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私の生まれ故郷ー双子スリバチ
グライダーの思い出
柳茶屋の記憶
浜坂スリバチの記憶
オアシスの湧水
 2つの水源・水脈
 鳥取大学乾燥地研究での湧水利用
 オアシスの水質検査でお墨付き
 浜坂村の生活用水 

私の生まれ故郷ー双子スリバチ

 鳥取砂丘と言われている東西16kmの内、浜坂砂丘鳥取40連隊の宿営地の官舎で、昭和15年、私は生まれました。ここには浜坂砂丘の双子スリバチのオアシスがあります。

砂丘地図
砂丘地図
旧陸軍40連隊の砂丘兵舎玄関
旧陸軍40連隊の砂丘兵舎玄関
昭和初期の乾燥地研究センター付近
昭和初期の乾燥地研究センター付近
我が家付近の砂丘スリバチ群
我が家付近の砂丘スリバチ

 父の話によると、「砂地に樹木が生い茂っている所が地下水位が高いと判断し、この茂みの中に深さ1.5m、全長70mの溝を掘ったところ800トン/日の水が湧き出た。そこで、末端に砂濾す層1.5m角、深さ1.5mを3つ設け、それを陸軍兵舎の洗面、水浴、洗濯、炊事用と分岐し、昭和5年から使用した」そうです。これがオアシス湧水の発見で、陸軍の砂丘兵舎及び戦後の乾燥地研を支えました。

 宿営地の見取り図を示します。我が家は右下の番宅です。宿営用兵舎は3棟あり、西の門からトラックが入りましたが、西の門は激しい風砂で昭和19年には埋まりました。門は、洗濯場の横から食料倉庫横に付け替えられ、食料倉庫に車が横付け出来る様になりました。

宿営地の見取り図
宿営地の見取り図
我が家
我が家

グライダーの思い出

 鳥取砂丘は湖山、浜坂、福部砂丘に分けて呼んでいます。浜坂砂丘は鳥取砂丘中央部に位置し、終戦直前砂丘でグライダーの訓練があり、小学3年の時乗せてもらってから本物のグライダーと模型のグライダーに病みつきになりました。本物のグライダーの製造は、今の浜坂小学校跡地で、藩政時代は鉄砲の鍛冶場工場でした。

模型飛行機を調整中の私
模型飛行機を調整中の私

 上の写真は、昭和28年、模型飛行機大会を翌日に控えて機の調整に余念がない様子です。

 大会は昭和27年を除く昭和25年から毎年あり、昭和33年まで続きました。倉吉打吹公園でも行われていました。当時模型飛行機を買うお金がありませんでした。桐の木が使われていた地引網の浮きが時々海岸に打ち上げられたものを水に一週間つけて潮抜きし、それを割って削り、リブとプロペラとし、胴体は障子の壊れたもので補強し、紙は母の肌襦袢を貰い紙の代用でした。補強はご飯粒を練って使用し、動力のゴムのみを購入しました。また、アルバイトもやりました。

十六本松ゴルフ場
十六本松ゴルフ場
十六本松ゴルフ場のクラブハウス
十六本松ゴルフ場のクラブハウス

  上の写真は、十六本松ゴルフ場です。
  ここで、コース外に飛んだゴルフボールを拾い集めるアルバイトがありました。10個で6円でした。
  昭和30年頃までは、浜坂砂丘を我が家の庭の如く模型飛行機を飛ばし、その地形や気象条件までを体で覚えました。模型飛行機を飛ばすには気象と流体力学が必要で、中学生になると鳥取県立図書館に放課後通い詰めでした。
 そのときの図書館は、現在は「わらべ館」になっています。

柳茶屋の記憶

 柳茶屋の山まで、乾研の先生と一緒によく薪集めに行きました。

「昭和18年頃、砂丘で砂嵐がひどく、その年の9月10日には鳥取大震災があって浜坂に下りて来た」と、屋号「いちば」の米原美喜雄氏の祖母ハルさんから聞いたことがあります。当初、柳茶屋は5,6軒ありましたが、風砂は厳しく、幕末以後は鳥取藩の訓練も無くなり、但馬街道の客も、鉄道開通、9号線の開通などにより激減し、次々と浜坂村に移住していったようです。

 柳茶屋に茶店が出来た時期の詳細は不明ですが、柳茶屋オアシスは江戸時代からあったようです。但馬街道を通ってきた人は城まで一里の目印の一里松が近くにあり、オアシスは恰好の休憩地でした。また、67mの標高により、江戸後期の黒船の攻撃に対し、西は賀露港、東は岩戸の沖が見渡せることから、一里松近くに砲台を設けられ、砲術訓練、鉄砲訓練などが行われました。その藩士たちの憩いの場でもあったと思われます。
 彼ら藩士の休憩場所として1842年(江戸天保13年)、鳥取藩が柳茶屋付近に数万本の黒松を植林したと記録がありますが、その植樹の範囲がどの辺りまでだったのかは判りません。数年後、畑地の開拓が出来たようです。恐らく、この頃に茶店ができ始めたのではないでしょうか。

