平成20年ー41号
第36回バレテ会慰霊祭
県内外から60名が参列。平成7年から続いた5月の第一日曜日の開催日を、今年は6月の最後の日曜日に設定。梅雨末期の大雨の中の執行となった。この雨で比島戦没者慰霊碑前の小祭典は取りやめ、比島戦遺品を納めた翼舎での実施となった。式典後は砂丘会館にて、3月の第30回比島慰霊巡拝のビデオ鑑賞と総会を開催した。
総会では、「ひろしまルソン協会」から『バレテ峠に鳥取の森を創る』というタイトルの提案があった。この内容は、毎日と読売新聞に取り上げられ、本サイトの中でも記事を「新聞・他の記録」の中に収めている。

慰霊祭で戦死の父思う
遺族 鳥取県鹿野
先の戦争の激戦地フィリピンのバレテ峠付近で戦死された方々の遺族、生還者で結成された「バレテ会」慰霊祭に、私は実家の姉と一緒に参加しました。鳥取砂丘にある護国神社には県内外から多くの方々が参列されていました。父は昭和20年2月10日戦死、その9日後に私は生まれました。戦死公報が入ったのは2年後の22年5月のことだったそうです。私たち姉妹3人は母の手一つで育てられました。時は流れ、その母も、もはや33回忌を迎えようとしています。
遺族会の会長様が、祭壇の前で「私たちの父や兄弟は、お国のために親兄弟、妻、子どもたち、そして生まれ育った懐かしいふるさとの景色などを思い浮かべながら、戦場で無念の死を遂げられたことでしょう」と読み上げられたとき、私の目から熱いものがこみあげ、姉をみると、そっと目頭を押さえていました。過去の対戦では、数多くの方々が亡くなられました。私たちは今ある幸せを大切にし、明日へと前向きに歩きたいと痛感しています。いつまでも平和であるということを祈ります。
第30回比島戦跡慰霊巡拝行
3月21~27日(6泊7日)、11名参加。
3月21日、マニラへ移動。22日、バレテ峠へ移動・総合慰霊祭実施。23日、イラガン、ウルトーガンで慰霊祭。24日、アリタオ、プンカン、デグデグ、プトラン、ミヌリ、妙義山、妙高山の各地で慰霊祭。カピンタラン小学校へ学用品贈呈。25日、アリタオ小学校及びサンタフェ町で学用品贈呈。カピンタランとサンニコラスで慰霊祭。26日、バギオ、ダリガヤスで。27日、マニラ市内の慰霊祭及びショッピング。28日、帰国。




第30回比島慰霊巡拝に娘と参加(一部抜粋)
遺族 京都市
今年もお蔭を頂き訪比巡拝することができました。腰と膝の怪我で今回はもう無理と思っていましたが、娘が「お母さんに付き添い、アリタオで一緒に慰霊する」と言ってくれ、大変嬉しく、申し込むことにしました。
私は、先の大戦で夫と父の二人をなくしました。
昭和十八年十一月十三日、夫に二度目の召集令状が京都の太秦の家にとどき、入隊で浜松市に移動する前日、主人は、当時一才になったばかりの娘の顔を見ながら、私に後を頼むと出征いたしました。主人の出征後、娘を連れて田舎の実家に帰り、父と六か月一緒に暮らしましたが、昭和十九年五月二十五日、今度は当時四十五才のその父に白紙が参りました。
父は、北方艇身隊として北の方面に六月四日に出征致しました。後で分かったのは、千島列島で海軍の下で民間人として勤務し、昭和十九年九月二十六日、八郎潟丸で帰国の途、千島列島のウルップ島で米軍と遭遇、潜水艦の攻撃を受けて、八郎潟丸は沈没、父を含む全員が戦死致いたしました。一方、夫はフィリピン戦で、バレテ峠を死守せよの命により、エチアゲ飛行場から長い長いオリオン峠を越え、ソラノからアリタオへ行く途中に米軍と交戦し戦死しました。
さて、アリタオでは、娘とともに慰霊とアリタオの小学校への学用品贈呈を行い、北サンフェルナンドのダリガヤスの海辺では、沈没した乾瑞丸の慰霊とともに、亡父の塔婆も立て、千島列島の方角に向かって娘と一緒に拝みました。夫の戦死から六十三年、父の戦死から六十四年。この娘とともにアリタオで、そして北大西洋で二人の供養ができたこと、神様の御守りと皆さまのお蔭があってこそと感謝しております。いろいろとありがとうございました。
平成21年ー42号
第37回バレテ会慰霊祭
6月28日。梅雨空下の慰霊祭は昨年に続き2年目だが、今年は真夏を思わせるような暑さの中、県内外の70名近いバレテ会員及び関係者の参列があった。ハーモニカ演奏「千の風となって」が献曲され、参列者が当時を偲び、肉親や戦友の懐かしい顔を思い浮かべた一刻となった。比島戦没者慰霊碑での小祭典では、比島巡拝の度に調達した日章旗を十数本が立てられた。祭典後は、砂丘会館で3月の比島巡拝のビデオ鑑賞と総会が実施された。昨年から始まったバレテ峠の植林作業は、会の本来の目的から逸れるという理由で本総会で凍結となった。

第31回比島慰霊巡拝行
3月9日~16日・7泊8日、参加者13名。3月9日、マニラへ移動。10日、バレテ峠にて総合慰霊祭。11日、アリタオ慰霊祭とアリタオ小学校への学用品贈呈、サンタフェ町への学用品贈呈、連隊本部谷慰霊祭、カシ陣地跡慰霊祭、フナ陣地跡慰霊祭、プンカン慰霊祭、カピンタラン・ミヌリ・プトラン・ビュート・デグデグ・プンカン小学校への学用品贈呈。12日、ウルトーガン慰霊祭。13日、ウミンガン慰霊祭、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス慰霊祭。14日、クラーク慰霊祭。15日、カリラヤ慰霊園、比島寺、マニラ市内ショッピングなど。16日、帰国。




