「歴史を歩く」の番外編です。

 記憶に残したい心に残る歴史として、説明しきれなかったものを掲載します。下線行をクリックすると、そこまで直接ジャンプできます。

戦争の記憶
 日本國民に告ぐ—8月5日に米軍が鳥取市上空で撒いたビラ
 敗戦当時の墨ぬられた教科書
 戦地からの手紙(抜粋)
災害の記憶
 鳥取大震災
 鳥取大火
 大水害
 豪雪
自然とくらし 
 千代川の名前由来
 浜出と舟出
 昭和初期の砂丘(「とっとり市報・昭和63年12月)
 村に電燈が灯った日
 浜坂八景
 航空写真で見る浜坂の変容
鳥取藩とキリシタンー鳥取の精神世界
 隠れキリシタン
 鳥取藩とキリシタン、そして伴九郎兵衛たち

戦争の記憶

 悲惨な戦争の記憶は、風化が久しいと云われています。私自身も戦後の生まれで戦争体験はありません。しかし、戦争の悲惨さ、平和のありがたさを肌で感じられる史実があります。そんな記憶を少しでも伝えていきたいと思います。

日本國民に告ぐ—8月5日に米軍が鳥取市上空で撒いたビラ

アメリカ軍が撒いた鳥取市に撒いたビラ
アメリカ軍が鳥取市に撒いたビラ

 終戦後数か月経ってから、米軍が撒いたビラが浜坂砂丘で発見されています。ビラの裏には、爆撃機の写真と、爆撃予定対象の都市名が載っており、その中に鳥取の地名があります。鳥取の爆撃もあったのかも知れません。
以下、ビラの全文を紹介します。

 「日本國民に告ぐ。あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか。助けたければこのビラをよく読んで下さい。数日の内に裏面の都市の内全部若くは若干の都市にある軍事施設を米空軍が爆撃します。この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。

 軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使う兵器を米空軍は全部破壊します。けれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりせん。御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません。ですから裏に書いてある都市から避難して下さい。アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です。アメリカの考えてゐる平和といふのはただ軍部の壓迫からあなた方を開放する事です。さうすればもっとよい新日本が出来上るんです。戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか。

 この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが、少なくともこの裏に書いてある都市の内必ず全部若しくは若干は爆撃します。豫め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい。」

敗戦当時の墨ぬられた教科書

戦後、黒塗りされた教科書
戦後、黒塗りされた教科書

 「敗戦当時の教育界の状況は、墨ぬられた教科書にもっともよく象徴されている。明治37年(1904)に国定にされて以来、礼拝して開かせたものだった。ところが、そのページを引きちぎり、墨でぬりつぶせというのである。鳥取県では、県教学課が教科書取扱方試案をつくり、県下の東中西3地区で講習会を開いている。
 これによって教科書の軍国主義的な部分、超国家主義的な部分が消されることになるが、その部分こそ昨日まで最も大切なところとされていたものである。従来の価値体系の破壊が、まずここに始まった。「御真影」は撤去され礼拝の儀式はなくなり、勅語、学校の図書も処分された。昭和21年(1946)には、県内の図書館、古本屋、書店、学校などから集められた軍国図書3千4百冊を鳥取県が米軍に引き渡している。(「郷土とっとり激動の100年」)

「中ノ郷尋常小学校に通った頃、奉安殿(戦前の日本において、天皇・皇后の写真=御真影と教育勅語を納めていた建物)で最敬礼し、二宮金次郎像にお辞儀をし、手と足(当時はわらじ)を洗って校舎内に入ったものだ。軍隊のようだった。」(浜坂聞取り)

戦地からの手紙(抜粋)サイパン生き残り前田寿雄氏の手記

(本サイトの「戦地からの手紙」より)

 本サイトでは、戦争の記憶を語り継ぐものとして、「歴史研究」の中に「戦地からの手紙」を設けました。是非とも、ご一読下さい。

 以下に、その中の一つを紹介します。

 海軍の一兵士として19年(1944)4月28日に横須賀港を出港、サイパンに上陸した生き残りの一人、前田寿雄氏(八頭郡郡家町)は日本海新聞本社へ次のような手記を寄せている。

サイパン島に残る戦争の記憶
サイパン島に残る戦争の記憶

「海軍の一兵士として19年(1944)4月28日に横須賀港を出港、サイパンに上陸した生き残りの一人、前田寿雄氏(八頭郡郡家町)は日本海新聞本社へ次のような手記を寄せている。
 
 「上陸して六月ごろまでは、まるで天国にもきた思いだった。果物などふんだんにあり、暮らしものんびり・・・。
 ところが、それもつかの間、間もなく敵機、敵艦が出没、我々はただちに戦闘体制にはいった。兵器はわずか、二十五ミリの対空機銃だけ、開戦三日目にして、わが部隊は早くも部隊長を先頭に退却せざるを得なくなった。退却中、部隊長は敵弾に倒れ、指揮者を失った部隊はちりぢりばらばら、しかし、我々は追われながらも、最後の一兵までもと、全力をあげて交戦してきた。この間ずっと密林生活、敵が上陸してからわずか一ヶ月足らずで、わが軍は事実上敗れ去ったのである。
 
 最後の総攻撃は七月七日であった。ジャングルの中に追い込まれた我々は、くる日もくる日も敵の掃討戦にあってもはやなすすべなし、食べるものも、塩も、水もなく、食糧を求めてジャングルの外に出ようとすればたちまちサーチライトで照らし出される。絶対絶命、夜のジャングルをさ迷うよりほかなかった。カエルや、かたつむり、芋の葉っぱなど最高級の食糧であった。
 しかし、人間の体力にはおのずから限界がある。次から次へと自決、自爆者がでてきた。『もう一度、おふくろに会いたいなあ!』彼らが残した言葉はみな同じであった。私も、敵爆弾のあけた大きな穴の中に入って、あわや自決しようとしたそのとき、戦友に励まされ死を思いとどまったのである。そのときは、すでに水もなく、塩分はまる三ヶ月とっていなかった。

