昭和42年ーバレテ会報第1号を発刊
昭和41年7月。鳥取市にて鉄五四四七部隊(元歩兵六三聯隊)生還者で所在の判明している有志が集まり、戦没者の慰霊祭実施などを誓い合った。翌42年、バレテ会の結成に向けた「バレテ会準備委員会」が発足、並びに、「比島バレテの思い出」の刊行、バレテ会の活動報告「バレテ会報」報第1号を発刊。
バレテ会報発刊にあたって(ごあいさつ)
バレテ会準備委員会 世話人代表 島田安夫(初代会長)

明治改元百年にあたる今日の日本は、世界史における一つの奇蹟だと云われる迄に成長いたしました。 そして戦後二十二年の歳月は、あの悪夢のような悲惨な戦争の瓜痕を忘れさせようとしています。しかし、 私達鉄部隊生還者にとっては、 あのルソン島・バレテ峠周辺の陽の目もみないジャングルで生地獄のような悪戦苦斗をした、 あの山、 あの川で斃れていった戦友の姿等々、 忘れようとして生産忘れることができません。
九死に一生を得て生還した吾々は、 今なお、 人知れぬ山中で草むす屍となっている二千有余名の戦友たちを思い、また、 愛するわが夫を失なわれた御遺族の胸中を察するとき、何時の日か戦友の慰霊をしなければ相すまないとの思いを抱いてまいったものでございます。幸いにして、 昨年夏、 生還者有志の間で思い出の戦場にちなんだ「バレテ会」結成の話が進められ、 本年春頃には烏取市護国神社で慰霊祭を実施しようと固く誓い合ったのでございます。
以来、 準備会では、 山本照孝氏労作の「比島バレテの思い出」の出版や、戦没者遺家族、生還者の調査を続けておりますが、 生還者の方の消息も慚次判明いたし、又遺族の方、原隊出身の多数の方々から、カづよい激励をいただいている次第でございます。
バレテで共に戦った同志の皆さん、陽春には是非共全員が集って亡き戦友の慰霊を行なおうではありませんか。そして、死線をこえて斗った者のみが持っ当時の追憶に意義ある一日を過そうではありませんか。全員御参加を切に切にお願いいたします。
この度、パレテ会報発刊に当り、準備会世話人を代表いたし、御挨拶とさせていただきます。
「比島バレテの思い出」発刊
「比島バレテの思い出」は、 県政新聞でも「ー比島バレテで戦死したと聞かされただけで、 どんな戦いをし、 どんな具合に死んでいったか、 何も知らされていない六十三連隊将兵の遣家族は、 ニ十年目にわが子、 わが夫の最後の模様を読んで毎日泣きつづけたのであろう、 一片の遺骨の代りに、 この一冊の本は錦の布に包まれて仏壇に供えられたかもしれないー」と述べている。
「比島バレテの思い出」への感謝状(一部抜粋)
遺族 鳥取県八頭郡
「比島バレテの思い出」役場から送達をいただいて一気に、夜も手を離しかねる思いで第一回を通読いたしました。皆様の戦地での御苦闘は云はずもがな、該書御発刊までの御苦心と御努力さぞかしと感激に堪えません。私の二男は、台湾から一度軍事郵便が来たきりで最後まで一回も使りがなく、新聞で比島軍参加を想像していたのでしたが、戦死も、 一切不明・・・。
新聞記事などを読んで、 あるいはと想像しているだけでありまして、遺骨も白木の箱に小さな木碑か一つだけでした。今回の書籍を拝見するに至り、比島に於ける戦況をつぶさに承り、 一切がわからぬのもげに然るべきことゝしみじみ了解たしました。筆舌に絶する皆様の御苦闘、 ただただ悲涙にむせぶのみであります。
遺族 鳥取県米子市
終戦後二十数年間の間、戦死した事のみを知らされ、 どのようにして戦死したのか全然わからず想像をめぐらすだけでございましたが、 こゝに皆様方の御厚志の結晶で出来上った本をみまして想像にまさる苦労と悲惨な戦斗であった事を知り涙をおさえる事が出来ませんでした。今更らながら戦争のむごさを思い、 私達の子孫に再び戦争においやる事のない様、 この平和が永遠に続く事を祈りました。更に、生まれた時代の悪かった兄達の冥福を祈りながら、読ませて頂きました。
遺族 富士吉田市
「比島バレテの思い出」早速御送り被下有難く涙を以て一息に読了、六十三連隊の奮戦の状況眼に見える様、殊に小生は、職業軍人故記述の了解も早く、更に本年三月バレテの現地を慰霊、一層共感を深くいたしました。ニ十三年後の今日勿論陣地の痕跡は尋ねるすべもなくダルトン将車の碑のところで東方妙高山の方向を拝し亡息を慰霊するに過ぎませんでした。
・・・亡息は四月二十三日戦死いたしましたので、 せめてカガヤン溪谷死の行進をせぬのがせめてもの慰めです。・・・明年現地における慰霊祭には是非老驅を押して参加いたしたいと思っております。
昭和43年・44年ー2号・3号
昭和43年に第1回慰霊祭(鳥取市上町の旧護国神社)。遠く県外を含めたご遺族400名、生還者110名参列。県庁講堂でバレテ戦の戦闘概要報告を行った。
昭和44年、フィリピンの戦没者慰霊碑建立の準備委員会を結成。「現在の私達が慰霊碑建立を実現しなければ、戦友の死は過去の忘れられた存在となる。当時の足跡を碑文として残せば、歴史の中に永久にこれを留めることができる。」(島田会長)



祭詞
本日、ここにみくだりませる歩兵第六十三聯隊、連隊長故陸軍中将林葭一殿ほか、二千五百七十六柱の諸祭神に謹んで祭詞を奏上いたします。
あの妻絶な戦争のかぎりない数々の思い出から、はや二十有余年を経過いたしました。この幾年月の間、あわただしい社会生活の中に、或いはまた、 雨が降り、或いは風が吹くにつけ、遠く幾千粁、故国を離れたフィリピンの地に仆れ、淋しい山野の果てを彷徨しておられる英霊各位に思いを馳せるとき、私たちは、深い深い悲しみにとざされてまいりました。
二十有余年、英霊各位の慰霊祭をとり行ないたいということは、私たち生還者の念頭より去らない大きな念願でありましたが、本日ここに祭壇を設け、ご遺族ともども皆様のみ霊を迎えることができましたことは、まことに万感胸に迫るものがございます。ここに参列している私たち一同はもとより特にご遺族には、親愛なる父の、 子の、夫の兄弟の、 み霊をここにお迎えし、切々たる追慕と愛惜の念で一杯であろうかと存じます。
しずかに住時を回顧いたしますと、英霊各位は勇戦奮斗、陽の目もみえない密林のバレテ峠サラクサク峠の決戦場で、熾烈な砲爆撃下、硝煙と血でうづまった陣地に、祖国の栄光を確信しながら散華され、或いは、また悲しいかな糧秣の欠乏と悪疫のため、無念の涙を呑んで仆れられたのであります。あの山、あの谷で、斃れていった皆様の姿が、今もまざまざと目に浮かびます。そこには、いささかの私情も許されず、世代に謳歌されるべき青春もありませんでした。ただただ祖国の難に殉ずる尊いお気持のみでありました。
今こうして皆様に相対し静かに瞑想しますと万感去来、二千有余の英霊の声なき声を心の底に聴くことができます。去りましし皆様、故国日本は敗戦という試練によって世相は著しく変わりましたが、今や、戦前を凌ぐ繁栄と平和な歩みを続けております。これひとえに英霊各位の尊い犠牲の賜であります。
日本民族の発展と栄光が悠久無辺、今後もさらにさらに新しい歴史を綴っていくであろうことを信じますが、その礎石が皆様でありました。残された私達は、この尊い功績が、次もまた、その次の世代にも「よく聞き伝えられ、永遠に不減であれと」念願してやみません。
さらにまた、この尊い犠牲を心として日常を律し、全力を尽して働らきつづけることをお誓い申し上げます。それがフィリビンの異国の土と化せられた英霊各位にお応えできる私たちの最大の責務と思っております。青春の情熱の最後の一滴まで祖国に捧げつくされたみ霊よ、願わくば安らかに神鎮まりまして、故国の平和と郷土の発展のためご加護を賜わり、あわせてご遺族のご多幸をお守り下さい。謹んで神去りましし英霊各位のご冥福を心からお祈り申し上げます。
昭和四十三年九月八日 ハレテ会 会長 島田 安夫
お礼の手紙(一部抜粋)
遺族 岐阜県
私は母として今度の御もよおしは死ぬまで忘れることはなく、幾度も思い出し、涙の出る思いで喜んで皆様方の御心の有難さを厚く厚く御受けしております。
私は毎日あの子はどこでどうして戦死したのかと思わぬ日はありませんでしたが、今は御親切なる御はからいで、これで思い残すことはありません。あの子は米田隊でした。私方では天にも地にもたった一人しかない子供でした。今は老夫婦二人きりで淋しい思いでおりますからひとしほこんどの御もよおし、なんと言って御礼申上げてよいかわかりません。
遺族
会長様はじめ戦友の皆様に慰霊祭をしていただき、 また私達にも心からの温かいおもてなし、そして御苦労なさいました激戦地でのお話等聞かせて下さいましたその感激、嬉しさは私一生忘れることはありません。
あのご本は、我が家の宝にしましようと長男とも話し合いました。県庁での報告会の時には故人から久し振りに思い出話しを聴いています様な思いをいたしました。
(中略)今年の様に心爽やかな喜ばしい年がありましたでしょうか。北満での四ヶ月程の生活に永久の別れをし、 子供一人をたよりに二十五年、 ふっと我に返った気持の鳥取護国神社での再会でした。
昭和46年ー4号
昭和45年8月16日、鳥取市で慰霊碑建立準備委員会を開催。建立場所を、護国神社移転予定地である鳥取砂丘に決定、また、推進組織、碑石、募金、収支計画、スケジュールなどを概ね決定。
昭和49年ー7号
鳥取市浜坂に鳥取県護国神社移転。昭和49年6月23日に比島戦没者慰霊碑建立(2,577柱)における除幕式を遺族並びに生還者450名参列で挙行。平林知事献花。分骨及び鉄帽、水筒などの遺品を慰霊碑台座下の収骨室に納める。バレテ峠の戦いの遺品を護国神社に奉納。第2回慰霊祭(以降、鳥取市浜坂砂丘の護国神社にて)。厚生省遺骨収集団参加の報告会実施。



