取藩士の岡島正義(1784~1859)の著した「鳥府ノ名蹟」誌(1829年)(鳥取県立公文書蔵)には、天正年間(16世紀末)の鳥取城を攻めた羽柴秀吉軍の船大将吉川平助の陣がこの弁天社の西側に設けられたとのことです。
さらに弁財天嶋の記述に「弁財天が千代川と袋川の合流点にあり。昔は嶋だったが、この西側に砂が滞積して陸地になっていた」とあります。この記述は間違いないと考えられます。その理由は、明暦2年之記(1656)には、弁財天の中嶋と記載されており、大図をつくったのは寛文10年(1670)なので、其間僅15年の間に、この嶋が以前のようになったのは、恐らく、同13年(1673)の丑の年の大洪水の時であったのでしょう。また古い屏風の絵には河童地蔵の下流に、この嶋に似たように見受けられ、松の木の下に、南向に鳥居を建て、其下の方に沙浜があって、ここに船を繋ぎ、婦女幼児など出て遊んでいる絵を描き、或いは少年がすわって釣糸を垂れているのも見えます。
当時の松は、その前から有ったと見え、その後、年数がたって、著者(岡島)が物心付いたときには、『その砂浜も無く、嶋の上には箭竹(やだけ)が生い茂って、足の踏み場もない状態で、狐や狸の住処となって、名前ばかり「べさい」といっているが、神社の有無さえ知たる人も無いが、近年とある武士が信心を起し、生い茂った竹を苅り払って、弁財天の社を修造したので、船を着けて、お参りをするようになった。
この嶋の四方へ、古い松の木が垂れて、水面を覆って、風景がまことにいいので、夏の日にはこのまわりには、一日中、遊覧する船が絶えず。国人が多くの詩歌を読んだ。』との記述があります。此の地は大変、景色のよい場所であったことが偲ばれます。 しかし、一度洪水になると中国山地から土砂が運ばれ、砂が堆積したということも伺うことができます。弁天社はかつての千代川の原風景を残す唯一の場所です。この度、名称碑を国土交通省の堤防工事のイメージアップ事業により建立することは、大変喜ばしいことです。我々は末永く弁天社をお祀りしたいと願う次第です。 平成18年4月 浜坂神社祭日
大応寺
所在地 鳥取市浜坂
藩政時代の記録では当時「浜坂観音」と称された辻堂を祖としている。当時の古地図にも描かれているこの観音堂が現在の曹洞宗大応寺の始まりとのことであるが、大同元年(806)まで遡る伝承もある。
「伝記によると、大同元年(806)僧延鎮の開山にして円城寺と号し、一時16を数える堂塔があった。後に覚寺村の摩尼寺に属し、秀吉の天正8~9年(1580~81)の鳥取城攻めの兵火で堂塔は灰燼と化した」(「転法輪」)。
一方、大応寺の『大應寺観音の由来』では、大同元年(806)に村でお堂を建立したが、その後文禄元年(1592)高麗水という洪水が起き、観音堂も本堂も流出し行方不明になった。しかし、村人の夢に現れた観音が埋まっている場所を伝え、掘り出された」とある。
その後、元禄年中、北国より巡錫した僧の石丈が代々山山麓に堂塔を建立し、当地中から発見した観世音菩薩を移し観音堂と称して元禄16年(1703)6月廿日、中興開山となる。これが現大応寺の始まりとされる(大応寺現住職談)。宝永5年(1708)に火災にあり、享保8年(1723)、鹿野村の霊亀山大応寺を浜坂に移したが、明治初年頃に廃寺、明治13年(1889)に天徳寺の檀家を分かって浜坂大応寺を再興したとある。
伝承は、平安初期の開山と伝えるが、平安期の浜坂は飛砂によって人跡が絶える「空白の時代」を迎えていること、因幡における仏教寺院の歴史などを考えると大きな疑問がある。大応寺の起源は、元々は天台宗(当時)の天徳寺、または天台宗摩尼寺(834~847年頃)に関係があるようである。天台宗は、唐に学んだ最澄が開いたもの。大同元年(806)とは、最澄が日本で天台宗を開いた年である。大応寺の806年伝承は、これに結びつけたものと推測する。尚、同時期に真言宗を開いた空海が唐から帰国した年も大同元年(806)である。
