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浜坂新田の歴史
 荒神山と荒神山遺跡
 荒神神社
 伴山・伴九郎兵衛と九郎兵衛の祠跡
  十六本松の地名の由来
  十六本松ゴルフ場
  松林の井戸水と野点
丸山の歴史
  丸山城と那佐日本之介
  丸山の離水海食洞
  千代川や袋川の氾濫と重箱

浜坂新田の歴史

荒神山と荒神山遺跡

 昭和28年、砂丘の旧砲台近くの「馬の背」から西方向を見た風景です。左は都築山、右は新田荒神山、中央が下の山です。荒神山は、山全体が花崗岩であり、古くは鳥取城の石垣構築や賀露港築港時にここから砕石しています。東斜面は風化花崗岩で砂に近く、戦中はサツマイモが植えられていたようです。大正13年、この山の南面に7基の横穴式墳墓が発見されています。副葬品から見ると、これらは古墳末期、大化の改新頃の物のようです。

荒神山遺跡から発掘された土器群
荒神山遺跡から発掘された土器群

荒神神社

荒神山・左に神社鳥居
荒神山・左に神社鳥居
荒神神社の祠
荒神神社の祠

 荒神さんは岩山全体を信仰の対象とし、日本海の激しさを沈めるものとして、古くから祭られていたようですが、鳥取城石垣や鳥取港、突堤の石を砕石に当たり、火薬発破を使用するため、対象が「火の神さん」と変化してきたようです。奥津彦神を祭神としています。 昔は、日本海からの厳しい荒波が新田一帯を襲うのでこれを鎮めるために、山頂に祭られていました。山頂の社は、1955年の砕石の折に下に降ろされ、河川改修時に現在位置に移っています。

伴山・伴九郎兵衛と九郎兵衛の祠跡

伴山と新田村
伴山と新田村

 上の写真を伴山と言います。幕末の天明の大飢饉時には、ここに二・三千人が収容され、新田開発が行われました。1950年頃は、大きな松林が広がった美しい景観で、よく自転車で松林を越えて千代川まで釣りに行っていました。

 周辺の畑には、深さ3mほどの井戸が3~5ヶ所あり、水汲み潅水ができました。これが、江戸時代に新田を拓くことができた背景にあると思います。

伴山を中心にした地図
伴山を中心にした地図

 写真は伴山を中心にした周辺地域です。この山の先が海側の十六本松に続いています。伴山から下の山までの、荒神山を囲むような松の植林帯を「伴山飛砂防止国有保安林」と言います。保安林の幅は30~50m位で、松林の木は大きく育ち、その下はきれいで大変歩きやすいところでした。

 伴山は、江戸時代には放れ山(はなれ山)と云い、禿山だったようです。180年前「1780~1790年頃」3百石取りの家老伴九郎兵衛が隠居後、再三の失敗にめげず、ここを起点に北は十六本松、南は下の山まで、荒神山を囲むように植林に行いました。天明の大恐慌で日本全土が大飢饉になった時には、自分の造林した林に困民を収容し救済するとともに、新田を開発して多くの窮民を救済しました。

 夫婦に子供が無かったので、この山に祠を立て、自分たちの墓地としました。新田に伴という姓の家がありますが、九郎兵衛のお墓を守ることで、伴姓を継承しているとのことです。上の写真はカラ金の銅像台座です。隠れ切支丹であった九郎兵衛所有のマリア像とも、九郎兵衛自身の像とも云われます。本体は戦中に軍隊に供出されたと聞きます。

伴山の祠
伴山の祠
像の台座。マリア像とも九郎兵衛自身とも云われる
像の台座。マリア像とも九郎兵衛自身とも云われる

十六本松の地名の由来

 私が小学校3年の時に賀露の東善寺から聞いた話では、「1592年に大洪水があり、その時1000人以上の人が濁流に呑まれ、これを期に、この川が『千体も呑み込んだ川』として『千躰川』となり、その後、今の「千代川」と変ってきた」ということです。そして、この洪水によって八頭から流れ出た銘木で、十六本松の北に瑞松山と言う寺を建立し、庭に十六本の松を植えたことが名前の由来であるということです。
 その後、伴九郎兵衛が北は十六本松、南は下の山まで荒神山を囲むように植林し、今の新田村が出来ました。

