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鳥取大火とひばりケ丘

 鳥取大火による廃墟(昭和27年)  

 罹災者住宅の建設(昭和28年)

鳥取市街と地域の変貌

 震災・大火から復興した鳥取の街

 旧中ノ郷小学校・千代水小学校、幕を閉じて城北小学校へ

 「鳥取の恥部」から砂丘ブーム到来(昭和40年頃)

 天皇皇后、皇太子ご夫妻の鳥取ご訪問(昭和40~41年)

 鳥大砂丘研究所の本館建設(昭和37年)、砂丘ゴルフ場オープン(39年)

 新9号線の開通(昭和40年)

 浜坂団地の開発始まる(昭和39年)

浜坂地区の拡大と世帯数の変化

 昭和28年頃の浜坂は荒涼地

 現在も拡大を続ける浜坂・江津地区

歴代の伴九郎兵衛と新田村ものがたり

 「陸の孤島」十六本松は密貿易と隠れキリシタンの拠点

 近世最大の天明の飢饉(1783年)

 伴九郎兵衛が開いた浜坂新田村

 鳥取藩の隠れキリシタン

 十六本松河口と港湾整備―失われた水田や松林

 十六本松の思い出―キャンプや運動会

 残るは歴史を伝える看板のみ

鳥取大火とひばりヶ丘

 さて、土手道を正面に荒神山、右手にひばりヶ丘の地点まで歩いてきました。 ひばりヶ丘は、浜坂地区拡大の第一歩となる記念碑的な住宅群です。その誕生の背景の説明からこのページを始めましょう。

鳥取大火による廃墟(昭和27年)

背景の山は久松山(鳥取市)
背景の山は久松山(鳥取市)
形あるものは鉄筋ビルの残骸のみ(鳥取市)
形あるものは鉄筋ビルの残骸のみ(鳥取市)

 昭和27年の鳥取大火災では、市内が焼け野原となり、残ったものは、五臓圓薬局と県立図書館の鉄筋ビルの残骸のみだったといわれます。罹災者2万451人。死者3人。罹災家屋5,228戸。罹災面積160ヘクタール。被害総額は当時金額で193億円と記録されています。

 昭和18年の鳥取大震災から、わずか10年も経たないうちに二度までも鳥取市は廃墟になったのです。浜坂地区への被害は「丸山方面へも飛火し、福部村の多鯰ヶ池方面、浜坂・覚寺方面へも飛火した。落葉・枯木・生松林の一部を焼いたが、家屋は大事に至らず鎮火した」(「鳥取大火資料(県立図書館編)」とあります。
 「浜坂村の上空にも大きく真っ赤な火の玉が飛んで来た」・「炎が久松山方向へ襲いかかっていくのを荒神山の上で眺めた」(浜坂聞き取り)と、火の粉の流れが尋常なものではなかったことが窺えます。江津や浜坂新田などへの被害は報告されていません。尚、鳥取大火を契機に天災地変から免れ、平和を求める市民のよりどころとして雁金山の山頂に高さ16.5mの平和塔が建てられました。昭和34年のことです。

(参考)鳥取大震災

 昭和18年9月10日、鳥取に大地震が発生しました。死者1,210人、全壊13,295戸、半壊14,110戸という壊滅的なものでした。この9月10日は鳥取県民の「防災の日」に指定されています。他方、日本の「防災の日」は、大正12年の9月1日の関東大震災に因んで9月1日が指定されています。

鳥取大火の9年前に鳥取大震災(鳥取市)
鳥取大火の9年前に鳥取大震災(鳥取市)

鳥取大火の罹災者住宅建設(昭和28年)

長屋式の罹災者住宅(鳥取市浜坂)
長屋式の罹災者住宅(鳥取市浜坂)

 鳥取県は、この鳥取大火災を受けて翌年の昭和28年、このひばりケ丘や、小松ヶ丘、丸山の下のあさひケ丘に罹災者住宅を164戸建てました。そのうち、西・東ひばりケ丘が120戸で最大の規模となっています。