 それよりさき、全島の日本軍が総攻撃したさい、我々は島の東端、バナデルに追いつめられていた。民間人を合わせて数百人もいたであろうか。子どもが泣き声を出せば必ず撃ってくる。十メートル以上もあろうと思われる断崖から親子もろとも飛びおりて自決していく悲劇も続出した。私も海に飛び込んだが、ちょうど付近を一斗ダルの空きダルが流れているのを発見、戦友の岩本(県出身)と二人でそのタルにゲートルを巻きつけ、辛うじて沖へ泳ぎつくことができた。

 こうして助かったものが何十人あったであろう。全く奇跡というよりほかない。子どもの泣き叫ぶ声、女の悲鳴、兵の悲憤こう慨する叫び、生地獄とはこのようなことであろうか。食糧のために友軍同志が撃ち合う場面もいくたびかあった。生きるための執念である。

 いま、平和がよみがえっている。サイパンの死闘、玉砕を思うとき、二度と戦争をしてはならない、平和のなかにこそ、人間の生きていく幸せがあるのだと、しみじみと思うのである。」

美しいサイパンの海
美しいサイパンの海


災害の記憶

 鳥取市は、戦前、戦後と2度の大災害を経験しました。 いずれも、鳥取市内が完全に壊滅する規模のものでした。これを実体験として記憶する人は数多くありません。

鳥取大震災の襲来―潰滅した鳥取市

鳥取大地震
鳥取大地震

 「突如として大地も崩るるかと思ふ烈しい地震が襲来した。道を歩いていた者は瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。そこかしこの家から起る悲痛な叫喚の声に続いて、バラバラと身を以って逃れ出る人々。ほんの一瞬の出来事であるが、今までの平穏な世界は一変して此世ながらの生地獄と化し、倒潰した家々の下敷となって瞬時に生命を失ふ者、悲痛な声をふり絞って助けを求める者、親を呼び、子を求めて号泣する声々は巷に充ち充ちた」と鳥取大震災の様相を、当時の記録「震災小誌」は記している。
 
 昭和18年(1943)9月10日午後5時半に起った鳥取大震災は、最も激しかった鳥取市街地と気高郡鹿野町などでは震度6の烈震を記録した。震源地は吉岡温泉あるいは鹿野町付近の地下15キロメートル程度と推定される。既にこの年、ガダルカナルの撤退、山本五十六の戦死など、太平洋戦争での日本軍は落日の様相を深めており、報道は厳重な管制下にあった。そのため鳥取大震災の詳細は一般にはあきらかにされなかったが、昭和8年(1933)の三陸沖地震、大正12年(1923)の関東大震災に次ぐ大規模なもので、文字通り鳥取市は壊滅状態であった。電信電話も不通で、放送局の無電も役に立たず、ただ一つ鳥取~米子間の鉄道電話が通じていたので、県はこれによって米子に情報を送り、米子は岡山に通報して元の内務省に報告できた。内務省にこの報告が届いたのは夜9時頃であったが、それより先にアメリカでは「鳥取地震」として放送されていたという。

 被害は鳥取市を中心に県下東部に大きく、死者1千210人、建物の全壊1万3千295戸、半壊1万4千110戸にも及び、被害額は当時の金額で1億6千万円にも達した。被害の中心地であった鳥取市街では、建物の約9割が全半壊し、夕飯時刻の震災であったため火災が各所で発生し、全焼289戸、半焼10、焼死者40人を出した。
 しかし、天佑とでもいうべきか、当夜ときおり大雨が降ったお陰で、火災被害は比較的少なかったといえる。復興事業は、中央各省・中国地方協議会などの協力を得ながら進められた。「防災の日」に指定されている。  (「百年の年輪」・「鳥取市七十年」・「城下町鳥取誕生400年」)

鳥取大震災の浜坂・江津の被害

 死者1,210人の中には、気高郡は97人、岩美郡83人、八頭郡1人、東伯郡4人も含まれている。千代水6部落では、死者は安長1、南隈2、徳吉1の計4名。家屋の全壊は63(江津は2)に達する。浜坂地区における被害の状況は、鳥取市の被害数に含まれ内訳が不明であるが、「鳥取震災小誌」の視察震度分布図によると、千代水地域あたりが烈震域の一つとなっているので少なからずの影響があったと考えられる。
(「千代水村史」 ・「鳥取震災小誌」)

「地震が来た日、日本海側からバリッバリッと凄い音が聞こえてきた。後から思うと地震の前触れだったのだろう」・「柳茶屋では砂津波で家が埋まった。地震以降、湧水がとまってしまった」・「浜坂すりばちが10mほど砂で埋もれて浅くなった。昔は湧水が音を立てるほどで、寒いときには朦朦と湯気が立ち上るように水霧が上がった。近所で火事があったとき、消防の水をすりばちから取水したほどである」・「浜坂村も2軒倒壊、倒壊しないまでも多くの家に被害があった」・「(鳥大乾燥地研横の)官舎は大きく傾いた」(浜坂聞き取り) 砂丘の地下水脈にまで影響が及んでいたようだ。

鳥取大火災―震災後9年、再び鳥取市潰滅の日

鳥取大火災
鳥取大火災

昭和27年(1952)4月17日、鳥取市に大火災が生じた。大火翌日の県会で採択された政府に対する「災害要望決議」は次のように記している。『四月十七日午後二時五十分、突如鳥取市永楽通りより出火、折柄風速十米の南風にあおられて、火はたちまち町の中に燃え広がり、目抜き商店街・温泉街はじめ、都心部は全く灰燼に帰し、更に周辺の官公衙街、住宅街の大部を消失して、翌朝三時ようやく火勢が衰えるに至った―。』(「百年の年輪」)

