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失われた浜坂スリバチ・浜坂小学校へ
茶屋土居との交差点
養蚕農家のなごり「越屋根」
浜坂の砂丘湧水(オアシス)水路
鳥取大学乾燥地研究センターの湧水(双子スリバチ跡)
右は旧但馬街道
但馬街道の柳茶屋
但馬街道の一里松と砲台跡
有島武郎・与謝野晶子佗涙の地
砂丘の歌碑群
お墓や石塔にみる歴史
代々山のお墓
浜坂村の五輪塔
浜坂スリバチ跡へ
浜坂スリバチ跡へ
グライダーの修理工場
浜坂砂丘とグライダー
砂丘と鳥取40連隊
旧陸軍兵舎から世界の乾燥地研究センターへ
十六本松砂丘と戦時中の思い出
失われた浜坂スリバチ
昭和10年頃のスリバチ
浜坂スリバチへ遠足(昭和初期)
浜坂スリバチでスキー(昭和30~40年代)
埋め立てられた浜坂スリバチ(平成5年頃)
小学校へ抜けるぶどう畑の道(グライダー訓練所跡地)
代々山のうつりかわり
浜坂小学校ができるまで
招魂所は鳥取県護国神社へ
遺物を発掘中の浜坂小学校
解散
茶屋土居との交差点
茶土居との交差点にやってきました。左にオアシス湧水路が流れています。
養蚕農家のなごり「越屋根」とオアシス水路
写真が示すのは、蚕を飼っていた農家の屋根のなごりです。
屋根の上に載っている小さな屋根を越屋根(こしやね)と言います。養蚕農家では蚕を大事にし、1階に人や牛が住み、2階を蚕専用にしていました。その2階に新鮮な空気や光を取り入れるのが越屋根です。
大正時代、第一次世界大戦による好景気によって、特にアメリカの需要に応え、農村は養蚕ブームに湧きました。畑の7割以上を桑畑が占めていたといいます。浜坂や江津でも、ほとんどの農家が蚕を飼っていましたが、世界大恐慌の影響を受ける昭和5年(1930)くらいから大きく衰退し、昭和20年台前半で幕を閉じたようです。
浜坂の砂丘湧水(オアシス)水路
昭和30年代(60年くらい前)までの浜坂村では、写真が示す砂丘の湧水路や、山からの下り水、井戸などを飲み水、生活用水に使っていました。砂丘の湧水路は、上方の砂丘に降って浸み込んだ雨水が、長い時間をかけて砂丘の地中を下り、浜坂スリバチの底から湧き出してきたもので、砂という自然のろ過装置で磨かれ、水晶のように澄み切っています。また、太陽や外気温の影響を受けないので、夏は冷たく、冬は暖かい、自然の恵みとなっています。
(参考)砂丘の砂の下には、粘土や火山灰層があり、さらに下には。久松山系などから延びた固い岩の基盤岩類があります。砂丘に降った雨や雪は砂にしみ込んでいきますが、これらの層は水を透しません。だから、水はこの不透水層に沿って下り、最終的に低い場所から湧き出してくるのです。砂の中を滞留する時間は1ヶ月半ほどとされています。
鳥大乾燥地研究センターの湧水(双子スリバチ跡)
鳥取大学乾燥地研究センター手前にも、オアシスがあり、こんこんと水が湧き出ています。付近に「砂丘水神」も祀られています。この一帯を双子スリバチといいました。双子の一つは浜坂側のセンター入口からこのオアシスにかけて、もう一つは、センターが立つ丘から海側にかけての地形です。
センターが立っているところは、昔は大きな丘で、昭和初期には、その下方にも湧水池があったようですが、道路や建物の建設によって消滅したようです。
尚、このオアシスに隣接する「砂丘仙人」こと奥田氏の家の庭には、豊富な水が流れて、砂地でありながら実に多彩な草花や果樹が百花繚乱、夏にはホタルが舞う、まさに砂丘のオアシスのようです。
右は旧但馬街道