比島慰霊巡拝を終えてー比島で生きた父(一部抜粋)
遺族 浜松市
私は昭和19年5月に満州ハルピンで生まれました。父は、私が生まれてすぐにルソン島に発ちましたので、私にとっての父は写真の中の存在でしかありません。
昨年、私の息子が父の実家へ仏様のお参りに行ってくれたおり、孫が、「この写真の人、父そっくりだね」と言ったそうです。
その後、孫の母親の努力によって、比島曙光会が父のマニラ上陸から戦死したカガヤンまでの道のりを調べてくれ、さらに、曙光新聞に「尋ね人、情報求む」を掲載してくれました。すると、佐賀の光野さんから「私が知っている方(=父の名)ではないか」と情報提供があり、その話によると、「父」を含む兵13名がピナパガン(今のマデラ)にたどりつき、3名づつ舟で河を渡ったが、最後まで三角州でパイナップルやマンゴーを食べるのに夢中だった「父」を迎えにいくと、そのの姿は消えていたそうです。他12名は、近くの親日派の部落へ行き、しばらくそこで過ごし、全員が生還したとのことです。
平成17年、光野さんが厚生省の遺骨収集団としてマデラに行ったときの話です。近くに学校があり、そこで日本語を話せるおじいさんが次のようなことを話してくれたそうです。
「この学校に昭和20年に、やせ細った兵隊さんが校庭にいた女の人に声をかけ、倒れかかったので、その女の人がみんなを呼んで来て、学校の横にあるポンカンの実を兵隊さんにあげるとむさぼる様に食べて、体をおこして、死のうとしたがみんなに止められて、その地で生活する様になった。いもをつくったり、にわとりをかっていた。いつからか私よりずっと若い親のない女の子を育てて、(私を育てる様な気峙ちで育てたのでは)その女の子は近所の男性と結昏して、その子どもがこの中にいる。おそらく、父はその地でみんなに慕われながら生活したのではないか」ということでした。
もし、それが本当なら、父がその地で、いくつまで生きることができたのか知りたいし、最後はマラリヤで亡くなったとのことですが、せめて、その地で父を助けてくれたお礼の気持を伝えたいと思いました。そういうわけで、バレテ会の巡拝団がピナパガンまで行くと聞いて、曙光会のすすめもあって今回参加したのでした。そして、光野さんの話の三角州まで行くことができました。今もゲリラがいるそうで、警察の方が一緒についてきてくれ、三角州で線香を焚いて、拝むことができました。
学校は残念ながら探したけど見つかりませんでした。バレテ会の皆様にはその間、バスの中で待っていただいてご迷惑をおかけしました。その学校の子たちにと持ってきた女の子用に服や文具は、一緒についてきてくれた女の子、運転手さん、写真屋さんにあげました。
日本に帰国後、光野さんにお礼と、もう私の気持はすみましたと伝えると、光野さんは、あの地に残し兵が本当に父であったかは分からない。その人のことを知りたいから、また必ず行くと言われました。
バレテ会の生還者、坂口さんの「生還者のつとめやけん」の言葉がずしんと心にしみます。お世話になった方々と電話でお話しましたが、まだ戦争は終わっていないと思いました。
慰霊巡拝に参加して思うこと(一部抜粋)ーバレテ会への感謝
遺族 鳥取県智頭町
思い起こせば先の大戦後、 昭和四十三年フィリッピン方面よりの生還者、 又、 遺族等によりバレテ会が設立され、 戦争の悲惨さや現地での追悼の志を全うすべく、 行動と遺跡が残されたのが現状であると思います。初代会長他の戦友を思い身を捧げる事への誓いのもと、政府主催の派遣遺骨収集団の骨灰のハレテ峠への埋葬に始まり比島戦没者慰霊碑建立、 他の諸事業を成しとげられた人生観に対し心から感動と敬意を表す次第であります。
本会の長年のあゆみの中には、生還者、遺族、巡拝の要のPIC倉津さんの大変な努力と連繋によって現在迄の回が重ねられたことの偉大さを思い浮かべ感激でいっぱいです。この間、毎年の総会、慰霊祭、巡拝30回等は皆さんがその時々によって英霊に対するたゆまぬ思いの表れと信じています。我々会員の周囲には、いまだ現地で再会を成して居られない遺家族の方もあると思います。
私は今後ともこのバレテ会の成果を成し続けていくことを誓ってやみません。一会員の意見としては、今後、本会を中心としながらも比島方面戦没者慰霊碑建立の気持にあるように、フィリピン戦没者に幅を広げて慰霊祭、巡拝への参加を呼び掛けるべきではないかと思っております。
平成22年-43号
第38回バレテ会慰霊祭
6月の蒸し暑い梅雨時期の慰霊祭も3年目となったが、どうにか雨に遭うことなく、県内外60名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑の前で小祭典を行い、今年も坂口氏によってフィリピン巡拝記念の日章旗が掲揚された。会場を移した砂丘会館では、3月の巡拝ビデオの鑑賞と総会が行われた。



第32回比島慰霊巡拝
3月8日~15日(7泊8日)、10名が参加。
8日、マニラへ移動。9日、バレテ峠で総合慰霊祭。10日、アリタオ慰霊祭、カピンタラン慰霊祭、プトラン慰霊祭。サンタフェ役場及びアリタオ・カピンタラン・ミヌリ・プトラン・デグデグ、プンカン、ビュートの各小学校で学用品贈呈。11日、カガヤン慰霊祭、ウルトーガン慰霊祭。12日、ナチビダット慰霊祭、サンニコラス慰霊祭。13日、ダリガヤス海岸で慰霊祭。14日、もンテンルパ、ロスパ二オス、バグサンハン。カリラヤ慰霊園で慰霊祭、マニラでショッピング






戦跡慰霊巡拝を振り返って(一部抜粋)ーモンテンルパの夜は更けて
遺族 鳥取県若桜町
この度、ようやく初めての慰霊巡拝ができ、バレテ峠の慰霊祭をはじめ此の地に眠る多くの御霊に対し、祈りを捧げることができ、ようやく積年の思いの一つを果たし得たことに安堵した。
今回の巡拝ルートに関連して、「モンテンルパの夜は更けて」という歌が思い出される。終戦後、このモンテンルパの刑務所には、戦争犯罪人として旧日本軍の将兵たちが収監されていた。この曲は、渡辺はま子さんのヒット曲あり、私は若い頃、度々聞いていたので、曲は口ずさむことはできるが歌詞の意味は深く知らなかった。
今回、お世話頂いた倉津さんから、この曲は獄中にいた七十九名の元日本兵の命を救った歌だと聞き、帰国後、遺族会の役員会でこの話をしたところ、よく知っている人が歌詞の意味を教えてくれた。
一番は、夜を迎える度に遠い故郷の優しい母の夢を見る子のこころ。二番は、燕は今年も来たが恋しい我が子はいつ帰るかと母のこころ。三番は、朝が来れば太陽は必ず昇る。私は日本の土を踏むまでは強く生き抜く。という内容で、強制収容されている元日本兵の気持を詠ったものだ。この歌が日本政府の心を打ち、フィリピン政府との交渉の結果、全員釈放になったと聞き、自分の不明を恥じる思いがした。
今回の旅の最終地点はカリラヤ日本政府慰霊園である。日本政府の事業を請け負っているとのことで、10名ほどのフィリピン人が清掃作業を行っていた。現地責任者の話では、昨年9月の日本の政権交代で予算が一時ストップしていたが、ようやくこの年度末近くになって復活したとのことである。国のため、尊い命を国家に捧げた英霊に対し、慰霊の責務は、どの政党であれ国の役割であり責務である。私は国民の一人として、また、遺族の一人として残念であり、英霊に対して申し訳ないことだと思った。
戦没者への思い
遺族 鳥取県若桜町
今回、はじめて父の戦没地であるナチビゲットで慰霊供養を行うことができました。父の写真を安置し、今はなき父の両親、姉妹、子、孫の写真も置きました。家庭の都合とはいえ、参拝が遅くなって、さぞかし首を長くして待っていたことでしょう。
祭壇の前で、主人より「貴方の娘と結婚しました。三人の子どもに恵まれ、皆一定の教育を終えてそれぞれの家庭を築き、幸せに暮らしています。今後も家庭は安泰なので、家のことは心配しないで安らかに眠って下さい」と報告する姿を見て、とめどなく涙が湧き出てくるのを押さえきれませんでした。
昭和20年5月20日、戦死は運命のいたずらでしょうか。もう少し早く終戦になっていれば生還できたのにと悔しく思うのと同時に、母が家族を守るために、朝夕となく働き、そして、私を育ててくれたことに感謝せずにはいられませんでした。
フィリピンは、生活の様子は遅れているものの、人間のあたたかさと温もりを感じ、特に男女問わず笑顔のすばらしさが印象的でした。
こんなことがありました。ある小学校に学用品が届けられたとき、浅黒い顔に大きな目をしたきれいな女性が、私の側に寄ってきて、腕を組み、白い歯を出して笑いかけました。すごく親しみを感じ、私も精一杯の笑顔で彼女を見つめ返しました。言葉が分かれば会話ができて、どんなにか素晴らしい思い出となったことかと思いました。
お世話になった方々に感謝申し上げます。またいつか参拝できることを願いつつ、まだ参拝されていない方々、是非とも足を運んで下さることを願います。戦地では、恋しい皆さんを静かに、その時を待っていらっしゃいます。
平成23年ー44号
第39回バレテ会慰霊祭
6月26日。平成18年に遺族会がバレテ会を引き継いでから、既に6回目となった。戦後66年の歳月が経過し、バレテ会に尽力頂いた多くの方々の生還者や遺族の参加が難しくなったものの、県内外の遺族・生還者・関係者の60名が参列した。式典後は比島戦没者慰霊碑前で小祭典を行い、砂丘会館に会場を移して3月の比島巡拝のビデオ鑑賞、総会を行った。バレテ峠の植林事業で寄せられた浄財は、峠の慰霊碑周辺を「平和公園」として整備することに当てることに決定。



