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大国主命と八上姫
八上姫を祀った賣沼神社
嶽古墳
大陸から来たスサノオ、大国主命、土師氏
八上の白兎伝説
八上の里と安蔵の娘
大国主命が八上姫を欲した理由
鉄の技術を持つ「フツ氏」
出雲王朝とたたら鉄
安蔵の長者
安蔵の鉱物資源
現在の安蔵の谷
関連する八上の歴史
天穂日尊
スサノオと漢方医学・稲作
牛の戸の地名由来
丹比の地名由来
野見宿根と土師氏の系譜
野見宿禰
北野天満宮
土師氏と天神原の釜
昔の鉄生産の話
江戸時代、古刀として5家伝が知られる
大国主と八上姫
古代、大国主命(おおくにぬしのみこと)が須佐男命(すさのおのみこと)の命令で国づくりを始める少し前の話です。
神々の里・出雲で大国主命の異母兄弟八十神(やそがみ)達は、因幡の国八上の郷(現河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上姫を娶ろうと考えました。八十神達は、弟の大国主命に八上姫への贈り物をすべて持たせると、弟を待つことなく因幡の国へと向かいました。
途中、白兎海岸で傷ついた白ウサギが泣いていましたが、八十神達はこれに嘘の治療法を教えて笑いものにし、一方の大国主命はわけを聞いて助けてやりました。 先に八上の郷にたどり着いた八十神達は八上姫に求婚しましたが、ことごとく断られ、遅れて着いた大国主命に八上姫は「私の慕うお方はあなたです」と告げます。姫は、一目で人物を判断できる聰明な女性だったのです。
この二人のロマンスにちなんだ地名が鳥取市河原町には今も残り、例えば、大国主命が贈り物をつめた袋を捨てた千代川の河原が「袋河原」、恋文を書いたところが「倭文(しどり)」。また「円通寺」は、二人が縁を通じた「縁通路」に由来すると云われます。その後、二人は八上の郷で幸せな結婚生活をはじめ、やがて子供が生まれました。これをきっかけに、姫は夫とともに出雲に行くことになりましたが、待ち受けていたのは正妻の須世理姫(すせりひめ)。気性が激しく嫉妬深い彼女と折りが合わず、八上姫は子供を残して因幡へ帰ることになります。傷心の八上姫を郷の人々は優しく迎え、八上姫は死後、売沼(めぬま)神社にまつられ、その裏山にある嶽(だけ)古墳は、姫の墓と伝えられています。
八上姫を祀った賣沼神社
八上姫を祭神とする賣沼神社は、鳥取市河原町の少し町外れの曳田地区に在り、古事記に出てくる大国主と白兎(素兎)の物語の中に出てくる八上姫の里です。この神社は、神社誌によると式内社であり、927年の延喜式に記載されている由緒正しき神社です。この神社は明治以降、一時火災があり、古昔の社伝書がありませんが、地域の人の厚い熱意で再建されています。
嶽古墳
この神社の南側にヤナセ山と曳田川があり、ヤナセ山の東の端に八上姫の墓と云われている前方後円墳があります。簗瀬山の東と繋がっており、しかも現在は樹木が生い茂って山と一体化しています。簗瀬山(やなせ)の墳墓の全景を資料で示します。
大陸から来たスサノオ、大国主命、土師氏
紀元前6千年頃、世界最古の文明を担ったバビロニアなどの西アジア人達が沿岸伝い、内陸、航海などで世界に新天地を求め、中国にも進出して行きました。中国では、紀元前8百年頃から戦国時代に入ります。紀元前400年前後、呉と越の春秋戦争から逃れるために中国江南から舟で脱出した首相は北九州の長崎に着きます。これが、天照大神の話と考えます。
一方、天照大神と喧嘩別れをしたとされる弟のスサノオは、中国の沿岸を北に進み、途中稲作の神の「天穂日の命」、鉄の技術を持つ朝鮮の「フツ一族」を従え、「牛頭(ごず)天王+妙見信仰」を持って、朝鮮半島から出航し、海流に乗って出雲にやって来ました。そして文化を発達させたのが出雲王朝なのです。同じ頃、呉に敗れた越の人々は新潟に着いた。これが新潟の越前、越中、越後の人々である。これが日本神話の実際です。
