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 福部砂丘と神功皇后・応神天皇
  神功皇后
  帰国時に立ち寄った二つ山(福部砂丘)
  駟馳山(しちやま)と「因幡」の地名
  応神天皇の産湯が浜湯山の地名由来
 福部砂丘の遺跡
  前方後円墳の謎
  三韓征伐とは「神功皇后」の里帰り
  応仁天皇の成長
  福部地区の圧倒的遺跡マップ
  

福部砂丘と神功皇后・応神天皇

神功皇后

 神功皇后は3世紀から4世紀にかけて活躍した人物とされています。第14代仲哀天皇の皇后で、15代の応神天皇(八幡神)」を生んだ神母とされています。応神天皇を生む直前には、自ら朝鮮に出向き新羅国を平定したという活躍を見せ、「武芸の神」としても深く崇められた人物です。
 神功皇后は、神懸りの非常に強い人で、韓国出兵の出発の時、青谷沖で大和朝廷の祖先でもある神代七代の祭神を祭る相屋神(相屋大明神社)に手を合わせました。当時、相屋神社(青谷)は丸山岬にあり、祭神は「あやかしね、」「あやかしこね」の夫婦神であり、アマテラスを産んだとされる神様です。神功皇后は、先祖を祈る事で韓国出兵の心の高揚を抑えんとしたのでしょう。

青谷沖
青谷沖
三韓出兵の絵図
三韓出兵の絵図

帰国時に立ち寄った二つ山(福部砂丘

 二ツ山は太古、多くの島に囲まれた風光明媚な港で、この港は海上交通の要所だったそうです。「因幡誌」における神功皇后が三韓出兵したと伝える記述では、「神功皇后征韓帰国の時此所に鷁舟(みふね、天皇の御舟)をつなぎ給う。」とあり、この神功皇后を祭神として祀る弥長神社周辺には、神功皇后寄港に由来すると考えられる地名が、「天王」「御前河原」「御凱陣」「琴弾浦」などに見られます。
 又、此の地は「応神天皇御誕生の地」とされます。神功皇后がこの港に寄港すると急に産気を催し、玉のような御子(応神天皇)を安産されたと伝えられ、産湯を使われたとされる井戸も残り、多くの伝説を秘めた地なのです。

 その時の産湯を使わされたという井戸も下の写真の如く(言い伝えで)残っており、これらに因んだ地名が「幡立」「御前河原」「琴弾き浦」「御凱陣」等です。明治に作成された字名を見ると、港の証である「入江の西」「入江の東」も残っています。これらは、神功皇后を祭神とする「弥長神社」が位置する二ツ山の東側に、神功皇后が立ち寄った証と考えます。

産湯を使った井戸
産湯を使った井戸
弥長神社
弥長神社

駟馳山(しちやま)と「因幡」の地名

 出産に当たり、家来の武内宿禰、他数名が近くの山に7日7夜、安産の祈願を掛けられました。その山は「7夜山」と言われ、後に、この山麓から名馬「池月」が生まれた事により、駟馳山の字が当てられたとされています。
 その時、地元の凶族が押し寄せんとしましたが、武内宿禰が多くの幡を立てたので、幡の多さに驚き断念したといいます。武内宿禰は、鳥取宇倍神社の裏山にわらじを脱いだので、鳥取宇倍神社の祭神が武内宿禰となり、「幡に因む」としてこの地方を「因幡」と呼ぶようになったとも云われます。

駟馳山(しちやま)
駟馳山(しちやま)
駟馳山(しちやま)の生月誕生の地
駟馳山(しちやま)の生月誕生の地
幡立
幡立

応神天皇の産湯が浜湯山の地名由来

 応神天皇の産湯として言い伝えのある池が存在し、ここから砂丘を漉いて出る井戸があることから、この集落に「濱湯山」の地名が付いたとされます。この水は現在も山側に湧き出し、古くから生活水として使われていました。
 江戸中期の安部恭庵の因幡誌には「高江千軒」、「湯山千軒」などとあり、太古から湯山は栄えていました。それを裏づけるように数多くの墳墓遺跡があり、福部砂丘をラッキョウ一大産地にするための圃場整備時、多くの五輪塔が出土し、砂丘入口に集約されています。また、浜湯山集落から東に200mほど先には、縄文時代の住居跡(直波遺跡)が見つかっており、浜坂などを含めて因幡の発祥の地の一つとされています。湯山池周辺の、豊かな海の幸などで生活したのだと想像されます。古代の湯山池は海にもつながっており、朝鮮半島など大陸の玄関口ともなりました。

湯山の五輪塔群
湯山の五輪塔群
直浪遺跡の跡地
直浪遺跡の跡地

福部砂丘の遺跡

前方後円墳の謎

 この地には、前方後円墳7個、方形が10個、円墳は無数は発見されています。
 縄文時代から弥生時代の住居跡や集落もあります。いずれも古墳時代(350~450)年頃の円墳で、朝鮮半島に由来するものとされています。神功皇后が三韓出兵から持ち帰ったと考えられる百済、新羅のものと思われる鉄剣や兜がこの地域の古墳から出土しているのではないでしょうか。湯山6号古墳からは鉄剣、兜も出土しています。
「神功皇后」の母方は、新羅の王子の子孫です。新羅の王は「天日槍の命(天日矛命)」であり、鉄剣を作ることができる民族であり、日本書記によると、新羅の王系列「天日槍の命」が日本に渡来したのは、垂仁天皇期の紀元前29~紀元後70年頃となっています。当然その鉄剣をもって渡来していると考えられます。

直浪遺跡の跡地
湯山遺跡の遺物

三韓征伐とは「神功皇后」の里帰り

 これらはすばらしい武器であり、神功皇后は、この文化を持つ自分の祖先の国を見知って置く必要性を強く感じ韓国へと渡ったと考えられます。つまり、三韓征伐とは「神功皇后」の里帰りで、一族の出世を新羅、百済、高句麗に見せたかったのではないでしょうか。それが三韓征伐の話となったのだと想像します。そして、百済の墳墓、高句麗の騎馬術、その他鉄器武器など持ち帰り、そのことが応神天皇の武神につながったと思われるのです。

応仁天皇の成長

 応神天皇(A.D.270)の成長、少年、青年期の記述が見当たらないので、この地方で成長されているのではと想像します。近く、湯山6号古墳から鉄剣、兜が出土し、多鯰ヶ池南の開地谷(鳥取ゴルフ場)でも立派な馬具が出土しており、これらの地域と応仁天皇の関係が想像されます。

福部地区の圧倒的遺跡マップ

 福部砂丘には、発見されて記録されているものだけで200余を数えます。まさに、因幡の発祥の地の一つとされるにふさわしい規模だと思います。古代砂丘と人々のつながりの深さをしみじみと感じます。

G区(中・久志羅・左近)
G区(中・久志羅・左近
H区(久志羅・左近)
H区久志羅・左近)
B区(湯山)
B区(湯山)
A区(細川・岩戸)
A区(細川・岩戸)
C区(湯山・海士)
C区(湯山・海士)
D区(海士・高江・箭渓・栗谷)
D区(海士・高江・箭渓・栗谷)
E区(栗谷・前田・蔵見・中)
E区(栗谷・前田・蔵見・中)
F区(箭渓・八重原)
F区(箭渓・八重原)