植林事業報告ーサンタフェ町へ寄付金を寄贈

ルソン島の激戦地では先の大東亜戦争で連合軍によって焼き尽くされた密林が、未だに禿げ山の状熊のままで台風などの大雨では大洪水を引き起こしています。
一方「NPO広島ルソン協会」では、広島が原爆により焼け野原となったとき各国からの援助により植林され、今では緑豊カな町になった恩返しとしてルソン島に元の緑豊かな森を増やそうと活動しておられます。たまたま、広島からルソン島に永住されている大場薫氏と、事務局長の小西啓文氏がバレテ峠の追卓碑を見られたことがきっかけでバレテ会の活動を知られ、 丸本会長に植林事業の協力依頼を持ち込まれた提案です。
しかし、バレテ会の中では、本来の英霊顕彰と慰霊をすることが第一目的であることと、会員の高齢化で他のことまで範囲を広げる余裕がなく、 反対意見が続出して事業が頓挫してしまい、 丸本会長が一人で苦労される形となり収拾のつかない状態で三年が経過してしまいまました。この度、バレテ峠周辺に植林をしようということで、丸本会長の働きかけで鳥取県福祉保健部に後援を依頼し、全国からご賛同いただいた浄財の二十五万円をバレテ峠の戦没者追悼碑を管理しているサンタフェ町に寄贈し、植林を依頼することとなったもので、ちょうど、サンタフェ町では、バレテ峠周辺を平和公園にしようという計画があって、結果的には植林事業とは少し形は変わりましたが、バレテ会の日比親善事業として受け止められたと思っています。
第33回比島慰霊巡拝行
3月5日~12日(7泊8日)、参加者10名。
5日、マニラへ移動。6日、バレテ峠で総合慰霊祭。7日、天王山慰霊祭、プトラン慰霊祭、アリタオ慰霊祭。サンタフェ町役場へ植林事業の寄付金及び学用品を贈呈。カピンタラン・プトラン・ミヌリの各小学校で学用品を贈呈。8日、ウルトーガン慰霊祭、マデラ慰霊祭。バナウエ棚田見学。9日、キヤンガン山下将軍記念館見学、カピンタラン慰霊祭、プンカン慰霊祭。デグデグ・プンカンの小学校へ学用品贈呈。10日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス慰霊祭。11日、リンガエン戦争公園見学、マニラでショッピング。12日、帰国






比島慰霊巡拝に参加してー初参加に思う
遺族 奈良県
私は、本年3月に71才になり、大学の教員を退職したのを機にバレテ会の第33回比島慰霊巡拝に参加した。今迄、時間的余裕がなにのを言い訳としていたのであるが、今秋白寿を迎える母のためにもという思いである。
父の戦死公報をいただいたのは、戦後も三年を経過しようとする昭和二十三年の七月であった。そこには「認定戦死年月日及場所」として「昭和二十年八月十四日、比島ルソン島ネパビスカヤ州ピナハガン東方高地」と記されていた。父は平壌師範学校の教官であったが、昭和十九年五月平壌のアキオツに入隊、九月出発、十二月台湾の高雄を経てフィリピンへ。父は出征時三十二歳、私は四歳であった。従って父の記憶はなく、母と妹の三人での平壌からの引き揚げは昭和二十一年の八月であった。
印象に残る慰霊巡拝の中でも、米寿の坂口様、小野澤様から直接のお話をお聞きできたのが何よりであった。記憶のない長男の遅い現地慰霊を詫びながら、心から父の冥福を祈った。比島に関する戦記を読むにつけ、その厳しさと今の平和ボケの落差に言葉が見つからない。私は父の倍以上を生き、母は三倍の人生を生きている。母が多くを語らないがゆえに、戦死した父に無念を想い、母の苦労を想う。
平成24年ー45号
第40回バレテ会慰霊祭
6月24日。前日の準備の段階から好天に恵まれ、県内外から50名の参列者を迎えて、無事に慰霊祭を挙行した。比島戦没者慰霊碑の前での小祭典は、恒例となった日章旗の立ち並ぶ中での執行となった。式典後は砂丘会館にて総会を実施した。


祭文奏上(一部抜粋)

いかに時代の流れとはいえ赤紙一枚で祖国日本の危急を守らんが為尊い一命を捧げられたお陰で今日の日本があると言っても過言では無いと思うのは私一人だけでしようか。
根のない草木は育ちません。先祖があればこそ我々が現世に生をさせて頂いているのです。今は過去の一頁になりつつある大東亜戦争の悪夢から六十有余年がたち、御霊を祭る靖国神社をとやかく言う人達がいます。戦場に散って行かれた人に対し非常に残念な発言と言わざるをえません。どこかの知事が公費で例大祭にお供えをしたところ、それは「違法である」と裁判において判決がでたと聞きました。もし裁判官の身内に戦死者がおられても平気で違法であると判断されたでしようか。
遺族会の陳情について厚生省の役人も「戦死者に対する英霊顕彰公務扶助料の増額なども、もう戦争も数十年過ぎているのに増額継続問題である」との返事です。この返事に対し、全国の遺族会の会長さんは「それならお金は一銭もいらないから主人ここに戻して下さい」と反論したそうです。
今の日本は、大変便利な生活を享受する一方で、親が子を、子が親を殺すなど考えられないような犯罪起き、仕事では汗を流すことをきらう若者が増えています。このような日本を「正しい方向へ向かわせてくれ」とフィリピン戦の山谷河海に眠っておられる英霊は、大きな声で叫んでおられることと察します。私たちは、この英霊の叫びを強く訴え続けなければなりません。
第34回比島慰霊巡拝行
平成24年3月10日~17日(7泊8日)・11人参加。
10日、マニラへ移動。11日、バレテ峠で総合慰霊祭、アリタオで慰霊祭。12日、サンタフェ町役場で学用品贈呈。カピンタラン慰霊祭、フナ陣地跡、カピンタラン小学校、ミヌリ小学校、プトラン小学校、ビュート小学校、デグデグ小学校、プンカン小学校、プンカン慰霊祭、ボネ慰霊祭。13日、バゴネサ慰霊祭、ウルトーガン慰霊祭。14日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス海岸慰霊祭、15日、リンガエン戦争記念館見学。16日、モンテンルパ収容所・ロスパ二オスの山下・本間両将軍の終焉、カリラヤ慰霊園で慰霊祭。17日、帰国。






