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石碑・古民家
溺死海会塔
丸山城下慰霊碑
丸山の道標地蔵
丸山の飢饉供養塔
一里松と砲台跡
松本家住宅
浜坂・江津・新田のお地蔵さん
記念碑・自然景観
江津の千代川埋立記念碑
旧中ノ郷小学校之跡碑
千代水小学校之跡碑
浜坂水神と砂丘水神
重箱緑地公園
多鯰ヶ池
浜坂八景
砂丘の歌碑群
有島武郎
有島武郎と与謝野晶子「佗涙の地」
枝野登代秋
高浜虚子
森川暁水
中曽根康弘
戦没者慰霊碑
鳥取県護国神社
ビルマ方面戦没者慰霊塔
原爆慰霊碑
忠魂碑
浜坂・江津の石碑・古民家
溺死死海会塔 (寛政7年の千代川大洪水)
所在地 鳥取市浜坂
小松ケ丘上部の住宅地横に「溺死海会塔」と刻まれた浜坂の水害供養塔がある。高さ約2m、玄武岩の石塔である。これは享和元年(1801)、寺僧規外が寛政7年(1795)の洪水で溺死した人々の七回忌法要を営んだ折に建立したものである。江戸時代、千代川の流れはこの山すそを洗っていた。このあたりはもとの千代川が大きく賀露の方に向かって曲がるところで、山すそに打ち上げられた溺死者が多くあったらしい。(「鳥取県の歴史散歩」)
寛政7年(1795)8月30日乙卯水(うとしのみず)、鳥取県下で有史以来、最大の洪水が起きた。この洪水は台風によるもので、当日の早朝、円通寺、国安土手が切れ始め、袋川の水は千代川の流水と一緒になり、午前10時頃、最勝院の土手が切れ始めて崩壊十数ヶ所。鳥取城下は水深2mの濁流で屋根の先端まで水に浸かった。薄暗く、屋根を切り開いて外に出、助け舟を呼ぶ声、目も当てられない惨状であった。橋はみな流れ落ち、時に新茶屋の大谷平次一家と長屋者16人は屋根の棟につかまって、賀露の海まで流れ全員死亡した。
「助ケテエ」「サヨウナラ」と流れていく家の上から叫ぶ声を江津村の古老たちは、伝え聞きしている。
鳥取城下の溺死人は652人(城下、在方合計)、負傷63人、溺死牛馬32頭、家屋流失414と記録されている。この地域には、文禄2年(1593)、寛永12年(1635)、寛文13年(1673)、享保14年(1729)にも洪水で甚大な被害が発生しているという。 (国土地理院・自然災害マップ)
碑文の要約
『都築山(小松ヶ丘の小山)を後ろにして、千代川に面したところに規外禅師が石塔を建て、側に小堂を構えた。文は藩の儒者伊藤佐内、書は堀玄渓。このたびの大水、深さは殆ど丈。屋根を連ねて漂流、独り沈溺の魂を悼む。役人に塔及び堂を建て、冥福を祈りたいと申し入れたところ、その志を喜んで許可した。これを父にも話し、東都(鳥取の城下町と推定)に行脚、托鉢、浄財の恵みを受けたのであろう。禅師は幼にして民間にあり、長じて仏門の道を歩んだらしく溺死海会塔碑の建立を独力で成し遂げたことには頭が下がる。』 昔の千代川は、重箱を流下し都築山と江津村の間を流れていた。碑文の『都築ノ山ヲ負ヒ千代ノ水ニ臨ム』とあるのは、そこからきている。
この地は、約2千坪をゴルフ練習場に造成していたが(江津 波当根氏)、これを新しく小松ケ丘団地として造成することで、平成17年、碑は約80メートル東寄りの同団地奥の山際に移動され、現在に至っている。(参考「鳥取県の歴史散歩」・「公民館浜坂」・「ふるさと城北の宝」)
丸山城下慰霊碑(秀吉の鳥取攻め)
所在地 鳥取市丸山
丸山は標高85m、東西約300m、南北約400mの孤立した小山。旧袋川の下流右岸にあり、向かいは重箱緑地公園の多目的広場が広がる。
