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古砂丘、鳥取平野の形成
各地で発見された遺跡群
覚寺編
覚寺の人々はどこから来たのか 覚寺の地名考察
五智庵 狼庵 摩尼山とぼし坂 摩尼寺の謂れ
覚寺村の祖先西村家 覚寺の宮脇家
円護寺編
円護寺の人々はどこから来たのか 円護寺の地名由来
佛徳山円護寺 葭原神社 吉川経家の墓所 円護寺の石切り場
浜坂編
浜坂の人々はどこから来たのか
浜坂神社 大応寺と代々山 浜坂の地名由来 一里松と柳茶屋
古砂丘、鳥取平野の形成
1.約20万年前の鳥取地域
上図は約20万年前の千代川を中心とした鳥取地方です。当時は、気候が温暖な時代で、海面は15M以上も上昇していました。従って鳥取地方は大きな湾となって、山地は岬状に突き出し湾には大小の岩の島が点在していました。そして、絶え間なく中国山脈より千代川によって流出される土砂は湾内に堆積していきます。
2.7~4万年前の鳥取地域
7万年前には最後の氷河期時代がやって来ました。海面が徐々に下がり内湾に溜まった土砂が現れ、陸地となり、海岸近くに台地状の古砂丘が発達してきました。そこに4~-5万年前に大山が噴火し、多量の火山灰が降り積もります。
3.約6000年前の縄文海進
氷河期が過ぎて暖かくなると、再び、海面は上昇し始めます。約6000年前の縄文海進と呼ばれる頃にはピークに達し、現在よりも5~6mも高くなって鳥取地方は再び大きな内湾となりました。
4.縄文後期の砂堆積
縄文後期には海面降下が始まり、海に沈まなかった所を中心に砂が堆積を始めます。高所に棲んでいた人類がそこを降り始めます。
5.沿岸には砂丘が急速に発達
約2000年前の弥生時代には大量の砂が流出、運ばれ、沿岸には急速に砂丘が発達し、風砂が強くなって台地や山地をも覆って拡大しました。一般に云われる東西16K、南北2.5Kの砂丘とはこの黄色の所です、砂丘と鳥取市が台地となり、人類が住み着くようになります。
各地で発見された遺跡群
中ノ郷地区に於いては、多鯰池の南、高台の開地谷が早くから開け、32の墳墓と約1200点の遺跡物が発見されています。現在はゴルフコースになっていますが、そこには鉄剣や馬具も出土していることから、一帯を馬で駆け回っていたと思われます。当時、鉄剣や馬具を持ち得る者は相当の権力者であったであろうと考えられます。これらの遺跡物は県立博物館に保管されています。
近くの湯山6号古墳からも発見された鉄剣と兜又、開地谷のゴルフ一番スタート地点付近にあったとされる神社「大多羅大明神」の名前などからして新羅(朝鮮半島)の物かも知れません。
「大多羅大明神」は、後に浜坂神社として村社となっています。付近の各集落にも古墳や遺跡物が発見されています。縄文海進の終末期の頃から、海に近い陸地から人が集団で住み着き、漁狩や狩猟して生活したとされています。中ノ郷地区では、縄文人の生活跡は発見されていませんが、福部の湯山池北側では「直波遺跡」と言われている所は縄文人の竪穴住居跡が見つかっています。多鯰池南面の山、開地谷から鳥打山稜線を越せば、直ぐに覚寺地区となり、覚寺から、鴻巣山を越えれば円護寺地区です。円護寺の妙見川改修では、弥生時代の遺跡が多く見つかっています。
覚寺、円護寺、浜坂の人々は、内陸部が徐々に農地に適して来ると、その近くに移り住んでいきます。久松山の北西側から伸びた峰を「雁金山」と言い、当時、円護寺側、丸山側とも水鳥の飛来する沼地であったとされています。垂仁天皇の時代、この地区は、沼池であり、飛来していた白鳥を捕獲し、天皇に献上した事で、鳥を取る事から「鳥取」の地名が付いたと因幡誌に記されています。