そして、スサノオの子孫が大国主命で、出雲を拠点に芦原中国(地上界)を治めようとします。土師氏は、野見宿禰が垂仁天皇の時代、天皇のお抱え力士「とうま蹴速」と出雲の「野見宿禰」との御前試合において「野見宿禰」が相手を投げ殺し、野見宿禰が垂仁天皇に仕えるようになりました。皇族の葬儀礼に於いて殉死制度を改め土偶で代用するように提言し、非常に良いことであると受け入れられ、以後「野見宿禰」の一族は土偶、墓を作る「土師」という職業を与えられました。「日本書記」は土師連のことを、「天穂日族、此、出雲臣武蔵國造・土師連塔 遠祖 也」と述べています。つまり、彼らの先祖はスサノオと共にやってきた天穂日族(あめのほひこぼしぞく)であり、鉄器、土木、稲作など優れた技術で巨大な前方後円墳が作ったのです。
八上姫の前方後円墳は、この土師氏によって造られました(350年~550年の古墳時代)。土師氏の中心地とされる土師百井には、天照大神を案内したという白兎を祭神とする祠があります。土師の人々は土師百井、池田、福本などに八上姫、大国主の仲立ちをした白兎の化身神社を作り先祖の霊を祈ったのでしょう。
一方、氷ノ山は須賀の山と言われ、須佐之男命(スサノオノミコと)の宮殿が在ったとされています。須賀の「ス」はスサノオの「須」です。氷ノ山を地元では須賀の山と呼び、丹比小学校の校歌(明治7年作)では氷ノ山を「須賀の山並み」と呼んでいます。八上群の199の神社のうち、半数近い84でスサノオを祀っています。このように、八上地方と大陸から来た、スサノオ、大国主命、土師族の関係は極めて深いのです。
(注)牛頭天王:インドの祇園精舎の守護神。スサノオノミコトの本地仏と説かれ日本では疫病よけの神。祇園祭は牛頭天王をまつって疫病をしずめる年中行事。妙見信仰:北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝と見なされこれに仏教思想が流入「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになった。元々は、紀元前数千年前、現在のイラク・イランに栄えた古代バビロニアなどの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て、中国に伝わった。
八上の白兎伝説
八上の天照大神と白兎伝説は、「昔 、天照大神がこの山に降臨された時、山頂に行宮 (仮の宮)を営 もうとされ四方をお見渡しの際、一匹の白い兎が現れ、尊の装束の裾をくわえて道しるべをしたそうです。
尊重が、その道しるべに従われたところ、中山よりはるか山の尾続きに二つ大石があり、そこへ誘ったそうです。現在その石を皇居石と呼び、そこを伊勢ヶ平と呼ぶのもその故です。ここに行宮 を営み、しばらくとどまられました。尊が天から降りられた時、道しるべをした白兎は消えていまし た。それは白兎は月読尊の身体だからです。その後、道祖白兎大明神と言いならわし、祀神としてこ の中山の尾続きの四ヶ村の氏神として崇めたそうです 」。
土師氏の里には白兎神社が、4ヶ所もあります。一つは、土師百井の『土師百井神社』。石碑には「白兎神社」と書かれています。二つ目に、土師百井の隣村の池田にある『池田神社』。三つ目に、八頭町福本の賀茂神社、最後に八頭町宮谷に成田山青龍寺。ここは、710年に元明天皇の勅命によって開創されたお寺で、現存する縁起には八頭町の白兎伝説についてきちんと記載されています。
土師郷のみになぜ4ヶ所も必要だったのでしょうか。冒頭の伝承は天照大神ですが、天照大神は記紀や他の風土記に、九州邪馬台国から大和までの行幸の記載がありません。考えるに、土師の人達は、引野に前方後円墳を造りましたが、土師百井、池田、福本、宮谷から行くには、大きな河を幾つも渡らねばならず、そのために、各地域に八上姫と大国主命の化身である小さな祠を造り先祖を祀ったのでしょう。
