平成10年ー31号
第26回バレテ会慰霊祭
5月10日、曇りながら穏やかな日和で、好天に恵まれた慰霊祭日和であった。石破衆院議員、鳥取連隊会九鬼会長、野砲第10聯隊戦友会花岡代表、他を迎え、県内外130名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動しての総会を実施した。



第20回比島慰霊巡拝記
3月14~21日・7泊8日間、26名が参加。今年も、サンタフェ町(16校)、カピンタラン、ビュート、デグデグ、プンカン、プトラン、ミヌリ、バヨンボンの各小学校へ学用品贈呈を行った。
3月14日:マニラへ
3月15日:プトランで供養、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭、アリタオで供養
3月16日:カピンタラン、プンカン、天王山の各地で供養
3月17日:バヨンボン、ヤナギ陣地跡、フナ陣地跡、カシ陣地跡、妙義山陣地跡、ピナパガン、キアンガンの各地で供養
3月18日:ナギリアン、ダリガヤスの浜辺で供養
3月19日:クラーク地区で供養
3月20日:コレヒドール島で供養(平和公園にて卒塔婆を焼却)
3月21日:帰国





















戦跡を辿って(一部抜粋)
遺族 兵庫県
鳥取バレテ会第二〇回比島戦跡訪問に初めて参加させて戴きありがとうございました。
戦後五十二年もたってからではありますが、 かねてから念願でありました兄の供養ができましたこと、感謝の気持ちで一杯です。亡き兄は、 敗戦間近の混乱時に歩兵第七四連隊(豹一二〇二四) から歩兵第六三連隊(鉄五四四七) へ移っているため、正確な戦没地点はわかりませんが、 このたびは数多くの慰霊地へ同行させて戴きましたので、必ずどこかで出会えたことと信じ大きな安堵を感じています。
この慰霊巡拝で感じましたことは、五歳の時に終戦を迎え、小学校一年生から日本国新憲法の元で教育を受けて育った私には、 日本が戦った戦争についてはもとより、 その時代背景についてもよく知らないことが多くあったということです。
車窓から眺める田園風景や幾重にも重なる山々は、 ここがかつては激戦の地であったのかと思えるほど静かでのどかな佇まいです。バスは、 ルソン島中部山岳地帯をめざして走ります。 移りゆく山は皆、僅かに背の高い草が繁っているように見えるものの、茶色い地肌が見える禿山です。こんな遮るもののない場所でどうやって身体を隠して陣地としたのでしよう。
暑い太陽が照りつける中を、冷房の効いたバスは、今は舗装された国道をくねくねと峠へと向かいます。船で上陸してから敵の攻撃の中、何百キロのこの道を大勢の兵士達は重い背嚢を背負って歩いて登って来たのだとは!! 唯驚くばかりです。聞けば、米軍の攻撃で兵器、装備、食料その他を大量に失っていたとのこと。高い山上の陣地では水はどうやって手に入れたのかしら、火を焚くことが許されない中どんな物を食べていたのかしら、次々疑問がよぎります。血気盛んな若い男性のその命が果てるまでにはどんな過酷があったかと・・・。軍服も軍靴もぼろぼろになり、食べる物もなく戦死していった兵士達を想像するだけで痛ましく、見わたす山々やまた慰霊地へとつたう小川のほとりに生えている一木一草がかつての兵士達のように思えて胸に込み上げてくるものを抑えることができませんでした。
戦跡地を訪ねながら私の胸には「なぜ日本はこんなにもあちこち遠くまで行って戦争をしなければならなかったのか?」という思いが何度も沸いてきました。天然資源の乏しい日本の国を案じて・・・とただそれだけの理由だったのでしょうか。故国から数千キロも離れた地に放り込まれた兵士たち、国の為だと信じて戦って無念の死を遂げた無数の若者、それは皆、いとしい息子や兄弟であり、大切な夫であり、かけがえのない父親であったはずです。
そうやって散っていった数多くの無名の兵士がある中で、一上層軍人の固有名詞をあげてその行動を武勇伝として語られることがありますが、私は快く思えません。
慰霊地で唱われた"海ゆかば“ はこれまで題名しか知りませんでした。この歌は、戦死は名誉なこととされた時代を生きた英霊への鎮魂になるのかも知れませんが、私は歌詞の内容に大きな抵抗を感じます。紙一重のところで生還された人達の永遠に癒えない傷痕もひしひと実感いたしました。
その方々のご尽力のお蔭で慰霊碑ができて参拝させて戴けたのだと感謝しています。また、フィリピンの人々にもお礼を申し上げます。集まってくる無邪気な子供たちにお供物のおさがりを手渡しながら、言葉が通じたらどんなに良いだろうと思いました。今では、フィリピンと日本は親しい国になりました。兄の霊もひょっとしたらフィリピンと日本を行き来しているかも知れないと、こんな風に思いつつマニラを後にしました。
比島慰霊巡拝に参加して
遺族 鳥取県米子市
昨年に続き、2回目の比島慰霊巡拝です。兄の眠る地はバレテの「フナ陣地」、今回は、現地の人が衣料品を好むということが分かり、お供物に加え衣類を多めに持ってきました。フナで一緒に供養して頂いた方からも沢山のお供えを頂き感謝しています。倉津さんのお蔭で新鮮な生花も現地で入手できました。
「あんちゃん、今年は姉に代って誠司が来ました。あんちゃんの戦友の方々に連れて来てもらいました。あんちゃんが日本を守るために命を捧げた無念さと仇を討つこともできず誠に申し訳ない。今の誠司にできることは、大東亜戦争の本当の姿を子供たちに伝えることだと思っています。足の動くかぎり会いにきます。フィリピンと日本に栄光あれ」フナ陣地のあった山に向かって大声で叫びました。
さて、日本が戦後53年目に入り、 既に若い人の一部には大東亜戦争があったことも、ましてやフィリピンで数十万人の若き戦士が日本を守るために命を捨てて戦ったことも知らない人が多くなっている事を残念に思います。また、細川総理の軽率な「日本侵略戦争」発言をはじめ、近隣諸国に気兼ねして靖国神社参拝を見合せている一部の歴代閣僚の行動に大東亜戦争で殉じた3百万人の英霊が可哀想でなりません。先の大戦はすべて日本を悪と決めつけ、日本の国旗、国歌を否定する現代日本の教育と政府の謝罪外交を早く是正し、歪曲のない正しい歴史を子供たちに伝えなければ日本は滅びてしまうのではないでしょうか。
今回の比島慰霊巡拝は20回目と聞きます。今回の山本団長をはじめ、生還者ご自身がご高齢である上に、ほとんどの方が米軍の砲弾や破片によって満身傷だらけのお身体と聞き、申し訳ない気持でいっぱいです。日本に生きて帰ることを夢見ながら果たせなかった兄たちの分も長生きされ、身をもって体験された大東亜戦争の貴重な史実を後世に伝えていただきますようお願い申し上げます。
平成11年ー32号
第27回バレテ会慰霊祭
5月9日。当日は快晴に恵まれ、27℃を超す気温となった。石破衆院議員、鳥取連隊会長代理、比島戦跡訪問団代表倉津幸代さんを迎え、県内外130名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動して総会を実施した。


第21回比島慰霊巡拝記
3月13~20日・7泊8日、32名参加、20数か所で慰霊供養を行った。なお、恒例の学用品贈呈をサンタフェ町(16校)、カピンタラン、ビュート、プンカン、プトラン、ミヌリ、バヨンボンの各小学校へ行った。
3月13日:マニラへ
3月14日:デグデグで供養、連隊本部谷で供養、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭
3月15日:アリタオ、プンカン、プトラン、Ⅲ本部谷、天王山の各地で供養
3月16日:3班に分かれて行動。①バヨンボン、カピンタラン、ヤナギ陣地跡、雄建台陣地跡、妙義山陣地跡、ピナパガン、ウルトーガン ②ビノン ③サンチャゴ、イラガンの各地で供養
3月17日:キヤンブワン、ダリガヤスで供養
3月18日:クラークで供養
3月19日:マニラ市サンファン地区で供養
3月20日:帰国



