 私も、小学校5年生までここに住んでいました。写真は近所の空き地で盆踊りの練習をしている様子で、我が家のアルバムから持ってきたものです。当時を振り返ると胸が締め付けられるようです。この頃から戦後の貧しい日本及び貧しい地域は昭和30年から40年にかけて大きな変貌をとげていきます。

鳥取市内と地域の変貌

震災・火災から復興した鳥取の街(昭和38年頃)

 鳥取の街も、大震災、大火災から大きく復興します。写真は鳥取駅前や鳥取大丸の活気あるにぎやかな様子を伝えています。

復興した街(鳥取大丸前)
復興した街(鳥取大丸前)
復興した街(活気ある鳥取駅前)
復興した街(活気ある鳥取駅前)

旧中ノ郷小学校・千代水小学校、幕を閉じて城北小学校へ

 旧中ノ郷小学校の最後の入学生が私です。昭和37年の1年生の1学期だけここに通い、第2学期からは、千代水小学校と併せて新設された鉄筋コンクリートの城北小学校に移りました。旧中ノ郷小学校のような古い学校の教室の様子は、鳥取市の「わらべ館」に懐かしく見ることができます。

左が旧中ノ郷小学校、右は千代水小学校
左が旧中ノ郷小学校、右は千代水小学校

れんげ畑で遊んだ旧中ノ郷小学校時代

覚寺のれんげ畑(鳥取市覚寺)
覚寺のれんげ畑(鳥取市覚寺)

「鳥取の恥部」から砂丘ブーム到来(昭和40年頃)

 戦後のある鳥取市長は、(日本全体が食糧生産拡大に必死になっていることを背景に)「草木も生えないようなところは鳥取の恥部だ」と発言されたとのことです。
 しかし、鳥取砂丘は昭和30年に天然記念物、38年に国立公園指定を受けて急激に観光客が増え始め、40年には観光客100万人を突破します。砂丘ブームの到来です。旧国民宿舎「砂丘荘」も37年にオープンし、観光地としての絶頂期を迎えていきます。

鳥取砂丘ブーム始まる
鳥取砂丘ブーム始まる
観光地として絶頂期を迎える(鳥取砂丘)
観光地として絶頂期を迎える(鳥取砂丘)

天皇皇后(昭和40年)、 皇太子ご夫妻(翌年)の鳥取ご訪問

 そして、昭和40年の天皇皇后、翌年の皇太子ご夫妻の鳥取ご訪問を決定的な契機として地域は大きく変貌していきます(40年:大山植樹祭、41年:国立公園大会)。
 「ご訪問までに何とかしろ」を合言葉に、あちらこちらで「突貫工事」の槌音が響き始めます。

天皇皇后・皇太子ご夫妻のご来鳥
天皇皇后・皇太子ご夫妻のご来鳥

新9号線の開通(昭和40年)

 砂丘大橋と砂丘トンネルができ、新しい9号線が開通しました。それまでの9号線は砂利道で、トラックが土煙をあげて走っていたことを覚えています。
 また、多鯰ケ池の東岸を回っていた旧9号線は、狭くて曲がりくねり、バスは崖に落ちそうになりながら走っていました。一番大きなカーブの難所では曲がり切れず、バスを降りた女性の車掌さんの笛とオーライの声で何度も何度もバックと前進を繰り返していました。

多鯰ヶ池東岸を走った旧国道9合線(鳥取市)
多鯰ヶ池東岸を走った旧国道9合線(鳥取市)
砂丘大橋やトンネルを通る新9号線(鳥取市浜坂)
砂丘大橋やトンネルを通る新9号線(鳥取市浜坂)

鳥大砂丘研究所の本館建設(昭和37)、砂丘ゴルフ場オープン(39年)

 鳥取大学砂農学部丘研究所(現 乾燥地研究センター)の初期は、写真右下にある旧軍隊の建物を管理棟として使っていました。天皇皇后がご訪問されたのは新築後の研究所であり、新しく造られたそこに至る道路です。同時期にオープンした多鯰ヶ池上方の鳥取ゴルフ場のクラブハウスは、天皇皇后の昼食と砂丘展望の場となりました。