十六本松の松の美林
十六本松の松の美林

十六本松ゴルフ場

 1929年(昭和4年)当時は、市内の各町内会の運動会が十六本松砂丘で盛んに行われました。
 昭和28年頃、この奥にゴルフハウスが出来ました。林を出た所が最終ホールで、当初9ホールでしたが、昭和34年頃に18ホールになりました。現金収入の無い地元民は、キャディのアルバイトをしました。
 当時、試合日の日当は18ホール3回で5000円で、しかも昼食付きです。今日のような芝生ゴルフであればキャディカーもあって楽ですが、当時の砂丘ゴルフは重いバッグとホール前の砂掻きをするため、トンボなるものを一緒に持ち歩きしていたので重労働でした。当時、大阪府庁の月給が7800円でしたので、我々一般庶民の出来るスポーツではありませんでした。現在では、ゴルフコースがどの辺りにあったのかすら分からないほど変わっています。

鳥取市十六本松のゴルフ場(鳥取市浜坂)
十六本松のゴルフ場 (鳥取市浜坂)

松林の井戸水と野点

 十六本松では、お茶の各流派毎に、春秋の季節の良い時期に野点(茶会)が行われていました。お湯は、茶店の東の井戸水を利用し、非常においしいと評判が立ったようです。この水は鳥取砂丘の砂を濾して出てくる水で、イオンを多く含んでいただろうと推測します。

鳥取市十六本松で野点(鳥取市浜坂)
十六本松で野点(鳥取市浜坂)
十六本松の中谷商店(鳥取市浜坂)
十六本松の中谷商店(鳥取市浜坂

丸山の歴史

丸山城と奈須日本の助

 天正9年、毛利方の吉川経家の指示で丸山城は築城されました。鳥取城の出城で、城主は奈佐日本助、他に、山県左京進、境与三右衛門、小石見衆、中間衆等、山海賊、佐々木三郎左衛門らが篭城しました。
 ここは秀吉軍の兵糧攻めに対し、毛利軍からの海上輸送の兵糧を、前の袋川から雁金砦を経て鳥取城に運ぶルートを守る要でしたが、浜坂弁天島で秀吉方の船大将吉川平介らが陣を張って川を見張り、浅野弥兵衛は対岸の秋里側に陣取り、川に杭を立てて舟運の通路を絶ちました。この徹底した輸送ルート封鎖によって鳥取城は飢えて落城します。そして、同時に丸山城も落ち、城主の佐日本助は、雁金砦の首将塩谷周防とともに、この地で自害します。

丸山城の慰霊碑
丸山城の慰霊碑
丸山城の慰霊碑説明文
丸山城の慰霊碑説明文

丸山の離水海食洞

 縄文海進時代に波の浸食によって出来た洞窟で、当時の海の深さをうかがい知ることができます。秀吉の鳥取城攻めの時、この穴に前の袋川から食料を積んだ船が入り、雁金山で荷揚げして、鳥取城内に兵糧を運んだという言い伝えがありますが、定かではありません。

離水海食洞(鳥取市丸山)
離水海食洞(鳥取市丸山)
丸山の離水海食洞の説明文
丸山の離水海食洞の説明文

千代川や袋川の氾濫と重箱

 昭和8年の千代川の大改修前を今に残す場所です。地図で見るように千代川が丸山~浜坂間で大きく蛇行し豪雨には摩尼川、袋川が氾濫して浜坂の中土井を直撃していたようです。

 重箱という名前の語源は、川の護岸工事の方法からきているとされます。 図の様に、水の浄化と水流の力を緩和するための方法が、あたかも重箱を重ねたようになっています。学術的には「粗朶沈床法」と言い、現在も自然を損なわない河川工事として見直されています。ここにも近い将来、多目的公園の構想があり、ひとつの歴史物件が消えかかっています。

昭和初期以前の千代川・浜坂で急反転
昭和初期以前の千代川・浜坂で急反転
新千代川・真っすぐにバイパスされている
新千代川・真っすぐにバイパスされている