探し当てた父の眠る地(一部抜粋)
遺族 鳥取県気高町
2年前(平成9年)の5月、護国神社でのバレテ会慰霊祭のおり、福岡にお住まいの杉山さんから父の部隊名等を尋ねられたのですが、海軍であったこと以外は全く何も知りませんでした。「県庁で調べてみては」と助言を頂き、早速問い合わせてみると、海軍は厚生省の管轄とのこと、必要な書式を教わり厚生省に問合せると、暫く時間が経ってから大きな封筒で父の軍歴が届きました。
すると、その軍歴の最後に「マニラ市内サンファン地区で敵と交戦中に戦死」と記されていたのです。そんな筈はと、大変驚きました。戦後53年の今になって父の戦死地が違っていたとは。子供の頃からコレヒドールで戦死したと聞かされており、墓碑にもそう記されていて何の疑問もなかったのです。同島には、2年前にも姉妹3人で巡拝したばかりです。
母が亡くなって22年目の昨年、母の箪笥から関係書類を見つけ出しました。初めて見る戦死公報にもやはり、マニラサンファン地区と厚生省と同じ事項が記されていました。母は、この書類を手にしていながらなぜコレヒドールと言ったのか、その時は理解できませんでした。思い余って相談したバレテ会の西本さん、また、冒頭の杉山さんもいろいろと調べて下さり、厚生省の書類に間違いがないことを多くの関係資料とともに手紙で知らせて下さいました。
当時の混乱期、戦死公報にも関わらず生還される方があちこちにあり、母もフィリピン方面から帰還された方々を多数訪ね歩いたようです。たまたまコレヒドールから帰られた方から父らしき人の話を聞いたのではないか、その時の母の心は、1枚の紙より真実味のある生々しい証言によって父の戦死を納得し受け入れたのではないだろうか。私なりの解釈ですが、今となっては確かめるすべもありません。マニラサンファン地区が父の戦死場所と思えるようになったのは、それから何か月も経ってからです。

そして、今年三月、三度目の慰霊巡拝に参加させて頂きました。参加者がお互いに心を通わせながらの、哀しくも温かい旅でした。今回は一層新鮮に、皆さんの戦友への呼びかけも、肉親への語りかけにも涙が流れました。6才で別れ薄れた記憶の父を想う時、悲惨な最後を遂げたであろう父と同じくらい筆舌に尽くせぬ母の、永い間の苦労の数々が走馬灯のように脳裏をよぎります。
いよいよ巡拝最後の日、初めて訪れたサンファンの地は街の中でした。やさしく温かい目に見つめられているような思いでした。「よく来てくれた。待っていたよ」そんな父の声もしたようです。家から持って来た井戸の水、好きだった餅、酒、煙草、菓子等を供え、母のこと、私達姉妹のこと、それぞれの配偶者のこと子供達、孫達、近況を伝えたのですが、なにぶん胸がいっぱいで思うことの半分も言う事が出来ませんでしたが、お父さんは解って下さったのでしようか。
戦後53年振りに父の眠る地に辿り着け供養する事が出来ましたこの感慨は、私の生涯の宝となりました。これも一重にバレテ会の皆様、お世話頂いた方々のお蔭と、厚く御礼申し上げます。
巡拝の回を重ねて
遺族 福岡市
3月16日、カピンタラン北の谷のいつもの場所で同行の皆さんの手厚い供養を頂き、兄の慰霊を済ませることができました。3月13日、関西空港出発の日は兄の誕生日、そしてこの16日は命日に当たります。その前日、恒例の各地小学校への学用品贈呈が行われ、カビンタラン小学校でも沢山の学用品が校門前に並べられ、職員生徒 出で贈呈式が行われました。
私も亡き兄の供養 と、小学校に最近併設の四年生中学にウエプスターの英語辞書と、職員用に手動タイプライターを進呈しました。何れも教頭のレティ・バルーヤンさんから希望のあったものです。小学校には昨年約束の、授業時刻を告げる振鈴を届けました。
以前、ふとしたことから兄の部隊の配属と戦死の地が分かり、多くの人の導きでバレテ会の慰霊巡拝に参加させて頂くようになって五年目となりました。今年は病気不参加が多かった妻も元気に行を共にすることが出来ました。
つくづく思うのですが、このバレテ会のように全国各地の未知の方々が利害を超え、亡き戦友、父や兄の慰霊という縁の糸で結ばれ、 ルソン山地の戦跡を遍路して供養を共にするという純粋な目的の団体行動は、他に比べようのない貴重なことだと思っています。
私にとりましても、この五年間、実に得難い多くの人々との出会いと強い絆に恵まれている自分を感じています。今回もまたご縁の広がりと有難さを体験して帰国した次第です。
平成12年ー33号
第28回バレテ会慰霊祭
5月7日。当日は曇天なるも雨の心配はなさそうである。石破衆院議員(代理)、鳥取連隊会長(代理)、比島戦跡訪問団代表倉津幸代さんを迎え、県内外120名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動して総会を実施した。