比島慰霊巡拝に参加して
遺族 鳥取県米子市

亡母は伯父の慰霊のため数回この巡礼に参加していましたが、私にとって伯父は遠い存在で、祖母が遺族年金を受け取ると、『これは兵隊さんのお金、兵隊さんのお金』と言って大事にしていたことを思い浮かべることくらいです。母がすすめてくれたこともあり、退職を機に、これが最後になるだろうという叔父とともに参加させて頂きました。
バレテ峠には、昔にはバレテの大木が生い茂っていたということですが、米軍の焦土作戦により、戦後70年になろうとするのに木は無くなったままです。6日間、慰霊祭でルソン島を走り回りましたが、平和そうに見えるこの島の、道端のあちこちに慰霊塔が立っていたり、戦傷病者の病院跡があったりと、のどかな田舎に凄惨な戦いの痕跡が残っています。この戦争がなければ、家庭を持って幸せな生活ができたであろうに、24才という若さで戦死した伯父の無念を思い、あらためて戦争の非情さを思います。
平成25年ー46号
第41回バレテ会慰霊祭
6月30日。梅雨時期の中でも天候に恵まれて、遠く北海道など県内外40余名の参列者を迎えて盛大に挙行。比島戦没者慰霊碑での小祭典執行の後、砂丘会館に会場を変えて総会を実施した。




第35回比島戦跡慰霊巡拝行
3月9日~15日(6泊7日)・参加者10名
9日、マニラへ移動。10日、バレテ峠で総合慰霊祭 11日、フナ陣地跡で慰霊祭、サラクサク峠で慰霊祭、アリタオで慰霊祭 12日、サリナス慰霊祭、サリナス小学校へ学用品贈呈、サンタフェ町役場で学用品贈呈、カピンタラン小学校、ミヌリ小学校、プトラン小学校、プンカン小学校、プンカン慰霊祭 13日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス海岸で慰霊祭及びお焚き上げ 14日、リンガエン戦争記念館、マバラカット飛行場跡の見学 15日、帰国。






比島慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)
遺族 津山市
私たち夫婦は伯父さんのことは、遺影と古いアルバム、そして達筆で書かれた手紙や葉書、本棚の中から探した日記帳でしか知るとができない人ですが、何故か身近な大切な人と感じておりました。
日記帳には、ふるさとのことを一時も忘れることなく、父や母、姉弟妹のこと、ご近所の皆さんに留守中お世話になっていることなど、 朝なタなに思いを馳せ、 「何の恩返しもできないまま、先に逝く不幸をお許し下さい。 自分は何一つ不自由はしていません。 何も心配はいりません。 お国のためにご奉公でき、立派な最期を・・・」「幸せでありました。」 などと認めてありました。
サラクサクでの法要では、皆様が日本から持参したたくさんのお供物、お塔婆、日本国旗、現地の生花などをお供えしていただき、私達もふるさとの地酒や写経。好物だったお菓子などをお供えしました。このような盛大な慰霊祭ができるとは夢にも思ってもみず、ただ、驚くばかりでした。

祭壇を目の前にして、夢ではなくこうして現地に立つことができ改めて当時の手紙の文面が思い出されてきました。サラクサクの山々には、ふるさとの山を重ね谷川を渡れば奥山の清き水供花い出し、 田畑を進めば父母と一緒に流したさわやかな汗を思い出し、 疲れた身体になお力を奮い立たせていたのではと・・・
こみ上げてくるものを押さえ押さえやっとの思いで手を合わせ震える手で香を手向けると、バレテ峠の谷の向こうから今はもうサラクサクの土となった最期の声が幽かに聞こえてきたかのようでした。 この目で見、肌で感じたこの思いは、 私達の生涯で何にも勝る貴重な嬉しい出来事でした。
もの言わぬ多くのご英霊の皆様の無念な御心に寄り添い、二度とこのような戦争を起こしてはならないと、 強く世界の平和を念じずにはいられません。私達は今のこの時代を何不自山なく恵まれた素晴らしい日本で生かさせていただいております。その日本の国を守るために命果て、残された家族が 楽しく暮らせるようにとカの限り戦って下さったご英霊の方々に対して心新たに毎日を無駄にしないで生きていかなければならない。そして、心を込めて私達が世界の平和を祈り続けなければならないと思っています。
バレテ会の比島慰霊巡拝の旅は、長年にわたる現地の方達と友好など、毎年毎年積み重ねてこられた大変なご苦労の上に実現しているものと、本当に頭が下がる思いです。帰国後、遺影に手を合わせれば、必ずサラクサクの山脈が目に浮かびます。皆様のおかげで、夫婦の長年の夢が叶いましたこと、感謝の気持でいっぱいです。
平成26年-47号
第42回バレテ会慰霊祭
6月29日。前日の夕立のような大雨に洗い浄められた木々の緑が滴る中で、県内外の参列者40余名で挙行。比島戦没者慰霊碑での小祭典は、「海ゆかば」のテープが流れる中で、英霊に対し敬意を表す儀式に則り、捧げ銃の栄誉礼が奉納された後、戦友代表の玉串奉奠に合わせて全員が拍手をうって拝礼し、慰霊祭を終了した。その後、砂丘会館にて総会を実施した。






第36回比島慰霊巡拝行
3月8日~15日(7泊8日)・参加者10名
8日、マニラへ移動 9日、バレテ峠の総合慰霊祭。今年はサンタフェ町長が部下とともに慰霊祭に参加された 10日、サンタフェ役場で学用品贈呈、カピンタランで慰霊祭、フナ陣地跡慰霊祭、プンカン慰霊祭、プトラン慰霊祭、アリタオ慰霊祭。プンカン・プトラン・ミヌリ・カピンタランの各小学校に学用品贈呈 11日、ピナパガン慰霊祭 12日、南ボネで少年飛行兵慰霊碑にお参り、カバリシアン慰霊祭 13日、ダリガヤス海岸で慰霊祭 14日、カリラヤ慰霊園で慰霊祭、ロスパ二オスで山下・本間両将軍終焉の地を拝礼 15日、帰国。






涙を誘うルソン島慰霊の旅
遺族 鳥取県米子市

平成27年ー48号
第43回バレテ会慰霊祭
6月28日、梅雨前線の影響で前日まで不順な天候が続いたが、当日は雨は止み、遠くは北海道からのご遺族を迎えて予定通りの式典を挙行した。40名が参列、式典後は比島戦没者慰霊碑の前で小祭典を行い、その後に砂丘会館で総会を実施した。総会では、英霊遺影奉納事業報告が58件の賛同者を得て、無事に鳥取県に護国神社翼舎の一角に納めることができた旨報告があった。







第37回比島戦跡慰霊巡拝行
3月7日~13日(6泊7日)、9名の参加
7日、マニラへ移動。8日、プンカン慰霊祭、バレテ峠の総合慰霊祭。9日、サンタフェ町役場で学用品贈呈、カピンタラン・ミヌリ・プトランの各小学校で学用品贈呈。カピンタランでは子供たちの歓迎会があった。天王山慰霊祭、サラクサク峠慰霊祭。10日、ピナパガン慰霊祭。11日、アリタオ慰霊祭、南ボネで慰霊祭、連隊本部谷慰霊祭、デグデグとプンカン小学校に学用品贈呈。サンニコラスで慰霊祭。12日、ダリガヤス海岸で慰霊祭、マニラ湾で慰霊祭、13日、帰国。






忘れえぬ記憶ー終戦から70年「会いにきたぞー!」
生還者 鳥取県八頭町 (日本海新聞を転載)
「戦争は絶対だめだ」ー。1945年、フィリピン・ルソン島で繰り広げられた最後の日米攻防戦「バレテ峠」の激戦から帰還した坂口栄さん(92)=八頭町船岡= は、祈るように繰り返す。日南町多里に生まれ、15歳の時に満蒙開拓義勇軍に入ることを決意。茨城県にあった「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」で訓練を受けて満州(中国東北部)に渡った。3年間の現場訓練を終えて18歳で兵隊に志願し、歩兵63連隊に所属した。
44年、フィリピン決戦の命を受け、乾瑞丸に乗船して移動中、米軍潜水艦に撃沈された。約6時間の漂流の末、ルソン島のサンフェルナンド付近に上陸。乾瑞丸には660人乗船していたが、約300人が亡くなった。

