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多鯰ヶ池の成立ちの謎
多鯰ヶ池と砂丘の呼吸の神秘
タナゴ釣りの思い出
 オオサンショウウオを釣り上げる
 独自進化したタナゴの絶滅
多鯰ヶ池弁天宮
多鯰ヶ池東岸を走った旧国道9号線
追い後スリバチと多鯰ヶ池
多鯰ヶ池の保安林
多鯰ヶ池の北側の道

多鯰ヶ池の成立ちの謎

 多鯰ヶ池は、北側が砂丘に接し、南側は高い山に面しています。
 この池は、数万年以上昔の古砂丘の発達によって出来た潟湖(かたこ)とされていますが、謎が幾つもあります。現在、池の底が海抜0mであり、最低水位が15~17mということは、縄文海進時に海に没して以来、海水が抜けていないということになります。

 古砂丘の上に覆いかぶさった大山火山灰土が水を通さない層となったという説が一般的ですが、私は、池が干上がっていた4~5万年間、池の北側南斜面である砂丘側に草などが繁茂して、有機質と変化し、粘土状となって水が抜けない層をつくったのではないかと考えています。理由は、近くの追い後スリバチの海抜10m前後に、石斧が発見された黒砂の層があるからです。黒砂層とは、植物が変化したもので、砂丘に豊かな緑が繁茂していたことを示し、石斧はそこに人類が活動していたことを示します。つまり、縄文後期から弥生初期にかけての縄文海退による海面低下で池が干上がり、そこに草が生い茂ったのだと考えます。

 ただ、永く孤立するこの池が、どう豊かな水量を保ってきたのでしょうか。
 他方、山側で魚釣りをしている時、海岸でよく打ち上げられている「海綿」が、針に引っかかって上がってきました。縄文海進時代の海の植物が、現代までの長い年月に淡水に適応したのでしょうか。これも謎です。

多鯰ヶ池と砂丘の呼吸の神秘

左の水面スレスレに姿を隠している小島
左の水面スレスレに姿を隠している小島
左の水面に顔を出した小島
左の水面に顔を出した小島

 上の二つの画像の左に見える島の、水面から出ている部分を比べてください。
 多鯰ヶ池水面の上下幅は最大2mです。昭和30年頃まで開発もなく不気味なくらい神秘的であったこの池は、他からの遮断が何万年も続く孤立の池ですが、大雨が降っても、日照りが続いても水位は2mと大きな変化はありません。
 それは、池の水が砂丘へ出たり入ったり「呼吸」して、15mから17mの水位幅を保っているからなのです。ゴルフ場造成の時、山の保水力が激減して山側からの湧き出す水量が減少したためか、水位が3mも下がったことがあり、その時に砂丘側の浅いところに、何十本もの水が流れ込む箇所が確認されたと聞いたことがあります。
 私が小5~中2の頃(昭和26年~29年頃)の、ここで泳いだ時の経験によると、夏の渇水期、砂丘側を泳いでいると、非常に冷たい所と暖かい所があり、冷たい所は砂丘から水が入り込んでいるようでした。一方、晩秋の落ち葉の頃、湖面の風が砂丘側から山側に吹いていれば、落ち葉は山側に片寄るはずが、なぜか砂丘側に集まっている。又、春の満水時、砂丘側が松の花粉で湖面が黄色くなることからも、風以上の力で砂丘側に吸い込む力が働いているようです。

 このように、池の水位が下がると砂丘から池に水が入り、池の水位が上がると砂丘に吸い込まれるため、常に水位が一定に保たれているのです。まさに、多鯰ヶ池と砂丘の神秘です。

タナゴ釣りの思い出

オオサンショウウオを釣り上げる

 多鯰ヶ池には終戦後、私が小4(昭和25年)の頃から、父に連れられてよく釣りに出かけました。
 水位の高い時と低い時で、釣り場は異なりました。当時は、釣り糸は、軍関係で使用していた紡績糸(たこいと)で、針は父の手製で小さく、餌のご飯粒で針が隠れる大きさの物でした。
 タナゴが良く釣れ、時々「はや」も掛かり、いずれも鱗の輝きがとても綺麗で赤、青、紫、黄色と虹の様に照り輝いていました。
 中1の時(昭和28年)山側の清水が流れ込む傍の岩場で、「何か釣れた」と思ったがほとんど引きが無いので、小枝かな? と思いながら引き上げると、水面に見たこともないものが現れました。10cmほど頭が出た時、跳ねて糸が切れ水中に沈みこみました。後で、図鑑で調べると、それは「オオサンショウウオ」でした。
 山側のいつも日陰の所の浅い所にいた「はぜ」の仲間は砂の色、深い所のは真っ黒でした。御前島付近では、沖合で銀フナ、岸近くは透明な6cm位のエビが良く釣れました。懐かしい思い出です。

