日本・因幡史における鳥取市浜坂・鳥取市江津の歴史
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人類の誕生
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代(前半)
室町時代(戦国)
安土桃山時代
江戸時代
明治時代
大正時代
昭和時代
平成時代
令和時代
人類の誕生・旧石器時代(約4~2万年前まで)
日本列島で確認されている人類の歴史は、約10万年前までさかのぼる。
ただしこれは旧人類であり、現生人類の到来は4~3.5万年前と考えられている。当時の北海道と九州は大陸と地続きであり、大陸から入ったナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使われた。
また、南方からナウマン象、北からマンモス象が入ってきた。約1万6~1万数千年前頃、最終氷期が終わり急激な地球温暖化で海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離し、現在のような日本列島ができた。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、次の縄文時代へ移行していく。
【浜坂地区】人類と砂丘のかかわりは約2万年にさかのぼるといわれている。
250万年前 | 猿人(アウストラロピテクス類)出現。直立歩行し、簡単な石器(轢石器)を使用する |
50万年前 | 原人(北京原人、ジャワ原人、ハイデルベルグ人など)が現れる。剥片石器を使用。言葉を用い、火を使用する |
20万年前 | 旧人(ネアンデルタール人など)が現れる。埋葬の習慣ができる |
20万年前 | 海面は現在より15m以上高く、鳥取平野は大きな湾。湾内に中国山地の土砂が千代川によって絶えず流れ込む |
7万年前 | 最後の氷河期で、海面が大きく下がり始め、海岸近くに古砂丘が発達。2万年前の海水面は現在より55m低下。 |
4~5万年前 | 大山噴火で大量の火山灰が降り積もる。多鯰ヶ池が形成される |
4万年前 | 新人(クロマニヨン人等)現る。骨角器や細石器を使用・洞窟に絵画を描く・メソポタミア地方で農耕・牧畜始まる |
縄文時代(約1万6千年前~約3千年前)
旧石器時代と違いは、土器の出現や竪穴住居の普及など。この頃の日本列島人は縄文土器(縄目模様が特徴)を作り、定住化が進み、主に竪穴式住居に住んだ。弓矢、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた狩猟、漁、植物採集など(一部地域では稲作を行った)。身分や差別、貧富の差はなかったと考えられる。広くつくられた土偶には、祭祀、安産・多産祈願、神像、お守り、子供の玩具など諸説ある。
【浜坂地区】縄文後期の都築山遺跡、その他多くの遺物が砂丘周辺から発見されている。縄文早期(1万年以上前)の石器も鳥取浜坂砂丘で発見。縄文前・中期、鳥取平野は海。人類は砂丘など小高い丘に住み、後期から次の時代にかけて陸地に降りてくることになる。
【江津地区】秋里・江津地区からは縄文遺跡は発見されていない。ルーツは文化的特徴から湖山池遺跡と推定する。
1万6千年前 | 日本の縄文時代(草期・前期)始まる 。縄文海進で海面が上昇し始め、鳥取平野は再び大きな湾になる。 |
縄文早期(1万年以上前)の石器(槍先型尖頭器)が浜坂砂丘で発見される | |
6千~5千年前 紀元前4000年 頃 |
海水面はピークに達し、現在より+5~6m上昇。この頃、丸山の離水海食洞などが波の浸食でできる。この頃、人々は山や砂丘などの高地に住む |
5千~4千年前 紀元前3000年 頃 |
弥生海退によって海水面が下がり始める。日本海から湾入した部分が海から切り離され、湖山池や旧湯山池,旧細川池などの潟湖を形成。当時は海とつながっていた。潟湖は魚介類の絶好の住処となり、人類遺跡が集中する。湖山池周辺遺跡、湯山砂丘の直浪遺跡、栗谷遺跡など。 |
紀元前 2500年 頃 |
エジプトに統一国家形成・メソポタミアに シュメール人の都市国家・インダス文明 |
地中海のギリシャ周辺にエーゲ文明がおこる | |
黄河文明おこる | |
古バビロニア王国 | |
紀元前 1500年 頃 |
殷王朝の成立・BC1050周王朝による華北の統一 |
紀元前 1000年 頃 (3千年前) |
縄文時代(後期・晩期)。縄文海退で現在より4~5mほど海面が下がり、人々は内陸へ降り始め、浜坂の都築山遺跡などに縄文人が棲みつき始める。砂丘は安定期に入り、草や樹木が繁茂する。 |
バラモン教の成立 →インドのカースト制度 |
弥生時代(約3千年前(紀元前10世紀)頃~3世紀頃まで)
約3000年前(紀元前10世紀)頃から3世紀頃までは、この時期に特徴的な弥生土器に由来して弥生時代と呼ばれる。
当時代初期に大陸から渡来人(弥生人)が到達した。稲作を中心とする農耕社会が成立し、各地へ急速に広まった。農耕社会は地域集団を形成し、集団の中で身分差が生じ始めた。弥生時代の道具類は、石器、木器・青銅器・鉄器・土器など。
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。
大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成し、その盟主は倭国王と称した。3世紀には、邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。
【浜坂地区】弥生初期は、縄文後期に続いて砂丘の安定化は続き、高所に棲んでいた古代人が様々なルートで中ノ郷や浜坂に降りてくる。しかし、弥生時代中期から古墳時代前期、奈良時代後期から平安時代前・中期にかけての大きな気候変動が、海面変化(上昇)やそれに伴う大洪水や干ばつをもたらした。従って、稲作に依存した弥生時代は浜坂には根付かなかったと考えられる。
【江津地区】秋里遺跡(鳥取市)は弥生時代から室町時代後期へつながる遺跡群とされる。隣接する江津もその文化圏であったと考えられる。
紀元前 10 - 9世紀 |
3000年前。陸から米づくりの技術が伝わる。 九州北部が最初とされる。弥生土器、青銅器、鉄器、銅鐸 |
紀元前776 | ギリシアで第1回オリンピア競技 |
紀元前750頃 | 古代ローマが建国される |
紀元前557 | 釈迦、生まれる |
紀元前551 | 孔子、生まれる |
紀元前450頃 | ギリシア文化の全盛時代。 「ミロのビーナス像」は紀元前200年頃 |
秋里遺跡(弥生時代中期~室町時代後期(戦国時代) | |
紀元前431頃 | 仏教成立 |
紀元前403 | 中国戦国時代の開始(~221) |
紀元前247頃 | 秦の始皇帝が即位(~201) |
紀元前221 | 秦が中国を統一 |
紀元前202 | 前漢が成立 |
紀元前127 | 武帝が匈奴を攻撃 |
紀元前100頃 | カエサル誕生 |
紀元前30 | クレオパトラが自殺、プトレマイオス朝滅亡 |
紀元前9 | 司馬遷の『史記』なる |
紀元前4頃 | キリスト誕生 |
社会の変化 →定住生活、貧富の差、身分の差。むら」から「くに」へ。力のあるむらのかしらは、豪族となって小さなくにを支配した | |
30 | キリストが処刑される・40年パウロの伝道活動(~60) |
57 | 奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける |
64 | 皇帝ネロがキリスト教徒を迫害 |
67 | 中国に仏教伝来 |
100 | 北朝鮮に高句麗が起こる |
107 | 倭の国から後漢に使者を送り、交わりを始める |
150 | この頃、倭の国に大乱が起こる。小国家の統合が進む |
150 | この頃、ローマ帝国の全盛時代 |
184 | 「三国志」に描かれた黄巾の乱・207劉備、三顧の礼で諸葛亮を迎える・208赤壁の戦い |
220 | 後漢滅亡、魏・呉・蜀の三国分立 |
239 | 邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。 邪馬台国は30余国を支配 |
247 | 卑弥呼が狗奴国と戦う |
古墳時代(3世紀中頃~7世紀中頃)
3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。
3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳などが急速に列島各地に広まっており、畿内(ヤマト)・北部九州・北関東・山陽・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権連合を形成したと考えられている。
この連合が後に、大和朝廷と呼ばれる政権に発展していく。4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。これを機に朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。
5世紀以降の特に規模が巨大化した前方後円墳は、強力な王権の存在を示している。ヤマト王権は朝鮮半島への介入を減らし、日本列島支配に集中することで、現天皇に繋がる体制が確立していく。この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
【浜坂地区】多鯰ヶ池畔の開地谷遺跡、鳥取市浜坂の都築山遺跡(横穴墳墓)、荒神山(同)が古墳時代とされている。ただし、都築山及び荒神山の横穴墳墓については、浜坂に棲んだ人々のものというより、千代川河口付近を拠点として海上~河川の交通を担った勢力(秋里や賀露など)の墓城として営まれたものとする考えもある。浜坂地区は弥生時代後期から空白の地となっていたのかもしれない。
【江津地区】秋里遺跡(弥生・奈良・平安・鎌倉・室町時代)の古墳時代遺跡では、内陸水運や祭祀文化の特色がみられることから、秋里~江津(鳥取市)は既に内陸港として使われ始めたと考えられる。
285 | 漢字が中国から伝わる |
350 | この頃、大和朝廷が国内をほぼ統一。大和朝廷は、大王(おおきみ、後の天皇)を中心とした豪族の連合政権。氏姓制度に基づく政治、古墳文化 |
350 | 朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立 |
391 | 大和朝廷軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。この頃、朝鮮からの渡来人多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術伝わる |
392 | ローマ帝国、キリスト教を国教とする |
5~6世紀 | 多鯰ヶ池の開地谷遺跡 |
6~8世紀 | 浜坂の都築山横穴墳墓遺跡、荒神山遺跡 |
538 | 百済から仏教が伝わる(552年の説もある) |
562 | 新羅が任那の日本府を滅ぼす |
570 | この頃、マホメット生まれる(~632)、 610年、マホメットのイスラム教成立 |
飛鳥時代(592年~710年)
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。
この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展した。仏教などの書物の流入により、この頃から文字の使用が普及する。
7世紀前半にかけて推古天皇とその甥聖徳太子が、蘇我氏などの有力豪族の抵抗の中、大王(天皇)主権を確立しようとし、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革を行った。6世紀末、当時の中国の隋へ遣隋使を派遣し、第2次派遣の中国の皇帝煬帝への親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」とある。
7世紀中頃、蘇我氏を倒して「大化の改新」が起こり、豪族中心の政治から天皇中心への国政改革が始まる。更に、7世紀後半の百済復興戦争の敗北(白村江の戦い)により、国制整備の集中が加速する。王位継承をめぐる壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は、この天武期と考えられている。
また、天皇支配を具現化するために中国唐朝の律令を取り入れた律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令を制定した。日本という国号も大宝律令の前後に定められた。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる日本書紀の編纂が開始される。
【浜坂地区】鳥取市浜坂の都築山、荒神山の横穴遺跡などは8世紀頃まで造営がなされているが、墳墓遺跡であり、人々の実生活は不明である。
【江津地区】『日本書紀』は、鳥取県地域には大化の改新で山陰道に属する国として因幡国と伯耆国が設置されていると記す。この時代から鳥取市江津は、因幡の玄関港として開け始めたのだろう。
587 | 蘇我氏が物部氏を滅ぼす。豪族の争い |
589 | 隋が中国を統一 |
593 | 聖徳太子、摂政になる。蘇我馬子と協力して、天皇中心の政治を打ち立てようとした |
594 | 推古天皇が仏教をさかんにする詔を出す |
603 | 冠位十二階を定める。家柄(氏や姓)に関係なく、能力重視の人材登用を進めた |
604 | 十七条の憲法を定める・・・朝廷に仕える役人の心得 |
600~ 618年 |
600~618の18年間に遣隋使3~5回派遣。「日本」名称は遣唐使から使用 |
607 | 法隆寺建立。玉虫厨子飛鳥文化の代表(仏教中心の文化)、630法隆寺五重塔 |
607 | 小野妹子を隋に送る(遣隋使) |
618 | 中国では隋(581-618)が滅び、唐(618-907)が中国を統一 |
622 | 聖徳太子(厩戸王)が死去 |
630 | 遣唐使を開始。894年までの間、10数回送られる |
645 | 乙巳の変。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼす |
大化元年 (645) |
大化の改新の詔。中大兄皇子は皇太子となって新しい政府をつくり、公地公民の制、班田収授の法など政治改革を始める。日本の和暦が始まる |
『日本書紀』によると、鳥取県地域には大化の改新で山陰道に属する国として因幡国と伯耆国が設置されている | |
因幡国は巨濃、法美、邑美、高草、気多、八上、智頭の7郡からなり、統治機関を国府に置く(『延喜式』) | |
672~ 686年 |
天武天皇時代、律令制度整備により各地に官道を敷く。中国地方日本海側には山陰道が通じ、畿内から丹波国、丹後国、但馬国を経て因幡国が陸路で結ばれた。 |
白雉14年 (663) |
白村江(はくすきえ)の戦い。日本が百済を助け、新羅と唐と戦うが敗れて半島撤退 |
唐が百済、高句麗(668)を滅ぼし、676新羅が 朝鮮半島を統一する |
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白雉18年 (667) |
中大兄皇子即位 |
白雉23年 (672) |
天皇専制支配体制確立、663 天武天皇即位 天武天皇が日本書紀の編纂が開始 |
白雉31年 (680) |
天武天皇、薬師寺建立 |
朱鳥9年 (694) |
藤原京に遷都 |
大宝元年 (701) |
高松塚古墳築造、同壁画 |
大宝元年 (701) |
大宝律令により律令政治スタート。各郡郷単位に条里制、班田収受法、公地公民などを実施 |
奈良時代(710年~794年)
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に平城京が置かれた。
そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制づくりが行われた。律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向し、民衆に対しては戸の編成(編戸制)・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半には、新規土地開墾の奨励のために、三世一身法・墾田永年私財法など政策がとられた。
しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化による逃散増加で税収が減り、墾田永年私財法は「荘園」開発に結びつくなど、律令支配の限界も見え始めてきた。この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発したことにより、聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した。文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教による鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の命で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。
【浜坂地区】8世紀以降、鳥取浜坂砂丘は飛砂に覆いつくされ、不毛の砂地になるような環境変化が起こった。その結果、奈良・平安期から中世にかけての人の営みの痕跡は一切発見されていない。湯山砂丘、白兎・末恒砂丘なども同様である。この時期、古代浜坂の民は飛砂の浜坂を離れ、多鯰ケ池の開地谷などへ集団移動したと考える。
【江津地区】奈良時代前から因幡の玄関港として発展。756年、東大寺の高庭荘園の設置。開拓にあたって秋里に三嶋神社(賀露から移転)、周辺に大乗院、弁天社などを置いた。隣接する秋里では、奈良~平安時代にかけて「三嶋社」を背景に集落が形成され、中世には大集落になっていく。千代川対岸の秋里・江津には砂の影響はなかったようだが、ほとんどの時代、千代川洪水の痕が地層に残っている。
8世紀~ | 急激な気候変動(平安海進)が始まる。海水面が上昇し始め、砂丘は強風と飛砂により人が住めなくなる |
和銅3年 (710) |
平城京(奈良)へ遷都。唐の長安にならう都づくり あをによし 奈良の都は さく花の にほふがごとく 今さかりなり」(万葉集) |
和銅5年 (712) |
古事記ができる。日本最古の歴史書 |
和銅6年 (713) |
国ごとに「風土記」編さんを命ず(日本最古の地理書) |
霊亀2年 (716) |
山上憶良、716年から約5年間伯耆守に任官。 『貧窮問答歌』は伯耆守~筑前守(726~)時代の体験とされる |
養老2年 (718) |
金蓮、伯耆大山を開創と伝える |
養老4年 (720) |
日本書紀ができる |
養老7年 (723) |
三世一身の法が出される。土地の開墾の奨励のため。班田制がくずれる |
天平2年 (730) |
「梅花の歌」詠まれる。令和の典拠は「梅花の歌」の序 |
天平13年 (741) |
「国分寺建立 詔(みことのり)」の勅令。国分寺が国ごとに建立され、因伯にも国分寺できる |
天平15年 (743) |
墾田永年私財法。荘園の起こり。これを機に、貴族や寺院神社が人々を雇って次々と原野を開墾 |
天平勝宝4年 (752) |
東大寺の大仏ができる。天平文化がさかえる |
天平勝宝6年 (754) |
鑑真が来日。唐の高僧。6回目の船出で日本にたどり着く。律宗を伝え、奈良に唐招提寺を建てる |
天平年中 | 吉備公遣唐使帰朝の時、難風に遭て賀露の津に漂着する。当時此地には、三嶋大明神鎮座なりしか吉備公漂着の後、三嶋の神祠を今の地に遷し此地には吉備公の霊社を建て鎮守とする由也ー」。(賀露に鎮座していた三嶋神社を秋里へ移転し、賀露には賀露神社を建てた) |
天平勝宝6年 (754) |
第二次遣唐使の吉備真備一行の賀露漂着 |
天平勝宝8年 (756) |
奈良の東大寺、全国に荘園設置開始。 |
天平勝宝8年 (756) |
東大寺の宝庫、正倉院ができる。 聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り |
天平勝宝8年 (756) |
千代川と湖山池の間の地域に、広さ69町9反21歩の荘園「東大寺因幡国高庭庄」を設けた。東大寺はこの荘園の経営上、三嶋神社を拠点に神宮寺として江津に大乗院を建てたり、水難を避けるために弁財天社(河の神)を祭って開墾を進めた |
天平宝字2年 (758) |
大伴家持が因幡守に任ぜられた。在任3年半。 翌年元旦、新春の祝賀会で「新しき~」を詠む |
天平年間 | 天平年間中、三嶋神社賀露から秋里へ移転 |
天平宝字3年 (759) |
万葉集ができる。日本で最も古い歌集。 大伴家持らによって編さんされる |
宝亀10年 (779) |
遣新羅使廃止 |
延暦3年 (784) |
長岡京に都を遷す |
8世紀~ | 浜坂の民は、飛砂の浜坂を離れ、多鯰ケ池開地谷などへ集団移動。多鯰ケ池古来の集落に避難民加わっていく |
平安時代(794年~1185年)
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、平安京が都とされた。平安前期には、百姓の逃亡の増大など、奈良時代からの律令国家体制に限界が生じ、朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制をめざし、朝廷から大幅に統治権限を委譲され派遣された国司(中央官人)とその国衙機構(地方行政機関)による地方支配を展開した。
地方では、国衙軍制を通じて武芸の家として武装を公認された官人層である武士階層が、内外の軍事的危機の解決にあたったことを機に台頭していく。また、中央政治においては11世紀に藤原氏が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀には、上皇が政務する院政が始まり、地方では、武士による荘園の支配領地化が進んでいく。
平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争までを左右するようになり、中央政界で政治の主導権を握った平氏によって最初の武家政権とされる平氏政権が登場した。
奈良時代から進んでいた文化の日本化が国風文化として栄え、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われるようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
【浜坂地区】奈良時代から引き続き、鳥取砂丘から人が消えた空白の時代にあって歴史に登場せず。大同元年(801)に浜坂に大きな寺院があったという大応寺関連の伝記はあるが、実在したかどうかは不明。
【江津地区】 高庭荘の開発始まる。因幡国司の平時範が赴任後、国府から「法美川」を船で下り、宇部社→三嶋社→賀呂社などへ参拝。この頃には既に川を使った交通の要衝として栄えている。江津神社の名前は登場しないが、時代背景からこの頃と考える。奈良~平安時代の内港として「延喜式」などの記録にも登場。
延暦3年 (784) |
長岡京に都を遷す |
延暦4年 (785) |
唐招提寺金堂 |
延暦13年 (794) |
平安京(京都)遷都。律令制が乱れる |
延暦16年 (797) |
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される→蝦夷の平定 |
延暦16年 (797) |
続日本記 |
延暦20年 (801) |
「高庭荘」内の開発進まず、因幡守藤原藤嗣などに田地売却。延暦22年(803)にも同様に売却 |
延暦24年 (805) |
最澄と空海が唐に渡る。帰国後、仏教を民衆救済の為の宗教とし、民衆の心掴む |
延暦24年 (805) |
最澄が唐から帰国。翌年に天台宗を開く。 823、比叡山に延暦寺を建てる |
大同元年 (806) |
若桜岩屋堂創建と伝える |
大同元年 (806) |
空海(弘法大師)が唐から帰り、真言宗を伝える。819、高野山に金剛峰寺を建てる |
大同元年 (806) |
「僧延鎮の開山にして円城寺と号し、一時16を数える堂塔ありと伝承にあるが正疑不明 |
9世紀 | 平安仏教の天台・真言宗が在来山岳信仰とも結びつき拡大。因伯では摩尼山、大山、美徳山がその代表 |
天長7年 (830) |
円護寺開山。摩尼寺と同じ慈覚大師円仁の開山である。 |
承和4年 (837) |
伯耆神、國坂神、大山神に従五位下 |
承和5年 (838) |
最後の遣唐使が派遣される |
834~ 847年 |
摩尼山開山。承和年間に慈覚大師円仁が開いたとされる |
嘉祥元年 (848) |
宇部神社、初めて従五位下の位階を授けられ、 元慶2年(878)には大納言級の正三位にまで進む |
嘉祥2年 (849) |
僧 円仁、三徳山三仏寺を開創と伝える |
斉衡2年 (855) |
在原行平は因幡国国司を任じられ、送別会で 「立ち別れ いなばの山の~」(『百人一首』)詠む |
貞観三年 (861) |
賀露の賀露神社が「正六位上賀露神に従五位下を授く」 |
貞観5年 (863) |
「日本三代実録」11月17日に「新羅国人57人因幡国の『荒坂浜』に漂着」の記録あり。(現福部町) |
寛平6年 (894) |
遣唐使廃止(藤原道真の建議による。国風文化の発達) |
寛平6年 (894) |
渤海国の人105人、伯耆にくる |
寛平9年 (897) |
この頃、国風文化が栄える |
延喜2年 (902) |
荘園の大整理をする |
延喜5年 (905) |
『延喜式』成立。紀貫之らの4人によって「古今和歌集」が撰進する |
延喜7年 (907) |
中国の唐滅び、960年に宋起こる |
延喜8年 (918) |
朝鮮に高麗が起こる |
延長5年 (927) |
藤原忠平ら「延喜式」完成。この頃、「竹取物語」、「伊勢物語」著わされる |
承平5年 (935) |
朝鮮の新羅が滅び、高麗が統一 |
承平5年 (935) |
紀貫之が「土佐日記」を著す |
承平5年 (935) |
平将門の乱・藤原純友の乱。 この頃、各地の政治が乱れて武士が起こる |
天慶2年 (939) |
平将門が常陸、下野、上野、の国府を襲い、新皇を称す。翌年、平将門が平貞盛と藤原秀郷によって討たれる |
天慶3年 (940) |
「因幡国高草庄券第二坪付」の文書に、東大寺田の中に高草郡濃美郷船津里とあり、現在の江津周辺かと推定される。江津は、奈良~平安時代の内港として「延喜式」(967年より施行)にも載る。 |
天慶3年 (940) |
「東大寺因幡国高庭庄券」文書に伊福部、因幡、鳥取などの各地域名を氏族名とした豪族の名が載る |
天徳4年 (960) |
中国の宋(960-1279)へ |
安和2年 (969) |
高麗の使節が対馬を訪れる。藤原実頼が摂政に就任 |
長徳元年 (995) |
藤原道長が事実上の摂政となり、政治実権を握る。 |
長徳2年 (996) |
清少納言が「枕草子」を著す |
寛弘4年 (1007) |
中央役人橘行平が土着豪族の因幡千里を殺害後、罷免。地方収奪の中央国司と在地官人の対立激化 |
寛弘5年 (1008) |
紫式部が「源氏物語」を執筆し始め、1010年に完成藤原氏全盛時代の平安貴族の生活を描く長編物語 |
長和5年 (1016) |
藤原道長が摂政となる。摂関政治の始まり。藤原氏一族が、天皇の外戚として政治の実権を代々独占 |
寛仁3年 (1019) |
4月、刀伊の入寇。女真族(満洲民族)らしき海賊が壱岐・対馬、筑前に侵攻 |
寛徳2年 (1045) |
新しく荘園をつくることを禁止する |
天喜元年 (1053) |
平等院鳳凰堂が建立される。同阿弥陀如来像 |
延久元年 (1069) |
後三条天皇が記録所をもうけ荘園の整理をする |
応徳3年 (1086) |
白河上皇による院政の開始。これによって、摂政・関白はしだいに無力になる |
嘉保元年 (1094) |
大山僧兵300人余、上京して白川上皇に強訴 |
嘉保2年 (1095) |
院に北面の武士(身辺警衛)を置く。平正盛・忠盛父子は北面武士の筆頭となり、院庁で地位を高めていく |
承徳3年 (1099) |
平時範が因幡国司赴任。国府から「法美川」を船で下り、惣社→宇部社→坂本社→三嶋社→賀呂社→服部社→美歎社の順に参拝(「時範記」) |
9世紀末~ 10世紀初 |
国司と荘園領主の対立や混乱する地方政治の中から武装する地方豪族や開発領主らが出現。彼らは地方に下った皇族や中・下級貴族を棟梁に武士団を形成していく。武士の登場である。 |
嘉承元年 (1106) |
「今昔物語」著される |
天治元年 (1124) |
奥州平泉中尊寺で金色堂が建立される |
大治4年 (1129) |
鳥羽上皇の院政が始まる |
久寿2年 (1155) |
後白河天皇が即位する |
保元元年 (1156) |
「鳥獣戯画」著される |
保元元年 (1156) |
保元の乱。崇徳上皇派と弟の後白河天皇派の戦い。源義朝、平清盛ら有力武士を味方にした天皇派勝利。武家の政界進出の契機となる |
保元3年 (1158) |
後白河天皇が譲位し、二条天皇が即位。後白河上皇の院政が始まる |
永暦元年 (1160) |
平治の乱。藤原信西+平清盛と藤原信頼+源義朝の戦い。前者が勝ち、平家が力を増す |
永暦元年 (1160) |
清盛は義朝を討ち、その子の源頼朝を伊豆に流す |
仁安2年 (1167) |
平清盛が武士で最初の太政大臣に就任 |
安元元年 (1175) |
法然が浄土宗を開く |
治承4年 (1180) |
源平の合戦(治承・寿永の乱)、各地で平清盛を中心とする平氏政権への反乱。1185年まで6年間に及ぶ |
治承4年 (1180) |
福原に遷都 |
養和元年 (1181) |
平清盛が死去 |
寿永2年 (1183) |
木曽の源義仲が平氏を攻めて京都に入る |
元暦元年 (1184) |
「平治物語」著される |
文治元年 (1185) |
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。源頼朝が諸国に守護・地頭を設置、鎌倉時代の幕開に |
文治元年 (1185) |
源義経と源頼朝の対立激化。諸国に守護・地頭を設置する |
文治5年 (1189) |
源頼朝、藤原泰衡に命じ義経殺害 |
文治5年 (1189) |
頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、奥州を平定。源氏の支配が東北にも及び実質的な全国支配が始まる |
建久3年 (1191) |
栄西が宋から帰り、臨済宗を開く |
鎌倉時代(1185年 ~1333年)
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。
源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、源平の合戦で勝利して平氏政権を打倒し、守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並ぶ政権へと成長した。因幡にも多数の鎌倉御家人が配置された。13世紀前半の公家政権と武家政権の争い(承久の乱)の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭の北条氏が幕府政治をリードする執権政治が確立した。
後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとして失敗し隠岐に流されたが、隠岐を脱出すると再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。後醍醐天皇は公家と武士を統一して天皇中心の政治を始める(建武の新政)が、公家を重んじたため、武士の間に不満が高まり、足利尊氏の挙兵によって建武新政は倒れる。そして、尊氏が立てた光明天皇(北朝)と、奈良吉野に逃れた後醍醐天皇(南朝)が、互いに正当性を主張して並立し争う南北朝時代へ移行していく。
【浜坂地区】前時代から引き続いて空白地帯である。一切の遺物が発見されていない。多鯰ヶ池周辺などで暮らしたと考えられる。
【江津地区】全国的な流通経済の幕開けとともに、江津(鳥取市)は益々栄えたと考えられる。「三嶋社」を背景にした隣接の秋里集落も中世に大きく発展する。
建久4年 (1192) |
源頼朝、征夷大将軍(武家政権のトップ)になり、鎌倉幕府を開く。頼朝の家来を御家人という |
建久5年 (1193) |
西行法師、歌集「山家集」を著わす |
正治元年 (1199) |
源頼朝が死去、18才の源頼家が将軍に。有力御家人の合議制をとるが、実権が北条氏に移る |
建仁3年 (1203) |
源実朝が将軍に、北条時政が執権に就任し幕府の 実権を握り、執権政治が始まる |
建仁3年 (1203) |
運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる |
元久2年 (1205) |
藤原定家が、後鳥羽上皇の命で日本三大和歌集の ひとつ「新古今和歌集」の編纂 |
建永元年 (1206) |
チンギス・ハンがモンゴル統一、モンゴル帝国を建国。子孫フビライ・ハン時代の元は日本を襲う(元寇) |
建歴元年 (1212) |
この頃、鴨長明の「方丈記」。無常がテーマの随筆 |