鳥取大学砂丘研究所の本館建設。右下が従来の管理棟
鳥取大学砂丘研究所の本館建設。右下が従来の管理棟

浜坂団地の開発始まる(昭和39年頃)

 そして、昭和39年から40年にかけて、いよいよ浜坂団地の造成が始まります。浜坂地区の劇的な変化はここから始まっていきます。

都築山遺跡を削っての団地開発(鳥取市浜坂)
都築山遺跡を削って団地開発(鳥取市浜坂)

浜坂地区の拡大と世帯数の変化

世帯数の推移(鳥取市浜坂)
世帯数の推移(鳥取市浜坂)

 昭和28年までの浜坂地区の世帯数は、旧浜坂村、旧江津村、旧新田村の3村を合わせても150世帯ほどで、江戸時代から殆ど変化していません。江戸時代137戸、明治時代は161戸。そして現在も156戸にとどまっています。

旧村は5%のみ、95%は外部流入

 一方で、地区全体では、罹災者住宅で300戸に倍増し、昭和39年に始まった浜坂団地の開発造成は爆発的な拡大を生み、わずか50年で現在の3千3百戸に至っています。この中で、旧浜坂、旧江津、旧新田村3の村は、全体のわずか5%に過ぎず、95%は外部からの流入なのです。こうしてみると、現在の浜坂地区とは一体、何なのだろうと思えてきます。この拡大を受け、浜坂小学校は鳥取県下最大の生徒数を抱えるマンモス校に成長しました。

昭和28年頃の浜坂は荒涼地

人工物は砂防垣のみ

人工物は砂防垣のみの砂地(昭和28年頃の鳥取市浜坂)
人工物は砂防垣のみの砂地(昭和28年頃の鳥取市浜坂)

 浜坂地区の拡大を写真で見てみましょう。 

 写真は、昭和28年(1953)頃の浜坂団地の航空写真です。中央に見える黒いスジは砂防垣です。右下の黒い茂みが都築山です。一帯、家らしきものは全く見当たらない茫漠とした砂丘地が広がっています。人工物は砂防垣のみです。

昭和32年頃のひばりヶ丘以降

 昭和32年(1957)頃になると、左下に罹災者住宅のひばりヶ丘ができていることが分かります。昭和34年、高松の宮が砂丘視察で来鳥されたとき、浜坂スリバチ上部から子供の国の前を通って多鯰ヶ池に抜ける道が拓かれました。
 その後、昭和39年(1964)に浜坂団地の造成が開始され、地域は大きく変貌していきます。48年(1973)に浜坂小学校、50年に中央病院、60年(1985)に中ノ郷中学校、62年に浜坂江津橋ができています。

左隅にひばりヶ丘の罹災者住宅群(昭和32年頃の鳥取市浜坂)
左隅にひばりヶ丘の罹災者住宅群(昭和32年頃の鳥取市浜坂)

現在も拡大を続ける浜坂・江津地区

 ひばりヶ丘誕生から50年後の航空写真です。見事に浜坂周辺は家で埋まりました。現在も、田畑を土砂で埋め、山裾や川沿いにまでアメーバのように触手を広げています。これからの開発は、江津に重心を移していくのでしょうか。

 「昔は朝5時から農作業を行なったものです。しかし、今は周囲に建て込んだ住宅から騒音の苦情がくるので、日が昇って暑くなった8時以降とせざるを得ません。(江津聞き取り)」 

住宅が密集する最近の浜坂(鳥取市浜坂)
住宅が密集する最近の浜坂(鳥取市浜坂)

十六本松橋、新浜坂橋へ

十六本松橋(鳥取市浜坂)
十六本松橋(鳥取市浜坂)