大国主が安蔵に来た時、「出逢い橋」(河原町)を渡ったはずです。千代川の西の安蔵地区に行くには、土師川、八東川、郷原、千代川を渡る必要があり、その途中に八上の白兎神社があります。土師百井の大正10年生まれ(当時90歳)のお年寄りの話では、「若い頃、河原賣沼神社、犬山神社に両親に連れられて年一度のお参りがあり、川を渡る事が大仕事でお参りは一日仕事であった。」ということでした。
土師の里の福本、池田、門尾、そして智頭の土師の85歳以上の老人に確認すると、それぞれの地域の白兎神社と犬山神社(大国主)には毎月欠かさず御参りしており、智頭の土師の人達は犬山神社(大国主)にお参りするのが慣わしであったとのことです。
前方後円墳は、設計から実作業に多くの労働者を必要とし、1年以上の仕事のため作業者は、その地域に移住して作られます。従って引野、曳田、天神原の祖先の多くは土師氏です。土師氏系は、菅原道真は学門の神様、秋篠氏は皇室の子孫、大江氏は能楽師の子孫で歴史文学書を数多く出版しています。
八上の里と安蔵の娘
江戸時代の八上郡(ごおり)は、「因幡誌」に記載のとおり非常に大きく、現在の若桜、智頭までを含みます。平安時代の因幡地割りです。この地区は、なぜ八上と呼ばれたのでしょうか。
例えば八百八町、八百八橋、等に使われるように、「八=沢山」という意味です。八上郡は、多くの村、多くの山と谷などがある非常に広い地域でした。八上姫は「安蔵(あぞう)長者の娘」と地域では呼ばれていました。「因幡誌」は、「八上姫の旧居は今の智頭郡用瀬宮原といふ村なり。上古此処に八上ひめ住玉ふなり。其の親の名は安蔵長者といふとあり(中略)分かれて今曳田(ひけた) ノ郷に鳥越といふ農家は其末なりといふ」とあり、大日本地名辞書は、「宇部神社の明記に、八上姫は宮原に住みたまひ、其親の名は安蔵の長者と云えり」、因伯年表には「簗瀬山(やなせやま)の嶽古墳は姫の墓だが旧家は宮原」とあります。
大国主命が八上姫を欲した理由
鉄の技術を持つ「フツ氏」
さて、スサノウ、フツ氏、天穂日等々が出雲の浜に着いた時、「フツ氏」は多量の砂鉄を発見しました。この斐伊川の上流には多量の砂鉄が在ること直感した「フツ氏」は、川を溯って船通山にたどり着き、そこで「たたら製鉄」を始めたのです。大蛇(オロチ)伝説があり、尾から「天のむらくも」なる剣の話は、斐伊川治水に於いて、上流のたたら製鉄に於いて流された物が鉄剣として見つかったことではないかと考えます。紀元前400年~250年の頃と考えられます。
水田開拓や開墾には、銅器具では硬さが不十分で鉄器が必要であり、それには「フツ氏」の技術が必要でした。ただし、船通山の「たたら」のみでは鉄が不足で、稲羽でも産鉄があることを知った大国主は、その地域の豪族の娘「八上姫」を手に入れる必要があった。これが、大国主命と八上姫のロマンに満ちた伝説の実際のところなのではないでしょうか。
フツ一族の末裔が、後に、日本で4世紀頃「若狭湾に」船団を組んで渡来してきているのが天日槍(あめのひこほ)達です。その遺跡も発見されています。フツ氏の墓は出雲の日御碕にあります。
出雲王朝とたたら鉄
今まで記したように、「フツ一族」は斐伊川上流の船通山で産鉄を行っています。又、スサノオノミコトは渡来して直に、土地の暴れ河の斐伊川に対し、「八股の大蛇」(斐伊川のこと)の退治を行いました。当時、暴れ河であった斐伊川は、大社の前の稲沙汰の浜が河口で、上流からの砂粒で大雨のたびに氾濫、洪水があり、この対策を行ったということです。又、「八股の大蛇」の尾から鉄剣を取り出した話は、斐伊川上流で、たたら産鉄を行っていた事を示しています。そして、その勢いで島根、鳥取を制圧し出雲王朝を立ち上げ、九州邪馬台国をも制圧したと考えられます。
大国主とは、大きな国を造る人の総称と考えられ、6~8の別名をもっている可能性があります。因幡地方で大きな影響力を持つ八上の豪族の娘を手中に入れることで、稲葉の鉄資源及び、火を起こす火打ち石を手中にする手段としたのでしょう。
安蔵の長者
