昭和43年~51年

 昭和43年に第1回慰霊祭(鳥取市上町の旧護国神社)。ご遺族400名、生還者110名参列。県庁講堂でバレテ戦の戦闘概要報告を行った。昭和49年に第2回慰霊祭(以降、鳥取市浜坂砂丘の護国神社にて)。慰霊碑の除幕式を遺族並びに生還者450名参列で挙行。昭和50年に第3回慰霊祭(138名)。昭和51年に第4回慰霊祭(110名)。

旧護国神社(上町)
旧護国神社(上町)
第1回バレテ会慰霊祭昭和43)
第1回バレテ会慰霊祭(昭和43)
比島戦没者慰霊碑(浜坂)
比島戦没者慰霊碑(浜坂)

昭和52年ー9・10号 

第5回バレテ会慰霊祭

 4月3日、快晴に恵まれたるも砂丘より吹き上げる日本海の風は肌寒い中、ご遺族、生還者約100名の方々が参列。島田会長、林連隊長夫人の供花の後、島田会長祭主にて、祭文奏上、各都市遺族代表、戦友三十二名の玉串奉奠など、連隊戦没将兵の二千五百余柱のご英霊の冥福を祈り厳粛に執行した。

 式典後、事務局及び団員よりフィリピンルソン島慰霊巡拝の報告があり、戦後32年間、比島の地に終焉された肉親の冥福を一日も忘れることなく祈り続けてこられたご遺族が、戦後、初めて現地に供養の一灯をともしたお話に、目頭をおさえて聴き入られるご遺族に、感慨深いものがあった。せめて我が子の、夫の、兄弟の終焉の地をこの足で踏みしめ、この眼で確かめ、そして線香の一本でもあげて供養したい。また、生還者にとっても戦友散華の地へ慰霊巡拝したい気持が、昭和51年の総会におけるバレテ会としての比島慰霊巡拝の実施決議に結びついた。

第1回比島慰霊巡拝記(3月)

(3月10日=初日)東京ーマニラ (2日目)サンホセ方面へ。ウミンガン慰霊祭、プンカン慰霊祭(3日目)バレテ周辺。妙義山、金剛山、榛名山、バレテ峠の各地で慰霊祭 (4日目)ビノン、地獄台で慰霊祭 (5日目)バキオへ(6日目)北サンフェルナンド慰霊祭 (7日目)マニラ周辺。モンテンルパ・ロスパ二オス、カリラヤ慰霊園巡拝 (8日目)マニラー東京(3月17日)

北サンフェルナンド港追善供養(昭和52)
北サンフェルナンド港追善供養(昭和52)
妙義山山頂追善供養
妙義山山頂追善供養(昭和52)

 

比島戦跡訪問慰霊迎拝の感想(一部抜粋)

遺族

 弟は、五中隊の分隊長として連隊の編成に加わり、比島のプンカンで戦死いたしました。弟と満州で別れる時に、今度会う時は靖国神社で逢うぞ、元気でやろうと、互いに手を握り合って別れて以来、三十四年振りに比島プンカンで無言の再会をいたしました。当時の様子を聞いて、感慨無量、御苦労さん、よくやった、安らかに眠りなさいと冥福を祈ってやりました。
 
 二台のジープシーに分乗して、参加された遺族の肉親が戦死された場所が、どんなに遠くても、丘を越え、鬱蒼たるジャングルをくぐり、戦死された場所に一歩でも近づいて、一同ねんごろに慰霊をいたしました。
 今は平和にして静かな赤道直下、南十字星のもとで、六十三聯隊戦没者供養塔婆と各人が持参した塔婆を立て、お供物をし、線香の香りたなびき、テープの読経の声が高々とバレテの山々にこだまし、一同合掌冥福をお祈りしました。さぞかし、地下の英霊も満足されたことと思います。米軍をして『血のバレテ峠』と歎ぜしめたバレテ峠の戦没者追悼碑の前で、山本さんから当時の戦況を聞いて、精鋭を誇った六三聯隊将兵2,300名が僅か150名になるまで5ヶ月間、力戦奮闘、凄惨極まりない死斗を繰り返し、皇国の安泰と祖国の繁栄を念じて散華されたことを想うとき、万感胸迫り、しのび泣きながら、英霊よ安らかに眠って下さいと一同、合掌冥福をお祈りしました。

第2回比島慰霊巡拝記(8月)

 マニラ、サンホセ、バレテ峠、バヨンボン、バンバン、ヤンギラン、カピタラン、サンタフェ、パキオ、サンフェルナンド、マニラ等。

比島巡礼行(一部抜粋)

遺族

 ”バレテ想えりその歳月のかなしき”弟は、二十四歳の若きをもって鉄五四四七部隊に属してルソンの山河に散った。昭和20年4月24日という。私達兄妹三人はその三十三回忌に遠くそのバレテ峠にきた。
 胸は痛く、涙はとめどなく歯をくいしばって泣いた。鉄四七部隊はもとの歩兵六十三聯隊である。郷土鳥取・島根の若者たちの部隊である。(中略)バレテ陣地群、妙高、妙義、金剛の嶺、キリ、カシ、ヤナギ、その洞窟にタコ壺に、若きらはじっとしがみついた。バレテに米軍を拘束することで米軍の内地進行を阻もう、生命の限りを燃焼しつくして、バレテの峰に縛ることが比島軍の使命と、ただそれだけを自ら言い聞かせ、激闘四か月、彼らはただ魂魄を武器としてここに戦った。将兵二千三百、還るもの僅か百余。

 戦争とは何か、私は比島の地を踏みバレテに立ってその真実にふれたかった。二十台の若者たちをたこ壺に歯をくいしばらせたその「真勇」とは何か、比島に比べて日本は、その今は、そして己は何をなすべきか、たとえ人々の心から戦争が忘れ去られ、民族が過去を捨て去ろうとも、私はひたすらバレテを憶うであろう。昭和五十二年八月、霊魂の秋、比島慰霊巡礼行は私の六十六年の生涯でもっとも感銘した行であった。

 

昭和53年ー11号

第6回バレテ会慰霊祭

  島田会長が祭主となり、連隊戦没者二千五百有余柱のご英霊の冥福を祈り、厳粛に執行。祭文奏上、各都市遺族代表、比島巡拝団員、戦友三十数名の玉串奉奠など。総会では、比島慰霊巡拝の現地供養の模様などを説明、一人でも多くのご遺族が比島巡拝をと訴えた。

慰霊祭(昭和53年)
慰霊祭(昭和53年)
比島戦没者慰霊碑前にて(昭和53年)
比島戦没者慰霊碑前にて(昭和53年)

第3回比島慰霊巡拝記

4月15日~18日
 マニラ、ウミンガン、プンカン、サンホセ、デグデグ、バレテ峠、ヤナギ陣地、カシ陣地、妙義山、サンタフェ、アリタオ、ピナパガン、サラクサク峠、比島寺、モンテンルパなど。

妙義山山頂での慰霊祭(昭和53年)
妙義山山頂での慰霊祭(昭和53年)
マレコにて慰霊祭(昭和53年)
マレコにて慰霊祭(昭和53年)
亡夫戦死の丘に立ちて(一部抜粋)

遺族 (姫路市)

 マニラから一日かかってやっと夢にまで見た主人戦死の現地にたどり着いた。はからずも今日は祥月命日の前日、奇しくき日に訪れることの幸をしみじみと思う。四月というのに、灼けつくような陽の光は、春うららかな日本では想像も及ばぬ強烈さである。八十キロの時速で走り続け、やっと着いたヤナギ陣地。景色は、かつて見た天才画家ゴッホの南国の景色のような明るさの、あの平和そのものの景色である。

