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「貝がら節」の名前が広まった経緯
「貝がら節」の貝は板屋貝
板屋貝の名前の由来
「貝がら節」の旋律
「貝がら節」のお囃子
「青谷貝がら節」について
「貝がら節」の名前が広まった経緯
鳥取の「貝がら節」が全国で有名になったのは昭和8年頃です。
各地で〇〇〇音頭が流行し、この流れに乗って浜村温泉を宣伝しようと、駅前の上田レコード店が発起人となり、松本穣葉子(作詞者)、三上留吉 (付小の音楽の先生)ら数名が「旅館たばこや」に集まりました。A面に「浜村小唄」を決めたものの、B面をどうするか悩んでいた時、穣葉子が口ずさんだ「貝がら節」がきっかけでB面が「貝がら節」となったようです。
洋楽方法では採譜出来ず困っていた時、たばこ屋の女将、鈴木キヨが歌った唄が元になったようです。聞くところによると「貝がら節」と地引網の時の「ぶりこぎ唄」がミックスしてできたもののようです。歌詞内容から「貝がら節」と命名され、レコード出版後、この歌が、のど自慢大会などで良い成績を得たことで一躍脚光を浴びました。
浜村海岸は、小さく浅い勝見川があるだけの遠浅の砂浜でした。従って、一人、二人乗りの漁船しか使えず、地引網漁業を主体としていました。その地引網を引く時に「ぶりこぎ唄」が歌われていたのです。「ぶりこぎ」とは、トモ綱に脇綱をつけて引く時、腰に板をつけて後すだりしながら引くのですが、この背板の事をブリ板といい、右左呼吸タイミングを合せるために唄われた唄です。 後、浜に左右に「かぐらさん」を置き、左右4人づつで綱を巻き取る方法が考え出されて、これも歌われなくなりました。奥と手前で15~20人で引いています。手前の物が「かぐらさん」。女の人の腰に付けている物が「ぶりこぎ板」です。
「貝がら節」の貝は板屋貝
「貝がら節」の貝は、板屋貝です。多くの人が帆立貝と思っているようですが、間違いです。浜村の「貝がら節」が余りにも有名で、その歌詞の中に「帆立貝なら帆立てて行こうよ、わたしゃ、あなたに身を立てる(義理)」とあり、この歌詞が板屋貝を帆立貝にしてしまいました。
帆立貝は、寒流のみの生息で、新潟北部より北の生息です。「貝がら節」発祥の鳥取山陰海岸は、暖流で帆立貝の生息はありません。しかし、外観が非常によく似ており、素人では一見、見分けがつきません。中世、青谷湊は北前船の寄港地でありました。その船乗りによって北の帆立貝の話がもたらされ、ここで水揚げされる板屋貝の蓋を、北前船の帆に見立てて、歌ったのではないでしょうか。
帆立貝、板屋貝いずれにしても、水中で海水をジェット噴射させて、一回 1~2メートル移動します。
板屋貝の名前の由来
1752年、潮津神社の宝箱製作の時、棟札に「板屋九兵衛」の名前があることが、青谷町史に記載されています。当時、苗字を持つことは、地域の有力者であり、板屋貝の名前に何らかの関わりが大きくあったと思われます。
板屋貝の正式名称が出てくるのは、1823年の板屋貝漁業製造販売改革書からです。これ以前は地元で、煮たり焼いたりと食していたようですが、この頃、山田与五郎らが貝柱を乾燥して、長崎経由で中国輸出を始めています。漁獲量と売り上げの伸びに着眼した鳥取池田藩は、漁獲量に応じて加税し、それに合せるように鋤簾のサイズが1メートルから4~5メートルに大きくなっていきました。その鋤簾を引くためと、櫓こぎの辛さを歌で紛らわすために歌われだしたのが「貝がら節」なのです。
「貝がら節」の旋律
山陰各地で「貝がら節」は歌われていますが、それぞれの地に似合った旋律や、歌詞ができています。その中で、水揚げと課税が一番多い青谷の旋律や歌い方は、重労働に耐えている様に感じます。
「貝がら節」のお囃子
神功皇后などのお墓を造営した日置族を先祖に持つ青谷地区の「貝がら節」は、相屋神社のお祭りお囃子言葉が、そのまま使われています。
ヤサホーエイヤ----漁師(氏子)が沢山取れて、豊に栄えますように。
ホーエヤエイエイ---曳き奉りますから益々栄えてください。
イヤサカサッサ----神功皇后も益々、栄えますように。
ヤンサノエイエイ---漁師(氏子)が安全で益々栄えますように。
イヤサカサッサ----神功皇后も栄えてください。
これらの囃子言葉を古事記、日本書紀にならって漢字で表記すると、漁師豊栄哉 奉曳哉栄栄 弥栄サッサ 漁師栄栄 弥栄サッサ (サッサは協調語です)
各地、橋津、泊、浜村、賀露にも「貝がら節」が伝わっていますが、青谷の「イヤサカサッサ」のお囃子に対し、これら4地区では「ヨイヤサノサッサ」です。これは相屋神社の本祭りが、50年に一度であり、4地区の「ヨイヤサノサッサ」は、毎年あります。子供神輿の囃す言葉であって、近隣に伝わりやすかったと考えられます。このように、「青谷貝がら節」を「元唄貝がら節」といいます。
「青谷貝がら節」について
昭和4年を最後に、山のように取れていた板屋貝の水揚げが無くなりました。そして、それまで各地で、漁に合せて歌われていた「貝がら節」は歌われなくなりました。ただ、地域によっては、盆踊り、お祭りなどで現在まで歌い継がれています。
貝がら漁は昭和4年には、すでに機械動力が取り入れられ、実際の作業においては、ほとんど歌われておらず、多量に水揚げの在った大正中期の頃でも「カグラサン」を船に乗せ、鋤簾の綱を巻き取っていました。
また、当時の貝がら漁で生計をたてていた方々も高齢者となったり他界され、平成17年の保存会を立ち上げるまで歌われていません。現在の元唄貝がら節は、賀露の浜沢長三郎氏が昭和30年後期から歌出だした歌に、青谷の人が子ども頃の記憶を加えて保存会の「青谷貝がら節」となっています。
当時の浜沢長三郎氏の唄と、現在の保存会の唄の採譜と比較すると、少し異なります。下の2つの譜面で比較して見ましょう。
この譜面は多くの校歌を作曲された旧姓「神谷照枝」氏の採譜
こちらの譜面は、「中山明慶」先生が採譜された浜沢節
(参考)賀露のホーエンヤ貝がら節について賀露神社の岡村宮司の話によると、唄の節回しは、賀露神社の禰宜唄に貝がら漁の歌詞が着いたが、いつ出来たかは不明です。間のお囃子にヤーレ巻いたソーレ巻いたとあるから、早くから「カグラサン」を船で使っていたのではと考えられます。
(参考2)賀露のホーエンヤと言う言葉は、賀露神社の話によると735年、吉備真吉備が遣唐使帰国の際、鳥が島に漂着し、賀露の漁師が船を漕いで助ける時の掛け声であるとの事で「引き奉る」と言う意味の掛け声であります。