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青谷とは
古代の青谷湾と大国主命
青谷の延喜式に載る神社
古代青谷と出雲族の西日本平定
日置族とは
日置族と土師氏との関係
相屋神社の祭囃子と神功皇后
青谷とは
青谷町は、鳥取県の中央に位置します。
東側に、1キロメートルも日本海に突き出した長尾岬があり、北西からの荒波が長尾岬に当たります。風波は弱まりながらも、渦巻き状態の海流となって日本一の鳴り砂の浜、「井出が浜」の青谷海岸の砂浜を形成しています。飯盛山と俵原高原を源流とする勝部川と、鷲峰山と俵原高原を源流とする日置川は、長尾岬を形成している山脈の西側に沿って流れ、青谷の手前数キロメートル上流で合流し、青谷海岸に流れ込みます。
上の図は縄文海進時と弥生時代の青谷地方です。
中世、鹿野城主であった初代亀井氏がここを拠点として朱印船貿易を盛んに行っていることから、長く天然の良港として存在したのでしょう。わずか45年ほどの亀井氏支配でしたが、今も当時の繁栄振りを見ることができます。
中世時代の青谷の町は、八軒屋と言われる廻船問屋「金屋、関屋、鍵屋、大黒屋、舛屋、松屋、浜崎屋、米屋」が栄えました。廻船は、中型以下のものが大半でしたが、中には北前船(きたまえぶね)と呼ばれた千石船級の大型船もあり、木綿、和紙、そして海産物などが船積みされ、なかでも、木綿は、「青谷木綿」として大阪市場で、そして「貝がら節」を生んだイタヤ貝の干身は、長崎で盛んに取り引きされました。
芦崎はまさに廻船問屋などの富商の基地で、町はにぎわい活気にあふれました。又夷屋と言う有力な商人が出て、色々な記録を書き残しています。これを石井記録と言います。青谷が鳥取城主池田藩の配下となっても、北前船、北国船の出入りは明治維新まで続き、川沿いの豪商では「川戸」と呼ばれる船着場が今も残っています。亀井氏は46年程度で津和野に領地替えとなったため、山陰因幡には当時の歴史資料は、ほとんど残っていませんが、青谷の街を歩くと当時の繁栄振りをうかがうことができます。
古代の青谷湾と大国主命
江戸時代の地図を見ますと、青谷港は芦崎湊(あしざきみなと)となっています。
「芦」は、大国主命の別名葦原色志許男神(あしはらしこおのかみ)の頭文字です。書物によっては葦、または芦となっていますが、読みは同じく「あし」です。また、上寺地遺跡の出土品の高度な文明や、阿古山古墳の帆船壁画、日置の地名、この小さな地域で延喜式に5社も神社が載っていることなどから推測して、大国主が多くの出雲臣族を引き連れて青谷にやって来たことが推測されます。阿古山古墳の線刻帆船絵からして、古くから青谷は東西の海上ルートにあって栄えていたのでしょう。出雲から宍道湖、中海を船で進み、島根半島から船出すると、青谷岬から勝部川に着きます。1.5キロメートル上流の日置川(福井川)に入れば海の影響が無い静かな内湾でした。中世、浜村の南に居城する鹿野の亀井慈矩は、長尾半島の山脈を越えてまで青谷の港から朱印船貿易を頻繁に行っています。
相屋神社は大昔、青谷丸山岬にあって男女の夫婦神様で縁結びの神です。地域の92歳の石井さんの伝承によると、「大国主命と八上姫のデート(契り)の場所であったらしい」と、言われています。
長尾岬には、「八上姫がワニサメに襲われ掛かった時、大国主命が其のワニサメを切り殺し、八上姫を助けた」、その時のワニサメの赤い血が池となったとの伝説があります(血染め池です)。「松が谷」は「待つが谷」であり、大国主命が八上姫を待った(デート約束場所)と言われている場所です。
また、上寺地遺跡の出土品や「日置」の地名から推測すると、青谷は、葦原中国平定(大国主命の国譲り)第二拠点ではなかったかと考えられます。