祭文
若葉を渡る風さわやかなここ島取県護国神社において、ご来賓並びにご遺族様ご参列のもとに、かって死生を共にした戦友ら相集い元歩兵第六十三連隊比島戦没連隊長以下、二、五七八名、並びに部隊、戦没将兵の御霊をお迎えして第二十八回のバレテ会慰霊祭を執り行うに当り謹んで追悼の誠を捧げます。
私達は今皆様の御霊を前にして、切々たる追慕と愛惜念で一杯であります。おもえば英この皆様には、祖国の必勝を信じ、 プら祖国と御家族様の安泰を念じつつ、身を戦火の渦中に投ぜられ、国の御盾として散華されました。これは私達にとって永久に忘れることのできない深い悲しみであり痛根の極みであります。今こうして皆様に相対し、静かに往時を回想いたしますとき、あの欝蒼たる密林のバレテ峠、 サクラサク峠の決戦場で、熾烈な砲爆撃の下、硝煙と血で埋まった陣地に殪れ、あるいは飢餓に苦しみ、無念の涙を呑んで仆れてゆかれた皆様のお姿が今もまざまざと瞼に浮んでまいります。
そこに些かの私情も許されず、 世代に謳歌すべき青春もありませんでした。唯々祖国の難に殉ずるの尊いお気持ちのみでありました。故国を遠く離れたルソンの山野の果てを彷徨しておられる皆様の御霊に想いを馳せる時、生と死が人の世の避け難いさだめとは申せ、胸ふさぎ深い悲しみにとざされずにはおられません。私達は本日の慰霊祭に先立ち、異国の地に眠られる皆様の終焉の地を訪ね、ご供養するのが何よりの慰霊かと存じ三月十三日から二十日まで山本照孝団長以下十四名が現地の山野を巡ってご供養申し上げ、身近な慰霊を行って、皆様の声なき声を聴き帰国いたしました。戦没諸霊には泉下でご照覧になりお喜びいただけたことと拝察しております。
顧みますれば、私達はリンガエン湾に上陸してから五月中旬迄陣地死守の軍命のもとに戦い、連隊将兵の大分が第一線陣地で相果てていかれたのであります。五月十二日師団の命令により林連隊長以下生き残った将兵は、包囲網を脱出し、敵の後方補給路の斬り込みに任じたる後、食を求めてカガヤン渓谷の密林地帯を突破してピナバガン平地に進出する、死の転進に挑んだのであります。およそ退却行ほど悲惨な戦はありません。それが百日にも及ぶ激闘と飢餓に苦しみ、疫病に脳まされた後だけに深刻さを加えました。木の実や野草、蜷貝等食べられるものを探し、その上食塩もなくなり、さながら地獄絵図の様相でありました。この山中の転進間、幾度か悲しい別れを強いられたことか、その悲しい思い出が今でも胸をしめつけます。
いま戦陣に斃れられたあなた方の御霊の前に額づくとき、胸つまり慟哭の涙を禁じ得ません。あなた方は父母を慕い妻子を愛すればこそ、そして兄弟姉妹の将来を思い、特に祖国を愛すればこそ、その礎石となられました。あなた方の勲と崇高な志を永く伝えて行くことが吾々に遺された使命と固く肝に銘ずるものであります。
去る者は日々に疎しとか矛納まりて五十五年の歳月の祖国日本は想像もできなかった繁栄をとげ、物が豊かな平和の道を歩みつつあります。これ偏えにあなた方の捨身のご奉公の上に築かれたものであると思います。しかし最近は不況や失業等が生活を不安に陷れ、また汚職や不正が横行して、 心の面が指摘されています。 日本もこの辺でもう一度心の面を改めるべきではないでしょうか。願わくは在天の英霊 とそ安らかにお眠り下さい永久に祖国日本とご遺族様の上に加護を垂れ賜わらんことを。
平成十二年五月七日
初めてのバレテ会慰霊祭
遺族
青葉薰る爽やかな日、夫と二人でバレテ会慰霊祭に出席させて頂ける事となり、心なしか緊張して浜坂の護国神社へ参りました。海からの風が少し肌寒さを感じる中、おごそかに式典が始められました。多数の方の御出席で、ご年配輩の矍鑠たる方々もお見受けし、父も生きていれば・・・と、いつもの私のくせが頭をもたげてきました。
あの写真の父の顔がぼんやりと見えて来ました。この父への思いは、年を重ねるたびに、強くなっていく様に思うこの頃です。
厳粛に心のこもった慰霊が行なわれました。ルソン島バレテの山野にねむるご英霊の皆様、どうそ安らかにおねむり下さい。あの忌わしい戦いで、その時代に生きてきた人々、立場の違いはあっても、悔しく、苦しく、切なく、悲しく、寂しかったでしょう。誰も決して忘れることはないでしょう。出席者皆様のご健康を願いつつ護国神社をあとにしました。
頂いた花、バレテで育った紫蘭が庭で風にゆれて咲いています。
第22回比島巡拝記
3月13~20日・7泊8日間、14名の参加者。
戦没者戦没地点でのご供養、並びにバレテ峠周辺の小学校に学用品を贈呈した。
3月13日:マニラへ(マニラ泊)
3月14日:デグデグにてご供養、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭
3月15日:アリタオでご供養、サンタフェ町で学用品贈呈、カピンタラン、ミヌリ、プトラン、ビュート、デグデグ(歓迎会含む)、プンカンの各小学校へ学用品贈呈。プトランとサンタフェでご供養(バヨンボン泊)
3月16日:2班に分かれて行動 ①ピナパガン方面(ヤナギ、フナ、カシ、妙義山、ピナパガンなど) ②イラガン方面(バヨンボン泊)
3月17日:ダリガヤスでご供養(北サンフェルナンド泊)
3月18日:クラークでご供養(マニラ泊)
3月19日:モンテルパ刑務所横の日本人戦犯処刑場跡地の見学、カリラヤ日本慰霊園でご供養、比島寺でご供養(マニラ泊)
3月20日:帰国
























慰霊巡拝を振り返って(一部抜粋)
遺族 鳥取県米子市
私にとっては、三回目の参加。いつも思う。あの時、(八月十五日、全国戦没者追悼式) 坂口様と隣合せにならなかったら、今だに慰霊巡拝はしていなかったと。追悼式で隣の坂口様とたまたまお話して、「詳しいことは分からないのですが、私の父はルソン島のイザベラ州 ・イラガン村の戦死ということになっています」とお話したら、翌年の三月にご自分のお寺さんに塔婆まで頼んでイラガンを尋ねて下さり、その時の写真を持って米子まで報告に出向いて下さって、「街が一望できるいい場所を見つけた、良いところだから今度是非お参りしよう」と誘って下さったのです。
不安もあったのですが、あまりにもご親切なお心に、坂口様をはじめ、生還者のお世話をして下さる皆様のご好意にすがっての、 母と私にとっての初めての訪比になりました。今思い出してもあの時は、 見るもの聞くもの、何もかもが珍しく、また「海 ゆかば・・・」を唄うたびにいろんな想いで胸がつまり涙、涙・・・。又ご一緒した皆様とは、 とても初対面とは思えないほどに心通じるものがあって、 たった一枚残された写真でしか知らない父への想いもよけい強く感じられました。本当に母と一緒にイラガンの地で供養ができた素晴らしい旅でした。

二回目は私だけが参加、 イラガンで初めて供養した時に供えた鉢植えの花を現地の方が枯らさず花を咲かせて下さっていました。持参した昼食をそのお方のお家の中で食べ、心和むひとときを過ごさせて頂きました。ご供養中に集まったイラガンの人達を撮った写真をたくさん焼増しをして、いつの日にかーと思っていましたが、このたび三回目の巡拝の機会に恵まれ、皆さんに写真を配ってあげることができました。皆さん嬉しそうで、 「ママさん、 ありがとう!」 ですって。同行の方々にお願いして、後でビデオも送って頂き、足が悪くなってもう訪比ができなくなった母にイラガンでの供養の様子も見せてあげられました。感謝感謝です。
フィリピンを訪れるたびに、どんどん発展しているのが分かります。また時期がくると、フィリピンの山や海や空の色が恋しくなると思います。子供達の元気のよい笑顔や、イラガンのみんなの笑顔にも。たまたま隣に座った坂口様のお蔭でバレテ会を知り、父の眠る地にまで供養に出かけることもできました。英霊のお引き合わせかもしれません。また皆様と共に元気に慰霊巡拝ができることを心から願っています。
フナ陣地へ登る(一部抜粋)

遺族 鳥取県米子市
今回は三回目の比島の慰霊巡拝です。兄が戦死したフナ陣地跡の慰霊祭を、従来どおりに山の麓で行った後、単独でフナ山に登ってみることにしました。カピンタランのケネディさん兄弟が一緒に登ってくれることになったのです。先頭の弟さんが山刀で草木を切り払い、お兄さんが私の後ろを守って登っていきます。生還者の方の話によりますと、このフナ、ヤナギ、建武台は大ジャングル地帯だったそうですが、米軍機が上空からドラム缶のガソリンを撒き散らし、それに火をつけてジャングルを焼き払ったうえ、砲爆撃の繰り返しで樹木は倒され今でも腰の高さくらいの雑草の中に、小さな樹木がまばらに生えているだけの山となっています。山のいたるところには大きくくぼんだ穴があり、米軍の砲撃弾によってできたものではないかと想像されます。兄が所属した第二機関銃中隊の多くの戦士が、その米軍の攻撃でこの山いっぱいに屍を晒し、英霊になって眠っていることを思うと、周りの景色を眺めて休むことも申し訳なく、ただ無中で頂上めがけて登っていきました。
頂上では、折からの山風に、一面花を咲かせてそよぐ雑草の姿が、兄や多数の戦没者の分身が私に手を振りながら無念さを呼び掛けているように見え、悲しさと侘しさが胸にこみあげてくる単独の山上慰霊祭となりました。
戦後も五十五年目に入り、兄がともに戦った六十三連隊の方々もすでに八十歳前後の方が多くなります。一緒に慰霊巡拝を行った生還者の方の訃報に接しますと、肉親を無くしたような悲しい気持になります。未だに草木も満足に生え揃うことが出来ないこのバレテの戦場から、九死に一生を得て生還された分、 一日でも長生きされますようにお祈りします。
平成13年ー34号
第29回バレテ会慰霊祭
5月6日。晴天に恵まれる。鳥取連隊会長(代理)、比島戦跡訪問団代表倉津幸代さんを迎え、県内外110名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動して総会を実施し、役員改選などが協議された。