一方で、神功皇后の臣、武内宿禰がこの地に下向されたとき、たくさんの兇徒を退治する時、多くの幡を立てとたされ、それで「幡に因(ちなむ)というところから、因幡と言う名前が生れたとも福部誌に記載されています。
また、近年発刊された「天照大神と瀬織津姫」は、天照大神がこの地方を伊勢に巡幸されたとき稲作を伝え、そこから「稲葉」と言う地名になったとしています。
覚寺編
覚寺の人々はどこから来たのか
村名からして、大きなお寺があったことが想像されます。しかし、現存する寺は、檀家を持たない摩尼寺のみです。そして、この地区の檀家はほとんどが湯所の天徳寺です。
田中新次郎氏によれば、多鯰ヶ池の南側に天徳寺(多鯰山長福寺)の前身があったとされます。覚寺の家々と天徳寺の接点があったのは、多鯰ヶ池に天徳寺があった頃かも知れません。恐らく、覚寺と多鯰ヶ池には、深い関係があったと思われます。
また、その後、多鯰池にあった南側天徳寺(多鯰山長福寺)は、福部山湯山の寺山に転寺になっています。覚寺に加えて、湯山地区の現在の檀家が全て天徳寺となっているのはその為でしょう。地元では寺山と言われている平坦な場所があり、現在梨園となっている所に石塔らしきものがたくさん見つかっています。ここから1573~1592年の天正年間に現在の湯所に移っています。こういう歴史的経緯などによって湯山、覚寺、円護寺のほとんどが天徳寺の檀家となっているのだと考えます。
湯山は、中世には「湯山千軒」と呼ばれ、相当の賑わいであったようです。1812~1829年「宿院六平太義般」によって湯山池が干拓されるまでは、陸、海の交通の要所でした。岩戸港から細川を舟で上がって湯山池に入ると、波穏やかな内湾だったのでしょう。山湯山側に船の荷揚げ場所があったと福部村史に記されています。
湯山から覚寺間は「さば街道」と言われる古道があり、かつ、摩尼寺を擁する覚寺も多くの人で賑わったとのでしょう。明治までは、宿屋もあり、人力車の営業所もあって、摩尼寺詣や但馬方面への人々で賑わったとされています。村の入口には「あわもち屋」「白饅頭屋」と呼ばれる茶店があり、近年まで屋号として残っていました。覚寺には古くから人が住み着いていたようで、新9号線建設作業の時、弥生時代とされる多くの遺跡物が発掘されています。昭和23年、小4の時、白鳳時代(奈良時代)の屋根瓦を椎谷神社付近で同級生が発見しています。
これは、覚寺の氏神である「瓦葺大明神」(因幡誌)が存在した証拠だと考えます。福部の細川の善光院は676年に白鳳時代の屋根瓦で作られています。この時代、瓦で屋根が作られた神社があるということは、非常に財力や信仰心の大きい人が、すでに覚寺村に居たことを示しています。
覚寺の地名考察
覚寺の地名由来ははっきりとしていません。幾つか考えられることを書いてみます。
第1説は大覚寺。覚寺の進藤家の石塔に刻まれている碑文によれば、覚寺に大覚寺という寺が存在し、秀吉の鳥取城攻めで兵火にあったとされています。この大覚寺が覚寺の名前由来になったと考えます。本尊は薬師如来であると記されていることから、天台・真言の平安密教でしょう(有名な京都の大覚寺とは、1200年の歴史誇る真言宗大覚寺派の大本山です)。同石碑には石安寺という寺院も覚寺にあったと伝えています。覚寺には、摩尼山だけでなく、石覚寺、石寺など幾つかの平安密教系の寺があったようで、これらの背景が覚寺の村名につながっていると考えます。鳥取市内の大覚寺という地名がありますが、この村名もかって寺があったことに由来し、「倉田社記」では台覚寺となっているようです。
第2説は摩尼寺を開いた慈覚大師の「覚」。摩尼寺が創建されたのは834年で、そのころの慈覚大師は円仁と呼ばれましたが、866年に慈覚大師の称号を清和天皇より受けています(円仁が無くなった後に付けられた)。