 柳茶屋の尻無し池の水は一端砂に潜り、浜坂スリバチ底で、私が小学1年の頃には、音のするほどの勢いで水が湧き出していました。

柳茶屋の人々(山根家)
柳茶屋の人々(山根家)
柳茶屋跡地の池
柳茶屋跡地の池

浜坂スリバチの記憶

浜坂スリバチと湧水(昭和初期)
浜坂スリバチと湧水昭和初期)

 スリバチから湧いた水は浜坂村の中を井で川となって流れ、袋川、摩尼川の合流地点で合流します。
 この井で川は、市の水道がひかれるまでは村の重要な生活水でした。柳茶屋の尻無し池の水が枯渇した時期については不明ですが、恐らく、昭和34年の高松の宮の砂防視察の折、浜坂スリバチ上部から多鯰ヶ池に抜ける道路ができましたが、それが原因の一つとなっていると思います。砂丘から柳茶屋へ漉いていた水は、道路で寸断されたのでしょう。
 また、浜坂スリバチ底の湧き水も減少し、昔のように一ヶ所から水が湧き出る姿を見ることは出来なくなりました。しかし、水量は減少したものの、浜坂村の井で川は今でも健在です。
 柳茶屋の尻無し池は現在、黄あやめが群生しています。浜坂スリバチの昔の面影は、ただ傾斜のみです。

柳茶屋の尻無し池
柳茶屋の尻無し池
浜坂スリバチ跡地
浜坂スリバチ跡地

オアシスの湧水

2つの水源・水脈

 我が家の鳥取40連隊宿営地の馬の背オアシスは、現在でも水が湧き出しています。水源は2つあり、水源1は家の前の道路を基準にして、東から南にかけ扇方に砂を漉いて出てくる水で、奥田宅が現在使用している水源2は東と北の砂丘を漉いて出る水です。

砂丘の水脈図
砂丘の水脈図
ポンプ小屋
ポンプ小屋

 戦後の、小学校高学年から中学にかけて、この地の砂中に径75mmx1mの土管を数十本埋め込んで、そこから浸透して出てくる水を奥田宅と乾地研で共同使用しました。写真の左手(赤いマーク)がその時のポンプ小屋です。

乾燥地研のスプリンクラー
乾燥地研のスプリンクラー
双子スリバチ付近
双子スリバチ付近

 乾地研の本館が出来た後、松山の一部を削り、現在のドームの海側にグランドを造ったため、鉄気(かなけ)水が出たため、乾地研は市の水道設備の切り替えました。その時、水源2使用の奥田宅の水も濁り、市内まで水汲みに、父が自転車で出かけて行きました。
 これに先立ち鳥居先生が、砂丘の地下水の流れの実態調査として砂丘馬の背から西に100ヶ所位、30mm×5mのパイプを打ち込み、休日は70ヶ所以上の測定をさせられました。

 金曜日と土曜日が雨降りの翌日の日曜日は、必ず鳥居先生は出勤し、私も水位の測定に引っ張り出されました。パイプの運搬は重く、馬の背に上るのは大変でした。パイプの半分は下方に小さな穴が開いており、底から水が浸透してくる仕組みです。
 大雨が降ると水位が上昇し、パイプ群の水の高さをチェックすると、水源1の地下水は、馬の背から都築山に延びる水源の南側から東の馬の背に掛けて漉いてくる水と分かり、水源2は奥田宅前の道の東~馬の背の北西~松山までの扇型から漉いて来る地下水であることが分かりました。
 大雨の時、地下水の勢いが強く、1200トン/日と聞いています。2010年では800トン/日と聞いています(乾地研)。このことが先に記した砂丘の水脈図です。

湧水がつくった池
湧水がつくった池

 水源1、2の水を乾地研が使用するまでは、下流で大きな水溜りを作り、冬はカモなどが飛来しており、飛び立つのを網たもで取って、冬のタンパク源にしていました。今は埋め立てられ住宅が建っています。

鳥取大学乾燥地研究での湧水利用

 現在の大きな水槽が出来るまでの乾地研の潅水は、先に示した鳥取陸軍40連隊宿営地の見取り図の中で水浴と記されている丸い池からポンプで汲み上げ、ノズル潅水としていました。当初は、乾燥と風砂に強い植物の栽培をいろいろ試みていました。
 作物にもいろいろ挑戦しています。特に、この時代では珍しく、チューリップの栽培が試みられました。それが成功すると、日吉津村で大きなプロジェクトとして実施されました。