因幡誌によると、八上姫は用瀬の安蔵長者の娘として生まれています。この一帯は砂岩、安山岩、蛇紋岩が多く、その外、色々な鉱物資源があり、それを粉砕し安蔵川に流し、篩い分け、それが安蔵長者を育んだと考えられます。蛇紋岩はヒスイ鉱石であり、白と青があり、白は火打ち石としても当時非常に必要であり、砂岩、安山岩は砂鉄を含み、此処を基点に千代川の各支流で鉄穴流しが在った様です。
安蔵の鉱物資源
各地区で太古の鉄穴流しの伝承があり、智頭の宮谷口から大段にかけ「たたら」跡が有り、若桜でも諸鹿、角谷、赤松でも太古の鉄穴流しの伝承があります。マグネシウム、チタンを含む鉄鉱石もあり、蛇紋岩には小さいながらヒスイが混ざり、安蔵の長者というより、地域の豪族が生まれていたと考えられます。
安蔵のヒスイは白が多くあり、宝石というより火を起こす火打石として重宝がられていたと思われます。これは逸話ではなく、この地区は太古から「いなばやしろ」と云い「金屋」「夏明け」「屋住」など「鉄穴流し」「たたら製鉄」に関係のある地名が残っています。千代川と安蔵川との合流地点では、比重によって振分けられ砂鉄、鉱石、ヒスイなどが、当時採取出来たと思います。地名の「金屋」は「たたら製鉄作業」に関係があり、金屋子神社や犬山神社は大国主が祭神です。
ここには、天王山社の名もあり、当時ここ「いなばやしろ」が稲葉の中心であったと考えられます。犬山神社は昔、大国主の別名「葦原醜男の命」の名前から取った「あしお(葦男)さん」といわれる大明神であります。ここは、平安時代の三代実録858年~885年頃、因幡の国正六位犬山神十五位下とある国史であり、古用瀬、家奥、安蔵、山口、宮原、樟木原、金屋、屋住、川中9ヶ村の353戸の氏神で、ここに大国主と八上姫が居住していたと言われていました。
文徳天皇827年頃、在原行平が因幡の守として下向した祭、再祀するも中世火災となり明治元年8月15日、犬山神社と改名しました。この山で犬を飼いならし狩猟に供していたことから、この名前となったようです。智頭の土師地区の古老によると、子供の頃(明治末期)この神社には足が痛い年寄りとか、だれだれがお嫁に行くなど、良縁や安産を祈願してお参りに連れて来られたとのことです。
現在の安蔵の谷
今の安蔵川では、普通の山間の谷川の様ですが、砂岩や蛇紋岩が見られ、上流では太古、砂岩や風化花崗岩が見られ、ここの山を削って砂鉄、一部火打ち石の鉱石を取ったのではないでしょうか。昭和40年頃までは、奥出雲横田町鳥上では「かんなながし」作業が行われており、「たたら製鉄」も行われ、金屋子を祀っています。近くには能義郡広瀬比田に金屋子神社本山が祭られています。
「鳥越」の逸話は4世紀頃、天日槍の尊(アメノヒホコは鉄の神様、フツ氏の子孫)が船団にて丹後半島に来て産鉄を試みたが思わしくなく、奥出雲横田町鳥上へ金屋子神が白鷺となって安蔵の上空を飛んで行ったことから「鳥越」の苗字が付いたとされます。奥出雲鳥上では、現在でも「たたら製鉄」作業が行われており、神紋は「6画鶴紋」として金屋子を祀っています。近く能義郡広瀬比田に製鉄の総神社として金屋子神社が祭られています。
八上姫が出雲に来て見れば、奥出雲鳥上では「たたら製鉄」がすでに行われており、出雲に滞在する必要がありませんでした。又、八上姫は本妻の須世理比売を知り、我が子を木の股に置き去りにして、八上に帰って行ったという話が、物語として出雲風土記となったと考えられます。わが子を木の俣に置いて帰ってきた事で、人間の道徳に反しているとして出雲より帰ってきた時、安蔵長者に身を寄せましたが、出戻りとして扱われ、その後、売沼神社に祀られたのでしょう。売沼神社は、西日天王とも呼ばれています。
関連する八上の歴史
天穂日尊
記紀では、天照大神が造った神様となっていますが、「下界が騒がしいので天穂日尊を遣わしたが一向に返事がない」と天照大神が嘆いたとされていますが、この神は字の如く稲穂を作る神様で、季節に左右されるため四季を必要とし、そのため星の神様も必要でした。即ち「牛頭天王+妙見信仰」が付いて回りました。