第23回比島慰霊巡拝記
3月16~23日・7泊8日。今回は当初14人の申し込みがあったが、病気諸事情の取りやめで最小の4人となった。各地の戦跡慰霊、バレテ峠周辺の小学校へ学用品贈呈を行った。
3月16日:マニラへ
3月17日:バレテ方面へ移動、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭(バヨンボン泊)
3月18日:連隊本部谷での供養、ヤナギ陣地跡、フナ陣地、カピンタラン、妙義山、プンカン、アリタオでの供養
3月19日:サンタフェ町への学用品贈呈、プットラン,ビュート,デグデグ,カピンタラン,ミヌリ,プンカンの各小学校へ訪問し、学用品を贈呈
3月20日:北サンフェルナンド方面へ移動、ダリガヤス海岸での供養
3月21日:リンガエン市の米軍戦争公園などの見学、マニラへ移動
3月22日:カリラヤ慰霊園、比島寺
3月23日:帰国





















フィリピンに眠る父のもとに(一部抜粋)
遺族 鳥取県赤崎町

とうとう来た。父が眠るフィリピン・プンカンへ。
父は昭和20年、このルソンの激戦地バレテのプンカンで戦死している。今回、私はバレテ会のフィリピン戦跡慰霊団に初めて参加した。従来から心の中に父の戦死の地を一度見てみたい、そして供養をという願望を持ち続け、 定年退職した今、ようやく実現したのである。
「お父さん、息子の誠之です。ようやく来ることが出来ました。お母さんは30年前に亡くなりましたが、妹は元気です。孫が二人、既に結婚し幸せに暮らしています。家はしっかり守っていきますので、どうかゆっくり、安らかにお休みください。そして天国から見守っていて下さい。」言葉が口から自然に出た慰霊祭であった。
3月19日、皆さんに山腹でご供養頂いた後、現地の人達の案内でプンカンの山頂まで登ってみた。歩くこと30分、標高8百米、気温35度、そこは權木や荒草の生い茂る高原であった。周囲に山が連なり、遥か下には国道がかすかに見てとれた。このあたりの攻防戦は非常に惨烈だったという。全山血で染まったことだろう。ここで玉砕した父達の気持は一体どんなであったろうか。そっと小石を5,6個拾って持ち帰り、仏壇に供え、そして墓に埋めた。
巡拝初日の3月17日、バレテ峠の慰霊碑の前で合同慰霊祭を行った。 風の強い日であった。妹が 「兄さん、私の分まで充分に供養をして来て下さいね」 と言っていたので、 ローソク、 線香に何本も火をつけ、 日本から持参した父の写真の前に、 酒、肴、煙草、 菓子等を供え、心をこめて妹の分まで拝んだ。丁度この日の数時間前、すぐ近くにあるダルトン碑の前でも、米国人による慰霊祭が行われていたとか、慰霊の気持は万国共通であると非常に印象深かった。
今年の学用品配市は3月19日、7ヶ所に立寄った。最初のサンタフェの町長ティオドリコ・パ、ディリラ氏は、 自ら我々を出迎え、 来年のバレテ峠の慰霊祭には必ず出席するので事前に連絡して欲しいとまで言って下さる程の親日家である。そして各学校では、バスが到着すると、子供達が集まり荷物を運んでくれる。ここには貧しいけれど、 日本にはない元気で無邪気、そして非常に人懐っこい子供達の顔がいっぱいあった。これらの子供達を見ていると、 日本は物質的には豊かになった、しかし、それは真の豊かさなのだろうかと考えさせられてしまう。今の日本は、 余りにも豊かになり過ぎてしまったようである。バレテ会の学用品配布が、 日比親善に大きく寄与していることを嬉しく思った。
3月18日、通りがかったカピンタランの町は祭りの真っ最中、我々を歓迎してくれ一緒に踊れという。勇気を出して吉田さんと一緒に踊りの輪に入った。見よう見まねの踊りは全く様にならなかったが、町民から大喝采を受けた。フィリピン人は随分踊り好きのようである。これも日比親善に役立っただろうか。
人々は経済的にも貧しく、街も決してきれいでなく、車のラッシュもひどかった。 しかし人々は非常に明るく、 日本に好意的。我々とは全く違う言葉、全く違う生活習慣を持った人々ではあるが、不思議に我々を惹き付ける。そして、はまってしまう魅力を持った国であった。キリスト教の国、村々には必ず立派な教会があり、土、日には女、子供達が着飾って教会にお祈りに行くという。バナナやマンゴーが実り、ブーゲンビリアの赤い花、カラツチの白い花が咲いていた。この一週間は、この父の眠るフィリピンが一遍に好きになったこと、そして、言い古された言葉であるが、「二度と戦争は繰り返してはならない」という意を強くした旅となった。
慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)
遺族 福岡県
今回は、私にとって4回目の参加です。フィリピンの政局が混迷しましたが、また父親孝行ができたことを喜んでいます。参加者が4名と少なく、やや寂しい感はありましたが、個人で行くことは到底できません。お世話頂いた方々に感謝申し上げます。
バレテ峠の慰霊祭が始まる前、峠から南の谷に向かって父の嗜好品だった日本酒とそら豆を振り撒き、「お父さん、会いにきました」と大声で叫ぶと、途端に大粒の涙が溢れ出してしまいました。慰霊が始まろうとしていた矢先、バレテ峠の大空に虹が架かり、ここに眠る御霊が、私達を出迎えてくれたような神秘的で不思議な光景でした。
この夜、バヨンボンの夜空には素晴しく美しい南国の星空が広がり、この夜だけは、父のことをいろいろと 思い出しては朝まで一睡もできず、父と二人で語りあっているような気分でした。
各地の慰霊では、蝉の鳴き声の大合唱があり、蝉も慰霊に参加しているようでした。鉄部隊の兵士も、戦闘中に各地で蝉の声を聞き、遠い故郷の山河を懐かしく思い出したのでしょうか。そのほか、カピンタランの町で祭りに飛び入り参加したこと、各地の小学校を訪問して学用品を贈呈したこと、北サンフェルナンドで見た、南シナ海の水平線に沈んでいく夕陽のドラマチックな光景など、素晴らしい人生の1ページとなった一週間でした。
平成14年ー34号
第30回バレテ会慰霊祭
5月12日、好天に恵まれた慰霊祭日和であった。鳥取連隊会会長(代理)、比島戦跡訪問代表の倉津幸代様を迎え、県内外100名が参列した。1時間の式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動しての総会を実施した。


第25回比島慰霊巡拝記
フィリピンの政情不安などにより、20名の申し込みが最終的に9名となった。今年も、サンタフェ町及び、カピンタラン、ウルトーガン、ミヌリ、プトラン、ビュート、デグデグ、プンカンの各小学校へ学用品の贈呈を行った。
3月14日:マニラへ移動
3月15日:バレテ峠へ移動、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭(サンタフェ町長参加)、アリタオで供養、バヨンボンへ移動(泊)
3月16日:サンタフェ町で学用品贈呈、連隊本部谷,カピンタラン,フナ陣地跡,プトラン,妙義山の各地で供養
3月17日:サンチャゴ,イラガン,ピナパガンの各地で供養
3月18日:バレテ周辺の小学校へ学用品贈呈。ウミンガンで供養後北サンフェルナンドへ移動(泊)
3月19日:ダリガヤスの海辺で供養、世界文化遺産のサンタマリア教会の見学
3月20日:クラーク空軍基地で供養、マニラへ移動(泊)
3月21日:帰国





















