皆さん、こんにちは。
2021年春、浜坂小学校では、生徒さんたちが学校周辺の歴史スポットを歩きながら地域の歴史を学ぶ「浜坂探検隊」が始まりました。
本コーナー「歴史を歩く」は、その散策コース及び説明内容を拡大したものです。そよ風の中を散策しているように気楽にお読み下さい。
以下、散策ルートです。
浜坂3丁目(出発)し、小松ヶ丘、十六本松、江津、秋里、丸山重箱、緑地公園、摩尼川、浜坂神社、スリバチ跡、浜坂小学校(終点)を歩きます。
縄文の風に吹かれて 袋川土手道を河口方面へ
本ページの内容です。
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都築山遺跡と荒神山遺跡
古代浜坂と江津人はどこから来たのか
海水面変化が示す歴史(縄文海進)
丸山の離水海食洞(当時は海)
海水面変化が示す歴史(縄文海進)
水と緑。豊かな海の幸と山の幸
縄文犬は柴犬の祖先
海水面変化が示す歴史(平安海進)
平安期に不毛の砂漠へ。人の姿消える
湖山長者伝説は急激な水位上昇による田畑の水没
海水面変化が示す歴史(中世海退)
地層が示す浜坂砂丘の歴史
浜坂古代人はどこに消えたのか
溺死海会塔と千代川の氾濫・島崎藤村の鳥取紀行など
さあ、出発です。
浜坂小学校上の3丁目から、小松ヶ丘に向かって下りていきます。坂の途中から横道に入ります。すると、住宅地の片隅に2mを超す石碑が立っています。ちょうど、二本松公園の下辺りです。
この石碑は江戸時代の1795年の大洪水で亡くなった人々の慰霊碑で、今から2百年前の享和元年(1801)規外禅師の建立とされています。「できしかいえとう」と読みます。文字通り「海で溺れた人々の魂がここに会する」という意味でしょう。江戸時代の寛政7年(1795)、鳥取城下は2mの濁流にのまれ、652人が溺死、家屋414戸流出という千代川の大洪水が発生しました。でも、なぜ、その慰霊碑が浜坂に建っているのでしょうか。
その理由の前に、千代川の氾濫の歴史を少し振り返りましょう。
千代川の氾濫の歴史
浜坂の地形ー千代川の急反転と袋川合流、河口の漂砂
この地図は因幡で最も古いとされる「寛文大図」です。江戸時代初期の寛文年間(1661~1673)に描かれたものですが、地形は基本的に昭和初期まで変わっていません。注目すべきは、千代川が浜坂の上土居に向かって迫り、直前で急反転していることです。
次の図は付け替え工事前後の新旧千代川を左右に並べたものです。大きく蛇行し、急反転している左の旧千代川に対し、右の新千代川は曲がった箇所がバイパスされて真っすぐになっていることが分かります。曲がっていると、水が流れにくいのです。
雨などで水量が増えると、土手を越えて浜坂一帯が水に浸かりました。下流がつまると、上流も滞って溢れます。また、台風で日本海が荒れると、波が河口に押し寄せて千代川の流れは悪くなり、ひどい時は逆流して溢れます。また、中国山地から運ばれ続ける砂は河口に美しい砂丘を形成する一方で、河口に砂を堆積し、流れを妨げます。
さらに、袋川も蛇行しながら浜坂で千代川に合流しています。千代川がいっぱいになると、この袋川も流れなくなって鳥取市中に水が溢れました。こんな地形のために、この鳥取の町は江戸時代からの250年間だけでも大小100回以上、3年に1度洪水に見舞われたのです。
だから、千代川の流れをよくするために、昭和初期の大工事で川をまっすぐバイパスしたのです。また、袋川も駅裏の大杙付近から千代川鉄橋付近に向けて流すようにして、市内を流れる旧袋川の水量を大きく減らしました。千代川は昭和6年開通、袋川は昭和9年の開通です。我々が生まれるずっと前のことです。