隣村の円護寺は、開山当時、円仁と呼ばれた慈覚大師の「円」をとったと考えられ、覚寺が慈覚大師の「覚」をとったという説には説得力があります。
第3説。古くは角寺で、江戸元禄時代に覚寺と改められています。角(つの)からは鹿が連想され、村付近や、摩尼寺付近に多くの鹿がいたとも考えられます。たとえば、河原町西郷地区の一ノ宮、多加牟久神社付近では、ほんずみ「本角」、ほんが「本鹿」、しかの「鹿野」の様に神様の近くにはこのような集落名があります。また、鹿と仏教とは昔から深い縁があります。お釈迦様が初めて説法された場所は鹿野苑(ろくやおん)といいます。 いずれにしても、覚寺地域の白鳳瓦や摩尼寺などを考えると、覚寺は、相当に古くから重要な地域であったのでしょう。
五智庵
創立時期は不明ですが、昔、五智庵が覚寺にありました。昭和初期まで美しい庵主(安寿)様がいたそうです、この庵には、五智如来という平安密教の五人の如来(大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)様が祀られていたようです。六地蔵も祭ってあります。覚寺の進藤家碑文では、安永6年(1777)に、進藤家が五智庵を寄進したとあります。覚寺に石安寺という仏寺があり、廃寺になった後、そこの残存仏を祀ったとしています。
狼庵(おおかみあん)について
覚寺村のはずれに狼庵という庵がありました。この名前は摩尼寺に登る谷が大きく「おおたに」が訛って「おおかみ」となり「狼」の漢字を当てはめたとされています。そこには、衆生を救う仏様であるという鯖如来が安置され、恵心僧都源信の作であると伝えられています。恵心僧都源信とは、平安時代中期の天台宗の僧です。このことから「狼庵」は天台密教だったと察せられます。
明治初期には、そこに住む人が無く廃屋となり、今は石塔だけが昔を物語っています。天保の大飢饉時、以下のような記録が残っています。1831年、東北地方から始まった天保の大飢饉は、のちに全国に及び、その窮状は悲惨を極めました。鳥取藩でも例外ではなく、鳥取藩領へ、隣国の但馬・播磨・美作から飢えに耐えかねた人々が多く入り始め、藩内の町や村にも、行き倒れや捨て子が数多く見られるようになります。1836年の夏、邑美郡覚寺の狼庵に50人ほどの尼僧が集まり、法華経の加護を信じて祈ります。1840年、覚寺の狼庵の良卯尼(りょううに)が、法華経のさらなる加護と餓死者・病死者の冥福を祈って供養塔を建立する。 覚寺が因幡の信仰の中心の一地域であったことが想像される記録です。覚寺の村名は、やはり、何らかの信仰に関係するものなのでしょう。
摩尼寺とぼし坂
摩尼寺に行くのは、覚寺村のはずれの土橋(念仏橋という)を渡りました。ここから坂道となり、これから先を「ぼじ坂」といって佛界となります。昭和40年以前は道は狭く、昼でも薄暗く、車の乗り入れが出来ませんでしたが、昭和40年代頃から摩尼川の治水工事とあわせ、道路の拡幅。舗装、川の拡幅や橋の架け替えが行われて、名前も大背橋となっています。
大背橋から念仏を唱え仏界に入ります。大背橋の名前は、坂道がきつく、幼子はこれから背負われて登ることからつけられたようです。少し先には「継子落とし」と呼ばれる小さな滝があります。近くに立つ石塔は、滝壺に捨てられた幼子の供養であったのでしょうか。
「因幡誌」には、「摩尼寺に詣づれば道の右手にあり。谷川の流れここにて小さき瀑となる。側に不動尊を安置す。昔。継母一人の継子を具して帝釈へ詣でり。ここに手水にことよせ継子をこの瀑下に落として殺したりと。隣邑円護寺に継子谷といふあり。これも継子を捨てたる所といへば、さることもありにしや」と綴られています。