比島戦没者慰霊碑序幕の式辞
昭和四十九年六月二十三日 バレテ会会長 爲 田 安 夫
本日は比島戦没者慰霊碑の除幕式を挙行するに当り、鳥取県知事殿を始め多数の御来賓並びにご遺族様のご参列をいただきまして心から御礼申し上げます。
さて、私達元歩兵第六十三聯隊通称鉄第五四四七部隊の生存者を中心にしてつくりましたバレテ会ではかっての太平洋戦争に於てルソン島のバレテ峠、サラクサク峠の激戦地で死闘を続け、尊い犠牲となられました同聯隊戦没将兵の遺徳を偲び、不滅の功績を後世に永く顕彰いたしたいと考えまして、昭和四十四年から慰霊碑建立凖備委員会を設けて事業を推進しておりましたところ、関係各位の温い御援助、御協力によりまして、国立公園鳥取砂丘の一隅の風光明媚な地に今回建立をみるに至り、本日除幕の式を挙行いたすことになりました。
肉親を国に捧げられたご遺族のお喜びも、さこそと拝されました。戦友をルソンの地に失った私達生還者にとりましてもこれに勝る喜びはございません。
今さら私が申し上げるまでもないことと思いますがバレテ峠、サラクサク峠の決戦は、文字どおり悲惨な死闘の繰り返しでございました。それで、その生証人たる生還者が慰霊碑を建てて、後世に残さなければ戦友の死は過去の忘れられた存在になりはしないか、昭和二十年に鉄部隊の将兵が比島で悪戦苦闘の戦をしたのだと足跡戦記を碑文に刻んで残せば一命を祖国に捧げ尊い礎となられた、戦没者の愛国の至情はたとえ時は移り、世代は変わっても後世に永く語り伝え歴史に留めることが出来るではないか、そうすれば 遺族様も心の安らぎを得られることが出来るのではないか、また在天の英霊にも安んじて冥せられることが出来るではないかと思った次第でございます。
本日の除幕式に当り、皆様の御協力、御努力に対し、深く謝意を表しますとともに、この碑が末長く保存され、立派に管理されますよう各位の格別の御協力をお願いいたしまして式辞といたします。
慰霊碑碑文
昭和十九年十二月比島戦線急を告ぐるや歩兵第六十三連隊通称鉄五四四七部隊は
山下大将の隷下に入りルソン島に向かふ。
海域は既に米軍の制圧下に在り、第三大隊将士の過半は上陸寸前乗船と運命を共に
せらる。聨隊は之を痛哭しつゝも上陸を完了してバレテ地区に據る。
昭和廿年一月より装備を誇る米軍ニ箇師を迎撃して譲らざること五箇月、敵をして
血のバレテ峠と歎ぜしむ。
然れどもその間聨隊は大半の将士を喪ひ食糧また盡きて轉進の止むなきに至る。
乃ち惨たる飢餓の行進を辿りて漸くウルトウガンに達せしが、九月十日終戦の大詔を
傅達せらる。噫北満より征途に就きしは林聨隊長以下二千三百二十名なりしに、残存するは僅かに
百五十名なり。
茲に歩兵第63聨隊比島戦歿者慰霊碑を建立し護國の忠魂を無窮に傅へんとす。
昭和四十九年三月 バレテ会
昭和51年ー8号
第4回バレテ会慰霊祭
4月4日、第4回慰霊祭(110名)を執行。ご参列のご遺族の中には孫に手を引かれたご両親もあり、ゆくゆくは夫人や子息、兄弟達のご遺族に替わっていく時代もくるのではないかと感ぜられる。
慰霊祭後、遺骨収集報告会(昭和51年1月17日からの1ケ月間、政府遺骨収集派遣団に2名参加)及び第9回総会を実施。総会にて、遺族からバレテ会による比島慰霊巡拝の希望あり。翌年の実現に向けた準備が始まる。
続刊にあたって
バレテ会会長 島田安夫
中断していた会報が続刊の運びとなりましたことは、われわれ相互の同志的結合を一層深めるためにも、誠に意義大きいものがあると存じます。
戦後も三十有余年、変転する世界情勢の中で経済大国としての不動の地位を築き、文化国家・福祉国家として、世界平和のために多大の貢献を続けております。しかし、 この繁栄の陰には、かって惨禍を極めた幾多の戦場で、祖国日本の将来を念じつつ散華された、戦友たらの尊い犠牲があることを忘れてはなりません。
荒廃と虚脱、ただ食うことのみを求めたあの敗戦。以来今日までの永い年月、お互いの人生にどのような苦労があったとしても、われわれは生きている喜びを感謝しなければなりません。
幾日も幾度も続く激戦の合間に、遙かに遠き故郷の山野に思いをはせながら、不幸にも還らざる御霊となられた戦友の追億に胸傷むとともに、それはまた、私どものこれからの春秋にも、折りにふれて脳裏を去来することでありましょう。子を、親を、夫を失われた御遺族の心情如何ばかりか案ずるに余りあります。幸運にも生還できました私どもは、さきに砂丘の一隅に、亡き戦友のありし日の面影を偲びつつ、その遺勲を歴史に刻み、永久に御霊を祭例するために碑を建立しました。かえりみて、ああよかったと、心からの安堵あるのみ。御同慶に堪えません。
想えば昭和十九年の暮、われわれ鉄部隊は、北満を後に比島進駐の命を受け、永い輸送の日々を経て比島に渡った。灼熱のルソンで凄惨極まりない死闘を繰り返し、幾多の戦友が傷つき倒れ、比島の土と化しました。されども「過ぎしこと日々にうとし」とか。今の日本に戦争の傷跡は忘却されつつある。盡忠の言葉は文字も遠い記億の彼岸にある。
一億の民族の繁栄の礎石となった、わが友である英霊を合葬した靖国神社に、天皇陛下はもらろん国家が春秋の例祭を催すことすらできない。その行事が戦争につながるとして、必死に反対するものがある。われわれはこの暴威を断じて赦してはならない。遙かなる異国の果て、夏草の茂りの下で慟哭を聞く・・・。
私は、反対されても反対されても、政治生活を続ける限り叫び続けたい。 「英霊に報いてなぜ悪い。国家、民族の義務である」と。今御遺族の御健勝と御多幸を祈って止みません。
わがバレテ会も、年月と共に先細りやがて消滅しますが、お互いに人生意気に感じ頑張ろうではありませんか。御多幸を心からお祈りして御挨拶といたします。
昭和52年ー9・10号
第5回バレテ会慰霊祭
4月3日、快晴に恵まれたるも砂丘より吹き上げる日本海の風は肌寒い中、ご遺族、生還者約100名の方々が参列。島田会長、林連隊長夫人の供花の後、島田会長祭主にて、祭文奏上、各都市遺族代表、戦友三十二名の玉串奉奠など、連隊戦没将兵の二千五百余柱のご英霊の冥福を祈り厳粛に執行した。
式典後、事務局及び団員よりフィリピンルソン島慰霊巡拝の報告があり、戦後32年間、比島の地に終焉された肉親の冥福を一日も忘れることなく祈り続けてこられたご遺族が、戦後、初めて現地に供養の一灯をともしたお話に、目頭をおさえて聴き入られるご遺族に、感慨深いものがあった。せめて我が子の、夫の、兄弟の終焉の地をこの足で踏みしめ、この眼で確かめ、そして線香の一本でもあげて供養したい。また、生還者にとっても戦友散華の地へ慰霊巡拝したい気持が、昭和51年の総会におけるバレテ会としての比島慰霊巡拝の実施決議に結びついた。
第1回比島慰霊巡拝記(3月)
(3月10日=初日)東京ーマニラ (2日目)サンホセ方面へ。ウミンガン慰霊祭、プンカン慰霊祭(3日目)バレテ周辺。妙義山、金剛山、榛名山、バレテ峠の各地で慰霊祭 (4日目)ビノン、地獄台で慰霊祭 (5日目)バキオへ(6日目)北サンフェルナンド慰霊祭 (7日目)マニラ周辺。モンテンルパ・ロスパ二オス、カリラヤ慰霊園巡拝 (8日目)マニラー東京(3月17日)