1年1回の収穫のサイクルでは、葦原中国に稲作を普及するには相当の時間が必要だったと思います。因幡の福井に「天穂日命神社」と前方後円墳がある事は出雲王朝のなかでも、因幡の重要豪族だったろうと思います。天穂日の系図が出雲大社に、きっちりと残っており、しかも稲葉に前方後円墳とお宮があることは、出雲から稲葉に掛けて稲つくりが進んできたことを示しています。
スサノオと漢方医学・稲作
インドでは、紀元前6000年、牛と関わって生活すると天然痘に掛からないと言う信仰があり、紀元前2千年頃に中国に渡り、中国の三皇五帝の神農氏は牛の神様を「牛=農業=水=水害」「農作物=漢方医学」「農業=四季」を考えました。日本でも、「牛頭(ごず)天王+妙見信仰」は大日さん、天王さんなどといわれ、医学や天体気象の習得者が多かったようです。
八上の「牛頭(ごず)天王+妙見信仰」は、紀元前2~300年頃に出雲から青谷に来ています。青谷の原田家107代は、一代25年では2670年前、一代20年なら2140年前であり、スサノオが出雲に「牛頭(ごず)天王+妙見信仰」を持ち込んだ年代と合っています。スサノウは医術と稲作を広めるため青谷、鹿野、岩坪、北村、湯谷、牛の戸、八上と行幸している時、安蔵の「かんなながし」を発見したのかもしれません。原田家の家系を見てみましょう。
天神原の眼の神様祠
利川神社の神官原田家は、江戸中旗までに107代続き、宮司は江戸の中頃1750年頃に交代され、津山藩の医師となったが、それまでは「目の医師」として有名で、天神原に眼の神さんの祠が有るのはそのためではないでしょうか。
島根県の一畑薬師が有名ですが、894年の創建のようです。ここの山号が「医王山」となっていることは、スサノオが渡来したことから来ているのでないかと思います。107代天皇後水尾上皇(1620年頃)の直筆もあり、漢方医学に優れた人であったと思われます。1750年頃イギリスにおいては、ジェンナーが、牛痘の接種を開発発明していました。スサノオは人の病気(医学)を重要視し、「牛頭天王+妙見信仰」の普及に努めたと思われます。つまり、漢方医学です。中国、朝鮮半島、出雲、青谷と同行して来たのが日置早牛の原田家の先祖と思われまます。スサノオは稲作と「牛頭天王+妙見信仰」と漢方医学を、日置から鹿野~河内~岩坪~湯谷~曳田~八上郷~若桜~氷ノ山超え~山陽と、布教して行ったと考えられます。これが後の祇園祭であります。
このルートは800年頃、和紙ルートがあり、このルートを年代前で溯れば、空海および古くは大国主やスサノウも通ったと考えられます。湯谷には、太古から薬師堂があり、地元の話によると、空海がこの地に訪れた時に新しく薬師如来を彫り、泉源の傍に祭ったということです。湯谷から山を越えると上砂見に出ますが、その途中に、延喜式に記載されている「牛頭天王+妙見」を祀る「大和佐美神社」があります。空海は、中国で密教を学び薬草の知識も十分にあり「大和佐美神社」を「牛頭天王+妙見信仰」として広めました。従って砂見の谷筋を神様の居る入り口として、神の戸として「神戸かんど」と言い、大国主命も通った路とされています。
新聞資料のように、仁明天皇820年~830年は、薬草知識で八上に礼物を使わされている。空海が中国から帰ったのが830年頃ですので、80の「牛頭天王+妙見神社」がある八上地方では、すでに漢方医学は発達していたと考えられます。大国主命はスサノウが先祖であり、スサノウは出雲に来るまで稲作や漢方医学を十分にマスターしており、それを受け継いだのが大国主であり、白兎の話も人間性ばかりでなく、医術の心得があったことを示しています。
牛の戸の地名由来
牛の戸は、古来より牛を崇め奉る地域であり、以前は「大日山」と称するお堂がありました。「大日山」とは天王山を表し、天王山=牛頭天王信仰です。また、必ずといってよいほど、妙見さんと一体となっています。牛の戸神社は、昔、妙見大明神と言いましたが、明治以降、牛の戸神社として村社となっています。