弁天の後方を流れる旧千代川、対岸は江津
この写真は明治末期から大正の頃の弁天さんの写真です。大きな旧千代川が弁天さんのすぐ後方を流れていることが分かります。川面には船がたくさん浮かんでいます。船の向こうの対岸が現在の浜坂側から見る江津の家並ラインです。
昔の千代川は浜坂と江津の間を流れていたのですね。現在の千代川は、江津の後方を流れています。そして、この写真に見える旧千代川は埋め立てられ、畑などに変わっています。
旧千代川の範囲
この航空写真は、現在の弁天さんの後方を撮影したものです。昔の千代川の流路だったところは埋め立てられ、現在は畑になっています。あすなろ保育園なども建っています。参考までに、寛文大図では、砂の堆積によって弁天さんと秋里側が陸続きとなっていますが、それまで、そしてそれ以降も、千代川と袋川の合流地点の中州に鎮座していたと記録されています。
大正の大洪水
この写真は、今からおよそ100年前の大正7年の鳥取市内(二階町)の大洪水の様子です。大正時代は、元年、7年、12年とこのような大洪水が連続しました。大正7年の洪水は、大正年間最大の被害をもたらしました。
「鳥取市及びその付近は一大湖水と変じ、市内西町の如きは浸水階上五寸に達す」と記録されており、旧鳥取市役所玄関の柱には、約2mの洪水面が記録されています。このため、鳥取県は毎年莫大なお金を使い、他県から「水害県」と揶揄(やゆ)されたそうです。浜坂地区も同様で、舟に荷物を積んで避難したと聴きます。昭和2年、島崎藤村二週間ほど鳥取に滞在したときのことを紀行文に書いています。大変、興味深いので、その一部を紹介します。
島崎藤村の鳥取紀行文
「鳥取は非常にゆっくりした町である (中略)鳥取の特色はさういう表面に現れたものよりも、むしろ隠れて見えないところにいいものがあるように思はれる。(中略) 土地の人達は急ごうとしても急ぎ得なかった原因を、主に千代川の氾濫に帰する(中略)。380年間に48回の大洪水に襲われたという、云いかえればこの地方は8年に1回の大洪水に襲われ、市民生活はその都度破壊されていくという惨憺たる状態にあったのである。それほど自然と戦い続けてきたこの地方の人達は何か地味な根強さがあるように感じられるのも不思議ではないかもしれない。」 千代川の氾濫が市民性まで変えてしまったのでしょうか。
最後に、浜坂に「溺死海会塔」が建てられた理由に戻ります。
慰霊碑が浜坂(都築山)に建てられた理由
寛文大図を浜坂付近で拡大したものです。昔の千代川が浜坂で大きくカーブして、浜坂小学校のある代々山や隣の都築山などの山裾を洗うように流れています。そして、上流から流されてきた家や遺体が、このあたりのでっぱりにひっかかったということなのです。屋根にのったまま流されていく人たちが、「サヨウナラ・サヨウナラ」と叫びながら海に消えていくのを江津の人々が見送ったという悲しい実話も伝えられています。
都築山遺跡と荒神山遺跡
さて、住宅地を降り、県道を渡って袋川土手道へ行きます。右手にかつての縄文時代と古墳時代の遺跡が発掘された都築山があります。
土手道を河口方面へ歩きます
昭和39年5月、土砂採掘と浜坂団地造成工事中に、砂の下から現れたのは1400年くらい前(6世紀後半~7世紀後半)の古墳時代末期の横穴墳墓遺跡です。また、同時に約4~5千年前の縄文時代後半の生活遺物も発見されています。
都築山に古墳時代の横穴式墳墓遺跡、縄文時代の生活遺物も発見