さて、但馬街道との分岐点にやってきました。右が昔の但馬街道です。左は昭和40年(1965)頃の浜坂団地開発時に開かれ、浜坂3丁目に向かいます。今日は左の道をとりますが、先に、但馬街道に触れておきましょう。
但馬街道の柳茶屋
左手下方に浜坂水神を見下ろしながら坂を上がります。そのまま、車道を子供の国方向へ歩きます。現在の車道は、昭和34年(1959)、高松の宮が砂丘視察でご来鳥の折に通されたもので、本来の但馬街道はもう少し上の、林の中を通っていたようです。
江戸時代の但馬往来のメインストリートは、城下から山の手通りを通って、丸山から浜坂に入り、「柳茶屋」で一休みしてから砂丘海岸を歩く浜街道です。
昔の「柳茶屋」は現在の柳茶屋キャンプ場より50mほど手前にありました。今でもサイクリング道路の左脇の竹藪に入ると、小さな池の名残を見ることができます。
昭和初期まで休憩茶屋があり、裏には美しい清水がこんこんと湧き出て大きな池になっていました。但馬街道の旅人にはなくてはならない休憩所であり、鳥取の歩兵連隊の砂丘での烈しい軍事訓練では、兵隊さんが腹ばいになってこの冷たい清水にのどを鳴らしならしました。
しかし、明治末期の(旧)国道9号線開通後は、この但馬街道は殆ど使われなくなり、江戸時代の5軒が、昭和初期には1軒のみとなりました。そして、昭和18年(1943)の鳥取大震災では、砂丘からの湧き水が止まり、とうとう茶屋を続けることができなくなったそうです。
但馬街道の一里松と砲台跡
「子どもの国」手前の広場の大きな松を「一里松」といい、鳥取の城からちょうど1里(4キロ)の距離にあるという目印です。ここを但馬街道の「はま道」が通っていたのです。
ここには、江戸時代末期、海に向けた砲台が造られました。上の昭和30年代中頃の写真では、まだその存在を一里松後方に見ることができますが、今では完全に風雨に削られて姿を消しています。昭和34年(1959)、高松の宮来鳥にあわせ、一里松の広場に有島武郎の歌碑が立てられました。
有島武郎の歌碑と一里松
(参考)海岸砲台場は、江戸末期の「黒船の出現」で海防の必要性が高まる中、全国で造られました。鳥取藩が築造した海岸砲台場8ヵ所のうち、5ヵ所が現存しています。浜坂砂丘の旧砲台は、嘉永6年(1853)に設置されました。東の岩戸海岸、西の賀露港の沖まで見渡せ、かつ、広い砂丘地で演習地としても適していたとされていわれています。
文久2年(1862)8月20日付の「在方諸事控」に「明後廿ニ日の浜坂稽古場での大砲御見分について、道を整備し下宿を準備するよう、(中略)往来人を足止めするように」と記録されています。 また、伴山の西隣りに農兵屯所という字名があり、鳥取藩が嘉永年間(1848~1854)、大砲術の訓練兵として、近郷10ケ村の農民(浜坂、江津、秋里、晩稲、南隈、賀露、安長、円護寺、覚寺、新田)を参加させた場所です。
有島武郎・与謝野晶子佗涙の地
「子どもの国」方向へ上がる車道脇にこの石碑はあります。
大正12年6月(1923)の有島武郎の死を悼んで、昭和5年3月(1930)、与謝野晶子が夫の与謝野鉄幹と鳥取砂丘を訪れて詠んだ歌と有島武郎の歌がセットになって石碑に埋め込まれています。
砂丘の歌碑群
砂丘には、多くの砂丘に因んだ歌碑が立っています。変わり種は、昔の砂丘パレス広場の高浜虚子の歌碑と背中合わせで立つ碑で、かつての総理大臣の中曽根康弘のものです。歌碑群については、本サイトの「史跡を歩く」にもとり上げています。
お墓や石塔にみる歴史
代々山のお墓