石見の国(島根県西部)の福光城主吉川経安の長男経家(35歳)が兵400人余を連れ、海路で賀露に上陸。鳥取城入城は天正9年(1581)3月18日。域内巡視後、丸山城(500人)と雁金城の構築を決めた。
鳥取城は山麓を流れる袋川を利用して賀路港~千代川から鳥取城に必要な武器弾薬・食料を補給していた。古絵図を見ると、袋川が鳥取城のすぐ下を流れていることが分かる。丸山城及び丸山城と鳥取城の中間点の雁金山城は、この補給路を守るために構築されたのである。
これに対し、秀吉方3万人は、戸倉峠を経て太閤ケ平に同年6月29日着陣した。当初、海と川を利用した補給路は機能していたが、これに気付いた秀吉方は、青木勘兵衛が代々山(現在の浜坂小学校敷地内にあった山)で賀露及び千代川口の監視にあたり、弁天島で吉川平助が舟を浮かべ河の通行を見張り、逆茂木(イバラの木を並べ垣にする)を敷設。縄綱を張り、夜は水面に灯ろうを浮かべて監視した。浅野弥兵衛は千代川左岸の秋里に陣を構え、千代川の水路と賀露ー江津ー秋里ー久松山の陸路も警戒した。
こうして、鳥取城内への補給路は断たれ、城内の人々は飢餓寸前に追いつめられ、10月、経家は国人衆とともに自刃した。同時に、丸山城主の奈佐日本之助は、雁金城の主将塩冶周坊とともに自刃して果てた。山頂には城跡の残骸が残っている。(「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「鳥取県の地名」・「ふるさと城北の宝」)
慰霊碑の説明文(市教委)
雁金の主将塩冶周坊もこの山に退き鳥取本城明渡しの報に日本之助と共にその責を負い天正九年(1581)十月二十五日、この地に無念の涙をのみ自刃した。武士道に徹し身命をかけて戦った両雄の忠勇義烈は真に崇高の極みである。茲に慰霊碑を建立し永くその誉を讃え英魂に捧げる。』
(参考 「慰霊碑の説明文(鳥取市教委)」・「ふるさと城北の宝」)
丸山の道標地蔵
所在地 鳥取市丸山
丸山町の交差点角に「丸山の道標地蔵さん」がある。
周囲は、雁金山からの山裾で、木漏陽の中に50基余りのお墓・供養塔や石仏が混在する。右横手には平和塔への登り口もある。このお地蔵様は高さ120cmの自然石の中に彫られた石額縁の中で錫杖と応量器を手に、蓮の華に片膝を立てて座っている。額縁の両側と下部には、「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかけれハ、四丁のまわり、左ハたしまはま道、文化七庚馬年六月日」と200年もの風雨や日照、埃や苔に耐えて刻まれている。首から胸には赤い布の前掛けが、前には水盤や香炉・線香が両側の竹筒にも生花が供えられている。尚、道標地蔵の位置は3回動いたようだ。最初は今の国土交通省職員宿舎、次は進商店、そして現在地とのことである。
江戸時代の『鳥府志』には、「摩尼の石標(みちしるべ)」として「丸山ヨリ摩尼寺の麓マデ石標ノ地蔵ヲ壱町置ニ建テ参詣ノ人々ノ便利ト成タリ」などの記述があり、「丸山石標地蔵ノ図」と題して、「此碑ハ濱坂ト摩尼ノ別道ニ建て」の添え書きのある絵図も残されている。これらから、この地蔵は摩尼寺参詣者へ、但馬への分かれ道(浜坂方面へ)地点であることと、摩尼寺へ34丁(約4km)との情報を伝えたものであることが分かる。
この丸山には、宝永年間(1704~11)に湯所村の百姓清助と五助が二軒の茶屋を出し、娘於万(おきん)のもてなしで於万茶屋と称したという。近郷近在からお参りする人々は、この茶屋や覚寺村の「白まんじゅう(西村家)」・「栗まんじゅう(保坂家)」「薬屋(田中家)」等で道中を楽しみながら摩尼寺参りをしていたということである。 (参考「ふるさと城北の宝」)