5回目の慰霊巡拝と父に捧げた祭文(一部抜粋)
遺族 福岡市
私個人のことを寄稿することは恐縮と存じますが、バレテの連隊本部谷慰霊地で父に述べた言葉を記載させて頂きます。
「お父さん、会いに来ました。五回目で、一年ぶりの再会ができて感激です。この世で別れて五十八年になり、母も今年で八十八才になり大分弱ってきました。母の結婚生活は十二年間でしたが、お父さんから一生の分まで可愛がってもらったと良く言っていました。母はお父さんの遺言を守って再婚もせず、三人の子供を成長させてくれました。そんな母を誉めてやってください。
私は、お父さんの夢だった先生になることはできず、代って娘の佳代が先生になって十九年、頑張っています。喜んで下さい。お父さんが大正十五年に卒業した、嘉穂農業学校の十五回生四九名の名簿を入手することができました。現在十名が健在であり、その内の安武さんは同じ町内で町会議員を三期された方です。先日お会いすると、お父さんのことを鮮明に記憶しておられ、卒業写真をもらいました。その写真と卒業名簿をここに持参しました。四十八名の同窓生とここで同窓会ができたこと、大変に感激したことでしょう。私も最大の父親孝行ができたと感動しています。
お父さんの戦死は日本国のためで誇りですが、それでも生還してほしかったです。バヨンボンでは、お父さんと一緒にいるようで、朝まで眠れませんでした。お父さんは、お母さんと別れて五十八年で寂しいでしょうが、天国での再婚はしばらく待って下さい。好きだった日本酒を飲んで安らかに眠って下さい。お父さんに会えて嬉しくて嬉しくてたまりません。また会いにきます。サヨウナラ・・・。」
三年振りの巡拝(一部抜粋)
遺族 福岡県
三年ぶりの参加となります。ここ数年、病気で参加できませんでしたが、本年はどうあってもと心に誓い参加した次第です。
各地の慰霊とともにこの巡拝行の素晴らしいところは同行者との触れ合いです。再会できた方、新たな出会い、それぞれの理由で参加できなくなった方、たくさんの素晴らしい出会いや思い出があります。
今回、比島巡拝における戦地・戦歴の生き字引であり名解説者であった西本さんが昨年末に急逝されと知り、大きなショックでした。ご主人と亡兄と同隊であった大関さんは高齢に伴う体調不良で不参加です。吉田広志さんは北九州市在住で私と同県人で、昨年の鳥取護国神社慰霊祭で初めて面識を得、今回ご一緒させて頂きました。
父君が三十七才の時に家族を残して応召され、 入隊前夜に歓送会から晩く帰った父君が、当時小学生たった広志さんの寝顔をそっと覗き込んで落された涙が頬に当ったのを、今も鮮やかに覚えているというお話を伺いました。妻子ある家庭人を一片の令状で 「召集」することの非情さを、 いま年老いた身となってひしひしと感じました。本部谷の慰霊祭で、通信中隊に属した父君への遺児としての切々たる呼びかけの言葉に胸迫るものが在りました。
その他、懐かしい出会い、素晴らしい出会いの巡拝を終えて感じますことは、生還者の方も遺族も共に高齢になられ、年々参加者の数は減ることはあっても増えることは望めなくなります。私達年代の者として何とかして次代に伝えることが出来ないものかと思案に暮れるこの頃です。私自身は健康の許す限り鎮魂の旅を続けたいと念願しております。
平成15年ー35号
第31回バレテ会慰霊祭
5月11日、心配した雨も少雨に止まり、予定通りに会式。鳥取連隊会会長(代理)、比島戦跡訪問代表の倉津幸代様を迎え、県内外100名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動しての総会を実施した。来年、鳥取県護国神社が砂丘のこの地へ遷座して30年を迎えるため、屋根修復その他に必要な金額の募金を開始、バレテ会として100万円を寄付することを提案し、賛同を得た。


第25回比島慰霊巡拝記
3月20~27日・7泊8日。参加者16名、今年も、日比親善友好のため、サンタフェ町及び、カピンタラン、ミヌリ、プトラン、ビュート、デグデグ、プンカンの各小学校へ学用品の贈呈を行った。
3月20日:マニラへ
3月21日:バヨンボンへ移動(泊)、降雨のためバレテ峠での慰霊祭は翌日以降へ
3月22日:サンタフェ町で学用品贈呈、バレテ峠追悼碑で総合慰霊祭、連隊本部谷で供養、プンカン小学校で学用品贈呈、プンカン十字架前で供養、デグデグ、ビュート,プトラン各小学校へ学用品贈呈、プトランで供養、カピンタラン小学校で学用品贈呈、カピンタランの谷間で供養
3月23日:3班に分かれて行動。①ピナパガン・エチアゲ方面 ②サラクサク峠方面
3月24日:北サンフェルナンドへ移動。サンマニエルで供養、ダリガヤスの海岸で供養
3月25日:クラーク地区で供養、マニラ方面へ移動
3月26日:カリラヤ慰霊園、比島寺で供養
3月27日:帰国












遥か虹の彼方より(一部抜粋)ーサラクサク峠
遺族
ルソン島・サラクサク峠ー。 母と二人の叔父が、比島戦跡訪問団 (PIC) に参加して祖父終焉の地を訪ねたのは、 四年前のことでした。 のちに、孫の私が、 この慰霊巡拝に参加することになるとは思いもよらぬことでした。
平成十五年三月二十日、奇しくもア米国がバグダット空爆を開始した日に、私はルソン島に向けて出発致しました。翌朝、 事務局の倉津さんから、鳥取バレテ会の山本団長をご紹介頂きました。背筋を真直ぐ伸ばされ、 一徹なご様子は、巡拝団団長としての決意と責任を感じるお姿でした。見廻すと、八十代の矍鑠(かくしゃく)たる生還者をはじめ、遺族・戦友総勢十六名の一行で、今回私はこの方々と、行動を伴にすることとなりました。
激しい戦闘のあった峠、森や海岸で、素朴ではありますが、皆の心の籠もった供養が行われました。一同、静かに御霊に手を合わせ、黙祷する方、語りかける方、山に向かって呼びかける方ー。肉親や同胞へ、それぞれの切なる思いが、祈りとなって届くのでしよう。以前、ある生還者の方が、亡き戦友のことを偲び、比島の峠に立つたび「これでよかっただろうか。 これで許してもらえるだろうか。」と、問いかけていると、母から聞きました。この言葉は、私の胸を打ち、心に深く刻まれました。生還者のみならづず、人生を真摯に生きようとする者として、最も謙虚な姿勢だと思ったのです。
巡拝三日目、サラクサクに行く日は、未明より激しい雨が降り、ジプニーに乗っても、まだ小雨模様でした。そのような道中、前日のバレテ峠で、会長が読み上げられた慰霊のお言葉が、胸にずっと響いていました。サラクサクの峠に立った時、私は「二十一世紀が始まって三年になります。今こそ私達に日本人の誇りと叡智を、思い出させてください。」と、招魂の言葉を発していました。
慰霊祭のあと、 マリコ部落の皆様との楽しいひと時も過き、ジプニーに揺られ乍ら、峠沿いの山道を帰路に着きました。右に左に、山の頂きや急峻な尾根、深い谷間が現れます。このような場所で戦い、敗退していったのか、と思う胸の中でフツフツと湧き上がる念が、知らずに言葉となっていました。
「こんな所で、草叢す屍となって、眠っていないで、私と一緒に帰って下さい! 今を生きる私達を助けて下さい! 亡霊のまま戻って来るのではなく、雄々しく力強く、聖い志をもって、祖国を出発したその時の姿で、 日本に帰って来て下さい。そして、あなた方の子孫を揺さぶり起こし、この魂の戦いに、今度こそ、勝たせて下さい!」 私の中からほとばしり出た祈りが、私自身を励まし、勇気づけたのです。すると、確かに、何とも云えず温かく、大きな腕に抱き取られたように感じました。
その間も、空は灰色に曇ったままで、薄暮のような光の中を、ジプニーは下って行くのでした。