比島戦跡訪問慰霊迎拝の感想(一部抜粋)
遺族
弟は、五中隊の分隊長として連隊の編成に加わり、比島のプンカンで戦死いたしました。弟と満州で別れる時に、今度会う時は靖国神社で逢うぞ、元気でやろうと、互いに手を握り合って別れて以来、三十四年振りに比島プンカンで無言の再会をいたしました。当時の様子を聞いて、感慨無量、御苦労さん、よくやった、安らかに眠りなさいと冥福を祈ってやりました。
二台のジープシーに分乗して、参加された遺族の肉親が戦死された場所が、どんなに遠くても、丘を越え、鬱蒼たるジャングルをくぐり、戦死された場所に一歩でも近づいて、一同ねんごろに慰霊をいたしました。
今は平和にして静かな赤道直下、南十字星のもとで、六十三聯隊戦没者供養塔婆と各人が持参した塔婆を立て、お供物をし、線香の香りたなびき、テープの読経の声が高々とバレテの山々にこだまし、一同合掌冥福をお祈りしました。さぞかし、地下の英霊も満足されたことと思います。米軍をして『血のバレテ峠』と歎ぜしめたバレテ峠の戦没者追悼碑の前で、山本さんから当時の戦況を聞いて、精鋭を誇った六三聯隊将兵2,300名が僅か150名になるまで5ヶ月間、力戦奮闘、凄惨極まりない死斗を繰り返し、皇国の安泰と祖国の繁栄を念じて散華されたことを想うとき、万感胸迫り、しのび泣きながら、英霊よ安らかに眠って下さいと一同、合掌冥福をお祈りしました。
第2回比島慰霊巡拝記(8月)
マニラ、サンホセ、バレテ峠、バヨンボン、バンバン、ヤンギラン、カピタラン、サンタフェ、パキオ、サンフェルナンド、マニラ等。
比島巡礼行(一部抜粋)
遺族
”バレテ想えりその歳月のかなしき”弟は、二十四歳の若きをもって鉄五四四七部隊に属してルソンの山河に散った。昭和20年4月24日という。私達兄妹三人はその三十三回忌に遠くそのバレテ峠にきた。
胸は痛く、涙はとめどなく歯をくいしばって泣いた。鉄四七部隊はもとの歩兵六十三聯隊である。郷土鳥取・島根の若者たちの部隊である。(中略)バレテ陣地群、妙高、妙義、金剛の嶺、キリ、カシ、ヤナギ、その洞窟にタコ壺に、若きらはじっとしがみついた。バレテに米軍を拘束することで米軍の内地進行を阻もう、生命の限りを燃焼しつくして、バレテの峰に縛ることが比島軍の使命と、ただそれだけを自ら言い聞かせ、激闘四か月、彼らはただ魂魄を武器としてここに戦った。将兵二千三百、還るもの僅か百余。
戦争とは何か、私は比島の地を踏みバレテに立ってその真実にふれたかった。二十台の若者たちをたこ壺に歯をくいしばらせたその「真勇」とは何か、比島に比べて日本は、その今は、そして己は何をなすべきか、たとえ人々の心から戦争が忘れ去られ、民族が過去を捨て去ろうとも、私はひたすらバレテを憶うであろう。昭和五十二年八月、霊魂の秋、比島慰霊巡礼行は私の六十六年の生涯でもっとも感銘した行であった。
昭和53年ー11号
第6回バレテ会慰霊祭
島田会長が祭主となり、連隊戦没者二千五百有余柱のご英霊の冥福を祈り、厳粛に執行。祭文奏上、各都市遺族代表、比島巡拝団員、戦友三十数名の玉串奉奠など。総会では、比島慰霊巡拝の現地供養の模様などを説明、一人でも多くのご遺族が比島巡拝をと訴えた。


第3回比島慰霊巡拝記
4月15日~18日
マニラ、ウミンガン、プンカン、サンホセ、デグデグ、バレテ峠、ヤナギ陣地、カシ陣地、妙義山、サンタフェ、アリタオ、ピナパガン、サラクサク峠、比島寺、モンテンルパなど。


亡夫戦死の丘に立ちて(一部抜粋)
遺族 (姫路市)
マニラから一日かかってやっと夢にまで見た主人戦死の現地にたどり着いた。はからずも今日は祥月命日の前日、奇しくき日に訪れることの幸をしみじみと思う。四月というのに、灼けつくような陽の光は、春うららかな日本では想像も及ばぬ強烈さである。八十キロの時速で走り続け、やっと着いたヤナギ陣地。景色は、かつて見た天才画家ゴッホの南国の景色のような明るさの、あの平和そのものの景色である。
この地、この場所で、三十三年前、あの激しい戦が繰り返されたとは到底想像もつかない。陣地の場所、その現状などを教えられる。キリ陣地、建武台陣地への見通しがきく場所へ塔婆を立て、真っ赤な生け花を供え、内地から持ってきた八重桜の塩漬けを取り出して、水筒の水で茶を立てた。じっと悲しみをこらえ乍ら茶筅を振っていると両の頬を涙が自然につたう。万感よみがえってきて、嗚咽に変わる。突然大声で叫びたい想いで胸が一杯となる。じりじりと灼けつく陽ざしに、今は去り難き気持で丘を降りる。一歩一歩、ありし日に幾度か通ったであろうこの土地か、手折ったであろう草木かと思う。幾度か振り返り乍ら、再び訪ねることもなきこの地を、一足一足降りる。懐かしい母国を忍び乍ら、祖国の繁栄を念じつつ散った幾多の人々の冥福を祈りつつ。
長い歳月胸中に思いつづけてきた私は、心の安らぎと、安堵をひしひしと身に感じつつ、永久に心やすらかに眠り給え、我が夫よ、幾多の人々の御霊よと、心に叫び乍らー。
亡き人の血潮にも似た紅の ブーゲンビリアの赤き花びら
再度妙義山に登って(一部抜粋)
遺族 鳥取県倉吉市
妙義山は一本の木もない草山で登リ易い山ですが、登り口から急な斜面もあり、草につかまったり、転んだり。運動不足でつらい坂道ですが、頂上に登れば誰かが待っていてくれる、そんな気持で一生懸命でした。当時、百雷一時に落ちるがごとき砲弾は、地をゆるがせ、山容改まったというこの激戦地を、今こうして私は登っている。野島もこの道を登ったであろうか、ここで戦死なさった方にあったであろうか。頂上へは1時間、今では田植えもしてあり、草も植えてあるのどかな頂上でした。慰霊祭では、野島の供養塔を立て、生前好物であった日本のお酒、煙草、お菓子、また娘の心づくしの満開の桜の小枝を供え、冥福を祈りました。話ができるものなら、話したいことが一杯あるにの・・・。
延々と連なる山々、どの山も陣地であったと聞いています。目の前には雄建台がが横たわり、下の五号道路を越えて、カシ・ヤナギ陣地もよく見えます。33年ぶりという山本さんは、戦友の名を呼んで。慰霊に来たよ。淋しかったであろう、と大声で、一の谷へ、雄建台へ届けとばかり、そのお声もかすみ、泣いておられました。永い間生死を共にされた戦友のお顔が次々と浮かんできたことでしょう。どうしても来てくれと戦友が私を呼び寄せたのです、と何度も言っておられました。
遺族の方の一人でも多く、この戦跡を巡拝されることが、何よりの供養になると、この妙義山の頂上に立って思いました。
昭和54年ー12号
第7回バレテ会慰霊祭
4月8日、春風の中、遠くは東京、大阪、広島などの参列者120名で4執行。明年より今後の慰霊祭は四月第二日曜日と決める。


二つの慰霊祭(一部抜粋)

生還者
四月八日の鳥取のバレテ会慰霊祭から一か月経った五月五日、東京九段の靖国神社で「草むす屍会」の慰霊祭が行われ、これに参加してまいりました。同会は、比島戦没将兵のご遺族と生還者によってつくられている全国組織で、バレテ会も賛助会員になっております。(中略)
鳥取護国神社と同様の慰霊祭を行った後に懇親会が行われます。遺骨収集の状況、軍人遺族年金改定の状況などの報告後、渡辺はま子女子が「モンテンルパの夜は更けて」から、懐かしい「蘇州夜曲」、「支那の夜」まで十曲近くを歌ってくれました。続いて、参加者の納演会で詩吟、ピアノ、軍歌など、最後は全員で軍歌「戦友」を合唱します。本年の参加者は約三百五十名、現在の会員約千名の三分の一程度の参加割合になります。
私が慰霊祭に参列して痛感いたしますことは、鳥取砂丘にしても、東京九段にしても、戦後三十年の長年月を経て参列者が全然減らないということです。草むす屍会の場合は逆に増加しているということです。感じますことは、夫妻親子兄弟親戚の絆というものが、如何に強いものであるかということであります。生還者が亡き戦友を想う情も勿論強いものでありますが、それにしても血縁の情が如何に深く、如何に濃いものであるか、深く心に銘ずべきもののあることを感じております。遺族の方々も、また生還者たちも、次第に年をとって老境に入りつつあります。鳥取砂丘の慰霊祭においても、今年は高齢のため残念ながら参列できないというご返事が多かったと拝聞して、しみじみと年月の経過というものを考えさせられたことです。遺族の方々、特に戦没将兵の父上、母上の方々、ご高齢の日々を、どうか充分にご自愛の上、うんと長生きして下さい。
カガヤン河谷に眠る戦友の収骨慰霊について想う(一部抜粋)
生還者
比島に於ける遺骨収集は、去る昭和四十八年と昭和五十一年の政府派遣団により実施され、一応終了ということで収骨委員会も解散されておりますが、我々の関係としてはまだカガヤン川流域が残っているのであります。(中略)行き倒れの様な姿で横たわっておられる御遺骨の姿を想えば、私は居ても立ってもおられる思いで一杯になるのであります。
また、御遺族の胸中は無念の想いというか、はらわたが煮えたぎる想いで一杯だと思います。私は今世に残る一員としてカガヤンに眠る戦友の収骨慰霊を是非とも実施したいと思います。還暦を過ぎて早二年、戦没者の二倍以上も長生きさせて頂いて、もう此の世に思い残すことは何もありません。カガヤンの地が、如何に危険な場所であろうとも、「死んだつもりでなければ何もできない」のであります。
昭和55年ー13号
第8回バレテ会慰霊祭
4月13日、比島戦線で共に戦いし撃兵団関係外多数の御来賓参列のもとに、県内は勿論、一都二府10県に亘り、ご遺族、生還者百四十数名の方々が参列下さった。特に今回、二月の巡礼団がバレテ峠(連隊本部が位置した谷)にて発掘されたご遺骨三体をお迎えし、祭壇正面に安置されたことにより一層祭典を厳粛にした。祭典後、ご遺骨は厚生省奉安室に保管され、分骨を比島戦没者慰霊碑の納骨。


バレテ会慰霊祭に参列して(一部抜粋)
生還者 (戦車第二師団)
私共戦車第二師団のものは皆さまがいらっしゃった第十師団の方々に対しては兄弟師団として実に親しみの深い感情を持っています。東満州駐屯でも両者は近く、共に北部ルソンに転進し、隣接するバレテ、サラクサクの両峠において日米決戦の天王山ととして共に三か月の激戦を戦い、実に多くの戦没者を出しました。本日、このバレテ会の慰霊祭にご案内いただき、参列して直接ご英霊のご冥福をお祈りすることができまして深く感謝申し上げます。(中略)
戦車第二師団は米軍のリンガエン湾上陸とともにに第一線の戦闘に参加し、二月上旬まで激戦を続けて参りました。満州より転進二百四十三両の戦車は約三週間の激戦で僅か十二両になり、この間、約二,000名の将兵の戦死を見るにいたりました。この作戦は、バレテ峠を越えてカガヤン河谷へ窮迫する在留邦人や諸部隊の移動、バレテ峠を死守する鉄兵団の陣地構築のために日数を稼がねばならず、戦車第二師団の玉砕も止むを得ないと思考されたのです。
このサラクサク峠の攻防戦において、私共の戦車第三師団には鉄兵団、特に歩兵第六十三聯隊から歩兵四ケ中隊、それに捜索第十聯隊(鈴木支隊)及び石井砲兵大隊(十五榴一中隊その他)が配属されまして、あの三ケ月間におよぶ靭施な攻防戦において共に大いに闘っていただきました。私としても切っても切れない縁の深い兄弟師団としてあの激戦を思い出しております。
第4回比島慰霊巡拝記
マニラ、サンホセ、プンカン、バレテ周辺、サンタフェ、デグデグ、ピナパガン、カガヤン、北フェルナンドなど。