丸山の飢饉供養塔(天保の大飢饉)
所在地 鳥取市丸山
丸山交差点東、山ノ手通り角に赤い前垂れがしてある道標地蔵の右隣、少し高めの位置に3m近い石碑と、そのまた右隣に雑草に埋もれた丸型の自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑がある。「いなば・ほうぎの墓碑めぐり」によると「天保の大飢饉で死んでいった人々の冥福を祈るために建立された」(「因府年表」)とされている。この大飢饉が収まった天保14年(1843)、兵庫県赤穂の町人吉野屋栄次郎が施主となり、死者の供養塔を建てた。子捨て、乞食、疫病の流行など、農民の悲惨な飢饉と歴史を刻み込んだ。覚寺村の旧道にも同様に飢饉を物語る供養塔が立てられている。
覚寺の供養塔
覚寺は明治まで宿屋もあり人力車の営業所もあって、摩尼寺詣や但馬方面への人々で賑わったところである。集落の上手はずれには椎谷神社があり、その手前に「狼庵」という尼寺があった。この名前は、摩尼寺に上る谷が大きく、「おおたに」が訛って「おおかみ」となり、「狼」の漢字を当てはめたとも云われている。江戸時代後期、この狼庵の前には道を隔てて摩尼寺詣の人々に喜ばれた名物の粟餅屋があった。現在多くの石塔が寄せ集められているところが狼庵の跡である。「大乗妙典供養塔」と刻まれた自然石の石碑は、狼庵の良卯尼が立てたものである。 (参考「ふるさと城北の宝」・「鳥取県の歴史散歩」・「中ノ郷の生い立ち」)
一里松と砲台跡
所在地 鳥取砂丘
江戸末期、黒船の出現で海防の必要性が高まる中、鳥取藩が築造した海岸砲台場8ヵ所のうち、5ヵ所が現存している。浜坂の旧砲台は浜坂砂丘のほぼ中央南端に位置し、北真っ直ぐは「馬の背」と云い、砂丘の屋根である。東の岩戸海岸、西の賀露港の沖まで見渡せる所で、近くに一里松がある。鳥取城から一里の距離にある但馬街道浜の道の目印位置である。ここから東は北の砂丘列で南の追後スリバチと合せが谷スリバチ間の500~800mはなだらかで、演習地に適していた。
砲台が据えられていたその場所は一段高く盛り土が施され、砲台を含め67mと高い。大砲は嘉永6年(1853)8月23日大栄町六穂村から船で賀露港へ3台運搬され、1台は湖山砂丘、2台が浜坂砂丘へ設置された。当時の砲弾が四つ兒スリバチで拾われている。当時の砲弾は、大きさは野球ボール大の鉛玉だったという。昭和34年、高松の宮来鳥にあわせ、有島武郎の歌碑ができた。
浜坂の旧砲台(御台場)造りには、農民が進んで参加した。鳥取の町方(48町)からも5,120人が参加している。大砲は嘉永6年(1853)8月23日大栄町六穂村の鋳造元から船で運ばれた。飛距離は、5町(545メートル)、抱立放で8町(842メートル)。立入禁止にして、福部村の二ツ山方向に打っている。文久2年(1862)8月20日付の「在方諸事控」に「明後廿ニ日の浜坂稽古場での大砲御見分について、道を整備し下宿を準備するように、また、玉(砲弾)が柳茶屋附近に落ちるため、往来人を足止めするように(以下略)」と記録されている。
昭和初期の写真では、まだ小高い砲台跡が認められるが、現在は、風雨によって完全に消滅している。(参考「ふるさと城北の宝」・「公民館浜坂」)
(参考)一里塚の起源は中国であり、我が国の一里塚もこれに倣ったものであり、江戸時代、徳川家康が江戸の日本橋を基にして、東海道など主要な街道に築かせたことに始まる。鳥取藩内では、慶長9年(1604)2月、鳥取城から一里(約4キロ)ごとに道の両側に松を植えさせたという。砂丘の一里松は細川・岩本・恩地・・・、と続いている。 (「因幡・伯耆の町と街道」)