大背橋から200m先に桜見橋があり、さらに数十m上がると左に小さい柱状石の露出場所が見えます。さらに20m上がると、山側に多くの石塔が見え、すぐに、右に小さい柱状石の露出場所が見えます。
もう少し登ると射撃訓練場入り口で、脇の険峻な岩山が鳥山です。「因幡民談記」によると、大昔この岩山に一本の松があり、ここで金色の鶏が鳴くのを聞いた人は幸福に成ると言い伝えられていました。現在は、この一本松は枯れて無くなっていますが、昭和27年まではあったのを記憶しています。これを過ぎると、石段下の左右に門前茶屋が見えてきます。左側の茶屋が江戸時代から続く源平茶屋で、創業者は摩尼寺に雇われた源兵衛で、その名前から源平茶屋という名前にしたのだろうと云われています。
摩尼寺の謂れ
摩尼寺は、天台宗の法華経の内、摩詞止観からあらゆる仏法を説き、初めて女人も受け入れた事から、摩詞止観の「摩」と初めて女人も受け入れた事から「女=尼」から摩尼寺と成っているとされます。天台宗で初めて女人禁制を解いた寺なので、老若男女がお参りできる寺にて、中国33番観音霊場札所の番外で多くの人のお参りがあり、春秋の彼岸は特にすごく行列が二里位続いていたそうです。
平安時代から大山寺と共に天台宗の拠点として大きな影響力を持ち、室町時代には京都の五山禅僧の間にも知られていたといいます。江戸時代には、鳥取城や天神山から見ると北東にあたるため鬼門鎮守の寺院として鳥取藩歴代領主からも庇護を受けました。天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻めで焼き討ちにあい多くの堂宇が焼失しましたが、江戸時代、池田光政・光仲によって再興されています。
覚寺村の祖先西村家
覚寺には「西村」が非常に多く、同期の西村貴女の話によると、西村家は覚寺の初代と言われ、屋号を「元西」といい、家系図を見ると、彼女で12代目だと言います。ざっと270年前((江戸時代初期が初代)となりますが、墓地の石塔は大きい物だけでも数え切れなかったといいます。石塔の字も風化して判別できない物が多くあったとのことです。
苗字、帯刀が許されていない時代で、西村家が苗字、帯刀が許され、苗字をもって家系図が作られていることは、驚くべきことです。庄屋でも苗字の無い時代だったのです。
苗字の「西の村」の西は、どこを基準に付けられたのでしょうか。恐らく、多鯰ヶ池の開地谷か、福部村湯山と考えます。開地谷なら、鳥打山を越えて一番に覚寺村に乗り込んで農業の基礎を作ったのでしょう。
一方、湯山は中世には「湯山千軒」と言われ、昔から大層な賑わいでした、浜湯山、山湯山の間には湯山池があり、この池は岩戸から細川→海士→湯山池と海と繋がり、山湯山側には舟の荷揚げ場所も在ったと福部町史に記載されています。早くから開けた湯山池の辺では、狩猟生活のみならず水稲技術もあり、狩猟生活より安定した生活の得られる水稲技術を持って覚寺地区に最初に乗り込んで来たのが、貴女の先祖かもしれません。
いずれにしても、多くの「西村」を分家するだけの地番力を手に入れる事が出来るのは、最初の入植開拓者か、同時に入植開拓者の中の一番権力者であるはずです。西村家の家系図は、鳥取藩より苗字帯刀を許された時期をもって創られ始めたものと考えられています。昭和26年小4の時の調査では27軒の内11軒が西村であり、あまり多くの西村性で驚いた記憶があります。屋号「元西」の話によると、昔の西村地番は、9号線北に一部、西は渡辺美術館付近、東は円護寺の中之郷小学校近くまであったと聞いています。他方、浜坂には米原が多く、これも、覚寺と同様に、開地谷などから最初に浜坂に農業を求めてやってきた家系なのでしょう。
覚寺の宮脇家