本尊の変遷
(参考)江戸時代に書かれた「在方諸事控」と「鳥府志」によっても、当時の本尊及び、地中から掘り出された「観音ものがたり」の像は十一面観音であり、現在の聖観音とは異なっている。
「文久3年(1863)
一 邑美郡浜坂村大応寺儀、本尊十一面観音勧請以来千五十年忌二相当候二付、来ル十六日より同廿日迄五日之間、為無縁供養大般若経修行致し度旨、依之御城下端々え辻札建申度段、同村并鳥取天徳寺より願書差出し候得共(以下略)(「在方諸事控」)
「当時の本尊は、貞享(1684-88)の初、当村の農夫土中より掘出しけるに、其とも心づかずして、散々に打ち砕きぬ。初の程は、村端の川辺に、藁葺の仮屋をしつらひ是を安置しける。後年、梅栄と云る道心者、尊躬の不全ことを歎き、諸方を勧化し、その比京都より来りて知頭街道へ居ける権右衛門と云る仏師に、彼の掘出したる首に尊体を作り足しめければ、殊の外なる拙工なる故、はなはだ不恰好なりけるとぞ。去れども、霊瑞殊に著く、世の尊崇あつし。」(「鳥府志」霊亀山大応寺)
(参考「転法輪」(鳥取市仏教会)・「在方諸事控」・「鳥府志」)
「因州邑美郡濱坂村の観音の由来」(全文)
大応寺の「大應字観音の由来」(パンフレット)には、江戸時代、浜坂村の古老たちが書き残したとされる文書が、原文と現代文で載せられている。現代文版を以下に紹介する。 「そもそも浜坂村の辻堂の本尊・観世音菩薩は、京都東山の清水寺を開山した延鎮僧都の作であるという。
大同元年(806)に村でお堂を建立したが、その後文禄元年(1592)の高麗水という洪水が起き、観音堂も本堂も流出し、行方不明になってしまった。ある夜、浜坂村の甚重郎という百姓が、高草郡伏野に観音が「みながれ」と一緒に打ち上げられ、そこの者の庭に置かれているという御霊夢を見た。そのことを村方に話すと、村のものは「さては観音様のお告げであろう」ということになり、早速伏野村に行って夢に出た家を探して、この夢の話をしたところ、そこの者は感動のあまり涙を流した。「みながれ」の中が夜ごとに光るので不思議に思っていました。さては仏様の光だったのでしょう」調べてみると、本尊の首だけがその中に残されていた。その首をもって帰り、元の場所の二間四面ほどの草堂を結んで安置した。
その後、文盲の道心房を本尊堂守にしていたところ、病気によく効くお札を配るようになった。あまりによく効くので村方の者が気を付けてみてみると、本尊之の御顔を削り御符に出していた。村のものはいよいよ有り難たり、相談の上、元禄元年(1688)に善兵衛という者に御首を持たせ、修理のために上京させた。佛工・田中法橋が荘本尊を作り直し、もとの御首を本尊の御胸に作り込めた。もとの佛は三尺五寸ほどだったが、再興した本尊は八尺二寸の正観世音菩薩となった。
本尊が再興された際、京都まで御迎えに行った人夫 浜坂村 興左衛門 作次郎 忠三郎 七次郎 六左衛門 清二郎 頭人清右衛門
本尊が到着した際、浜坂村の旦那寺である天徳寺に一夜とどめて、翌日村方の者全員で御迎えにあがった。その後、観音堂があまりにも見苦しいので、元禄五年より天徳寺の石丈和尚の勧めで村方の者全員が寄進し、四間四面に建て直した。工事の際の人夫はすべて浜坂村から出てたので、まもなく完成した。十八日が観音様の縁日なので、村方の若い者たちの休日とした。今でも二月十八日を休日としている。
正徳四年三月七日に堂間の庵から出火し、御尊像も危い状況になっていたので、重郎兵衛というものが一番に駆けつけ、外から唐戸を開き、重さ三拾貫目もある御尊像を臺座と一緒に一人で持ち出した。外より唐戸を開くなどということは、観世音の御力でなければできないと、奇異の思いを抱いた。