松本家住宅(旧 大庄屋邸宅)
所在地 鳥取市江津
松本家は戦国時代に武家が帰農して大庄屋になった家柄である。徳川中末期から昭和20年(1945)の敗戦による農地改革まで、文字通りの大地主で60町歩とも100町歩とも云われる、高草郡屈指の旧家である。大松本ともいう。戦後の昭和21年の農地改革までは、所有地は、浜坂・秋里・徳尾・徳吉・賀露・南隈・晩稲、遠く船岡(八頭郡)にあり、その小作が納めた年貢は1千俵もあって9つの蔵に納めていたとされる。当時の屋敷はもっと広かったのであろう。千代川に面した北側の重厚な門は、年貢米などの出し入れに使ったと考えられる。かつての千代川の岸は、わずか十数メートル先であった。
江津の庵寺横に藁葺屋根が見える。屋敷の面積は1,500坪で、巨木が繁っている建物は風格のある江戸末期の様式で、中ノ間の前に「役所の間」が付設されており、昔、大庄屋が役所として業務を行ったところで、書記役等が詰めていたところである。
安長の東円寺が菩提寺であって、現存の寺門はこの松本家の屋敷にあった松の大木を切り倒してつくられたものである。豪壮かつ品格ある古民家であり、現代においても茅葺き屋根を葺き替えながら継承しているという。茅葺きには郡家の職人さんを依頼し、4面を1面ずつ4回にわけて行うという。(参考「千代水村誌」・「鳥取県の民家を訪ねて」)
浜坂・江津・新田のお地蔵さん
浜坂の地蔵さん
浜坂村の入口は上土居側と下土居側の浜坂簡易郵便局前の2箇所あり、それぞれの入り口近くにお地蔵さんが祭られている。上土居側の地蔵は一体で、「文化十□酉年九月吉日」の文字が読める。1813~1817年頃である。一方の下土居側は六地蔵で、建立の年号は見えない。浜坂村は上土居側から開けたとされることから、この六地蔵はもっと新しい時代につくられたと考えられる。下土居の六地蔵横に立つ石碑は、昭和8年に中ノ郷村、即ち浜坂が鳥取市と一緒になったことを記念して有志によって建てられたものとされる。「鳥取砂丘、右は擂鉢(すりばち)、左は十六本松」と読める。
江津の地蔵さん
江津にも2箇所に六地蔵が祀られている。「一つは庵寺の敷地内。年号が摩滅しており判読できない。村の西側の者がこれをまつっている。もう一つは浜坂に通じる道にあり、東の者がまつっている。真っ直ぐ進むと三島神社、左に分岐すると浜坂、渡し船に乗ることになっていた。」(参考「千代水村誌」)
新田村の地蔵さん
新田村の入口に一体の地蔵が祀られている。年号などは見当たらない。新田村ができたのは、天明2年(1782)の大飢饉のおり、鳥取藩士の伴九郎兵衛が飢饉難民とともに砂丘地帯を開墾したことに始まる。従って、本地蔵ができたのは、それ以降のことである。
(参考)地蔵は、日本の民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられ、よく子供が喜ぶ菓子が供えられている。道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神とされる路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる。六地蔵像は、仏教の六道輪廻の思想(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれている。
浜坂・江津の記念碑・自然景観
江津の千代川埋立記念碑
所在地 鳥取市江津