この発見は、当時に鳥取で大きなニュースになりました。出土した土器などの一部は城北小学校や浜坂小学校にも展示されています。私は当時、城北小学校へ通う小学生で、この発掘中の穴に入って土を掘り返してみたことを覚えています。この横穴は22穴あって、中からは石でつくった棺桶と人骨、一緒に埋葬された土器などが発見されています。横穴墓群からは、大量の須恵器のほか、鉄刀(銀象嵌含む)、鉄鏃、玉類、金銅製鈴、耳環などが見つかっており、造営時期は6世紀後半から7世紀後半に及んでいます。
通常の古墳は、権力者・有力者層のために、盛土や石積みなどの人工的な墳丘を造って埋葬部を設けるものですが、横穴墓は、自然丘陵の斜面に横穴を掘ったもので、古墳時代末期の一般化された集合墓・家族墓の性格を持つとされます。
この頃、都築山22穴余、荒神山7穴余に相当する集団がここに棲みついていたのかもしれませんが、ともに周辺から生活遺物が見つかっていないことから、この時代、大きな気候変動によって人々のくらしは既に消え、埋葬施設のみであったとも推定されています。『新鳥取県史 考古2』によると「千代川河口付近に位置し、眼下に流れる千代川とその周辺に広がる鳥取平野を視野に収めることができる。川とそれを利用した河川交通を意識したものと理解できる。推定すれば、千代川河口付近を拠点として海上~河川の交通を担った(秋里・賀露などの)勢力の墓城として営まれたのではないだろうか。」(「新鳥取県史」)とあります。
なるはど、千代川対岸からこれらの古墳はよく見える位置にあります。
この遺跡は、昭和39年頃から始まった浜坂団地の造成工事で失われてしまいました。40日間の発掘調査後、ブルドーザが削りとってしまったのです。まさに幻の遺跡と「新修鳥取市史」は表現しています。当時の都築山は江津の波当根さんの所有で、最終造成後の面積は5千坪で、今は約80戸の住宅がその上に建っています。
荒神山(石山)に古墳時代の横穴墳墓遺跡
写真は十六本松の荒神山です。地元の人は石山と呼んでいます。ここの石材は、古くは鳥取城の石垣や賀露の港湾工事などにも使われたようです。この山の南面(川側)からも(1400年くらい前の)古墳時代の横穴遺跡が見つかっています。穴は昭和30年くらいまで残っていたようですが、今も続く採石工事で削られてしまいました。南面(海側)は、砂丘からの砂が厚い層をつくっていました。現在は、その南面でも宅地開発が進められています。
古代浜坂人と江津人はどこから来たのか
都築山や荒神山遺跡の縄文~古墳時代の古代人はどこから来たのかを考えてみたいと思います。
遺跡年代/規模/地理/文化を考慮した古代人移動ルート
福部の湯山砂丘から湖山池にわたるこの地図の中で最古の遺跡は、縄文中期の湯山(福部)砂丘の栗谷遺跡と直浪遺跡、そして、湖山池遺跡、桂見遺跡です。昔の湯山には海につながった湯山池や細川池があったのです。
浜坂遺跡と湯山砂丘文化の共通点
時代的には、浜坂の都築山遺跡(縄文中後期と古墳時代)、覚寺(弥生時代)や円護寺遺跡(弥生)、秋里遺跡(弥生)、開地谷遺跡(古墳時代)と続きます。従って、中ノ郷や浜坂、秋里や江津の人々のルーツは、このエリア最古の湯山砂丘と湖山池方面にあると考えられます。湯山の直浪遺跡と浜坂の都築山遺跡には土器に共通点があること、直浪遺跡と都築山遺跡を結ぶ中間点に追後スリバチ・長者ヶ庭スリバチ遺跡(縄文中後期)があることから、恐らく、浜坂縄文人は湯山砂丘から、当時、緑の草原だった砂丘を越えて、都築山にやってきたのでしょう。
円護寺・覚寺・開地谷遺跡