「牛頭天王」の由来については既に述べたとおりですが、朝鮮新羅の「牛頭天王山」と称する処では、栴檀(せんだん)が産出され、これが熱病に効能があり、これを牛頭と称しています。日本書紀によると、新羅に追放されたスサノウの命は、ソシモリに居るとされています。韓国語で、ソシは牛、モリは頭です。韓国江原道春川に「牛頭山」があります。また、神仏合体で「スサノオノミコト」の本地仏とされています。京都祇園八坂神社はその代表的なものです。
スサノオ命が、いつ頃どのようにして日本に渡来したかは分かりませんが、日本の記紀によると「スサノオ」の何代目か後、大国主命が誕生し葦原中国平定時、太陽神の人々を従えて (後の日置族「日穂の命族」) 青谷から、日置の河原、五本松、鹿野、岩坪、上砂見、西郷湯谷へと進行したと考えられます。この時に「牛頭天王」の信仰も伝わったのでしょう。かつて、因州和紙作業の「すき」が鹿野を中心に、青谷日置と神戸、岩坪に供給されており、岩坪~鹿野~青谷日置ルートが確かに存在していたと考えられます。青谷日置では、日置の利川神社(はやかわ)の地域を「早牛」(はやうじ)と言い、「早牛」の近くを流れる日置川と早牛川合流部地区の河原では、近年まで「天王山」と言う祠があったと現地のお年寄りから聞いています。「天王山」は即ち「牛頭天王」の事です。また、利川神社の前の「早牛川」は非常に急流で、これを静める為に、石の牛像を川に納めたと社伝にはあると云います。即ち「牛頭天王」信仰なのです。 利川神社の元神官原田家の話は既述のとおりです。
丹比の地名由来
日本書紀』の反正天皇元年条に「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す」とあり、古墳時代中ごろの5世紀前半、反正(はんぜい)天皇が河内の丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)で即位したと伝えています。
反正は仁徳天皇(336年)の第3皇子で、兄履中(りちゅう)の後、18代天皇となった人物です。丹比郷誌によると、反正天皇18代は、仁徳天皇崩御のあと、同母兄の住吉仲皇子を抹殺し、反正天皇として即位しているが、同母兄を抹殺したことが、心のわだかまり(怨念)となり、大和朝廷を立ち上げた大国主と八上姫の里に行幸されたのではないでしょうか。
たじひ(丹比)の名前が八上ではたじひが丹比(たんぴ)と発音されて残っています。
野見宿根と土師氏の生い立ち
野見宿禰
土師氏の祖先である「野見宿禰」は、鳥取市の徳尾の山に「大野見宿禰命神社(おおのみすくねのみことじんじゃ)」があります。境内の北側に前方後円墳があり、「野見宿禰」祭神の正当性を示しています。また、野見宿禰の伝説のとおりに相撲の神様であり「双葉山」「琴桜」がお参りしています。横綱になったときのお礼参りで下記の札を立ててもらっています。
当地は、御祭神が下賜された所領の一つで、『倭名類聚抄』には「因幡国高草郡野見郷」とあります。生前の御祭神が当地に社殿を築いたという伝承が残ります。
北野天満宮
この神社は延長年間930年頃から天暦年間940年の頃に基礎が作られました。この時期全国的に災害が非常に多く、朝廷は、菅原道真の祟りとして土師氏の出先地域に作られたのです。
菅原道真は、野見宿禰が先孫であり、秋篠氏に分かれ、有能な臣族たちが先祖です。菅原は大伴家持などとも縁続きで、薬草にも優れ、皇室の侍医も勤め、又、余りにも学門に優れ「出る釘は打たれる」で当時の権力者藤原氏に方々に転勤させられ、最後は九州の大宰府で903年に亡くなりました。その後、天災、災害が次から次と発生し、それは菅原道真の祟りとされました。
このことから、930年頃、土師氏の出先地域に於いて天変を鎮めるための祭誓祈を行うこととなり、当地の天神原地区に於いても「曳け谷」で天暦10年行われ、そこは稲荷神社となり、その後、「宮の谷」にて大山津見神となり、永禄年間に天満宮になっています。全国的に土師氏の先祖が住み着いている地域は菅原道真を祭神とした「北の天満宮天神さん」としてお祭りしています。