ノズル潅水
ノズル潅水
チューリップ畑
チューリップ畑

 昭和34年、松山の上(現在の本館)に本館が出来、大型機械も同時に導入され、山の西側にあった二子スリバチの山を崩し現在の乾地研の西圃場が出来ました。
 西圃場は低く、大雨が降ると大きな水溜りが出来ていました。写真でも判るように、この時期砂防林が植樹されたばかりで、ハマゴウが根を露出し風砂の厳しい所でした。圃場が拡大され、潅水用の水が不足して来たので、水源1,2の地下水が合流する付近、少し浜坂村側に経7mの丸い水槽を作りましたが、湧き出る水量が激しく、深さ10mの水槽が底から吹き上がる水と砂で2年半ほどで砂中に没しました。

西圃場を造る
西圃場を造る
当時の西圃場の様子
当時の西圃場の様子
水槽で水浴を楽しむ子どもたち
ファローガン潅水
ファローガン潅水

 この水槽は現在、乾地研の正門から入って研修施設の手前付近にあります。ここではこの水で、ファローガン潅水を行いましたが、一気に気温が低下し、植物の生育にはよくありませんでした。

 水源1を全面的に使用出来るよう、宿営地見取り図の赤5入浴場と倉庫後方に大きな水槽をつくり、圃場に本格的にスプリンクラーで潅水を始めました。
 平成元年、私は両親の介護の為にUターンしました。この時ドームが建設され、又も我が家の水源2の水が濁り、大雨の時は水源2境を越して水源1まで濁ったので、飲料水は乾地研の市水道水を使用しました。しかし、金気水をお風呂まで引いて温水器とサンヒーターを使用していましたので、この金気水で、どちらも駄目になりました。官舎は昭和18年の鳥取大地震で大きく傾き、襖、障子のたて合わせが子供の時よりおおきくなり、冷暖房の効率が悪く、下記、母の写真のところに台所、軍の食料倉庫は地震の影響が少なかったので、ここに風呂場、トイレを増改築しました。

 この増改築工事の際、軍の食料倉庫の南側を流れていた排水を壊すと、カワニナが多く生息している事に驚きました。母に聞いたところ、「終戦直前食料が不足していたので、軍人さんが持ち帰って塩茹でして食料にしていた。その時、洗った時に落ちこぼれたであろう。京大の先生が乾地研にお見えになった時、ここのカワニナは水が綺麗過ぎて、ホタルの栄養になるハラワタ部分が非常に小さくホタルが飛んでも光らないだろう」ということでした。排水路に生息していたカワニナは、写真の母の後ろの金魚池に餌として入れましたが、指先3cm位もあり金魚は食べませんでした。

母親
母親

オアシスの水質検査でお墨付き

 両親を送って7、12回忌後少し生活にゆとりが出来てきたので、№2の水質検査を保健所に依頼しましたが、飲料水として問題無いとのお墨付きを頂きました。乾地研の東側に於いて、砂丘を掻き回しをしなければ飲料水として問題が無いことが判りました。鳥居先生の浜坂砂丘の地下水の流れは正しかったと思います。
 又、十六本松線に湧き出ていた水が浜坂小学校のところの融雪用とされていました。浜坂団地3、4、5丁目が出来た時、二兒スリバチの尻無し池が無くなり湧き水が枯渇したことから、このルートも正しいと思います。

水質検査成績書
水質検査成績書
仮設住宅高砂集落
仮設住宅高砂集落

 この水は昭和27年、鳥取大火で被災した人達の仮設住宅高砂の飲料水でもありました。
 また、乾燥地研では、水源1を集めた大型水槽の水をポンプで馬の背の火山灰ローム層の標高につくった水槽に溜め、そこからの落差を利用てスプリンクラー潅水に利用しました。

スプリンクラー潅水
スプリンクラー潅水
点滴潅水
点滴潅水
チューリップ畑
チューリップ畑

 しかし大量の水を必要とし、又、スプリンクラー潅水では大気の温度が下がり、空中に漂う雑草の種を取り込んで、一年間連作対策で休耕すると、たちまち「ちがや」が生い茂って始末に負えませんでした。そこで、登場したのが、山本太平先生による「点滴潅水」です。

浜坂村の生活用水

 浜坂村の井で川沿いの家では、井で川の水を生活水として使っていましたが、上土井、中土井ではどうしていたのでしょうか。
 小学生時代、須崎、屋号あじあ、田崎家などの裏手では、鳥打ち山の麓下から懇々とした湧き水がありました。これは、4~5万年前の大山火山灰と層の下からの湧き出る水で、いわば鳥取砂丘の古代水です。その他、5~10m程度の井戸、又は裏山(鳥打ち山)の下がり水等、場所により様々な方法で水を得ていたようです。