 この地、この場所で、三十三年前、あの激しい戦が繰り返されたとは到底想像もつかない。陣地の場所、その現状などを教えられる。キリ陣地、建武台陣地への見通しがきく場所へ塔婆を立て、真っ赤な生け花を供え、内地から持ってきた八重桜の塩漬けを取り出して、水筒の水で茶を立てた。じっと悲しみをこらえ乍ら茶筅を振っていると両の頬を涙が自然につたう。万感よみがえってきて、嗚咽に変わる。突然大声で叫びたい想いで胸が一杯となる。じりじりと灼けつく陽ざしに、今は去り難き気持で丘を降りる。一歩一歩、ありし日に幾度か通ったであろうこの土地か、手折ったであろう草木かと思う。幾度か振り返り乍ら、再び訪ねることもなきこの地を、一足一足降りる。懐かしい母国を忍び乍ら、祖国の繁栄を念じつつ散った幾多の人々の冥福を祈りつつ。

 長い歳月胸中に思いつづけてきた私は、心の安らぎと、安堵をひしひしと身に感じつつ、永久に心やすらかに眠り給え、我が夫よ、幾多の人々の御霊よと、心に叫び乍らー。

 亡き人の血潮にも似た紅の ブーゲンビリアの赤き花びら

再度妙義山に登って(一部抜粋)

遺族  鳥取県倉吉市

 妙義山は一本の木もない草山で登リ易い山ですが、登り口から急な斜面もあり、草につかまったり、転んだり。運動不足でつらい坂道ですが、頂上に登れば誰かが待っていてくれる、そんな気持で一生懸命でした。当時、百雷一時に落ちるがごとき砲弾は、地をゆるがせ、山容改まったというこの激戦地を、今こうして私は登っている。野島もこの道を登ったであろうか、ここで戦死なさった方にあったであろうか。頂上へは1時間、今では田植えもしてあり、草も植えてあるのどかな頂上でした。慰霊祭では、野島の供養塔を立て、生前好物であった日本のお酒、煙草、お菓子、また娘の心づくしの満開の桜の小枝を供え、冥福を祈りました。話ができるものなら、話したいことが一杯あるにの・・・。

 延々と連なる山々、どの山も陣地であったと聞いています。目の前には雄建台がが横たわり、下の五号道路を越えて、カシ・ヤナギ陣地もよく見えます。33年ぶりという山本さんは、戦友の名を呼んで。慰霊に来たよ。淋しかったであろう、と大声で、一の谷へ、雄建台へ届けとばかり、そのお声もかすみ、泣いておられました。永い間生死を共にされた戦友のお顔が次々と浮かんできたことでしょう。どうしても来てくれと戦友が私を呼び寄せたのです、と何度も言っておられました。
 遺族の方の一人でも多く、この戦跡を巡拝されることが、何よりの供養になると、この妙義山の頂上に立って思いました。

昭和54年ー12号

第7回バレテ会慰霊祭

 4月8日、参列者120名。明年より今後の慰霊祭は四月第二日曜日と決める。

 

昭和55年ー13号

第8回バレテ会慰霊祭

  4月13日、比島戦線で共に戦いし撃兵団関係外多数の御来賓参列のもとに、県内は勿論、一都二府10県に亘り、ご遺族、生還者百四十数名の方々が参列下さった。特に今回、二月の巡礼団がバレテ峠(連隊本部が位置した谷)にて発掘されたご遺骨三体をお迎えし、祭壇正面に安置されたことにより一層祭典を厳粛にした。祭典後、ご遺骨は厚生省奉安室に保管され、分骨を比島戦没者慰霊碑の納骨。

慰霊碑前の小祭典(昭和55年)
慰霊碑前の小祭典(昭和55年)
慰霊祭(昭和55年)
慰霊祭(昭和55年)

バレテ会慰霊祭に参列して(一部抜粋)

 生還者 (戦車第二師団)

 私共戦車第二師団のものは皆さまがいらっしゃった第十師団の方々に対しては兄弟師団として実に親しみの深い感情を持っています。東満州駐屯でも両者は近く、共に北部ルソンに転進し、隣接するバレテ、サラクサクの両峠において日米決戦の天王山ととして共に三か月の激戦を戦い、実に多くの戦没者を出しました。本日、このバレテ会の慰霊祭にご案内いただき、参列して直接ご英霊のご冥福をお祈りすることができまして深く感謝申し上げます。(中略)

 戦車第二師団は米軍のリンガエン湾上陸とともにに第一線の戦闘に参加し、二月上旬まで激戦を続けて参りました。満州より転進二百四十三両の戦車は約三週間の激戦で僅か十二両になり、この間、約二,000名の将兵の戦死を見るにいたりました。この作戦は、バレテ峠を越えてカガヤン河谷へ窮迫する在留邦人や諸部隊の移動、バレテ峠を死守する鉄兵団の陣地構築のために日数を稼がねばならず、戦車第二師団の玉砕も止むを得ないと思考されたのです。

 このサラクサク峠の攻防戦において、私共の戦車第三師団には鉄兵団、特に歩兵第六十三聯隊から歩兵四ケ中隊、それに捜索第十聯隊(鈴木支隊)及び石井砲兵大隊(十五榴一中隊その他)が配属されまして、あの三ケ月間におよぶ靭施な攻防戦において共に大いに闘っていただきました。私としても切っても切れない縁の深い兄弟師団としてあの激戦を思い出しております。
 

第4回比島慰霊巡拝記

 マニラ、サンホセ、プンカン、バレテ周辺、サンタフェ、デグデグ、ピナパガン、カガヤン、北フェルナンドなど。

バレテ峠にて(昭和55年)
バレテ峠にて(昭和55年)
北サンフェルナンド港の慰霊祭(昭和55年)
北サンフェルナンド港の慰霊祭(昭和55年)

 

カガヤン河畔にて(昭和55年)
カガヤン河畔にて(昭和55年)
カバリシャン陣地、左稜線が足立中隊陣地(昭和55年)
カバリシャン陣地、左稜線が足立中隊陣地(昭和55年)

かバリシャンの米軍第32師団慰霊碑(昭和55年)
かバリシャンの米軍第32師団慰霊碑(昭和55年)

                        

比島慰霊巡拝(一部抜粋)

 追悼の弔辞を捧ぐ。
 我が歩兵六十三連隊及び配属ならびに協力の諸部隊の皆様、今回一行十六名、御慰霊に参上いたしました。顧みれば三十数年前、バレテの防御線、プンカン、デクデク、ミヌリ、ウミンガン、カバリシヤン及びサラクサク等での戦闘やピナパガン平野への機動転進におきまして、本土への進攻を長引かす尚武集団の持久拘束任務の下、物量の隔絶と敵師団の猛攻に対し、夫々の部署と任務で使命と責任を遂行されつつ、戦没された御英霊に心から哀悼の誠を捧げます。