新千代川の開通(大正10年・1921~昭和6年・1931)によって鳥取市民はようやく洪水の恐怖から救われることになったが、その代償として徳吉、安長、秋里、江津、晩稲の合計78町歩が新千代川の水底に沈んだ。
秋里は29町2反、江津は22町1反で最も大きく、殆どの家が1町歩減り、江津には耕地がゼロになった家が6戸生じた。千代川改修で耕地を失った江津部落民は、このままでは農民として生活が出来なくなるため、旧千代川を埋め立てて耕地を造成しようと、当局に対し埋立ての申請の陳情を開始し、昭和13年(1938)に一期工事着手、昭和17年(1942)に完成、続いて翌年には二期工事を完成した。
最大の三期工事の浜坂弁才天以西の旧千代川廃川敷の埋立ては、県当局の尽力により農林省直轄県代行事業として昭和23年(1948)度から事業が始まった。田土は浜坂の都築山など3ケ所、表土は新千代川掘鑿の剰余土を客土整地した。昭和28年(1953)、15町歩の水田の造成が完了し、江津公民館横に「江津埋立記念碑」が建てられた。なお、鳥取市による圃場整備事業の記念碑が、浜坂小学校の川向うの水田の中央に立つ。
(参考「千代水村誌」・「浜坂の歴史・文化を聴く会」)
旧中ノ郷小学校之跡碑
所在地 鳥取市覚寺
摩尼寺に通づる県道一本松覚寺線に入って250m、道の左側に石碑がある。その少し奥に旧校舎があった。正面には、「中ノ郷小学校之跡 昭和六十年九月建之 卒業生有志」とある。背面には「明治三十四年五月一日岩美郡中ノ郷村大字覚寺二百六十四番地に中ノ郷尋常小学校創立 昭和三十五年四月一日中ノ郷千代水両校統合し城北小学校設立に伴い廃校となる」と刻まれている。
廃校して校舎も撤去されて以来、地元ではこの地に郷党教育の殿堂が存在し、地方文化の中心として栄えたことを後世に伝えていこうとの気運が高まり、元校区在住の方々の賛同を得て石碑の建立となった。中ノ郷小学校は、明治34年(1901)、中ノ郷尋常小学校として創立され(児童数55名)、大正13年(1924)新校舎落成(この校舎が廃校まで続く)。
昭和8年(1933)鳥取市に合併し、公立中ノ郷尋常小学校として新生。同12年講堂兼体育館改築落成。同16年中ノ郷国民学校に改称。同22年(1947)中ノ郷小学校に改称。同35年(1960)城北小学校に統合し、廃校。 (参考「ふるさと城北の宝」)
千代水小学校之跡碑
所在地 鳥取市「商栄町
千代川左岸を賀露方面に約200m、道路を下り商栄町の一角にある君司酒造株式会社の敷地が、千代水小学校の跡地である。
千代水小学校には、徳吉・安長・秋里・江津・南隈・晩稲の6か村の児童が通学していた(昭和35年・1960)、中ノ郷小学校との合併により廃校)。千代水地区の都市化が進み、卸センター、住宅、商店などで様変わりした町になり、昭和56年(1981)、千代水公民館(後に体育館)が設置され、地区の活動拠点になっている。碑には沿革として、次のように記されている。
・明治6年(1873) 安長学校創立安長554番地 (安長部落、東圓寺)
・明治17年(1884) 現位置に改築移転(秋里八本松)
・明治20年(1887) 秋里尋常小学校と改称
・明治29年(1896) 千代水尋常小学校と改称
・明治34年(1901) 移転75周年記念式典挙行
・昭和35年(1960) 合併により、廃校、生徒数276名
(参考「ふるさと城北の宝」・(旧)中ノ郷小学校碑文・(旧)千代水小学校碑文)
浜坂水神と砂丘水神
所在地 鳥取市浜坂
浜坂スリバチ(跡地)横と、双子スリバチ(跡地)の砂丘研究所入口の湧水近くには、それぞれ浜坂水神と砂丘水神が祀られている。浜坂は砂丘からの湧水が豊富で、一年中冷たく水晶のように透明な水が水路を流れ、昭和30年代まで、村の飲み水や野菜を洗うなどの生活水に使われた。