学問の神様として、入学、入社試験のお願いにご利益があります。
土師氏と天神原の釜
天神原には山側に釜跡があり、土師氏は古墳時代が過ぎると、土偶製作する人達は瓦や陶器造りなどの職業に転じました。しかし、土偶程度の焼き具合では瓦にしろ、陶器にしろ、硬さや現代の装飾技術感が異なり、近世まで継続している窯元は少なく、又、付近に磁器、陶器に適した土が少ないのも原因の一つです。天神原には山側に釜跡が残っています。
近年では、色々の所から粘土を車で運んで来ることができますが、100年ほど前までは、陶器の土を運ぶことは出来なかったと思います。昔は天神原に3ヶ所在ったようですが、昭和初期までに3ヶ所とも廃業されたそうで、1軒は瓦専門でしたが現在、別の職業に転職され同場所に新築されています。他の1軒は天神原を出られたそうで、丸物を作られていたとの事です。残りの一軒は不明です。
(参考)昔の鉄生産の話
大山の北西、現在の西伯郡伯耆町「大原神社」には日本最古といわれる日本刀「大原安綱」が発見され、この刀の鍛えや発錆びから推測すると紀元2~300年には出来ていたと思われます。近くの大山寺の僧兵の武器として作られたはずですが、余り数が確認されていません。
大昔、「フツ一族」は砂鉄を求めて斐伊川を溯り、船通山から岡山の備中、美作にてたたら製鉄 を行っています。
砂鉄には真さご砂鉄、赤目砂鉄があり、真さご砂鉄は純度の高い鉄で、風化花崗岩に多くあり、鳥上の船通山は風化花崗岩で真さご砂鉄を多く含み、山を崩し、水流と合わせて流すことにより比重で篩い分けて採取します。これを「かんな流し」と言います。太古は、川の上流、中流の流れの速い所に出来る「おう穴」に砂鉄が溜まり、これを採取、集めて「たたら製鉄精錬」を行っていましたが、中世になると「おう穴」を人工的に作り、これを「かんな流し」と云う様になりました。集めた砂鉄は、畑に少しの窪みを造り、其処に砂鉄と木炭を入れて加熱し、半溶融状態になった物を冷やし、ケラ(鉄さい)を造ります。この作業を「たたら」といい、これを叩いて割り、その時の金属音で選別し、同じ音物同士を纏めて焼き叩き固めて、それぞれの用途に合わせた大きさの塊とします。これを鍛着と云い、この技術が後の日本刀造りの基礎となりました。
太古の鋼鉄は「たたら製鉄」で出来たケラからの良いところを取り、これを槍の先端や物を削る刃先程度しか出来ていなかったようです。奥出雲の船通山の鳥上では、安山岩、閃緑岩、半花崗閃緑岩などが在り、これを使用しましたが、初期に於いては送風(ふいご)が発達しておらず、良い鋼片が出来ませんでした。後の「ふいご」の技術発達によって「たたら炉」の温度が上がり、純鉄に近い玉鋼と焼入れの出来る鋼とハイカーボンの鋳物等に分離、選別し、それぞれの用途に分けられるようになりました。「ふいご」技術の進歩によって「たたらふき製鉄」と名前が付けられました。
平安中期以後は、僧兵の武器として刀剣が造られるようになりました。写真のような大きなケラでも、このケラから取れる日本刀の材料は1、2本分であり、当時としては大変貴重であったと思われます。平安期以降になって、刀鍛冶として備前、山城の2つが出来たが、山城伝は伯耆の国の「大原安綱」の刀工が京都に移り住み、刀剣を作ったものです。
江戸時代、古刀として5家伝が知られる
備前伝:現在の岡山です。出雲から斐伊川を上り岡山(備前)では平安中に刀工の名前入りが多く発見されています。山城伝:京都、これは伯耆で平安前期に「伯耆国安綱」が造られ、最古のようです。刀工が京都に移り住んで作っていたようですが、材料が少なく刀も極少数。
大和伝:お抱えのお抱えの寺院の刀鍛冶が門前で作り、僧兵の武器としたて作られ大半無名です。
相州伝:現在の神奈川で、備前と山城とが合わさり、鎌倉で武士の刀として作られました。
美濃伝:現在の岐阜の南地域、山城鍛冶屋が移り住み、当初農業生産に必要な物を作っていましたが戦国時代、武器として刀を作るようになったとされます。