 私共生還者は御苦衷の御肉親を伴いつつ、漸くにして志かなって此のふるさとに参り、戦蹟を踏みしめつつ、あの山、この山、又幾山河のかなたで、故人となられた林連隊長をはじめ、皆様方を偲び、感慨ひとしおであります。鉄兵団によるバレテ戦線は、サラクサク戦線と共に、バギオ戦域とならぶ尚武の北部ルソンの決戦の場であり、我がバレテは、持久戦略的に決定的な意義を持っておりました。それは、バレテ失陥に伴って、五号道路沿いは、六月中旬迄にバカバックやオリオン峠迄、六月下旬迄に北端のアパリ迄制圧され、予定されていた尚武の複廓線は厳しい苦戦を強いられているのです。その経過を知るとき、我が連隊将兵が、物量の大差や糧食の欠乏にもかかわらず、よくぞ長期持久した戦略的意義は大きく、尚武や師団の期待の副いえたものであると信じます。

 私は、公刊戦史を通覧して対局を知り、あらためて我が連隊の敢闘、従って皆様の御遺蹟を顕彰し、且御遺族にそれを御報告したいのであります。
 あなた方が祖国の勝利を信じ、御家族を案じつ、責務の下悠久の大義に生きんとされた尊い犠牲の上に、日本は敗戦をはね返して経済大国となり、国際平和を念じて戦争の放棄が合意され、不本意ながらも戦場としたフィリピンとの関係に親善が進んでおります。今回の巡拝団は、此の戦場や機動転進での故友を偲びご冥福を祈願したい生還者八名と、まのあたりに、瞼のあなた方の御遺蹟を確かめ、御苦労をねぎらい、心から御供養をされたい肉親の方八名でありますが、それは全生還者と、全御遺族の方々の共通の念願なのであります。
 私は永遠の生命を信じます。皆様は骨はルソンの地に埋むとも、精霊はルソンに、或る時は郷土にあって、祖国の繁栄と、御遺族の御安泰を照覧して戴いていると信じています。謹んでご冥福を祈り、追悼の弔辞といたします。

 昭和五十五年二月十五日 比島バレテ慰霊巡拝団長

元歩兵第六十三連隊第七中隊長米田大尉の遺品の松江護国神社奉納式
松江護国神社に奉納された遺品一部(昭和55年)
松江護国神社に奉納された遺品一部(昭和55年)

松江護国神社奉納式(昭和55年)
松江護国神社奉納式(昭和55年)

昭和56年-14号

第9回バレテ会慰霊祭

 4月12日、県内外のご遺族、生還者130名の参列者で挙行された。

慰霊祭(昭和56年)
慰霊祭(昭和56年)

慰霊祭受付(昭和56年)
慰霊祭受付(昭和56年)
慰霊碑前にて(昭和56年)
慰霊碑前にて(昭和56年)

 慰霊祭を終えて(一部抜粋)

 会長

 森羅万象ことごとく生の歓びに燃える新春のよき日に、今年も盛大に慰霊祭を行うことが出来ました。「友よ、安らかに眠り給え」と往時を追想して感涙のひと時を過ぎしました。お互いに過ぎ去った三十有余年、思えば、あたら末長い青春を、草むす異郷の原野にさらしている友や、深海の闇にさすらう幾多の御霊の心情を察すれば、人の世の運命とは言え、余りにもその差が大きく、唯々生と死という生命の尊厳に毎年のことながら強く深く心震えるばかりであります。
 今回、あの激闘の地バレテ峠に、新しく慰霊碑建立の声を聞き、私は実現したい願いで一杯です。戦友の霊を祭るとともに、私達の一生の明暗を決したバレテ峠に、永久に悲惨なりし戦いの歴史の一頁を記録することは、生存者のつとめであり、大きな意義あることと思います。物質万能の社会は、道義の荒廃を招き、私達もややもするとそうした環境に同化されています。会員の皆さんにお願い申し上げます。平和への願いをこめ、古きよき心の復興を求めて、相協力して慰霊碑を建立しようではありませんか。皆さんのご多幸をお祈りし、お願いの挨拶をいたします。

バレテ峠慰霊碑改築によせて(一部抜粋)

 生還者 鳥取県大栄町

崩壊寸前の慰霊碑台地
崩壊寸前の慰霊碑台地

 時移り、時代が変わり、戦争体験者がいなくなっても、比島に「バレテ峠」がある限り、かつてはこの峠を中心に彼我共に参列な死斗が展開され、あたら幾多の将兵が護国の楯となって散華した歴史は永久に消えないであろうと思います。その意味で、「バレテ峠」の慰霊碑は単なる供養塔としてばかりではなく、日本人の愛国心のシンボルとして長く後世にその武勲を顕彰されなければなりません。ひいてはそのことが、日比親善につながり、万民共通の願いである世界平和の礎石となるその意義は極めて大であると思います。そのためには規模は小さくとも永久保存される碑であり聖地であることを望みます。

 他にも各所に激戦、死斗、玉砕等々の場所は数多くありますが、ルソン島5号道路の要衝である「バレテ峠」は最適の場所であると思います。だからこそ、現在建立されている碑の位置は、申分のない場所であり、此の碑を此処に建てられた先輩諸兄の偉業に深甚の敬意と感謝を表したいと思います。ところが昨年の台風で慰霊地そのものが崩れかかっています。早い中に何とかしなければならない最重要課題であると思います。

バレテ峠慰霊碑の建設について(抜粋)

 生還者 (千葉県)

バレテの山々
バレテの山々

 九死に一生を得て生還した戦友の方々が、今なおルソンの人知れぬ山中で草むす屍となった二千有余の戦友を思い、また、愛する子、愛する夫を失われたご遺族の胸中を察し、戦友の慰霊と遺勲の顕彰を念じつつ、バレテ会を結成し、鳥取砂丘を眼下に見る景勝の地、県護国神社の一隅に、あの慰霊碑を建設したのが十数年前でした。慰霊碑に詣でるたびに心が洗われ、嘗て青春の情熱を捧げつくしたルソンの山々を思い、あらためて今は亡き戦友と言葉のない語らいをする想いであり、鳥取の慰霊碑が私どもと亡き戦友、そしてご遺族とを結ぶ心の絆であると考えております。

 そして、戦後三十余年、ご遺族の方々も高齢を迎え、一年ごとにその行動も思うようにならない年となっているように思います。生存される戦友の方々もその想いは同じではないかと思います。現地慰霊の戦跡巡りも、ここ数年のことでしょう。そして、自然と鳥取の慰霊中心の行事に移行せざるを得なくなるものと考えられます。折角バレテ峠に慰霊碑を建設しても、将来訪れる人とて無く、苔むす無縁仏のようになってしまうことを憂うるものです。
 然しながら、バレテ会として戦友の慰霊は、生存者のいる限り続くことですし、ここしばらくは戦跡慰霊のため渡比される方々のために、現在ある峠の碑を関係方面とご相談の上、可能な整備を早急に進めることが先決ではないかと思います。

 慰霊碑について思う(一部抜粋)

 生還者 (東京都)

プンカン慰霊碑
プンカン慰霊碑

 「慰霊碑」や「慰霊祭」を含め、フィリピン関係戦没者の慰霊について、現時点で考えねばならない一番大事なことは何だろうか。このことについて、私がどの角度から考えていっても、結局ぶつかってしまう窮極の結論は「日比永久親善」の「実」を挙げることであろう。戦没将兵の眠っておらっれるフィリピンの現地に墓を建てるもよし、戦跡巡礼をすることも大いに結構、と私は思う。しかし、建てたその墓を守り、また安心して巡拝旅行のできる基盤はなんだろうか。それは今、現地に住んでいるフィリピンの人たちが、私達日本人の心を理解し、親しんでくれて、喜んで私達の心に協力してくれるこpとなのである。(中略)戦後今までに現地に沢山の慰霊碑が建ったと聞いているが、その一つ一つが止むに止まれぬ日本人の精神的な行動であったことはともかくとして、「日本人は墓ばかり建てたがって、俺たちの暮らしにプラスになることを何もしてくれない」と現地人が言ったということを、再度耳にしたことがある。

