このページの目次です。
下線行をクリックすると、そこまで直接ジャンプできます。

殿様も愛した景勝地弁天島、浜坂観音と犬橋物語
 丸山城主 奈佐日本之介慰霊碑
 重箱緑地公園を浜坂方面へ
 浜坂農業の新機軸のぶどう畑
 重箱の語源の2説
弁天神社へ
 浜坂弁天は三嶋神社の廟所
大聖天歓喜天
力石と昔、子供が飛び込んで遊んだ清流
池田藩主の船遊びと風景絶佳の弁天
池田藩主が休憩した茶屋通り
浜坂村の苦労
浜坂の孝行娘 市右衛門娘 はる
江戸時代の浜坂産業など(浜坂焼など)
紫石
浜坂焼(ウツロ焼)
温泉
 教育(寺子屋など)
但馬街道へ、弁天橋を渡る
丸山二軒茶の図と丸山地蔵
犬橋と犬塚ものがたり
大応寺の歴史と聖観音ものがたり
浜坂の下土居六地蔵と道標

殿様も愛した景勝地弁天島、浜坂観音と犬橋物語

重箱公園の遊園地を抜けて丸山下の県道へ

県道に出ると、右に離水海食洞、左に丸山城の慰霊碑があります。

川を渡って重箱遊園地、県道へ(鳥取市浜坂)
川を渡って重箱遊園地、県道へ(鳥取市浜坂)

丸山城主 奈佐日本之介慰霊碑

県道沿いの慰霊碑(鳥取市丸山)
県道沿いの慰霊碑(鳥取市丸山)

 1581年の3月18日、羽柴秀吉の鳥取攻めに備え、石見の国(島根)の吉川経家が400人余の兵を連れて海路で賀露に上陸し、鳥取城に入ります。
 域内巡視後、丸山城(500人)と雁金城の二つの城の構築を決めました。海を越えて送られてくる毛利軍の兵糧を、船で袋川から丸山城、雁金砦を経て、鳥取城に運ぶための命綱です。最終的に、鳥取城の落城と同時にこの2つの城も落ち、丸山城主の奈佐日本之助は、雁金城の主将塩冶周坊とともに、この地で無念の涙をのんで自刃しました。丸山山下にはその慰霊碑が建てられています。山頂にはお城の跡だけが残っています。

雁金山城の跡地(平和塔)

平和塔と石碑「天正年間 城主 塩冶周防 雁金城」

一方の雁金山山頂には、平和塔が立っています。これは、昭和27年の鳥取大火の後、鳥取の平和を願い、鳥取市内の70の仏教寺が中心になって建てられたものです。そして、平和塔登り口(天徳寺側)には雁金城跡を示す石碑が立っており、「天正年間 城主 塩周防 雁金城」と刻まれています。

雁金山上の山頂(鳥取市湯所)
雁金山上の山頂(鳥取市湯所)

重箱緑地公園を浜坂方面へ

重箱緑地公園
重箱緑地公園

 袋川沿いを浜坂方面に帰ります。現在、写真が示す一帯は平成22年に完成した重箱緑地公園です。昔は旧千代川の水底だったところです。ふだんは、こうして緑地公園ですが、緊急時には狐川の水をここ一帯に流す緩衝プールとして使われます。

浜坂農業の新機軸のぶどう畑(昭和前~中)

 昔は、この川沿いにぶどう畑が続いていました。

かつてのぶどう畑(鳥取市浜坂)
かつてのぶどう畑(鳥取市浜坂)

 浜坂地区へのぶどう栽培の導入は戦後の昭和23年(1948)で、浜坂の数名(須崎・神崎)がこの袋側沿いの土地にぶどう園を開きました。昭和30年(1955)前後には九州など県外にも出荷され、新しい浜坂農業の未来の姿として大きな期待がかかったようですが、その後昭和時代で幕を閉じました。

(参考)鳥取県の葡萄栽培は、明治25年(1892)頃から東伯郡で始まり、大正にかけて北条砂丘や鳥取へ広がりました。

重箱の語源の2説

 重箱の語源には2説あります。

重箱付近(寛文大図)
重箱付近(寛文大図)

 「江戸時代の河川改修に使われた石積みの形が重箱に似ている」という説、2つ目は、「秀吉の鳥取攻めで築いたこの辺りの陣地の形が四角い重箱に見えた」という説です。確かに、寛文大図(地図)を見ると、そういう形にも見えます。