青谷の延喜式に載る神社
青谷には、相屋神社、吉滝神社、利川神社、神前神社、幡井神社という5社を数える神社が登録されています。この小さな地域の5社は、青谷と中央との深いつながりを示していると思います。大和朝廷に深く関わった出雲族の大国主命、日置などが考えられるのです。
古代青谷と出雲族の西日本平定
日本の弥生時代にあたる頃、中国江南地方で、春秋戦国時代と言われる呉と越の戦乱が続き、多くの越人が中国江南から逃れています。江南から出航すると、九州長崎、北九州(有明海)に偏西風で漂着します。その人たちが、高千穂の峰と言われる九州邪馬台国を作ったのではないかと考えます。
また、他方、中国「山東半島」経由朝鮮半島に移動し、朝鮮半島南端から出雲地方、若狭湾、富山、新潟越後など海流に乗って日本に渡来してきています。これらが記紀の天祖降臨2部の話なのではないでしょうか。彼らは、高度な文化を携え、出雲では、太陽暦などに基づいて稲作や土木工事を発達させ、「稲佐の浜」に流れ出ていた砂鉄を元に鉄器文化も発達させました。これが出雲臣族の稲作や土木技術を持つ日置族と鉄器文化を持つ人達で後の吉備族です。
近年、出雲大社で発掘された3本組の巨大柱から、42メートルとも言われる神殿が推測されています。これは平安時代の出雲神殿で、伝承によると、それ以前には高さが90メートルあったと謂われています。この3本組柱を結束していた鉄の金具が当時の鉄文化を語っています。この約90メートルの神殿の千木が夕日を受け、その影の所が丁度、荒神谷遺跡、岩倉遺跡であり、ここに銅剣、銅矛などをまとめ、祭檀とし、ここから西日本を平定するため日置族は山陰へ、後日の吉備族と言われる人々は、砂鉄を求め進行し、斐伊川河を上って行ったのでしょう。進行先々で、銅剣では切れない物が鉄剣で切れる事に恐れをなし、簡単に平定できたと考えられます。
スサノウノミコトから6代目にあたる大国主命が出雲族を率いて西日本平定に乗り出したのが葦原中国です。彼ら出雲族は、青谷の日置谷から鹿野、神戸(かんど)、河原、若桜から但馬、播磨、近畿地方へと平定に向かったと考えられます。
しかし但馬地方は、すでに若狭湾や能登半島に上陸していた天日槍族(あめのひこぼしぞく)と言われる物部氏、気多氏、秦氏が治めており、稲作や鉄器文化を有し、又航海技術にもすぐれた人達でした。出雲から、斐伊川河口の稲作や砂鉄から鉄器文化を成熟させ、斐伊川を遡って行った人達と同じ祖先であったと思われます。この人達は、文化が同じ事から、中国江南の「越」出身人、又は「スサノウノミコト」が山東半島から朝鮮半島を南下している途中に出会った人達と考えられます。そして、同じ太陽神が先祖である事から和睦となったと推測されます。一方青谷から、山陰海岸、兵庫浜坂、丹後、若狭湾、近江、近畿と駒を進めていた人達も同様に近畿で合流し、畿内ヤマト王権(後の大和朝廷)となったのです。
大和朝廷の天皇家系図に於いて、初代神武天皇と平行して大国主の息子、事代主命が系図にあり、その娘、五十鈴依姫等が一、二代天皇の妃となっています。大国主が引き連れてきた出雲族は、宮中に残り、聖火、太陽暦に基づく政務、行事を行なうようにして、大国主は彼らに大和朝廷内の事を託し、大国主は出雲に帰っていったのです。これが「出雲の国譲り」なのではないでしょうか。
日置族とは
青谷の歴史を語るには、「日置」と言う名前を語らねばなりません。
日置族は、出雲千家の家系図の中で天穂日の祖先で13代目に置部臣祖が在り、これらの一族は大国主にしたがって青谷経由でヤマト朝廷を立ち上げており、宮中では太陽暦に基づき、すべての行事を行う民であったため、置部に太陽の「日」を付け日置部としました。