承久元年 (1219) |
源実朝が殺害され、頼朝の直系は断絶 北条政子が後見し、北条氏による執権政治が確立 |
承久3年 (1221) |
承久の乱。日本史上初の朝廷と武家政権間武力の戦い。を制した鎌倉幕府は全国の支配権確立 |
承久3年 (1221) |
京都に、朝廷と西日本の監視のための六波羅探題を設置 |
元仁元年 (1224) |
親鸞が浄土真宗を開く |
嘉禄3年 (1227) |
道元が宋から帰り、曹洞宗を伝える。1244年に永平寺を開く |
貞永元年 (1232) |
御成敗式目(貞永式目)がつくられる 執権北条泰時がつくった最初の武士による法律 |
貞永元年 (1232) |
日本初の武家法となる御成敗式目制定 |
宝治元年 (1247) |
5代執権北条時頼が有力御家人を滅ぼし、 北条氏の専制政治が始まる |
建長元年 (1249) |
この頃、「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される |
建長2年 (1250) |
この頃から、ルネサンス時代開始 |
建長4年 (1252) |
鎌倉に大仏ができる |
建長5年 (1253) |
日蓮が日蓮宗を開く この後、1260年、日蓮の「立正安国論」成る |
文応元年 (1260) |
フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代皇帝に即位。 1271年、国号を元と称す(~1368) |
文永5年 (1268) |
北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す |
文永11年 (1274) |
一遍、時宗を開く |
文永11年 (1274) |
この頃、「十六夜日記」著される |
文永11年 (1274) |
蒙古襲来(文永の役) |
弘安4年 (1281) |
蒙古襲来(弘安の役) |
永仁5年 (1297) |
幕府が「永仁の徳政令」を出し、御家人の困窮を救う |
永仁5年 (1297) |
この頃、貨幣経済が発達し、宋銭が流通する。 問丸・為替・借上などが出現 |
永仁5年 (1297) |
北条実時、金沢文庫設立。日本最古の武家文庫。 神奈川県横浜市金沢区。現在は、歴史博物館 |
正安元年 (1299) |
オスマン・トルコ帝国の建国 |
正安元年 (1299) |
マルコ・ポーロの『東方見聞録』なる |
文保2年 (1318) |
後醍醐天皇が即位。 |
正中元年 (1324) |
後醍醐天皇、倒幕計画が露見(正中の変) |
元徳元年 (1329) |
秋里城築城 |
元弘元年 (1331) |
後醍醐天皇、再び倒幕を計画(元弘の変)、楠正成なども憲兵するが鎮圧される。翌年、隠岐に流刑 |
元弘2年 (1332) |
この頃、吉田兼好の「徒然草」なる |
元弘2年 (1332) |
後醍醐天皇、隠岐に流される。 |
元弘3年 (1333) |
隠岐脱出の後醍醐天皇を名和長利は船上山に迎え、隠岐の追討軍勢を撃退(船上山の戦い)、全国に倒幕指令発信 |
元弘3年 (1333) |
足利尊氏と新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府が滅亡。名和長利は後醍醐天皇より伯耆守を任じられる |
元弘3年 (1333) |
建武の新政(中興)。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が親政(天皇が自ら行う政治)を開始 |
建武2年 (1335) |
足利尊氏が挙兵。翌年、足利尊氏が建武式目を制定 |
建武3年 (1336) |
南北朝の対立 |
建武3年 (1336) |
建武の乱。足利尊氏が後醍醐天皇側(新田義貞と楠木正成)の軍を破る。敗北で建武政権は崩壊 |
南北朝時代(1337年 ~1392年)
1336年から約60年間続いた、朝廷が2つ存在していた時代である。皇室は南朝と北朝(幕府側)に並立して、互いに正当性を主張し、皇位継承を巡り争った。
また日本の各地でも守護や国人たちが、北朝と南朝分かれて戦乱に明け暮れた。結局室町幕府の主導下に,1392年、両朝から交互に皇位継承者を出すことを条件に南北朝合一が実現する。この対立の中、幕府側は、味方につけるために守護の権限を強化するなどの優遇策を守護に拡大し、守護勢力は地方を支配する守護大名へと成長していく。一方で、農業の生産力が向上して民衆の力が増し、それまでの日本社会は族縁(血筋・婚姻)を元に形成されていたのに対し、この時代に「惣」(村落)、つまり地縁で結ばれるようになった。氏族の支配ではなく、地域の支配が重要になったのである。
【浜坂地区】記録なし
【江津地区】記録はないが、引き続いて舟運で栄えたと考えられる。
建武元年 (1334) |
この頃、「庭訓往来(ていきんおうらい)」著される。寺子屋などで習字や読本となった初級教科書 |
建武3年 (1336) |
建武の乱(湊川の戦い)。足利尊氏が後醍醐天皇軍を破り、建武政権は崩壊した。 |
建武3年 (1336) |
後醍醐天皇は吉野に追われるが、吉野で南朝を開く。南北朝の時代が始まる。 |
建武3年 (1336) |
足利尊氏、室町幕府を開く。 1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任 |
建武4 (1337) |
足利系の山名時氏が伯耆守護に任命され、以後、この時氏の子孫が統治した |
文和年間(1352~55) | 山名時氏が二上山城を築城 |
貞和2年 (1341) |
天竜寺船を元に送る |
1347 | ヨーロッパにペストが流行(~1350) |
貞和2年 (1349) |
この頃、倭寇が中国の沿岸を荒らす |
貞和2年 (1359) |
この頃、「太平記」「増鏡」が著される |
貞和2年 (1346) |
守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、 司法執行の権利の2つを獲得した。 |
文和元年 (1352) |
守護へ半済の権利が与えられる。(国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収できる権利) |
正平18年 |
山名時氏が因幡も平定。幕府から守護職へ任命され、以降240年間、子孫が因幡の支配権を握った。二上山城の時代は、興国2年(1341)から文正元年(1466)までの125年間で山名氏の第一期である。文正元年、山名勝豊が二上山から布施天神山に城を移し、天正元年(1573)までの107年間に渡る第二期天神山城時代始まる |
応安元年 (1368) |
足利義満の将軍就任。幕府機構が整備される |
応安元年 (1368) |
守護の半済令拡大。年貢に加え土地の半分割を認め、守護の荘園・地域が進む。守護大名を経て戦国大名へ成長 |
応安元年 (1368) |
足利義満が将軍に就任。各地の武士を幕府の支配下に置き、南朝勢力を弱体化させていった。 |
応安元年 (1368) |
足利義満が室町に幕府を移す |
文中3年 (1374) |
この頃、北山文化栄える。観阿弥・世阿弥、今熊野神社で猿楽上演 |
明徳3年 (1392) |
室町幕府の主導下に南北朝の合一(南朝と北朝から交互に皇位継承者を出す条件) |
室町時代前半(1336年 ~1467年)
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。
足利尊氏が北朝を擁立し室町幕府を開いた。地方各国の守護が国内支配力を強めて守護大名へと成長する一方で、幕府の力は弱まり、政治は有力な守護大名たちの合議でおこなわれた。日本は明などと盛んに貿易を行った。
この時代の特徴は、地域の村落社会の自立化である。百姓らは続く戦乱や盗賊からの自衛、共同作業、水利配分や土地紛争などを契機に地縁的な連帯を強め、村落(惣村)が形成されていく。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流による室町文化が栄えた。室町初期には金閣寺に代表される北山文化、中期には「武家様式」や禅宗の影響を受けた銀閣寺の東山文化など。
明徳3年 (1392) |
室町幕府の主導下に南北朝の合一(足利義満による) |
明徳3年 (1392) |
高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910) |
応永4年 (1397) |
足利義満が金閣寺を建てる (北山文化) |
応永4年 (1397) |
「伯耆大山寺縁起絵巻」できる |
応永7年 (1400) |
世阿弥、「風姿花伝(花伝書)」著す |
応永8年 (1401) |
足利義満が明と貿易を始め、倭寇の取りしまりを約する |
応永11年 (1404) |
日明貿易(勘合貿易(かんごう))を開始。倭寇との区別のために貿易船に勘合という割札をもたせた |
応永26年 (1419) |
李氏朝鮮が倭寇対策として対馬を襲撃する (応永の外寇(おうえいのがいこう)) |
永享元年 (1429) |
播磨の土一揆が起こる。大規模な一揆の最初 |
永享元年 (1429) |
尚巴志王(しょうはしおう)」が琉球王国を建国する |
嘉吉元年 (1441) |
六代将軍の足利義教暗殺される(「嘉吉の乱」) |
嘉吉3年 (1443) |
足利義政が将軍に就任 |
宝徳2年 (1450) |
この頃、能楽・狂言が栄え、茶の湯・生け花・連歌などが流行する |
享徳元年 (1452) |
細川勝元が管領(将軍補佐)に就任 |
文正元年 (1466) |
山名勝豊が二上山から布施天神山に城を移す。布勢天神山城の時代が始まる |
室町時代後半=戦国時代(1467年~1590年)
1467年、8代将軍の足利義政の後継者問題などから、幕府を東西2つに分け、さらに各地の守護大名も東西に分かれて争った応仁の乱が始まる。
戦いは11年間も続き、政治と文化の中心だった京都は荒廃し、幕府の権威も地に落ちた。政治と文化の担い手だった守護大名や公家や僧侶も地方に向かった。各地では、身分の低い者が高い者を武力で打ち倒す「下克上」が発生し、日本は群雄割拠の戦国時代へと移っていく。形だけになった幕府は領地も兵力もほとんど持たないまま、約100年後まで続くが、織田信長によって滅ぼされる。守護大名が一円支配する地方の領国は地域国家へと発展した。因幡伯耆では、山名時氏がこれを平定する。
16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出すなど、流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。この時代は、農業生産力の向上と、地域流通の発達によって各地に都市が形成されていった。また、ヨーロッパとの南蛮貿易が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。
【浜坂地区】鎌倉・室町時代は鳥取砂丘が安定期に入る。湯山砂丘(鳥取市福部)で大量の五輪(最古1523年)が発見されるなど、再び砂丘に人の生活の痕跡が現れ始める。「濱橋家由来」によると、天文年間(1532~1555) に浜坂村で農民となり、同年間に因幡守護の山名氏の許可を得て浜坂を去って江津村を開き始める」と、非公式ながら「浜坂村」が歴史に再登場する。鳥取最古の地図「寛文大図」(1670頃)に濱坂村が描かれており、その半世紀前には濱坂村ができたとすれば、1500年代に多鯰ケ池から浜坂に農業を求めて人々が移動してきたと考えられる。
【江津】港として栄えた江津が、この頃から江津の浜橋家由来のように農村としても動き出したようである。一部の帰農武士が農地を独占し、大地主に発展していった可能性もある。他方、海外交易も盛んになり、海の賀露港へ主役がシフトしていく。しかし、依然として因幡の内港として賑わっている。
応人元年 (1467) |
応仁の乱。1477年まで11年間続く。公家や僧侶が戦乱の京都を逃れ地方に下り、京都文化が地方に広がる |
応人元年 (1467) |
応仁の乱が終結。応仁の乱が終わって武将が帰国し、戦乱が地方に広がる |
応人元年 (1467) |
この頃、東山文化栄える。 |
応人元年 (1467) |
雪舟(1420-1506)、明国に渡り、中国の画法を学ぶ。1490頃の「天橋立図」などは国宝指定 |
文明11年 (1479) |
因幡守護山名豊氏、私部毛利次郎貞元と戦う(因幡内乱) |
文明12年 (1480) |
京都で徳政一揆が起こる |
文明17年 (1485) |
山城国一揆。山城国(京都府南部)で国人や農民が守護大名の政治的影響力を排除し、8年間自治行う |
長享2年 (1488) |
加賀の一向一揆(~1580)。加賀国(石川)で一向宗門徒が、守護を追い出し約100年間に渡り自治を行った |
延徳元年 (1489) |
足利義政が銀閣寺を建てる(東山文化) |
明応2年 (1492) |
コロンブスが新大陸を発見。1,498年、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見 |
明応6年 (1496) |
蓮如、石山本願寺建立 |
明応4年 (1495) |
北条早雲が小田原城を奪う |
1500 | この頃、イタリアルネサンス後期。レオナルド=ダ=ヴィンチ活躍。1503「モナ・リザ」描く。同時期にミケランジェロが活躍。1501「ダビデ」像を制作 |
1519 | マゼラン船隊が世界一周(~1522) |
大永3年 (1523) |
大永3年銘の五輪塔を最古として16~17世紀初頭までの古石塔群が出土、湯山千軒・多鯰千軒などの伝承も中世後期砂丘地に集落が営まれたことを示す」 |
大永4年 (1525) |
出雲の守護代の尼子氏、伯耆や因幡へ最初の侵入。一時、現湯梨浜町の羽衣石城、泊の川口城まで支配下に置く |
天文年間 (1532~) |
但馬の山名と因幡の山名は国境問題を期に 骨肉相食む関係ともなる。 |
1532~ 1555 |
天文年間(1532-1555) に浜坂村で農民となり、同年間に因幡守護の山名氏の許可を得て浜坂を去って江津村を開き始める」(「濱橋家由来」)江津が農業村落として開け始めた時期であろう |
天文8年 (1539) |
天徳寺、現在地へ開創。曹洞宗に属し、前身は 天台宗摩尼寺の一坊で岩美郡湯山にあったとされる。 |
天文10年 (1541) |
巨濃郡岩井表で、出雲尼子氏に服従する因幡守護山名久通と、因幡国内に支配権を拡大しようとする但馬守護山名祐豊勢力との合戦があった。この合戦を一つの契機として巨濃郡に隣接する邑美郡、とりわけ舟運の便もよい法美川(袋川)下流域は両勢力にとって戦術上重要な意味を持つことになる |
天文11年 (1542) |
斎藤道三が土岐氏を追放し美濃国を奪う |
天文12年 (1543) |
ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄炮が伝わる |
天文12年 (1543) |
コペルニクスが「地動説」を唱える |
天文14年 (1545) |
山名久道によって鳥取城が築城される |
天文18年 (1549) |
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸 (キリスト教伝来) |
天文2年 (1553) |
川中島の戦い(長野県)が起こる。(上杉謙信と武田信玄が1564年まで、計5回も戦う) |
永禄3年 (1560) |
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る |
永禄6年 (1563) |
因幡守護 山名豊数、布施天神城を退き鳥取城へ移転 |
永禄6年 (1563) |
池田藩主の先祖信輝、キリスト教の洗礼を受ける |
永禄8年 (1565) |
秋里与四郎に『高草郡江津内』」などで計7町8反の地が山名豊儀から宛行われた」と山名豊儀宛行状にある |
永禄11年 (1568) |
信長が足利義昭を奉じて上洛を果たす |
永禄12年 (1569) |
織田信長が神父フロイスと面会し、キリスト教の布教を許す |
元亀2年 (1571) |
織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ち、一向一揆をしずめる |
天正2年 (1573) |
武田信玄が死亡。信長が足利義昭を河内へ追放したため室町幕府が滅亡 |
天正6年 (1573) |
山名氏、布施天神山城から鳥取城(久松山)へ本城を移転。鳥取城の時代が始まる |
天正6年 (1578) |
毛利は尼子を降し、因伯での毛利勢力は不動に。山名豊国は毛利の後援を受け、鳥取城で因幡の管治を続ける。 |
安土桃山時代(1573年 ~1603年)