砂丘の湧水路は、上方の砂丘に降って浸み込んだ雨水が、長い時間をかけて砂丘の地中を下り、浜坂スリバチの底から湧き出してきたもので、砂という自然のろ過装置で磨かれ、また、太陽や外気温の影響を受けないので、夏は冷たく、冬は暖かい自然の恵みとなっている。
砂丘の砂の下には、粘土や火山灰層があり、さらに下には久松山系などから延びた固い岩の基盤岩類がある。これらの層は水を透さず、砂丘に降った雨などはこの不透水層に沿って下り、最終的に低い場所から湧き出してくる。砂の中を滞留する時間は1ヶ月半ほどとされている。鳥取大学乾燥地研究センター手前のオアシスも同様である。尚、双子スリバチには二か所の湧水池があったとされるが、建物や道路建設によって海側の湧水池は消滅している。
重箱緑地公園
所在地 鳥取市浜坂
八千代橋の東詰から南東40mにある「秋里・江津土地改良区揚水機場」という建物の位置が新旧千代川の分岐点である。旧千代川はここから東側へ大きく蛇行し、松並町を経て重箱に流れ、浜坂弁天社の下で旧袋川、摩尼川と合流、江津の北側を流れ、日本海に注いでいた。
そのため、洪水になると堤防の弱いところが崩れて氾濫したため、改修で海に向かって直進する水路を開いた。重箱地は旧千代川が流れていた跡地である。この跡地を利用して、平成13年より狐川周辺の低水地区の洪水防止事業「浜坂遊水池事業」が行われ、平成22年に完成した。大雨で狐川水位が急上昇し袋川に排水しきれない場合、この重箱地を遊水地(水かめ)として水を流すことで川上の住民を守るのである。 そして、その遊水池の日常使いのためにつくられた公園が重箱緑地公園である。かつての旧千代川の底にあったこの地は、水と緑に囲まれた自然と歴史豊かな公園として甦り、丸山城跡前の多目的グラウンドや遊具コーナー、川沿いの遊歩道、浜坂弁天神社前の芝生広場などで構成され、幼児連れの若い家族、ジョッキングやウオーキング、グランドゴルフなど、老若男女が集う憩いの場となっている。
重箱の語源は「江戸時代の河川改修でつくられた石積みが重箱に見えた」ので、この辺の沼を重箱と呼んだという。他方、「秀吉の鳥取攻めで築いた当地の陣地を丸山方面から眺めると四角い重箱の形に見えた」という説もある。(参考「浜坂の歴史・文化を聴く会」・「ふるさと城北の宝」・「重箱緑地―日本1000公園」)
多鯰ヶ池
所在地 鳥取市浜坂・福部村
鳥取砂丘の背後に位置し、森に囲まれて透明度の高い水をたたえ、鳥取砂丘の起伏の大きな景色と好対照をなしている。池の周囲は3.4km、面積24.8ha、最深部の水深は15.1mで、中国地方最深の池である。池の周辺には開地谷遺跡などの多くの遺跡があり、古くから砂丘の休止期に先人が生活していたことが分かっている。「妙地ヶ鼻(明神ヶ鼻)」と呼ばれ、浜坂村の前身があったと推定される地もある。
江戸時代の邑美郡浜坂村と岩美郡湯山村(現福部村)にまたがり、但馬往来が池の北側を通った。新生代第四紀更新世にあたる約10万年前頃に、背後の丘陵前面の浸食谷を古砂丘がふさいだ山陰最古の堰止湖で、湖底最深部も海面より約2m高い。「因幡民談記」には当地の名物として鮒・鯰・鴨が記されている。流入河川も流出河川もない閉鎖水域であり、さらに鳥取県下では珍しい貧栄養湖のため、特殊な動物相を有し、貴重な生態系をみせていたが、1980年代には他の湖沼と同様にオオクチバスが侵入し、貴重な生態系は破壊されてしまった。