比島慰霊巡拝(一部抜粋)
追悼の弔辞を捧ぐ。
我が歩兵六十三連隊及び配属ならびに協力の諸部隊の皆様、今回一行十六名、御慰霊に参上いたしました。顧みれば三十数年前、バレテの防御線、プンカン、デクデク、ミヌリ、ウミンガン、カバリシヤン及びサラクサク等での戦闘やピナパガン平野への機動転進におきまして、本土への進攻を長引かす尚武集団の持久拘束任務の下、物量の隔絶と敵師団の猛攻に対し、夫々の部署と任務で使命と責任を遂行されつつ、戦没された御英霊に心から哀悼の誠を捧げます。
私共生還者は御苦衷の御肉親を伴いつつ、漸くにして志かなって此のふるさとに参り、戦蹟を踏みしめつつ、あの山、この山、又幾山河のかなたで、故人となられた林連隊長をはじめ、皆様方を偲び、感慨ひとしおであります。鉄兵団によるバレテ戦線は、サラクサク戦線と共に、バギオ戦域とならぶ尚武の北部ルソンの決戦の場であり、我がバレテは、持久戦略的に決定的な意義を持っておりました。それは、バレテ失陥に伴って、五号道路沿いは、六月中旬迄にバカバックやオリオン峠迄、六月下旬迄に北端のアパリ迄制圧され、予定されていた尚武の複廓線は厳しい苦戦を強いられているのです。その経過を知るとき、我が連隊将兵が、物量の大差や糧食の欠乏にもかかわらず、よくぞ長期持久した戦略的意義は大きく、尚武や師団の期待の副いえたものであると信じます。
私は、公刊戦史を通覧して対局を知り、あらためて我が連隊の敢闘、従って皆様の御遺蹟を顕彰し、且御遺族にそれを御報告したいのであります。
あなた方が祖国の勝利を信じ、御家族を案じつ、責務の下悠久の大義に生きんとされた尊い犠牲の上に、日本は敗戦をはね返して経済大国となり、国際平和を念じて戦争の放棄が合意され、不本意ながらも戦場としたフィリピンとの関係に親善が進んでおります。今回の巡拝団は、此の戦場や機動転進での故友を偲びご冥福を祈願したい生還者八名と、まのあたりに、瞼のあなた方の御遺蹟を確かめ、御苦労をねぎらい、心から御供養をされたい肉親の方八名でありますが、それは全生還者と、全御遺族の方々の共通の念願なのであります。
私は永遠の生命を信じます。皆様は骨はルソンの地に埋むとも、精霊はルソンに、或る時は郷土にあって、祖国の繁栄と、御遺族の御安泰を照覧して戴いていると信じています。謹んでご冥福を祈り、追悼の弔辞といたします。
昭和五十五年二月十五日 比島バレテ慰霊巡拝団長
元歩兵第六十三連隊第七中隊長米田大尉の遺品の松江護国神社奉納式


昭和56年-14号
第9回バレテ会慰霊祭
4月12日、県内外のご遺族、生還者130名の参列者で挙行された。



慰霊祭を終えて(一部抜粋)
会長
森羅万象ことごとく生の歓びに燃える新春のよき日に、今年も盛大に慰霊祭を行うことが出来ました。「友よ、安らかに眠り給え」と往時を追想して感涙のひと時を過ぎしました。お互いに過ぎ去った三十有余年、思えば、あたら末長い青春を、草むす異郷の原野にさらしている友や、深海の闇にさすらう幾多の御霊の心情を察すれば、人の世の運命とは言え、余りにもその差が大きく、唯々生と死という生命の尊厳に毎年のことながら強く深く心震えるばかりであります。
今回、あの激闘の地バレテ峠に、新しく慰霊碑建立の声を聞き、私は実現したい願いで一杯です。戦友の霊を祭るとともに、私達の一生の明暗を決したバレテ峠に、永久に悲惨なりし戦いの歴史の一頁を記録することは、生存者のつとめであり、大きな意義あることと思います。物質万能の社会は、道義の荒廃を招き、私達もややもするとそうした環境に同化されています。会員の皆さんにお願い申し上げます。平和への願いをこめ、古きよき心の復興を求めて、相協力して慰霊碑を建立しようではありませんか。皆さんのご多幸をお祈りし、お願いの挨拶をいたします。
バレテ峠慰霊碑改築によせて(一部抜粋)
生還者 鳥取県大栄町

時移り、時代が変わり、戦争体験者がいなくなっても、比島に「バレテ峠」がある限り、かつてはこの峠を中心に彼我共に参列な死斗が展開され、あたら幾多の将兵が護国の楯となって散華した歴史は永久に消えないであろうと思います。その意味で、「バレテ峠」の慰霊碑は単なる供養塔としてばかりではなく、日本人の愛国心のシンボルとして長く後世にその武勲を顕彰されなければなりません。ひいてはそのことが、日比親善につながり、万民共通の願いである世界平和の礎石となるその意義は極めて大であると思います。そのためには規模は小さくとも永久保存される碑であり聖地であることを望みます。
他にも各所に激戦、死斗、玉砕等々の場所は数多くありますが、ルソン島5号道路の要衝である「バレテ峠」は最適の場所であると思います。だからこそ、現在建立されている碑の位置は、申分のない場所であり、此の碑を此処に建てられた先輩諸兄の偉業に深甚の敬意と感謝を表したいと思います。ところが昨年の台風で慰霊地そのものが崩れかかっています。早い中に何とかしなければならない最重要課題であると思います。
バレテ峠慰霊碑の建設について(抜粋)
生還者 (千葉県)

九死に一生を得て生還した戦友の方々が、今なおルソンの人知れぬ山中で草むす屍となった二千有余の戦友を思い、また、愛する子、愛する夫を失われたご遺族の胸中を察し、戦友の慰霊と遺勲の顕彰を念じつつ、バレテ会を結成し、鳥取砂丘を眼下に見る景勝の地、県護国神社の一隅に、あの慰霊碑を建設したのが十数年前でした。慰霊碑に詣でるたびに心が洗われ、嘗て青春の情熱を捧げつくしたルソンの山々を思い、あらためて今は亡き戦友と言葉のない語らいをする想いであり、鳥取の慰霊碑が私どもと亡き戦友、そしてご遺族とを結ぶ心の絆であると考えております。
そして、戦後三十余年、ご遺族の方々も高齢を迎え、一年ごとにその行動も思うようにならない年となっているように思います。生存される戦友の方々もその想いは同じではないかと思います。現地慰霊の戦跡巡りも、ここ数年のことでしょう。そして、自然と鳥取の慰霊中心の行事に移行せざるを得なくなるものと考えられます。折角バレテ峠に慰霊碑を建設しても、将来訪れる人とて無く、苔むす無縁仏のようになってしまうことを憂うるものです。
然しながら、バレテ会として戦友の慰霊は、生存者のいる限り続くことですし、ここしばらくは戦跡慰霊のため渡比される方々のために、現在ある峠の碑を関係方面とご相談の上、可能な整備を早急に進めることが先決ではないかと思います。
慰霊碑について思う(一部抜粋)
生還者 (東京都)

「慰霊碑」や「慰霊祭」を含め、フィリピン関係戦没者の慰霊について、現時点で考えねばならない一番大事なことは何だろうか。このことについて、私がどの角度から考えていっても、結局ぶつかってしまう窮極の結論は「日比永久親善」の「実」を挙げることであろう。戦没将兵の眠っておらっれるフィリピンの現地に墓を建てるもよし、戦跡巡礼をすることも大いに結構、と私は思う。しかし、建てたその墓を守り、また安心して巡拝旅行のできる基盤はなんだろうか。それは今、現地に住んでいるフィリピンの人たちが、私達日本人の心を理解し、親しんでくれて、喜んで私達の心に協力してくれるこpとなのである。(中略)戦後今までに現地に沢山の慰霊碑が建ったと聞いているが、その一つ一つが止むに止まれぬ日本人の精神的な行動であったことはともかくとして、「日本人は墓ばかり建てたがって、俺たちの暮らしにプラスになることを何もしてくれない」と現地人が言ったということを、再度耳にしたことがある。
慰霊碑の建立が、日比双方にとって意味がないと、私は必ずしも思わない。慰霊巡拝の人々にとっても、いい「よすが」になるし、旅行団が増えれば現地も潤うことにもなる。そして、何より、かつて相闘った人々が、今平和に立ち戻って、将来の平和を誓う一つの「よすが」でもある。要は現地の人々の心情を無視した碑の建立は、日比双方にマイナスだ、ということである。まして、建ちっぱなしということは、短慮というほかない。碑の建立に伴う維持管理が如何に大変な仕事であるかということ一例は、日本政府が建てたマニラ東方のカリラヤ慰霊碑の、その後の事情をみてもよくわかることである。(中略)いずれにしても、今の時点で、私達がフィリピン戦没者慰霊のために考えるあらゆる行事のうち、現地に関係あることは、すべて日比親善の将来に関わりを持ち、その上にのみ存在しうるのだということを忘れずにいたいと思うのである。
比島慰霊巡拝関係者の集い
2月24日、皆生温泉にて関係者が18名参集し、過去4回に亘った比島慰霊巡拝の今後のこと、バレテ峠慰霊碑建立につてなどが話し合われた。
昭和57年ー15号
第10回バレテ会慰霊祭・総会
4月10日、会津若松より来鳥された根本さんをはじめ、千葉県など12都府県より20数名の戦友、ご遺族が一年ぶり、または30数年ぶりに再会し、話しに花が咲き、慰霊巡拝記録映写鑑賞などもあって思い出深い時を過ごした。天候に恵まれた翌11日に慰霊祭。ご遺族代表、生還者代表などで玉串奉奠。我々生き残りし者のつとめとして、最後の一人まで慰霊祭を続けていきたいと会長の挨拶で締めくくった。先の役員会でバレテ峠追悼碑改修計画案をとりきめ、式典終了後の総会にて計画案が示された。また、これを実現するための募金のお願いがなされた。