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。
信長が本能寺の変で自害すると、代って豊臣秀吉が天下統一を行った。秀吉は、刀狩や太閤検地を通して兵農分離を進め、荘園やその支配体系を消滅させ、土地を耕す農民が土地の所有者になって年貢を納める制度へ変えた。
秀吉の天下統一により、政治や経済は安定し、大名・武士を中心とした豪壮な桃山文化が栄えた。キリスト教に対しては、信長の政策を継承し寛大であった。幾つかの事件後も実質上キリシタンを黙認した。ポルトガルを通じての南蛮貿易を重要視したと考えられている。しかし、サン=フェリペ号事件(乗組員が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教を通して征服を事業としていると発言)を機に、秀吉は態度を硬化させ、司祭や信徒26人を処刑した(日本二十六聖人の殉教)。秀吉は、朝鮮へ出兵中に死去。後継者問題もあり、豊臣政権は弱体化していく。
【浜坂地区】天正9(1581)に秀吉の鳥取城攻め(2次)が始まり、浜坂は要衝の地になる。秀吉は海→千代川→袋川→鳥取城下への舟運阻止で代々山、弁天、昼山などに陣を敷く。袋川と千代川接点及び鳥取城側に位置するため、戦術上、江津より浜坂が重要であったことが窺える。秀吉攻陣図に「浜坂村」が描かれているが、後世の作であって実在を保証するものではない。
【江津地区】秋里にも秀吉の陣がおかれた。
天正2年 (1574) |
信長により「伊勢長島の一向一揆」が鎮圧される |
天正3年 (1575) |
「長篠の戦」で織田信長が武田勝頼をやぶる (足軽の鉄砲隊が活躍) |
天正4年 (1576) |
織田信長が安土城の築城に取り掛かる |
天正5年 (1577) |
織田信長が安土に楽市の制をしく |
天正8年 (1580) |
秀吉の第一次鳥取城攻め。山名豊国降伏。国人衆は反抗し、豊国を追放し、毛利氏を頼り帰属 |
天正9年 (1581) |
2月、毛利の武将吉川経家が石見福光城から鳥取城に入った |
天正9年 (1581) |
吉川経家が3月18日鳥取城入場。丸山城、雁金山城を築城 |
天正9年 (1581) |
秀吉軍3万は、6月29日、戸倉峠を経て太閤ケ平へ着陣。7月には鳥取城を包囲する |
天正9年 (1581) |
10月、鳥取城陥落。吉川経家自刃。後に宮部継潤をおく |
天正10年 (1582) |
天正遣欧少年使節(4人)。九州のキリシタン大名の大友・有馬などがローマへ派遣。欧州に日本の存在が知られ、持ち帰ったグーテンベルク印刷機で日本語の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。 |
天正10年 (1582) |
織田信長が明智光秀反逆の本能寺の変で自刃。 この頃、キリスト教は全国に広まる |
天正10年 (1582) |
山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀をやぶる |
天正10年 (1582) |
大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る |
天正10年 (1582) |
山崎(京都府)で太閤検地始まる。荘園制度は終焉、土地は私有から公有となり、一地一作人制として「検地帳」に登録。後の刀狩りなどによる農民の武装解除を含めて兵農分離が確定。武士・百姓などの身分階級関係が成立することになる |
天正11年 (1583) |
「賤ヶ岳の戦い」が起こる、柴田勝家が自害。 羽柴秀吉が大坂城の築城に取り掛かる |
天正14年 (1586) |
バテレン追放令が出される |
天正15年 (1587) |
秀吉が島津氏を討って九州を従える |
天正15年 (1587) |
秀吉が太政大臣に就任、豊臣姓を賜る。 上杉景勝と徳川家康が秀吉に臣従する。 |
天正15年 (1587) |
聚楽第完成 |
天正16年 (1588) |
刀狩令が発布される |
天正17年 (1589) |
秀吉、伊達政宗を討つ |
天正18年 (1590) |
豊臣秀吉、天下統一 |
天正18年 (1590) |
徳川家康、江戸城に入る |
天正19年 (1591) |
秀吉が身分統制令を定め、士農工商の身分体系を確定 |
天正19年 (1591) |
秀吉の命で千利休が切腹する |
天正19年 (1591) |
長谷川等伯[智積院襖絵] |
文禄1年 (1592) |
大洪水「高麗水」で千人以上が濁流に吞まれ、この千躰が千代川の由来の一つとされる |
文禄1年 (1592) |
文禄の役、朝鮮へ出兵。貿易船に朱印状を渡し、貿易をすすめる(朱印船) |
文禄3年 (1594) |
秀吉、全国で太閤検地を行う。耕作農民を調べ、検地帳に記入 |
文禄4年 (1595) |
豊臣秀次が、秀吉に命により切腹する |
慶長1年 (1596) |
サン=フェリペ号事件、キリスト教排除のきっかけとなる |
慶長2年 (1597) |
慶長の役、二度目の朝鮮出兵 |
慶長3年 (1598) |
秀吉が死去 |
慶長5年 (1600) |
関ケ原の戦い |
慶長6年 (1601) |
鳥取城主に池田長吉(6万石)、鹿野城主(3万8千石)に亀井茲矩、若桜城主に山崎家盛、米子城主に中村一忠 |
慶長6年 (1601) |
池田長吉が、薬研堀を掘る |
慶長7年 (1602) |
大井手用水開削開始。鹿野城主亀井公が以後7年の歳月をかけ開削。同時期、大口堰用水も造られた。 |
江戸時代(1603年 ~1867年)
江戸時代は、江戸に江戸幕府が置かれた。秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)の勝利後、江戸に幕府を開き、大坂の陣(冬・夏)で豊臣氏を滅ぼした。
幕府は、17世紀中頃までに武家諸法度、参勤交代、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確立し、幕府官僚機構を整備した。島原の乱を機に、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国を行う。一方で、各地の耕地開発事業の拡大と年貢村請は幕府や藩財政を支え、全国的な流通経済と都市を発展させた。17世紀後半の元禄文化がこれを反映している。
18世紀に入ると、五代将軍綱吉の時代の幕府支出の増大、海外貿易による金銀流出、災害などが財政逼迫を招いた。徳川吉宗以降の財政再建(享保・寛政・天保改革)や幕府権力強化策は成功せず、商品経済の発達による貧富の拡大と身分制の流動化、そして幕末の通貨問題や国外からの圧力を背景に、幕藩体制は動揺していく。黒船来航(1853年)を契機として幕府の鎖国政策は解かれ、勅許なしの諸外国との不平等条約締結により幕府の威信は低下した。幕府は大政奉還により存続を図ったが、倒幕派の薩・長・土佐藩らが樹立した明治新政府との内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。江戸時代後期は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなど化政文化が花開く。また、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。
【浜坂地区】江戸時代初期の寛文大図(1670頃)に村名が登場する。村を但馬街道が通り、砂丘に砲台が置かれ、代々山は鉄砲練習などにも利用された。風光明媚な弁天島から河口にかけて、藩主の舟遊び、水灯法要、藩士の水練などが盛んに行われた。初代伴九郎兵衛(1632)が十六本松植林や密貿易で藩財政を支え、天明飢饉時に新田村を拓いた。産業では浜坂焼興る。池田長吉から進めた浜坂堤、江津堤、新田堤などの治水工事で石高増す。
【江津地区】江戸~明治時代にあっても、賀露と鳥取の中間にあって内外搬送の中継地として船の往還で賑わう。少数の大規模地主が小作を使う構図が生まれ、松本家が数代にわたって大庄屋歴任。鹿野城主亀井公が1602から7年かけ開削した大井手用水で石高増す。
慶長7年 (1602) |
二条城完成 |
慶長8年 (1603) |
徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く |
慶長10年 (1605) |
徳川家康、将軍職を秀忠にゆずる |
慶長12年 (1607) |
鹿野城主亀井茲矩は、御朱印を受けて南蛮貿易開始。慶長14年、同15年などの記録あり。伴天連と手を結ぶためにキリスト教へ入信 |
慶長14年 (1609) |
オランダ商館を長崎県平戸におき、オランダ貿易を始める |
慶長14年 (1609) |
ガリレイが天体望遠鏡を発明 |
慶長17年 (1612) |
俵屋宗達、「風神雷神図屏風」を描く |
慶長17年 (1612) |
姫路城完成 |
慶長19年 (1614) |
徳川家康によるキリスト禁禁止令。この頃の信者数は70~80万人(日本人口は千5百万人余) |
慶長19年 (1614) |
大阪夏の陣。家康が大阪城の豊臣秀頼を攻める |
慶長20年 (1615) |
大阪冬の陣。豊臣家滅ぶ |
慶長20年 (1615) |
徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を定める |
元和2年 (1616) |
ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限。家康が死去 |
元和3年 (1617) |
江戸幕府は全国の大名を転封(国替え)し、池田光政が播磨姫路から鳥取に。32万石の統治始まる。 |
元和3年 (1617) |
日光東照宮建立 |
元和6年 (1620) |
桂離宮建立 |
元和6年 (1620) |
ポルロ神父の伯耆・因幡の巡教。 光政は見てみぬふりをして、陰で庇護協力した |
元和9年 (1623) |
家光が3代将軍となる |
寛永元年 (1624) |
スペイン船の来航を禁止する |
寛永6年 (1629) |
長崎、踏絵始まる。キリシタン信者をあぶりだすため、踏絵や五人組、宗旨人別改帳を導入し迫害弾圧を続けた |
寛永9年 (1632) |
鳥取藩主、備前岡山の池田光仲と交代 |
寛永9年 (1632) |
伴九郎兵衛(初代)が池田光中と一緒に鳥取へ。 十六本松への植林、密貿易、隠れ切支丹など。 |
1633 | ガリレイが宗教裁判をうける |
寛永12年 (1635) |
参勤交代制確立(3代将軍家光のとき) |
寛永12年 (1635) |
日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する |
寛永14年 (1637) |
島原の乱。幕府による徹底したキリシタン取り締まり。スペイン・ポルトガル勢を追放・排除へ |
寛永15年 (1638) |
荒木又右衛門、鳥取に没す |
寛永16年 (1639) |
日本の鎖国完成、オランダ人を長崎出島に移す |
寛政20年 (1643) |
『田畑永代売買禁止令』が出し、土地の売買を禁じた |
寛永17年 (1640) |
多鯰ケ池で「鮒をとることが禁止」(「在方諸事控」) |
寛永21年 (1644) |
宗門改めの制を定める |
慶安3年 (1650) |
鳥取東照宮(樗谿公園)建立。初代鳥取藩主・池田光仲が日光東照宮の分霊として建立 |
明暦3年 (1657) |
「在方御定」では、百姓町人日用品の数量や種類を制限。 |
明暦3年 (1657) |
徳川光圀が「大日本史」編集に着手 |
万治4年 (1658) |
高草郡屈指の旧家松本家の墓の一番古い銘 |
万治3年 (1660) |
鳥取城下大火 |
寛文年間 | 寛文年間(1661-1673)に鳥取最古とされる寛文大図が描かれ、濱坂村と大多羅大明神が登場 |
寛文2年 (1662) |
因伯領内大地震、岡益の石堂倒れる |
寛文7年 (1667) |
凶作で4000石の救米放出 |
寛文10年 (1670) |
鳥取藩、宗旨庄屋を設置。戸籍・宗門改め等から 大庄屋の補佐役として郡政全般に関与 |
寛文11年 (1671) |
宗旨人別改帳(あらためちょう)導入。宗門改帳と人別改帳が統合され戸籍台帳。 |
寛文13年 (1673) |
弁天島、洪水で再び中島になったと推定(鳥府誌) |
延宝8年 (1680) |
綱吉が5代将軍となる |
天和元年 (1681) |
この頃、井原西鶴(「世間胸算用」・『好色一代男』)を著わす |
天和2年 (1682) |
5代将軍の徳川綱吉 全国に「忠孝札」を掲げて忠孝を奨励し、孝子表彰の制度を設けた |
貞享3年 (1686) |
「在方御法度」。「百姓町人之衣類、絹・紬・木綿・麻布・此内をもって分限に応じ妻子共に着用すべき事」 |
貞享4年 (1687) |
徳川綱吉による生類憐みの令が出される。この頃、元禄文化がさかん |
貞享4年 (1687) |
イギリスのニュートンが「万有引力の法則」を発見 |
元禄年間以降 | 一般農村でも読・書・算の力が必要となり、寺子屋が文化年間から普及し、天保年間で急増した。 |
元禄2年 (1689) |
松尾芭蕉が「奥の細道」を著す |
元禄5年 (1692) |
鳥取城の天守閣、雷火で消失 |
元禄6年 (1693) |
池田家墓所創建 |
元禄6年 (1693) |
浜坂で鳥取藩主池田光仲の水燈法事。一千余のろうそくが水面を照らす |
元禄11年 (1698) |
永代請免制を実施。大庄屋、村庄屋たちは年貢米徴収の連帯責任を負う |
元禄11年 (1698) |
江戸地震による江戸城の復旧 |
元禄15年 (1702) |
赤穂浪士があだ討ちをする |
元禄16年 (1703) |
近松門左衛門が「曽根崎心中」を著す |
宝永年間 (1704~11) |
丸山に二軒の茶屋。摩尼寺参りは、この茶屋や覚寺村のまんじゅう屋で休憩 |
宝永3年 (1706) |
江津、南隈村に川運上役が復活。藩主の船遊人夫には人夫賃(銀)が与えられた |
宝永4年 (1707) |
富士山噴火復旧 |
宝永6年 (1709) |
新井白石の正徳の治(綱吉死後の財政立て直し改革) |
宝永7年 (1710) |
大地震、大山6坊倒壊、八橋町60戸倒壊 |
正徳1年 (1711) |
鳥取城下大火災、町18・戸数1927焼失 |
正徳6年 (1716) |
享保の改革 ・吉宗が8代将軍となる |
正徳6年 (1716) |
年貢不足の徳尾村の約半数が追放される。翌年に徳吉村で同様のことが起きている |
正徳7年 (1717) |
大岡忠相が江戸町奉行に就任する |
享保2年 (1717) |
因伯百姓一揆、鳥取城下に押し寄せる |
享保3年 (1718) |
湖山川で四手網漁の操業停止命令(「在方諸事控」) |
享保5年 (1720) |
江戸町火消しをつくる |
享保5年 (1720) |
鳥取大火で鳥取城下2500戸余と鳥取城の殆どを消失。1711、1720、1724など鳥取城下の大火続く |
享保6年 (1721) |
目安箱を置いて人々の不満をきく |
享保9年 (1724) |
鳥取城下大火、2791戸焼失。疫病流行し、死者多数。農作物の虫害甚大 |
享保12年 (1727) |
青木昆陽がさつまいもの栽培を始める |
享保13年 (1728) |
荒神山の波戸に魚つり・網干し・石投げなどの禁止制札 |
享保14年 (1729) |
記録的大水被害 |
享保17年 (1732) |
享保の大飢饉。各地に百姓一揆や打ちこわしが起こる |
元文2年 (1737) |
宝暦3年(1753)にかけ、将軍吉宗時代の勘定奉行の神尾若狭守春央の言葉「胡麻の油と百姓は絞れば絞る程出る物也」 |
元文3年 (1738) |
湖山池が凍るほどの天候不順で、各地で大凶作 |
元文4年 (1739) |
鳥取の元文一揆。安長、秋里の土手に因伯5万人の農民集結、庄屋の家などの打ち壊し、焼き払い発生 |
寛保2年 (1742) |
公事方御定書を出し、裁判の基準を定める |
寛保2年 (1742) |
高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると江津は、生高498石余 |
寛延年間 (1748~) |
代々山墓地の須崎家墓碑に寛延の銘あり |
寛延3年 (1750) |
鮭の不漁につき、御用瀬網漁を行っていた秋里・安長・田島の3村で千代川の一部(上下)の禁漁を願い出た。鮭は藩主の贈答品であった |
宝永元年 (1751) |
吉宗が死去 |
宝永年間 | 宝永年間(1751-1763)、浜坂道と摩尼道の分岐点、往来の左側に二軒の茶店ができた。現在の旧丸山交差点あたり |
宝暦6年 (1756) |
藩校の尚徳館創設。藩政を担う人材を文武両系統で育成 |