 さあ、十六本松橋までやってきました。

 目の前は荒神山、その先が浜坂新田です。藩政時代、荒神山の北側(新田村)に池田藩主の船遊びの茶屋があったようです(「池田藩主と因伯のキリシタン」)。
 恐らく、千代川河口や賀露港などの眺めを楽しんだ後に休憩をしたのでしょう。また、「荒神山南面には、千代川河口の見張り小屋があった」と新田村の方々から聞いています。

荒神山頂上の水槽(昭和30年頃稼働)

荒神山と頂上の水槽(鳥取市浜坂)
荒神山と頂上の水槽(通称 石山 鳥取市浜坂)

 最近まで、荒神山の頂上には大きなコンクリートの水槽タンクが載っていました。

 ディーゼルエンジンポンプで袋川の水を山頂に汲み上げ、高低差による水圧を利用して一帯の畑に水を供給したのです。「海岸砂地振興臨時措置法」が成立した昭和28年のことです。この法律は、戦後日本の食糧増産のため、海岸や砂地であっても農業の努力を行えというものです。これによって、それまで「不毛の地」であった十六本松や浜坂の砂地でも野菜が作れるようになりました。

 しかし、ポンプの頻繁な故障や、袋川に逆流した海水まで汲み上げることによる塩害で、野菜が全滅したことなどもあり、新田村では自前の井戸を掘って荒神山の水槽の水を使わなくなりました。十六本松地区はどこを掘っても豊富な真水がでたそうです。

 一方で、浜坂は地面が高いことで井戸を掘っても水は出ず、荒神山の水に最後まで頼ったということです。昭和50年頃、荒神山山頂のコンクリートタンクはその役目を終えました。ただ、壊すと下の住宅地に危険が及ぶという理由で、最近まで放置されていましたが、北側斜面の宅地造成を機に撤去されたようです。

砂丘の砂地農業ー嫁殺し

嫁殺しといわれた砂地農業の水やり(湖山砂丘)
嫁殺しといわれた砂地農業の水やり(湖山砂丘)

 当時の砂地農業は本当に大変でした。風が吹くと、一夜で畑は砂で埋まってしまいました。当時の畑への水撒きは、砂丘地帯農家の「嫁殺し」とまで言われた厳しい作業でした。

作文「砂防の苦労」

 「砂防の苦労」という小学生の作文が昭和61年発行の国語教科書に載りました。一部抜粋すると、「鳥取の浜坂に砂丘の砂が押し寄せてきたそうです。小学校の一年生のときまで、れんげが美しく咲いていた田んぼも、三、四年生頃には砂地になってしまったそうです。それで、夏には熱くなった砂の上を、わらじをはいて学校に通いました。吹き寄せる砂のために、つぶれた家もありました。また、田畑には作物が作れなくなりました。今まで田んぼだった所には稲の代わりにブドウを作りました。でも、夏は水に困り、遠くから桶に水を汲んで、熱い砂の上を何回も何回も通って、畑に水をやらなければならなかったそうです。そのうち、ぶどう畑にも、年々砂が積もっていきました。」

歴代の伴九郎兵衛と新田村ものがたり

 さて、荒神山の向こうは浜坂新田村です。
「新田」という名前は全国各地にあり、江戸時代以降に開かれた田畑という意味に由来しています。

伴九郎兵衛と伴の山(鳥取市浜坂)
伴九郎兵衛と伴の山(鳥取市浜坂)

 浜坂新田村は、歴代の伴九郎兵衛という鳥取藩士が開いたものです。

 初代の伴九郎兵衛は、寛永9年(1632)、池田光仲(鳥取藩池田家宗家第3代)と共に岡山から鳥取に来ました。御金蔵を預かり、藩の財政を管理したと伝えられます。十六本松の地名の由来となった松林も、砂地のはげ山に初代の伴九郎兵衛が松を植林したことから始まっています。伴山は、伴九郎兵衛以降の呼び名で、元々は、はなれ山という名前です。

 伴九郎兵衛は、植林と同時に、西ひばりヶ丘(伴の山の南麓)に別荘と称して千坪の広大な屋敷を造成しました。しかし、十六本松地区は、砂害、川の氾濫、海の塩害と全く農地に適さず、ほとんど見捨てられていた土地でした。そんな十六本松に彼はなぜ眼をつけたのでしょうか。