米軍との決戦に備えて45年1月に交通の要所だったバレテ峠に向かい、主力師団と合流。3月に米軍と戦闘状態に入り、果敢に戦った。銃弾を受けて左手を負傷し、病院で治療を受ける間に戦いは激しさを増し、日本軍は壊滅状態に追込まれた。5月に撤退。ここからさらに ”地獄” の日々が始まった。統率を失った各兵隊は散り散りばらばらとなってルソン島の奥深い北部山岳のジャングルをさまよった。いつゲリラ化した現地のフィリピン人に襲われるか分からない恐怖の中、ひたすら食べ物を求めて歩き続けた。田のサツマイモをはじめ、カエルやヘビ、タニシやカニなど、何でも食べて空腹をしのいだ。飢餓の上に蒸し暑さやマラリアで次々と仲間が死んでいった。「生き地獄とはこのことか。いっそのことバレテ峠で戦死したほうがまだよかった」と何度も思った。

8月15日、「戦争が終わったらしい」との情報を得たが、どうすることもできず、ジャングルに潜んだ。9月に入って少なくなっていた兵隊がピナパガンに集まり、投降することを決めた。
激戦と苛酷な転進の中、「よく生きたもんだ」と思う。同時に、「バレテ峠で戦死した多くの仲間に申し訳ない」との思いを胸に刻んで毎日を生きている。フィリピン戦死者を悼む「バレテ会」の一員とし、て毎年、バレテ峠慰霊巡拝に参加している。峠の見える現地のプトラン小学校前に祭壇を設置、「坂口が会いに来たぞーっ」。日の丸の旗をカの限り振リ続け、激戦で命を落とした多くの戦友に何度も呼び掛ける。
「私にできることはこれしかない。生還者の務めだ」と静かに語り、手を合わせる。 「何のための戦争だったのか。結局、多くの悲しみと悲惨さしか残らなかった」
終戦から70年を経ても、体験者の脳裏に悲惨な戦争の記憶は焼き付いている。ただ、生の声を聞く機会は急速に失われつつある。戦場、銃後、抑留・さまざまな立場で戦争を経験した人たちの話を記録にとどめ、未来にどう引き継ぐか考える。
比島慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)
遺族 鳥取県琴浦町
終戦二か月前、祖父はこのバレテ峠で負傷した仲間と移動している時に襲撃を受けて亡くなったそうです。今回の慰霊巡拝では、参加を念願としていた父が体調を崩し、急遽息子の私が参加することになりました。
小さい頃から”バレテ峠”という地名はよく聞いていたのですが、実際にそこに立つと、涙があふれて止まりませんでした。「おじいちゃんがいてくれたから今の自分があり」「今の幸せを感じられるのもおじいちゃんがあってこそ」と感謝の気持でいっぱいになりました。
また、この地に来たい、今度は父を筆頭に親戚一同を連れて来たい。生還できず、遺骨さえも故郷日本に帰ってこれなかったのですから、こちらから慰霊に行くしかありません。
自分の両親を含めて遺族がどんどん高齢化し、生還された方も90歳を越えられている今、私たち孫世代が、戦中戦後に大変な思いをされた方々の意思を受け継いでいくしかありません。そして、尊い命を国のために捧げた勇敢な戦士へ敬意を表し、恒久的な世界平和を願い可能な限り慰霊巡拝を継続することが今を生きる我々にとっての使命だと思ってやみません。
平成28年ー49号
第44回バレテ会慰霊祭
6月26日、英霊に思いが通じたのかと思われるほどの好天に恵まれ、砂丘から吹き上げるさわやかな風の中、40名参列者を迎えて挙行された。式典後は比島戦没者慰霊碑前で小祭典を執行。この慰霊祭の様子は、NHK鳥取放送局が撮影し、夕方のローカルニュース放送で、慰霊祭を長年続けているバレテ会の活動として放映した。また、恒例の総会及び懇親会を砂丘会館にて実施した。




第38回比島慰霊巡拝行
平成28年3月5日~11日(6泊7日)・14名参加
5日、マニラへ移動 6日、バレテ峠で総合慰霊祭 7日、ピナパガン慰霊祭、バゴネサ慰霊祭 8日、アリタオ慰霊祭、サンタフェ町役場で学用品の贈呈、カピンタラン慰霊祭、プトラン慰霊祭、プンカン慰霊祭。カピンタラン・ミヌリ・デグデグ・プトラン・プンカンの各小学校へ学用品贈呈 9日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス慰霊祭 10日、マニラの「無名兵士の墓」拝礼(今年1月27日、両陛下が戦没者慰霊のためフィリピンを訪問、「無名兵士の墓」にも花輪を捧げられた) 11日、帰国。








主人の夢、慰霊巡拝参加
遺族 鳥取県琴浦町 (日本海新聞転載)
「やっと来ました、お義父さん」というのが精いっぱいでした。主人が長い間夢見た父親の眠る、レイテ島カンキポット山。このたび、バレテ会の皆さんにお世話になり、比島戦跡慰霊巡拝に参加し、主人と娘との3人でお参りしました。6泊7日の慰霊巡拝です。
マニラから車で6時間くらい走り、ルソン島バレテ峠の激戦地に着きました。そこで合同慰霊祭を行いました。塔婆、写真、お供え物を供え、両国の国歌と「海ゆかば」が流れる中、一人ひとり思いを込めてお参りしました。バヨンボン方面で2泊です。お世話して下さる方が、おにぎりや弁当を夜遅くつくり、車に積み込んで下さり、大変感激しました。
バレテ会の方と別行動になり、翌朝、国内線で1時間あまりでレイテ島タクロバン空港に着き、現地で案内の方と車で4時間ほど走り、リモン峠大激戦地を越え、一本道をひたすら進みました。
このジャングルの中でたくさんの方が無念の最後を迎えたことを思い、涙が止まりませんでした。義父の眠る慰霊碑に到着し、両親の写真、塔婆、花、お供え物を供えました。言葉にすれば涙になり、般若心経を唱えるのが精いっぱいでした。主人の夢がかなった瞬間です。今ではヤシの木が茂り、静かで平和な山でした。
平成29年ー50号
第45回バレテ会慰霊祭
6月25日。梅雨空の下、天候を気にしながらの開催であったが、無事に斎行できた。遠くは北海道からのご遺族を迎ええ、30余名の参列者であった。式典後は比島戦没者慰霊碑前で小祭典を執行。続いて、砂丘会館で総会と懇親会を実施した。




第39回比島慰霊巡拝行
平成29年3月4日~10日(6泊7日)・参加者13名
4日、マニラへ移動 5日、バレテ峠で総合慰霊祭、アリタオ慰霊祭 6日、サンタフェ町役場で学用品贈呈、プトラン慰霊祭、プンカン慰霊祭。カピンタラン・ミヌリ・デグデグ・プトランの各小学校へ学用品贈呈 7日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス慰霊祭 8日、マバラカット飛行場跡で神風特攻隊の碑を拝礼 9日、カリラヤ慰霊園で慰霊祭、ロスパ二オスで山下・本間両将軍の終焉の地に拝礼 10日、帰国。