堂守は随量という僧で、急火だったので即時に焼死してしまった。御上に御断りを申上げ、御目付様、宗旨庄屋西大路村新助が検査に来て、村方の処理で済ませてよいということになった。今の庫裏は、大智和尚の建立したもので、堂守の宗悦という僧が庫裏にすんでいる。享保十二年(1727)殿様が兼て大変御帰依されているので、御上の御意で御免地となった。
御役人秋山半内殿、大庄屋吉成村治助、宗旨庄屋宮長村藤助、浜坂村庄屋源左衛門が検査し、寺内五畝二十歩が御免地となった。本尊に後光がないので、村方の者は何かと後光をつくりたく思っていたが、自力ではとても無理だと諦めていた。その時、堂守の宗念が村方と相談し、因幡・伯耆両国で勧進することを藩に断り、後光を京都仏師の法橋浄慶に発注した。藩に御断を申し上げ、五月十三日に出発し、六月六日に到着した。後光の供養は七月十六日となり、天徳寺眉山和尚に供養していただいた。
完成したときの取寄の人夫 浜坂村 嘉平次 源六 四郎右衛門 重左衛門 吉三郎 長次郎 興四郎 頭人 新助
右は、浜坂村の古老が寄合って話したことで、確かなこととしてここに書き写す。村に残ったほかのものも具に調べた。
于時
元文三戊午年八月穀旦(1738年)
浜坂村庄屋 山根徳衛門 年寄 山根伊兵衛 年寄 米原勘次郎」
摩尼寺
所在地 鳥取市覚寺
起源は明確でないが、源は山岳を霊界として考える素朴な信仰であり、霊魂の宿る山として信じられていた。
9世紀、平安仏教の天台・真言宗が霊山を神聖視する在来山岳信仰とも結びつき、山岳を行場とする修験道とともに因伯にも拡大し、摩尼山は伯耆の大山、美徳山とともにその代表である。摩尼寺の創建は平安時代初期の承和年間(834~847年)に慈覚大師円仁(平安時代の高僧、入唐八家)が開いたのが始まりと伝えられている。
摩尼山は古くから死んだ人間が一度集まる祖霊信仰が残る信仰の山で、賽の河原や数多くの石仏が建立されている。鳥取県内では大山寺(大神山神社)と共に天台宗の拠点として寺運が隆盛し大きな影響力を持ち、鳥取城や天神山から見ると北東にあたる為、鬼門鎮守の寺院として歴代領主からも庇護を受けた。 天正9年(1581)に羽柴秀吉による鳥取城攻防戦では、城方の毛利氏側に立ち羽柴勢を何度も押し返す働きを見せたが、当時の住職道好が秀吉本陣に呼び出された隙に焼き討ち遭い多くの堂宇が焼失、道好はこれを悔い自ら命を絶っている。
江戸時代、池田光政,池田光仲によって摩尼山付近にあった境内を現在地に移して再興した。鳥取市内に多くの派生寺院が存在し、浜坂の大応寺、湯所の天徳寺などもその一つであり、鳥取市内の仏教寺院の大きな源流となっている。
中国三十三観音特別霊場(札所本尊:千手観世音菩薩) 山号:喜見山。宗派:天台宗安楽律法流。本尊:帝釈天。
摩尼山へ向かう道路の途中右手に継子(ままこ)落としの滝、鶏山、また左手道路を少し上ったところに旧但馬街道「兵庫県」に通ずる道路の一部が残っている。門前に山菜料理が専門の2軒の茶店があり、左は創業2百年の源平茶屋、右は創業80年の門脇茶屋である。
(参考「摩尼寺(鳥取市)」・「ふるさと城北の宝」)
三宝大荒神社
所在地 鳥取市浜坂新田
岩山全体を信仰の対象とし、新田一帯を襲う日本海の激しい荒波を鎮めるものとして古くから山頂に祭られたようである。山全体が花崗岩のため、古くは鳥取城石垣や鳥取港築湊時にここから採石されている。採石時には、火薬発破を使用するため、対象が「火の神」となり、奥津彦神を祭神としている。社は、昭和20年(1945)頃までは山頂にあり、昭和30年の採石の折に下に降ろされ、さらに、昭和50年(1975)~58年の河川改修時に現在位置に鎮座させられた。
藩政時代、この山の北側には池田藩主の船遊びの茶屋があったという。(「池田藩主と因伯のキリシタン」)千代川河口や賀露港などの眺めを楽しんだのであろう。