その後、湯山方面から人々は地理的に隣接する多鯰ヶ池南(現ゴルフ場)の開地谷遺跡、多鯰ヶ池から山を一つ越えた覚寺や円護寺にも移り住みます。そして、古墳時代になると、その多鯰ヶ池や覚寺・円護寺方面から中ノ郷・浜坂へも降りてきたのでしょう。開地谷遺跡は、標高120メートル余の山地の上に築造された約80基の円墳群です。この中には、20~35メートルに及ぶ大規模なものも3基含まれ、千代川右岸のこの地域において、有力な氏族が存在したことを示しています。また、奈良・平安時代の円護寺川流域は、37mの前方後円墳などを含む古墳群、居住跡、窯跡や鉄の鋳造工房など圧倒的な遺構群から、古代因幡の邑美郡の政治の中心地であったと推定されています。(注)本サイトにも「円護寺・覚寺の歴史」を追加する予定です
一方、江津は、弥生時代から戦国時代まで1千年以上の連続した遺跡が見られる秋里から広がったことは間違いないでしょう。
秋里遺跡と湖山池文化の共通点
それでは、その秋里古代人はどこから来たのでしょうか。近い浜坂から来た可能性も否定できませんが、両者の間には大きな旧千代川が流れていました。さらに、湖山池の青島遺跡、塞ノ谷遺跡、秋里遺跡を因幡の三大祭祀遺跡と呼ぶほど、湖山池文化と秋里遺跡は大きな共通点があります。立地においては、湖沼、島、河川流域など、直接水に関する場を占地しているという特色があり、発見された遺物においても、塞ノ谷遺跡と秋里遺跡の木製舟形模造品、土製鳥舟形模造品など、非常に特徴的な共通点があります。
「七つの島影を浮かべる湖山池、濃い緑に覆われた青島、ときには激流が人々を恐怖に陥れた千代川。古墳時代の人々がこの中に、あるいはそのもの自身に神を感じ、ことあるごとに、あるいは時の節々に『まつり』」・『いのり』がとりおこなわれたのであろう。」(「新修鳥取市史」)このことから、私は、秋里古代人は湖山池周辺から陸地を東進してやってきたと考えています。
浜坂の縄文人の暮らし
浜坂の縄文時代や弥生時代はどんな様子だったのでしょう。
その前に余談ですが、2100年までこのままの温暖化が続くと、気温は2.7度上昇して、南極・北極の氷が溶け出すことで海面は2.5m上昇するといわれています。そして、国土の沈没、酷暑、大洪水、台風、砂漠化、生態系の変化など、破滅的な影響があるといわれています。浜坂や江津周辺では、海抜数mの江津やイオン北店付近が沈みます。そうでない地域も一帯の県道は水に沈み、地下の水道やガス管などが使えなくなって、人が住めなくなります。
ここではその懸念は少し横に置き、温暖化イコール海水面上昇というメカニズムを頭に入れて歴史を観てみましょう。
海水面変化が示す浜坂砂丘の歴史 (縄文海進)
今から2万年くらい前、日本列島の原形ができます。過去最後の氷河期で、北海道はまだ大陸に地続きで、マンモスの化石が北海道で12頭分発見されています。
その頃の海水面は、現在の水面レベルからー55mでした。そこから、温暖期が始まり、海水面は上昇を続け、今から6千年~5千年前には+5~+6mまで上昇しました。これを「縄文海進」と言います。この頃の浜坂の様子を教えてくれるものが近所に一つだけあります。
(参考)海面の上昇、下降は繰り返されています。20万年前の間氷期(暖期)には、海面は現在より15m以上高く、鳥取平野全域は大きな湾(古鳥取湾)なり、7万年前に始まった氷河期には海面が下がって、最初の砂丘(古砂丘)が生まれます。また、氷河期と間氷期(暖気)の間にも、小規模な寒暖の波が絶えず発生しています。
丸山の離水海食洞(5~6千年前は海)