 鳥取市消防本部および市消防団は「袋川を越えさせるな」と懸命の消火作業に当たった。市街地の中心部を流れる袋川は、かつては鳥取城の外堀の役目を果たし、袋川の内側には県庁や市役所などの官庁、さらに学校や住宅が密集していたためである。しかし、日中の最高気温が25.3℃に達し、湿度は28%、折からフェーン現象による最大瞬間風速15mという強い南風という条件下、益々勢いを増す火は袋川を飛び越え、旧城下町にあった住宅地や官庁にも燃え広がった。夜になっても火は衰えず、更に勢いを増した。焼失速度は1分間に家屋7戸強という凄まじいものだった。強風にあおられ、市街最北端・湯所にあった天徳寺も炎上。愛宕神社・丸山・覚寺峠の山林も焼き、摩尼寺付近まで飛び火した。出火から12時間が経過した翌4月18日の午前4時、鳥取市を焼き尽くして火はようやく鎮火した。鳥取市街最南端だった出火点から市街最北端の湯所や摩尼寺まで、延焼した距離は6キロメートルに及んだ。


 鳥取市街の3分の2は満目荒涼の焼け野原と化し、わずかに鉄筋の県立図書館と五臓円薬局が2つの”立体”として寒々とたたずんでいた。 罹災者2万451人。死者3人。罹災家屋5,228戸。罹災面積160ヘクタール。被害総額は当時の金額で193億円。戦後国内最大級の大火災だった。当時の鳥市の人口は6万1千人、世帯数は1万3千であり、市民の半分近くが罹災したことになる。鳥取市は戦争中は空襲こそ受けなかったが、昭和18年(1943)の大震災から9年目、またしても迎えた”鳥取滅亡の日”であった。鳥取市はもう一度立ち直れるだろうか―。茫然として焼土に立ちつくす市民は、みなそう思った。だが、人間の生命力はたくましい。日をおくことなく、建設のツチ音が響きはじめた。以後、廃墟から立ち上がった鳥取市街は、今日みるように城下町としての面影を殆ど残さぬ程に、様相を一変したのである。(「鳥取大火」)

鳥取大火の浜坂・江津への被害

 浜坂地区への被害に関しては、「久松山山麓の枯葉・雑木に点火、山の各所に散火山火事を起すに至った。丸山方面へも飛火し、福部村の多鯰ヶ池方面、浜坂・覚寺方面へも飛火した。落葉・枯木・生松林の一部を焼いたが、家屋は大事に至らず鎮火した」(「鳥取大火資料(県立図書館編)」とある。ただし、「(旧)中ノ郷小学校罹災児童数3人、北中学校478人」などともあり、実被害の詳細は不明である。「多鯰ヶ池の山が燃えた」・「浜坂村の上空にも大きく真っ赤な火の玉が飛んで来た」・「提灯行列というものは見たことがないが、こういうものかと村の上空を見て思った」(浜坂聞き取り)、「炎が久松山方向へ襲いかかっていくのを荒神山の上で眺めた」(浜坂新田聞き取り)と、火の粉の流れが尋常なものではなかったことがうかがえる。江津や浜坂新田などへの被害はどこにも報告されていない。

平和塔の建設

 鳥取大火を契機に天災地変から免れ平和を求める市民のよりどころとなっている相輪13段、高さ16.5mの白い塔である。市内70の寺が中心となった建立奉賛会が計画したもので、昭和34年(1959)に建立された。 場所は標高136mの雁金山の山頂であり、羽柴秀吉の鳥取城攻めの古戦場(雁金山城)である。(「ふるさと城北の宝」)

 

昭和30年頃、復興中の鳥取市街地
昭和30年頃、復興中の鳥取市街地

大水害と江津・浜坂

流された湯所橋が丸山に流れ着く
流された湯所橋が丸山に流れ着く

相次ぐ水害と県財政悪化―「水害県」の汚名

 大正期(1912~1926)の15年間は、ほとんど毎年のように台風シーズンの9月を中心に、本県は水害を蒙った。中でも大正元年・7年・12年の水害は大正三大水害ともいうべきもので、被害は甚大で県民生活に大きな不安をもたらし、県財政に多大な影響を与え、鳥取県に「水害県」の汚名が与えられる元となった。(「百年の年輪」)

 大正年間の3度の水害の被害が大きかったのは県東部地区で、特に千代川水系地域が中心となった。浜坂地区はこの水系の最下流に位置することから、治水事業を含めて最も大きな影響を受けた地域の一つである。

 千代川はかつては賀露港からの因幡国府や鳥取城への入口となり、国内外の産物や、智頭、若桜の美林から産出される木材をはじめ、背後地の産物を集める舟運の恵みを鳥取に与えてくれたが、度重なる大洪水という惨禍の元凶ともなった。即ち、一たび豪雨とともに西北の強風が浪を逆立てて賀露の南口を塞げば、千代川の水はみるみる増水し、袋川に逆流して市街地に溢れ、あるいは堤防を決壊して流域の村落や農地を荒廃させて、大きな災害をもたらした。
 1530年代以後、千代川改修なるまで約4世紀の間に35回の大洪水があり、しかも明治の45年間に7回、大正の15年間に3回と、上流山林の荒廃するに従ってその頻度は上がり、被害も増大している。(小規模な洪水も含めると、江戸時代から明治にかけて250年間におよそ100回と、3年に1回の洪水が発生したとも言われている)。
 
 この洪水による災害は古代から繰り返されたとみられ、宝亀10年(779)6月29日因幡国での「暴雨、山崩水溢、岸谷失地、人畜漂流、田宅損害」という水害は(「続日本記」同年8月2日条)、当川のもたらしたものであろう。(「鳥取誕生400年」・「鳥取県の地名」)