 慰霊碑の建立が、日比双方にとって意味がないと、私は必ずしも思わない。慰霊巡拝の人々にとっても、いい「よすが」になるし、旅行団が増えれば現地も潤うことにもなる。そして、何より、かつて相闘った人々が、今平和に立ち戻って、将来の平和を誓う一つの「よすが」でもある。要は現地の人々の心情を無視した碑の建立は、日比双方にマイナスだ、ということである。まして、建ちっぱなしということは、短慮というほかない。碑の建立に伴う維持管理が如何に大変な仕事であるかということ一例は、日本政府が建てたマニラ東方のカリラヤ慰霊碑の、その後の事情をみてもよくわかることである。(中略)いずれにしても、今の時点で、私達がフィリピン戦没者慰霊のために考えるあらゆる行事のうち、現地に関係あることは、すべて日比親善の将来に関わりを持ち、その上にのみ存在しうるのだということを忘れずにいたいと思うのである。

 比島慰霊巡拝関係者の集い

 2月24日、皆生温泉にて関係者が18名参集し、過去4回に亘った比島慰霊巡拝の今後のこと、バレテ峠慰霊碑建立につてなどが話し合われた。

昭和57年ー15号

第10回バレテ会慰霊祭・総会

 4月10日、会津若松より来鳥された根本さんをはじめ、千葉県など12都府県より20数名の戦友、ご遺族が一年ぶり、または30数年ぶりに再会し、話しに花が咲き、慰霊巡拝記録映写鑑賞などもあって思い出深い時を過ごした。天候に恵まれた翌11日に慰霊祭。ご遺族代表、生還者代表などで玉串奉奠。我々生き残りし者のつとめとして、最後の一人まで慰霊祭を続けていきたいと会長の挨拶で締めくくった。先の役員会でバレテ峠追悼碑改修計画案をとりきめ、式典終了後の総会にて計画案が示された。また、これを実現するための募金のお願いがなされた。

慰霊祭(昭和57年)
慰霊祭(昭和57年)
会長の祭文奏上(昭和57年)
会長の祭文奏上(昭和57年)
式典の参加者(昭和57年)
式典の参加者(昭和57年)
慰霊碑前での小祭典(昭和57年)
慰霊碑前での小祭典(昭和57年)
砂丘会館にて総会(昭和57年)
砂丘会館にて総会(昭和57年)
総会(昭和57)
総会(昭和57)
第5回比島慰霊巡拝記

 2月18日~25日。参加者12名、マニラ、プンカン、バレテ、バヨンボン、サンタフェ、サラクサク峠、サンフェルナンド、ウミンガンなど。

バレテ十字架碑
ホシ高地(昭和57)
ホシ高地(昭和57)

バレテ・サラクサク峠忘れじ(一部抜粋)

 遺族(鳥取県境港市)

サラクサク峠
サラクサク峠

 バレテ戦からもう三十七年、両親も兄弟姉妹も老い、戦争は風化している。追憶はうすれ記録も古びて朽ちつつある。戦記戦史もあるにはあれど、将の名はあっても兵の名は少ない。それが歴史というものもしれない。妻なく子なく紅顔可憐に世を去った歩兵六十三連隊の若きらは、故郷の丘に立つ墓標に名をのこすのが追悼のよすがか、私の弟佐々木敬も二十年四月二十四日バレテ峠ヤナギ陣地で戦没した。まだ二十四才であった。

 母は九人兄妹を育てたが、ひとり若くして世を去った弟をいとしんで、遺言は弟の慰霊のことそれだけだった。生前母を比島へ旅させ得なかった私は、戦後三十三年、兄妹三人でバレテへ行った。弟への哀痛な叫びかけは、こだまするだけだった。バレテ峠の白い十字架が戦没者追悼と英文で「平和よ永遠に」とあった。私は弟と二人の友人のことを彫りこんだ小さな陶板を故坂田速射砲隊陣地跡に埋めてきた。近くには米軍の建てた碑があり、日本軍七,四〇三人と米第二十五師団二,三六五人が血で染めた峠バレテと記してあった。カリラヤの比島戦没者碑、バギオの英霊追悼碑、恩讐をこえて日比百数十万の霊を慰める!・・・最後の一滴を捧げつくして侘しく滅びていった同胞よ!慟哭の碑であった。(中略)

 戦争を忘れることは哀しい。それ故に人は戦争を石に刻んで後世に伝えようとするのである。それは使命であり任務である。母には不孝者であった私が、弟の弔魂の碑を母の墓側に建てた。「昭和二十年四月二十四日、二十四才の若きをもってフィリピン群島バレテ峠に陣没した佐々木敬がみたまをここにまつる・・・大戦の犠牲となって南溟の密林にねむる後人のあわれみ給え」私の孝行の代りであると共に遺族のなすべき行であった。私は今、弟の伝記を綴っている。この若者を知らぬ人々もよんで悼んでくださるであろう。これが戦跡標である。生還の人々は万死に一生をえたなら自分史をかくべきである。そして戦友と戦記をかくことである。遺族も又戦没のみたまのことを自分史としてかくべきである。バレテ会はその指導援助を事業としてはどうか。バレテ戦跡碑、昭和二十年一月より悪戦苦闘六か月鉄五四四七部隊歩兵六十三連隊将兵三千余、この峠に玉砕す。弾丸なく食なくただ魂魄を武器として戦いひたすら東京防衛の盾たらんと誓う吾ら想いつぐ血の峠忘れじ。紙に刷る戦跡、石にのこす戦跡、ぜひぜひ進めねばならぬ。  

 思うままに(ーバレテ峠でー)

 遺族(横浜市)

バレテ峠十字架碑
バレテ峠十字架碑

 外嘉男さん! 私です。美代です。あなたの妻の。こんなおばあちゃんになってしまって・・判りますか? そんなババアは知らないネ、なんて言わないで・・・。あなたと別れたときは二十五才でしたもの。もう、六十二才、外嘉男さんの年の倍も生きてきたことになります。その間にはいろんな波風にあいました。でも、どうやら乗り越えて、いまは平和な日々を送っています。これも偏にあなたのご加護のお陰と有難く思っております。その感謝の気持を伝えたく、又、バレテ峠へくると、あなたに会えたような気になるのです。だからこうやって、ここへやってまいりました。そんな私を見つけていただけますか?・・・。(中略)

 外嘉男さん、もし、あなたの霊がまだこの地に残っておられるなら、どうか私と一緒に日本にお帰りになって下さい。そして、平和で、しかも素晴らしく繫栄した日本を見て下さい。さぞ驚かれることと思います。日本の人達は敗戦後の虚脱、混乱を乗り越え、あらゆる苦難を味わいつつがむしゃらに生き抜いて来ました。そして見事に立ち直り、今や世界一、二の経済大国と言われるほどになりました。これは、何といっても当時日本の兵隊さん達が、祖国のため血みどろになって戦われ、大切な一つしかない命を捧げて闘いぬかれたお蔭です。その尊いお命が現在、平和な日本の礎になっています。私はこのことを声を大にして叫びたいのです。(中略)
 さて、あなたが最も気にしておられた娘達の様子をお知らせしましょう。ここに二家族の写真を持ってきました。見てやって下さい。みんな大きく、楽しそうでしょう。あなたがお護り下さっていたお蔭で、二人共元気です。そして子育てに専念しています。紀代は四十二才、孝子は三十七才、そんな年になった娘達を想像できますか? (中略)