 以下に、2つの説の根拠となる石積みの絵と四角い陣地の絵(「鳥府志図録」)を載せておきます。前者説が一般的ですが、後者説にも説得力があります。秀吉の鳥取攻めは1581年のことです。そして、これを描いた寛文大図は1670年頃、さらに、鳥府志は1830年頃です。つまり、数百年間、この四角い陣地跡が人の目に触れていたのです。従って、自然とそこを「重箱」と呼ぶようになったとしても不思議ではありません。
 一方の河川改修の石積みは、千代川や袋川の上流から下流まで広くつくられていたはずです。なぜ、浜坂のここだけが「重箱」と呼ばれたのかという疑問が残ります。

重箱語源に2説。右は鳥府志図録より(鳥取市浜坂)
重箱語源に2説。右は鳥府志図録より(鳥取市浜坂)

弁天神社へ

 浜坂の緑地公園に帰ってきました。ここで弁天神社にお参りします。

今は憩いの場「緑地公園」(鳥取市浜坂)
今は憩いの場「緑地公園」(鳥取市浜坂)
河水の女神「弁天」
河水の女神「弁天」

弁天はインドの河水の女神、川音から音楽などの芸術神へ
河水を鎮め、舟運安全など
 弁天という神は、元々、インドの河の女神です。インドでは、ガンジス川がヒンズー教の聖地とされ、「聖なる河」とされています。河を神格化しているのです。

 さらに、河の水はサラサラとか、ザブンザブンと音を立てて流れるので、そこから音楽の女神とされ、さらに拡大して芸術の女神や学芸の女神とされたようです。手に琵琶という楽器を持っています。河の神ということで、日本全国の川や池、沼の畔にもたくさん建てられています。この近くでは、多鯰ヶ池弁天があります。弁天神社を祀ることによって千代川や袋川などの水を鎮め、川を行く船の安全を願ったのでしょう。

浜坂弁天は三嶋神社の廟所

弁天神社(鳥取市浜坂)
弁天神社(鳥取市浜坂)

 弁天神社の創立時期は不明です。

 しかし、三嶋神社の段で記載したように、荘園の「高庭荘」の開発を進める上で、この弁天神社をつくって水を鎮めたと云われています。従って、小さな祠程度のものが、開発が進められた平安時代に建てられた可能性があります。

 現在、「浜坂弁天」とも呼ばれますが、上記のように、歴史的には秋里以西の荘園文化に関連するものです。荘園開発が進められた当時、浜坂村はまだ誕生していませんでした。後世になって地理的な近さから「浜坂弁天」と呼ばれるようになったと考えられます。 また、弁天神社は千代川と袋川の合流地点の中州の小島に鎮座していましたが、寛文大図では、秋里側が砂で埋まっています。

弁天島は中嶋なり(鳥取市浜坂)
弁天島は中嶋なり(鳥取市浜坂)

大聖天歓喜天

左が弁天神社。右が聖天さん(鳥取市浜坂)
左が弁天神社。右が聖天さん(鳥取市浜坂)

 弁天神社の横に祀られているのが大聖歓喜天(通称 聖天さん)というインドの神さまです。頭が象、体が人間の男女が抱き合っている10cmほどのもので、その姿が示す通り、夫婦和合、子宝に恵まれるというものです。これは個人(武田家)の家に祀っていたものを弁天神社敷地に祀ったもので、元々は関連するものではありません。

力石と昔、子供が飛び込んで遊んだ清流

弁天神社敷地(鳥取市浜坂)
弁天神社敷地(鳥取市浜坂)

 敷地内に置かれた大小3つの石は、昔、誰が村で一番の力持ちかを競うために使われた石で、力石と云います。
 江戸時代、鳥取の町では井戸水に加え、袋川の水を飲み水や生活水に使っていました。昭和18年の鳥取大震災、昭和27年の鳥取大火災などでも、水道が使えないので市内を流れる袋川の水を飲み水に使ったそうです。それほど昔は、水がきれいだったということです。昭和初期の子どもたちはここから飛び込んで遊んだそうです。
 しかし、昭和9年の新袋川通水以降は水量が大きく減少し、排水路と化して水質が悪化し、現在に至っています。

池田藩主の船遊びと風景絶佳の弁天

 この付近は、100年ほど前には、「鳥取で一番美しい景色」と言われました。

池田侯お気に入りの弁天の清流(鳥取市浜坂)
池田侯お気に入りの弁天の清流(鳥取市浜坂)

 
 江戸時代には、鳥取城藩主の池田候が、春から秋にかけての季節が良い頃、毎週のように舟遊びをした記録が残っています。

弁天神社と旧千代川の川面(鳥取市浜坂)
弁天神社と旧千代川の川面(鳥取市浜坂)