元西村家近くに宮脇家があります。元宮脇家は、毛利と秀吉の戦いに於いて、久松山と雁金山とを繋ぐ「さいのかみたわ」を落とした宮部善詳坊の家老の筋ということです。宮部善詳坊は徳川時代の鳥取池田藩となるまでは鳥取城に居ましたが、関が原の戦いで西軍(豊臣方)に属したため、没落し、宮脇氏近江の長浜に帰らず、覚寺に住んだそうです。屋号を前庄屋といいます。
円護寺編
円護寺の人々はどこから来たのか
円護寺村の祖先は、どこから、いつ来たのでしょうか。円護寺遺跡は古墳時代のものとされ、よく似たものが、開地谷遺跡にも出ています。覚寺と同様に、檀家は天徳寺です。近年は隧道が出来、天徳寺までの距離が近くなっていますが、昔の久松山の北を通る道は、非常に峻険な山道であり、天徳寺に行くには大変な困難があったようです。従って、天徳寺が多鯰ヶ池にあった頃から関係があったと考えられます。
いずれにしても円護寺村の祖先も、近隣で最古の遺跡を持つ湯山、または近接する多鯰池の開地谷から移住して来たのでしょう。
円護寺には、覚寺の西村家のような分家を持つ家系はありません。山がちで土地が少なく、大地主がいなかったのでしょう。中世は、覚寺石、円護寺石と言われる石の細工が村の生活基盤であったようです。
円護寺の地名由来
因幡誌によると、村名はかって当地にあった古寺「円護寺」にちなむと云います。もとは円郷寺と記され、江戸元禄時代に円護寺と改められたといいます。他の資料では、円江寺とも記されているようですが、共通は「円」。僧円仁、もしくは、円仁が開いたとされる円護寺の円に因んでいるのでしょう。
佛徳山円護寺
このお寺は円仁による開山であるとされています。円仁の円を取って、円護寺の名前が付けられたのでしょう。地域名もここから発したと考えられます(慈覚大師の修行中の名前が円仁です)。
摩尼寺より先に開山したこのお寺は西国33番札所の3番であり、ここの先手観音はいろいろの悩みをお救い下さるありがたい仏様です。同じ境内に瘡守稲荷が祭られ、一昔前は、吹き出物や、皮膚病にご利益疫があり、遠く四国からのお参りがあったようです。近年は皮膚がんなどにもご利益があるとしてお参りの人が多いようです。
葭原神社
起源は不明ですが、神社境内に茂る椎の大木は4-500年以上経っているようです。
祭神の品陀和気命(ホンダワケノミコト)は誉田別尊とも書き、応神天皇のことです(一般に、八幡神社の祭神は、誉田別尊で、応神天皇のことです)。ここも、明治元年に葭原神社と改名していますが、以前は八幡宮として祭ってあったようです。昔、この一帯は「よしはら」と呼ばれていたので、「葭原」の字が当てられたようです。
応神天皇は神功皇后が神かかりして、二ツ山の弥長神社に於いて出産した神の子であるとされます。王神=応神であり、鉄の文化が普及した4世紀に、大和朝廷は大いに発展、山の民、海の民をことごとく平定し朝鮮までも勢力を伸ばしました。このような軍事的勢いを尊び、自ら八幡太郎義家と名乗り、朝廷を守る源氏の氏神として、その霊威な武神を八幡宮として祭ったのです。鳥取の山名や久松山の毛利、池田は、武神である誉田別尊=応神天皇を、八幡神社として祭っていたのでしょう。
吉川経家の墓
吉川経家(きっかわつねいえ)は岡山の毛利から、鳥取城に、羽柴秀吉の攻略に備え、派遣されてきた武将ですが、経家の篭城と秀吉の兵糧攻めの攻防に敗れ城兵を救うため城内で自害しました。ここの五輪塔がその墓です。
円護寺の石切り場
円護寺村は、先に記した様に、耕作地が少なく、山の恵みを100%活用し、春、秋の彼岸は墓に使用する非榊(各地で呼び名が異なり「せんだら」「しゃしゃき」)を売り、正月はしめ縄で「ゆずりは」「うらじろ」を取り、春は山菜、秋はきのこ、各種の薬草を取りという生活をしていました。