 私、今回の訪比の際、自分の頭髪と爪を持ってきました。このディクディク川、この辺りはあなたが通られたと思われるので、この川原に埋めてまいります。私もバレテの土になりたく、こんなことをします。私の一部がここにおりますから、時々あなたも会いにきて下さい。私、これまでいろんなつらいことがありました。でも、娘達の前では涙を見せたことはありません。できるだけ明るく振舞ってきました。それがどうでしょう。ここへ来ると、どうしてこう涙があふれてくるのでしょう。バレテ峠へきて、あなたの話をしておりますと、これまでの苦労が素っ飛び、胸の辺りが次第に軽くなってくるのです。だから又訪ねてきたいと思っております。では又。 昭和57年2月記す。  

昭和58年ー16号

第11回バレテ会慰霊祭・総会など

 4月10日、南寄りの暴風雨の中、県内外から参列者110名。

遺族代表玉串奉奠(昭和58年)
遺族代表玉串奉奠(昭和58年)
慰霊祭参列者(昭和58年)
慰霊祭参列者(昭和58年)

 昨年から懸案の課題として、第三号議案「バレテ峠追悼碑改修と募金について」を総会に諮る。
一、趣旨書ならびに事業計画 二、各種担当委員の決定 三、協力各部隊関係 四、改修工事現地契約 五、募金状況 など。
 募金状況は、他部隊の多大な協力によって目標額500万円の二倍額へ到達、会場は、来年度のバレテ峠における慰霊碑建設の実現に向けての熱気に包まれた。

役員会(昭和58年)
役員会(昭和58年)
総会(昭和58年)
総会(昭和58年)

昭和59年ー17号

第6回比島慰霊巡拝記・バレテ峠慰霊碑除幕式

  3月23日~28日、60名参加。バレテ峠における新追悼碑と戦跡碑の序幕と慰霊の式典、追悼碑を保存をお願いするサンタフェ町その他近隣関係町村に対する寄贈品の贈呈式、日比親善の交歓会、バレテ峠の慰霊祭、慰霊巡拝参加者の各々の関係地における現地御慰霊、バクサンハン比島寺境内の歩兵六十三連隊戦没者慰霊之塔の序幕、慰霊式典などを行い、皆、無事に帰国してまいりました。

慰霊碑の序幕(昭和59年)
慰霊碑の序幕(昭和59年)
除幕式(昭和59年)
除幕式(昭和59年)

バレテ山頂に建つ追悼碑の前にて(一部抜粋)

 元中迫撃砲第七大隊第二中隊   生還者(大阪市)

遠くバレテの山塊

  このバレテの山野は、一万七千人の尊い人命が失われた戦跡。若かりし頃の思いは今、新たに沸々と蘇り、あの戦友この戦友の顔が、声が、眼の裏に耳の奥底に残っている。一瞬悲鳴、呻き声前後に起こり目もあてられない修羅場と化す。過去は夢のように思えるが、現実にここが戦場となる倒れていったのだ・・・とふと吾に返る。 

 両軍の砲弾は、バレテ全山を揺り動かし硝煙は至る処に立ち昇り、全山焼失して地獄図の如くに変形しておりました。終戦後捕虜となり、マニラに輸送される車上ヵら見るバレテは、見渡す限り真黒く、以来私の脳裏に、黒いバレテが住み着くことになりましたが、三十三回忌の年に初めて慰霊団に参加巡拝した時、青々とした平和なバレテを見て黒いバレテは消え去りました。
 バレテ峠の頂上に、今回御霊の安らぎの場所として、立派な追悼碑が建立され大変嬉しく私の心にも安らぎを得た思いです。 
 此度、追悼碑の前に立ち、戦友のご冥福を祈っておりましょうとは、全く夢の如くでございます。不思議なお蔭を数々体験し、生き延びて参りました私、本当に生かされ続けて参りましたことを、日々感謝申し上げております。

バレテ峠慰霊建立の参加者一同
バレテ峠慰霊建立の参加者一同
バレテ峠の慰霊に憶う(一部抜粋)

 元歩兵第六十三連隊連隊本部  生還者(鳥取県淀江)

  追庫碑は、 かつての各戦場が一望に見下ろせるバレテ峠の頂上にあり、眼下の山並はいま何事もなかったかのように静かですが、 その幾重にも連なる山の中には、当時幾多の部隊が展開して死闘を続け、万余の戦士が散ったのです。
 その鮮血は一木一草にしみ、髑髏は風雨に晒されてついに朽ち、土となって、 その魂魄は山中に止まっていると思います。私達は、追々高齢になりますが、これからも生ある限り、この地に巡拝を続けたいものと念願してやみません。
 私は。生涯を通じて忘れることのできないのは、一兵士としてバレテ戦に参加したということです。あれから早くも四十年にもなりますが、当時のことは昨日のことのように思い出されます。
 私は、昭和十九年二月、北満にあった六十三連隊の五中隊に現役入隊し、後に、運命の バレテ戦の戦いに参加しました。満州で生死を共にと語り合った五中隊の戦友は、プンカン陣地を死守し散りました。ありし日の純真にて溌剌たるその面影は、今なお私の瞼の底に焼き付いて離れません。第十四方面軍参謀栗原賀久著「運命の山下兵団」にも「兵は哀れである。兵は悲しいものである。命令の通りに従順に死んでいかねばならぬ、死ほど悲しい哀れなものはないであろう・・・」とあるが、本当にだ一線の兵隊は、死守の命が下れば命令に従い、何の言い訳もせず、その場で死ぬまで戦い散って行かねばならなかったのです。

バレテ峠に兄を偲ぶ(一部抜粋)

元歩兵六十三聯隊連射砲中隊 遺族(北九州市)  丘に立ち亡き故里の母憶う

 戦後三十九年目に、 ようやく念願のバレテ峠に立って来し方を思い起こしました。
 終戦の秋、 あちらにもこちらの家にも復員されたという噂を聞いて比島戦線にいるという兄の安否を知ろうと、 母と二人で大山のふもとの村々を歩き回りました。
 長兄は遠いニューギニアの戦場に、次兄は寒い北満に、三男の敬兄はフィリピンの戦線に。 外地にいる息子達の一日も早い帰国を待ちわびている母の表情は日毎に不安げになっていきました。兄達の消息がわからないままに年を越し、昭和二十一年の二月、小雪のまう夕暮に、「フィリピン、バレテ峠に於て戦死」の公報が母の手に届きました。その母が日本の箱をいたわるように抱きかかえて余子駅頭に帰ってきたのは浅い春の日でした。九人の子どもを育てた母は、明治生まれには珍しく教育を受け、私どもには気丈な人のようにみえまっしたが、兄の戦死は母の目を終生うるませました。うす暗い仏間でひっそりと、又、吹雪の日でも墓前に座って兄の思い出にふけっていた姿は、今も私の脳裏に焼き付いています。
 老母のはつれ髪 寒し仏間かな
あれから四十年近い歳月がたち、私も三人の子どもを育て上げ、還暦の年になって、母の悲しみの深さを実感として感じるようになりました。その亡母にかわって、バレテ峠の慰霊碑除幕式典に参列できたことは、母の霊にも供養ができてほっとした思いです。