第5回比島慰霊巡拝記
2月18日~25日。参加者12名、マニラ、プンカン、バレテ、バヨンボン、サンタフェ、サラクサク峠、サンフェルナンド、ウミンガンなど。


バレテ・サラクサク峠忘れじ(一部抜粋)
遺族(鳥取県境港市)

バレテ戦からもう三十七年、両親も兄弟姉妹も老い、戦争は風化している。追憶はうすれ記録も古びて朽ちつつある。戦記戦史もあるにはあれど、将の名はあっても兵の名は少ない。それが歴史というものもしれない。妻なく子なく紅顔可憐に世を去った歩兵六十三連隊の若きらは、故郷の丘に立つ墓標に名をのこすのが追悼のよすがか、私の弟佐々木敬も二十年四月二十四日バレテ峠ヤナギ陣地で戦没した。まだ二十四才であった。
母は九人兄妹を育てたが、ひとり若くして世を去った弟をいとしんで、遺言は弟の慰霊のことそれだけだった。生前母を比島へ旅させ得なかった私は、戦後三十三年、兄妹三人でバレテへ行った。弟への哀痛な叫びかけは、こだまするだけだった。バレテ峠の白い十字架が戦没者追悼と英文で「平和よ永遠に」とあった。私は弟と二人の友人のことを彫りこんだ小さな陶板を故坂田速射砲隊陣地跡に埋めてきた。近くには米軍の建てた碑があり、日本軍七,四〇三人と米第二十五師団二,三六五人が血で染めた峠バレテと記してあった。カリラヤの比島戦没者碑、バギオの英霊追悼碑、恩讐をこえて日比百数十万の霊を慰める!・・・最後の一滴を捧げつくして侘しく滅びていった同胞よ!慟哭の碑であった。(中略)
戦争を忘れることは哀しい。それ故に人は戦争を石に刻んで後世に伝えようとするのである。それは使命であり任務である。母には不孝者であった私が、弟の弔魂の碑を母の墓側に建てた。「昭和二十年四月二十四日、二十四才の若きをもってフィリピン群島バレテ峠に陣没した佐々木敬がみたまをここにまつる・・・大戦の犠牲となって南溟の密林にねむる後人のあわれみ給え」私の孝行の代りであると共に遺族のなすべき行であった。私は今、弟の伝記を綴っている。この若者を知らぬ人々もよんで悼んでくださるであろう。これが戦跡標である。生還の人々は万死に一生をえたなら自分史をかくべきである。そして戦友と戦記をかくことである。遺族も又戦没のみたまのことを自分史としてかくべきである。バレテ会はその指導援助を事業としてはどうか。バレテ戦跡碑、昭和二十年一月より悪戦苦闘六か月鉄五四四七部隊歩兵六十三連隊将兵三千余、この峠に玉砕す。弾丸なく食なくただ魂魄を武器として戦いひたすら東京防衛の盾たらんと誓う吾ら想いつぐ血の峠忘れじ。紙に刷る戦跡、石にのこす戦跡、ぜひぜひ進めねばならぬ。
思うままに(ーバレテ峠でー)
遺族(横浜市)

外嘉男さん! 私です。美代です。あなたの妻の。こんなおばあちゃんになってしまって・・判りますか? そんなババアは知らないネ、なんて言わないで・・・。あなたと別れたときは二十五才でしたもの。もう、六十二才、外嘉男さんの年の倍も生きてきたことになります。その間にはいろんな波風にあいました。でも、どうやら乗り越えて、いまは平和な日々を送っています。これも偏にあなたのご加護のお陰と有難く思っております。その感謝の気持を伝えたく、又、バレテ峠へくると、あなたに会えたような気になるのです。だからこうやって、ここへやってまいりました。そんな私を見つけていただけますか?・・・。(中略)
外嘉男さん、もし、あなたの霊がまだこの地に残っておられるなら、どうか私と一緒に日本にお帰りになって下さい。そして、平和で、しかも素晴らしく繫栄した日本を見て下さい。さぞ驚かれることと思います。日本の人達は敗戦後の虚脱、混乱を乗り越え、あらゆる苦難を味わいつつがむしゃらに生き抜いて来ました。そして見事に立ち直り、今や世界一、二の経済大国と言われるほどになりました。これは、何といっても当時日本の兵隊さん達が、祖国のため血みどろになって戦われ、大切な一つしかない命を捧げて闘いぬかれたお蔭です。その尊いお命が現在、平和な日本の礎になっています。私はこのことを声を大にして叫びたいのです。(中略)
さて、あなたが最も気にしておられた娘達の様子をお知らせしましょう。ここに二家族の写真を持ってきました。見てやって下さい。みんな大きく、楽しそうでしょう。あなたがお護り下さっていたお蔭で、二人共元気です。そして子育てに専念しています。紀代は四十二才、孝子は三十七才、そんな年になった娘達を想像できますか? (中略)
私、今回の訪比の際、自分の頭髪と爪を持ってきました。このディクディク川、この辺りはあなたが通られたと思われるので、この川原に埋めてまいります。私もバレテの土になりたく、こんなことをします。私の一部がここにおりますから、時々あなたも会いにきて下さい。私、これまでいろんなつらいことがありました。でも、娘達の前では涙を見せたことはありません。できるだけ明るく振舞ってきました。それがどうでしょう。ここへ来ると、どうしてこう涙があふれてくるのでしょう。バレテ峠へきて、あなたの話をしておりますと、これまでの苦労が素っ飛び、胸の辺りが次第に軽くなってくるのです。だから又訪ねてきたいと思っております。では又。 昭和57年2月記す。
昭和58年ー16号
第11回バレテ会慰霊祭・総会など
4月10日、南寄りの暴風雨の中、県内外から参列者110名。


昨年から懸案の課題として、第三号議案「バレテ峠追悼碑改修と募金について」を総会に諮る。
一、趣旨書ならびに事業計画 二、各種担当委員の決定 三、協力各部隊関係 四、改修工事現地契約 五、募金状況 など。
募金状況は、他部隊の多大な協力によって目標額500万円の二倍額へ到達、会場は、来年度のバレテ峠における慰霊碑建設の実現に向けての熱気に包まれた。


昭和59年ー17号
第12回バレテ会慰霊祭・総会など
豪雪に見舞われた山陰地方もようやく春らしくなった4月8日、県内外の生還者、遺族120名で第12回バレテ会慰霊祭を執行。慰霊碑前祭典終了後、砂丘パレスにて総会を実施し、バレテ峠追悼碑の除幕式典の模様をビデオで鑑賞した。


第6回比島慰霊巡拝記・バレテ峠慰霊碑除幕式
3月23日~28日、60名参加。バレテ峠における新追悼碑と戦跡碑の序幕と慰霊の式典、追悼碑を保存をお願いするサンタフェ町その他近隣関係町村に対する寄贈品の贈呈式、日比親善の交歓会、バレテ峠の慰霊祭、慰霊巡拝参加者の各々の関係地における現地御慰霊、バクサンハン比島寺境内の歩兵六十三連隊戦没者慰霊之塔の序幕、慰霊式典などを行い、皆、無事に帰国してまいりました。


























一人だけの慰霊祭
生還者 倉吉市
率直に言って肩の荷が降りた想いで一杯であります。
バレテ会の大事業は之(バレテ峠追悼碑建立)で終ったと言っても過言ではなかろうと思います。関係各位の御努力に対し諸英霊に代り心から厚く御礼申上げます。霊様も満足されております。
私はマデラ巡拝者案内の為、慰霊碑除幕式翌日の慰霊祭には参列出来ませんでしたので、其の翌日マニラ帰還の日早朝バヨンボンを出発し、峠で一人だけの慰霊祭を仕えさせていただき、この事を確認致しました。 一時間余の間霊様と語り今後のあり方を話し合い、心眼にうつる霊様の御姿を拝させていただきました。 此の時うっかり或約束をすることを忘れておりました。と申上げますのは二十九日朝帰宅後本年の豪雪により遅れていた一反半余の梨の剪定に取かゝろうと。梨畑に上って剪定鋏を握った途端、右肘に激痛が走り、思わず鋏を取落しました。今朝方迄何ともなかった肘がどうしたことだろうと考え考え、思案致しましたが、来年も訪れることを霊様に約束することを忘れていたのです。
このことに気がつきまして、心経一巻を奏上、来春の巡拝を確約いたしました処、 スッと手が自由に動く様になり、剪定作業を進めることが出来ました。何干と云う霊様に来年も来てくれと手を引張られては痛い筈です。私の体には時折霊様が移られることがよくありますが、おかげで私は元気で豕業をつとめさせて頂くことが出来ます。 二十代、三十代の若いたくさんの霊様が夫々其の将来に於て果たされる筈であった業務を私を通して実現しようと働きかけられるわけでありましょう。
私は、恐らく百歳はおろか、本来人間の天寿と言われる百二十歳位迄はおかげを頂くことが出来るのではないかと考えています。昭和五十二年を第一回の巡拝に、連年巡拝の覚悟でいましたが、 五十四年と五十八年の二回、家庭の事情が許さす巡拝を怠りました。その年は大変身体の調子が悪く農作業にも元気か出なかったことをに思い出します。巡拝した年は大変身体の調子がよいのであります。
霊様の精気をいただくと云うことで御座いましようか、巡拝は霊様をお慰めすると云うことだけではなく、何時かも触れましたが、自分がおかげを頂くことでありますから、此の事に心を留めて頂きたいと思うのであります。
巡拝を楽しみに毎日の農作業を頑張っている次第で御座います。 合掌
バレテ山頂に建つ追悼碑の前にて(一部抜粋)
元中迫撃砲第七大隊第二中隊 生還者(大阪市)