大正7年の鳥取大水害

 大正7年(1918)9月の水害は大正年間最大の被害をもたらした。9月12日以来小雨が降り続いていたが、14日未明から豪雨となり、同日正午頃からは風が荒れ狂い、本格的な暴風雨となって15日未明まで続いた。鳥取地区の12日から15日までの総雨量は、雨量計流失のため、正式記録は残されていないが、少なくとも500ミリを超えていたものと想像され、まさに記録的豪雨であった。

 このため、14日正午頃千代川の国安堤防が決壊し、水は鳥取市内へ濁流となって押し寄せ、袋川は各所で堤防決壊し、袋川橋梁は全部流失した。「鳥取市及びその附近部落は、一大湖水に変じ、市内西町の如きは浸水階上五寸に達す」と記録されており、鳥取市の被害は惨憺たるものであった。このときの洪水面が旧市役所玄関左側の柱に記録されている。玄関床から約2m、前の若桜街道の道路面からは約4mくらいとなる。(「百年の年輪」)

新千代川の掘削と江津

 この状況を受けて、ようやく本格的な千代川改修工事が動き出す。

 大正11年(1922)、政府は大正7年の水害以来の地元住民の河川改修要求を受け、翌年度から10カ年継続事業として行うことを決定したが、12年(1923)9月、関東大震災の発生とその復旧事業優先によって中止繰り延べが検討された。しかし、12年(1923)9月、鳥取県は台風に襲われ、千代川・袋川では堤防が決壊し、鳥取市街地で死者11人・流壊家屋57戸の被害を出した。これにより、改修工事促進の運動が再燃して結局計画通り進行することになったのである。

 元々千代川は鳥取市秋里附近で大きく右回蛇行していたが、改修で海へ向かって直進する水路を開いた。袋川は蛇行を重ねながら鳥取市街地を貫流していたが、改修で鳥取大杙附近から山陰線千代川鉄橋附近で千代川へ合流する新袋川を開いた。千代川は当時の内務省の直轄工事で、昭和6年(1931)完成通水、新袋川は昭和9年(1934)通水した。湯所から浜坂地内の千代川合流点までは昭和49年(1973)に完成した。これらによって、市街地の水害は著しく減少している。

 しかし、江津は、旧千代川を失って1500年の港の歴史を閉じ、また、新千代川掘削によって多くの田畑を失うのである。

昭和9年の被害

 しかし、新千代川開通後の昭和9年(1934)9月21日、室戸台風で旧袋川が氾濫する。新水路に全部流れ込むはずだった千代川の水が旧水路や袋川に逆流したため、低地帯が水没した。逆流は河口の漂砂によるものだった。被害記録では、「鳥取市の浸水四千戸、倒壊・流出二十五戸、死亡七名、負傷者二十五戸、死亡七名、負傷者二十余名」の中に、「元中乃郷村(浜坂・覚寺・円護寺)浸水三十戸、円護寺倒壊九戸」(9月23日『鳥取新報』)とある。

昭和39年の洪水で破壊された稲常橋(鳥取市河原町)
昭和39年の洪水で破壊された稲常橋(鳥取市河原町)

千代川河口工事と浜坂新田への影響

 この水害がきっかけで、河口の改修を求める声が高まるが、太平洋戦争の激化で未着工のまま歳月が流れ、着工は戦後の昭和24年(1949)のことで、河口の東突堤などが築かれた。また、昭和49年(1974)から58年(1983)にかけ、千代川河口部閉塞による洪水を防ぐため、河口を約800m東へ付け替え現在に至っている。(「千代水村誌」・「千代川史」・「千代川の主な河川事業」)

 この工事によって、浜坂新田は、十六本松の地名由来の松の美林、新田村の地名由来の新田を失ってしまう。

島崎藤村の鳥取の印象―水害で「ゆっくりやろう」

 島崎藤村も「山陰土産」(昭和2年7月8日からの12日間の旅)の中で、宿泊先の小銭屋旅館(当時大工町)を、宿が古風で親切でおっとりしていること、料理の味のこまかいところを大変褒めながら、「鳥取は非常にゆっくりした町である。そのゆっくりしたのは、水害に度々悩まされる。八年に一度平均にしてある。それが大正元、七、十二と間隔がせばまってきている。水害のために急ぐに急げなかったのであろう。だからゆっくりやろうぜというのが市民の感じだ」ということを書いている。洪水は市民性にも影響を与えたのだろうか。

島崎藤村
島崎藤村

「― 旅の窓よりこの山陰の都会を望んでみたとき、そういう味のこまかいところが鳥取かとも私には思われた。(中略)いろいろ見るべきものも多いようであるが、鳥取の特色はさういう表面に現れたものよりも、むしろ隠れて見えないところにいいものがあるように思はれる。(中略)過ぐる幾十年、ゆっくりとしかも確かな足取りで歩いてきた町を、山陰方面に求めるなら、誰しもまづ鳥取をその一つに数えよう。土地の人達は急ごうとても急ぎ得なかった原因を、主に千代川の氾濫に帰する。(中略)
 三百八十年間に四十八回の大洪水に襲われたという、いいかえればこの地方は八年に一回の大洪水に襲われ、市民の生活はその都度破壊されていくという惨憺たる状態にあったということである。それほど自然と戦い続けてきたこの地方の人達は何か地味な根強さがあるように感じられるというのも不思議ではないかもしれない ―。(以下略」(「城下町鳥取誕生400年」・「鳥取市七十年」)

豪雪

昭和2年の豪雪(鳥取市の智頭街道)
昭和2年の豪雪(鳥取市智頭街道)

 昭和初期までの鳥取は、今では考えられないほどの豪雪地帯であった。「一階は雪で埋まり、二階の窓から出入りした」・「屋根からズリ落ちた雪にトンネルを掘り別棟の台所と行き来した」・「「1~2mはザラ、屋根から落ちた雪が軒まであった」・「冬の小学校の体育はいつも雪合戦だった」。