1760 | イギリスの産業革命(~1840) |
明和2年 (1765) |
鈴木春信、錦絵創始 |
明和4年 (1767) |
田沼意次が側用人になる。1772、「田沼時代」始まる |
明和6年 (1769) |
イギリスのワット、蒸気機関を改良 |
明和6年 (1769) |
「高草郡神社御改帳」によれば、当時の江津神社社殿は2尺四方の柿葺、神楽殿や荒神もあったと記されている |
明和7年 (1770) |
大多羅大明神の浜坂上ノ山における建替え建設 |
明和7年 (1770) |
日本海のイワシ漁、殊に大漁なり 農村でも田肥目的の鰯網漁が盛んになる |
安永3年 (1774) |
杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す |
1775 | アメリカ独立戦争、1776 アメリカ独立宣言 |
安永5年 (1776) |
平賀源内がエレキテル(発電機)をつくる |
安永8年 (1779) |
この頃、田沼父子が権力をふるう(田沼時代) |
天明元年 (1781) |
「田肥とする鰯網漁が許可された」(「在方諸事控」) |
天明3年 (1783) |
6代治道(天明3年)~7代斉邦(寛政10・1798)鳥取藩では学芸全般の黄金時代迎える。稲村三伯「ハルマ和解」・安部恭庵「因幡誌」・小泉友賢「因幡民談記」・岡島正義「鳥府志」「因府年表」、歌人の香川景樹など |
天明2年 (1782) |
天明の大飢饉~8年。江戸四大飢饉の一つ、 日本近世最大の飢饉。自然災害に田沼時代の失政による米価上昇で全国へ波及 |
天明3年 (1783) |
「浜坂新田村」を創立 |
天明6年 (1786) | 7月、江津河原にて挙火(花火)、藩主も見物した |
天明7年 (1787) |
寛政の改革・松平定信が老中筆頭になる。 |
天明7年 (1787) |
円山応挙、『雪松図屏風』を描く |
1789 | フランス(市民)革命勃発。 フランス共和国建国記念日となる |
1789 | 米国の初代大統領にワシントン就任 |
寛政4年 (1792) |
林子平が「海国兵談」を著し、罰せられる。ロシアの使節ラックスマンが根室に来る |
寛政7年 (1795) |
安陪恭庵の「因幡誌」完成 |
寛政7年 (1795) |
鳥取県下で有史以来の最大の洪水が台風によって発生。鳥取城下の溺死人は652人、家屋流失414 |
寛政11年 (1799) |
7月、江津河原にて挙火(花火)が催され、藩主も見物 |
寛政11年 (1799) |
池田治道の水灯法事。船引人夫・船の松明持人夫が150人余り浜坂村に集結 |
享和元年 (1801) |
「溺死海会塔」建立。 寛政7年の洪水で溺死した人々の七回忌法要で建立 |
享和2年 (1802) |
十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す |
文化元年 (1804) |
ナポレオン皇帝即位。フランス革命後に軍事独裁政権樹立 |
1804 | ベートーヴェン(1770~ 1827)の「傑作の森」の時期。この頃、ゲーテ(1749~1832)も活躍す |
文化3年 (1806) |
幕府天文方の伊能忠敬ら、因伯領内海岸を測量 |
1806 | ローマ帝国滅亡 |
文化5年 (1808) |
間宮林蔵が樺太を探検する |
文化5年 (1808) |
滝沢馬琴『椿説弓張月』 |
文政4年 (1821) |
伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」が完成 |
文政4年 (1821) |
徳尾村大庄屋岡田庄兵衛、因伯追放 |
文政6年 (1823) |
シーボルトが鳴滝塾を開く |
文政6年 (1823) |
文久2年(1862)までの40年間、藩の国産奨励の白磁の浜坂焼が行われた。 |
文政7年 (1824) |
江津村の大庄屋として松本儀右衛門が登場 名字帯刀と許される |
文政八年 (1825) |
幕府が異国船打払い令を出す |
文政八年 (1825) |
覚寺村の利兵衛、地方運上締方兼務。苗字を許され、文政10年、宗旨庄屋に昇進 |
文政八年 (1825) |
浜坂焼の御手懸中止 |
文政10年 (1827) |
江津村に医師を迎える嘆願が庄屋たちから出された |
文政11年 (1828) |
浜坂焼の再興したいとの嘆願が出された |
文政12年 (1829) |
「農業おろそかニ相成る」という理由による鰯網漁の新規申請禁止 |
文政12年 (1829) |
「鳥府志」「鳥府ノ名蹟」を鳥取藩士の岡島正義が著す |
文政13年 (1830) |
シーボルト事件。国禁の日本地図など国外持ち出し発覚 |
文政13年 (1830) |
この頃、葛飾北斎 『富嶽三十六景』を描く |
文政13年 (1830) |
江津村荒神山のニケ所の波戸に新たに魚取禁止の制札 |
天保元年 (1830) |
天保元年~6年まで4年が不作、続く7年が大凶作 |
天保3年 (1832) |
葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができる |
天保3年 (1832) |
天保の大飢饉始まる 歌川広重の「東海道五十三次」完成 |
天保6年 (1835) |
藩主の休憩所である御茶屋が浜坂村に設置 |
天保7年 (1836) |
天保の大飢饉。大凶作、疫病の流行。死者は因伯で数万(当時の両国の総人口は30万人) |
天保8年 (1837) |
大塩平八郎の乱。陽明学者で大阪奉行所の元役人が、貧しい人々を救おうとして兵を挙げた |
天保10年 (1839) |
蛮社の獄。渡辺崋山・高野長英らが幕府の鎖国政策を批判してとらえられる |
天保12年 (1841) |
天保の改革(老中水野忠邦)。農民を村に帰したり、倹約令を出したが、失敗に終わった |
天保12年 (1841) |
滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を著す 。 |
天保12年 (1841) |
この頃、各地にマニュファクチャー(工場制手工業)が起こる |
天保13年 (1842) |
清・イギリス間にアヘン戦争(~1842) 南京条約にて香港島をイギリスに割譲 |
天保14年 (1843) |
江津の村々人数増言書上帳(加藤家文書)で 男184、女165。 |
天保14年 (1843) |
丸山の飢饉供養塔 (天保の大飢饉)が建てられる |
嘉永元年 (1848) |
大多羅大明神が多鯰ケ池上の大多羅越から浜坂に遷座したとする説あり(間違いと判明) |
嘉永4年 (1851) |
池田慶栄の水灯法事 |
嘉永五年 (1852) |
五月廿六日の池田候、船遊び。浜坂観音下で乗船、浜坂御茶屋で休憩。下宿と立ち寄り所、道筋掃除、川さらい、船を綱で引く人夫39人を浜坂村から差し出すこと |
嘉永6年 (1853) |
黒船来航。アメリカの使節ペリー来航、開国を要求する |
嘉永6年 (1853) |
大砲、大栄町から船で賀露港へ3台運搬され、1台は湖山砂丘、2台が浜坂砂丘へ設置。海防警備上、大砲術の訓練兵として、近郷10ケ村の農民が参加。 |
嘉永7年 (1854) |
ペリーが再来航、日米通商条約締結、鎖国制度の終わり |
安政元年 (1855) |
日蘭和親条約 |
安政元年 (1855) |
日魯通好条約により、北方領土4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)確定 |
安政・ 万延年間 |
安政・万延年間、藩は浜坂村に松苗60万本を植え、砂止めし、砂丘地に畑地10町歩開く。柳茶屋誕生に繋がる |
嘉永7年 (1854) |
「邑美郡浜坂村の御茶屋下、十六本松辺りでご家中の水練稽古を行う」の記録 |
安政3年 (1856) |
アメリカの総領事ハリスが下田に着任する。 |
安政3年 (1856) |
浜坂焼の御手懸復活 |
安政3年 (1856) |
吉田松陰が松下村塾を開く |
安政5年 (1858) |
井伊直弼が大老になり、 米・露・英・仏と修好通商条約締結 |
1858 | イギリスのダーウィンが『種の起源』を著す |
安政5年 (1858) |
『邑美郡『村々高物成小物成表』によると、浜坂村の産高は517石、郡36村の平均生産高の458を超える |
安政5年 (1858) |
浜坂村の家数75、生高517石余、物成282石余、山役米三石余、藪役銀二匁 |
安政5年 (1858) |
村々生高取調帳では江津の生高513石余。 |
安政6年 (1859) |
安政の大獄。大老井伊直弼は政治に批判的な諸大名や志士たち(吉田松陰など)を弾圧 |
安西6年 (1859) |
湯山池の干拓事業により新田20余町が開発された |
万延元年 (1860) |
桜田門外の変 |
文久元年 (1861) |
松本善右衛門が中庄屋と記録されている |
1861 | アメリカ南北戦争(~1865) |
文久2年 (1862) |
孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚し、公武合体運動が進む。薩摩・長州藩の尊王攘夷論が益々強まる |
文久2年 (1862) |
生麦事件。 横浜近くの生麦村で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷 |
文久3年 (1862) |
文久2年(1862)8月20日付の「在方諸事控」に「明後廿ニ日の浜坂稽古場での大砲御見分について、道を整備し下宿を準備するように、また、玉(砲弾)が柳茶屋附近に落ちるため、往来人を足止めするように(以下略)」と記録されている。 |
文久3年 (1863) |
藩校の尚徳館を大拡張。尚徳館碑」を建立 |
文久3年 (1863) |
薩英戦争。生麦事件への報復で英国が鹿児島湾を砲撃 |
1863 | 黒人奴隷解放宣言(アメリカ大統領リンカーン) |
文久4年 (1864) |
下関事件 。米・英など4か国の艦船が下関を砲撃、占領 |
文久4年 (1864) |
長州征伐(第一次)。尊王攘夷論の中心的存在の長州藩を幕府が攻撃 |
文久5年 (1865) |
長州征伐(第二次) |
1865 | オーストリアのメンデルが「遺伝の法則」を発見 |
慶応2年 (1866) |
薩摩藩と長州藩が連合する 坂本竜馬のなかだちで、薩長連合倒幕が計画を推進 |
慶応2年 (1866) |
家持が死去し、徳川慶喜が第15代将軍となる |
慶応2年 (1866) |
福沢諭吉が「西洋事情」を著す |
慶応3年 (1867) |
大政奉還。15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還 江戸幕府は倒れ、鎌倉幕府からの700年の武家政権が終焉する |
慶応3年 (1867) |
王政復古の大号令 |
1867 | スウェーデンのノーベルがダイナマイトを発明 |
慶応4年 (1868) |
五箇条の御誓文(新政府の政治方針)。 天皇が神に誓う形式、同時に民衆への五榜の掲示 |
慶応4年 (1868) |
江戸城開城 |
慶応4年 (1868) |
戊辰戦争。旧幕府側の大名や武士たちと、薩長を中心とする新政府との対立。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争など |
明治時代(1868年 ~ 1912年)
倒幕派の諸藩は、戊辰戦争で旧幕府勢力を退け、王政復古により明治新政府を樹立した。
新政府は、世界視察団を派遣により、欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、廃藩置県、四民平等化、六法・郵便・鉄道・水道等の整備にまで及んだ。また、日本のおよその国境を画定した。帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備の一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策とし、結果、日清・日露戦争に勝利して諸外国との不平等条約改正を果し、台湾統治や韓国併合など領土を拡大した。
文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、文明開化と呼ばれた。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では、神仏分離がなされ、神社は行政組織に組み込まれて皇室を中心とする国家神道に再編されていく。一方の仏教は寺請制度が廃止されて弾圧された(廃仏毀釈)。また、欧米の圧力で「キリシタン禁教令」は廃止された。
【浜坂地区】明治22年に中ノ郷村発足(浜坂村、覚寺村、円護寺村)。明治29年、岩美郡が発足して中ノ郷村が合流。以降、浜坂は昭和8年の鳥取市併合まで岩美郡へ所属する。明治34年、旧中ノ郷小学校を覚寺口に設立(56名)。明治29年創立の陸軍第四十連隊は浜坂砂丘を演習地として利用した。浜坂や河口方面への清遊「浜出」が盛んで、すりばち、十六本松などが観光地として好まれた。
【江津地区】明治22年、千代水村発足。千代水小学校は明治6年に安長の東円寺本堂内(寺子屋の延長)に設立、明治17年現商栄町に改築移転した。
明治初年 (1868) |
戊辰戦争、倒幕派が勝利 |
明治初年 (1868) |
一世一元の制。明治天皇即位。年号を明治と改め、天皇一代につき年号は一つとした |
明治初年 (1868) |
神仏分離令:廃仏毀釈運動が起こる |
明治初年 (1868) |
大多羅大明神、濱坂神社と改称 |
明治初年 (1868) |
江津神社と改称し、境内に稲荷神社を合祀 昭和初期まで現在の千代川の真ん中辺りに鎮座した |
明治初年 (1868) |
荒木神社と改称 |
明治初年 (1868) |
隠岐の島を鳥取藩へ移管 |
明治初年 (1868) |
人力車現れる |
明治2年 (1869) |
都を東京に移す |
明治2年 (1869) |
版籍奉還。大名支配の土地(版)・人民(籍)を朝廷に返還 |
明治2年 (1869) |
四民平等とし、新たに華族・士族・平民の制を設ける |
明治2年 (1869) |
因幡鳥取藩は鳥取藩と公称され、池田慶徳が 「鳥取藩知事」に任命された |
明治3年 (1870) |
鳥取藩主池田慶徳は、戊辰戦争で死亡した78人の 招魂所を代々山にすると定め、一社を造営 |
明治3年 (1870) |
9月、鳥取で大雨大洪水。 |
明治3年 (1870) |
3月3日、代々山に招魂社を創立で戦没者への招魂祭を執行。同社は現在、砂丘の鳥取県護国神社に |
明治3年 (1870) |
平民にも名字が許可される(「平民苗字許可令」) |
明治3年 (1870) |
尚徳館を明治維新の改革に伴い閉校 |
明治4年 (1871) |
大洪水。 |
明治4年 (1871) |
廃藩置県で因伯と隠岐国で鳥取県が成立 |
明治4年 (1871) |
不徹底ではあるものの「四民平等」が実行された。 |
明治4年 (1871) |
国民を把握するための「戸籍法」 |
明治4年 (1871) |
廃藩置県で因伯と隠岐国で鳥取県が成立。 当初の3府302県が後に3府72県に統合 |
明治4年 (1871) |
郵便制度ができる。前島密らの努力による |
明治4年 (1871) |
岩倉具視・大久保利通らを欧米視察に派遣 |
明治4年 (1871) |
地租改正。地価の一定率(3%)の額を金納。日本初の土地に私的所有権を認めた制度改革で地主が増大した |
明治5年 (1872) |
「学制」公布し、全国に小、中、大学校を設立。 義務教育化(小学校8年間)、公立学校の原則成立。 |
明治5年 (1872) |
湯所町の天徳寺境内に愛日小学校を開校。明治20年、醇風小学校と合併し久松尋常小学校に改称 |
明治5年 (1872) |
鳥取市に遷喬小学校などの8校が開校 |
明治5年 (1872) |
東京新橋と横浜間に鉄道開通、京・大阪間に電信開通、太陰暦を廃止し太陽暦採用。官営の富岡製糸場 |
明治5年 (1872) |
福沢諭吉が「学問ノススメ」を著す |
明治6年 (1873) |
「キリシタン禁教令」を廃止 |
明治6年 (1873) |
地租改正条例が公布される。地価の3%の税を土地の所有者が現金で納めるようにした |
明治6年 (1873) |
小学校制度への反感で「小学校御廃止の事」などを掲げた大暴動一揆(西伯郡) |
明治6年 (1873) |
千代水小学校は明治6年に安長の東円寺の本堂を学校として生徒数65人で出発、明治17年に移転 |
明治6年 (1873) |
鳥取城。明治6年の廃城令では存城とされ陸軍省所管へ。島根県合併で「県庁所在地(松江市)以外に城は不要」で、明治10~12年解体 |
明治6年 (1873) |