このバレテの山野は、一万七千人の尊い人命が失われた戦跡。若かりし頃の思いは今、新たに沸々と蘇り、あの戦友この戦友の顔が、声が、眼の裏に耳の奥底に残っている。一瞬悲鳴、呻き声前後に起こり目もあてられない修羅場と化す。過去は夢のように思えるが、現実にここが戦場となる倒れていったのだ・・・とふと吾に返る。
両軍の砲弾は、バレテ全山を揺り動かし硝煙は至る処に立ち昇り、全山焼失して地獄図の如くに変形しておりました。終戦後捕虜となり、マニラに輸送される車上ヵら見るバレテは、見渡す限り真黒く、以来私の脳裏に、黒いバレテが住み着くことになりましたが、三十三回忌の年に初めて慰霊団に参加巡拝した時、青々とした平和なバレテを見て黒いバレテは消え去りました。
バレテ峠の頂上に、今回御霊の安らぎの場所として、立派な追悼碑が建立され大変嬉しく私の心にも安らぎを得た思いです。
此度、追悼碑の前に立ち、戦友のご冥福を祈っておりましょうとは、全く夢の如くでございます。不思議なお蔭を数々体験し、生き延びて参りました私、本当に生かされ続けて参りましたことを、日々感謝申し上げております。

バレテ峠の慰霊に憶う(一部抜粋)
元歩兵第六十三連隊連隊本部 生還者(鳥取県淀江)
追庫碑は、 かつての各戦場が一望に見下ろせるバレテ峠の頂上にあり、眼下の山並はいま何事もなかったかのように静かですが、 その幾重にも連なる山の中には、当時幾多の部隊が展開して死闘を続け、万余の戦士が散ったのです。
その鮮血は一木一草にしみ、髑髏は風雨に晒されてついに朽ち、土となって、 その魂魄は山中に止まっていると思います。私達は、追々高齢になりますが、これからも生ある限り、この地に巡拝を続けたいものと念願してやみません。
私は。生涯を通じて忘れることのできないのは、一兵士としてバレテ戦に参加したということです。あれから早くも四十年にもなりますが、当時のことは昨日のことのように思い出されます。
私は、昭和十九年二月、北満にあった六十三連隊の五中隊に現役入隊し、後に、運命の バレテ戦の戦いに参加しました。満州で生死を共にと語り合った五中隊の戦友は、プンカン陣地を死守し散りました。ありし日の純真にて溌剌たるその面影は、今なお私の瞼の底に焼き付いて離れません。第十四方面軍参謀栗原賀久著「運命の山下兵団」にも「兵は哀れである。兵は悲しいものである。命令の通りに従順に死んでいかねばならぬ、死ほど悲しい哀れなものはないであろう・・・」とあるが、本当にだ一線の兵隊は、死守の命が下れば命令に従い、何の言い訳もせず、その場で死ぬまで戦い散って行かねばならなかったのです。
バレテ峠に兄を偲ぶ(一部抜粋)
元歩兵六十三聯隊連射砲中隊 遺族(北九州市) 丘に立ち亡き故里の母憶う
戦後三十九年目に、 ようやく念願のバレテ峠に立って来し方を思い起こしました。
終戦の秋、 あちらにもこちらの家にも復員されたという噂を聞いて比島戦線にいるという兄の安否を知ろうと、 母と二人で大山のふもとの村々を歩き回りました。
長兄は遠いニューギニアの戦場に、次兄は寒い北満に、三男の敬兄はフィリピンの戦線に。 外地にいる息子達の一日も早い帰国を待ちわびている母の表情は日毎に不安げになっていきました。兄達の消息がわからないままに年を越し、昭和二十一年の二月、小雪のまう夕暮に、「フィリピン、バレテ峠に於て戦死」の公報が母の手に届きました。その母が日本の箱をいたわるように抱きかかえて余子駅頭に帰ってきたのは浅い春の日でした。九人の子どもを育てた母は、明治生まれには珍しく教育を受け、私どもには気丈な人のようにみえまっしたが、兄の戦死は母の目を終生うるませました。うす暗い仏間でひっそりと、又、吹雪の日でも墓前に座って兄の思い出にふけっていた姿は、今も私の脳裏に焼き付いています。
老母のはつれ髪 寒し仏間かな
あれから四十年近い歳月がたち、私も三人の子どもを育て上げ、還暦の年になって、母の悲しみの深さを実感として感じるようになりました。その亡母にかわって、バレテ峠の慰霊碑除幕式典に参列できたことは、母の霊にも供養ができてほっとした思いです。
慰霊の旅母子そろいの夏衣 慰霊碑に兄と過す日思いつつ
丘ひろく陣地のぼり来慟哭す 春あさきバレテの丘に花もなく
昭和60年ー18号
第13回バレテ会慰霊祭
4月14日、参列者120名。



第7回比島慰霊巡拝記
2月14日~20日、10名参加。

慰霊巡拝を終えて(一部抜粋)
遺族(鳥取市)
熾烈な戦いから40年。昭和生れが80%を超した今、戦争は忘れられようとしています。しかし、肉親を失った遺族も戦場から帰還された方々も、とうてい忘れることはできないでしょう。私は二人の兄を比島で無くし、去る2月の戦跡巡拝に参加させて戴き、多くの若い戦士たちが散華された戦場に合掌し、苦難の戦いを侘ぶことができました。
さて、鳥取は小雪の舞う零度だというのに、マニラは30度と真夏並み、しかし、中部ルソンの平野は水田が何処までも続く長閑な田舎風景で、暑さと椰子、バナナの木を除いては日本と変わらない東洋的な国だなと思い

ました。バレテ峠の入口にかかり四方の山が迫るにつれて、彼の台地、丘陵、谷間、それぞれ各隊毎の布陣と最期の激斗・・・と西本氏のガイドにも熱が入ってきました。上るにつれて山は峻峡な密林となり、万丈の谷は細く、戦いは想像以上に激しく至難であったのだろうと思います。近所の方が、バレテ峠で4名戦死されており、預かってきた塔婆と供物に香を焚きながら合掌したとき、元気であった頃の母の姿が瞼に浮び、涙を止めることができませんでした。「家族の方は皆、元気です。どうぞ御安心下さい」ただ祈るのみです。
長兄が戦死したビトロンは道が悪く、5キロメートル手前でお祈りしました。そして、ピナパガンを経てカガヤン河。洋々と流れる河を見ながら、悪疫と食糧難に堪えながら、道なき道を苦難の行軍をされたであろうと、此の地に到達することなく無念の涙を流された幾多の霊に合掌しました。
北フェルナンドに近い砂浜では、海没された方々は無念この上もなかった事と思いながら、線香を焚き、読経を行いました。バキオを経てクラーク空軍基地、航空通信兵であった次兄等は、航空機の無い飛行場を捨て、西方山中に決戦場を求め、矢折れつきたものと思われます。遥か西方に山が見える畑で次兄の慰霊を行いました。比島寺ー初めて仏像を拝むことができました。仏教徒として心の安らぐものを感じました。
最後に、バレテ峠の立派な碑をはじめ、各激戦地に建つ慰霊碑を見るにつけ、数少ない帰還された方々の一方ならぬご尽力とご奉仕の賜と、遺族の一人として感謝申し上げる次第です。
昭和61年ー19号
第14回バレテ会慰霊祭
桜花爛漫の好季節に恵まれた4月13日、県内外のご遺族、生還者110余名参列で挙行。前日は、砂丘荘に25名が宿泊されました。

慰霊の詞
バレテ会長 穐山 宇太郎
本日茲に、元歩兵第六十三聯隊比島戦没者 材聯隊長以下二、五七八柱の御霊を神社の神殿にお迎えして、第十四回霊祭を挙行するにあたり謹んで追悼の詞を捧げます。憶えば英霊の皆様には、過ぐる大東亜戦争の末期戦局の挽回を図るため、急拠関東軍の隷下を離れ、酷寒の北満から酷暑の南方戦線に転進し、この間、台湾防衛の大任を完うし、更に比島に於ける、日米決戦の禍中に投ぜられたのであります。

この時既にレイテ決戦に於て、主力艦隊と航空戦力の大部分を失った我が軍は、制空制海権のみならず、あらゆる戦力装備も弱体化して、戦争の主導権は完全に米軍の手に落ちてしまったのであります。即ち、ルソン島上陸直前の乾瑞丸の被爆轟沈がそれであり、バレテ陣地攻防五ケ月間の苦戦の統ては彼我戦力の格段の相違によるものであって、此処を死守した、あなた達将兵の苦労は到底筆舌には尽し難く、国家危急存亡の秋、絶対不利な戦争と知りつつ、敢て肉弾斬込を繰返して散華された、不屈不倒の特攻精神は永く戦史に遺り、いつまでも語り伝えられていくものと思います。
今静かに瞑想する時、あの鬱蒼たる密林のバレテ、サラクサク峠、万雷一時に落ちるも似た物凄い敵の砲爆撃、 一瞬にして硝煙と共に飛散した、戦友達の雄姿或いは病魔に仆れ、苦しみつつ道なきジャングルの中に精根尽き果て、そのまま永眠していったであろう、やつれ果てた将兵の面影等と恰も昨日の出来事のように思い出されて、胸は痛み哀惜の情禁じ得ないものがあります。
今年もまた、三月十四日から約一週間ご遺族及び生還者十七名のお方が、未だ沢山の遺骨が埋れていると思われるマデラ地区に遺骨収集を兼ねて、 つい先程迄政変に揺れた比島の戦跡を巡拝して無事帰国されました。幸いにも政変の方は平穏の裡に治まりましたが、ご遺骨の方は残念ながら、 一体も発見することが出来なかったようであります。更めて戦後四十年の歳月の長さを知らされた思いであります。また、 一昨年三月バレテ峠に建立しました、追悼碑の台地に亀裂が生じたとの噂もありましたが、実際には大丈夫で、今もなお、訪れる旅人の香華の煙も絶間なく、今後共、世界平和のシンボルとして永く祀り継がれていくことと思います。