荒神山は地元では通称『石山』といい、子どもたちは、石山でよく遊んだ。東面は荒々しい岩山で、昔から石材採掘所で、そこに入っては黄鉄鉱、黄銅鉱などの光る鉱物を探し、北面は厚い砂山で、冬はスキーやソリで遊んだ。頂上に上がると、眼下に千代川河口から日本海、賀露港などが大きく開け、素晴らしい眺望であったという。
浜坂・江津の古代遺跡
都築山遺跡
所在地 鳥取市浜坂
縄文遺跡
浜坂砂丘西端、旧千代川右岸(小松ヶ丘近く)に位置する砂で覆われた栃木山(都築山)の裾部から、昭和39年に横穴墓群と一緒に発見された遺跡である。当時、宅地造成の余波で消滅寸前の状態にあった。遺跡からの出土品は、中期縄文式土器をはじめ、おもり石、石材剥片等が見られる。出土した土器から推測して、栃木山遺跡は縄文中期前半から後期にかけて生活の場となっていたことがうかがえる。
基本的な遺物の性格は約4キロ離れた湯山の直浪遺跡に共通しているという。(「新修鳥取市史」・「鳥取県史」)
遺跡は、丘陵の西麓で風化花崗岩の斜面に沿って上から流れ落ち堆積した腐食土中に約50cmの包含層となっていたことから、崖中腹の台地、または崖上の高台(現二本松公園あたりか)に住んでいたのではないだろうか。眼下には川が流れ、水鳥が遊ぶ豊かで広大な湿地帯が広がっていたことだろう。また、この遺跡の東辺、鳥取大学付属砂丘利用研究施設近辺で多くの石器類が発見されているが、その中には縄文文化に関わるものもみられ、同時代の遺跡の存在が考えられる。
横穴墳墓遺跡(古墳時代)
当時、22穴の発見は県内最大規模の横穴墓群として当時大きなニュースとなった。横穴墓群は鳥取市浜坂地内の栃木山(都築山)の風化した花崗岩の山腹につくられていたものが、後世の砂の移動によって埋没していたのである。山すそを流れていた旧千代川(袋川)改修工事などのため、砂が必要となり、砂の除去により発見された。砂は30mもの厚さであったという。 横穴墓群からは、大量の須恵器のほか、鉄刀(銀象嵌含む)、鉄鏃、玉類、金銅製鈴、耳環などが見つかった(この一部は、浜坂小学校にも展示されている)。
この埋葬施設の造営時期は一時期ではなく、6世紀後半から7世紀後半に及んでいる。横穴墓は、有力者層のために人工的な墳丘を造った開地谷や円護寺・覚寺古墳と異なり、自然丘陵の斜面に横穴を掘ったもので、古墳時代末期の一般化された集合墓・家族墓の性格を持つ。
現在、この地は全く地形を変え、新興住宅街と化している。砂の下からもとのように地表に現れたのも束の間、わずか40日間余で姿を消してしまった。まさに幻の遺跡であった。(参考「新修鳥取市史」)
この時期、都築山22穴余、荒神山7穴余に相当する集団が棲みついていたのかもしれないが、ともに周辺から生活遺物が見つかっていないことから、人々のくらしは既に消え、埋葬施設地のみとなっていた可能性も大きい。後続する平安時代の浜坂は、平安海進によって飛砂の吹きすさぶ不毛の地となり、飛砂の浜坂を離れた人々は、多鯰ヶ池周辺に集団移動したであろうことは「歴史を歩く」・「歴史研究」で述べた通りである。『新鳥取県史 考古2』によると、「鳥取平野では横穴墓はさほど多くなく、一ヶ所に数基が営まれる程度である。合計30基以上が構築された浜坂横穴墓群・荒神山横穴墓群はその中でも特異な存在といえる。
千代川河口付近に位置し、眼下に流れる千代川とその周辺に広がる鳥取平野を視野に収めることができる。川とそれを利用した河川交通を意識したものと理解できる。推定すれば、千代川河口付近を拠点として海上~河川の交通を担った勢力の墓城として営まれたのではないだろうか。」(「新鳥取県史」)
以上、この都築山古墳群などは浜坂に棲んだ人々というより、秋里・江津・賀露などの一勢力が造営したものと思えてならない。千代川対岸からこれらの古墳はよく見える位置にある。
荒神山遺跡
所在地 鳥取市浜坂新田