国民の義務として国民皆兵を目指す徴兵令が陸軍省 により発布 |
明治6年 (1873) |
西郷隆盛が征韓論を主張。士族の不満を外に向けるために朝鮮出兵を主張。大久保利通の反対で政府を去った |
明治7年 (1874) |
板垣退助が藩閥政治に対し、民選議院設立建白書を 政府に提出。自由民権運動が広がる |
明治7年 (1874) |
江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱) 明治政府に対する不平士族反乱の一つである |
明治8年 (1875) |
「平民苗字必称義務令」 |
明治8年 (1875) |
ロシアと千島列島・樺太交換条約。南北1200kmの千島列島は海洋戦略上かつ水産業で重要 |
明治9年 (1876) |
旧士族が神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を起こす |
明治9年 (1876) |
8月、突如として鳥取県は廃止され、島根県と合併 |
明治10年 (1877) |
西郷隆盛が西南戦争を起こす |
明治10年 (1877) |
東京大学設立 |
明治10年 (1877) |
夜学の千代水小学校の分校 |
明治11年 (1878) |
神戸―境港―函館間に月2回の定期航路、17年は、安来―境―下関―大阪間に月7回の山陰専用航路開通 |
明治12年 (1879) |
「学制」を廃止し、代わって教育令を発令。 就学義務を初等3年間とした。 |
1879 | エジソンが白熱電灯を発明 |
明治12年 (1879) |
浜坂村、家数101、男273、女233、牛48、船24とある(共武政表)。 |
明治13年 (1880) |
集会条例を定めて、言論や集会を取りしまる |
明治14年 (1881) |
板垣退助らが自由党結成 |
明治15年 (1882) |
大隈重信が立憲改進党結成 |
明治17年 (1884) |
この頃、鹿鳴館で舞踏会がさかんに催される |
明治18年 (1885) |
正岡子規、17歳で俳句を作り始める。 |
明治18年 (1885) |
内閣制度ができ、伊藤博文が初代の内閣総理大臣になる。太政官制度を廃止、内閣制度へ |
明治20年 (1887) |
東京に電灯がつく。保安条例が公布される |
明治13年 (1880) |
旧士族たちの鳥取県再置運動活発化 |
明治13年 (1880) |
地租改正による貧農への負担大きく、伯耆で 小作争議発生、八頭郡八東では15年に発生 |
明治14年 (1831) |
9月12日、鳥取県復活 9月12日は鳥取県の「県民の日」に、 |
明治16年 (1883) |
鳥取県で初誕生の新聞として「山陰隔日新報」が創刊 |
明治19年 (1886) |
株式組織の米子製糸合名会社が設立。21年、米子紡績会社など、蒸気力利用の工場が登場 |
明治19年 (1886) |
倉吉に「因伯馬車会社」が発足、同22年からは智頭・雨滝・鹿野往来にも開通 |
明治19年 (1886) |
小学校令では尋常小学校を4年、高等小学校を4年に |
明治22年 (1889) |
大日本帝国憲法(明治憲法) |
明治22年 (1889) |
東海道線の全線開通 |
明治22年 (1889) |
北里柴三郎が破傷風菌を発見し、血清療法を完成する |
明治22年 (1889) |
県内に市町村制が施行され鳥取市が成立。 浜坂村、覚寺村、円護寺村は中ノ郷村として発足、千代水村も6ヶ村で発足。当時の浜坂は戸数75 |
明治23年 (1890) |
第1回衆議院議員選挙行われる |
明治23年 (1890) |
教育勅語を発布。明治天皇は、 徳育が最も大切とするわが国の教育方針を示した |
明治24年 (1891) |
森鴎外が「舞姫」を発表 |
明治26年 (1893) |
9月 浜坂の上ノ山の山裾の土砂崩れ |
明治27年 (1894) |
株式会社米子銀行。明治31年に鳥取融通合資会社 が創設され、同36年に合資会社鳥取銀行、大正3年に大正鳥取銀行と改称 |
明治27年 (1894) |
日清戦争勃発(~1895)。 朝鮮半島の支配をめぐる日本と清が戦う |
明治27年 (1894) |
イギリスとの間で条約の改正 治外法権の撤廃(外務大臣 陸奥宗光) |
明治28年 (1895) |
日清戦争後の下関講和条約(日清講和条約) 台湾・遼東半島の割譲など要求し、台湾を平定す |
明治28年 (1895) |
三国干渉(フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国)により、日本は遼東半島を清国に返還する |
明治28年 (1895) |
樋口一葉が「たけくらべ」を著す |
1896 | 第1回近代オリンピック競技 |
明治29年 (1896) |
鳥取市に第四十連隊創設、昭和14年(1939)まで。砂丘を陸軍歩兵第四十連隊の演習地として利用 |
明治29年 (1896) |
郡制施行(郡の再編)で、邑美・法美と岩井の3郡で岩美郡が発足。浜坂は昭和8年の鳥取市編入まで約35年間、岩美郡に属する。高草郡も気高郡に統合される。 |
明治30年 (1897) |
八幡製鉄所ができる(1901年から操業開始) |
1897 | ドイツのディーゼルがディーゼル機関を完成 |
明治30年 (1897) |
志賀潔が赤痢菌を発見する |
明治30年 (1897) |
尾崎紅葉が「金色夜叉」、島崎藤村が「若菜集」を著す |
明治30年 (1897) |
鳥取県下に3台の自動車現れる |
明治32年 (1899) |
旧藩主池田家の新しい当主仲博が7月に初のお国入り。一日は千代川下流に舟遊びしている |
明治33年 (1900) |
治安警察法。社会運動や労働運動の取締り。大逆事件(天皇暗殺計画)の疑いで社会主義者を厳しく処罰 |
明治33年 (1900) |
尋常小学校の授業料が無償化 |
明治33年 (1900) |
鉄道山陰線の境港―御来屋間工事着工する |
明治33年 (1900) |
明治33年(1900)、尋常小学校の授業料が無償化 |
明治34年 (1901) |
(旧)中ノ郷尋常小学校が覚寺入口に設立。大正13年(1924)新校舎落成(この校舎が廃校まで続く)。 |
明治34年 (1901) |
昭和天皇の誕生(4月29日) |
1901 | 第1回ノーベル賞 |
明治35年 (1902) |
鉄道山陰線の境港―御来屋間完成。同38年は青谷、40年には鳥取市古海まで鉄道で結ばれた |
明治35年 (1902) |
日英同盟。中国・韓国における権益を相互に認め、 アジアにおけるロシアの膨張への備えを共同目的とした |
明治36年 (1903) |
幸徳秋水らが平民社を設立、「平民新聞」を創刊 |
1903 | アメリカのライト兄弟が飛行機を発明 |
1903 | ロシアが満州を占領 |
明治37年~ 38年 (1904~5) |
日露戦争。朝鮮半島と満州の権益を巡る争い。 満州南部と遼東半島が主な戦場となり、 日本近海でも大規模な艦隊海戦 |
明治37年 (1904) |
教科書の国定化 |
明治37年 (1904) |
二十世紀梨、千葉県から導入 |
明治38年 (1905) |
日本海海戦(日露)で勝利 |
明治38年 (1905) |
ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)。韓国を日本の保護下に置き、明治43年に日本に併合 |
明治38年 (1905) |
夏目漱石が「吾輩は猫である」を発表 |
明治39年 (1906) |
南満州鉄道株式会社をもうける |
明治39年 (1906) |
鳥取電燈(株)が県初の電気事業として設立。翌年40年、雨滝水流利用の発電所を建設し、鳥取市内一斉に点燈 |
明治39年 (1906) |
仁風閣(明治39年9月着工・翌年5月竣工)建設着工 |
明治40年 (1907) |
義務教育が6年になる |
明治40年 (1907) |
鳥取県で電灯初点灯 |
明治40年 (1907) |
鳥取県で電話が初めて架設。41年に鳥取・米子間の長距離電話が開通し、43年には鳥取・大阪間も開通 |
明治40年 (1907) |
5月、境港ー鳥取間の鉄道開通とともに皇太子殿下が山陰に行啓せ、鳥取城内に仁風閣完成 |
明治41年 (1908) |
皇太子奉迎誌に「清流漫々として、一眸直に加露の河口を望むべく、風景絶佳なり」と記録される |
明治42年 (1909) |
東中西に中学校が揃い、43年には鳥取商業学校が開校 |
明治42年 (1909) |
伊藤博文が満州で朝鮮の民族運動家の青年( 安重根)に暗殺される 。本事件で日本は韓国の日本併合を強行 |
明治43年 (1910) |
大逆事件。明治天皇の暗殺を計画したとして、幸徳秋水など全ての社会主義者、無政府主義者を弾圧 |
明治43年 (1910) |
韓国併合により朝鮮半島を領有し、朝鮮総督府を設置 |
明治43年 (1910) |
石川啄木が「一握の砂」を発表 |
明治43年 (1910) |
6月国鉄山陰線(鳥取岩美間)開通。 但馬往来の利用者激減。柳茶屋の斜陽始まる |
明治44年 (1911) |
関税自主権の回復。不平等条約改正を完全に達成する(外務大臣 小村寿太郎) |
1912 | 中華民国が成立。1949年に共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れた国民政府が現在用いている名称 |
明治45年 (1912) |
ガス事業始まる。大阪の関西ガス株式会社が鳥取と米子にガス工場を建設して都市ガスを送り出した。 |
明治45年 (1912) |
山陰線の最難工区で高さが東洋一の余部鉄橋が完成 |
明治45年 (1912) |
ストックホルムオリンピックに日本初参加。 日本の人口5,252万人 |
明治45年 (1912) |
7月30日明治天皇崩御に伴い、明治時代が終わる |
大正時代(1912年 – 1926年)
大正時代は、大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。大正14年(1925)には男子普通選挙が実現した。
大隈重信政権は大正3年(1914年)の第一次世界大戦に日英同盟を根拠に参戦。中華民国(台湾)に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。戦争の結果、大正8年(1919)にパリ講和会議でドイツの山東省権益を獲得したがワシントン会議で返還された。太平洋のドイツ領であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて統治することとなった。日本は大戦特需により工業生産が激増し、未曾有の好景気となる。財閥は資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いた。大戦が終わると大戦中の反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに大正12年(1923)の関東大震災が追い討ちをかけた。
【浜坂地区】大正3年の第一次大戦時景気で養蚕業拡大、農家の6割、畑地の7割に拡大も、戦後~昭和初期の反動不景気で園芸作物などに転換。
【江津地区】大正10年に千代川改修期成同盟会が設置され、12年に着工した。千代水地区は分断、かつ、大幅な農地(78町歩)や神社・墓地などの水没で村の存続をかけての大議論呼ぶ。
大正元年 (1912) |
明治天皇が崩御し、大正天皇が即位。大正時代が始まる |
大正元年 (1912) |
11月、鳥取市内にも瓦斯燈が設置される。 |
大正元/7/12 | 大正時代の三大水害 |
大正2年 (1913) |
3月に山陰線全通。久松山二の丸で、原敬、大隈重信など全国の各界名士2千人が集まり山陰線全通式挙行 |
大正3年 (1914) |
第一次世界大戦勃発。当時のドイツ領の中国や南洋諸島へ領土的野心を抱く日本も参戦。他参戦国からの軍需品注文で大戦景気に湧く |
大正3年 (1914) |
第一次世界大戦時の好景気の波に乗った鳥取県の 蚕糸業や二十世紀梨などはめざましい発展期を迎えた。 |
大正4年 (1915) |
中国に21か条の要求を出し、満州へ手をのばす。 |
大正4年 (1915) |
芥川龍之介が「羅生門」を著す |
1915 | ドイツのアインシュタインが一般相対性理論を完成 |
大正4年 (1915) |
全国で29番目、山陰地方初の近代水道事業が始まり、計画給水人口5万人として鳥取市内に給水を開始 |
大正7年 (1918) |
第一次世界大戦休戦。翌8年、鉄価大暴落し、日野のたたら製鉄の歴史終焉。昭和の金融・農業恐慌へ繋がる |
大正7年 (1918) |
スペイン風邪流行。日本の死者15万人。鳥取県でも死者767人 |
大正7年 (1918) |
シベリア出兵最初 |
大正7年 (1918) |
富山に米騒動。本格的政党内閣の原敬内閣できる |
大正7年 (1918) |
9月、鳥取市水害は大正年間最大の被害 |
大正8年 (1919) |
パリ講和会議(ベルサイユ条約) 連合国とドイツの間で締結された第一次世界大戦の講和条約 |
1919 | 中国国民党が発足 |
大正9年 (1920) |
江津に電燈が灯る |
大正9年 (1920) |
国際連盟に加入し、常任理事国になる。戦後の経済恐慌が起こる。第1回メーデーが行われる |
大正9年 (1920) |
農業恐慌が始まる。鳥取でも米や生糸が4、5割暴落 |
1920 | ドイツにナチスができる・国際連盟、成立 |
1921 | 中国共産党、成立 |
大正10年 (1921) |
千代川改修期成同盟会の設置 |
大正10年 (1921) |
ワシントン軍縮会議。四か国協定(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を破棄する |
大正10年 (1921) |
志賀直哉が「暗夜行路」を著す |
大正11年 (1922) |
政府は大正7年の水害を受け、翌年度から10カ年継続事業として千代川・袋川改修を決定 |
大正11年 (1922) |
全国水平社ができる。日本の部落解放運動団体である |
大正12年 (1923) |
9月1日、関東大震災の発生。復旧事業優先で、 千代川などの改修工事の中止繰り延べが検討された。 |
大正12年 (1923) |
9月、鳥取県は台風に襲われ、千代川・袋川で堤防決壊。河川改修工事は計画通りの着工決定 |
大正12年 (1923) |
有島武郎が鳥取砂丘で「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしきわれを見出でけるかも」の歌を残して1ケ月後に情死 |
大正13年 (1924) |
荒神山横穴遺跡、山の南面に7基の横穴を発見 |
大正13年 (1924) |
12月、高等科併置のため校舎を新築し、翌14年4月1日、中ノ郷尋常高等小学校と改めた。 |
大正14年 (1925) |
日ソ基本条約:日ソ国交の回復 |
大正14年 (1925) |
治安維持法が定められる。社会主義の運動や労働運動の取りしまりを強化、日本のファシズム体制をささえた |
大正14年 (1925) |
普通選挙法が成立 。満25歳以上の男子のすべてに 衆議院議員の選挙権が与えられた。女子は対象外 |
大正14年 (1925) |
日本ではじめてラジオ放送が開始。翌年、NHK設立 |
大正15年 (1926) |
川端康成が「伊豆の踊子」を著す |
大正15年 (1926) |
12月25日大正天皇が死去。昭和天皇が即位 |
昭和時代(1926年~1989年)
昭和2年、昭和金融恐慌が発生し、昭和5年(1930)には世界恐慌が日本経済を直撃した。日本やドイツは他国領土への侵略によって苦境を脱しようとし、第二次世界大戦へと突入していく。中国では、関東軍の陰謀による満州事変で誕生した満州国を承認し、それを批判する国際連盟を脱退した。また、同じく脱退していたナチス・ドイツ国と日独防共協定を締結した。昭和12年、日本は抗日活動が続く中国との戦争(日中戦争)に突入する。昭和15年(1940)には日独伊三国同盟を締結し、翌年、真珠湾攻撃でアメリカ軍を奇襲し、第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入する。しかし、戦争末期には、主要都市への爆撃を受け、広島と長崎には原子爆弾が投下された。
【戦後 1945年~】
昭和20年(1945年)、日本はポツダム宣言を受託して敗戦を迎えた。このときの、ソ連との北方領土問題、韓国との竹島問題などが未解決で現在に至る。