「虹やが、虹が見えるワ。」 その声で皆、 一斉に窓の外を見ました。霧雨に煙ったような遠くの峰々に、まさに、 虹が掛かり始めているのです。車を止めて、道端の崖の上から眺めていると、少しずつ太く、色濃く、伸びやかに広がり始めた虹は、初々しい若者のようでした。その時、密林の中から、 谷間から、山々の尾根から、英霊が立ち上がり、続々と虹を渡ってゆくのが観えたのです。力強く、祖国を目指して帰って行く姿を、私の魂が獲らえました。虹を見つめ乍ら、私は、静かに、潮が満ちてくるような安堵感と喜びに、満たされていったのです。
帰国の日、遺族として、初めて参加された林さんが、別れ際、「永石さん、ワシは自信がついた。あんたのような若い人が、 こうして巡拝しとる姿を見て、 ワシも、子供や孫らに話してやれる、思うてな。」沁み入るような笑顔で、私の手を握り返しました。
この言葉が、家で、私の無事を祈りながら、待っていてくれた母への、何よりの報酬となったのでした。(二〇〇三・五・十七)
念願の兄の慰霊を終えてーサラクサク峠
遺族 鳥取県智頭町
今年のバレテ会25回訪比慰霊巡拝は、私にとって3回目の参加です。出発日がイラク戦争開戦日と重なり、国際情勢に不安はありましたが、無事予定通りの巡拝ができましたこと、なによりでした。
さて、私の訪比慰霊巡拝は、昭和20年7月10日キヤンガンで戦死となっている長兄のためであり、平成8年、10年ともに、山下大将とマッカーサー将軍が終戦に関して会見したキヤンガンの記念館近くの公園で慰霊祭を行いました。しかし、兄の戦死公報はキヤンガンになっているものの、生還された兄の上官であった方の証言は異なるのです。
「兄が所属していた鉄五四四七部隊第十一中隊(岡野隊)の主戦場はサラクサクであった。そこでの最後の生存者は自分を含め9名で、その中に兄がいた。ただし、兄は瀕死の重傷で動けず、一緒に山から下りることができなかった。一人を塹壕に残したまま下山転進することは、共に戦ってきた戦友としてしのびなかったが、感傷は禁物であった。下山当時、山には米軍以外に日本軍は誰一人として残っていなかった。そのような状況で、どうして兄が一人で山を下りてキヤンがンまでたどり着いて戦えようか信じられない。最後はサラクサクに間違いないと思う。」
と、当時の詳しい戦況を含めて聞いているのです。このため、どうしても一度はサラクサクへ行き、兄が戦った現地を確かめ慰霊したいと思っていました。しかし、過去二度とも道路状況が悪く(崩壊)実現せず、今回、やっと念願がかなったのです。

バレテ峠下のサンタフェの町から約五十分問の道程でした。マレコの丘に建つサラクサク峠の戦死将兵と犠牲となった現地住民の冥福を祈る記念碑の前に立ち、サラクサク峠方面を望みつつ、大勢の住民、子供達が見守る中、卒塔婆と立て恭しく経を上げ、国歌など他の歌も歌い、花と供物そして日本から持参した酒、煙草、泉水、野菜等を供え、携行した亡き兄と両親の写真を立て、共に念願であった慰霊の誠を捧げることが出来ました。
また、 涙声ながら精一杯の声で兄に呼びかけもし、本当に感無量でありました。
こうして、キャンガンとサラクサクの両地で慰霊が出来、これで慰霊が本物になったとの思いです。慰霊碑の建つマレコの丘は、平坦で眺望がきき、 サラクサク峠や天王山、金剛山等がやや遠方ながら穏やかに見える心安まる山上の地です。なぜこんなに静かな所で烈しい戦闘が行われ、 ほんの四、五ヶ月間に日本軍四千六百名、米軍三千二百名もの戦死者と多数の現地住民が犠牲になったのかと、思わずには居られません。
マレコの村長さんには、碑の直ぐ下まで車が到着できるようにと山の路面を整備していただいた上に、慰霊後は自宅に招いて頂いて昼食場所を提供して頂きました。村の学校の教師からは、子供たちは日本人に対し総じて好意的であること、一人の日本人男性が近隣でシイタケ栽培を指導していることなどの話を聞くことができました。
バレテ会の慰霊巡拝団の訪比は、戦没者の慰霊だけにとどまりません。かつての激戦地の少学校へ学用品を、住民へは衣類等を贈呈するなど、交流親善を図ることを大きな目的の一つとしており、深く感銘するところです。こんなバレテ会の一員として訪比ができたこと、本当に嬉しく終生忘れません。厚く御礼申し上げます。
第25回比島戦跡慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)ーバレテ会へ感謝
生還者 (野砲兵第十聯隊)
私は、 鉄五四五一部隊 (野砲兵第十聯隊) の生還者ですが、 又、ルソン島 「プンカン」で玉砕した鉄五四四八部隊 (岡山歩兵第十聯隊) 内藤大隊の一員として戦死した長兄の遺族でもあります。
私も、長年野砲聯隊戦友会のお世話を致しておりましたので、毎年、御遺族をお招きしての姫路護国神社での慰霊祭、ルソン島並びにサイバン島慰霊巡拝を行っておりましたが、 戦没者五十年忌に当る平成六年を最後に、 戦友会の決定に従い中止いたしました。
ところが、 一昨年よりご遺族の一部や 野砲聯隊に関係する方々より、 現地慰霊巡拝のご要望が出て参ったので、現在も慰霊巡拝を継続実施されていらっしゃる「鳥取バレテ会」 の山本様に参加のお願いを致しましたところ、快諾を戴けましたので、私を含めて、五名で参加することになりました。五名は、「バレテ峠」周辺の戦没者のご遺族、同僚などの関係者です。全日程を通して、各地での慰霊祭、小学校への学用品贈呈など、素晴らしいお世話をいただけたこと、一同感謝申し上げます。
それにしても「鳥取バレテ会」の衰えを知らぬご活動には敬服の外ありません。私の知る限りの数多くある各地の戦友会は、ここ数年の間に、高齢化を理由に殆どが活動を中止しているのが実情です。PICの倉津さんの、採算度外しての戦跡巡拝に尽力されて居られる姿は、 「鳥取バレテ会」 の山本照孝様のそれと、二重写しの様で頭が下がります。今後も、出来るだけ永くご活動下さることを希っております。
第25回比島戦跡慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)ー戦後日本を思う
生還者 元姫路野砲兵第十聯隊
私は、 昭和十四年から昭和十八年迄、 砲十に在隊し、 四年間は満州国佳木斯に居た。従って昭和十九年にフィリピンに出勤した国聯隊の中には、多くの同僚や知人がいた。フィリピンに於ける日本軍の対米戦闘は 悲惨な敗戦に終り、日本の無条件降伏に継がったのだが、その時期、中国に居た私にはその時のことを知る由もなかった。
元砲十の駐屯地があった姫路市野里には、現在、自衛隊特科隊がある。ある日、其処を訪れた私は、記念誌編纂委員会による、 "野砲兵第十聯隊戦没者追悼記念誌“ を見せられた。何と言うべきか、酷烈な戦闘によって戦死した様子が詳細に記され、まさに言うべき言葉も無かった。その後編纂委員の花岡氏と連絡がついて、比島戦に参戦した砲十の兵士の中の生還者が戦友会を結成し、戦友会や慰霊祭、 更には戦跡慰霊巡拝を実行して来たことを教えられた。且つての戦友達の、 此の様な活動を知らなかったのは誠に申訳なく思い、今回「鳥取バレテ会」の巡拝団に参加させて頂いたのである。
バスの中で、各地の慰霊地で、戦地となった山々を見、説明を聞きつつ、ああ!我が戦友はこんなところで、空軍の援護絶無の状態で悪戦苦闘せねばならなかったのかと、胸を締め付けられる思いであった。(中略)
然し、その間、どうしても頭を去らないことはこの戦争、そして此の世を去った戦友達のことであった。 日本は、どうしてあの様な無謀な戦争を始め、どうして此の様な悲惨な記憶を残したのであろうか? 我々、人間には競争心があり、自己の勢力圏を拡げたいとする願望があり、それが組織化・統一化されて団体となり国家となるが、 団体や国家の間に闘争、 即戦争が発生する。日本に於いても古代所謂神代から此の過程を通って明治時代に強固な国家体制が創られたが、 その精神的中心を "天皇制~に置き、 "富国強兵。を旗印とした。
日本は海中に孤立していて、他国と接触することや侵略されることが少ないまま、文明化して強国となったが、しかし強大になるにつれて、その狭小な国土の中での人口の増大に耐える為、 海外への膨張発展を計るに至った。そしてその頃、 近隣諸国は外国に侵略される等で弱体化していたので、日本も外国に倣って、強化した軍事力をバックに近隣諸国への進出を行った。
軍事力強化の為には、 国の精神的中心として来た"天皇 を、 軍の最高統率者としたが、それを国民に徹底させる為、軍制を改め、教育面に置いても非常な努力をした。たとえば、古歌 "吾が君“を"君が代”と改めて国歌と定め、 "君“とは"天皇”であるとし、又、万葉の古歌 "海行かば“ の"大君”も"天皇“ であるとした。 その結果、 国民の大方はそれを信奉して歌い、特に若者はそれを信じて戦場へと向かわされた。然し此の伝統は敗戦によって消え去り、"天皇” は、マッカーサーの指令に依って、 "日本国家の象徴“としてのみ残されたが、然し今も尚、 これらの歌を信じ、或いは惰性的に歌っている人が少くない。
しかし、此のフィリピンで、絶対的劣勢の下で、悪戦苦闘した戦友達が、 "天皇の為に” と思いつつ死んだのであろうか? 生存戦友の話によれば、 "その様なことは、絶えて無かった” とのことで、誠に当然のことと肯けた。私は此度、親しかった戦友達を弔う為にやって来た。 そして私の考え方やり方によって慰霊を行った。しかし、これで事は終ったとは思えない。
胸の底に重く淀むものがある。 これは、 いづれ遠からず私にその時が来て、 先に行った戦友諸君と会える時まで 消え去る事は無いであろう。私達は、戦争と言う "悪い時代“ を生きて来たが、しかも今尚生きている。
これから先に、 亡き戦友や私達が経験した様な戦争に再び遭遇しない様、その様な戦争が再び勃発しない様に、人間がその様に賢明である様に、切に切に、希に祈る。
二〇〇三年三月三十一日
平成16年ー36号
第32回バレテ会慰霊祭
5月9日、曇天ながら穏やかな天候に恵まれ、県内外100名が参列した。式典後は、比島戦没者慰霊碑前の小祭典、砂丘会館に移動しての総会を実施した。