 写真は、明治35年1月の智頭街道が埋まった様子。右の建物は当時の郵便局。悲劇の雪中行軍遭難「八甲田山 死の彷徨」があったのは同年1月だが、鳥取の四十連隊も、この雪の但馬路を宮津まで往復82里雪中行軍を行ったとある。雪を袋川に捨てると洪水になると、千代川まで運んだ。不況下でも、大儲けは雪かき人夫で、ふだんは1円ほどの日当が、2円から3円50銭に跳ね上がったという。

自然とくらし

 浜坂地区は、ここ50年で大きな変貌を遂げました。昭和28年頃までは150戸ほど、そこから鳥取大火の罹災者住宅の建設、昭和40年前後から始まる浜坂団地の開発によって、爆発的に拡大し、現在もなお、その勢いは止まりません。しかし、その発展の一方で、失われていくものもあります。

千代川の名前由来

 江戸時代には八東川との合流点から下流を千代川といい、上流部は智頭川とよばれたといいます(「因幡民談記」)。千代川の名前の由来には諸説ありますが、以下、その代表です。

千代川
千代川


 「因幡国の多くの谷の流れがみなこの川に集まり、大河となることから、古くは『千谷川』と書かれていたのを『せんだい』というようになり、これに『千代』のあて字がなされた。また、昔、弘法大師が千体の仏像をこの川に流してより、この川を『千体川』と呼ぶようになり、のちに『千代川』となったとも言われる。その他、賀露の東善寺の言い伝えによれば、『文禄元年(1592)の大洪水で千人以上が濁流に吞まれた』ことから、『千躰を飲み込んだ川』」で『千躰川』となり、その後、今の『千代川』と変ってきたという。」
 この洪水は「高麗水」として浜坂の大応寺の「大應寺観音の由来」にも登場します。 (「鳥取県の歴史散歩」・「鳥取県の地名」・「千代河水系の流域及び河川の概要」・他

浜出」と「舟出」(明治~大正)

「舟出」へ出かける人々(鳥取市)
「舟出」へ出かける人々(鳥取市)

 昔の袋川はとても美しく、鳥取市の中心街から千代川河口の十六本松までの水路は、「浜出」と「舟出」といわれる観光名所として賑わったと伝えられます。残念ながら今では、袋川は清流の姿を失い、十六本松も、その名前由来の松の美林を失ってしまいました。
 
「藩政時代、藩主は袋川のお乗り場(現湯所町旧交番附近)から川を下り、十六本松・千代川で清遊したという。明治以降にも市民にこうした風習が伝えられ、砂丘に出ることを『浜出』と称し、春になると浜坂の小スリバチや、十六本松に出かける人が多かった。十六本松の対岸には賀露の港、鳥ケ島などがあって素晴らしい景色である。袋川と千代川が合流していて船の便もよく、砂丘に遊ぶものはほとんど十六本松の日陰を目指してやってきた。十六本松は、小学校の遠足、運動会、海水浴、職場や町内会の運動会、懇親会、家族連れのピクニックなどで大盛況であったという。また、『舟出』と称して船で砂丘へ出る家庭もあった。千代川まで出て、舟から投網を打って、いな・こい・あゆなどを獲っては舟で料理する、酒宴を張り、歌や俳句を詠むなど、趣向は様々であった。

 夕暮れ時、浜から帰る屋形舟は、赤い提燈をかかげ、それが水に映える風情は、昔を知る人の懐しい思い出となっている。夏の宵は、納涼舟で賑わい、涼しさを求めたという。
 昔の袋川は、きれいな水で、飲み水にも使ったが、大正の終わりごろまでは毎冬、若桜端と智頭橋の間で寒中水泳大会が行われた程である。花のトンネルで有名だった袋川土手の桜は、日露戦争記念に若桜橋まで、それから下流は大正4年(1915)御大典記念に植えて完成したが、以後、この土手道は市民の散策の場となり、袋川にはボートが浮かべられるなどの情景が見られた。
 しかし、上水道(大正4年)が出来ると、飲み水として使われなくなり、昭和9年(1934)に新袋川がつくられてからは水量も減って、袋川は単なる排水路になり、市民から顧みられなくなっていった。」
 (「鳥取県史」・「鳥取市七十年」)

昭和初期の砂丘(「とっとり市報・昭和63年12月)

「砂丘も砂漠と呼び、無価値の存在だった。昭和2年1月(1927)、因伯時報(当時の地元新聞)発表の鳥取県八景には、大山、三徳山、浦富海岸、久松公園と並ぶが、三朝温泉、鳥取砂丘はない。春先に「浜出」といって海を見に出かけ、「防風」を採ったり、すりばちの陰から雪を掘り出したり、ふだんは「重箱」で魚釣りをする程度だった。余程の物好きでなければ、十六本松や柳茶屋で清遊するものはなかった。魚料理を柳茶屋で出したが、利用者は少なかった。
 
 この砂丘、映画会社が目をつけ、日本離れした景観として、ロケを行なった。昭和2年6月の「東洋武侠伝」をはじめ、7月に、「熱血児」、9月「ドクロ組」、「鉄路の狼」、「千両箱の女」、12月「叛旗」、昭和3年5月「新日本の健児」、十月「砂漠に陽は落ちて」、、と続く。「東洋武侠伝」は、「日本にこんな場所があるはずがない、満州にまで行ったか」とうわさされたり、高農馬術部50人がエキストラになったという。映画は当時の最先端だが、国際映画博覧会が昭和3年4月鳥取市の陳列所、協立銀行など3会場で開かれた。ともかく、鳥取人が無価値としていたものに価値を見つけたのは大きい。(鳥取郷土文化研究会会員)

村に電燈が灯った日

 本県初めての電気事業として設立されたのが明治39年(1906)、雨滝の水流を利用した発電であった。翌年(40年)5月、山陰西線の開通を祝ってときの皇太子が行啓されたのを記念して、鳥取市内一斉に点燈した。水が火になると人々が驚異の目を見張ったという。