独自進化をとげた多鯰ヶ池のタナゴ
独自進化をとげた多鯰ヶ池のタナゴ
多鯰ヶ池のドブ貝
多鯰ヶ池のドブ貝

独自進化したタナゴの絶滅

 多鯰ヶ池は、北側が砂丘に接し、南側は110mの高い山と、北側に接する広大な鳥取砂丘に面する湖周3kmの淡水湖です。しかもこの池は尻無し池で、流れ出す川がありません。何万年も外部から隔離された孤立池のため、ここに生息するタナゴは、新種と騒がれました。タナゴは「カラス貝」や「どぶ貝」に卵を産み付けて繁殖子孫を残してきました。

 南側の山がゴルフ場に造成された時、山の保水力無くなり山側から湧き出していた水が激減し、その年の干ばつも手伝って、砂丘からの伏流水も減少し、池の水位が3mも低下し、浅瀬に生息していた「カラス貝」「どぶ貝」が激減し、それに追い討ちを掛けるように、近年、心無い人がブラックバス、ブルーギルを放した為、貴重な新種のタナゴが絶滅してしまいました。

多鯰ヶ池弁天宮

「弁財天は明治初期は島であり、石を投げても届かぬ程、砂丘から離れていたが、風砂が激しく、大正年間に陸続きとなった」と歴史記録にあります。明治34年生まれの父は「弁天島」とよく言っていました。
 対岸から見ると、昔は島であった様子が分かります。現在ここは「やぶ椿」の群生地ですが、大きな「シイの木」も有り、子供の頃(昭和24年-28年)、よく拾いに行ったものです。

多鯰ヶ池弁天の下方の水辺
多鯰ヶ池弁天の下方の水辺

多鯰ヶ池東岸を走った旧国道9号線

 昔の国道9号線は山の中をくねくね曲がりながら走り、切り通しを出た所で、ぱっと視界が広がると同時に90度の曲がりで、バスの後部座席に乗るとバスの後部は崖の上にはみ出し、大変怖い思いをしたことがあります。
 旧中ノ郷小学校時代(覚寺口)、このバスが崖から半分落ちたことがあります。そのときは、中ノ郷小学校の生徒も総出で引っ張り上げました。今では考えられないことです。

旧9号線の難所を走るバス
旧9号線の難所を走るバス

追い後スリバチと多鯰ヶ池

 写真は1961年(昭和37年)の撮影です。手前が多鯰ヶ池、先方に見える砂丘の黒い山が、追い後スリバチの松山です。その手前が造林の済んだ所です、追い後スリバチは昭和34年頃までは独立していましたが、昭和38年に松林は多鯰ヶ池の造林地とつながりました。しかし、その2年後の昭和40年7月に砂丘隋道(トンネル)が開通し、造林の中ほどを引き裂いて、新しい国道9号線が走りました。

追い後スリバチと多鯰ヶ池
追い後スリバチと多鯰ヶ池

多鯰ヶ池の保安林

「明治4年に、県が多鯰ヶ池の北側に松、柳を植えたが失敗に終わった」とあります。
これは1960年の航空写真の赤いマーク部分と思われます。航空写真が示すように、昭和26年頃、マークから弁財天までは草木1本も無く、砂が池にずり落ちていました。砂丘トンネル辺から池に下りる道があり、池の右脇は山からの清水が流れ込み、傍に柳の大木がありました。

鳥取砂丘から多鯰ヶ池を望む
鳥取砂丘から多鯰ヶ池を望む

多鯰ヶ池の北側の道

 これは昭和33年、3角石より西50~100mからの撮影です。向こうの山は、多鯰ヶ池の東南の山並みです。現在はゴルフ場ですが、昭和27年頃までは、中ノ郷小学校のさつまいも畑でした。学校の裏山から砂丘トンネルの上から右になります。真っ直ぐは多鯰ヶ池、左は今のこどもの国から砲台、馬の背、我家へのコースが、私の週一程度、道草下校でした。
 下図のごとく、多鯰ヶ池の北側に沿った昔の但馬道と、それに平行して9号線がありますが、砂丘トンネルが出来る前は、道は「合ヶ谷スリバチ」でつながった砂防林の中を通り、妙地鼻保安林から湯山集落の端へ通じていました。

昭和33年頃・砂防造林の中の道路が左に見える(現在の9号線あたり)
昭和33年頃・砂防造林の中の道路が左に見える(現在の9号線あたり)
昭和初期の多鯰ヶ池周辺の道路
昭和初期の多鯰ヶ池周辺の道路