 この写真からも、当時の美しさが想像されます。江戸時代に書かれた「鳥府志」には、「この嶋の四方へは旧松枝を垂て水面を蔭覆して、風景奇勝なれば、夏日には此廻りには、終日遊船絶ず。国人の詩歌多くあるとも略之。」

 また、明治時代には当時の皇太子さまがここの風景をご覧になり、そのときの記録に「清流漫々として、一眸直ちに加露の河口を望むべく、風景絶佳なり」とあります。明治32年(1899)、旧藩主池田家の新しい当主仲博が7月に初のお国入りをし、鳥取市民は心から喜んでいろいろな行事を催して歓迎したそうです。

 「その中の一日は千代川下流に舟遊びしているが、これが当時の最大のもてなしであった」と、「鳥取市七十年」に記されています。それほど、浜坂や江津、弁天島の辺りは美しく、当時の鳥取が誇る風景と言えば、ここだったのです。

(参考)現在の鳥取市の観光地と言えば砂丘です。しかし、昭和の中頃まで砂丘は全く無名で、戦後のある鳥取市長は、「草木も生えないような砂丘は鳥取の恥部だ」という発言をしています。今では信じられないことですが、当時の砂丘はそれくらいの存在でしかなかったということです。
 一転、砂丘が観光地として有名になったのは昭和30年に砂丘が天然記念物に指定されてからです。また、大正12年に鳥取を訪れた有島武郎が「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしきわれを見出でけるかも」を詠んでその1ケ月後に、若い女性と心中死をしたことが、砂丘を有名にしたとも言われています。

池田藩主が休憩した茶屋通り

浜坂の茶屋土居(鳥取市浜坂)
浜坂の茶屋土居(鳥取市浜坂)

 池田候は、舟遊びが済んだら大応寺前の船着き場から上がって、浜坂村のお茶屋で休憩しました。浜坂の森下商店のところから入る通りを「茶屋土居」といって数件の茶屋や泊り宿があったようです。天保6年(1835)、「 浜坂村塩蔵の周辺に茶屋新設」という鳥取藩の記録(「在方諸事控」)があります。

浜坂村の苦労

船を綱でひく人夫
船を綱でひく人夫

 歴代の池田候が頻繁に浜坂を訪れたことが、浜坂村の人々にとっていつも喜ばしいことだったかどうかは分かりません。鳥取藩の記録によると、そのたびに川や道路の掃除、船を綱(ロープ)で引く人夫を浜坂村から数十人村出すとか、家来が準備ために寝泊まりする宿を提供するなどを命じられています。
 当時の記録を現代文に訳してみます。

嘉永五年(1852)五月廿六日

 「明後18日7時、お供と共に浜坂観音下で乗船するにあたり、浜坂御茶屋で休憩し、帰りは湯所の乗り場まで船遊びするので、下記の下宿(したやど)とお立ち寄り所を申し付け(中略)、お立ち寄り所及びその道筋の掃除をいつもの通りに郡奉行へ申し遺す(中略) 本件につき、船を綱で引く人夫39人を浜坂村へ差し出すよう御船奉行より長役へ伝え、邑美郡へ申し遺す」(「在方諸事控」)

 関連して、1720年頃、頻繁に鳥取城下で火災が発生したことにより、火災時に駆けつける火消し人夫が近隣の村に割り当てられ、浜坂20人、覚寺10人などを命じられています。鳥取城に近く、川筋に位置し、但馬街道の入口でもあった浜坂は大変だったようです。

浜坂の孝行娘 市右衛門娘 はる

江戸時代のお百姓さんの娘
江戸時代のお百姓さんの娘

 しかし、この時代、農民へは圧政ばかりではなかったようです。

 江戸時代、主君や親によく仕え孝養を尽くした者や、農業に励んだ農民たちには、表彰が盛んに行われました。浜坂村民の表彰例を鳥取藩の記録(「在方諸事控」)に見つけましたので、現代文に訳してみます。

「文化十五年(1818)三月廿ニ日   

一  邑美郡浜坂村 市右衛門娘はる 

 かねてより両親への孝行を行い、母親が病気のため嫁にも行かず、昼夜大切に介抱し、その上、休日にも休まず農業に精出し、万事においてよい心がけだと村方より申請があった。追って、表彰の品がある。  米三表  

 この表彰制度は、主に5代将軍の徳川綱吉が天和2年(1682)に実施した制度です。綱吉は幼少の時分より儒学を愛好していた為、全国に「忠孝札」を掲げて忠孝を奨励し、孝子表彰の制度を設けました。
(参考原文)其方儀、兼て両親え致孝行候処、母病気ニ付縁付も不致、昼夜大切ニ致介抱、其上定メ之休日ニも不相休農業精出し、万事志宜段、村方より申達奇特之事ニ付、追て御評儀之品可有之事。