 浜坂や江津などの農村地域はどうだったのだろうか。「大正9年(1920)、鳥取電燈会社より江津も電灯を建設する希望あらば建設費として金4百円を寄附なせば速時建設に着手すると申越され、これを村民に諮りたるところ、一同賛成せられ(中略)会社は電柱を建設することに着手し、8月より内線工事に着手、9月には点灯する運びになりました」(「千代水村誌」)と、江津村に電燈が灯ったのが大正9年(1920)。
 
 鳥取市に電燈が灯ったのが明治40年(1907)であるから、遅れること十数年のことである。今から百年昔のことである。同じ千代水でも徳尾村はもう少し早かったようだが、電気がきたのは夜間だけだったようである。
 「大正6年(1917)は昼には電気がこなかったので〇〇長平さんが当時、ラジオが5軒有ったら昼でも電気が来るから買おうと話していたという。」(「千代水村誌」)

「浜坂は遅かった。村に電柱が一つのみで、そこから全戸に配電されていたため、各家では『蛍の光』と呼ぶほどのか弱い電灯の明かりだった。大応寺で映画会をやるときは、村中の明かりを消した。昭和25年くらいのことである。」・「戦後、電話は村に1軒のみであった」。(浜坂聞き取り)

夜の闇

電気が来るまでは街灯はなく、夜になると各農村は真っ暗になり、外出時は灯油ランプ・ランタンやろうそく提灯を使った。江戸時代以前から続く夜の闇である。

石油ランプ
石油ランプ

石油ランプが日本に入ったのは江戸末期とされ、それまでは菜種油を灯明皿に入れ灯心をつけて点火し、燈台に載せた。石油ランプは、その明るさが賞賛され明治中頃以降、地方にも少しづつ浸透していき、電力が普及するまで一般家庭の照明をロウソクと二分していた。

しかし、このランプも米1升が3銭あまりの頃1個3円もしたのでなかなか普及せず、農村でロウソクと種油は大正、昭和になってもその命脈をたたれないでいた。また、マッチが一般の暮らしに取り入れられたのは明治も末期で、10年(1877)頃にはまだ魔法視され、人間の骨で作るらしいと噂されたいた。これが”スルビ”(マッチのこと)と呼ばれて農村に入ってきた頃、同じように石油ランプが使われ始めたのである。マッチが一般化するまでは、ヒウチイシ(燧石)やヒウチガネ(燧金)が使われていた。(「郷土とっとりの激動の100年」・「昔の灯りと暖を取る道具」)

浜坂砂丘の雪を「寒氷」として夏売る

 電気冷蔵庫が家庭に普及し始めたのは昭和35年(1960)以降の高度成長期である。それまでは明治31年(1898)頃に日本に初めて登場した「氷箱」(氷式冷蔵庫)で、氷屋さんから氷を買ったり配達してもらっていた。これも地方での普及は昭和初期以降、かつ、一部の家庭のことであった。その頃、鳥取では浜坂砂丘に大きな穴を掘り冬の間にうんと雪を埋め込んで、その上に砂をかぶせて夏まで囲いカンコオリ(寒氷)とよんで売っていた。(「郷土とっとり激動の100年」)

生活水―砂丘湧水や井戸

 鳥取市の水道事業は大正4年(1915)に開始しているが、全域に普及するのは昭和30年(1955)代のことである。それまでは井戸水が一般的であった。浜坂は砂丘からの湧水が豊富で、これを村の飲み水や野菜を洗うなどの生活水に使った。
 藩政時代の市中、渇水時には、井戸が使えなくなるため袋川が飲料水の貴重な供給源となった。そのため、出会橋より上流での馬洗い、水浴、洗濯、肥舟の出入りなどを厳禁とする五ケ条の袋川法度が発令されている。さらに、鳥取大震災(昭和18年)、大火災(昭和27年)時は、袋川の水を朝早く汲んで、飲料水にしたり、生活用水に使ったとのことであるから、浜坂の砂丘湧水は天恵というしかない。

浜坂八景

 平成13年3月、第3回「浜坂八景」の一般公募が行われました。これは、広く住民に呼びかけ特色ある風景や心に残る風景を募り選定委員によって8ヶ所を「浜坂八景」とするものです。以下が選定結果であり、住民が後世に残したい美しい歴史景観です。(「公民館浜坂」)

旧街道から望む多鯰ヶ池と砂丘の遠景

旧街道から望む多鯰ヶ池と砂丘の遠景(鳥取市浜坂)

 
砂丘ゴルフ場から望む砂丘全景

砂丘ゴルフ場から望む砂丘全景(鳥取市浜坂)

 
有島武郎の歌碑あたりの風景

有島武郎の歌碑あたりの風景(鳥取市浜坂)

 
砂丘旧砲台お台場近くから望む砂丘の広がりと日本海風景(夕刻後はいさり火)

旧砲台お台場近くから望む砂丘の広がりと日本海(鳥取市浜坂)
旧砲台お台場近くから望む砂丘の広がりと日本海(鳥取市浜坂)


有島武郎、与謝野晶子歌碑付近から町並みを望む風景(夕刻後は夜景)

有島武郎、与謝野晶子歌碑付近から町並みを望む風景(鳥取市浜坂)
有島武郎、与謝野晶子歌碑付近から町並みを望む風景(鳥取市浜坂)

  
荒神山前の河川敷から望む千代川河口の風景

荒神山前の河川敷から望む千代川河口の風景(鳥取市浜坂)
荒神山前の河川敷から望む千代川河口の風景(鳥取市浜坂)

 
十六本松海岸から望む日本海と砂丘全景

十六本松海岸から望む日本海と砂丘全景(鳥取市浜坂)
十六本松海岸から望む日本海と砂丘全景(鳥取市浜坂)