彼らは、太陽暦によって農作物の植え付け、天変異変等、農作業に関する土木工事や、作業に使用する鉄器や道具などを創る技術的、部族集団です。これは上寺地遺跡の出土品を見ても、相当高度な技術を持っていたようです。欽明天皇29代の時代、出雲風土記によると、志紀島の宮が「日置伴部等を遣わす」とあります。日置や吉備族は宮廷では、日(暦)、火(儀式、鍛冶)などに関る仕事に携わり、各地にも日置部として配地され、朝廷の基盤つくり行っています。日置(「日置」に起因する「比岐」ひおき、ひき、へき、等)に関係する地名が、西日本に現今57ヶ所もあるのはその為です。
この頃から、例えば、絹糸を作る技術集団を勝部(すぐりべ)、機織技術集団を服部(はっとりべ)、少し遅れて、お墓を作る技術集団は、元吉備や日置族の末裔である土師氏となっています。土師氏は、太陽暦による神事で太陽の道と称して、北緯34度32分の線上に墳墓や神社を多く作っています。神功皇后の墓や、応神天皇、仁徳天皇の墓などには、立派な環濠があります。これは青谷上寺地遺跡で見つかった巨大水路の技術に通じ、日置族、吉備族の施工技術です。上寺地遺跡が示す高度な技術、日置谷や日置川などの地名、延喜式に載る5社も神社が載る青谷と日置族の深い関わりが分かると思います。
日置族と土師氏との関係
土師氏は、野見宿禰が垂仁天皇の時代、天皇のお抱え力士「とうま蹴速」と出雲の「野見宿禰」との御前試合において「野見宿禰」が相手を投げ殺し、野見宿禰が垂仁天皇に仕えるようになりました。皇族の葬儀礼に於いて殉死制度を改め土偶で代用するように提言し、非常に良いことであると受け入れられ、以後「野見宿禰」の一族は土偶、墓を作る「土師」という職業を与えられました。彼らの先祖も天穂日族(あめのほひこぼしぞく)であり、大国主が率いて青谷に来た人達と、若狭湾や能登半島に上陸していた天日槍族(あめのひこぼしぞく)と言われる人達と同系です。
鉄器、土木、稲作作業に優れた人達で、巨大な前方後円墳が作ることができました。神功皇后の墓や、応神天皇、仁徳天皇の墓などの、お墓を造営した土師氏は、日置族の後輩にあたり、日置族が土師氏を統括したのでしょう。
相屋神社の祭囃子と神功皇后
青谷町井手の田中某氏73歳によると、「昭和30年、相屋神社の本祭りに於いて榊お神輿を担ぐときは(ヤンサのエイエイ、ヨイヤサさっさ)と練り歩き、御神の神輿を担ぐ時は、(ヤサ ホーエイヤ、ホーエィヤ エィエィ、イヤサカさっさ)との掛け声だった」との話を聞く事が出来た。このお囃子は、青谷貝がら節のお囃子そのものです。
ヤサは古称で荒くれ男=漁師であり、イヤサカ=神功皇后が栄えますように、ホーエイヤ=奉曳哉(曳き奉るので) ホーエィヤ エィエィ=豊栄哉栄栄(漁師も豊かに栄えますように)海の安全と豊漁を願った祈りの言葉です。
神功皇后は、天日槍の8~10代にかけての人であり、多くの船団を組んで航海の出来る部民たちを率いました。鉄の文化も得意な人達で、造船に於いて金具を使用したのでしょう。三韓征伐に於いても、鉄金具備を使用した船で行ったのでしょう。吉備の人達は、山中に於いて「ヤンサ祭り」を行い、そこで神楽が舞わられますが、その舞台背景は、大漁旗、二見が浦など、海に関係しています。 神功皇后は、息長宿禰王の子の息長気長足姫又は息長帯日売命(おきながたらしひめ)です。神宮号のとき息長宿禰王の禰を取り入れ禰が袮となり弥に変化し、弥長気長足姫になったと考えます。鳥取市福部の弥長神社は神功皇后を祭神としています。そして、弥長気長足姫の弥「いや」が「栄」える事から、弥栄「イヤサカ」と言う言葉が生まれたと考えられます。それが大国主と八上姫との契りの所として、また、神功皇后の子の応神天皇を祀った相屋神社の50年に一度の祭囃子と成ったと考えられるのです。