安政6年(1859)藩の国産方長役の中野良助が湯山池との高低差を利用して、多鯰ヶ池の水で湯山池へ砂を流し込み、湯山池を干拓し、文久2年(1862)に新田20余町が開発された(「鳥取藩史」)。
池には小島・磯御前島・沖御前島の3島があり、『おたねの伝説』の柿の木があったといわれるのが小島である。 近くのお種弁天宮にはそのお種さんがまつられ、巳年には多くの参拝客が訪れる。(参考「鳥取県の地名」・「多鯰ヶ池 お種弁天」・「多鯰ケ池」)
浜坂八景
平成13年3月、第3回「浜坂八景」の一般公募が行われた。これは、広く住民に呼びかけ特色ある風景や心に残る風景を募り選定委員によって8ヶ所を「浜坂八景」とするものである。以下が選定結果であり、後世に残したい美しい歴史景観である。
・旧街道から望む多鯰ヶ池と砂丘の遠景
・砂丘ゴルフ場から望む砂丘全景
・有島武郎の歌碑あたりの風景
・砂丘旧砲台お台場近くから望む砂丘の広がりと日本海風景(夕刻後はいさり火)
・有島武郎、与謝野晶子歌碑付近から町並みを望む風景(夕刻後は夜景)
・荒神山前の河川敷から望む千代川河口の風景
・十六本松海岸から望む日本海と砂丘全景
・弁天社の森をはさんで流れる川面を含む風景 (「公民館浜坂」)
(注)写真については、「写真館」及び「歴史を歩く」の「番外編」に掲載しています。
鳥取砂丘の歌碑群
有島武郎
有島武郎(明治11年~大正12年)
「浜坂の 遠き砂丘のなかにして さびしきわれを 見出けるかも」
鳥取で文学運動が盛んなとき、水脈社という文学グループが文芸誌「水脈」を発行していた。その水脈社の招きで、有島武郎は大正12年4月30日に講師として来鳥し、同行の秋田雨雀、婦人公論記者の波多野秋子らと共に鳥取砂丘を来遊して、この歌を詠んだ。砂丘という用語は明治以降に地学や考古学などの一部の分野で使用されたのみであり、昭和初期の国語辞典に砂丘という言葉はまだ記載されてない。「砂丘」が普及したのは、有島武郎がこの歌を残して、一ヶ月後に情死したことがきっかけと言われる。この歌が、当時の彼の心情を表したものとされたのである。
同年6月9日、有島武郎は軽井沢の浄月庵で波多野秋子と情死した。昭和34年4月19日、砂丘砲台一里松の場所を選び、鳥取文化財協会、鳥取市観光協会により建碑、除幕式が行われた。碑の文字は、有島武郎の妹で、鎌倉に住む山本愛子によって書かれている。
有島武郎と与謝野晶子「佗涙の地」
与謝野晶子(明治11年~昭和17年)
「浜坂の 遠き砂丘のなかにして さびしきわれを 見出でつるかな」 (有島武郎)
「沙丘踏み さびしき夢に与かれる われと覚えて 涙ながるる」 (与謝野晶子)
有島武郎の死の7年後の昭和5年、与謝野晶子は夫鉄幹とともに鳥取を訪れ、一人でこの地を歩き、恋愛感情のあった有島武郎を偲んで涙したとされる。
2つの歌がセットで収められたこの碑は、鳥取大学名誉教授の故遠山正瑛氏が中心となって1991年に建てたものである。浜坂から子どもの国方面へ向かう車道左横に立つ。この地から鳥取市市街を見下ろす風景は、浜坂八景の一つに選ばれている。
枝野登代秋
枝野登代秋(明治37年~昭和43年)
「砂丘をいくつか越えしが波音の まぢかにきこえて 海まだ見えず」
島根県松江市に生まれ、昭和2年に鳥取へ移住した。昭和6年、短歌誌「情脈」を創刊・主宰し、鳥取市の短歌人口の底辺拡大に努めた。歌碑は、昭和33年6月の建立で、子どもの国の砂丘側の車場奥にある。
高浜虚子
高浜虚子(明治7年~昭和34年)
「秋風や 浜坂砂丘 少しゆく」・「砂丘越えていづ地行きけん秋の人」