バレテ会生みの親 元事務局長 山本照孝氏 ご逝去
大東亜戦争末期の昭和二十年二月頃から四ケ月に及ぶ比島バレテ峠周辺の激しい攻防戦で、 奇跡的に生還された方々によって昭和四十三年三月にバレテ会が結成されましたが、 爾来関係者の要となって奔走して頂いた山本照孝氏が平成二十八年十月九日享年九十九歳の天寿を全うされ、 彼岸で待つ戦友の元へ旅たたれました。 バレテ会発起人の方々が次々と他界されるなカて最後まで頑張って遺家族のもどかしい思いを癒やして頂いた山本照孝氏のご盡力は計り知れないものがあります。ご冥福をお祈り申し上げます。
戦没者の顕彰と鎮魂を目的としてバレテ会を立ち上げられた生還者の方々の戦友への強い思いは、 我々遺族の及ぶところではございませんが、 折角立ち上げて頂いたバレテ会を少しでも長く存続させ戦没者のご冥福を祈ることが、 遺家族の務めでもあり生還者の方々の目的にも通じるのではないかと思います。
山本照孝氏をしのぶ
遺族 鳥取市
先日、山本照孝氏の訃報に接し、改めてお世話になったことをありがたく思い返しています。比島戦没者伝組織の「バレテ会」の礎を築いていただいた山本照孝氏の功績は尽きることはありません。目を閉じればいろいろのことが走馬灯のように思い出されます。
歩兵63連隊(鉄第5447部隊)の聯隊本部で書記官としてルソン島に配備され、激戦を戦い抜かれて奇跡的に生還されました。その後、全国に散らばる数少ない生還者の賛同を集められ、昭和43年に「バレテ会」を発足していただきました。そして、事務局長として90歳まで精力的に活動され、数えきれないほどの関係遺族の悩みを聞き、解決のために奔走していただ、また、毎年欠かすことなく「バレテ会報」を発行され、会員相互の連携も図っていただきました。
鳥取県護国神社での慰霊祭を斎行するにあたっては、一時期500人にも及ぶ会員のとりまとめを、ご家族の理解もありほとんどお一人で処理されたようでした。この間、故島田安夫バレテ会長をはじめ、多くの生還者の方々のご尽力により、昭和49年に鳥取県護国神社に「比島戦没者慰霊碑」が建立され、昭和59年には八頭町船岡の自然石をフィリピンまで輸送してルソン島バレテ峠に「戦没者追悼碑」が建立されましたが、山本照孝氏は事務局長としてこれらの事業に常に関わられました。また、長年にわたり比島戦跡慰霊巡拝も実施され、関係遺族の案内をしていただきました。今日ではルソン島北部を慰霊巡拝する人たちは必ずバレテ峠のこの追悼碑で、慰霊祭を行っています。
今年9月6日は、99歳の誕生日をお元気な笑顔でお迎えだったようでしたが、わずか1カ月の10月9日には眠るように戦友の待つ黄泉の国へと旅立たれました。言い尽くせないほどの感謝の気持とともにご冥福をお祈りし、衷心より哀悼の意を表します。 (日本海新聞 散歩道より転載)
バレテ会最後の将兵 坂口栄氏 ご逝去
バレテ会発足当時から役員としてご尽力していただいた坂口栄氏が平成二十九年七月四日享年九十五歳の生涯を閉じられました。松江六十三連隊第九中隊の生存者として、不自由な身体で最後まで比島戦跡慰霊巡拝を続けられ、戦友の鎮魂とご冥福を祈り、慰霊の誠を捧げられた姿をご存じの方は多いと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。
唯一生還の帰還兵 逝く
遺族 鳥取市
終戦以来早や七十二年の歳月が流れた。経済の発展に重きをおき、自己中心とさえ見える現代の中にあって、その繁栄の礎となった先の大戦、今の平和は本当に尊い犠牲者の上に成り立っている。 この事は誰しも認めることだろう。中でも特に五十万人超える戦没者を出したフィリピン前線、その中の六十三聯隊第九中隊でただ一人生還した、坂口栄さんが去る七月戦友の元に旅立った。
ご通夜の席に列した。大変安らかなお顔で眠っておられた。「坂口さん、もう戦友に会えましたか、ご苦労様でした」と言ってお別れをした。中隊が全滅した折り、たまたま野戦病院に行っていた為助かったといっておられた。帰還以来、毎年恒例の慰霊巡拝に進んで参加されていた。高齢にも関わらず参加されていたのは、 人には語れない、第三者には理解されない、戦場の想いがあるのだろうと拝察していた。
中隊が全滅した山上の陣地に向けて 「オーイ坂口が来たぞー」と大声で涙を流して叫んでいる姿が思い出される。「来たかー」という声が聞こえる、といっておられた。かつては、戦場の跡に建つ小学校の児童に長年にわたり、学用品を提供されていた。幾度となく、慰霊巡拝にご一緒して、 移動のバスの中で、 折々に敬礼されていた。私たちには、 単なるフィリピンの田舎の穀倉地帯の風景も、かつては激戦の地で忘れる事の出来ない光景であったのだろう。今の自分たちが当時の状況を理解することは到底出来ない。軍人や民間人の大変な犠牲者の上に成り立つ今の平和、これが砂上の楼閣にならないよう願う。
私の最初の訪比は平成九年の慰霊巡拝。フィリピンの様子も段々と変わって来たが子供たちの笑顔には何か救われた気持ちになる。時代が流れて行き、やがては各地に点在している日本将兵の慰霊碑も朽ちてしまう運命になるだろう。残念な事と思う。日本もフィリピンも戦争を知らない世代が大勢を占める時代になってきた。やがて、歴史の中に埋もれていくだろうが、遺族の我々は次世代に悲しい事実を伝える義務があると思う。最後にバレテ会顧問として何かとご尽力頂いた坂口栄さんの御冥福をお祈りするとともに、戦陣に散った諸英霊の安らからん事を祈ります。
平成30年ー51号
第46回バレテ会慰霊祭
6月24日、朝から夏の太陽が眩しく汗ばむ陽気の中で、30余名の参列の元に斎行された。式典後は比島戦没者慰霊祭前で小祭典を執行、続いて砂丘会館で総会及び懇親会を実施した。総会出席者は22名。





祭文奏上(一部抜粋)
今、 祖国は想像も出来なかった繁栄を遂げ、物資は豊かで平和を歩みつつありますが、 これに散華された御霊のお陰であると云っても過言では無いと思います。その事を、戦争を知らないに人々に言い伝える事が我々現代を生きる者の大きな吏命であると思います。 あの悲惨な戦争は今後絶対に起こしてはならないと強く 肝に銘じ、行動しましょう。そうすることが諸英霊に対し最高の供養になると信ずるものです。 願わくは何卒今は呉々も安らかにお眠り下さいと念ずるところです。諸英霊のご加護により日本の市和と繁栄を守られんことを祈念して追悼の言葉と致します。
第40回比島慰霊巡拝行
平成30年3月3日~8日(5泊6日)・参加者7名
3日、マニラへ移動 4日、バレテ峠で総合慰霊祭(サンタフェ副町長が参加)、アリタオ慰霊祭 5日、サンタフェ市役所で学用品贈呈、カピンタラン慰霊祭、プトラン慰霊祭。カピンタラン・ミヌリ・プトラン・デグデグの各小学校へ学用品を贈呈。デグデグ小学校では、教師のダンスなど歓迎会を催された。 6日、サンニコラス慰霊祭、バギオ慰霊祭 7日、サンファンで乾瑞丸関係の慰霊祭 8日、帰国








令和元年ー52号
第47回バレテ会慰霊祭




第41回比島慰霊巡拝行
平成31年3月2日~7日(5泊6日)、参加者6名
2日、マニラ移動 3日、バレテ峠で総合慰霊祭、アリタオ慰霊祭 4日、サンタフェ市役所で学用品贈呈、フナ陣地跡慰霊祭、プンカン慰霊祭。カピンタラン・ミヌリ・デグデグ・プトラン・プンカンの各小学校で学用品贈呈。 5日、サンニコラス慰霊祭、ダリガヤス海岸で慰霊祭 6日、ダモルテス駅舎跡の見学、マニラへ移動 7日、帰国