 
弁天社の森をはさんで流れる川面を含む風景

天社の森をはさんで流れる川面を含む風景(鳥取市浜坂)
弁天社の森をはさんで流れ川面を含む風景(鳥取市浜坂)


航空写真でみる浜坂の変容

昭和26年(1951)頃

 浜坂から十六本松にかけての航空写真。右下の黒い部分が都築山。この下に横穴遺跡群が眠っている。都築山の上方及び左右(後の浜坂団地)には何もない。網状に見える黒い線は、砂丘の飛砂を止めるため砂防垣である。

昭和26年頃の浜坂(鳥取市浜坂)
昭和26年頃の浜坂(鳥取市浜坂)


昭和32年(1957)頃

 左下の住宅群は、昭和27年の鳥取大火後に建設されたひばりケ丘の罹災者住宅である。同時期に小松ケ丘の罹災者住宅もできている。これが浜坂地区最初の住宅地拡大である。この時期まで、江戸期以来の浜坂村と江津村以外は田畑、川、砂丘しか存在しない地域であった。

昭和32年頃の浜坂(鳥取市浜坂)
昭和32年頃の浜坂(鳥取市浜坂)

昭和40年(1965)頃

 昭和36~44年: 恐らく昭和40年以降であろう。浜坂小学校(昭和48年)はまだできていないが、その上方、現浜坂3丁目あたり及び、浜坂団地西口バス停付近(浜坂2丁目)にも僅かな住宅群が認められる。浜坂新興住宅の最初の世代だろう。十六本松地区に、十六本松と浜坂新田の地名の由来となった松林及び海に向かう水田が見える。中央病院(昭和50年)はなく、江津は田圃の海の中の孤島のように見える。浜坂と江津は細い土橋で繋がれているが、車は通れない。後の中ノ郷中学校周辺はまだ一面田圃地帯である。

昭和40年頃の浜坂(鳥取市浜坂)
昭和40年頃の浜坂(鳥取市浜坂)

昭和50年(1975)頃

 昭和49年~53年: 浜坂小学校(昭和48年)、県立中央病院(昭和50年)が誕生している。中ノ郷中学校(昭和60年)はまだその姿はなく、その周辺の浜坂東住宅群もまだできていない。江津と中央病院の間もまだ田んぼの海であり、江津は依然と孤島である。まだ、十六本松に松林及び水田は残り、浜坂八丁目(十六本松)は存在していない。荒神山周辺も田んぼである。都築山がきれいに消えている。
 浜坂団地は概ね埋まっているが、まだ隙間も見え、鳥大乾燥地研究センターへ下る道に沿った北側一列(浜坂3丁目北端)などは未開発である。浜坂スリバチはまだ存在しているようだ。浜坂江津橋は架かっておらず、車は丸山交差点経由で市内へ出た。

昭和50年頃の浜坂(鳥取市浜坂)
昭和50年頃の浜坂(鳥取市浜坂)

平成21年(2009)頃

 平成21年、浜坂八丁目ができ、江津と中央病院の間も宅地で埋まった。千代川の河口工事(昭和58年の付け替え工事完成)によって、十六本松の松林や水田が消滅している。また、中ノ郷中学校が誕生し、その東西・南も住宅で埋まった。削られた都築山はゴルフ練習場を経て住宅地となり、浜坂スリバチまでも埋めたてられて住宅地化している。浜坂団地はほぼ隙間なく埋まり、荒神山周辺の袋川河口や重箱の向い側の県道沿いにも広がり始めた。浜坂小学校下に浜坂江津橋(昭和62年)ができ、中央病院横を通って城北交差点へと車道が走っている。
 
 この頃になると、現在の姿と殆ど変わらず、あすなろ保育園の姿が見える。浜坂団地の中央部分はぎっしり埋まっており、これより新しい宅地は十六本松方面に向かう海側畑地や、中ノ郷側などの縁端地をアメーバの手足のように広がりつつ現在に至っている。

平成21年頃の浜坂(鳥取市浜坂)
平成21年頃の浜坂(鳥取市浜坂)

鳥取藩とキリシタンー鳥取の精神世界

 この地域の歴史研究を始めて、はじめて知った旧鳥取藩とキリシタンの関係です。日本全国、そして、全世界でも稀有な旧鳥取藩の「精神世界」をお伝えします。

隠れキリシタン

 日本におけるキリスト教は、戦国時代の天文18年(1549)のフランシスコ・ザビエル来日によって伝えられたとされる。宣教師たちの堅固な信念と熱烈な献身・努力によって急速に信者を増やし、これを庇護した織田信長が本能寺の変で自刃する天正10年(1582)には、全国に会堂数100ケ所、信者は約15万人に達し、5年後には倍増している。

家康の禁教令と続く迫害弾圧

 しかし、江戸時代には、慶長19年(1614)の徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止された。幕府の支配体制に組み込まれることを拒否するキリスト教の浸透拡大と信徒の団結が、幕府を揺るがす脅威とされたのである。
 この頃の信者数は70~80万人とされ、当時の日本の人口は千5百万人余を考えるとまさに燎原の火の如くである。そして、寛永14年(1637)の島原の乱が決定的になり、幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。

踏み絵
踏み絵


 また、幕府は、新たな布教が一切行われないようにスペイン・ポルトガル勢を追放・排除した。
 寛永元年(1624)にスペイン船の来航禁止、寛永12年(1635)には、日本人の海外渡航と帰国の禁止及び朱印船貿易の終了、そして、寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航禁止と南蛮貿易の禁止をもって、同年に日本の鎖国が完成するのである。
 他方、幕府は信者をあぶりだすために寛永6年(1629)に踏絵や五人組、宗旨人別改帳を導入、架刑や改宗を迫るなどの迫害弾圧を続けた。