そして、近世では、石を切り出し、土台石などの細工をして生計を立てていました。円護寺の隋道が出来てからは少し余裕の有る家庭では市内に職場を求めて勤めに出るようになったようです。石切り場の跡が残っていて、そこに解説が載っています。石は、「円護寺石」または「覚寺石」と呼ばれ、昭和の初めまで産出していました。海底火山から噴出した軽石などが堆積してできた凝灰岩です。色は淡緑色をいていました。火に強く、加工しやすいために、家の土台などに用いられましたが、明治以降のコンクリート普及によって衰微していきました。円護寺では、昭和の初めまで、石工を職業とする人が大半だったともあります。
浜坂編
浜坂の人々はどこから来たのか
浜坂の人々はいつ頃、今の集落に落ちついたでしょうか。
近隣では、開地谷と都築山、荒神山に遺跡が見つかっています。都築山は元千代川の右岸に面しています。山は、赤土山のため穴を掘る作業が容易です。この立地条件の為か、22ヶの横穴式墳墓遺跡が発見されています。古代のお墓です。それまでは大量の砂に埋もれていましたが、山すそを流れていた元千代川(袋川)改修工事や浜坂団地開発のために、砂の除去していたところ発見されました。
1792年の大洪水で、652人の死人が流れ着いたと記載のある溺死海会塔が赤丸の所にありましたが、住宅造成工事で上方に移動しました。この頃は都築山の前面は、海水と砂丘、摩児川、千代川の真水と合流地点で魚類が豊富である一方、川の影響で昔は沼地であったと考えられます。徐々に水面が降下し、上の方から陸地となった以降、最初に稲作を始めたのは「米原」の先祖ではないでしょうか。大きな水田を持つことで14の分家が出来たと考えられます。
「米原家」は豊富な魚業資源により現在の大応寺付近で魚の市場を開いていたので屋号を「市場」と言われています(牛の市場とも云われています)。米原家は52代で、先々代の米原美喜雄の曾祖母の話によると、「浜坂には「米原」と云う苗字が14軒あり、自分の所から分家したものである」との話を聴きました。また、「網屋」(あじや)と言う屋号の「米原」家は明治初期まで柳茶屋に網小屋を持っていたとも聞きます。
浜坂の犬橋の傍の橋本家は14代です。
20-25年で代1子が出来るとして約380-280年前の話になります、江戸時代のことです。 小学校の同級生橋本公夫君の母、橋本和子(92歳)の話によると、「上土居から多羅山に登る途中に清水谷という所があり、清水が湧き出ており、その場所から、この浜坂の地に降りてきたと先祖から聴いている、橋本家の墓は清水谷にあったが、私の代で『寄せ墓』として代々山に移した「とのことです。清水谷は、名前のとおりに清水が湧き出ており、近くには生活できる平らな所もあったそうです。恐らく、その前は谷を上ったところの開地谷から来たのでしょう。
浜坂村の昔庄屋を努めた須崎家は72代と言われ、昭和25年頃には多鯰ガ池(ゴルフ場の下)に墓があり、覚寺村の上の古い9号線(砂利道)をお盆、お彼岸には荷車にお花を山ほど積んで墓の近くまで押して行く手伝いをしていたそうです。大小の石塔が数え切れないほどあったと云い、一代20~25年で考えると1500年前から続いていると考えられます。古墳時代の開地谷墳墓遺跡の頃です。古墳時代の終わりから多羅山を下り、清水谷経由で現在の集落に落ち着いたのかも知れません。
浜坂神社
浜坂神社は、昔「大多羅大明神「と言い、大昔、多鯰が池の南(現在の鳥取ゴルフ場の一番ホール付近)に在ったとされます。上土井から「多羅越えして~」という話を近年まで聞いたことから、浜坂の大半は開地谷から降りて来たと考えられます。