さて、話を浜坂村へ戻し、大応寺の墓地を左手に見ながら進みます。
浜坂では米原家初代と須崎家が古いとされていますが、一番古い墓石は須崎家のもので江戸中期の寛延年間(1748~)でした。米原家は天保年間(1829~)のものでした。 ここで、寛文大図(1670年頃)に濱坂村が描かれていることから、遅くとも1600年代前半には浜坂村ができていたはずで、その頃のお墓はどうしたのだろうという疑問が生じます。
しかし、石の墓が立てられ始めたのは江戸時代中期で、それまでは土饅頭や木の柱が普通でした。従って、何も残っていないのが普通なのです。恐らく、人知れず静かな山中に眠っているのでしょう。
浜坂村の五輪塔
ただ、お墓ではありませんが、石の五輪塔が浜坂の古い家々の裏手に置かれており、それらが、浜坂村の開村時からの人々の供養塔だったのではないかと考えています。
五輪には年号が一切無く、浜坂の人も自分の家の五輪塔が何なのか、いつの頃からあるのか分からないと言います。ただ、五輪塔は明確な時代の特徴を持ち、浜湯山五輪群、多鯰ヶ池五輪群、そして浜坂の五輪、江津の濱橋家五輪などには、共通して「小型化・簡素・簡略」という室町後期の特徴があります。
このことが、砂丘が安定する中世に、福部や浜坂に人が戻ったこと、江津も「濱橋家由来」にあるように農村としても開村を始めたことを示しているのだろうと考えます。尚、浜坂には、「平家の落ち武者の墓という説」もあるようですが、源平の合戦が12世紀末(1180~1185)であり、室町時代後期とは4~500年の開きがあることから、少し無理があるようです。
(参考)五輪塔の時代別特徴は、鎌倉は重厚で雄渾かつ丁寧、室町末期~安土桃山は大型化で不格好、江戸期は繊細で複雑な曲線描くなど技巧的とされます。
浜坂スリバチ跡へ
グライダーの修理工場
さて、浜坂スリバチ跡地の手前まで上がってきましたが、ここにはグライダーの修理工場がありました。
グライダーの修理工場跡地、右は浜坂スリバチ跡
浜坂砂丘とグライダー
太平洋戦争中(昭和17年)、浜坂砂丘ではグライダーの練習が行われていました。グライダーとはエンジンが付いてない飛行機のことで、本物のエンジンが付いたゼロ戦などのパイロット訓練として行われていました。
下が砂で万が一落下しても安心なこと、砂丘の傾斜がグライダーの飛び出しに都合がよかったのでしょう。訓練中のグライダーの格納庫は柳茶屋付近にあり、その辺りの斜面に沿ってグライダーをゴムで引っ張り、一定の速さになったらパッと離すことで、下に向かって飛びだしたようです。
砂丘と鳥取40連隊
グライダー訓練だけではなく、浜坂砂丘と明治創立の鳥取40連隊との関係は深く、初期の鳥取大学の砂丘研究所は昔の兵隊の訓練所でした。そこを拠点に、日々、烈しい訓練が行われたようです。「健脚で質朴な優秀部隊として全国に知られた(中略)。砂丘地と峻険な久松山が健脚部隊を生み、その訓練は昭和の敗戦まで一日として休むことはなかったとされている」(鳥取県史)。
子供の頃、浜坂砂丘を歩くと、旧軍隊が訓練で使った銃弾が砂の中に埋まっていました。観光地になる前の浜坂砂丘の歴史は、江戸時代の鳥取藩の鉄砲や大砲の訓練、明治以降の軍隊の訓練などの歴史でもあります。
旧陸軍兵舎から世界の乾燥地研究センターへ
終戦翌年の昭和21年(1946)、鳥取農林専門学校(後の鳥大農学部)の遠山正瑛教授が、砂丘開墾を目的に、旧陸軍浜坂兵舎及び軍用地の一時使用を国に申請したのが始まりです。そして、昭和24年の鳥取大学発足とともに、砂丘地の農業利用の研究を開始しました。後に、鳥取大学と鳥取市は鳥取砂丘を東西半分ずつ国から譲渡され、西半分は「鳥取大学農学部付属砂丘利用研究施設」となり、東半分は観光地の現鳥取砂丘となっています。