「陸の孤島」十六本松は密貿易と隠れ切支丹の拠点

 それは、誰も見向きもしない土地だったからこそ、都合の良いことがあったのですね。

十六本松は密貿易と隠れキリシタンの拠点(鳥取市浜坂)
十六本松は密貿易と隠れキリシタンの拠点(鳥取市浜坂)

伴九郎兵衛の密貿易

 それは密貿易です。九郎兵衛は、荒神山麓の深く広い淵に千石船の着船場をつくり、志那(中国)や南方との密貿易で鳥取藩の財政を助けたと云います。岩塩輸入が表向きですが、岩塩ともに御禁制の品々を密かに持ち帰り、小船で袋川を上り内密に城下へ運び込んで、京都、堺などで売ったといいます。岩塩を収めた浜坂新田の塩蔵は明治末まで残り、大正時代も屋敷跡から岩塩を掘り出すことができたということです。(「池田城主と因伯のキリシタン」)

伴天連人脈を得るためキリシタン入信

禁教のキリシタン入信
禁教のキリシタン入信

また、九郎兵衛は、この密貿易を有利に進めるために、スペインやポルトガル人の伴天連人脈を求めてキリシタンに入信しています。当時、キリシタンは禁教で、厳しい弾圧が全国で行われていました。また、後に、徳川幕府はキリスト教などの「有害」な思想の流入を防ぐために鎖国政策をとり、外国との貿易も原則禁じました。
 誰も見向きもしない陸の孤島であった当時の十六本松こそ、密貿易や隠れキリシタンの拠点として最適だったのでしょう。そこは、隠れ切支丹の人々が密かに集団礼拝を行う絶好の隠れ家となり、聖なる基地となったのです。密貿易と隠れキリシタンの拠点。そう考えるとこの地の歴史は深沈と重厚で謎めいてきます。


(参考)
 1614年 徳川家康のキリスト教全国禁教令
 1619年 大弾圧開始
 1624年 スペイン船来航禁止
 1629年 踏み絵開始
 1635年 日本人の海外渡航及び帰国の禁止と朱印船貿易終了
 1637年 第一次鎖国令
 1637年 島原の乱
 1639年 ポルトガル船の来航禁止
 1641年 鎖国完成
 九郎兵衛(鳥取に1632年)が活動したのは、まさに、このキリスト教及び海外貿易の大受難の時代です。

近世最大の天明の飢饉(1783年頃)

 初代九郎兵衛から150年、全国で天明の大飢饉が起こります。江戸4大飢饉(寛永/享保/天明/天保)の一つで、日本近世最大で全国で数万人が餓死しました。
 このとき、九郎兵衛は5代目か6代目になっていたでしょう。

天明の飢饉
天明の飢饉

  
 江戸時代には何度も大きな飢饉を経験し、丸山には天保の飢饉の供養塔が立っています。

鳥取市丸山の供養塔(天保の飢饉)
鳥取市丸山の供養塔(天保の飢饉)

 
 天明の大飢饉は、悪天候や冷害による東北の大凶作に加え、田沼時代の失政による米価上昇で全国へ波及します。農民は食うものがなく、疫病も流行しました。

浜坂新田村の誕生(鳥取市浜坂)
浜坂新田村の誕生(鳥取市浜坂)

浜坂新田村の誕生

 九郎兵衛はこれら飢饉難民の2、3千人を西ひばりケ丘の別邸に収容し、食べ物と医療を与え、難民の中から労働に耐え得るものを選んで砂丘地帯の開墾を行い、ついに難民を定着させて「浜坂新田村」を創立しました。
従って、歴代の伴九郎兵衛は新田村の開祖であり、現在の新田村の人々は、当時の新田村を開いた人々の子孫なのでしょう。伴山の頂上に写真のような台座(花崗岩の厚さ15cm、六角を形作った直径1.5mの切石の台座)が残っていて、その上には聖母マリア像、またはイエス像が載っていたということです。