戻らぬ戦没者への思いー読売新聞
読売新聞 平成31年3月30日付
フィリピン・ルソン島の「バレテ峠」は、第2次世界大戦末期の1945年に日本軍と米軍が激戦を展開した地として歴史に残る。島取具出身者を多く含む部隊もバレテ防衛の主力として戦い、多数の戦没者を出した。今も多くが現地に眠る。
生還した兵士らが68年に結成した「ハレテ会」が、地元での慰霊祭とは別に現地へ慰霊巡拝を始めたのは77年。84年からは毎年続けており、今年も今月2日から7日まで6人が峠などを訪れた。かつての戦場近くの学校に、学用品を届ける草の根交流も恒例行事となっている。戦後74年。こうした活動を毎年独自に続ける団体も少なくなったといわれる。バレテ会の活動も遺族が中心となり、高齢化も進む。今年の巡拝でとりまとめ役を務めた藤井淳市さんも80歳。峠付近で戦死した歳上の兄に会いに行った。遺骨は戻っていない。 「国を守るため、倒れた人たちを日本に戻してあげたい」と今も願う。
2016年施行の戦没者遺骨収集准法は、遺骨収集を「国の責務」と位置づけ、 16年度から9年間を集中実施期間としている。フィリピンなど戦況が苛烈を極めた南方地域では、情報も少なくなり、遺骨収容が困難な状況になりつつあるとされるが、異境の地に残る遺骨の帰還に向け、可能な限りの取り組みを続けたい。戦争の記憶の継承も含め、新しい時代に引き継ぐべき宿題の一つである。
令和2年ー53号
第48回バレテ会慰霊祭
6月28日。新型コロナウイルスが世界中に蔓延する中、バレテ会では諸英霊の無念を思い、規模を縮小して慰霊祭を挙行。前日は梅雨模様、夜間は土砂降りの雨ながら、当日は晴れあがって陽ざしが暑いほど。参列者はマスクを着用しての挙行となった。参加者27名。式典後は比島戦没者慰霊碑前で小祭典、続いて砂丘会館で総会を実施した。




第42回比島慰霊巡拝行
令和2年3月7日~12日(5泊6日)、参加者3名
コロナウイルスの世界的猛威により、参加キャンセルが相次いで3名の参加者のみの巡拝となった。
7日、マニラへ移動 8日、バレテ峠碑で総合慰霊祭、アリタオ慰霊祭 9日、ピナパガン慰霊祭 10日、サンタフェ市役所で学用品贈呈、カピンタラン慰霊祭、プンカン慰霊祭。カピンタラン・ミヌリ・デグデグ・プトラン・プンカンの各小学校で学用品や衣類の贈呈 11日、マバラカット飛行場の碑に拝礼、クラーク基地で慰霊祭 12日、帰国






戦後75年の今、慰霊を考える(一部抜粋)
遺族 奈良県橿原市
令和2年3月、第42回のバレテ会比島慰霊巡拝に参加した。コロナの影響もあった今回は3人と最小であった。しかも、帰国後の2日後にはマニラ空港が閉鎖されるというギリギリのタイミングであった。
今回の訪問は、昨年8月で108歳で逝去した母の報告を比島に眠る父にするためでもあった。父の顔も声を記憶にない私ではあるが、遺骨の戻らない父の墓前ではなく、戦死したフィリピンの地で、父を偲び慰霊することの方に意味を感じている。遺児として、父の死を無駄死にとは思いたくないが、あの無益な戦いは何だったのか、何のためだったのか。そんな戦いに斃れた方々だからこそ、慰霊し続けなければならないと私には思えてくる。
死んでも帰れぬバレテ峠の激戦地。弾薬や食料の補充もなしで戦うみじめさ。飢えによる栄養失調とマラリヤ等の病で死ぬ無念さ。・・・慰霊とは何か? 戦死したから霊を慰めるだけではない。自らの意志ではなく、 赤紙一枚で強制的に戦場に駆り出された悲運。その時代に巡り会わなければ、 別の人生があったであろう戦死した兵士たち。 そのおかげで平和な75年を生きることが出来た今を生きる者は、 遺族に限らず感謝と慰霊の気持ちを持って当然ではないか。
本来、 国の名を借り、天皇の名を借りて他人の命を求めるとはどういうことか。国の のために、 不本意なる戦死という犠牲を強いられた兵士たち。 争いをカで解決しようとするのは子供のけんかと同じではないか。 地球上に戦争がなくならないのは、 人類の愚かさの証明なのか。報道によれば、 現今慰霊施設を管理し、 慰霊祭を実施してきた遺族たちの高齢化により、 将来が心配されている。かって地域の代表として数多くの若者を戦地に送り出し、今の繁栄と平和を手にした立場として、 地方公共団体や地域社会での維持管理等は当然というより義務ではないか。いずれにしても、 引揚と戦争遺児としての体験は、私を強くタフにはしてくれたが、 二度と子どもたちにこの悲しみを体験させてはならない。
比島戦跡慰霊巡拝に参加して思うこと(一部抜粋)
遺族 鳥取県琴浦町
今年は、父の体調が思わしくなく、家族を代表して一人で参加しました。
私は、毎年の巡拝でバレテ峠の頂にある慰霊意や周辺の山々を見渡すたびに、「到着した」にではなく「帰ってきた」といつも思います。ここは何かしら安心するところがあり、いつまで眺めていても飽きない光景に、巡拝中の限られた時間ですが、深呼吸しながら遠方を望んで特別な時間を満喫しています。
激戦地であり、祖父が最期を迎えた場所に立てることに有難く思い、今の自分が存在するのも祖父の存在があったからだと思うと感謝の気持と生きる勇気が湧いてきます。
少しだけ無理をしてでも参加ができそうであれば、一緒にこの場所へ行ってみませんか。今迄に感じたことのない不思議な空間が待っていますよ!
令和3年ー54号
第49回バレテ会慰霊祭
6月27日、今年もコロナ禍の収まる気配が見えない中での慰霊祭であった。朝方から降り続いた雨も開式までにはあがり、30名ほどの参列者で、マスク着用、互いの距離を保っての慰霊祭となった。尚、県外のご遺族及び来賓のご参列はお断りし、鳥取県内関係者のみに限定した。