研究施設はその後、年ごとに拡充され、平成元年(1989)には全国の共同利用施設として独立、「鳥取大学乾燥地研究センター」に生まれ変わりました。現在、日本で唯一の乾燥地に関する基礎的な研究を行う機関として、国内外の大学や研究機関から多数の研究者を迎えての共同研究が行われています。
昭和30年代末から昭和40年にかけて、当時の研究センターへ下る坂道がまだ舗装されていなかった頃、その坂道沿いの左右の砂地に黄、赤、白、紫などの大玉のチューリップが植えられて晴れやかな景観を呈していました。
センターに向かう下り道から少し左手の潅木の茂みの中に入ると、無数のピンクの野生のバラが群れとなって咲き誇り、その下には砂地から染み出た水晶のように透明な水が小さな流れをつくっていました。人は入らず、静かで、清楚で、夢のように美しい場所でした。そこに家族で弁当を持っていったことを懐かしく思い出します。
十六本松砂丘と戦時中の思い出
戦時中の子供たちの話をいくつか載せておきます。
「太平洋戦争終戦前の昭和19年(1944)頃、勤労動員された中ノ郷国民学校の生徒さんは、十六本松の松林で当時貴重だった食塩をつくりました。大人20人くらいが十六本松の海水を汲み上げて砂浜にまき、砂が乾いたら松林に据えたかま所まで運びます。小学生は、薪を付近から拾い集め、運んできた砂に水を加えて煮つめ、食塩をつくります。引率した先生は、一日の塩づくりを終え、中ノ郷小学校に帰ったとき、終戦を知ったということです。」
「小学校では、小学生が校庭を開墾して大豆や南瓜をつくりました。前段の塩づくりに加え、代用燃料になる松根の掘り起こしにも動員されたといいます。十六本松で松の根を掘り、根を切り刻んだものを煮て油(松根油)を採り、飛行機などの燃料にしたそうです。」
「旧中ノ郷小学校時代、遠足を『行軍』といい、『行軍』で砂丘の追後スリバチまで歩き、浜のアサドリの葉を摘んできて、これを干してお茶にしました。」(浜坂聞き取り)
遠足や運動会を楽しめる時代ではなかったのですね。
中学校以上になると、呉や舞鶴などの県内外の軍需工場、農地の開墾などに動員され、終戦の昭和20年(1945)には、全生徒が食糧生産、軍需生産、防空防衛に駆り出される総動員体制になりました。本来の学校教育が完全に姿を変えていた時期でした。
失われた浜坂スリバチ
浜坂スリバチの跡地にやってきました。
今は住宅地になっていますが昔は写真のように深く大きなスリバチ状の地形でした。「すりばち」とは、東北大学の教授が浜坂村から砂丘に出た所の砂の窪みが、台所でごまなどをすり潰す器に非常によく似ていることから斜角35度、深さ15m以上をスリバチと名づけたことが由来だといいます。
昭和10年頃の深いスリバチ
昭和18年の鳥取大震災で半分埋まる
底からは、写真のようにたくさんの水が湧き出していました。
昭和18年、鳥取大地震によって半分(10mくらい)砂で埋まり、水量も随分減ったということですが、その前まではごぼごぼと音を立てながら湧き出していたということです。浜坂村の水路を流れている水は、ここから湧き出した水です。
浜坂スリバチへ遠足(昭和初期)
昭和初期の遠足風景です。当時の小学校の遠足は、砂丘、十六本松、そしてこの浜坂スリバチの3つが定番だったようです。
浜坂スリバチでスキー(昭和30~40年代)