伴山のマリア像台座

伴ノ山頂上にあったマリア像の台座(鳥取市浜坂)
伴ノ山頂上にあったマリア像の台座(鳥取市浜坂)

鳥取藩の隠れ切支丹

鳥取の隠れ切支丹
鳥取の隠れ切支丹

また、鳥取藩の池田家そのものが、隠れキリシタンだったともいわれています。3代目の池田光仲などは、非常に熱心な信者だったようです。池田家菩提寺の興善寺には切支丹灯篭がおかれ、今でも参観することができます。これは、池田家の菩提寺自体が、キリスト教礼拝の隠れ場所だったことを意味しています。

 また、鹿野城の城主亀井茲矩は、九郎兵衛より20年早く(1609)御朱印を受け、南蛮貿易を始めています。国の発展には、進んだ南蛮文明を受け入れることが必須だと信じ、九郎兵衛と同様に、南蛮の伴天連と手を結ぶために入信し、青谷港を南蛮貿易の基地に、海と三方の山に囲まれた酒ノ津を隠れ切支丹の聖地としました。切支丹灯篭と子安地蔵(マリア像)の両方が残るのは県下で酒ノ津(東昌寺)のみです。
 鳥取藩とキリシタンの関係については、「歴史を歩く 番外編」の「鳥取藩とキリシタンー鳥取の精神世界」、または、「歴史研究」・「近世ーⅠ」の「伴九郎兵衛と浜坂新田」に詳しく述べていますので、ご参照下さい。

十六本松河口港湾整備-失われた水田や松林

 話は変わり、昭和5年の新千代川と新袋川の開通で洪水は大きく減りましたが、その後も室戸台風などでは再び大洪水に襲われました。原因は、十六本松の河口の砂による閉塞でした。河口が砂で閉塞するということは、同時に賀露港が使えなくなるということです。そこで、昭和50年から58年にかけて河口を東800mの位置に付け替え、写真のように河口と賀露の港を分離し、河口を真っすぐにして砂が溜まらない構造にしました。これで賀露港も砂の影響を受けないようになったわけです。

十六本松河口の新旧変化(鳥取市浜坂)
十六本松河口の新旧変化(鳥取市浜坂)

 しかし、一方で、この工事で昔キャンプや運動会で賑わった松林も、その先の水田は完全に消滅してしまいました。伴九郎兵衛の植林や開墾に由来する十六本松という地名、新田村の「新田」という地名由来も同時に消滅してしまったのです。

十六本松の思い出-キャンプや運動会など

十六本松での運動会、キャンプあど(鳥取市浜坂)
十六本松での運動会、キャンプなど(鳥取市浜坂)
十六本松での遠足、ゴルフなど(鳥取市浜坂)
十六本松での遠足、ゴルフなど(鳥取市浜坂)

 十六本松の松林や砂浜では小学校の運動会や遠足がありました。

 戦前の小学校ではグランドを持つ小学校が少なく、運動会といえば砂丘だったのですね。また、鳥取でキャンプと言えば、十六本松キャンプ場でした。キャンプ場には中谷商店というお店もありました。海水浴の帰りには必ずここによって、かき氷を食べたものです。河口工事の最中の昭和56年、このお店も十六本松を去っていきました。

 また、松林の先にゴルフ場があったことを覚えていらっしゃる方もあるでしょう。フェアウェイもグリーンも全て砂でした。昭和40年、多鯰ケ池の上に開設したゴルフ場によって十六本松の砂のゴルフ場は姿を消しました。

残るは歴史を伝える看板のみ

 現在は浜坂八丁目として開発され、十六本松の由来や伴九郎兵衛の偉業を伝える看板のみが残っています。

浜坂八丁目(鳥取市浜坂)
浜坂八丁目(鳥取市浜坂)

さて、新田地蔵に別れを告げ、十六本松橋から江津方面に渡りましょう。

新田地蔵(鳥取市浜坂)
新田地蔵(鳥取市浜坂)