 慰霊の旅母子そろいの夏衣   慰霊碑に兄と過す日思いつつ  
 丘ひろく陣地のぼり来慟哭す  春あさきバレテの丘に花もなく 

第12回バレテ会慰霊祭

  4月8日、参列者120名。 

昭和60年ー18号

第13回バレテ会慰霊祭

 4月14日、参列者120名。

護国神社慰霊祭(昭和60年)
護国神社慰霊祭(昭和60年)
慰霊祭(昭和60年)
慰霊祭(昭和60年)
慰霊祭(昭和60年)
慰霊祭(昭和60年)

第7回比島慰霊巡拝記

2月14日~20日、10名参加。

ピナパガンでの追悼供養
ピナパガンでの追悼供養(昭和60年)
慰霊巡拝を終えて(一部抜粋)

 遺族(鳥取市)

  熾烈な戦いから40年。昭和生れが80%を超した今、戦争は忘れられようとしています。しかし、肉親を失った遺族も戦場から帰還された方々も、とうてい忘れることはできないでしょう。私は二人の兄を比島で無くし、去る2月の戦跡巡拝に参加させて戴き、多くの若い戦士たちが散華された戦場に合掌し、苦難の戦いを侘ぶことができました。
 さて、鳥取は小雪の舞う零度だというのに、マニラは30度と真夏並み、しかし、中部ルソンの平野は水田が何処までも続く長閑な田舎風景で、暑さと椰子、バナナの木を除いては日本と変わらない東洋的な国だなと思い

カガヤン河にて慰霊準備(昭和60年
カガヤン河にて慰霊準備(昭和60年)

ました。バレテ峠の入口にかかり四方の山が迫るにつれて、彼の台地、丘陵、谷間、それぞれ各隊毎の布陣と最期の激斗・・・と西本氏のガイドにも熱が入ってきました。上るにつれて山は峻峡な密林となり、万丈の谷は細く、戦いは想像以上に激しく至難であったのだろうと思います。近所の方が、バレテ峠で4名戦死されており、預かってきた塔婆と供物に香を焚きながら合掌したとき、元気であった頃の母の姿が瞼に浮び、涙を止めることができませんでした。「家族の方は皆、元気です。どうぞ御安心下さい」ただ祈るのみです。
 長兄が戦死したビトロンは道が悪く、5キロメートル手前でお祈りしました。そして、ピナパガンを経てカガヤン河。洋々と流れる河を見ながら、悪疫と食糧難に堪えながら、道なき道を苦難の行軍をされたであろうと、此の地に到達することなく無念の涙を流された幾多の霊に合掌しました。

 北フェルナンドに近い砂浜では、海没された方々は無念この上もなかった事と思いながら、線香を焚き、読経を行いました。バキオを経てクラーク空軍基地、航空通信兵であった次兄等は、航空機の無い飛行場を捨て、西方山中に決戦場を求め、矢折れつきたものと思われます。遥か西方に山が見える畑で次兄の慰霊を行いました。比島寺ー初めて仏像を拝むことができました。仏教徒として心の安らぐものを感じました。
 最後に、バレテ峠の立派な碑をはじめ、各激戦地に建つ慰霊碑を見るにつけ、数少ない帰還された方々の一方ならぬご尽力とご奉仕の賜と、遺族の一人として感謝申し上げる次第です。    

 

昭和61年ー19号

第14回バレテ会慰霊祭

 桜花爛漫の好季節に恵まれた4月13日、県内外のご遺族、生還者110余名参列で挙行。前日は、砂丘荘に25名が宿泊されました。

第14回慰霊祭(昭和61年)
第14回慰霊祭(昭和61年)
慰霊の詞

 バレテ会長 穐山 宇太郎

 本日茲に、元歩兵第六十三聯隊比島戦没者 材聯隊長以下二、五七八柱の御霊を神社の神殿にお迎えして、第十四回霊祭を挙行するにあたり謹んで追悼の詞を捧げます。憶えば英霊の皆様には、過ぐる大東亜戦争の末期戦局の挽回を図るため、急拠関東軍の隷下を離れ、酷寒の北満から酷暑の南方戦線に転進し、この間、台湾防衛の大任を完うし、更に比島に於ける、日米決戦の禍中に投ぜられたのであります。

慰霊祭(昭和61年)
慰霊祭(昭和61年)

 この時既にレイテ決戦に於て、主力艦隊と航空戦力の大部分を失った我が軍は、制空制海権のみならず、あらゆる戦力装備も弱体化して、戦争の主導権は完全に米軍の手に落ちてしまったのであります。即ち、ルソン島上陸直前の乾瑞丸の被爆轟沈がそれであり、バレテ陣地攻防五ケ月間の苦戦の統ては彼我戦力の格段の相違によるものであって、此処を死守した、あなた達将兵の苦労は到底筆舌には尽し難く、国家危急存亡の秋、絶対不利な戦争と知りつつ、敢て肉弾斬込を繰返して散華された、不屈不倒の特攻精神は永く戦史に遺り、いつまでも語り伝えられていくものと思います。

 今静かに瞑想する時、あの鬱蒼たる密林のバレテ、サラクサク峠、万雷一時に落ちるも似た物凄い敵の砲爆撃、 一瞬にして硝煙と共に飛散した、戦友達の雄姿或いは病魔に仆れ、苦しみつつ道なきジャングルの中に精根尽き果て、そのまま永眠していったであろう、やつれ果てた将兵の面影等と恰も昨日の出来事のように思い出されて、胸は痛み哀惜の情禁じ得ないものがあります。
 今年もまた、三月十四日から約一週間ご遺族及び生還者十七名のお方が、未だ沢山の遺骨が埋れていると思われるマデラ地区に遺骨収集を兼ねて、 つい先程迄政変に揺れた比島の戦跡を巡拝して無事帰国されました。幸いにも政変の方は平穏の裡に治まりましたが、ご遺骨の方は残念ながら、 一体も発見することが出来なかったようであります。更めて戦後四十年の歳月の長さを知らされた思いであります。また、 一昨年三月バレテ峠に建立しました、追悼碑の台地に亀裂が生じたとの噂もありましたが、実際には大丈夫で、今もなお、訪れる旅人の香華の煙も絶間なく、今後共、世界平和のシンボルとして永く祀り継がれていくことと思います。

慰霊祭(昭和61年)
慰霊祭(昭和61年)

 大東亜共栄圏確立の為とは申せ、結果的には世界を相手として戦って敗れた日本でありましたが、 これでは、先祖に対しても将亦あたら若い生命を国難に捧げた英霊に対しても、申し訳ないことと、民主政治の下官民一体となって、国力の恢復に精魂を傾注して産業経済のみならす、教育文化の面に於いても、今や世界をリードする経済、技術大国となり、諸外国との交流はもとより、日本人研究熱すら盛んとなった、今日、 この頃皮肉と言えば皮肉な現象と言わねばなりません。
 願わくば、今後共これに驕ることなく敗戦当時の苦難の時代を想起し、英霊の心を心として更に国力の恢復と発展に尽くすならば、 やがては人類永遠の平和も決して夢ではないと思うのであります。血で血を洗うようなバレテ峠の激戦も丁度四月の中頃でした。当時を偲び、又しても悲しみを新にしながら、只管に心の中で念仏を唱えつつ青春の総てを祖国に捧げつくした、英霊の冥福をお祈りして止みません。愛しき英霊よ願わくば安らかに御霊鎮まりまして、故国日本否世界の平和と御遺族様の御多幸を御護り下さい。  昭和六十一年四月十三日