大東亜共栄圏確立の為とは申せ、結果的には世界を相手として戦って敗れた日本でありましたが、 これでは、先祖に対しても将亦あたら若い生命を国難に捧げた英霊に対しても、申し訳ないことと、民主政治の下官民一体となって、国力の恢復に精魂を傾注して産業経済のみならす、教育文化の面に於いても、今や世界をリードする経済、技術大国となり、諸外国との交流はもとより、日本人研究熱すら盛んとなった、今日、 この頃皮肉と言えば皮肉な現象と言わねばなりません。
願わくば、今後共これに驕ることなく敗戦当時の苦難の時代を想起し、英霊の心を心として更に国力の恢復と発展に尽くすならば、 やがては人類永遠の平和も決して夢ではないと思うのであります。血で血を洗うようなバレテ峠の激戦も丁度四月の中頃でした。当時を偲び、又しても悲しみを新にしながら、只管に心の中で念仏を唱えつつ青春の総てを祖国に捧げつくした、英霊の冥福をお祈りして止みません。愛しき英霊よ願わくば安らかに御霊鎮まりまして、故国日本否世界の平和と御遺族様の御多幸を御護り下さい。 昭和六十一年四月十三日
第8回比島慰霊巡拝記
3月14日~19日。マニラ、プンカン、バレテ、サンタフェ、バヨンボン、サラクサク、ピナパゴン、バグサンハン比島寺などマニラ周辺。






慰霊巡拝の旅(一部抜粋)
生還者 鳥取県淀江




バレテ峠はマニラから約二一〇粁、前方サンホセに五〇粁、後方サンタフェには約七粁で、道路の両側の山や谷間には陣地を構築し、戦争中は、北部穀倉地帯カガヤン河谷を防禦する最も大事な関所として、六十三聯隊が中核となって米軍の進攻を食い止めた要衝である。この周辺一帯は、幾多の戦士が砲火の中に散ったところ、還らぬ遺骨の眠るこの一帯は六十三聯隊勇士の眠る墓地であり、いわば六十三聯隊の聖地である。
午後三時頃からバレテ峠追悼碑の前で慰霊祭を執行した。塔婆を立て、内地から持ってきた菊の花や比島で求めた生花を飾り、それぞれが持参した米や水、酒、菓子、果物、煙草等をお供えし、香烟が紺碧の空に立ち昇る中を式典に入った。
海ゆかばの合唱は、遠くバレテ、サラクサクの山並に広く深く沈み、カセットに流れる般若波羅蜜多心経に唱和する読経と叩く鐘の音は、風にのって南国の空に木霊し山や谷に吸い込まれていった。
この地に眠られる七、七五〇名の英霊の御霊も集われ、さぞや照覧されたことであろうか。次いで、巡拝団長中原清重氏が切々と呼びかけるが如く追悼の辞を述べられ、一同それぞれ礼拝する。式を終わって、峠の周りの山並を遥かに展望する。どの山、どの谷を見ても当時のことが現実となって蘇ってくる。あの絶望的な戦争で、弾丸なく、食なく、薬なく苛酷極まる人命無視の犠牲となって、家郷を恋いつつ死んで行かれた戦友のことが思われてくる。今日本が世界の一等国として繁栄し、飽食と贅沢三昧の生活をしているとき、本当に気の毒でならない。生きる死ぬるも紙一重だったあの地獄から生きてきた私達にとっては、一生涯にわたり英霊の冥福を祈り続けなければと心に誓うばかりである。
プンカンは重要な陣地で、 道路の東側の山に勤兵団の井上大隊、鉄六三の三橋中隊、 鉄野砲の赤座大隊、道路西側の急な稜線に鉄岡山の内藤大隊等の陣地があり、 死守の命を受け、苛惜ない砲爆撃を受けながら米軍三ケ聯隊と劣勢よく戦い抜きここで全滅したのである。日本軍の戦死者一,二五〇人を数える死斗の場である。私が台湾まで所属した三橋隊は精鋭中隊として第一小隊はクマ陣地、その他はサル陣地で二月十六日頃から二月末頃まで、夜間斬込みに、また敵と激しく交戦し、三橋隊長は負傷し坦架の上で指揮をとられたという。先日、隊長のご遺族から満洲出発時両親様に送られた遺言書を見せて貰い、その崇高なご決意に心を打たれた。
私達二人は真夏の陽が照りつける台地に暫し佇んで、当時の死闘を想像しながら、万石の涙をこらえて南方の三橋陣地のつはものどもの夢の跡に眼を凝らした。そして私は「三橋中隊長殿、築紫小隊長殿、福山分隊長殿ー、五中隊の戦友の皆さん、松永です。どうか安らかに眠って下さい」と声を限りに呼びかけました。その声は、広い深い静寂の中に閉ざされたプンカンの山並に吸い込まれて、応えるものは一人もいなかった。しかし、霊魂というものがあるなれば、御霊はきっと呼びかけに応えて下さったものと、私は心の中でひそかに思った。
父終焉の地 ピナパガンを訪ねて(一部抜粋)
遺族 兵庫県豊岡市
「お父さん、 やっと来たよ」 と叫びたい気持を抑えながら慰霊の行事を終えて、 南国ルソンの澄んだ青空を仰ぐときしばし空虚な時の流れを感じつつ立ち尽くしておりました。戦後四十年を経てようやく父の眠るフィリビンを訪れることが出来ました。
私は兵庫県北部に所在する豊岡市役所で働いておりますが、色々な部署を担当したなかで現在公共事業用地の買収事務を担当いたしております。ご他聞にもれず当市でも公共事業といえども、 その交渉は非常に難しくなっておりますか、 この仕事の中で亡父の戦友であった人 (満洲に残留し生還された) との交渉の必要が生じ、 その際大変なカ添をいただいた事があって以来亡父の存在について以前にも増して認識すると共に在りし日の父を深く承知したい想いが強くなってまいりました。
父が出征した時、 私は二歳でその面影は皆無です。戦死公報は昭和二十二年四月になってなされ葬儀が営まれましたがその時の祖父母や母の悲しみと、言い様の無い雰囲気だけは今日まで強く心に焼き付いております。
戦後の苦しい生活のなかでも、健康な祖父が父親がわりで、家業が農業でもあった為比較的恵まれ、国のため命を捧げた父を誇りに成長いたしました。あまり不自由な想いをしなかった為でしようか、若くして殉じた父の事を深く探究することもなく歳月が流れてゆきました。しかし歳を経て自分の子か成長するほどに遠い異国で果てた父の心情を思う事が多くなりました。
昨夏、バレテ峠追悼碑改修の記念誌と共に歩兵第六十三聯隊編成表の掲載された会報十八号を送付いただき、父の所属や生存者を知る事か出来、今春ようやくこれらの諸氏に父の消息を照会しましたところ、バレテ会戦跡慰霊巡拝で父の終焉の地に近い場所へ行くのでぜひ参加してはとのお勧めがあり職場の同僚も心よく渡比を勧めてくれましたので急拠母と亡父の妺二人を伴なって参加することになりました。
慰霊行は第一日目はデグデグ、妙義山、アリタオ、第二日目はトンガク、マデラに於て慰霊祭を挙行し、第四日目は団長の中原さん、西坂さん、山田さんと四名でサンチャゴからジョネスを経山してウルトーガンを目指しました。父の終焉の地は角田さんの調査ではパナンあろうとの事、しかしゲリラの本拠地とかで治安情勢の悪い地域と言われており今回がはじめての現地入りでしたが、何事も無くマサヤまで入ることか出来この地に於ても慰霊祭を行う事か出来ました。帰国後角田さんに報告しましたところ亡父の手引きによるものではなかったかとの事、出発時には考えてもいなかったことで心も満たされ感謝の念でいっぱいでございます。
帰路ヨネスの二つの学校へ立寄り学用品を贈呈し交歓を行なって来ましたが、私は小学校のPTA会長をしている事もあり、現地の学校の状況に大変興味が持たれました。しかし英語が苦手な為充分に話合いをする事が出来ず残念に思っております。中部ルソンの美しい自然、清らかに流れきらめくカガヤン河の川面が今も心に強く焼き付いておりますが、戦後四十年、今では世界有数の経済大国に発展した日本と、いまだ貧しいフィリピンの現状を比較するとき、そのあまりに大きな較差に驚くばかりです。マサヤの小学校やサンタフェの子供たちを思い出すとき、フィリピンの次代を担うこれらの子供たちが成長した頃、豊かで平和な国となっていることを念じると共に、一方で豊かで恵まれ過ぎる日本の子供達の様々な問題が頭をよぎってゆきますが、世界の人々の平和と友好こそが艤牲となられた多くの英霊の鎮魂のよすがとなるものと考えております。
北満から台湾を経て比島はバレテの死闘を生きぬき、その後の人跡未踏のジャングルの死の転進、点々と続く屍が道標となるなか、飲まず食わずの毎日で体力・気力も尽きた状態のなかで戦友の荷物をかわって持ち行軍するほどの心と体力のあった父もビナパガンへ進出して、ようやく食糧にありつきながら祖国日本が降伏した直後の八月十八日、最後の最後まで生きぬきながらマラリヤに倒れた父の様子は、帰国後烏取での慰霊祭の前夜二人の子供と共々角田さんから聞かせていただきました。若くして国に殉じた父のあたたかい又たくましい心を我が家の孫、子の心に永く生かす事が出来れば亡父への何よりの供養になるものと考えております。大統領選の直後で治安情勢が大変心配されましたが無事に巡拝を終える事が出来ました。長男も今年は高校へ入学しましたが、折をみて息子と共々ルソンへ亡父の足跡を再び訪ね多くの英霊の供養をさせていただきたいと思っております。
最後にこの度の渡比のきっかけをお作りいただいた根本様や色々とお世話いただいたバレテ会の皆様、同行の皆様に対して心より御礼申し上げます。
昭和62年ー20号
第15回バレテ会慰霊祭