江戸時代の浜坂産業や教育(浜坂焼、寺子屋など)

 ここで、江戸時代の浜坂の産業や教育について触れておきましょう。

 因幡民談記には邑美郡の物産として、「吉成の瓜、行徳・田島の大根、蕪、千代川の屋根石、浜坂の壁土、多鯰ヶ池の鮒・鯰・鴨など」とあります。また、浜坂村は鐘及び仏像の鋳造場所でもあったようです。

紫石

 浜坂の壁土は、因幡誌(濱坂村)中の「紫山 村の下大川岸の小山なり此山の土石悉く紫色なれば名とする也。家下土蔵下の地形を築くに利用しー」のことでしょう。浜坂小学校下のローソン付近では、紫色の土が採れ、「乾燥させて屋敷の床下に敷き、湿気をとった」(浜坂聞き取り)ということから、珪藻土が考えられます。

紫石
紫石


 珪藻土とは、藻類の珪藻が海底や湖底、川底などに堆積して化石化したもので、無数の微細な孔(穴)を持ち、耐火性や吸水・吸着性・調湿・消臭・保湿・断熱性など、優れた性質を持ち壁土にも使われます。色は白、淡黄、灰緑と産地によって様々です。 

 仏像鋳造に用いた土、壁土、浜坂焼の土など、浜坂は良い土に恵まれていたようです。

浜坂焼(ウツロ焼)

 文政6年(1823)からの40年間、鳥取藩の国産奨励の一環として、白磁の浜坂焼が行われています。鳥取藩史には「邑美郡浜坂壺焼の起源は詳ならず。思うに、国産奨励の意にて、吉成廃業の後を受けて始められたるが如し」とあり、一時期、藩奨励で保護された浜坂焼は、国を超えた流通時代になると消滅の道を辿りました。
 現9号線の砂丘に架かる橋の下付近(ウツロ谷)で行われ、ウツロ焼とも呼ばれました。窯は、浜坂中央公園北のひるま山東裾の藪の中に発見されています。

温泉

 また、因幡誌「濱坂村」に「温泉跡」の記述があります。「村の上外れ田圃の中にあり字を湯原と云ふ 百年計り以前までは湯地の形ありて湯桁も其の儘なり」。また、鳥取市「事始め」物語に、「―4百年前の吉岡温泉湧出と前後して、湯所と浜坂の温泉は閉止。明治の初めまでは湯桁が残っていた」とありますが、昭和30年代、字湯原(中ノ郷中学校付近)に近くで冷泉が出て、後に旧国民宿舎「砂丘荘」、「砂丘ゴルフ場」に給湯を始めています。

教育や医療(寺子屋など)

 藩校の尚徳館は江戸中期(1756)に創立され、武家の教育にあたり、庶民は日常生活に必要な「読み」・「書き」などを「寺子屋」で学びました。主に、武士、僧侶、医師などがお師匠さんになりました。江津には、安長の東円寺の本堂で寺子屋が開かれ、明治の千代水小学校につながっています。医師もいたそうです。
 浜坂には寺子屋の記録はなく(大応寺などにも)、必要に応じて庄屋さんなどのもとで読み書きを教わったと考えられます。また、明治以降も、明治34年(1901)の覚寺入口にできた旧中ノ郷小学校ができるまで、湯所の久松尋常小学校まで通ったようです。また、無医村でした。多くの教育・医療・福祉機関が集積する今を考えると隔世の感に堪えません。

但馬街道へ、弁天橋を渡る

弁天橋(鳥取市浜坂)
弁天橋(鳥取市浜坂)

 但馬街道は、鳥取城から、山の手通りを通って、丸山、浜坂、砂丘、岩美、但馬地方と続きます。

但馬街道ルート
但馬街道ルート

 江戸時代に書かれた「因幡志」は「砂漠渺茫として往々道を取失ふことあり、よりて所々に表木を立て往来の便となす」と記しています。砂丘の道は飛砂が激しかったのでしょう。

(参考)中世に安定化した気候は、また江戸時代後期から現代に向かって不安定になっていきます。江戸時代末には、「文政10年(1827)9月、賀露港口は、砂漠にてふさがり、数日の間、西より東へその上を往来す」(因府年表)、明治30年「多鯰ヶ池の中の大島は陸続き」(日本帝国測量部)など、砂丘の飛砂の活発化を伝えています。

丸山二軒茶屋の図と丸山

丸山二軒茶の図(鳥府志図録)
丸山二軒茶の図(鳥府志図録)