それは、丸山下にある離水海食洞です。約6千年前(縄文海進時)には、海面は現在より+5~6m高く、鳥取地方は大きな内湾となり、久松山、雁金山、丸山、浜坂の荒神山、都築山などは、海に浮かんだ岩島になっていました。この頃の人々は海面よりずっと高い砂丘周辺など(図の赤いエリア)に住みました。現在の砂丘観光地の「砂の美術館」あたりは標高40m以上あります。そして、丸山(や砂丘の一つ山)離水海食洞は、このときの海の波の浸食でできたのです。
縄文海退(海面の後退)
そして、約3千年前の縄文後期には再び寒冷化で、(弥生海退)海面が現在海面より-4~ー5mまで下がってこの洞窟が顔を出しました。
また、同時に入江から水が引いて湖山池や昔の湯山池、中部の東郷池などもできています。そして、海の下から陸地が現れ、小高い山や砂丘に住んでいた人々も水が引き始めた中ノ郷や浜坂などの内陸地に降りてきます。都築山の縄文遺跡もこの頃のものと考えられます。
(参考)砂丘地は地下水に富み、南部後背地には砂丘の安定期を中心にして多数の生活遺跡がみられ、人類が砂丘とかかわりを持ち始めた時期は約2万年前にさかのぼると推定されています。鳥取砂丘では縄文時代早期からの人類遺物が出土しており、最古のものは槍先型尖頭器が浜坂砂丘で報告されています。
そして、この頃の気候は安定し、砂丘は緑に覆われて人類は素晴らしい自然環境を迎えます。鳥取砂丘の長者ケ庭、追後スリバチや浜坂スリバチなども、小川が流れ、草木が繁茂する好環境で、人類が活発に活動しました。
この浜坂では、目の前を原始の千代川が流れ、後ろを振り返ると緑豊かな砂丘がありました。恐らく、千代川沿いにイラスト絵に示すような竪穴式住居を建てて住んだのでしょう。
都築山では、千代川へ向かう斜面に沿って縄文時代の生活の痕が発見されています。小松ヶ丘のあたりの川沿い近くに住んだのかもしれません。あるいは、川の氾濫を恐れて中腹か、上方の二本松公園の辺りに住んだのかもしれませんね。
水と緑。豊かな海の幸と山の幸
この時代、海の水は遠くに引いて、遠浅の河口が広々と広がっていたはずです。
そんな千代川や千代川の河口で魚や貝を捕る。空には、たくさんの水鳥が魚を狙って飛んでいます。鳥取という地名の由来は、水鳥が多くて、それを捕った人々がいたことから来ています。振り返ると、緑の砂丘では、木の実や野草、イノシシやウサギが捕れます。また、砂丘のあちこちからきれいで冷たい水が湧き出て小川が流れ出しています。
原始の人々は、畑や田んぼで食べ物をつくることは知らず、自然のものを採って食べていたわけです。従って、彼らが選んだ土地は、山の幸を提供する緑の大地、海の幸を提供する海や河、喉を潤す冷たく澄んだ水を提供する川やオアシスなどの条件を満たすものだったのです。それが、原始の浜坂だったのです。
縄文犬は柴犬の祖先
狩りのイラストには、人々と一緒に行動する犬が描かれていますね。この犬は、昔から日本にいた犬で、縄文犬といいます。
上のスライドの左側が、遺跡から発掘された骨や、土で作った人形(土偶)、縄文土器に刻まれた姿から推定された復元図です。そして、右側は我が家の柴犬です。そっくりでしょう。実は、柴犬はこの縄文犬の子孫だといわれているのです。何先年・何万年も姿を変えていない純粋な日本古来の犬なのです。
浜坂古代人はどこに消えたのか
海水面変化が示す浜坂砂丘の歴史 (平安海進)
ところが、海水面変化が示すように、弥生時代中期より草木の上に砂が積もり始め、緑の時代は終わります。浜坂を含め、千代川本流の流域には弥生時代の遺跡がほとんど見つかっていません。これは、気候変動が海面上昇やそれに伴う大洪水などをもたらし、稲作に依存した弥生時代においては、特に「暴れ川」たる千代川本流流域を避けたと考えられています。