冬は、写真のようにスリバチ及びその周辺でスキーを楽しみました。私も子どもの頃、ここでスキーを覚えました。日曜日になると、子どもたちで一杯になり、丘の上にうどんやラーメンを食べさせる小屋ができ、これが楽しみで、50円玉を握りしめて通いました。
(参考)鳥取砂丘のスリバチには2種類の形があります。一つは、名前の通りのスリバチ状の円錐形を逆さにしたようなもので代表は浜坂スリバチです。下から湧き水が出ることによって、廻りの砂が少しづつ削られて流出することで、この地形ができるとされます。もう一つは湾曲した壁の下の窪地。これは、単純に風の作用によるものとされています。
埋め立てられた浜坂スリバチ(平成5年頃)
昔、遠足などで賑わった浜坂スリバチは、平成5年に埋め立てられて住宅地になってしまいました。何事にも、それがあるときにはその貴重さ、そのありがたさを感じることは少なく、当たり前のように存在したものが消え去ってしまったとき、そのかけがえのなさを想うものなのでしょう。様々な思い出とともに埋没した浜坂スリバチのような地形は、永久に出現することはないでしょう。浜坂にとって大きな損失だったと思います。
この例が示すように、地域の開発発展とともに地域の歴史や自然は消えつつあります。江戸時代、伴九郎兵衛が拓き植林した「新田」や「十六本松」は消え、大河に臨む船着き場の意の「江津」は面影を失い、「重箱」や「茶屋」なども姿を変え、または消滅しました。大変残念なことです。
小学校へ抜けるぶどう畑の道(グライダー訓練所跡地)
ぶどう畑の中を小学校の裏手へ抜けていきます。この畑には、戦時中にグライダーの訓練所がありました。中国地方ではただ一つの訓練所で、鳥取県だけではなく、中国地方からの入所者がありました。
一時、約100人がここに寝泊まりして訓練を受けたそうです。道の左手のヤブの中に、今でも訓練所広場の国旗掲揚台跡を見ることができます。毎朝の朝礼や体操を行った場所です。
訓練所跡地
代々山のうつりかわり
浜坂小学校ができるまで
いまや県下最大の浜坂小学校が建つ小高い丘は、かつて代々山と呼ばれ、縄文時代から人々のくらし始まり、戦国時代は、羽柴秀吉が鳥取城を攻めるときの重要な陣地の一つになりました。
その後、江戸時代には、鳥取藩の鉄砲撃ちの練習場になり、藩主も、ここに座ってその様子をご覧になったそうです。殿様が休憩した御座所とか便所などもあり、その配置図も記録として残っています。
明治になると、戦争で亡くなった方の慰霊祭を行う場所になりました。招魂所と言い、この代々山を招魂山と呼ぶ人もいます。明治3年、この山で招魂祭(=慰霊祭)が行われました。
招魂所は鳥取県護国神社へ
その後、招魂所は、西町のわらべ館の駐車場位置、おおち谷公園の中と移転を繰り返し、現在は、砂丘こどもの国の横に鳥取県護国神社として建て替えられています。
護国神社には、幕末の戊申戦争や西南戦争、明治以降の日清・日露戦争、太平洋戦争などの戦死者が祀られています。そして、代々山は昭和の時代になって崩され、現在の浜坂小学校が建っているのです。
遺物を発掘中の浜坂小学校(2021年)
代々山の歴史は縄文時代まで辿ることができます。浜坂小学校の下にも多くの古代遺物が眠っているはずです。
解散
「歴史を歩く」コースは以上で終了です。最後までお読みいただきありがとうございました。消えゆく歴史・自然を、本サイト「浜坂砂丘と歴史のひろば」が少しでも後世に伝えていくことができるならば幸いです。
これからも、継続的に充実を図っていきますので、よろしくお願いいたします。 以上