第8回比島慰霊巡拝記

 3月14日~19日。マニラ、プンカン、バレテ、サンタフェ、バヨンボン、サラクサク、ピナパゴン、バグサンハン比島寺などマニラ周辺。

巡拝参加者一度(昭和61年)
巡拝参加者一度(昭和61年)
妙義山での供養(昭和61年)
妙義山での供養(昭和61年)
バレテ峠での供養(昭和61年)
バレテ峠での供養(昭和61年)
ヤナギ陣地跡にて(昭和61年)
ヤナギ陣地跡にて(昭和61年)
北サンフェルナンドの海岸供養(昭和61年)
北サンフェルナンドの海岸供養(昭和61年)
サンタフェ小学校で学用品寄贈(昭和61年)
サンタフェ小学校で学用品寄贈(昭和61年)

慰霊巡拝の旅(一部抜粋)

生還者 鳥取県淀江

ヤナギ陣地跡にて(昭和61年)
プンカン陣地跡にてヤナギ陣地跡にて(昭和61年)
北サンフェルナンドの海岸供養(昭和61年)
サンタフェ小学校で学用品寄贈(昭和61年)

  バレテ峠はマニラから約二一〇粁、前方サンホセに五〇粁、後方サンタフェには約七粁で、道路の両側の山や谷間には陣地を構築し、戦争中は、北部穀倉地帯カガヤン河谷を防禦する最も大事な関所として、六十三聯隊が中核となって米軍の進攻を食い止めた要衝である。この周辺一帯は、幾多の戦士が砲火の中に散ったところ、還らぬ遺骨の眠るこの一帯は六十三聯隊勇士の眠る墓地であり、いわば六十三聯隊の聖地である。
 午後三時頃からバレテ峠追悼碑の前で慰霊祭を執行した。塔婆を立て、内地から持ってきた菊の花や比島で求めた生花を飾り、それぞれが持参した米や水、酒、菓子、果物、煙草等をお供えし、香烟が紺碧の空に立ち昇る中を式典に入った。

 海ゆかばの合唱は、遠くバレテ、サラクサクの山並に広く深く沈み、カセットに流れる般若波羅蜜多心経に唱和する読経と叩く鐘の音は、風にのって南国の空に木霊し山や谷に吸い込まれていった。
 この地に眠られる七、七五〇名の英霊の御霊も集われ、さぞや照覧されたことであろうか。次いで、巡拝団長中原清重氏が切々と呼びかけるが如く追悼の辞を述べられ、一同それぞれ礼拝する。式を終わって、峠の周りの山並を遥かに展望する。どの山、どの谷を見ても当時のことが現実となって蘇ってくる。あの絶望的な戦争で、弾丸なく、食なく、薬なく苛酷極まる人命無視の犠牲となって、家郷を恋いつつ死んで行かれた戦友のことが思われてくる。今日本が世界の一等国として繁栄し、飽食と贅沢三昧の生活をしているとき、本当に気の毒でならない。生きる死ぬるも紙一重だったあの地獄から生きてきた私達にとっては、一生涯にわたり英霊の冥福を祈り続けなければと心に誓うばかりである。

 プンカンは重要な陣地で、 道路の東側の山に勤兵団の井上大隊、鉄六三の三橋中隊、 鉄野砲の赤座大隊、道路西側の急な稜線に鉄岡山の内藤大隊等の陣地があり、 死守の命を受け、苛惜ない砲爆撃を受けながら米軍三ケ聯隊と劣勢よく戦い抜きここで全滅したのである。日本軍の戦死者一,二五〇人を数える死斗の場である。私が台湾まで所属した三橋隊は精鋭中隊として第一小隊はクマ陣地、その他はサル陣地で二月十六日頃から二月末頃まで、夜間斬込みに、また敵と激しく交戦し、三橋隊長は負傷し坦架の上で指揮をとられたという。先日、隊長のご遺族から満洲出発時両親様に送られた遺言書を見せて貰い、その崇高なご決意に心を打たれた。

 私達二人は真夏の陽が照りつける台地に暫し佇んで、当時の死闘を想像しながら、万石の涙をこらえて南方の三橋陣地のつはものどもの夢の跡に眼を凝らした。そして私は「三橋中隊長殿、築紫小隊長殿、福山分隊長殿ー、五中隊の戦友の皆さん、松永です。どうか安らかに眠って下さい」と声を限りに呼びかけました。その声は、広い深い静寂の中に閉ざされたプンカンの山並に吸い込まれて、応えるものは一人もいなかった。しかし、霊魂というものがあるなれば、御霊はきっと呼びかけに応えて下さったものと、私は心の中でひそかに思った。

父終焉の地 ピナパガンを訪ねて(一部抜粋)

遺族 兵庫県豊岡市

 「お父さん、 やっと来たよ」 と叫びたい気持を抑えながら慰霊の行事を終えて、 南国ルソンの澄んだ青空を仰ぐときしばし空虚な時の流れを感じつつ立ち尽くしておりました。戦後四十年を経てようやく父の眠るフィリビンを訪れることが出来ました。

 私は兵庫県北部に所在する豊岡市役所で働いておりますが、色々な部署を担当したなかで現在公共事業用地の買収事務を担当いたしております。ご他聞にもれず当市でも公共事業といえども、 その交渉は非常に難しくなっておりますか、 この仕事の中で亡父の戦友であった人 (満洲に残留し生還された) との交渉の必要が生じ、 その際大変なカ添をいただいた事があって以来亡父の存在について以前にも増して認識すると共に在りし日の父を深く承知したい想いが強くなってまいりました。
 父が出征した時、 私は二歳でその面影は皆無です。戦死公報は昭和二十二年四月になってなされ葬儀が営まれましたがその時の祖父母や母の悲しみと、言い様の無い雰囲気だけは今日まで強く心に焼き付いております。

 戦後の苦しい生活のなかでも、健康な祖父が父親がわりで、家業が農業でもあった為比較的恵まれ、国のため命を捧げた父を誇りに成長いたしました。あまり不自由な想いをしなかった為でしようか、若くして殉じた父の事を深く探究することもなく歳月が流れてゆきました。しかし歳を経て自分の子か成長するほどに遠い異国で果てた父の心情を思う事が多くなりました。
 昨夏、バレテ峠追悼碑改修の記念誌と共に歩兵第六十三聯隊編成表の掲載された会報十八号を送付いただき、父の所属や生存者を知る事か出来、今春ようやくこれらの諸氏に父の消息を照会しましたところ、バレテ会戦跡慰霊巡拝で父の終焉の地に近い場所へ行くのでぜひ参加してはとのお勧めがあり職場の同僚も心よく渡比を勧めてくれましたので急拠母と亡父の妺二人を伴なって参加することになりました。

 慰霊行は第一日目はデグデグ、妙義山、アリタオ、第二日目はトンガク、マデラに於て慰霊祭を挙行し、第四日目は団長の中原さん、西坂さん、山田さんと四名でサンチャゴからジョネスを経山してウルトーガンを目指しました。父の終焉の地は角田さんの調査ではパナンあろうとの事、しかしゲリラの本拠地とかで治安情勢の悪い地域と言われており今回がはじめての現地入りでしたが、何事も無くマサヤまで入ることか出来この地に於ても慰霊祭を行う事か出来ました。帰国後角田さんに報告しましたところ亡父の手引きによるものではなかったかとの事、出発時には考えてもいなかったことで心も満たされ感謝の念でいっぱいでございます。