第26回比島慰霊巡拝行
3月20~27日(7泊8日)・参加者16名。バレテ峠での総合慰霊祭、アリタオ、連隊本部谷、プンカン、ピナパガン、エチアゲ、サラクサク、バレテ周辺の陣地跡、サンタフェ、ダリガヤス、ロスパ二オスの山下・本間両将軍のお墓参り、カリラヤ慰霊園、比島寺の各地でご供養・お参りを実施。また、今年度も、サンタフェ町、カピンタラン、ミヌリ、プトラン、ビュート、デグデグ、プンカン、バヨンボン、アリタオの各地小学校へ学用品を贈呈した。



慰霊巡拝の皆様への感謝(一部抜粋)
遺族 米子市
この度の慰霊巡拝に私は参加していないのですが、今回参加された皆様に紙面を借りて御礼を一言申し上げます。
私が慰霊巡拝に参加するきっかけとなったのは、今から14年前の8月15日の戦没者追悼式のことでした。開会を待つ間、たまたま隣に居合わせたおじさん(坂口氏)に、父が戦死したのはフィリピンのルソン島、イサベラ州、イラガン村という所だと話をしたら、自分はフィリピンからの生還者で、フィリピンによく巡拝に行くので・・・といろいろ話をして下さりました。
その時は住所を交換して別れたのですが、翌年3月、自分のお寺で卒塔婆を頼んで、巡拝に行ってくるから・・・とのこと。その時の私は半信半疑でしたが、暫くして、イラガンで供養して下さっている写真を持って、わざわざ米子まで来て下さったのです。そして、今度は是非とも一緒にお参りしましょうと誘って下さったのです。私と母は、驚くやら感激するやらで、感謝の言葉も見つからないほど嬉しかったことを覚えています。
今回、坂口さんには健康上の理由で参加できない、イラガンには行かなくてもいいよと連絡しておいたのですが、やはり、ちゃんと卒塔婆を準備し、巡拝された皆様全員でイラガン村まで行き、慰霊供養をして下さったのです。この報告を受け、心より感謝、感謝の気持でいっぱいです。本当にありがとうございました。
戦後生れの私も、 今年は還暦を迎える年になりました。この頃の世界は決して平和とはいえない出来事が多くおきています。戦争の悲惨さをみんなが知っているはずなのに、少しずつそれが忘れられてきたのではと思う今日この頃です。今でも、生還された方々が中心になって頑張って下さっているバレテ会は、 世界中で一番強く平和を願う人々の集まりだと思います。
今年も又、バレテ会から頂いた紫蘭の花が咲きました。この花を見る度に、比島の海の色、夕陽、山々、人々、子供たち、いっぱい、いっぱい思い出します。ほんとうに巡拝に参加されたみな様、遠いイラガンまででかけて、不参加の私の父の供養までして下さり、本当にありがとうございました。意を尽しませんが、私も天国から見守ってくれている父の、誇らしい娘である様に、いつまでも母と仲良く頑張りたいと思います。 合掌
第26回慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)
遺族 京都市