中田家に伝わる浜坂神社の社伝によると、漁民の守護神であったが「南面は漁村亡びて農村となりし後の事ならん」とあります。即ち日本海と中ノ郷地区が見渡せる開地谷の鳥打山の稜線近くに、大多羅大明神は鎮座していたのでしょう。その後、浜坂から大多羅越で登って来たところ「現在の鳥取ゴルフ場の1番ホール付近く」に遷座され、開地谷の人々が、現在の浜坂地区に移住するのに合わせて遷社されたのではないでしょうか。明治になって神仏分離により、浜坂神社と改名して村社となっています。祭神は大己貴の命です。
大応寺と代々山
この寺の言い伝えによると、「代々山の南に、平安時代初期806年開創の寺があり、一時16を数える堂塔があり、秀吉の鳥取城攻めのときに焼き討ちに遭って(または、大水で流され)、一時鹿野へ遷移していた」とされます。現在の大応寺は、1703年が正式の開山とされていますが、その前身についてはよく分かっていません。江戸時代の諸記録によると、本尊は十一面観音となっていますが、今は聖観音に替わっています。この経緯もよく分かっていませんが、この地方では最大の大きさを持つといわれています。両脇の等身大金剛力士は、1697年池田綱清の生母、上野厚恩院香方が寄進された貴重なるものと伝わっています。
『大応寺』裏山(北面)が代々山であります、浜坂の墓地として代々祭られています。
池田藩は、黒船の対策で、代々山の北西に鉄砲鍛冶場を作り、砂丘に向けて鉄砲、砲術の訓練を行いました。山には、藩主が訓練を参観された折に休息された場所があり「床机床」と言われました。昭和15年から22年頃までは鉄砲鍛冶場はグライダーの修理工場となっていました。明治になると、ここで招魂祭が行われ、この山を招魂山とも呼ぶ人もいます。
浜坂の地名由来
浜坂村を過ぎて砂丘に出ると、砂一面の砂浜でした。坂を上って浜に出る所の村としてこの名前が付けられたのでしょう。今は無い浜坂スリバチは、巨大「あり地獄」の様で東北大学の先生が「すり鉢」と命名し形状を定義されました。
下の図は、浜坂スリバチのイメージ画ですが、台所で使用するゴマ等を擂り潰す器の『スリバチ』に非常に良く似ていることから、鳥取砂丘にある30~35度勾配の窪み、又は砂山をスリバチと云います。
浜坂砂丘にある内陸スリバチのうち、浜坂スリバチほど円錐に近いものはありませんでした。三方より押し寄せる砂と、湧き出る水が浜坂村の川へ押し流すことにより、流れ出す方向のみが開いた地形となっています。学術的にも重要でしたが、今は宅地化されて消滅しています。
一里松と柳茶屋
砲台は、北面、日本海、東、岩戸湊、西、賀露港が見渡せる位置に作られました。すぐ近くにある一里松は、鳥取城から一里にあるという但馬街道「浜の道」の目印です。この地図は昭和8年の陸軍が測量して作った砂丘の地図ですが、中央の朱色部分が砂丘の屋根と言われる通称「馬の瀬」です。
そこから東に20mの位置が砲台場所です。さらに南の山に入ると「柳茶屋」=上ノ山=「こどもの国」です。ここは1842年に藩が植林して新畑地を開墾すると同時に、藩士の訓練後の休憩所とされ、一時5-~6軒の茶屋店がありました。茶屋近くには、清水が懇々と湧き出る所がありました。昭和18年を最後に、「柳茶屋」は浜坂に降りたとのことです。このこ湧き水は、一旦砂に潜り、下の浜坂すり鉢の底から音のするほどの勢いで噴き出し、これが浜坂村中を流れ、村の生活水にもなりました。
犬橋・犬塚
この流れの川尻は覚寺摩尼川と袋川の3つが合流しており、豪雨になると、ここにかかる橋が流され、この橋を利用する但馬街からの旅人が難儀していました。近くに住む屋号「あたらしや」の「ポチ」と言う犬の首に報謝用の入れ物を付け、橋の渡る旅人からお金を集め、そのお金で立派な橋をつくったということです。そして、この犬が亡くなった時、感謝の意味で立派な石碑を建てたというのが犬橋・犬塚のものがたりです。