 帰路ヨネスの二つの学校へ立寄り学用品を贈呈し交歓を行なって来ましたが、私は小学校のPTA会長をしている事もあり、現地の学校の状況に大変興味が持たれました。しかし英語が苦手な為充分に話合いをする事が出来ず残念に思っております。中部ルソンの美しい自然、清らかに流れきらめくカガヤン河の川面が今も心に強く焼き付いておりますが、戦後四十年、今では世界有数の経済大国に発展した日本と、いまだ貧しいフィリピンの現状を比較するとき、そのあまりに大きな較差に驚くばかりです。マサヤの小学校やサンタフェの子供たちを思い出すとき、フィリピンの次代を担うこれらの子供たちが成長した頃、豊かで平和な国となっていることを念じると共に、一方で豊かで恵まれ過ぎる日本の子供達の様々な問題が頭をよぎってゆきますが、世界の人々の平和と友好こそが艤牲となられた多くの英霊の鎮魂のよすがとなるものと考えております。

 北満から台湾を経て比島はバレテの死闘を生きぬき、その後の人跡未踏のジャングルの死の転進、点々と続く屍が道標となるなか、飲まず食わずの毎日で体力・気力も尽きた状態のなかで戦友の荷物をかわって持ち行軍するほどの心と体力のあった父もビナパガンへ進出して、ようやく食糧にありつきながら祖国日本が降伏した直後の八月十八日、最後の最後まで生きぬきながらマラリヤに倒れた父の様子は、帰国後烏取での慰霊祭の前夜二人の子供と共々角田さんから聞かせていただきました。若くして国に殉じた父のあたたかい又たくましい心を我が家の孫、子の心に永く生かす事が出来れば亡父への何よりの供養になるものと考えております。大統領選の直後で治安情勢が大変心配されましたが無事に巡拝を終える事が出来ました。長男も今年は高校へ入学しましたが、折をみて息子と共々ルソンへ亡父の足跡を再び訪ね多くの英霊の供養をさせていただきたいと思っております。
 最後にこの度の渡比のきっかけをお作りいただいた根本様や色々とお世話いただいたバレテ会の皆様、同行の皆様に対して心より御礼申し上げます。

昭和62年ー20号

第15回バレテ会慰霊祭
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慰霊祭(昭和62年)

第9回比島慰霊巡拝記
巡拝参加者一同(昭和62年)
巡拝参加者一同(昭和62年)
バレテ峠にて祭文奏上(昭和62年)
バレテ峠にて祭文奏上(昭和62年)
ヤナギ陣地での供養(昭和62年)
ヤナギ陣地での供養(昭和62年)

アリタオ一三八兵站病院跡での供養(昭和62年)
アリタオ一三八兵站病院跡での供養(昭和62年)
北サンフェルナンド港砂浜にて(昭和62年)
北サンフェルナンド港砂浜にて(昭和62年)
サンタフェ町役場で学用品贈呈式(昭和62年)
サンタフェ町役場で学用品贈呈式(昭和62年)

駄目な顔

遺族(横浜市)

 小さい頃から自分の顔には、全然自信がなかった。
 従兄からは「鍋の蓋!」とからかわれた。顔が丸く、鼻が低いからである。従兄と喧嘩になると、鍋の蓋、ぐらいでは気が済まぬのか、「新保屋の出来そこない!」と言って、なぶりいじめられたものである。
 私は四人姉妹の三番目、長姉は特に可愛く勉強もできた。近所の人達は堀川小町と叫んだのに、私は桁はずれだった。私が小学校の上級生になっても、従兄は相変わらず「出来そこない!」とからかった。
 さすがの私もある日、俄然奮起した。顔が駄目なら勉強で物見せると、そのせいもあってか、良い成績で女学校に入った。きれいだった姉は従兄の親友と恋愛し、その後婚約したのだが、かわいそうなことに女学校卒業まもなく胸を病んで天に召されてしまった。

 数年後、姉の婚約者が私と結婚しようと言ってくれた。しかし私の心境は誠に複雑で、悩んだ。そして鏡に自分の顔を映してみた。「顔が駄目なら精一杯の真心で尽くそう」という結論を見出すのに相当日数がかかった。
 昭和二十年初夏、夫は南の国フィリピンで戦死した。遺書の中の一行に「健康で明るく、しかも自分によく尽くしてくれ、幸せだった。」とあった。涙で読んだ中にも一条の慰めをおぼえ、顔は駄目でもと尽くした四年間の生活を思い出している。

第9回比島慰霊巡拝
亡兄の思い出を胸に 初めて慰霊巡拝に参加(一部抜粋)

遺族(横浜市)

プンカン陣地跡での慰霊供養(昭和62年)
プンカン陣地跡での慰霊供養(昭和62年)

 一昨年の十一月、淀江の松水様より、突然お手紙を頂き、始めてバレテ会なる六十三聯隊の立派な戦友会があり、生還者の親睦と、遺族との交流、又五十九年には、バレテ峠に追悼碑建立など、活発なる御活動をしておられることを知りました。
 私は昭和二十二年五月樺太より引揚げましたが、兄の賢二の戦死については、当時、亡父より「鳥取県世話課に種々照会しておったが、比島プンカンにて玉砕とのことで、戦闘状況、その他については余り判らない。中隊の生還者もおらない様だ」とのことでした。そのうちに、戦死公報が来て二月九日戦死、後に公報訂正四月十八日戦死とのことで、亡父は兄弟姉妹を集め、函館でしめやかに形ばかりの葬儀を取り行ったことを覚えています。

 戦後四十二年経過し、両親も既に亡く、私も引揚後に元の会社に復職、会社の転勤辞令のまま、札幌、苫小牧(二度)、愛知県春日井(二度)と浮草稼業を続け、昭和三十七年東京に転勤、四十四年より横浜に居住、現在に至っている訳ですが、この様なことで、兄の戦ったルソン島の戦場、戦闘の実情など知りたいと思いつつも生活にまぎれ、具体的調査のすべもわからず、たまたま、小川哲朗氏著の「北部ルソン戦」を読んでプンカン守備隊の戦況などを知り得た程度でした。松永様の御手紙に同封された「比島バレテの思い出」、 その他の資料を拝見し、驚きとともに、賢二の遺族の所在を大分探しておられた様でその御芳志に対しては全く御礼の言第もありませんでした。

 私は早速、年が明けた昨年一月に島取に出向き、山本様、松永様にお逢いし、くわしく六十三聯隊の満州での駐屯から、動員下令による台湾軍への移駐、そして決戦場ルソン島への上陸とパレテ峠での一連の激闘死闘の様相、プンカン地区での三橋隊の状況等のお話を承り、今更乍らあの悪夢の様な戦争時代のことを思い出し、祖国日本の御楯となって散華していかれた幾多の英霊に思いを馳せた訳です。そして、三月のバレテ会の英霊巡拝に参加すべく準備していたのですが、アキノ政権のゴタゴタに気勢をそがれ、残念乍ら渡比をあきらめた次第です。
 そう云うことで、今年こそは何が何でも戦跡訪問を実現しようと心に決め、子供達の反対を押し切って今回の訪問団に参加し、プンカン陣地で二年越しの念願であった賢二の供養と第五中隊英霊の皆様の供養を果たしたことは、私にとって生涯忘れることの出来ない体験となりました。