昭和7年10月に鳥取砂丘で催された大吟行句会で『ホトトギス』を主宰する高浜虚子が詠んだ作品である。同行した俳人たちの作品も傑作揃いで、鳥取砂丘は一躍俳壇の注目を浴びることとなったという。旧砂丘パレス前広場に立つ。尚、砂丘子供の国前の「浜坂砂丘自然ふれあいセンター ももんじょ」横に、虚子の詩で、矢谷寿雄(明治37年~昭和48年鳥取市)作曲の音楽碑が建っている。
森川暁水
森川暁水(明治34年~昭和51年)
「月荒き 砂丘は古邑 うづむとや」
高浜虚子に師事して『ホトトギス』の同人として活躍した、大阪を代表する俳人。昭和12年9月松江、三朝などの山陰旅行中に鳥取砂丘に立ち寄った際に詠んだ句で、昭和44年10月、国民宿舎砂丘荘(現在閉鎖)の正面玄関斜め前(砂丘ゴルフ場への上がり口)に建立された。
中曽根康弘
「荒海へ 砂吹かれゆく 北斗かな」
石碑の裏面には、「昭和61年に来鳥された中曽根康弘(元内閣総理大臣)が鳥取砂丘に感銘して詠み、後世の記念として、また、鳥取砂丘の一層の全国アピールのために建立する(要約) 新日本海新聞社」 とある。高浜虚子の石碑と背中合わせに立っている。
稲畑汀子・田中大治郎
砂丘会館前に、40聯隊記念碑に並んで2つの歌碑がある。詳細は省略します。
「風紋を 見し目に 仰ぐ 鰯雲」 (稲畑汀子)
「われの ふるさと 季々のいろ たしかなる 海を 浮かべて」 (田中大治郎)
浜坂周辺の戦没者慰霊碑
鳥取県護国神社
所在地 鳥取砂丘
鳥取縣護國神社は戊辰の役以降、大東亜戦争に至るまで国難に殉じた鳥取県出身、及び縁故のある英霊23,468柱がお祀りされている。敷地内には彰忠碑、比島戦没者慰霊碑、陸軍少年飛行兵戦歿者慰霊碑、海軍忠魂記念碑、古南決死隊顕彰碑なども建立されている。
明治元年(1868)11月、鳥取藩主池田慶徳は、古海操練場(現在の千代橋東詰附近の千代河原)に祠を仮設し、慶応4年(1868)の戊辰の役で戦死した鳥取藩士を慰霊するための追悼儀礼(招魂祭)を行った。これが現在の鳥取県護国神社へとつながっていく。
その後、浜坂代々山(現浜坂小学校敷地)、鳥取市西町を経て、昭和49年(1974)に浜坂に移転し、現在に至る。戦後の昭和21年(1946)、因伯神社と改称してマッカーサーの護国神社取り潰しの難を逃れている。(参考「鳥取縣護國神社」・「ふるさと城北の宝」)
ビルマ方面戦没者慰霊塔
所在地 鳥取市円護寺
太平洋戦争のビルマ(現ミャンマー)戦線で犠牲になった鳥取県・兵庫県出身将兵2,900有余柱の英霊が祀られている。鳥取県ビルマ協会と兵庫県明妙会で管理がなされている。
原爆慰霊碑
所在地 鳥取市丸山
昭和20年(1945)8月、広島・長崎に原爆が投下された。この碑は、広島・長崎の惨禍を目撃、体験した人たちが、原爆のもたらした数々の残虐性に思いをいたし、核のない平和な社会を願って昭和42年(1967)8月に建立したものである。
忠魂碑
所在地 商栄町
千代千代水小学校の跡地(商栄町の君司酒造株式会社敷地の東側)に千代水村で日清・日露戦争に出征し戦死された者の霊を祀るため、大正11年(1922)4月に建立(満州事変・太平洋戦争の戦没者を合祀)されたものである。例年9月、安長部落の東圓寺に於いて、遺族・関係者が参列し、慰霊祭が行われている。(参考「ふるさと城北の宝」)
40連隊記念碑
所在地 砂丘会館前
鳥取砂丘には連隊兵舎と演習所があり、ここで訓練を受けた将兵たちは、健脚部隊として全国に名を知られ、当時のビルマやサイパンなどの激戦地に送られた。多くの命が失われている中、戦争から生還した人々は、かつての訓練地の一角に、石碑を建てている。
「 われら この地に 祖国を守るため 身心を 鍛錬したり 」 と刻まれている。