戦後、連合国軍最高司令部 (GHQ) の占領下、象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定した。また、「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために農地改革と財閥解体が行われた。昭和27年のサンフランシスコ平和条約で主権を回復した後、急速に復興を進め、西側陣営として日米安全保障条約を締結した。昭和47年(1972)には日中国交正常化と沖縄返還が行われた。1960年代、日本は高度経済成長をとげ、米国・ソ連次ぐ世界第3位となり、先進国の仲間入りをした。一方で、高度成長は各地に公害病などをもたらした。また、日本の輸出攻勢は貿易摩擦を生み、昭和末期のプラザ合意により円高不況が起こり、そこで行き過ぎた金融緩和によりバブル景気が到来し、平成時代へと進んでいく。
【浜坂地区】昭和8年、鳥取市へ合流して道路など整備した。昭和27年の鳥取大火の罹災者住宅建設から地区の初期拡大がスタートした。戦後の食糧増産目的で砂丘地畑地灌漑事業も進む一方、鳥取砂丘が天然記念物、山陰海岸国定公園指定などで観光地化する。昭和40年を分水嶺として、砂丘大橋・トンネル開通、9号線舗装、浜坂団地開発などが急速に進み、浜坂小、中ノ郷中、幼保施設などが集積した。他方、昭和49年~58年の千代川河口工事で十六本松の松林や水田が消滅した。
【江津地区】昭和28年鳥取市へ合流。千代川付け替え(大正12~昭和6)が千代水地区の分断と田畑の大幅減少をもたらしたが、旧千代川埋立て(昭和13~28)により、農地を恢復した。戦後の農地改革(昭和21)で大地主没落。浜坂小学校新設で子どもは浜坂地区へ合流した。(江津地区は平成17年4月に合流)
昭和1年 (1926) |
12月25日、昭和時代が始まる |
昭和1年 (1926) |
千代川改修事務所江津見張所が開設され、工事が始まる |
昭和2年 (1927) |
兵役法として徴兵令が全面改正 |
昭和2年 (1927) |
昭和の金融恐慌 第一次大戦の戦後不況と大正12年の関東大震災復旧が重なる |
1928 | 蒋介石が国民政府主席に |
昭和3年 (1928) |
伯備線が全通。県下の乗合馬車、全て廃業。 |
昭和3年 (1928) |
戎(えびす)座でトーキー映画が上映された。 常設館としては翌4年帝国館が建てられた。 |
昭和3年 (1928) |
千代川通水。千代川付け替えにより、秋里・江津が東西に分断され、農地や神社、墓地なども川に沈む |
昭和初期 | 鳥取市には寺町に日本製糸工場、棒鼻に郡是製糸工場等が進出。昭和6~8年を頂点とし、昭和恐慌で衰退していく |
昭和4年 (1929) |
世界大恐慌(暗黒の木曜日)。 ニューヨーク株式取引所の株式大暴落から始まり、企業倒産や銀行閉鎖など経済不況が1936年頃まで。米国経済に依存していた世界経済に波及、ドイツは東欧に、イタリアは北アフリカやバルカン半島へ、日本は満州から中国本土へ進出。新たな帝国主義による世界分割競争が世界恐慌を機に一気に強まり、第二次世界大戦へとつながっていく |
昭和4年 (1929) |
島崎藤村「夜明け前」、小林多喜二「蟹工船」を著す |
昭和4年 (1929) |
江津神社、千代川改修にともない、現在の地に遷座 |
昭和5年 (1930) |
若桜線全線開通 |
昭和5年 (1930) |
日本の農業恐慌が本格化 |
昭和5年 (1930) |
ロンドン軍縮会議 |
昭和5年 (1930) |
日ノ丸バス設立。昭和10年までに市内の路線バス運行 |
昭和5年 (1930) |
与謝野晶子、有島武郎を偲んで鳥取砂丘を訪問し歌を詠む。「武郎 晶子侘涙の地」に二人の歌碑が建つ |
昭和6年 (1931) |
千代川完成通水。新袋川は昭和9年通水。湯所~浜坂の千代川合流点までは昭和49年に完成。 |
昭和6年 (1931) |
鉄筋コンクリート製の八千代橋着工 |
昭和6年 (1931) |
県立図書館開館 |
昭和6年 (1931) |
満州事変(柳条湖事件)発生。これを機に満州支配へ動き、翌年「満州国」を樹立 |
昭和7年 (1931) |
「満州国」を樹立。 |
昭和7年 (1931) |
五・一五事件が起こる。青年将校らが総理大臣の 犬養毅を暗殺。この結果、政党政治が終わる |
昭和7年 (1931) |
因美線が全通 |
昭和7年 (1931) |
鉄筋コンクリートの千代橋が架けられる。 |
1933 | ドイツにヒトラー内閣成立。ナチスのユダヤ人迫害始まる |
1933 | ニュー・ディール政策はじまる |
昭和8年 (1933) |
日本、国際連盟を脱退。中国が日本の満州侵略を訴え、国際連盟が日本非難 |
昭和8年 (1933) |
山陰本線(京都~下関)の全線開通 |
昭和8年 (1933) |
岩美郡中ノ郷村(浜坂・覚寺・円護寺)が鳥取市に編入。浜坂71号線、その他の道路整備が着工 |
昭和8年 (1933) |
秋里の三嶋神社と荒木神社が合祀される |
昭和9年 (1934) |
新袋川開通 |
昭和9年 (1934) |
4月、有志により浜坂の道標立つ。「鳥取砂丘 右ハ摺鉢・旧砲台、左ハ十六本松海」 |
昭和11年 (1936) |
二・二六事件。東京で陸軍青年将校ら反乱 |
昭和11年 (1936) |
12月、ラジオ鳥取放送局開局の開局 |
昭和11年 (1936) |
大山国立公園指定 |
昭和12年 (1937) |
鳥取駅前に鉄筋コンクリート4階建の丸由百貨店オープン、山陰初の百貨店であり、後の鳥取大丸になる |
昭和12年 (1937) |
日華事変勃発。盧溝橋事件(日本軍への発布)を機に日中戦争へ突入 |
昭和13年 (1938) |
国家総動員法の公布で、戦時統制経済が強化される (戦時には国家が国民の財産を管理できるする法律) |
昭和13年 (1938) |
第一次近衛内閣の下で、言論統制目的の”新聞新体制”が叫ばれ、新聞統合が始まる |
昭和13年 (1938) |
旧千代川の埋立工事一期工事着手。昭和28年、15町歩の水田造成が完了し、江津埋立記念碑が建てられた。 |
昭和14年 (1939) |
国民徴用令が公布、徴用令状(白紙)が配られ始める |
昭和14年 (1939) |
9月 第二次世界大戦が勃発 |
昭和14年 (1939) |
「鳥取新報」と「因伯時報」に「山陰日日新聞」を加えて合併し、山陰同盟「日本海新聞」が誕生 |
昭和15年 (1940) |
日独伊三国同盟締結後、日本は仏領インドシナの占領をはじめとして東南アジアへ「南進」を始めた。 |
昭和15年 (1940) |
米・繊維製品・木炭・砂糖などが配給制に |
昭和16年 (1941) |
生活必需物資統制令が公布、太平洋戦争勃発の翌年には、マッチ、ろうそく、石けん、ちり紙なども配給制になる |
昭和16年 (1941) |
太平洋戦争入り。12月8日、日本の真珠湾攻撃を機に米国参戦、太平洋戦争へと突入していく。 |
昭和17年 (1942) |
2月 食糧管理法が制定 |
昭和17年 (1942) |
浜坂砂丘に中国地方唯一のグライダー滑空訓練所が設立 |
昭和17年 (1942) |
6月 ミッドウェー海戦にて壊滅的敗戦 |
昭和18年 (1943) |
インパール作戦・ラバウルなどの敗戦 |
昭和18年 (1943) |
イタリアが連合国に降伏 |
昭和18年 (1943) |
陸軍の浜坂兵舎が新設(現鳥大乾燥地研究センター敷地) |
昭和18年 (1943) |
鳥取大震災。9月10日が鳥取県の防災の日に |
昭和19年 (1944) |
サイパン島陥落。アメリカのB29による本土爆撃が激化し、集団疎開が始まる |
昭和20年 (1945) |
4月、 連合軍が沖縄に上陸し6月占領。 |
昭和20年 (1945) |
5月、 ドイツが連合国に降伏 |
昭和20年 (1945) |
ソ連が中立条約の不延長を通告 |
昭和20年 (1945) |
8月6日、人類史上はじめての原子爆弾が広島に投下、20数万人が犠牲に。8月9日に長崎に投下 |
昭和20年 (1945) |
8月8日、ソ連が参戦、北方領土、千島列島を占領 |
昭和20年 (1945) |
8月15日、第二次大戦敗戦。無条件降伏する。 ポツダム命令で徴兵令廃止。連合国が日本を占領 |
昭和20年 (1945) |
国際連合、成立 |
昭和(戦後) 1945~1989 |
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昭和20年 (1945) |
GHQ最高司令官マッカーサーが日本政府に地主制度の撤廃などの「農地改革に関する覚書」を送る |
昭和20年 (1945) |
選挙法改正で20歳以上の男女に選挙権 婦人参政権が認められる。 |
昭和20年 (1945) |
財閥解体。戦前に日本経済を支配し、政治までも動かしていた三井・三菱・住友などの財閥が解体された |
昭和20年 (1945) |
治安維持法が廃止され、政治犯が釈放される |
昭和21年 (1946) |
天皇が年頭詔書で人間宣言をする |
昭和21年 (1946) |
労働組合法制定。労働組合が結成され、メーデーが復活 |
昭和21年 (1946) |
極東軍事裁判が開かれる |
昭和21年 (1946) |
県内の図書館、古本書店、学校などから集められた軍国図書3千4百冊を鳥取県が米軍に引き渡す |
昭和21年 (1946) |
GHQは日本国憲法を成立させ翌年から施行 (国民主権・平和主義・基本的人権の尊重) |
昭和21年 (1946) |
第二次農地改革法が成立。地主の小作地を実質的に小作に開放。昭和23年、小作地率は53%から11%に激減 |
昭和21年 (1946) |
鳥取農林専門学校(後の鳥大農学部)の遠山正瑛教授が陸軍浜坂兵舎周辺の土地の使用を大蔵省に申請 |
昭和22年 (1947) |
戸籍改正、士族・平民の別を記載する族称欄の廃止 |
昭和22年 (1947) |
教育基本法制定 |
昭和22年 (1947) |
高等小学校が新生中学校となって義務教育に。 現在の9年間の6.3制義務教育制度が施行 |
昭和22年 (1947) |
労働基準法制定教 |
昭和22年 (1947) |
農業協同組合法施行 |
昭和23年 (1948) |
新生高等学校開始、男女共学制開始 |
昭和23年 (1948) |
GHQが「経済安定九原則」の経済政策指示。昭和24年当時の物価は昭和5~14年の220倍に |
1948 | 朝鮮が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂 |
昭和23年 (1948) |
中ノ郷農協や千代水農協などが設立 |
昭和23年 (1948) |
浜坂へブドウ栽培導入 |
昭和24年 (1949) |
中華人民共和国の成立 |
昭和24年 (1949) |
湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞 (日本人初のノーベル賞) |
昭和24年 (1949) |
千代川河口の改修着工。河口の東突堤など築く。本格的には昭和49年以降 |
昭和24年 (1949) |
県立中央病院開設 |
昭和24年 (1949) |
鳥取県内の4つの専門学校が統合して鳥取大学が誕生 |
昭和24年 (1949) |
鳥取大学発足とともに浜坂砂丘の旧陸軍用地において砂丘地の農業利用の研究を開始 |
昭和24年 (1949) |
1ドル=360円に設定 |
昭和25年 (1950) |
朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦) |
昭和25年 (1950) |
朝鮮戦争特需(~昭和27年)、経済は急回復、戦後の「奇跡の復興」、高度経済成長へ |
昭和25年 (1950) |
米国の援助で小麦粉のパン、ミルク(脱脂粉乳)、おかずの学校給食が始められる |
昭和25年 (1950) |
とりせん百貨店オープン |
昭和26年 (1951) |
サンフランシスコ平和条約締結。翌52年占領終了、日本は主権を回復 |
昭和26年 (1951) |
日米安全保障条約締結。GHQ部隊のうち米軍は在日米軍となる |
昭和26年 (1951) |
鳥取駅前に鳥取大丸がデビュー、太平マーケット開設 |
昭和27年 (1952) |
鳥取大丸の向い側におおとり百貨店が開店 |
昭和27年 (1952) |
手塚治虫の「漫画鉄腕アトム」少年誌に連載 |
昭和27年 (1952) |
4月17日 鳥取大火災。罹災者2万451人。死者3人。罹災家屋5,228戸 |
昭和27年 (1952) |
鳥取大火による罹災者住宅の建設 (あさひケ丘、小松ケ丘、ひばりケ丘など) |
昭和28年 (1953) |
テレビ放送開始 |
昭和28年 (1953) |
奄美群島がアメリカから返還される |
昭和28年 (1953) |
鳥取市が周辺町村と大合併。江津(千代水村)が鳥取市に編入 |
昭和28年 (1953) |
「海岸砂地振興臨時措置法」成立。北条・湖山・浜坂の砂丘帯で畑地灌漑事業が進められる |
昭和28年 (1953) |
江津に旧千代川埋立てによる15町歩の水田造成が完了。江津埋立記念碑を建立 |
昭和28年 (1953) |
十六本松林の奥にゴルフハウスが出来た |
昭和29年 (1954) |
防衛庁・自衛隊ができる |
昭和29年 (1954) |
鳥取県初の民放放送局「ラジオ山陰」が誕生した。 |
昭和29年 (1954) |
鳥取砂丘は地元の浜坂地区に払い下げられる。全面緑化方針の下、砂防造林始まる |
昭和30年 (1955) |
鳥取砂丘を天然記念物・山陰海岸国定公園に指定。観光客激増でし、砂丘の一部が保存されることに |
昭和30年 (1955) |
荒神山頂上に貯水槽をつくる(浜坂土地改良区) |
昭和30年 (1955) |
32年(1957)にかけて神武景気 |
昭和30年 (1955) |
イタイイタイ病発生(富山県神通川流域)。カドミウムの農地汚染。日本の公害の最初の出来事 |
昭和31年 (1956) |
日ソ共同宣言。国交は回復したが、国境確定問題は先送り、現在に至る |
昭和31年 (1956) |
日本が国際連合に加入する |
昭和31年 (1956) |
水俣病発生(熊本県水俣市で公式発見)。化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物 |
昭和31年 (1956) |
浜坂砂丘のスプリンクラーなどの畑地灌漑の施設が完備。各地から視察者が訪れる |
昭和32年 (1957) |
鳥取市に公民館中ノ郷分館を中ノ郷小学校内に併設 |
昭和33年 (1958) |
36年(1961)にかけて岩戸景気 |
昭和33年 (1958) |
東京タワー完成、関門トンネル開通 |
昭和33年 (1958) |
「鳥取大学農学部付属砂丘利用研究施設」の開設 |
昭和33年 (1958) |
「てんとう虫」スバル360発売 |
昭和33年 (1958) |
「世界初のインスタントラーメン」チキンラーメン発売 |
昭和33年 (1958) |
鳥取市の小中学校の給食開始 |
昭和33年 (1958) |
鳥取市政70周年。第1回市民体育祭を開催 |
昭和30年代 (1955~) |
炊飯や調理に電気やプロパンガス機器が普及。 白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が『三種の神器』と呼ばれた |
昭和34年 (1959) |
平和塔を雁金山山頂に建立。鳥取大火を機に天災地変から免れ平和を希求 |
昭和34年 (1959) |
高松の宮が砂防視察で来鳥。浜坂スリバチ上部~多鯰ヶ池への道路開通 |
昭和34年 (1959) |
有島武郎の歌碑、高松の宮の来鳥にあわせて設置。 |
昭和34年 (1959) |
3月 「日本海テレビ」と「NHK」がテレビ放送を開始 |
昭和34年 (1959) |
旧)中ノ郷小学校、千代水小学校が統合し雁金小学校へ。翌年城北小学校と改名 |
昭和34年 (1959) |
安保闘争(米国の軍事戦略に日本が巻き込まれるという反対論) |
昭和34年 (1959) |
4月10日 当時の皇太子成婚 |
昭和35年 (1960) |
日米安全保障条約の改定 (日米同盟) 集団的自衛権を前提とした双務的体裁を採用 |
昭和35年 (1960) |
池田勇人内閣による「所得倍増」スローガン |
昭和35年 (1960) |
ベトナム戦争(~1975) |
昭和35年 (1960) |
ラジオ山陰がテレビ放送を開始し、「山陰放送」と改称 |
昭和35年 (1960) |
雁金小学校が正式に城北小学校になる。 |
昭和35年 (1960) |
鳥取市中ノ郷地区公民館を改築 |
昭和36年 (1961) |
農協合併助成法公布による1市町村1農協の方針の下、昭和37年に旧22農協が鳥取市農協として一本化 |