そして、さらに西暦700年以降、平安時代前後からの温暖化による大きな気候変動により、急激に海面温度が上がり、海水面も急上昇します。
平安期に不毛の砂漠へ。人の姿消える
そして、強風や嵐が海の荒砂や砂礫を巻き揚げ、人が棲めない不毛の砂漠を造っていきます。その後、中世にいたる500年間以上、浜坂砂丘、湯山砂丘、白兎砂丘などから人の生活の痕跡が一切消える「空白の時代」がやってきます。
湖山長者伝説は急激な水位上昇による田畑の水没
この時期の100年で1mくらいの急激な海水面上昇を「平安海進」と言います。鳥取の湖山長者の伝説はご存じの通り、長者への天罰で一夜にして広大な水田が水没したというものですが、科学的には、この時期の海面上昇によるもの考えられています。この時期、全国で同様な長者の屋敷・田畑の水没伝説が残っています。
鳥取大学がある湖山池周辺地域は海抜0mから1mです。今後もまた、急激に進む温暖化で「湖山長者伝説」が繰り返されるのでしょうか。
海水面変化が示す浜坂砂丘の歴史 (パリア海退=中世海退)
中世に、再び海水面が下がり、砂丘に安定が戻ってきます。
浜湯山周辺では、1523年(室町時代後期)銘以降の五輪塔が大量に出土しています。1523年が最古ですから、1500年前後から人が戻ってきたのでしょう。湯山千軒、多鯰千軒などの伝承も、中世に湯山砂丘などで大きな集落が営まれたことを物語っているといわれています。そしてこの時期、浜坂砂丘にも人が戻り、浜坂集落をつくり始めたのでしょう。
地層が示す浜坂砂丘の歴史
これらの歴史を砂丘の地層が教えてくれています。砂の層には、クロスナ層という草や樹の植物が堆積した厚い層が存在します。それが砂丘が豊かな緑に覆われ、そこで人類が活発に生活したということを示しています。クロスナ層は、この層から発見された土器などから縄文時代から弥生墳時代だと推定されています。
しかし、クロスナ層の時代はすぐに終わり、砂の時代に戻ります。続く砂礫層は、急激な気候変動が発生し、海から吹き上げられた砂礫が砂丘を覆いつくすような大荒れの時代があったということを示しています。そして、しばらく砂の堆積が続いた後、中世の頃の地層には樹木や五輪塔、石棺などが現れ、人類が戻ってきたことを示しています。まさに、砂丘の地層は浜坂の歴史そのものを物語っているのです。
浜坂古代人はどこに消えたのか
古代浜坂の人々は、飛砂で住めなくなった浜坂を離れどこへ消えたのでしょう。
恐らく、多鯰ヶ池周辺だと考えます。理由は2つです。
1つ目は、浜坂から行けるところはその方向しかありません。北は大荒れの砂丘、西は十六本松河口と海、南は千代川です。そして、多鯰ヶ池方面こそ、古代浜坂人がやってきた故郷の方向です。
2つ目に、浜坂神社の昔の名前は大多羅大明神といって、多鯰ヶ池の上のゴルフ場の駐車場の所(大多羅越え)にあったとされています。従って、その付近に現在の浜坂集落の原点があったと考えられるのです。
そして、砂丘が安定する中世に、人々は避難先の多鯰ヶ池周辺から再び現浜坂に戻ってきたのだろうと考えます。
(参考)砂丘は、江戸時代後期から現代に向かって再び不安定になっていきます。江戸時代末には、「文政10年(1827)9月、賀露港口は、砂漠にてふさがり、数日の間、西より東へその上を往来す」(「因府年表」)とか、明治30年「多鯰ヶ池の中の大島は陸続き」(日本帝国測量部)などという記録が残っています。