荒神山は通称「石山」とも呼ばれ、浜坂新田の千代川河口右岸に独立して位置する。山全体が久松山系花崗岩でできており、鳥取城石垣用など江戸期から採石場となっていたようだ。大正13年(1924)に岩山の荒神山の南面に7基の横穴が発見されている。副葬品から見ると、これらは古墳時代7世紀頃のものらしい。この遺跡も発見時、厚い砂に覆われていた。栃木山横穴群との共通性から両者に密接なつながりがあったことがうかがえる。昭和30年頃まで横穴の一部が残っていたようだが、その後、採石工事で削られ消滅している。(参考「鳥取県史」・「新修鳥取市史」)
秋里遺跡
所在地 鳥取市江津
秋里遺跡は鳥取市秋里、江津に広がる弥生中期から戦国時代にいたる祭祀関係及び陣所跡であり、内陸水運の特色も持つ。弥生から古墳時代にかけては生活色が希薄で祭祀色が強い。大量の土器とともに水鳥、舟、鏡、勾玉など特異なミニチュア模造品の出土が注目される。
また、出土量を誇る古式土師器は古墳時代初期には畿内を中心に各地に運ばれており、秋里遺跡の土器を実見しないことには山陰地方の土器は語れないと言われている。出土品や遺跡北側に残る戦国期の土塁や濠から、律令体制下の奈良・平安時代は「三嶋社」を背景に次第に集落として形成され、中世期は在地領主支配下で大集落として栄えたことがわかる。(参考「鳥取県の歴史散歩」・「ふるさと城北の宝」)
湖山池遺跡との共通性
秋里遺跡は祭祀,水運という大きな特徴を持つ。千代川西岸の秋里側には、因幡最古の遺跡の一つ桂見遺跡(縄文早~後期)をはじめ、青島遺跡(縄文後期)、布施遺跡(縄文後期)、塞ノ谷遺跡(弥生後期)など、湖山池周辺に遺跡が密集する。「祭祀遺跡の代表的三遺跡(青島遺跡、塞ノ谷遺跡、秋里遺跡)は、立地において湖沼、島、河川流域など、直接水に関する場を占地しているという特色がある。(中略)
この特色をさらに強調する事象として、塞ノ谷遺跡,秋里遺跡での木製舟形模造品、土製鳥舟形模造品の使用、青島遺跡の子持勾玉、秋里遺跡の馬型土製模造品の出土は注目してよい。七つの島影を浮かべる湖山池、濃い緑に覆われた青島、ときには激流が人々を恐怖に陥れた千代川。古墳時代の人々がこの中に、あるいはそのもの自身に神を感じ、ことあるごとに、あるいは時の節々に『まつり』」・『いのり』がとりおこなわれたのであろう。」(「新修鳥取市史」)
以上のような秋里遺跡と湖山池周辺遺跡群の文化的共通性から、秋里の古代人は、湖山池周辺から陸地を東進してきたのであろう。
開地谷遺跡
所在地 浜坂(多鯰ヶ池)
多鯰ヶ池南の開地谷遺跡(現ゴルフ場)は、鳥取砂丘に隣接する標高120メートル余の山地の上に築造された約80基の円墳群である。大半が10メートル前後の規模だが、中には20~35メートルに及ぶ大規模なものも3基含まれる。5~6世紀頃の千2百点の遺跡物が発見され、鉄剣や馬具も出土している。縄文終末頃から海に近い陸地から集団で住み、当時緑地化していた砂丘地や多鯰ヶ池での狩猟や漁を行っていたのであろう。
大正年間から知られていたが、注目されたのは昭和38年(1963)のゴルフ場建設による遺跡消滅危機に直面したときのことである。(「鳥取県の地名」)
開地谷から山を越えた覚寺には弥生時代の遺跡、円護寺には古墳時代の遺跡が発見されている。また、中ノ郷経由で浜坂方面への人の移動もあったと考えられる。
因幡地区で最古の福部砂丘湯山の「直波遺跡」や「栗山遺跡」から開地谷へ、そして、そこから覚寺、円護寺、浜坂へと古代人は移り住んだのであろう。10世紀前後から中世にかけての砂丘の不毛期では、人は飛砂の浜坂を去り、多鯰ヶ池周辺に戻ったと推察する。現在の浜坂との関係が極めて深い地である。
(参考「鳥取県の地名」・「新修鳥取市史」)
直浪遺跡と栗山遺跡、湯山の五輪群
所在地 鳥取市福部町湯山
直浪遺跡・栗山遺跡