今年も訪比巡拝に参加させて頂きましたこと、本当に感謝申し上げます。
12月に骨折入院し、1月末にやっと退院したばかり、また、参加者にご迷惑をかけるかとも思い、参加は無理と諦めていましたが、待っている亡夫のことを思い、やはり参加させて頂くことにしました。皆さまにお世話になり、また亡夫や亡父が守ってくれているお蔭で、無事に有意義な巡拝ができました。
現地アリタオでは、塔婆を立て、日本から持ってきた生花、お酒、食べ物を並べながら、毎年こうしてアリタオで供養させて頂ける幸せを先ず喜び、神様に感謝し、苦労の果てに若くして戦死した亡夫を思うと涙がこぼれました。孫の結婚式の写真もお供えし、報告しました。また、御供養後、現地アリタオの2つの小学校に文房具を送り、先生方に大変喜んで頂きました。
今後も、元気でいるかぎり訪比を続けますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。
巡拝雑感
遺族 福岡市
平成8年に初めてバレテ会の巡拝に参加させて頂いてから今回で通算7回目となりました。ご一緒した方々にも随分と変化があり、亡くなったり、健康や家庭の都合で不参加となった方、新たな参加の方などですが、全体に参加者数が年々減少傾向になっているのは高齢化とはいえ寂しく残念なことです。
私も今年3月で80才の傘寿を迎え、数年前から肺線維症で身障者一級と認定され、年々呼吸機能が低下し酸素のお世話になっているのですが、バレテ会だけは不思議に参加することに心身の抵抗ガないのです。これは、おそらくカピンタランの谷に眠る兄や、クラークから飛び立って散華した同期生の諸霊に守られているからではないかと思われてなりません。今回、思いがけなく33才になる孫が同行を申し出てくれ(最終的に都合つかず不参加)、昨年、東京から参加された永石さんに続いて、第三世代があの大激戦地の戦跡を訪ねる気持になってくれたことに感激を新たにしました。
巡拝各地の思い出の中から一つだけ紹介します。バレテ峠と並んで北部ルソンの天王山ともいうべき大激戦地のサラクサク峠。日米戦死者の慰霊碑には、戦死者日本軍4,600人、米軍3,200と記されていました。
ここでの慰霊祭、この山中の村から見物に集まってくる子供たちが大変行儀がよく、それに、お布施をもらった時、日本語で「アリガトウ」と挨拶されたのにびっくりしました。一緒にいた中年の女性が学校の先生で、日本語を教えているとのことに二度驚きました。かつての激烈な戦争は、現地の環境を破壊し尽くし、多くの人命も巻き添えにしています。フィリピンの国民性の温かさをあらためて感じたサラクサクでした。
平成17年ー37号
第33回バレテ会慰霊祭・総会
5月8日、風が冷たく寒い日であったにも関わらず、県内外100名余の参列者があった。式典後、比島戦没者慰霊碑前にて小祭典を執り行い、会場を砂丘会館に会場を移して総会を実施。
総会では、バレテ会の今後について議論された。昨年の会報(36号)に「解散」を決定した旨掲載したが、本総会で決定することが報告された。意見百出するも、存続を支持する意向が強く、大多数の賛成で継続が決定した。

第27回比島慰霊巡拝
3月10~17日・7泊8日。
マニラ、プンカン、バレテ峠並びに周辺、アリタオ、バンバン、ピナパガン、エチアゲ、イラガン、ダリガヤス、カリラヤ慰霊園、比島寺などを慰霊訪問。
平成18年ー38号
第34回バレテ会慰霊祭
5月14日、前日と打って変わって好天になり、青空に日章旗・旭日旗がひるがえる中の式典となった。鳥取県遺族会会長をはじめとする来賓を迎えて県内外の60名が参列した。式典後、比島戦没者慰霊碑前で小祭典を行った後、砂丘会館で第28回比島慰霊巡拝のビデオ鑑賞と総会を実施した。



第28回比島慰霊巡拝記
3月6~13日(7泊8日)13名参加。バレテ峠での総合慰霊祭、アリタオ、プンカン、ピナパガン、サラクサク、ダリガヤス海岸、クラーク基地、カリラヤ慰霊園、比島寺などの各地で個別の供養を行った。また、恒例のサンタフェ町、バレテ周辺のカピンタラン、ミヌリ、プトラン、ビュート、デグデグ、プンカン、バヨンボンの7小学校へ学用品を贈呈した。
第17回慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)ーサラクサクでの歓迎
遺族 福岡県
今回初めて激戦の地、サラクサク峠に行きました。谷底深く舗装なき険峻な山道でした。標高1500メートルの所に慰霊碑があるだけでなく、集落があるのに驚きました。現地の子供たちが「故郷」の歌を合唱してくれての大歓迎に、大変感動いたしました。この集落は、6年前に電気が通ったとのことです。

昭和19年4月、漆生駅のプラットホーム一杯の会社の方の盛大な見送りを受け、汽車の窓から顔を出して笑顔で手を振っていた父でした。その汽車も発車の合図でゆっくりとプラットホームを離れ夕暮れの中に消えていきました。これが父の姿を見た最後、永遠の別れになるとは思いもしませんでした。そのとき父は33才、私は小学校6年生でした。
父の戦没地のバレテ峠の聯隊本部谷で父と会い、慰霊供養を行いながらそんなことを思い出して涙が溢れました。
父が出征した半年後、燃料(石炭)増産のための技術者は兵営免除となり、炭鉱長が父に帰ってもらうように手配してくれたものの、父は既に満州へ出兵した後でした。父の人生は不思議な運命だと思いました。戦争のない平和を熱望するものです。
比島慰霊巡拝に参加して想うこと(一部抜粋)
遺族 鳥取市
この度、バレテ会第28回比島慰霊巡拝に、いろいろやりくりしながら参加させて頂き、無事に帰国できたことは。英霊のご加護のお陰と感謝している。今年は、生還者の方が坂口様お一人であった。思い返してみると、今日まで40年もの永きに亘りバレテ会のために力を尽くして頂いた生還者諸氏が、歯が抜けるように英霊のもとへ旅立たれたり、御無理のできない年齢になられたという現実に、寂しさとともに焦りと後悔を覚えるのである。
バレテ峠と鳥取県護国神社には、遺骨を納めた立派な慰霊碑が建立されているが、これらは生還者の方々の御苦労があって、現在に至っているのであるから、これからは我々遺族が中心になって守り、顕彰していかなくてはならないと思う。英霊たちが楯になって守ってくれた日本の美しい文化を守る気構えを、どのようにして伝える努力をすればよいのだろうか。せめて、我々遺族が身近なところから必死で伝えていかなくてはならないと思う。
鳥取バレテ会第28回比島戦跡慰霊巡拝に参加して(一部抜粋)
作家・映画監督
肉親や戦友の慰霊という確たる目的があって参加された皆さまと違い、私はサラクサク峠を中心に書いた小説「昭和懺悔の記ー償い」の視覚による点検作業と、クラークのマバラカット町で、第一次特攻敷島隊員の苦衷に迫ることでした。その私が北部ルソンの戦跡地を訪れるたびに感じますのは、他国の山中で、ただ戦いに晒されるだけの日本軍兵士の苦労です。重畳たるルソンの山中にタコ壺を掘って戦いに備え、揚げ句の果てに斃れなければならなかった兵士の苦悩です。今回はその舞台であるサラクサク峠にも行けましたし、マリコの集落もこの眼で再確認することができました。マバラカットでは、マニラ在住の特攻研究家・笹本氏と一緒に、暗くなるまで町の中を探索しました。
そして今回、なによりの収穫は、生還者である坂口さんから、当時の生々しいお話を直接聴けたことです。バヨンボンのサバー・インホテルで毎晩坂口さんを囲んで当時の戦況を聴かせて頂けましたことが、忘れられない思い出になりました。どうぞ皆さま、ご壮健で、再び一緒できることを願っております。
平成19年ー39号
第35回バレテ会慰霊祭
5月13日。曇天ながら、国会議員2名(秘書)、鳥取県遺族会会長の来賓を迎え60名が参列した。式典終了後、砂丘会館にて第29回比島慰霊巡拝の記録ビデオ鑑賞と総会を実施した。

第29回比島戦跡慰霊巡拝記
3月8~15日(7泊8日)、12名参加。バレテ峠の総合慰霊祭、プンカン、アリタオ、ピナパガン、イラガン、ダリヤガス、カリラヤ慰霊園、比島寺などにおけるご供養。恒例のサンタフェ町をはじめとして周辺小学校への学用品贈呈を行った。