第9回比島慰霊巡拝記






駄目な顔
遺族(横浜市)
小さい頃から自分の顔には、全然自信がなかった。
従兄からは「鍋の蓋!」とからかわれた。顔が丸く、鼻が低いからである。従兄と喧嘩になると、鍋の蓋、ぐらいでは気が済まぬのか、「新保屋の出来そこない!」と言って、なぶりいじめられたものである。
私は四人姉妹の三番目、長姉は特に可愛く勉強もできた。近所の人達は堀川小町と叫んだのに、私は桁はずれだった。私が小学校の上級生になっても、従兄は相変わらず「出来そこない!」とからかった。
さすがの私もある日、俄然奮起した。顔が駄目なら勉強で物見せると、そのせいもあってか、良い成績で女学校に入った。きれいだった姉は従兄の親友と恋愛し、その後婚約したのだが、かわいそうなことに女学校卒業まもなく胸を病んで天に召されてしまった。
数年後、姉の婚約者が私と結婚しようと言ってくれた。しかし私の心境は誠に複雑で、悩んだ。そして鏡に自分の顔を映してみた。「顔が駄目なら精一杯の真心で尽くそう」という結論を見出すのに相当日数がかかった。
昭和二十年初夏、夫は南の国フィリピンで戦死した。遺書の中の一行に「健康で明るく、しかも自分によく尽くしてくれ、幸せだった。」とあった。涙で読んだ中にも一条の慰めをおぼえ、顔は駄目でもと尽くした四年間の生活を思い出している。
第9回比島慰霊巡拝
亡兄の思い出を胸に 初めて慰霊巡拝に参加(一部抜粋)
遺族(横浜市)

一昨年の十一月、淀江の松水様より、突然お手紙を頂き、始めてバレテ会なる六十三聯隊の立派な戦友会があり、生還者の親睦と、遺族との交流、又五十九年には、バレテ峠に追悼碑建立など、活発なる御活動をしておられることを知りました。
私は昭和二十二年五月樺太より引揚げましたが、兄の賢二の戦死については、当時、亡父より「鳥取県世話課に種々照会しておったが、比島プンカンにて玉砕とのことで、戦闘状況、その他については余り判らない。中隊の生還者もおらない様だ」とのことでした。そのうちに、戦死公報が来て二月九日戦死、後に公報訂正四月十八日戦死とのことで、亡父は兄弟姉妹を集め、函館でしめやかに形ばかりの葬儀を取り行ったことを覚えています。
戦後四十二年経過し、両親も既に亡く、私も引揚後に元の会社に復職、会社の転勤辞令のまま、札幌、苫小牧(二度)、愛知県春日井(二度)と浮草稼業を続け、昭和三十七年東京に転勤、四十四年より横浜に居住、現在に至っている訳ですが、この様なことで、兄の戦ったルソン島の戦場、戦闘の実情など知りたいと思いつつも生活にまぎれ、具体的調査のすべもわからず、たまたま、小川哲朗氏著の「北部ルソン戦」を読んでプンカン守備隊の戦況などを知り得た程度でした。松永様の御手紙に同封された「比島バレテの思い出」、 その他の資料を拝見し、驚きとともに、賢二の遺族の所在を大分探しておられた様でその御芳志に対しては全く御礼の言第もありませんでした。
私は早速、年が明けた昨年一月に島取に出向き、山本様、松永様にお逢いし、くわしく六十三聯隊の満州での駐屯から、動員下令による台湾軍への移駐、そして決戦場ルソン島への上陸とパレテ峠での一連の激闘死闘の様相、プンカン地区での三橋隊の状況等のお話を承り、今更乍らあの悪夢の様な戦争時代のことを思い出し、祖国日本の御楯となって散華していかれた幾多の英霊に思いを馳せた訳です。そして、三月のバレテ会の英霊巡拝に参加すべく準備していたのですが、アキノ政権のゴタゴタに気勢をそがれ、残念乍ら渡比をあきらめた次第です。
そう云うことで、今年こそは何が何でも戦跡訪問を実現しようと心に決め、子供達の反対を押し切って今回の訪問団に参加し、プンカン陣地で二年越しの念願であった賢二の供養と第五中隊英霊の皆様の供養を果たしたことは、私にとって生涯忘れることの出来ない体験となりました。
昭和63年ー21号
第16回バレテ会慰霊祭
穏やかな雲一つない晴天に恵まれた4月10日、第16回慰霊祭を執行。県内外から110名参列。比島戦没者慰霊碑前の小祭典の後、会場を砂丘会館に移して比島巡拝の報告会及び総会を実施。懇親会も約半数の60数名が参加し、来年の再会を約しながら和やかなうちに終了。



第10回比島慰霊巡拝記
3月17日~23日(6泊7日)、参加者32名(生還者12名、遺族20名)。
ムニオス、バレテ峠、サンタフェ、バヨンボン、バレテ陣地周辺(聯隊本部渓、カシ・ヤナギ陣地跡、デグデグ、プンカン)、アリタオ、ツゲガラオ、ピナパガン方面(ビノン、カシブ、トオン、プコ、ウルトーガン、ピナパガン)、ロスパ二オス、比島寺、他。










学用品贈呈に対するサンタフェ町長謝辞(要旨)
「はるばる遠い日本から友情のあかしと共に来られました、日本の皆様をサンタフェ町民と共に心から歓迎申し上げます。遠い昔の悲しい絆に結ばれて、肉親や、戦友の慰霊に来られる方々が、貧しいフィリピンの辺境の地にともされる誠心の灯は、永久に消えることはないでしょう。
此の町の小さな友人たちは、皆様の親切を永久に忘れることはありません。日本の皆様方、本当に有難うございました。この学用品の学童への配布については、後日状況をお知らせしたいと思います。」
父を恋うる(一部抜粋)
遺族 松江市
バスの中で交わされる話し声に耳を傾けながら、いつしか私は遠い昔の想い出の中にいました。未熟児で生まれ、全く父の顔も覚えていない私を苦労して育ててくれた母。幼いころ、母に手をひかれ父の郷里である青谷駅から山根までトボトボと歩いたこと。母の実家の祖父母の家で母の兄弟達と一緒に育ったため淋しい思いをすることもなかったけれど、 それでも多感なころ、父恋しくて哀愁を帯びた切ない軍歌にひかれ、 アイ・ジョージの歌う「戦友, を探し求め、初めから終りまで覚えたり。父が印したと思われる本の中に引かれている線をみて感動したことなどを思い出し涙に頬を濡らしているうちにバスは大阪空港に着きました。

いよいよルソン島へ。抜けるような青い空、白い雲、やさしい山野、田んばの中では白い牛が気持ちよさそうに眠り、少年がを尻尾を片手でつかんで丘を下ってゆく、そんな光景はかっては密林であり、凄絶な戦いが繰り広げられた戦場とはとても信じられないほど平和でのどかなものでした。
アラヤット山を前方に見ながら供養し、身をもんで慟哭されるさまを目のあたりにしたとき、 四十年経ってもなお消えることのない悲しみに胸を締めつけられる思いをしました。
父の眠る山は草山とは異なり嶮しい山道でしたが、皆様と一緒に登り、供養して頂いたことほんとうに有難うございました。
今日も暮れゆく 異国の丘で・・・。
今日は最期か、明日が最期かと疲れきった体で、戦友の友達と共に父は何を想ったであろうか。遺書に「生きて再び故郷の山河をみる時とてないと思う。彼の地に散る覚悟である」と記されたとおり、二度と見ることの出来なかった懐かしいふるさとの山河、育ててくれた父を母を、お国の為とは言え祖国に帰れぬ無念さ。そして自分の無事を祈り、必ず生きて帰って欲しいと待ち続けている妻や子を、父とてきっと心の中で泣いたこともあっただろう。
”父さあーん 会いにきたよー” 長い間、 ほんとに長い間胸の奥深くためていた想いをふき出すように思わす叫んでしまっていた。山をおりる時、水の流れに手を浸していたら数珠がポロポロと落ちてしまった。母がしていたこの数珠を父はきっと山に残して欲しかったのだと思い、水溜りにそっと置き、去りがたい思いで山をおりました。
次の日、ヤナギの陣地に向うのなだらかな丘で、私はとても爽やかな気分になっていました。"父と手をくんで歌を歌いながら散歩しているような” 父の愛と厳しさを知らない私には何とも言いようのない幸せを全身に感じました。
勝とうと負けようと、そして死のうと生きて帰ろうと決して癒えることのない傷跡を残す悲しい戦争。目に焼きついて離れないバレテの山々、 カラチナの花、プーゲンビリア、やしの実、 マンゴー、ジプニー、可愛い子ども達、同行させて頂いた方々のご親切、みんな懐かしく一生忘れることは出来ないでしょう。今も世界のどこかでくりかえされている戦争が早くなくなりますよう祈りつつ、手記とさせて頂きます。
慰霊巡拝を終え憶うことー個々の戦場記録を残さねば(一部抜粋)
生還者 淀江町
先日、遺族の方から電話を頂いた。 趣旨は、今般、宿願であった戦死した弟の伝記を作ろうと考えている。生還者も自分史、戦記を書いては如何かというものだった。
立派なバレテの戦記、戦史あるいは聯隊史もあり、またバレテ会報にも多くの戦場体験記が寄せられているが、将の名はあっても第一線で勇敢に斗った下土官、兵の名は少ないように思う。遺族様の多くは肉親がいかに戦い、何処でどのように逝かれたかを知りたいと願っておられるではなかろうか。
私達の余命はそう永くはない、中隊でも生還者が数えるほどしかない希少価値の中で、生き残されている私達は今心して自分史を残し、あるいは戦場体験を語る会でも開いて、各人が知っている実戦の模様を小さなことでも何もかも話し合ってこれを収録し、また会報に載せて後世に伝えるようにしてはと考えます。皆様が協力して将校、下士官の個々の戦斗記録を寄せ集めれば立派な戦記となり、戦友の尊い死に対する英霊顕彰録となる。これは、生還者に課せられた勤めではないだろうかと思う。
サラクサク碑建立十周年
事務局

サラクサク碑は昭和53年5月、旧戦場中央の丘に、米、比戦没者の合同慰霊碑をサラクサク会、米三十四師団在郷軍人会、フィリピン現地住民の協力によって建立し、早10年が経ちました。この間、サラクサク会は、近年の度重なる台風によって被災した慰霊碑のあるマリコ村の救済、崩壊した道路の復旧た吊橋堤防の建設などを支援してきました。同会は、10年経った慰霊碑及び集会所(教会)の修復、あるいはマリコ学校への寄付などで新たな募金を計画しています。
サラクサク峠は、片岡、岡野隊戦友墳墓の地であり、かつ、バレテ峠追悼碑建立募金に際しては、サラクサク会より高額な募金協力を頂いています。従って、バレテ会としても5万円の募金協力を致しました。(総会にて報告済)