湯山池・細川池一帯はかつて日本海とつながる入り江で、池畔にあたる地域からは縄文時代から奈良時代に至るまでの様々な遺跡が見つかっている。 福部砂丘湯山北側の「直波遺跡」は縄文人の竪穴住居跡、別に弥生時代,古墳時代,古代にかかる複合遺跡であり、3千5百年以上もの長期間居住の地となっていたと推測されている。
細川東の「栗山遺跡」も縄文時代前期から弥生時代にかけての住居跡と古墳時代の祭祀跡を伴う大規模なもので、山陰地方の重要な遺跡の一つとして、国の重要文化財に指定されている。
これらの湯山砂丘周辺の遺跡が、現時点で、居住年代として因幡地区で最古のものである。中ノ郷や浜坂など千代川東岸の古代人のルーツと考えられている。
湯山池・細川池
湯山池・細川池は、中世の記録では潟湖になっており、魚貝類などの水産物が豊富に棲息していたと考えられる。従って、当地域の原始・古代人はこの内海で漁をし、内海を生活の場として暮らしていたものと推察される。しかし、後世の農業生産活動にはその地理的条件は不向きであったため、以降は大規模な集落には発展しなかったのであろう。
また、古代(飛鳥時代)に成立した五畿七道の一つ山陰道は畿内から但馬国を経由して因幡国に入り、さらに西の伯耆国、出雲国へと続いていた。因幡国の国庁へ至る経路の一つとして考えられているのが駟馳山峠を越え湯山池・細川池の池畔を通るルートで現在の9号線にあたる。
このように、日本海からの入り江港及び山陰道の経路として古代から栄えた。安政6年(1859)から砂丘の砂を使って砂丘背後の湯山・細川池の干拓事業が行われ、新田が開発された。更に昭和にかけての干拓で両池は消滅した。(「福部村誌」・「湯山池」) 安政6年の湯山池の干拓に利用されたのが西1km先の多鯰ヶ池である。
地元浜湯山出身の「鳥取藩士宿院六平太義般」は自らが考案した測量器を使い、多鯰ヶ池の水面が湯山池より約16m高いことを発見した。そこで、両池を隔てていた峠にトンネルを掘り、高低差を利用した多鯰ヶ池からの水流で下手の砂を湯山池へ流し込んだ。トンネル工事に1年をかけている。
(参考「福部村誌」)・「福部歴史読本」)
浜湯山の五輪群
鳥取砂丘の海岸道路沿いのらっきょう畑の中に入っていくと、50基を超す五輪塔群が集められて祀ってある。古墳時代から奈良・平安時代初期にかけて安定していた砂丘地帯は、10世紀頃また砂の堆積を受ける時期に入る。「平安海進」と呼ぶ急激な温暖化による気候変動(海面上昇)により、砂丘周辺は飛砂に覆いつくされ、不毛の地となった浜坂砂丘や福部砂丘、白兎砂丘などから人の生活が消える。
その後、14世紀中頃を中心とする数世紀間、砂丘は小康期を迎える。再び人の生活が戻り、各所で室町時代の墳墓遺跡が見つかっている。浜湯山の五輪群は、この頃、湯山砂丘で人の生活が盛んに営まれた証左とされる。
「湯山砂丘下からは大永3年(1523)銘の五輪塔を最古として16世紀から17世紀初頭までの古石塔群が出土、末恒砂丘からも―(中略)白兎砂丘の地層中に発見されたクロスナ層上の中世の遺物もこれを裏付けー(中略) また、各地に湯山千軒・多鯰千軒などの伝承が残るのも、中世後砂丘地に集落が営まれたことを示すものであろう。」現在の浜坂集落もこの時期に誕生したのであろう。(参考「鳥取県の地名」・「新修鳥取市史」・他)
丸山の離水海食洞
所在地 鳥取市丸山
約6~5千年前の縄文海進と呼ばれる頃には、海面は現在より+5~6m高くなって鳥取地方は大きな内湾になった。久松山、雁金山、丸山、浜坂の荒神山、栃木山(都築山)などは、海に囲まれた岩島となった。当時の様子を示すものが丸山県道沿いの「離水海食洞」である。丸山や砂丘の一つ山離水海食洞は、海の波が山の岩を削った洞窟であり、約6千年前の縄文海進時に形成され、後の縄文海退で海が後退し、海から顔を出したものである。
(参考 「新修鳥取市史」・他)