 絵は江戸時代の丸山三叉路です。殆ど、現在と変わっていません。今でも丸山三叉路には、当時のお地蔵さんが立ちつづけています。その地蔵さんには、

「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかけれハ、四丁のまわり、左ハたしまはま道」と刻まれています。「たしまはま道」を行くと、浜坂の村入口の犬橋に至ります。この犬橋こそが、岩美や但馬へ行く但馬街道の入口なのです。

「右ハまにみち」と今でも読める(鳥取市丸山)
「右ハまにみち」と今でも読める(鳥取市丸山)

犬橋と犬塚ものがたり

 「土橋あり狗橋と号する是也。村を過て浜の坂へかかる 是但馬への往還筋なり」と因幡誌は記しています。
 「浜坂」という地名がいつついたのかは不明ですが、昔から「浜の坂」であったことがこの文章でも分かり、恐らく地名のもとになったのではないかと想像されます。

犬塚と犬橋(鳥取市浜坂)
犬塚と犬橋(鳥取市浜坂)
犬橋・犬塚(鳥取市浜坂)
犬橋・犬塚(鳥取市浜坂)

 犬塚・犬橋の名の由来は、千代川や袋川の氾濫に関係します。千代川と袋川と摩尼川の3本がこの浜坂で合流することで、雨が降ると川が溢れて、そのたびに橋が流されました。犬橋を渡らないと但馬街道を進めず、旅人たちは難儀しました。

  そこで、しっかりとした橋をつくろうと考えた村の人が、自分の犬の首に募金箱と、その説明の趣意書をつけて放してやりました。賢い犬は、旅の人を見ると、わんわんと寄っていって募金をしてもらいました。そうして、この犬が集めてくれたお金で立派な橋ができました。それで、この上の橋を「犬橋」といい、犬が死ぬと「犬塚」をつくって供養したということです。
 犬は先頭を歩く者の裾にかみつき、首のぶら下げている竹筒に寄付金を入れないと通行させなかったといいます。そして、殿さま行列のおり、無礼なやつと切り殺されたと伝わっています。

大応寺の歴史と聖観音ものがたり

 大応寺にやってきました。現在のお寺は、今から40年前に建てられました。

大応寺(鳥取市浜坂)
大応寺(鳥取市浜坂)

 
 お寺の本堂には、素晴らしい聖観音像が安置されています。3mを超すもので、これほど大きく立派なものは因伯路には無いといわれる有名なものです。

大応寺の歴史(鳥取市浜坂)
大応寺の歴史(鳥取市浜坂)

 このお寺の起源は一説によると、今から1200年くらい昔、このあたりに大きなお寺があったそうですが、1590年頃、高麗水という大洪水でお寺も観音像もすっかり千代川の向こうへ流されて行方不明となってしまいました。

大応寺観音のものがたり(鳥取市浜坂)
大応寺観音のものがたり(鳥取市浜坂)

 ところが、ある夜、浜坂の村人の夢の中にその観音様が現れ、「私はここにいるよ。早くだしておくれ」と言われたそうです。村人がその言われたところに行って土を掘ってみると、本当にその観音様が埋まっていたそうです。
 村人は、とてもありがたかって、その観音像を小さな庵をつくって安置しました。その100年後の1703年、石丈さんというお坊さんが浜坂にやってきて、その観音像を本尊としてお寺を開きました。今から300年ほど昔のことです。これが大応寺の始まりであると、現大応寺の和尚さんから聞いています。

(参考)秀吉の天正9年(1581)の鳥取城攻めの兵火で堂塔は灰燼と化した」(「転法輪」鳥取市仏教会)という説もあります。

浜坂の下土居六地蔵と道標

浜坂下土居の六地蔵(鳥取市浜坂)
浜坂下土居の六地蔵(鳥取市浜坂)

 さて、浜坂の西の入口です。ここでも六地蔵が鎮座して、村を守っています。

 横に立っている石碑は、昭和8年に中ノ郷村、即ち浜坂が鳥取市と一緒になったことを記念して有志によって建てられたものです。「鳥取砂丘、右は擂鉢(すりばち)、左は十六本松」と書いてあります。
 当時、浜坂小学校の横を上がって行く道はなく、砂丘に行くにはこの道しかなかったのですね。

 下の写真は昭和30年代の浜坂バス停付近です。右手が上記石碑と六地蔵、後方が浜坂村公民館です。十六本松へと続く道はまだ舗装がされていません。

右は砂丘、真直ぐは十六本松へ
右は砂丘、真直ぐは十六本松へ