 このような時代背景の下、地下に潜った信徒たちは、親子の間でも秘密主義に徹し、秘密裡に切支丹灯篭などの各種各様な礼拝物をつくり、表向きは仏教徒などとして振る舞いながら心の奥に自由を叫び、国内にカトリックの司祭が一人もいない中、250年間以上も信仰を守り代々伝えていった。この事実は世界に類例なく、全世界に衝撃を与えたとされる。明治以降も弾圧は続いたが、諸外国からの非難によって明治政府は明治6年(1873)、ようやく「キリシタン禁教令」を廃止したのである。

十字架を背負ったお地蔵さん
十字架を背負ったお地蔵さん

鳥取藩とキリシタン、そして伴九郎兵衛たち

鳥取藩主池田家とキリシタン

 池田鳥取藩とキリシタンの関係は驚くほど深い。池田藩主の先祖信輝は永禄6年(1563)に洗礼を受けている。織田信長が神父フロイスと面会し、畿内で布教を許したのが永禄12年である。英傑信輝は、いち早く西洋の物資・精神文明を取り入れることで、一国の文化を高め富国強兵を図るという念願から入信したのであろう。

池田光仲像
池田光仲


 この信輝によって、切支丹帰依の家柄として鳥取城主池田家には、代々信仰の道が受け継がれていくのである。播州姫路城主の輝政は信輝の子である。パジエスの日本基督教史は「播州国主池田新三衛門(輝政)は、信仰厚く、宗徒に庇護の手を差し伸べていた」と記している。

 関ケ原以降の初代鳥取城主池田長吉は輝政の子であり、その子の2代城主長幸も、紋章などから明らかに入信していたとされる。輝政の孫にあたる池田光政は、長吉・長幸後の鳥取城主で、因伯32万石の基盤づくりをした。元和6年(1620)、ポルロ神父の伯耆・因幡の巡教時、光政は見てみぬふりをして、陰で庇護していたようである。京都や長崎における信者の火刑・斬首をはじめとして全国各地で処刑の嵐がふきすさんでいた頃である。輝政と徳川家康の娘督姫の間に生まれた池田忠雄が、長じて迎えた室は有名な切支丹大名の娘である。切支丹倫理の教えでは、原則として同信者の家柄同志でないと婚姻できない。その間に生まれたのが池田光仲。徳川家康の孫にあたり、光政のあとを継いで32万石鳥取藩を治めた。

池田光仲のキリシタン信仰

 光仲が鳥取藩の信徒を庇護していた事実は、藩の控帳及び万留帳に、光仲は切支丹の疑いを受けて入牢した伴九郎兵衛や医師の森元交、浜田藤兵衛の妻子などに扶持を与え、これを保護したと記録されていることから明らかである。このように切支丹入牢者の妻子に生活保護の愛の手を差し伸べた例は全国に例のないことである。尚、彼らは後に出牢を許されている。
 
 この光仲の鉄石の信仰は歴代の藩主に受け継がれ、因伯二州では、明治になるまで処刑による殉教者を一人も出していない。このような例は、古切支丹の流れをくむ京極藩、相良藩の城下にもみることができるが、当時としては稀有のことである。
 さらに、代々の藩主は幕府の重圧にたえて、城奥で信仰の灯を守り、更に信徒たちを庶民信仰によく習合させ、ひそかに聖地を与えている。

切支丹灯篭

興善寺の切支丹灯篭
興善寺の切支丹灯篭
光仲の十字架灯篭

 池田家菩提寺の興善寺、池田藩主の祈祷所観音院、熱烈な信者であった福田家老が建立した一行寺などには「切支丹灯篭」が残っている。これは、地蔵尊の台石に見せかけて、隠れ切支丹が墓参を装って密かにその台座に祈りを捧げていたものとされている。石には人型が浮き彫りにされ、地蔵尊というより、神父が両手を胸で組み、お祈りをしている姿である。偽装はその他、観音像、墓碑、人形、石仏など数多くあり、人目につかないように巧みに隠されていたという。
 藩公や家老たちゆかりの寺院にこれらが祀られたことは、信徒たちを表面上仏教徒にころばせ、裏面ではこれらの寺々の境内に聖なる礼拝地を与えたのである。万が一疑いを持たれた場合は、藩公や家老のご武運を祈り、菩提を弔うためと申し開きができるのである。

因伯二州のキリシタン城主

 因伯二州には数多くの切支丹城主がいる。若桜の鬼が城矢部城主、鹿野城亀井城主、東伯の羽衣石城南條城主、米子城中村城主など。鹿野城主亀井茲矩は、元和5年(1619)御朱印を受け、南蛮貿易をしたほどの進歩的な文化人であった。
 一国の殖産興業・富国強兵にはすぐれた南蛮文明を受け入れることの必要を深く理解し、そのため伴九郎兵衛などと同様に、南蛮伴天連と手を結ぶために入信している。青谷港を南蛮貿易の基地に、海と三方の山に囲まれた隔絶地の酒津を隠れ切支丹の聖地としたとされる。切支丹灯篭と子安地蔵(マリア像)の両方が残るのは県下で酒津のみである。

全国でも稀有な史実


 全国的に眺めても、九州についで因伯二州でキリスト教の布教が伸びていたことは、驚異的な史実である。鳥取藩主ならびに切支丹家老、地域城主たちの英邁、精神性を物語るものである。鳥取市郊外岩倉に、鳥取池田藩主初代光仲より十一代慶栄までの墓石をはじめ、奥方ならびに一族が眠る。百数十の灯篭の中で、光仲公の前に建つ光仲の子仲澄・清定の献灯篭にのみ、火袋に十字架が陽刻されていることは不思議である。
 二人は、父光仲の信仰を静かに見守り、十字架を背負って昇天したキリストの故事にならって、なき父の冥福を祈って作っものであろう。このような例は、松前藩椿姫の墓石、小浜藩常高院の墓地にも残っている。 

(「池田藩主と因伯のキリシタン」・「因伯の隠れキリシタン」・「鳥取文化財ナビ(切支丹灯篭)」・「隠れキリシタン」)