昭和37年 (1962) |
キューバ危機。米ソ間の緊張高まる |
昭和37年 (1962) |
鳥取県庁の新庁舎落成。 |
昭和37年 (1962) |
「砂丘荘」開荘、昭和42年に浜坂地域で湧出する温泉を宿舎に引いて温泉浴場を新設 |
昭和38年 (1963) |
手塚治虫の「鉄腕アトム」のテレビ放映開始 |
昭和38年 (1963) |
開地谷遺跡、鳥取ゴルフ場建設によって消滅危機。大正年間から知られていたがここで注目 |
昭和38年 (1963) |
山陰海岸国立公園指定に伴い、鳥取砂丘が国立公園に指定される |
昭和38年 (1963) |
オリンピック景気~翌年(1964) |
昭和38年 (1963) |
鳥取大学湖山移転 |
昭和39年 (1964) |
東海道新幹線が開通する |
昭和39年 (1964) |
東京オリンピックが開催される |
昭和39年 (1964) |
第二水俣病発生(新潟県) |
昭和39年 (1964) |
鳥取市庁舎落成 |
昭和39年 (1964) |
砂とり工事で都築山南面に浜坂横穴群が発見。(後の浜坂団地などの新興住宅地の宅地造成中) |
昭和39年 (1964) |
アジアで初めての第一回東京オリンピック |
昭和39年 (1964) |
東京~大坂間の新幹線開通 |
昭和40年 (1965) |
日韓基本条約にて、大韓民国と国交回復。竹島問題では禍根を残す |
昭和40年 (1965) |
朝永振一郎がノーベル物理学賞を受賞 |
昭和40年 (1965) |
建設省の袋川堤防新設工事。代々山の土を使用(湯所~荒神山までの4km) |
昭和40年 (1965) |
砂丘大橋と砂丘トンネル開通。丸山三差路から砂丘トンネルまでを突貫工事で整備 |
昭和40年 (1965) |
鳥取ゴルフ倶楽部が砂丘に誕生。十六本松林のゴルフ場消滅 |
昭和40年 (1965) |
天皇皇后ご来鳥(5月の大山植樹祭)。日本海と鳥取砂丘をご展望、鳥大砂丘研究所をご視察 |
昭和40年 (1965) |
しゃんしゃん傘踊り開始 |
昭和41年 (1966) |
三洋電機が鳥取に進出(鳥取大学の跡地) |
昭和41年 (1966) |
皇太子夫妻、鳥取訪問(8月の第八回国立公園大会)。鳥取エフワン工場、県しいたけ生販組合、鳥取ゴルフクラブで鳥取砂丘をご展望、砂丘研究所をご視察など |
昭和41年 (1966) |
9号線のアスファルト舗装完成。29号線も整備が進み、米子・大阪間、鳥取・米子間などを特急バスが走った。 |
昭和41年 (1966) |
鳥取県住宅供給公社がひばりケ丘近隣の畑などを買収。宅地開発が加速する |
昭和41年 (1966) |
戦後最長のいざなぎ景気始まる。電化製品の新・三種の神器3C(カー・カラーTV・クーラー)ブーム |
1966 | 中国で文化大革命 |
昭和42年 (1967) |
鳥取空港が開港 |
昭和42年 (1967) |
国道9号線バイパス工事着手 |
昭和43年 (1968) |
小笠原諸島が日本に復帰 |
昭和43年 (1968) |
川端康成がノーベル文学賞を受賞 |
昭和43年 (1968) |
国道9号線の全線開通、明治100年記念式典 |
昭和43年 (1968) |
日本のGNPが世界第2位 |
昭和43年 (1968) |
学校法人鳥取学園鳥取第三幼稚園が浜坂三丁目に開園。 |
昭和43年 (1968) |
浜坂団地町内会誕生。町内会の世帯数は当時60戸 |
昭和43年 (1968) |
中ノ郷公民館と千代水公民館が統合し城北地区公民館へ。 |
昭和44年 (1969) |
東大安田講堂事件。アポロ11号が人類初月面着陸 |
1969 | アポロ11号が人類初月面着陸 |
昭和44年 (1969) |
氷ノ山後山那岐山国定公園指定 |
昭和45年 (1970) |
アジア初の日本万国博覧会が開催(大阪万博) |
昭和45年 (1970) |
この頃、浜坂土地改良地区、灌水組合も解散 |
昭和45年 (1970) |
第二給食センターを世紀小学校内に建設し、 鳥取市の完全給食が実現 |
昭和46年 (1971) |
国道53号線全通 |
昭和46年 (1971) |
ドルショック、金ドル本位の固定相場制が崩壊 |
昭和47年 (1972) |
札幌オリンピック開催 |
昭和47年 (1972) |
あさま山荘事件 |
昭和47年 (1972) |
沖縄諸島が日本に復帰 |
昭和47年 (1972) |
日中国交回復(日中共同声明) |
昭和47年 (1972) |
鳥取県立博物館開館 |
昭和48年 (1973) |
「鳥取砂丘こどもの国」開園 |
昭和48年 (1973) |
浜坂小学校が新設。城北小学校から分離独立 |
昭和48年 (1973) |
変動相場制に移行、円相場は1ドル360円固定から240円前後に |
昭和48年 (1973) |
第四次中東戦争を機に第一次石油ショックが発生 |
昭和48年 (1973) |
江崎玲於奈がノーベル物理学賞を受賞する |
昭和48年 (1973) |
安定期成長へ~平成3年(1991)バブル崩壊まで |
昭和49年 (1974) |
佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞する |
昭和49年 (1974) |
千代川河口工事(~58年)開始。十六本松の松林や水田、砂州が消滅 |
昭和49年 (1974) |
鳥取県護国神社を現在の位置に移転 |
昭和49年 (1974) |
浜坂地区公民館へ移転。浜坂部落旧公民館の一部借用 |
昭和49年 (1974) |
県立中央病院の工事中に秋里遺跡を発見 |
昭和50年 (1975) |
県立中央病院が江津に移転 |
昭和50年 (1975) |
千代川河口の整備(昭和50~58年)開始 |
昭和50年 (1975) |
日本海新聞休刊、翌年に新日本海新聞として再開 |
昭和50年 (1975) |
自治連合会浜坂分会設立。現在の「浜坂地区自治連合会」へと発展 |
昭和51年 (1976) |
ロッキード疑獄事件が起きる |
昭和52年 (1977) |
浜坂地区公民館の開館(小松ケ丘) |
昭和53年 (1978) |
日中平和友好条約が締結される |
昭和53年 (1978) |
鳥取駅高架開業 |
昭和54年 (1979) |
第二次石油ショック。日本は高度成長から低成長に移行 |
1979 | スリーマイル島原発事故(アメリカ) |
1979 | ソ連がアフガニスタンに侵攻 |
1980 | イラン・イラク戦争 |
昭和55年 (1980) |
春と秋の鳥取砂丘一斉清掃が始まる |
昭和56年 (1981) |
十六本松の中谷商店廃業。松林や砂州、田畑の消滅とともに人出も途絶えた |
昭和56年 (1981) |
社会福祉法人浜坂会浜坂保育所が浜坂六丁目に開園 |
昭和56年 (1981) |
3月 新浜坂橋が西ひばりケ丘に竣工 |
昭和56年 (1981) |
鳥取県政100周年 |
昭和57年 (1982) |
北園ニュータウンの造成開始 |
昭和59年 (1984) |
浜坂地区敬老会の第1回を開催 |
昭和60年 (1985) |
筑波万博開催。日本航空123便墜落事故 →史上最大の航空機事故 |
昭和60年 (1985) |
中ノ郷中学校開校 |
昭和60年 (1985) |
プラザ合意。ドル高による貿易赤字に悩む米国は G5諸国とドル高是正への協調介入を発表。 |
昭和60年 (1985) |
わかとり国体開催 |
昭和61年 (1986) |
智頭鉄道株式会社が設立 |
昭和61年 (1986) |
チェルノブイリ原発事故(ソ連) |
昭和61年 (1986) |
プラザ合意で円は1ドル240円前後から150円に急伸、日本は円高不況へ |
昭和61年 (1986) |
「砂丘荘」を鳥取市ホテル旅館組合へ民営化委託 (昭和60年に1億円累積赤字、鳥取市直営を廃止決定) |
昭和61年 (1986) |
バブル(平成)景気。円高不況打開へのへ公共投資拡大や金融緩和が株式・土地などへのバブルを生む |
昭和62年 (1987) |
ソビエト連邦にペレストロイカ 始まる。 |
昭和62年 (1987) |
浜坂江津橋完工。浜坂小学校前に車両が通る橋が完成 |
1989 | 天安門事件。 民主化を求め集結した学生中心の10万人デモ隊に軍隊が武力行使 |
昭和63年 (1990) |
リクルート事件 |
昭和63年 (1990) |
青函トンネル開通、瀬戸大橋開通 |
昭和64年 (1989) |
1月7日、昭和天皇崩御 |
平成時代(1989年 - 2019年)
自社両党による55年体制が崩壊し、短命の非自民連立内閣が成立した。阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・東日本大震災・福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生し、危機管理への意識が高まった。
21世紀には、中国をはじめとする新興国が台頭。産業空洞化、国家財政悪化、社会の分断などに苦しむ日本や欧米を脅かし始めた。インターネット、スマートフォンなどの普及は世の中を変えつつある。少子化による人手不足の日本は、AI(人工知能)やロボット、自動運転などのデジタル新技術に生産性向上への活路を求められている。
【浜坂地区】住宅地開発が止まることを知らず、八丁目や袋川沿い、荒神山北面なども開発中で、現在3300戸にまで拡大。浜坂小学校は鳥取県内1のマンモス校へ成長した。田畑の減少、浜坂スリバチの埋立てなどの一方で重箱緑地公園整備も行われた。
【江津地区】江津の住宅地開発も急ピッチで進む。県立中央病院建て替え、保育園や介護施設などの集積が急速に進んでいる。平成17年4月、江津町内会が浜坂地区へ合流した。
平成元年 (1989) |
1月8日、平成時代始まる |
平成元年 (1989) |
4月、消費税始まる(3%) |
平成元年 (1989) |
ベルリンの壁が壊される。 マルタ会談で東西冷戦終結 |
平成元年 (1989) |
「鳥大乾燥地研究センター」が全国の共同利用施設として独立改組。日本唯一の乾燥地の基礎的研究機関に |
平成元年 (1989) |
世界おもちゃ博覧会を鳥取市のわらべ館で開催 |
平成2年 (1990) |
東西ドイツ統一 |
平成2年 (1990) |
鳥取空港や米子空港の国際化 |
平成2年 (1990) |
鳥取県立図書館会館 |
平成2年 (1990) |
賀露港、1万トン岸壁や千代地区が稼働。(昭和58年の港湾の分離工事が終了) |
平成3年 (1991) |
湾岸戦争勃発(~2月) |
平成3年 (1991) |
ソ連崩壊、バルト三国など多くの共和国が独立を宣言 |
平成3年 (1991) |
3月、バブル崩壊による景気後退へ |
平成4年 (1992) |
国道9号線鳥取バイパス全線開通、米子自動車道開通 |
平成5年 (1993) |
5月、Jリーグ開幕 |
平成5年 (1993) |
6月 自民党分裂。8月 細川連立内閣成立、翌年は羽田内閣、村山内閣成立 |
平成5年 (1993) |
浜坂スリバチが埋め立てられ宅地化 |
平成5年 (1993) |
県民文化会館の開館 |
平成6年 (1994) |
智頭線開通 |
平成6年 (1994) |
1ドル=100円を突破。1995年4月19日には、瞬間的に79円25銭を記録 |
平成6年 (1994) |
鳥取砂丘除草への県・市・福部村による本格的取組み開始 |
平成7年 (1995) |
中ノ郷小学校開校。城北小から分離。分離前は 21町内会(2369戸)、後は16町内会(1700)戸 |
平成7年 (1995) |
[1月17日] 阪神淡路大震災(M7.3)発生 |
平成7年 (1995) |
[3月20日]地下鉄サリン事件 |
平成7年 (1995) |
1月 橋本龍太郎内閣成立 |
平成7年 (1995) |
消費税が5%となる |
平成9年 (1997) |
英国、香港を中国に返還する |
平成9年 (1997) |
アジア通貨危機 |
平成9年 (1997) |
「砂丘荘」を閉館 |
平成9年 (1997) |
バブル崩壊金融危機。金融機関の破綻相次ぐ |
平成10年 (1998) |
長野オリンピック開催 |
平成11年 (1999) |
ポルトガル、マカオを中国に返還する |
平成11年 (1999) |
民間の「ニュー砂丘荘」が国民宿舎としてオープン |
平成12年 (2000) |
イオン(ジャスコ)鳥取北店が晩稲に開店 |
平成12年 (2000) |
三宅島噴火 |
平成12年 (2000) |
鳥取西部地震 |
平成13年 (2001) |
鳥取環境大学開校 |
平成13年 (2001) |
[9月11日] アメリカ同時多発テロ。イスラム過激派テロ集団アルカイダによるテロ攻撃 |
平成13年 (2001) |
重箱緑地公園の整備開始。平成22年(2010)完成 |
平成14年 (2002) |
学校の週休2日制の施行 |
平成14年 (2002) |
日朝平壌宣言 |
平成16年 (2004) |
小松ケ丘(都築山の)ゴルフ練習場及び溺死海会塔碑部分のすべてが小松ケ丘団地として造成さる |
平成17年 (2005) |
平成17年(2005) 愛知万博 |
平成17年 (2005) |
江津の町内化、浜坂地区に合流 |
平成17年 (2005) |
平成の大合併(4市15町村)で現在の鳥取市の姿に |
平成17年 (2005) |
鳥取砂丘への侵食の波及を防止するために、サンド・リサイクルなどの土砂管理計画を策定・実行 |
平成18年 (2006) |
新浜坂公民館会館 |
平成19年 (2007) |
鳥取砂丘は日本の地質百選に選定され、山陰海岸国立公園の特別保護地区にも指定 |
平成19年 (2007) |
鳥取あすなろ保育園が江津に移転 |
平成20年 (2008) |
リーマンショック。同社の経営破綻が連鎖的に世界規模の金融危機に発展した |
平成21年 (2009) |
9月 鳩山由紀夫内閣成立 民主党政権成立 |
平成21年 (2009) |
境港の国際フェリー航路開設 |
平成22年 (2010) |
鳥取砂丘が山陰海岸を中核とするエリアが世界ジオパーク「山陰海岸ジオパーク」として認定 |
平成22年 (2010) |
「浜坂遊水池事業」による重箱緑地公園の整備完成 |
平成23年 (2011) |
円史上最高値更新。75円95銭(10月21日) |
平成23年 (2011) |
東日本大震災(3月11日) |
平成24年 (2012) |
東京スカイツリー開業 |
平成24年 (2012) |
第二次安倍内閣成立 自民党政権へ |
平成24年 (2012) |
三洋電機はパナソニックに事業統合され、SANYOブランドは消滅 |
平成24年 (2012) |
11月、習近平、党最高職の中央委員会総書記に就任 |
平成25年 (2013) |
鳥取自動車道全線開通 |
平成26年 (2014) |
4月1日、 消費税が8%となる |
平成26年 (2014) |
ウクライナ騒乱。ロシアのクリミア半島(ウクライナ)侵攻 |
平成27年 (2015) |
慰安婦問題日韓合意。最終的かつ不可逆的な解決を確認 |
平成28年 (2016) |
4月16日、 熊本地震(M7.3)発生 |
平成29年 (2017) |
古代山陰道の道路遺構が青谷横木遺跡近くで発見 |
2017 | 米国大統領にトランプ氏就任。米国第一主義を主張し、世界の分断始まる |
平成30年 (2018) |
県立中央病院が新病棟に生まれ変わり、現在に至る。 |
平成31年 (2019) |
4月30日、平成時代が終わる |
令和時代
令和1年 (2019) |
5月1日、令和に改元し令和時代始まる。憲政史上初の生前退位 |
令和1年 (2019) |
[10月1日] 消費税が10%(標準税率)になる |
令和2年 (2020) |
新型コロナウイルスが全世界で大流行になる。 東京オリンピック延期 |
令和2年 (2020) |
浜坂地区郷土誌編纂委員会 活動開始 |
令和3年 (2021) |
米国大統領、トランプ氏からバイデン氏に交代 |
令和3年 (2021) |
中国共産党100年 |
令和3年 (2021) |
新型コロナウイルスへのワクチン接種進む |
令和3年 (2021) |
7月、東京オリンピック・パラリンピック開催 |
令和3年 (2021) |
米国、アフガニスタンから撤退に伴い、タリバンが政権を奪回 |
令和4年 (2022) |
北京冬季オリンピック |
令和4年 (2022) |
ロシアのウクライナ侵攻 |
令和4年 (2022) |
浜坂小学校50周年 |
令和6年 (2024) |
浜坂地区50周年(予定) |