祭文奏上(一部抜粋)
今、当たり前のように平和を享受して暮らしていますが、英霊の皆様は、昼なお暗いジャングルの中で、糧食は尽き、武器弾薬は尽き、医薬品の補給はなく、圧倒的な軍事力の差の前に苛烈な戦闘をされ戦陣に倒れました。
比島戦線で、戦陣に散った将兵51万人、没して収容された帰国できたのは13万人余りの遺骨だけ。76年を経た今も尚、ルソンの山野、海で帰国を待っている。
これで良いのか。英霊の遺骨のことを考えると万感胸に迫ります。日本は高齢化が進み、戦前生まれは全人口の15%程度となりましたが、故郷への思い、家族への思い、望郷の思いを国を挙げて取り込み帰国させてあげること、これは国家の責任と思います。ご英霊の将兵の皆様何卒心安らかにお休みください。そして、祖国日本の平安と繁栄をおまもり下さい。そして、遺族の皆さまにご加護を賜りますように心から祈念して追悼の言葉といたします。
バレテ会運営の今後についてー会の解散を検討
バレテ会の皆様へ 会長
バレテ会は先の大戦の最大の激戦地バレテ峠を中心とし、フィリピン各地で無念にも戦陣に散られた将兵の皆様の慰霊をお慰めする目的に結成されました。昭和43年設立以来、43回の各地の戦跡慰霊巡拝を実施し、無念にも山野に散り帰還のかなわない将兵の御霊を御慰めしてまいりました。
然し乍ら、終戦以来既に76年の歳月が流れて我々遺族も高齢化してきました。 毎年実施してきましたフィリピン戦没者慰霊巡拝も、高年齢のため参加希望者は 数人の事態となりました。また護国神社に於けるバレテ会慰霊祭も参加者の減少は著しいものがあります。流れる歳月、 伴う遺族の高齢化による退会、 自然減少などなど、会の運営は資金的にも厳しい状況にあります。
バレテ会の存続、 解散を検討議題に提案すること自体、戦没者の皆様に対しても断腸の思いですが、いつかは気持の整理をせざるを得ない時も来るだろ うと思います。同封致しました書面にて、ご意見をご返信下さい。集約の結果は役員会にて検討しご返信致します。
令和4年ー55号
第50回バレテ会慰霊祭
6月26日。当日は30度を超す蒸し暑さの中、30余名の参列者で慰霊祭を挙行。式典後は比島戦没者慰霊碑での小祭典、続いて15名程度で砂丘会館に移動しての総会を実施。




祭文奏上(一部抜粋)
戦前生まれは国民の10%程度になりました。悲惨な大戦の出来事を知り語る人もいずれ無くなり、歴史の一コマとなるのでしょうか。長年にわたって継続して参りました比島慰霊巡拝も遺族の高齢化のため中止のやむなきに至っています。
バレテ峠の上から「皆さーん」と呼んでみたいと思います。
今、東欧の一部で戦争が起きています。ニュースで流れる映像の子どもの姿をみると、70有余年前の昔の日本の姿と重なるのです。歴史は繰り返す。繰り返すのは人間です。遠い、東欧の戦争は日本にも影響を及ぼします。食糧や燃料です。今や、日本だけの安全に専念する時代は終わったのかもしれませんが、国家の命により異国の地で果てられた皆様をどう追悼したらよいのかと聞かれれば、先の大戦を反省し、日本がいつまでも平和で穏やかな国にすることを戦没者の皆様に誓うことだと思います。
55回総会
バレテ会存続の可否については、令和7年の戦後80年を最後にして解散することで承認された。
令和5年ー56号
第51回バレテ会慰霊祭
6月25日、当日は朝から好天に恵まれ、30人の参列者を迎えての挙行となった。式典後の比島戦没者慰霊碑前の小祭典も雨を心配することなく無事に終わり、続いて半数の15人ほどが砂丘会館での総会に向かった。




第43回比島慰霊巡拝行
令和5年3月20日~24日(4泊5日)、参加者5名
3年振りの巡拝であるが、コロナ禍が収まることなく、ロシアのウクライナ侵攻による世界的エネルギー高騰などの悪環境の中、参加者は5名、日程も4泊5日に止まった。
20日、マニラへ移動 21日、バレテ峠での慰霊祭、22日、アリタオ慰霊祭、南ボネの戦車撃滅隊(明野隊)を拝し、カピンタランで慰霊祭、プンカン慰霊祭 23日、サンニコラス慰霊祭 24日、帰国





令和6年(2024)ー57号
第52回バレテ会慰霊祭
6月23日。遠くは千葉県、東京都など、全国各地から40名が参列し、豪雨の中を挙行。比島戦没者慰霊碑での小祭典は雨のために中止し、翼舎での実施となった。





祭文奏上(一部抜粋)
戦後七十九年、あおの終戦の混乱を知らない世代が社会の大半を占める時代になりました。
戦争の悲しい記録は風化する一方、世界の一部では絶えず悲劇が続いています。毎日、流れるニュースを見ると、かつての日本と重なるのです。二度を我々のような戦没者遺族を出さないために、戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えることが、私達に課せられた義務だと思っています。
私達、バレテ会の会員一同は、祖国の安寧と家族の幸せを願い散華された数多の御英霊の皆様のことを後世に伝えることが恒久平和につながると信ずるからです。
バレテ会は不滅 (米子市)
遺族 鳥取県 米子市
「バレテ会」は他の遺族会より格段に充実した遺族会であったと自負しています。
現地の「サンタフェ町」に公民館を建設寄贈し、慰霊巡拝の都底地域の小学校に学用品を配布する活動等の実績で、町長から感謝状をいただくなど、これも生還者のなみなみならぬ英霊に対する尊崇の気持ちと、歴代の会長・役員・世話人の方々の献身的なご尽力でここまで「バレテ会」が存続したと思います。また、父や兄が戦場でともに命を懸けて戦った戦友である英霊の魂が我々の心を動かしたことを忘れることはできません。
比島の慰霊巡拝の者の減少にかかわらす、営利を度外視して支えていただいた比島戦跡訪問の倉津さんをはじめ多くの方々の尽力に対し心からお礼を申しあげます。「バレテ会員」で本当に良かった、ありがとう)」ざいました。
バレテ会報を電子化し、公共図書館へ
鳥取市
バレテ会との出会い
私と、今年までその存在を知らなかった「バレテ会」の出会いは、一通のメールに始まりました。
2月上旬のこと、面識のない東京在住の女性からのものです。
「━10年前から祖父の戦死について調査を始め、祖父が出兵した山形の遺族会や大阪の遺族会から情報収集し、ルソン島にも3回行きました。数日前、バレテ会会報を初めて読む機会を得、衝撃を受けました。戦況のみならず、戦場の日常が記録されており、もっと読んで勉強すべき冊子と思い入手方法を問い合わせたいのです。
バレテ会報発行の印刷会社には問い合わせましたが、数十年も昔、印刷し納品しただけとのこと。他の遺族会にも当たりましたが解決の糸は見つかりません。鳥取出身の友達等、めくらめっぽうに聞いていますが、その存在すら知られていません。バレテ会の活動が泡のごとく消えてしまったようです。戦争で無惨に失われた命は、何だったのだろうと思えてなりません━。」
このように、ご自身では手掛かりが得られない「バレテ会」の情報を私に求めてこられたのです。私は、仕事の定年退職後、地域貢献の一端として、地域の歴史を発掘しながらウェブサイトで情報発信しています。この中で「バレテ戦」に触れていることから、この私に微かな希望を抱かれたようです。しかし、私は、このメールによって、はじめて「バレテ会」の存在を知ったのでした。
ただ、何かの縁を感じ、女性の真摯さに心動かされ、「バレテ会」を調べてみることにしたのです。これが私とバレテの出会いの始まりでした。
バレテの記憶を未来へつなぐ
「バレテ会」と「バレテ会報」は見つかったものの、一連の調査活動を通じて分かったこと、そして、自分でバレテ会報を読んで感じたことは、バレテ会報は、生還者の記憶、ご遺族の思い、慰霊の旅の記録など、未来につなげていくべき尊く貴重な記録である一方、その認知度はあまりにも低く、さらに、個人所蔵のために関係者のご他界などとともに廃棄されるなど、散逸しつつあることです。会が解散となれば、会とともに完全に消えていくことでしょう。
こうして、今般、会報を電子化し、バレテと縁ある各地の公立図書館のデジタル蔵書に加えて頂くことにしました(現在、鳥取県立と島根県立図書館)。これを第一歩として、バレテ会の活動の記録、そして記憶が全国へ、そして未来へ届くよう、微力ながらお手伝いができればと思います。
令和7年
第44回比島慰霊巡拝行











